来島村上氏が遺した記憶と祈りの拠点
今治市波方町養老、今治市立波方小学校の近くに鎮座する厳島神社は、静かな佇まいの中に中世の記憶を今にとどめる場所です。
ここは、かつて村上水軍御三家の一つである来島村上氏の居館(住居)「養老館(ようろうのたち)」があったと伝えられており、現在も地形や周辺の環境の中にその面影を残しています。
村上水軍と海城の時代
中世の伊予における大きな特徴は、山に築かれた城だけでなく、海を取り込んだ「海城」が発達したことです。
瀬戸内海は古くから畿内と西国を結ぶ重要な航路であり、多くの船が行き交う海上交通の大動脈でした。
しかしその一方で、潮の流れが複雑に変化する海峡や瀬戸が点在し、航行の難所でもありました。
こうした海の特性は、防御の面では天然の障壁として機能し、城を守る強力な要素となります。
とくに狭い瀬戸や急潮の海域では、地形と潮流そのものが城の一部として利用されました。
このような環境の中で、瀬戸内海の各地には海城が築かれ、それを拠点として多くの武将たちが活動しました。
そのなかでも、伊予の歴史の中で特に大きな存在となったのが村上水軍(村上海賊)です。
村上水軍とは
村上水軍は、瀬戸内海を舞台に勢力を誇った「能島(のしま)」「因島(いんのしま)」「来島(くるしま)」の御三家、すなわち能島村上氏・因島村上氏・来島村上氏からなる武士団で、三島村上氏とも呼ばれています。
その勢力は伊予(現在の愛媛県)、備後(広島県東部)、安芸(広島県西部)の沿岸地域に及び、海上交通の管理、交易船の護衛、通行料の徴収などを通じて、海上に独自の秩序と統治体制を築いていました。
村上海賊の名でも知られていますが、単なる略奪を目的とした海賊とは異なり、戦国時代においては戦術に長けた組織だった水軍として、その勇名は広く瀬戸内海一帯に知られていました。
まさに「海の武士団」と呼ぶにふさわしい存在だったのです。
来島城の築城と来島村上氏の台頭
来島村上氏の祖である村上吉房は、応永26年(1419年)に来島海峡の要衝である来島へ入ると、島全体を要塞化して来島城を築いたと伝えられています。
来島は芸予諸島の中央に位置し、東西南北の航路を押さえる要衝であったため、その軍事的価値は非常に高いものでした。
来島海峡の潮流は非常に速く、流れの向きも刻々と変化するため、この海域を自在に航行するには高度な知識と経験が必要でした。
来島村上氏はこうした地の利を活かし、来島城を拠点として海上交通を掌握することで勢力を拡大していきました。
さらに戦国時代に入ると、伊予の有力大名である河野氏と深い結びつきを持ち、その配下として水軍を率いて活動しました。
海上輸送や沿岸防衛、さらには海戦において重要な戦力となり、瀬戸内海の統治を支える存在となっていきました。
来島城を支えた海上防衛網
こうした来島城を中心とする海上統治の体制を支えるため、対岸の波方一帯には複数の城や砦が配置されていました。
これらは現在、「波方城砦群(波方海賊城砦群)」と総称されています。
来島海峡の西口に位置する来島城に対し、対岸の波方浦には波方城を中心として、黒磯城・御崎城・宮崎城・大角砦・梶取鼻砦などの諸砦が築かれ、さらに見張り台や番所も配置されていました。
それぞれの拠点は単独で機能するのではなく、相互に連携しながら海峡全体を監視・防衛するための一体的な防衛網を形成していました。
このような構成は海城の特徴をよく示しており、狭い瀬戸の急潮を天然の要害としつつ、島の城と陸側の拠点を組み合わせることで、防御と海上統治を両立させるものでした。
来島城だけでなく、その周囲の島々や対岸の拠点を含め、ひとつの巨大な城郭として機能していたと考えられます。
現在では、黒磯城跡は西浦荒神社、御崎城跡は御崎神社として受け継がれ、大角砦跡は大角海浜公園として親しまれています。
また、梶取鼻砦跡は瀬戸内海国立公園・梶取鼻として知られ、それぞれの場所は形を変えながら今もなお海峡を見守り続けています。
来島村上氏の居館と戦略拠点
この波方城砦群の中で、来島村上氏の居住の場である居館も重要な位置を占めていました。
それが波方館(はがたのたち)や養老館です。
これらは戦闘の最前線に立つ城ではなく、統治や生活の場であると同時に、軍事行動を支える後方拠点としての役割を担っていたと考えられます。
例えば、養老館は背後を標高約155メートルの海山に守られ、その頂上には詰城(つめじろ・つめのしろ)として、波方城砦群の一つである遠見番所(とうみやまばんしょ・遠見城)が置かれていました。
文字通り、遠方を見張る拠点としての役割を担っていたことから、海山は遠見山(おみやま)とも呼ばれるようになりました。
詰城とは、有事の際に立てこもるための最終防衛拠点であり、平時の居館とは異なり、防御性と監視機能が重視される山城です。
現在は桜の名所としてして知られる海山城展望公園ですが、当時の来島村上氏にとって、一族の命運を支える最後の拠り所だったのです。
信仰の場所としての養老館
養老館の大きな特徴は、軍事拠点であると同時に、信仰の場が一体となっていた点にあります。
館の敷地内には王子八幡宮が祀られ、さらにその近くには天台宗の寺院である東照寺がありました。この寺は来島村上氏の祈祷寺とされ、本山修験宗の道場が置かれていました。
東照寺には西宝院という僧が住し、修験の教えを広めるとともに、一族の安泰や戦勝を祈る場として機能していたと伝えられています。
このような配置は単なる偶然ではなく、戦の勝敗が神仏の加護に左右されると信じられていた中世の武士のあり方をよく示しています。
戦いと祈りは切り離されたものではなく、常に隣り合わせの関係にありました。
そのため館の周囲には神社や寺院が置かれ、日常の中で祈りが行われる環境が整えられていたのです。
養老館における館・神社・寺院が一体となった構成は、当時の厳しい現実の中で、戦いと信仰が切っても切り離せない関係にあったことを示しています。
来島村上氏の転機と衰退
戦国時代の終わりに向かう中で、来島村上氏の拠点は大きく変化していきます。
来島城の対岸に位置する波方浦は、もともと奥詰の地であり、来島への補給基地として重要視されていました。
やがて4代通康の時代になると、270余騎にも及ぶ家臣団を抱えるまでに勢力が拡大し、来島城だけでは手狭となります。
そのため拠点は波方へ移され、居館がこの地に置かれることとなりました。これにより来島城は、平時の居住の場から有事に備える詰城へと性格を変えていきます。
波方に移された本館を中心として、周囲の丘陵には見張り台や枝城が多数配置され、これらを総称して波方城と呼ぶようになります。
波方一帯は単なる居館の地ではなく、海と陸を結ぶ大規模な防衛拠点へと発展していきました。
波方城砦群の消滅
しかし天正10年(1582年)、5代通総の時代に大きな転機が訪れます。
羽柴秀吉の勧降に応じて織田方へ転じたことにより、波方浦は毛利氏・河野氏・因島村上氏・能島村上氏らによる攻撃を受け、波方城を構成していた多くの城砦は破却されたと伝えられています。
さらに天正13年(1585年)、豊臣秀吉による四国征伐の際、通総は一時的に波方館へ戻りますが、戦後は伊予風早郡へ移封されることとなります。
続く天正16年(1588年)、秀吉は瀬戸内海の秩序を確立するため「海賊停止令」を発布し、私的な海上武力の行使を禁止しました。
これにより、能島村上氏や因島村上氏は独立した水軍勢力としての活動を制限され、急速に弱体化していきます。
その一方で、来島村上氏は秀吉に従い、水軍として豊臣軍の補給や上陸作戦を支えた功績により、例外的に水軍大名としての存続を許されました。
さらに風早郡に1万4,000石の所領を与えられ、鹿島城を居城とする大名として新たな立場を得ることになります。
しかしこの移封により、来島城および波方の城砦群はその役割を終え、すべて廃されることとなりました。
かつて海峡を支配した拠点群は姿を消し、現在はその名と地形の中にのみ、その痕跡をとどめています。
波方館があったとされる城山の丘陵も、現在は宅地として利用され、往時の姿を直接見ることはできませんが、土地の中に歴史の記憶が静かに残されています。
来島から久留島へ。関ヶ原が変えた一族の運命
しかし、時代の激しい変化の中で、来島村上氏はこの地を去らなければならなくなります。
関ヶ原の戦い(1600年)、来島村上氏ははじめは西軍に属しましたが、情勢の変化を見極め、決戦直前に東軍へ内通しました。
戦後、一旦は本領安堵を受けたものの、最終的には所領を没収され、豊後国森藩に1万4,000石で移封されました。
新たな領地である森藩は、現在の大分県玖珠郡周辺に位置し、山間の地形が特徴的な内陸の土地でした。
この転封により、来島村上氏は、代々一族が築いてきた伊予国(現在の愛媛県)での歴史と、水軍として海を自由に駆け抜けた栄光の時代に終止符を打つこととなりました。
そして、来島村上氏は「久留島(くるしま)」と改姓し、内陸の陸上領主として新たな道を歩み始めました。
その後、日本は約300年にわたる平和な江戸時代へと移行していきました。
養老館跡と地域信仰の継承
伊予国では加藤嘉明によって松山藩が成立しました。
やがて蒲生氏を経て久松松平家が藩主となり、幕末までこの地を治めることとなります。
この頃、波方を含む一帯も松山藩領に組み込まれ、村々を基盤とした統治が行われるようになりました。
海の守護神「厳島神社」
養老館跡はこのような時代の変化の中でも、引き続き信仰の場として受け継がれてきました。
いつ祀られるようになった時期は明らかではありませんが、養老館跡には厳島神社が鎮座し、この地における信仰の中心としての役割を担ってきたのです。
厳島神社の祭神は、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を中心とする宗像三女神とされ、古くから海上安全や航海の守護神として広く信仰されてきました。
瀬戸内海の航路に面したこの地においても、その性格は重要な意味を持っていたと考えられます。
「波止浜の塩田開発」養老から波止浜へ移る信仰
江戸時代に入ると、波止浜は松山藩のもとで塩田開発の地として大きく注目されるようになります。
瀬戸内海沿岸は温暖で雨が少なく、さらに遠浅の干潟が広がるという製塩に適した条件を備えており、波止浜もまたその典型的な土地でした。
当時、塩は保存食の加工や日常の食生活に欠かせない重要な資源であり、各藩にとっても財政を支える貴重な産物でした。
こうした背景のもと、波止浜では江戸時代初期から塩田の開発が進められ、やがて瀬戸内海有数の塩の生産地へと成長していきます。
波止浜の塩田では「入浜式塩田」と呼ばれる製法が用いられました。
潮の干満を利用して海水を引き入れ、太陽と風の力によって水分を蒸発させ、塩分を徐々に濃縮していく方法です。
こうして得られた鹹水を釜で煮詰めることで、白い塩が生み出されました。
この製塩作業は、潮の満ち引きに合わせて昼夜を問わず行われなければならず、非常に過酷なものでしたが、塩田を中心に多くの人々が集まり、波止浜は港町として発展していきました。
この発展とともに、人々の暮らしを支える新たな信仰の拠点も求められるようになります。
元禄16年(1703年)、こうした流れの中で東照寺が解体され、その一部が塩田開発の祈祷に関わった縁(えん)から現在の地に移され、本山修験宗の僧・清京法印が住職を務めることになりました。
この際、かつて東照寺の住職を務めたことがある「西宝院」の名を継ぎ、新たに「西宝院」と名付けられました。
波止浜はその後、塩の生産と流通の拠点として大きく発展し、瀬戸内有数の塩田地帯となります。
やがて近代に入ると造船の町へと姿を変えていきますが、その長い歴史の中で西宝院は常に人々の信仰を支える存在であり続けました。
一方で、養老にあった東照寺そのものは現在その姿をとどめていません。
しかし、その名は地名や小字として残されており、かつてこの地に寺院が存在した記憶を今に伝えています。
厳島神社の合祀と近代の変化
近代に入り社会の仕組みが大きく変化すると、信仰のあり方にも変化が及んでいきました。
明治維新以後、日本は封建的な藩体制から中央集権国家へと大きく転換していきます。
明治政府は全国を統一的に支配するため、行政制度の整備を進めるとともに、宗教についても国家の統制下に置こうとしました。とくに神道は国家の理念と結びつけられ、各地の神社は再編の対象となっていきます。
こうした流れの中で、明治4年(1871年)に廃藩置県が実施されました。
これにより松山藩は廃され、松山県となり、藩による支配から中央政府による統治へと移行します。
同年には神社の再編も進められ、養老館跡に鎮座していた厳島神社は、藩命によって波方一帯の総氏神・玉生八幡神社へ合併されることとなりました。
この合祀により、養老館に結びついていた信仰もまた、地域全体の氏神信仰の中へと取り込まれていくことになったのです。
近代行政の整備と地域信仰の復活興
明治5年(1872年)には石鉄県を経て、明治6年(1873年)には愛媛県の管轄となり、行政区画も大きく整理されていきました。
明治11年(1878年)7月22日には郡区町村編制法が施行され、地方行政の枠組みが整えられていきます。
同年12月には、愛媛県内に初めて郡役所が設置され、松山・北条・森松・今治・新屋敷・川之江・大洲・八幡浜・卯之町・宇和・城辺といった各地に行政の拠点が置かれました。
波方を含む地域もこの新たな制度の中に組み込まれ、野間郡として近代的な行政区画のもとに再編されていきます。
こうした行政制度の整備が進められていく流れの中で、明治11年(1878年)2月6日、玉生八幡神社に合祀されていた厳島神社は、玉生八幡神社から独立し、再び旧社地へ戻されました。
中世から現代へ続く地域信仰の系譜
そして現在、この地は地域に根ざした信仰の場として、人々に大切に守り継がれています。
かつて養老館に祀られていた王子八幡宮も、現在は表記を改めて皇子八幡神社と称され、境内社として受け継がれています。
中世の海の時代から、塩田の町としての繁栄、そして近代を経て現在へ。
時代は移り変わっても、この場所に刻まれた人々の祈りは絶えることなく受け継がれ、静かな社の中にその歴史を今も伝え続けているのです。



