海を越えた祈りと、戦乱に咲いた恋、朝倉に遺された古代の足跡
饒速日命 → 宇摩志麻治命 → 彦湯支命 → 出石心大臣 → 大矢口宿禰 → 大綿杵命 → 伊香色雄命 → 大新川命 → 大小千連(物部大小連・大小市命) → 乎致命(越智氏族之祖) → 天狭貫 → 天狭介 → 粟鹿 → 三並 → 熊武 → 伊但馬 → 喜多守 → 高縄(現大濱八幡大神社創建者) → 高縄 → 高箕 → 勝海 → 久米丸 → 百里 → 百男 → 益躬(鉄人伝説)
最強の武将・鉄人を見事に打ち倒し、国家滅亡の危機を救った越智益躬(おちのますみ)。
その功績は後の世にも伝えられ、文武天皇から「鴨部大神(かんべおおかみ)」の尊号が贈られ、その御霊は鴨部神社として祀られるなど、越智氏は国にとって特別な存在として位置づけられていきました。
前回の記事はこちら:【越智氏の系譜】国を救った伊予の英雄・越智益躬 ── 鉄人伝説と“樹下”に残る記憶

そこからさらに越智氏の系譜は受け継がれ、一族は再び大きな戦の中に身を置くことになります。
そして、その激動の時代の今治にその名を深く刻んだ人物こそが、「越智守興(おちのもりおき)」です。
益躬(鉄人伝説) → 武男 → 玉男 → 諸飽 → 万躬 → 守興(もりおき)
越智守興は始祖である乎致命から数えて二十代目にあたり、後世の史料や伝承では以下のようにさまざまな表記で記されてきました。
- 小千守興(おちもりおき)
- 越智守興(おちもりおき)
- 乎致守興(おちもりおき)
- 乎致宿祢守興(おちすくねもりおき)
- 乎致宿禰守興(おちすくねもりおき)
- 越智大領守興(おちたいりょうもりおき)
本記事では、混乱を避けるために以降は「オチノモリオキ」として表記を統一して進めていきます。
瀬戸内海が育んだ「水軍」の系譜
オチノモリオキが当主であった時代、越智氏は単なる地方豪族にとどまらず、瀬戸内海における有力な海上勢力としての性格を強めており、自身の水軍を率いていました。
それが伊予水軍です。
愛媛県は瀬戸内海と宇和海に面し、どこまでも続くような長く入り組んだ海岸線を持つ地域です。
古くからこの海域は、大阪・中国地方・九州を結ぶ海上交通の要衝として、日本の物流と情報を支えてきました。
一方で、島々の間を縫うように走る潮流は極めて速く、狭い海峡が点在する瀬戸内海は、経験の浅い船乗りを拒む「海の難所」でもありました。
こうした厳しい環境の中で、伊予の人々は複雑な潮流を読み解く航海術を磨き、漁業だけでなく、物資輸送や交易を通じて瀬戸内海を自在に行き交っていました。
そして、生活の中で培われたその高度な航海技術こそが、後に伊予水軍を支え、歴史を動かす大きな力となっていったのです。
「伊予水軍」大山祇神社を中心に結束する最強の海上勢力
海上交通が盛んになれば、その利権をめぐる争いや外敵による脅威もまた避けられません。
航路の要衝を守り、安定した交易を維持するためには、強固な武力が必要不可欠でした。
海を舞台に戦う力は、外敵に備え、要衝を警護する日々の営みの中から自然と培われていきました。
瀬戸内海の各地には、海峡や航路を見渡す場所に城や拠点が築かれ、海上交通を監視し海域を統治する体制が整えられていきます。
これらの拠点は、単なる防衛施設にとどまらず、海を押さえるための重要な軍事拠点としての役割を担っていました。
こうした基盤はやがて中世へと受け継がれ、伊予を本拠とする河野水軍へ、さらには芸予諸島を拠点に制海権を掌握した村上水軍へと発展を遂げます。
戦国期の伊予の歴史において、海はまさに切り離すことのできない存在でした。
その歴史の源流に位置するのが、古代の伊予水軍です。
伊予水軍は、三島大明神(大山積大神)を祀る大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)を精神的な支柱としており、「三島水軍」とも称されていました。

瀬戸内海の中央に位置する大三島の大山祇神社は、古くから海の守護神として篤く信仰され、航海安全や武運長久を祈る重要な聖地でもありました。
この地域一体において、その神威は海を生きる者たちの心の拠り所となっていたのです。
越智氏は、この三島大明神(大山積大神)を自らの祖神として仰ぎ、代々にわたって深い信仰を捧げ、大山祇神社の祭祀を司る祭司者として人々を導いていました。
そして、大山祇神社を精神的支柱とする伊予水軍(三島水軍)の棟梁として、瀬戸内海航路の安全確保や地域統治を担う存在でもありました。
この時代の越智氏の当主であった守興(もりおき)もまた、大山祇神社の祭司者として、そして伊予水軍を率いる棟梁として、この地域を束ねていました。
このように、「信仰(精神)」「地理(技術)」「統治(組織)」という、軍事組織が強くなるためのすべての条件が揃うこの地において、強固な水軍が形成されるのはまさに歴史の必然であったといえます。
それはもはや地方勢力の枠を超え、大和朝廷にとっても国防の要として無視できない存在となっていました。
伊予水軍は、やがて国家規模の戦いへと動員されることになります。
それが天智天皇二年(663年)、現在の朝鮮半島・錦江河口付近、白村江(はくすきのえ・はくそんこう)を舞台に繰り広げられた海戦、日本史上初の対外戦争としても語られる「白村江の戦い」です。
ではなぜ、伊予の水軍は遥か彼方の白村江へと向かうことになったのでしょうか。
そこには、東アジアの運命を決定づける国家間の激しい攻防と、時代の大きなうねりがありました。
崩れ去る大陸の秩序
それを知るには、時計の針を数百年巻き戻し、東アジアの秩序を長らく支えていた大陸の巨大帝国・漢の興亡にまで目を向けなければなりません。
「漢王朝の創建」四百年の安定
紀元前202年、劉邦(高祖)によって漢が創建されました。漢は、それまで戦乱が続いていた中国大陸を一つにまとめ上げ、強大な統一国家を築きました。
一度は王莽(おうもう)によって国を奪われますが、光武帝によって後漢として再興されます。
この約400年にわたる漢の時代、大陸の高度な文化や制度は周辺諸国へと広まり、東アジアには一つの大きな安定した枠組みが形成されていました。
しかし、永遠に続くかと思われたこの巨大帝国も、内部の争いや政治の乱れによって、徐々にその終焉へと向かっていきます。
帝国の崩壊と「三国志の時代」
西暦220年、後漢が正式に滅亡すると、有名な魏・呉・蜀が並び立つ「三国志の時代」へと突入します。
かつての統一された秩序は跡形もなく消え去り、各地の群雄が覇権を争う激動の世が幕を開けました。
この混乱を最終的に制したのは魏の流れを汲む晋(西晋)でした。
しかし、皇族同士の権力争い(八王の乱)によって国力が衰退し、その隙を突くように北方から多くの遊牧民族が万里の長城を越えて侵入してきたことで、この統一はわずか数十年で崩壊してしまいました。
侵入してきた遊牧民族(五胡)は次々と国を建国し、国内は大混乱に陥りました。
中国再統一の光と影「隋の興亡」
晋の皇族は江南(長江の南側)へと逃れ、ここから中国が北と南に完全に分かれる「南北朝時代」が始まりました。
この「北」と「南」が別々の道を歩んでいた時代を終わらせたのが、北朝の有力な貴族であった楊堅(文帝)です。
581年、北朝の重臣であった楊堅は、北朝最後の王朝から位を譲り受ける「禅譲(ぜんじょう)」という形で隋を建国しました。
そして589年、長らく南側に割拠していた「陳」を攻め滅ぼし、ついに370年ぶりとなる中国全土の統一を成し遂げたのです。
しかし、この悲願を達成した隋の栄華は長くは続きませんでした。
二代目皇帝・煬帝(ようだい)による過酷な大運河建設などの土木事業や、三度にわたる高句麗遠征の失敗は、国家の体力を激しく消耗させ、各地で民衆の反乱を招くこととなります。
巨大帝国「唐」の誕生と東アジアの変貌
この混乱の中、隋の地方長官(太原留守)であった李淵(りえん・高祖)が、息子の李世民(後の太宗)らとともに挙兵します。
618年、隋がわずか30数年で歴史の表舞台から姿を消すと、李淵は都・長安で皇帝に即位し、新たな王朝「唐」を建国しました。
唐は隋が築いた「律令制」などの国家基盤をさらに洗練させ、より強固な中央集権体制を持つ巨大帝国へと成長を遂げます。
この強大な統一国家の出現は、それまで勢力が均衡していた東アジアのパワーバランスを劇的に変貌させました。
大陸で生まれたこの巨大な圧力は、隣接する朝鮮半島、そして海を隔てた日本列島の運命をも大きく揺り動かしていくことになったのです。
激動する半島情勢と日本の変革
中国の王朝交代の波は、あっという間に朝鮮半島へと波及します。
当時の半島では、高句麗・百済・新羅の三国が互いに牽制し合いながら、それぞれの領土をめぐって激しく火花を散らしていました。
これまで半島内での勢力争いに終始していた三国にとって、大陸に誕生した統一帝国・唐の存在は、これまでの均衡を根底から覆す巨大な脅威となりました。
この「外部からの圧倒的な圧力」が、各国の生存戦略をより過激なものへと変貌させたのです。
- 高句麗(北の牙城) 隋・唐による数度にわたる大規模な遠征軍をことごとく撥ね退けるほどの強靭な軍事力を誇りました。巨大帝国の侵攻を真っ向から受け止める「北の盾」として、その対決姿勢をより鮮明にしていきます。
- 新羅(孤立からの起死回生) 地理的に東側に偏り、常に高句麗と百済から挟撃される存亡の危機にありました。この絶望的な孤立を打破するため、新羅はあえて宿敵であった唐に臣従し、強力な軍事同盟(唐新同盟)を締結。大陸の力を引き込むことで、半島内のパワーバランスを自らに引き寄せようと賭けに出ました。
- 百済(同盟国・日本との絆) 伝統的に日本(倭国)と深い繋がりを持っていましたが、唐と新羅の連携によって南北から挟み撃ちにされる形となりました。巨大帝国と隣国の結託というかつてない強烈な軍事的圧力を受け、百済はさらに日本との軍事的な結束を強める必要に迫られたのです
迫りくる対外的危機
一方、日本列島においても、この大陸の緊迫した情勢は伝わっていました。
当時の日本は飛鳥時代にあたり、現在の奈良県高市郡明日香村周辺、すなわち大和国飛鳥に都が置かれていました。
政治の実権は、蘇我氏をはじめとする有力豪族が握っていましたが、その体制は豪族の力に大きく依存するものであり、唐のような強力な中央集権国家と比べると脆弱なものでした。
「もし外から大規模な圧力が加わった場合、国家として対抗できないのではないか」という不安が広がります。
特に朝鮮半島の情勢は、日本にとって極めて重要な問題でした。
古くから関係の深い百済が新羅と対立し、その背後には唐という大国が控えている状況は、日本にとっても決して他人事ではなかったのです。
こうした内外の危機意識の中で起こったのが、645年の乙巳の変(いっしのへん)でした。
中大兄皇子と中臣鎌足らによって蘇我入鹿が討たれ、蘇我氏本宗家は滅亡します。
この政変は単なる権力闘争ではなく、豪族中心の政治から脱し、天皇を中心とした国家体制へと転換しようとする大きな変革でした。
これを契機として始まったのが大化の改新です。
戸籍の整備や土地制度の見直し、税制の再編などが進められ、国家による統治体制の強化が図られていきました。
これは唐の律令体制を意識したものであり、日本が対外的な危機に備えて国家の形を整えようとした動きでもありました。
二度即位した女帝「斉明天皇」の治世
この緊迫した時代において、歴史の鍵を握ったのが、女性天皇である「斉明天皇(さいめいてんのう)」、本名「宝皇女(たからのひめみこ)」です。
宝皇女は、(630年)に37歳で舒明天皇(じょめいてんのう)の皇后に立てられました。
舒明天皇との間には、次のような皇子女が生まれています。
- 中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)― のちの天智天皇
- 間人皇女(はしひとのひめみこ)― 孝徳天皇の皇后
- 大海人皇子(おおあまのみこ)― のちの天武天皇
いずれも後の日本の歴史を大きく動かす存在であり、宝皇女(後の斉明天皇)はまさに時代の中心に立つ存在でした。
しかし、舒明天皇13年(641年)、天皇が崩御し、状況は大きく動きます。
後継となる皇子が定まらなかったため、翌642年、宝皇女は49歳で第35代・皇極天皇(こうぎょくてんのう)として即位しました。
その後、大化の改新の幕開けとなる「乙巳の変」を経て、自ら退位し、弟の孝徳天皇(こうとくてんのう)に皇位を譲ります。
これは日本史上初の譲位とされ、政治体制の大きな転換を象徴する出来事でした。
そして、退位から10年後の655年。
孝徳天皇の崩御(亡くなったこと)を受け、日本史上初となる「重祚(じゅうそ:一度退位した天皇が再び即位すること)」を果たし、62歳の時に第37代・斉明天皇となりました。
斉明天皇は、皇太子であった中大兄皇子ともに政務を進め、国家体制の整備を継続していきました。
その治世は『日本書紀』に「時に興事(こうじ)を好む」と記されるほどで、宮殿や水路の建設など大規模な土木事業が次々と行われ、国内の基盤は着実に整えられていきました。
しかしその一方で、朝鮮半島の情勢は刻一刻と予断を許さない状況へと陥っていました。
「百済滅亡」わずか10日の電撃戦
660年、ついに朝鮮半島の均衡が崩れます。
この年、大陸の唐と、半島での覇権を狙う新羅が結んだ「唐新同盟」が、ついに牙を剥いたのです。
唐の皇帝・高宗は、13万人におよぶ圧倒的な大軍を海路から派遣。
これに呼応した新羅軍5万が陸路から押し寄せ、百済は南北から挟み撃ちにされました。
百済の義慈王は必死の防戦を試みますが、最新兵器と圧倒的な兵力を誇る唐軍の前に、難攻不落とされた王都・泗沘(しひ)はわずか10日余りで陥落。
紀元前18年から続く文化大国・百済は、一瞬にして滅亡してしまったのです。
百済再興の願いと日本の決断
国の滅亡という悲劇に直面しながらも、百済の民の精神が潰えることはありませんでした。
将軍・鬼室福信(きしつふくしん)や僧・道琛(どうちん)、そして黒歯常之(こくしじょうし)ら百済の遺臣たちは、なおも再興の旗を掲げ続けます。
錦江河口付近の要衝に位置する周留城(するじょう・주류성)や、険しい山城であった任存城(にんぞんじょう・임존성)を拠点とし、各地で唐・新羅連合軍に対する激しい抵抗運動を展開しました。
しかし、百済復興には大きな問題がありました。
それは、百済王家の正統な「王」が不在であったことです。
百済再興の旗印として、王家の存在が必要不可欠だったのです。
そこで、660年10月に同盟国である日本(倭国)に支援を求めるとともに、再興の旗印として求めたのが、当時、同盟の証として日本に滞在していた王子・豊璋(ほうしょう)でした。
『日本書紀』斉明天皇6年(660年)10月条には、このときの要請の様子が記されています。
冬十月、百濟佐平鬼室福信、遣佐平貴智等、來獻唐俘一百餘人、今美濃國不破・片縣二郡唐人等也。又乞師請救、幷乞王子余豐璋曰或本云、佐平貴智・達率正珍也「唐人率我蝥賊、來蕩搖我疆埸、覆我社稷、俘我君臣。百濟王義慈・其妻恩古・其子隆等・其臣佐平千福・國辨成・孫登等凡五十餘、秋於七月十三日、爲蘇將軍所捉而送去於唐國。蓋是、無故持兵之徵乎。而百濟國遙頼天皇護念、更鳩集以成邦。方今謹願、迎百濟國遣侍天朝王子豐璋、將爲國主。」云々。
【現代語訳】
冬十月、百済の佐平(大臣)である鬼室福信(きしつふくしん)は、佐平の貴智(きら)らを派遣し、唐の捕虜百余人を献上してきました。これが、現在の美濃国不破・片県の二郡に住む唐人たちの祖先です。
鬼室福信らは援軍を乞い、救援を求めるとともに、あわせて王子・余豊璋(よほうしょう)を帰国させてほしいと願い出て次のように言いました。
「唐人は我が国の反乱分子を率いてやって来て、我が国境を揺さぶり、国家を覆し、我が君臣を捕らえました。
百済王の義慈(ぎじ)、その妻の恩古(おんこ)、その子の隆(りゅう)ら、そしてその臣下である佐平の千福・国弁成・孫登ら合わせて五十余人は、秋の七月十三日に蘇定方(そていほう)将軍に捕らえられ、唐の国へと送られてしまいました。
これは、おそらくは理由もなく兵を持ったことへの報いでありましょうか。
しかし、百済国は遠く日本の天皇のご加護を頼り、再び人々をかき集めて国家を再建しようとしております。
今、謹んでお願い申し上げます。かつて日本の宮廷に仕えるためにお送りしていた百済の王子・豊璋を迎え入れ、新たな国主としたいのです」
この要請に対し、斉明天皇は百済復興を全面的に支援する決断を下しました。
同じく『日本書紀』斉明天皇6年(660年)10月条には、この時の事が次のように記されています。
詔曰「乞師請救聞之古昔、扶危繼絶著自恆典。百濟國窮來歸我、以本邦喪亂靡依靡告。枕戈嘗膽、必存拯救。遠來表啓、志有難奪。可分命將軍百道倶前、雲會雷動倶集沙㖨、翦其鯨鯢紓彼倒懸。宜有司具爲與之、以禮發遣。」云々。送王子豐璋及妻子與其叔父忠勝等、其正發遣之時見于七年。或本云、天皇、立豐璋爲王・立塞上爲輔、而以禮發遣焉。
【現代語訳】
天皇は詔(みことのり)して次のように仰せられました。「援軍を乞い、救いを求めることは古くからあることだ。
危うきを助け、絶えたるを継がせる(扶危継絶)ことは、普遍的な道理として歴史に記されている。
百済国は窮まって我がもとに帰順してきた。その本国は乱れ、頼るところも、訴えるところもない。
私は武器を枕にして寝て、苦い胆(きも)を嘗める思い(枕戈嘗胆)で、必ずや百済を救おうと考えている。
遠くからやってきて救済を願い出たその志は、奪いがたいものである
将軍たちに命じて、諸道から兵を分けてともに進ませ、雲のように集まり、雷のように動いて沙㖨(さたく)に結集せよ。
そして敵を討ち取り、彼らの逆さ吊りにされたような苦境(倒懸)を解き放つべきである。 担当の官司は準備を整え、礼をもって出発させよ」
(こうして日本側は)王子の豊璋(ほうしょう)、およびその妻子と、叔父の忠勝(ちゅうしょう)らを送り出しました。
彼らが実際に正式に出発した時期については、(翌年の)斉明天皇七年の記事に詳しく記されています。
また、ある本(別の記録)によれば、「天皇は豊璋を(百済の)王に立て、塞上(せきじょう)をその補佐役として定め、礼を尽くして送り出した」とも記されています。
決戦の海へ。女帝の航海と水軍大将・小千守興
百済支援のため軍を朝鮮半島へ派遣することに決めた斉明天皇は、中大兄皇子(のちの天智天皇)らとともに水軍を編成していきます。
その中で白羽の矢が立ったのが、衛士として宮中に仕えていたオチノモリオキ(小千守興・越智守興)でした。
この戦いは広大な海を越えて行われるものであり、海上が主戦場となることは明白でした。
そのため、勝敗は水軍の練度と指揮官の才覚に懸かっていたのです。
伊予水軍の棟梁であり、優れた航海技術と高い戦闘能力を持つ守興は、まさに海戦を担うにふさわしい人物でした。
朝廷は、守興を日本の「水軍大将」に任命し、その指揮に命運を託しました。
難波宮での軍備と67歳の船出
661年2月1日(斉明天皇7年1月6日)、斉明天皇は長く住み慣れた宮であった飛鳥の「後岡本宮(のちのおかもとのみや)」を離れ、現在の大阪市中央区法円坂付近に造営された古代の宮殿「難波宮(なにわのみや)」へと移りました。
難波宮は日本初の首都であり、大陸直伝の鍛冶技術が集結する軍需拠点でもありました。
ここでは大量の甲冑や刀剣の製造、さらに荒波に耐えうる軍船の建造などが急ピッチで進められていきます。
そして、661年2月13日(斉明天皇7年1月6日)に、当時の日本を代表する国際港であった難波津から、斉明天皇は自ら大船団を率いて出港しました。
この時、斉明天皇は67歳。
当時としては驚異的な高齢の女帝が、自ら海を渡る遠征に臨んだのです。
その一行には、皇太子である中大兄皇子(天智天皇)をはじめ、将軍や武人、各地の豪族たちが名を連ねていました。
そして、その中には伊予水軍の棟梁であり、日本の水軍を率いる将として抜擢された小千守興の姿もありました。
伊予水軍を率いる守興は、この遠征において極めて重要な役割を担う存在であり、その航海術と指揮能力は、まさにこの戦いの成否を左右するものであったといえます。
さらに、兵士や水夫たちに加え、物資の管理や補給を担う者、航海の安全を祈る祭祀に関わる人々も同行していました。
万葉の歌人・額田王(ぬかたのおおきみ)もその一人であり、彼女は単なる随行者ではなく、神事や祈りを通じて遠征を支える役割を担っていたと考えられています。
この遠征は、単なる軍の移動ではなく、国家そのものが動く一大事業であったのです。
伊予への津到着と二ヶ月の滞在に隠された意味
661年2月18日(斉明天皇7年1月14日)、斉明天皇は伊予の熟田津(にきたつ)に到着しました。
(熟田津の場所については、一般的に松山市の道後・三津・和気・堀江周辺と推測されていますが、今治や西条といった東予地域を含め、より広域的に捉える見方もあります)
到着後、天皇が真っ先に向かったのは道後温泉でした。
『日本書紀』によれば、天皇一行は661年4月28日(斉明天皇7年3月25日)まで伊予に留まったとされています。
このとき詠まれたとされるのが、万葉集に収録されている額田王の歌です。
「熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな」
しかし、緊急を要する戦時下で、なぜ二ヶ月もの長期間滞在したのでしょうか。
一つには、高齢であった斉明天皇の体力的な回復を図る必要があったことが考えられます。
道後の湯は、長旅で疲弊した女帝の心身を癒やす「医療的拠点」でした。
さらに、この地はかつて夫・舒明天皇とともに訪れた思い出の地でもあり、国難に立ち向かう女帝にとって、亡き夫との記憶は大きな精神的な拠り所となったことでしょう。
そしてもう一つ、より重要な理由として挙げられるのが、伊予の地が水軍の要衝であった点です。ここは小千守興の故郷であり、精強な伊予水軍の本拠地でもありました。
この二ヶ月という時間は、兵の動員や船団の再編、さらには過酷な渡海に向けた食糧や武器の集積を行うための、軍事的拠点としての不可欠な準備期間であったと考えられます。
その伝承は今も、今治市の朝倉地区に残されています。
「失われた古代の入り江」伝承が伝える古代今治の風景
伝承によれば、斉明天皇は小航海の途中に、小千守興の故郷であり、伊予水軍の拠点でもあった伊予の朝倉郷(現在の今治市朝倉)に滞在したとされています。
その途上、一行は長坂の岡(現:今治市長沢)に船を寄せて上陸し、しばし休息を取ったとも伝えられています。
現在の穏やかな田園風景や住宅地からは想像しにくいことですが、「長沢=長い沢」という名前の通り、古くはこの一帯に海が内陸深くまで入り込み、船で直接近づくことが可能な入り江の地形が広がっていました。
このような地形は長沢に限られたものではなく、朝倉や現在の今治市中心部にかけても広がっていました。
蒼社川や頓田川の流域一帯には入り江や干潟が発達し、遠浅の海が内陸深くまで入り込む環境が形成されていたのです。
例えば、蒼社川下流域に広がる現在の今治市中心部、いわゆる今治平野(府中平野)も、当時はまだ完全な陸地ではなく、遠浅の海や干潟が広がる海辺の地域であり、船による往来が可能な地形であったと考えられています。
伊予水軍が拠点とした朝倉郷は、こうした地形に支えられた広い港湾を備えており、水軍の拠点として重要な役割を果たしていました。
白鳳地震と陸地化
しかし、この海辺の風景を大きく変える出来事が起こります。
それが天武13年(684年)10月14日に発生した白鳳地震(南海トラフ巨大地震)です。
震源域は四国から近畿におよび、広範囲に大きな被害をもたらしました。
『日本書紀』には「土佐国の田苑五十余万頃、没して海となる」と記されており、沿岸部では大規模な地殻変動が生じたことが知られています。
この地震の影響は沈降だけでなく、地域によっては隆起としても現れました。
今治沿岸、とくに府中平野や長沢周辺では地盤の隆起が起こり、それまで入り江として海が広がっていた場所は干潟や砂地へと変わり、やがて陸地化していったと伝えられています。
こうして古代には船で自在に往来できた入り江の姿は失われ、海岸線は現在の位置へと移っていきました。
長沢(長坂)や朝倉郷の入江も例外ではなく、次第に船の入り込めない陸地へと変わっていきます。
その結果、船の発着地はより外海に近い場所へと移り、府中平野東方の桜井周辺などが新たな港として利用されるようになったと考えられています。
車塚伝承と須賀神社・長沢の起源
しかし、これはあくまで地形が変化した後の姿です。
斉明天皇が訪れた当時、長沢の地はまだ海に面した入り江であり、船が行き交う場所でした。
古代の航海では、潮の満ち引きや浅瀬の位置を見極めながら進む必要があり、朝倉や長坂(長沢)のような穏やかな入り江は、船を停めて休息を取るのに最も適した地形であったと考えられます。
長坂の岡で十分な休息を取られた斉明天皇は、朝倉郷へと向かうにあたり、自らの御車(みくるま)をこの地に納められたと伝えられています。
この出来事は後世に語り継がれ、その地はやがて「車塚(くるまづか)」と呼ばれるようになりました。
地元の人々は斉明天皇の御跡を敬い、その御霊を祀るために長坂天皇社(長沢天皇社)を創建したと伝えられています。
そして、これが現在もこの地に鎮座する須賀神社・長沢の起こりとされています。

須賀神社・長沢は、荒ぶる神として知られる素戔嗚命(すさのおのみこと)とあわせて、この地に深い縁を持つ斉明天皇を祀る神社として、今も地域の人々の厚い信仰を集めています。

また、この車塚の位置については、茶臼山古墳群の中にある全長約20メートル規模の前方後円墳が、伝承の内容やその規模から「車塚」にあたる可能性があると考えられており、現在も検証が進められています。
朝倉郷での滞在と祈願
長沢の入江に沿って船を進め、朝倉郷へ到着した斉明天皇は、小千守興らとともにこの地に滞在し、百済救援に向けた準備を進めていきました。
およそ二か月半から三か月にわたる滞在の間、斉明天皇は地域の豪族や住民たちと協力しながら、兵を募り軍の整備や物資の確保にあたりました。
また、戦勝を祈願するため、多くの神社や寺院の造営・整備が行われ、地域との結びつきを深める施策も積極的に進められました。
「八幡大神社」白崎宮から始まった祈りの軌跡
朝倉の地に鎮座する「八幡大神社(はちまんだいじんじゃ)」は、斉明天皇の祈願から始まり、時代の要請とともに変遷を遂げてきた神域です。
- 「白崎宮」の興り:伝承では、斉明天皇が白崎の地で天下泰平や五穀豊穣、そして百済救援の成功を祈願したことが始まりとされています。のちに社が築かれ、「白崎宮」と呼ばれました。
- 大山祇神の勧請:時代が下ると、しまなみの守護神である大山祇神社から大山祇命が勧請され、「真宮(しんぐう)明神」として信仰を集めます。
- 「八幡社」の創建と合祀:貞観元年(859年)、宇佐八幡宮より武運の神・八幡神が迎えられ、新たに「八幡社」が建立されました。白村江の敗戦後、国家安泰を願う人々の拠り所となったこの八幡社は、のちに白崎宮と合祀され、現在の「八幡大神社」となりました。
斉明天皇の個人的な祈願から始まり、地域の防衛と安寧を願う八幡信仰へと繋がったこの場所は、朝倉の歴史が幾層にも積み重なった象徴といえます。

「朝倉宗廟本社(現:矢矧神社)」戦勝祈願と越智氏の記憶
朝倉の地に鎮座する「矢矧神社(やはぎじんじゃ)」も、斉明天皇が白村江の戦いを前に祈りを捧げた神域です。
- 越智氏の聖域: もとは越智氏の祖・乎致命の子・天狭貫王(あめのさぬきのおう・天狭貫)を祀るため「朝倉宗廟本社」として創建され、越智の一族と深く結びついた特別な神社でした。
乎致命(越智氏族之祖) → 天狭貫 - 斉明天皇の祈願: 朝倉滞在時、斉明天皇はここに参拝して国家安泰と戦勝を祈願しました。この際、八幡三神が合祀され「朝倉宮」の名を授かったと伝えられています。
- 軍事・信仰の中枢: 当時の朝倉は伊予水軍を率いる越智守興の本拠であり、軍事・交通の要衝でした。神社もまた、国家規模の戦いに挑む人々の重要な祈願所としての役割を担っていました。
- 歴史の変遷: 後に「朝倉宋廟八幡宮」と呼ばれ、江戸時代に「矢矧神社」へと改称されました。
現在もその境内には、遠く大陸へ向かった天皇の祈りと、越智氏の誇りが静かに息づいています。
「須賀神社・朝倉南」
朝倉地区に鎮座する「須賀神社・朝倉南」は、古代から続く朝倉の歴史と、この地を治めた豪族のルーツを伝える神社です。
- 伝承①斉明天皇と小千守興: 661年、百済救援のため朝倉に滞在した斉明天皇が、水軍大将の小千守興(おちのもりおき)に命じて建立させたという説です。国家安泰と戦勝祈願の拠点としての性格を持ちます。
- 伝承②素戔嗚命の巡狩: 神話の時代、素戔嗚命(すさのおのみこと)が国土を清める旅(巡狩)でこの地に立ち寄り、地元の小千連(おちのむらじ)が神籬を立てて祀ったのが始まりという説です。
「連」とは、古代ヤマト政権下において特定の職能を担う氏族に与えられた尊貴な姓(かばね)の一つであり、この伝承は、朝廷で重用された小千守興を指していると考えられます。

「八幡神社・宮ヶ崎」斉明天皇が拓いた景勝の祈り所
桜井地区の宮ヶ崎に鎮座するこの「八幡神社・宮ヶ崎」は、斉明天皇が朝倉郷に滞在した際、その眺望を愛でて創建したと伝わる古社です。
- 創建の由来と景勝地: 斉明天皇は、朝倉郷と高市郷を一望できる宮ヶ崎の高台を気に入り、国家鎮護の神である宇佐八幡宮の神霊を勧請して社を建立したと伝えられています。
- 国家安泰への祈り: 白村江の戦いを目前に控え、主祭神・誉田別尊(応神天皇)に対し、戦勝と国家安泰を祈願する軍事・精神的拠点としての役割を担いました。
- 戦火からの再興: 戦国時代には長宗我部氏の侵攻により社殿を焼失する悲劇に見舞われましたが、霊仙山城主・中川親武の尽力や地域住民の献身的な信仰により、幾度も再建されてきました。
女帝が眺めたかつての景色とともに、伊予水軍の記憶と人々の祈りが今もこの地に重なっています。

「夏姫物語」戦乱の海に咲き、祈りに消えた采女
このように、朝倉郷での滞在は単なる軍事拠点としての意味にとどまらず、信仰や地域との結びつきを深める重要な時間でもありました。
そして、この滞在の中で語り継がれる、ひとつの悲しい恋の物語もまた、この地に残されています。
百済救援という未曾有の国難に立ち向かう斉明天皇の側近には、夏姫(岩塚夏) という名の、常にその傍らを離れない一人の美しい女性がいました。
夏姫は、天皇の身の回りを世話する特別な女官である「采女(うねめ)」として仕えていました。
古代の宮廷制度において、采女とは単なる下級女官ではありません。
彼女たちは、各地の地方豪族が朝廷への忠誠の証として送り出した娘たちであり、美貌、健康、そして優れた教養を兼ね備えた、一族の誇りを背負った存在でした。
夏姫もまた、伊予国に深く根を張る名家・岩塚氏の娘として、その気品と器量を認められ、宮中に召し出されたのです。
名門・岩塚氏の血脈と、斉明天皇からの深い寵愛
夏姫の弟である岩塚土佐守重之(いわつかとさのかみしげゆき)は、後に斉明天皇の御願によって建立された「両足山天皇院車無寺(くるまんじ・現:車無寺跡)」の普請奉行を務めるほどの人物でした。


車無寺は、後の時代に場所を変えて「無量寺(むりょうじ)」として引き継がれ、現在も今治市朝倉において法灯を継承しています。

このような格式高い家柄に育った夏姫は、当時わずか18歳。
その輝くような美しさは宮廷内でも広く知れ渡り、斉明天皇は片時も彼女をそばから離さぬほど、深い寵愛を注いでいたと伝えられています。
荒波の向こうに待つ戦火の予感を感じながらも、若き夏姫は天皇の傍らで、故郷・伊予の海を再び見つめていたのかもしれません。
幼馴染から恋人へ。運命が引き寄せた二人の再会
そんな夏姫には、心に決めた特別な人がいました。それが、伊予水軍を率いる「小千守興(おち もりおき)」です。
二人は幼い頃から家族ぐるみの付き合いがあり、守興は早くから夏姫に想いを寄せていました。
一方、宮廷に上がった夏姫も、成長した守興の凛々しい姿に心を惹かれ、二人の心は徐々に近づいていきました。
斉明天皇の西航に随行する中で、二人の絆は急速に深まりました。
二人の故郷である朝倉郷に滞在していたある日、「屯田川(頓田川)」の土手や行宮の物陰で密かに言葉を交わし、互いの想いを確かめ合うようになります。
その若く純粋な愛情は、やがて周囲の人々も知るところとなりました。
その様子を温かく見守っていた斉明天皇は、二人に結婚を勧めました。
この御助言をきっかけに、幼馴染の二人はついに夫婦となり、短いながらも深い愛情で結ばれた幸福な時を過ごしたのです。
戦乱の海に断ち切られた幸せの時間
しかし、過酷な戦いの日はすでに間近に迫っていました。
ほどなくして小千守興は斉明天皇の命を受け、五千の兵を率いて軍の先鋒として出征することとなりました。
朝倉郷から戦火の海へと向かう愛しい人の背中を、夏姫はただ黙って見送るしかありませんでした。
こうして二人は引き裂かれるようにして別れの時を迎えます。
わずかな時間の中で育まれた幸福は、戦乱という抗えぬ荒波に呑まれ、無情にも断ち切られてしまったのです。
地域が守り抜いた夏姫の出産
守興が出征してから間もなく、夏姫は自らの身に起きた大きな変化に気づきました。
そのお腹には、新たな命が宿っていたのです。
この知らせを受けた斉明天皇は、最愛の采女である夏姫の体調を深く案じ、彼女が安心して出産を迎えられるよう、特別な館を新たに築かせました。
それが「産月館(うめかつきやかた)」です。
館の周囲には、夏姫に仕える召仕(召使い)たちの住まいも設けられ、地域全体で彼女を支える体制が整えられました。
こうした周囲の深い慈しみと配慮の中で、夏姫は無事に健やかな男の子を産み落としました。
戦場の父と、天皇に迎えられた皇子
しかし、この子の父である小千守興は軍の先鋒として海の彼方におり、我が子の誕生を祝うためにすぐ戻ることは叶いませんでした。
そこで斉明天皇は、戦いに身を投じた守興への信頼と、夏姫への変わらぬ寵愛を込めて、この幼き命を自らの猶子(ゆうし)として迎え入れるという、破格の配慮を示されました。
この子は「小千皇子(おちおうじ)」と名付けられ、朝廷の庇護を受ける特別な存在となりました。
斉明天皇はさらに、小千皇子の健やかな成長を心から願い、自らの御願寺である「両足山天皇院車無寺」にて篤い祈願を捧げられました。
この御祈願を契機として、車無寺は「両足山安養院車無寺」の名でも広く知られるようになったと伝えられています。
戦乱の中で、この場所は母子にとっての安らぎの砦であり、人々の祈りが集まる聖域となっていきました。
最前線・九州に築かれた新たな首都の命運
出産後、夏姫は次第に体調を崩し、徐々に衰弱していきました。
一方、斉明天皇もまた、私情にのみ流されるわけにはいきませんでした。
伊予での滞在を終えた斉明天皇率いる大船団は、ついに熟田津(にきたつ)を出港して瀬戸内海を西へと進み、661年4月28日(斉明天皇7年3月25日)、筑紫の那の大津(現:中央区那の津付近)に上陸して磐瀬行宮(いわせのかりみや)を拠点としました。
その後、長津宮(ながつのみや)と改め、軍事と政治の中枢として整備していきました。
この遠征には、皇太子・中大兄皇子(天智天皇)をはじめ、その弟・大海人皇子(後の天武天皇)らも同行していました。
そのため当時の飛鳥は事実上空となり、日本の中枢は九州へと移っていたといえます。
つまり、この出来事は単なる遠征ではなく、首都そのものが西へ移動したとも言える「戦時遷都」であったのです。
さらに661年6月11日(5月9日)、斉明天皇は前線基地として朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)へと移り、本格的な戦時体制に入ります。
突如訪れた未曾有の国難
しかし、運命は残酷な結末を用意していました。
九州到着からわずか数か月後の661年8月24日(旧暦7月24日)、斉明天皇はこの朝倉広庭宮において急逝します。
享年68歳。
これから決戦という直前にして最高指揮官を失う。
それは国家にとって未曾有の国難でした。
斉明天皇崩御の報は、ほどなくして夏姫のもとにも届けられました。
すでに病に伏していた夏姫にとって、その知らせはあまりにも過酷なものでした。
国の指導者であり、心の拠り所でもあった斉明天皇は亡くなり、戦の行方も見えぬ中、将軍として命を懸けて戦いに身を置く夫・小千守興の無事を、幼子を抱えながらただ祈るほかありませんでした。
最高責任者となった中大兄皇子の覚悟
母・斉明天皇の急逝という、あまりにも大きな悲劇。
この事態に直面した中大兄皇子は、深い悲しみを胸に秘めながらも、すぐには天皇の座に就きませんでした。
あえて皇太子のまま政務を執る「称制(しょうせい)」という道を選んだのです。
それは、目前に迫った決戦を前に、形式的な儀礼よりも迅速な指揮を優先させるという、国家の最高責任者としての並々ならぬ覚悟でした。
母の亡骸を前に喪に服しながらも、中大兄皇子は張り詰めた空気の中で、一刻の猶予も許されない重大な決断を下していくことになります。
同年、中大兄皇子は百済再興の象徴である王子・豊璋(ほうしょう)に日本(倭国)の最高位の「織冠(しょくかん)」を授け、さらに五千の兵をつけて鬼室福信の元へと送り出しました。
ここから、情勢は大きく動き出します。
白村江の炎に消えた再興の夢
百済へ帰国した豊璋は、鬼室福信や僧・道琛(どうちん)ら遺臣とともに復興政権を樹立し、百済王として即位します。
662年には日本の強力な支援を受け、復興軍は新羅軍を数度にわたって撃破し、一時は奪われた領土の大部分を奪還するほどの勢いを見せました。
そのため、百済はこのまま再興を果たすのではないかという期待さえ高まっていきます。
しかし、この関係は長くは続きませんでした。
内紛が招いた防衛線の崩壊
王としての権威を強めようとする豊璋と、軍事の実権を握る鬼室福信との対立は次第に激化し、豊璋はついに鬼室福信を謀反の罪で処刑しました。
『日本書紀』によれば、663年6月、百済王・豊璋は「福信に謀反の疑いあり」としてこれを討ち、ついには斬首のうえ、その首をさらすという苛烈な処断を下したとされています。
『百済本紀』や『旧唐書』『新唐書』では、この出来事を662年7月のことと記しており、『日本書紀』とは約1年のずれが見られます)
百済復興軍の精神的・軍事的支柱であった鬼室福信が失われたことで、復興軍の防衛体制は一気に瓦解し、拠点の周留城は危機に陥りました。
この混乱を見逃さなかったのが、唐の皇帝・高宗でした。
唐はただちに数万規模の精鋭部隊と大規模な増援艦隊を朝鮮半島へ送り込みます。
陸では、新羅軍と唐陸軍が百済復興軍最後の拠点・周留城を包囲。
補給路を断ちながら兵糧攻めを行い、四方から激しい攻撃を加えました。
さらに海では、唐の大水軍が白村江(はくすきのえ)の河口を完全に封鎖します。
これにより、日本(倭国)から送られる援軍や軍需物資は周留城へ到達できなくなり、百済復興軍は完全に孤立していきました。
陸軍で退路を断ち、水軍で海上補給を遮断する。
この「水陸併進(すいりくへいしん)」こそ、当時の唐が得意とした高度な包囲殲滅戦術であり、百済復興軍は袋の鼠(ねずみ)のような状態に追い込まれていきました。
しかし、この絶体絶命の窮地に立たされた豊璋のもとに、ついに日本(倭国)の本隊がその姿を現しました。
決戦の火蓋…日本軍二万七千の突撃
663年8月。
ついに百済復興の命運を懸けた最後の決戦が、白村江(はくすきのえ)で始まります。
中大兄皇子の命によって派遣された日本(倭国)軍の本隊は、総勢2万7千人に及ぶ大遠征軍でした。
- 前将軍:上毛野君稚子(かみつけののきみ・わかご)
- 中将軍:巨勢神前臣訳語(こせのかんざきのおみ・おさ)
- 後将軍:阿部引田臣比羅夫(あべのひきたのおみ・ひらふ)
しかし、鬼室福信の殺害による混乱の影響もあり到着は遅れ、白村江へ入った時には、すでに唐軍が万全の迎撃態勢を整えられていました。
それでも退くことはできませんでした。
周留城が陥落すれば百済復興は完全に終わる。
日本(倭国)軍は、正面突破による決戦を選びます。
663年8月27日。
ついに白村江で戦いの火蓋が切って落とされました。
日本(倭国)水軍は鬨(とき)の声を上げ、一斉に突撃を開始します。
『日本書紀』によれば、日本(倭国)軍は三軍編成で4度にわたり攻撃を仕掛けたとされています。
「我ら先を争わば、彼自ずから退くべし」
百済王・豊璋と日本(倭国)軍は、先に激しく攻め込めば唐軍は絶対に崩れるはずだと判断していました。
しかし、その読みは外れます。
唐軍は動じませんでした。
唐水軍は大型船を中心に堅固な陣形を維持。
狭い河口へ突撃してくる日本(倭国)軍を冷静に迎撃します。
さらに唐軍は、日本(倭国)軍を深く引き込むように後退しながら戦っていたとも考えられています。
「白江赤し」日本軍の大敗と潰えた百済再興の夢
そして翌28日。
唐軍は一気に反撃へ転じました。
唐軍は火攻め戦術「火計(かけい)」を用いたと考えられています。
密集していた日本(倭国)船団へ火が放たれると、炎は瞬く間に燃え広がっていきました。
木造船中心の日本(倭国)軍にとって、火攻めは致命的でした。
さらに白村江河口特有の潮流と干潮が、日本(倭国)軍へ追い打ちをかけます。
干潮によって船の動きは制限され、狭い河口に押し込められたところを、唐軍が左右から包囲。
日本(倭国)軍は逃げ場を完全に失いました。
船同士が衝突し、炎上。
海へ投げ出される兵たち。
燃え上がる軍船。
白村江は、巨大な火の海へと変わっていったのです。
この時の様子を『日本書紀』には「ときのまに官軍敗れぬ」、中国側史料『旧唐書』には、「白江赤し」とあります。
まさに、海が血と炎で赤く染まったほどの激戦だったのです。
この戦いで、日本(倭国)軍は約400隻もの軍船を失ったとされます。
国家の威信を懸けた大遠征軍は、ここに壊滅しました。
百済王・豊璋は戦場を離脱し、高句麗へ逃亡。
百済復興軍最後の拠点・周留城も陥落し、百済再興の夢は完全に潰えたのです。
迫りくる本土侵攻の脅威、日本全国に築かれた要塞
「次は唐が日本へ攻めてくる」
白村江の戦いで敗北した日本(倭国)は、朝鮮半島における影響力を完全に失い、今度は逆に、唐・新羅連合軍による本土侵攻の脅威に直面することとなりました。
それは、日本という国が初めて「国家存亡の危機」を現実として突きつけられた瞬間でもありました。
この未曾有の国難に対応するため、朝廷はただちに全国規模で防衛体制の再構築へ乗り出します。
まず筑紫(現在の福岡県)では、博多湾から大宰府へ侵入する敵軍を防ぐため、巨大防塁「水城(みずき)」が築かれました。
さらに、大宰府を守るために大野城や基肄城といった古代山城が築かれ、九州北部は巨大な防衛要塞地帯へと変貌していきます。
この防衛政策は九州だけにとどまりませんでした。
瀬戸内海沿岸や近畿地方、さらには対馬に至るまで、各地で朝鮮式山城と呼ばれる古代山城の築造が進められていきます。
それは、唐・新羅軍が瀬戸内海を東進し、日本列島へ侵攻してくる可能性を朝廷が強く警戒していたためでした。
伊予の山々に刻まれた防衛拠点
そして、この緊張は伊予の地にも及び、今治においても、瀬戸内海を監視するための重要拠点が築かれていたと考えられています。
その一つが、仙遊寺のある作礼山(さくれいざん)です。
標高およそ300メートルの作礼山は、瀬戸内海を一望する戦略的高地であり、海上の動きを監視する格好の要衝でした。
この山一帯には当時、白村江の戦いに備えた城塞や砦などの防衛施設が張り巡らされていたと考えられています。
また山頂近くには、天智天皇を供養したと伝えられる鎌倉時代の五輪塔が現在も残されており、仙遊寺と天智天皇との深い結びつきを今に伝えています。

もちろん、こうした防衛拠点は作礼山だけではありません。
西条市の永納山城(医王山)や、今治市の近見山などもまた、白村江敗戦後の防衛政策と深く関係して築かれたと考えられています。
白村江敗北後、日本列島は単なる地方の集合体ではなく、「外敵から国を守るための防衛国家」へと急速に変化していきました。
そして瀬戸内海一帯もまた、その最前線として再編成されていったのです。
今も各地に残る山城跡や伝承は、当時の緊迫した空気と、国家を挙げて進められた防衛体制の痕跡を、静かに現代へ伝え続けています。

夫・守興を待ち続けた夏姫の悲劇
朝倉郷に残っていた夏姫のもとにも、やがて白村江の戦いにおける日本(倭国)軍大敗の報せが届きました。
炎に包まれ壊滅した日本(倭国)水軍。
その中には、小千守興(おち もりおき)が率いていた伊予水軍の精鋭たちも含まれていました。
しかし、混乱の極みにあった戦場では、生死の詳細を知る術はありませんでした。
勅使として百済へ渡った小千守興もまた、その後の消息はついに伝わることがなかったのです。
愛する人が生きているのか、すでに命を落としたのかさえわからない。
そんな不安と絶望の中で、夏姫は幼い子を抱えながら、ただ帰りを待ち続けるしかありませんでした。
斉明天皇の崩御。
国家の敗北。
そして、夫の消息不明。
度重なる悲劇は、夏姫の心と身体を静かに蝕んでいきます。
やがて夏姫は病に倒れ、幼い息子・小千皇子(おちのみこ)を残したまま、この世を去ったと伝えられています。
しかし、悲劇はそれだけでは終わりませんでした。
車無寺で大切に育てられていた小千皇子もまた、生まれつき病弱であったため、ほどなくして幼い命を落としてしまったのです。
百済救援という国家の大戦は、多くの兵士だけでなく、残された家族たちの人生をも深く飲み込んでいきました。
「皇子神社」峠の地に残された幼き魂への祈り
母を追うようにして儚く命を終えた小千皇子の死は、この地に深い哀しみを残しました。
やがて人々は、母と子の魂を慰め、その霊を静かに祀る場所を求めるようになっていきます。
こうして、峠の地には小千皇子を祀る社が建てられ、「皇子神社(皇子明神社)」と呼ばれ、やがてこの地の氏神として崇められるようになりました。

「子守神社と越智の姓」守り継がれる母の慈愛と歴史
さらに、里人たちは母・夏姫の献身と哀しみも忘れることなく、浅地の地に社を建てて神として祀りました。
この社は「子守神社(こもりじんじゃ)」と名付けられ、母の優しさと強さを象徴する存在として、子どもを守る神様として広く信仰を集めるようになりました。
さらに、峠の別の地には夏姫を「熊神社」としても祀りました(現在は子守神社に合祀)。
これら両社の氏子の方々には、特別に「越智姓」を名乗ることが許され、その誇り高い血統と歴史は今日まで大切に受け継がれています。

朝倉に刻まれた「斉明天皇」の遺構
朝倉は、世田山合戦の舞台になるなど、伊予の歴史の中で重要な役割を担っており、古くから数々の伝承がのこされています。
そして、その中には、斉明天皇にまつわる遺構や地名も数多く含まれています。
「木の丸殿」今治・朝倉に伝わる母を偲ぶ聖域
斉明天皇が亡くなった際、中大兄皇子は飾り気のない白い喪服を身にまとい、家臣や民衆たちと立場を分けることなく、皆と心を一つにして、等しく深く母・斉明天皇の喪に服されました。
その際に建てられたのが、木皮を剥がしていない丸木を柱として用いた、極めて素朴かつ神聖な建物「木の丸殿(このまるどの)」、別名「黒木の御所」です。
木の丸殿の伝承地は、斉明天皇が最期を迎えられたとされる朝倉(現在の福岡県朝倉市)にあり、現在もその跡地が伝えられています。
木の丸殿の伝承地は、斉明天皇が最期を迎えられたとされる朝倉(現在の福岡県朝倉市)にあり、現在もその跡地が伝えられていますが、実は今治市朝倉にも「木の丸殿」にまつわる深い歴史が刻まれています。
伝承によれば、斉明天皇が伊予の朝倉郷に滞在された際、この地に校倉造り(あぜくらづくり)の行宮が築かれ、それが後の木の丸殿の起源になったとされています。
材木を井桁に積み重ねる校倉造りは、湿気に強く保存性に優れており、仮の御所としても高い機能性を備えた建築でした。
しかし、この木の丸殿は安住の地を得ることはありませんでした。
白鳳地震や度重なる洪水といった天変地異に見舞われ、損壊と移動を繰り返したと伝えられています。
現在、「木の丸殿」は彩咲あさくらの近くに移設され、当時の記憶を今に伝える存在として大切に守られています。

二つの「朝倉」を結ぶ謎。地名と伝承が語る斉明天皇の足跡
木の丸殿は「伏原八幡大神社(ふしわらはちまんだいじんじゃ)」)が鎮座する場所に、最初に建てられたのだという伝承も存在します。

しかし、一般的に、木の丸殿は斉明天皇が亡くなった九州の筑紫(現在の福岡県朝倉市周辺)に建てられたものとされています。
九州(福岡県)の朝倉と、四国(愛媛県今治市)の朝倉。 この二つの地には、どちらにも斉明天皇にまつわるよく似た伝説が伝えられています。
なぜ、これほど離れた土地で、共通するような話が残ったのでしょうか?
その謎を考えるうえで、「朝倉」という地名の由来が、重要な手がかりとなります。
九州(福岡県)の朝倉と、四国(愛媛県今治市)の朝倉。
この二つの地には、どちらにも斉明天皇にまつわるよく似た伝説が伝えられています。
なぜ、これほど離れた土地で、共通するような話が残ったのでしょうか?
その謎を考えるうえで、「朝倉」という地名の由来が、重要な手がかりとなります。
今治の「朝倉」と福岡県の「朝倉」それぞれの由来
まず、今治市にある「朝倉」という地名は、自然地形に由来すると考えられています。
- 「あ」:広い・大きい
- 「さ」:浅い・きれい
- 「く」:河・江
- 「ら」:原・原野
これらを組み合わせると、「広くて清流の河口にある平地」を表していると考えられます。
一方、福岡県の「朝倉」という地名については、斉明天皇がこの地に仮の都を設けた際、ある日の早朝に外を見て「朝(あさ)なお闇(くら)き」(朝になってもまだ暗い)と述べたことが、この地名の由来になったとされています。
それぞれの地域に「朝倉郷」が存在していた可能性
このようにそれぞれ違う由来があるのですが、もう一つ興味深い説があります。
それは、斉明天皇が立ち寄られた場所の多くが、古くから「朝倉郷」と呼ばれていたというものです。
斉明天皇がご滞在された際、その地には御殿が建てられることが多かったと伝えられています。
そしてこの御殿は校倉造りで建てられていたため、「校倉(あぜくら)」という言葉が時代とともに転訛(てんか)し、「朝倉(あさくら)」という地名に変わったとされています。
校倉づくりは、斉明天皇の時代に特徴的な建築様式であり、その存在が地域の人々の記憶に強く刻まれ、後に地名として定着したと考えられているのです。
今治・朝倉に残る斉明天皇滞在の記憶
この説が事実だと仮定するなら、今治の朝倉にも斉明天皇が確かに滞在したと考えることができます。
その裏付けとして、朝倉には現在も斉明天皇に関連する地名や遺構がいくつか残されています。
斉明天皇は八幡大神社において戦勝祈願を行った後、小千守興の案内により「行司原(ぎょうじがはら)」へと移動し、そこを行宮(仮の御所)と定めたと伝えられています。
この移動に際して、頓田川(屯田川)には「天皇堰」と呼ばれる堰が築かれたとされ、その名残として周辺には「天王(てんのう)」という地名が残されています。

また、川を渡った先には「行司(ぎょうじ)」という地名が現在も伝わっており、当時の行宮に関わる地名であった可能性も考えられます。
さらに、伏原八幡大神社の周辺には「才明(斉明)」という地名も残されており、斉明天皇との関わりをうかがわせる痕跡といえるでしょう。
「伝斉明天皇陵」石塔が語るもう一つの終焉伝承
一方で、斉明天皇はこの地で亡くなったとする伝承も伝えられています。
それを今に伝えるのが、「伝斉明天皇陵(でん・さいめいてんのうりょう)」と呼ばれる石塔です。
この石塔は、二基の宝篋印塔(ほうきょういんとう)からなり、室町時代、あるいは一説には鎌倉時代に建立されたものと考えられています。
この石塔に伝わる伝承によれば、斉明天皇は行司原へ移った後、「朝倉橋広庭宮」において崩御されたとされています。
もしこの伝承が事実であるとするならば、斉明天皇は一度九州へ渡ったものの、その地で没することなく、再び伊予の朝倉へ戻り、ここで最期を迎えたことになります。
これが歴史的事実かどうかは定かではありません。
しかし、このような伝承が生まれた背景には、斉明天皇の行幸がきわめて広範囲に及び、その足跡が各地に深く刻まれたことが大きく関わっていると考えられます。

守興の帰還と信仰の足跡
行方不明となり一時は戦死したと考えられていた小千守興ですが、実は生存しており、戦に敗れた後、新羅あるいは唐の軍勢によって捕虜となり、遠く大陸の地へと連行されていました。
ここからの物語は、歴史というよりは伝説に近い色合いを帯びていきますが、越智氏の後世に大きく関わる重要な転換点となります。
大陸での出会いと「一寸八分の黄金観音」
白村江の戦いで敗れた越智守興(小千守興)は、新羅(あるいは唐)に7名の仲間とともに捕らえられ、捕虜として南中国に連行されました。
異郷の地で囚われの身となった守興でしたが、次第に現地での生活にも順応し、越(えつ)の国の王女と出会います。
「越(えつ)」は現在の中国浙江省周辺にあった国で、新羅・唐連合軍と協力していました。
敵として出会った二人でしたが、言葉や文化の違いを越えて心を通わせ恋に落ち、やがて二人の子どもが産まれました。
しかし、幸福な日々は長くは続きませんでした。
戦も落ち着き、王女は唐の軍勢とともに自国(越)へ戻ることになったのです。
別れ際、王女は一寸八分(約5.5cm)の黄金の観音像を守興に手渡し、こう告げました。
「どうかこれを、私だと思ってください」
それから守興は、その観音像を大切に祀りながら、日本へ帰国できるように毎晩のように祈り続けていました。
そんなある日の夜、守興の夢の中に観音様が現れ、こう告げました。
「皆で力を合わせて船をつくりなさい。そして私をその船の船首に祀りなさい。そうすれば、無事に日本へ帰ることができるでしょう」
目を覚ました守興は、すぐさま仲間たちに夢のお告げを伝え、皆で協力して密かに船を造り上げると、隙を見計らって観音像を船首に祀って海に出ました。
一行は数々の嵐を乗り越え、ついに現在の福岡県の海岸に辿り着きました。
その頃、中大兄皇子(天智天皇)は、白村江敗戦後の混乱の中で、唐・新羅連合軍による本土侵攻に備えるため、国防の最前線である筑紫に滞在していました。
守興は、筑紫へ辿り着くと休む間もなく、すぐに中大兄皇子(天智天皇)のもとへ向かったと伝えられています。
白村江の戦い以来、すでに戦死したものと思われていた越智守興の突然の帰還に、中大兄皇子(天智天皇)は大いに喜びました。
守興は参上したあと、大陸での捕虜生活、越の王女との出会い、そして黄金の観音像に導かれた奇跡の脱出劇を克明に報告しました。
中大兄皇子の信頼と朝倉への帰還
もしかすると守興は、白村江で目の当たりにした唐軍の圧倒的軍事力や、大陸の緊迫した情勢についても、中大兄皇子(天智天皇)子へ詳しく語ったのかもしれません。
少なくとも、大陸の実情を知り、さらに瀬戸内海航路や伊予水軍を統率できる守興の存在が、唐・新羅の脅威に直面していた朝廷にとって極めて重要なものであったことは間違いありません。
中大兄皇子(天智天皇)は、白村江の戦いを生き延び帰還した守興に厚い信頼を寄せ、越智郡(現:今治市一帯)の朝倉地区一帯を治めるよう命じたと伝えられています。
こうして守興は、伊予の小千(おち)の国に戻り、越智氏の大領として朝倉を本拠地とし、この地域の統治と防衛を担っていくことになりました。
桜井の地を潤した「高麗池」の伝承
そして守興は、朝倉を基盤としながら、やがて桜井地区へも勢力を広げていきました。
この頃、日本(倭国)には白村江の戦いと百済滅亡によって、多くの渡来人・帰化人たちが海を渡って来ていました。
祖国を失った百済の王族や貴族、僧侶、技術者たち。
さらに高句麗や大陸各地から流れ着いた人々も加わり、日本各地には新たな文化や技術がもたらされていきます。
伊予の地もまた、その大きな流れの中にありました。
越智守興が朝倉を拠点として勢力を広げていた桜井地区には、今も一つの伝承が残されています。
当時の桜井は、「景色は素晴らしいが、水に乏しい土地」であったと伝えられています。
そこで守興は、その頃数多く渡来していた帰化人たちの中から、「トージさん」と呼ばれていた高麗人(こうらいじん)を招いたといわれています。
守興は、その高い土木技術に目を留め、池の築造を任せたのでした。
こうして築かれたのが、後に「高麗池(こうらいけ)」と呼ばれるため池です。
伝承によれば、この池は現在のものよりさらに広大で、今より三分の一ほど大きかったとも語られています。
異国から流れ着いた渡来人の技術と、守興の地域開発が結びついたことで、桜井の地は次第に人々の暮らしやすい土地へ変わっていったのでしょう。
白村江の敗北は、多くの悲劇を生みました。
しかしその一方で、大陸から渡ってきた人々の知識や技術は、日本各地へ新たな文化を根づかせていきました。
高麗池の伝承もまた、激動の時代を越えて海を渡ってきた人々の足跡を、今に静かに伝えているのです。
大陸に残した我が子と東禅寺の観音像
こうして祖国・伊予へ帰還し、地域の発展や防衛に力を尽くしていた守興でしたが、
その胸には、生涯消えることのない大きな心残りがありました。それが、大陸で越の王女との間に生まれた二人の子どもたちの存在でした。
子どもたちは現地に残されたまま、守興のみが帰国の途についたのです。
命懸けの脱出劇となる航海に幼い子どもを連れ出すことをためらったのか、あるいはすでに越の国の人々として育っていた子どもたちの未来を思ってのことだったのか、その真意は今も語り継がれていません。
しかし、一寸八分の黄金観音を握りしめ、家族と離れて帰国した守興の胸に、どれほどの葛藤と悲しみがあったかは想像に難くありません。
天智天皇(中大兄皇子)はこの守興の身の上に深く感じ入り、守興の故郷である伊予の地に観音堂を建て、あの王女から授かった黄金の観音像を「航海の守り神」として祀ることを許しました。
守興は、亡き母や異国の地に残した家族への想いを重ね、如意輪観世音菩薩を永く崇敬することを決意しました。
そして、この尊像を東禅寺に安置したと伝えられています。
この観音像は、守興を荒波から守り、無事に日本へと導いた奇跡の由来から、後に「船玉さま」と呼ばれるようになりました。

守興が築いた伊予の信仰
越智守興は、伊予国の信仰の礎を築いた人物としても、その名を深く刻んでいます。
例えば、守興は松山市に鎮座し、越智氏の祖神である三島大明神(大山積大神)を祀る阿沼美神社(あぬみじんじゃ)の創建に深く関わりったと伝えられています。
これは、水軍の棟梁としての武力だけでなく、大山祇神社の祭司者としての精神的な権威が地域に根付いていたことを象徴しています。
また、守興が建立に携わったと伝えられる寺院は伊予各地に点在しており、それぞれの縁起にその名が残されています。
- 西法寺(松山市下伊台町)
- 宝厳寺(道後)
- 高縄寺(旧・歓喜寺/北条)
今治の地においても越智守興の足跡は深く刻まれており、天智天皇(中大兄皇子)の勅願を受けた守興は、瀬戸内を一望する作礼山の頂に「千光院」を建立したと伝えられています。
これが現在の仙遊寺の始まりとされており、今も山頂には天智天皇ゆかりの五輪塔が鎮座しています。
さらに守興は、仙遊寺の別当寺として拝志郷・松原郷に「新興寺(しんこうじ)」を建立しました。
この寺こそが、現在の今治市富田地区にある「真光寺・東町(しんこうじ)」の起こりであるとされています。

朝倉の歴史を語る古墳群と時代
小千守興(おちのもりおき)がいつ、どのような最期を遂げたのか。
その詳細については、今もはっきりとは伝わっていません。
しかし、朝倉の地には多くの古墳が点在し、この地が古くから強力な豪族の本拠地として栄えていた証となっています。
「5世紀」古墳時代中期、豪族の台頭
朝倉地域で特に古い時代を示す代表的な古墳が、「樹之本古墳(きのもとこふん)」と「一本松古墳(一本松神社)」です。
これらは、朝倉地域に現存する300基以上ともいわれる古墳群の中でも特に古い時期に築かれた古墳であり、当時すでにこの地に強力な豪族勢力が存在していたことを示しています。
中でも「樹之本古墳」は、朝倉地域最大級の古墳として知られています。
ここから出土した埴輪は極めて貴重な資料として評価され、現在は東京国立博物館にも収蔵されています。
このことからも、当時の朝倉が瀬戸内海沿岸でも有力な勢力圏であったことがうかがえます。
また、この古墳は、越智氏の祖先級人物とされる「越智益躬(おちのますみ)」の墓所ではないかという説も伝えられています。
もしそうであるならば、この地は古墳時代の頃から、後に伊予水軍を率いる越智氏の中核拠点として発展していたことになります。

さらに、「一本松古墳(一本松神社)」の周辺では、平成18〜19年度に発掘調査が行われ、「一本松遺跡」と呼ばれる大規模集落跡も発見されました。
弥生時代から古墳時代にかけての住居跡や倉庫跡、祭祀に使われた分銅形土製品などが多数出土しており、この地に長く村が営まれていたことが分かっています。
特に、古墳時代の集落では、一辺7メートルにも及ぶ大型住居が確認されており、この地域を統率した有力者、いわば“村長”が暮らしていた可能性が指摘されています。
そして、その有力者こそ、「一本松古墳」に葬られた人物だったのではないかとも考えられているのです。

「6世紀」富と技術を持つ豪族へ
古墳時代後期になると、朝倉一帯ではさらに多くの古墳が築かれるようになります。
「牛神古墳(うしがみこふん)」からは、鉄器・須恵器に加え、ガラス玉や碧玉製品など豪華な装飾品が出土しています。

また、「禰宜屋敷古墳群(ねぎやしきこふんぐん)」からも鉄器や装飾品が発見されており、この地域に高度な技術力と豊かな財力を持つ支配層が存在していたことが分かります。
こうした副葬品は、単なる地方豪族の規模を超えた力を示しており、瀬戸内海交易によってもたらされた富が、朝倉の発展を大きく支えていたのでしょう。
海を通じて各地と結ばれていた朝倉は、この頃すでに、瀬戸内海を舞台に勢力を広げる海人豪族の拠点となっていたと考えられます。

「6〜7世紀」守興が生きた飛鳥時代
そして6世紀後半から7世紀になると、朝倉はさらに巨大な勢力圏へと発展していきます。
この頃になると古墳の数は急増し、地域全体が一大豪族拠点を形成していたことがうかがえます。
「野々瀬古墳群(ののせこふんぐん)」は101基にも及ぶ大規模古墳群で、県指定史跡「七間塚」も含まれています。

「野田古墳群(のだこふんぐん)」では、30基もの横穴式石室が確認され、一部は後の時代に祠として信仰の対象にもなりました。

さらに、「多伎宮古墳群(たきのみやこふんぐん)」や「清水寺古墳群(きよみずでらこふんぐん)」なども、この地域の繁栄を今へ伝えています。

これほどまでに古墳が集中していることは、この朝倉一帯に極めて強大な支配勢力が存在していたことを意味しています。
そして、この時代こそが、越智守興が活躍し、斉明天皇を伊予へ迎え、白村江の戦いへと向かっていく飛鳥時代へ繋がっていくのです。
守興が治めたとされる桜井地区や、斉明天皇伝承が残る長沢周辺にも数多くの古墳が存在しており、この地域全体が古代伊予における政治・軍事・海上交通の中心地であったことは間違いありません。
朝倉に残る古墳群は、単なる古代の墓ではありません。
それは、瀬戸内海を支配した海人豪族たちの力と、後に白村江へと繋がる伊予水軍の源流を、今に静かに物語っているのです。
古墳が語る“海の王国”と守興の墓所
これらの古墳から出土した銅鏡・銅剣・木簡・土器・装飾品などは、現在「朝倉ふるさと美術古墳館」に収蔵・展示されています。
守興が治めたとされる桜井地区や、斉明天皇伝承が残る長沢周辺にも数多くの古墳が存在しており、この地域一帯が古代伊予における重要拠点であったことは間違いありません。
そして、朝倉地区に隣接する清水地区・新谷(にや)にも、古墳や古代遺跡が数多く残されています。
そして、この丘陵地のどこかに、オチノモリオキ(越智守興)もまた眠っているのではないか
この地域一帯に広がる古墳群を見ていると、そして、この丘陵地のどこかに、オチノモリオキ(越智守興)もまた眠っているのではないか。
実は、清水地区の新谷には守興が眠るとされる墓所が存在します。
それが、「三島神社・新谷」です。

神社の鳥居をくぐり、社殿へ向かう石段を登らず右手へ目を向けると、「乎致命守興野之奥城(おちのみこと もりおきの おくつき)」と刻まれた石柱が静かに建てられています。
「奥津城(おくつき)」とは、神道における墓所を意味する言葉で、故人が神々のもとへ帰り、やがて一族や土地を守る守護神となる神聖な場所を指します。
さらにその奥へ進むと、「小千守興之墓(おちもりおきのはか)」と記された立派な墓石が姿を現します。
静かな境内に佇むその墓所は、白村江の戦乱を生き抜き、伊予の地を守り続けた守興の記憶を、今なお静かに伝えているかのようです。


戦乱の伊予を動かす「河野氏」へ
そして、この場所が特別なのは、それだけではありません。
実は、この三島神社・新谷を創建したと伝えられているのは、大陸に残されたとされる守興の二人の子どもたちなのです。
そして、この越智氏の系譜は、やがて伊予の歴史を大きく動かす、さらに重要な一族へとつながっていきます。
それが、河野氏です。
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