北朝方内部で激化する伊予の主導権争い
興国三年/康永元年(1342年)9月。
四国の細川勢力は阿波・讃岐・土佐を基盤に勢力を広げ、北朝方の四国経略を担っていました。
その中心にいた阿波守護・細川頼春は、世田山合戦で伊予南朝方を打ち破り、四国における北朝方屈指の実力者となります。
しかし頼春には、どうしても手中に収めなければならない土地がありました。
それが、伊予国です。
前回の記事はこちら:《世田山合戦⑥》伊予国の命運をかけた南北朝の決戦「1342年 世田山合戦」
「伊予府中」四国の命運を握る政治・軍事の要地
世田山合戦で本陣を置いた真光寺の西方には、古代以来、伊予国府が置かれた府中平野が広がっていました。
府中平野は、現在の今治市中心部から国分・高市・拝志・上徳・中寺周辺へ広がる地域で、より広い越智平野(現在の今治平野)の一部にあたります。

古代以来、この地には伊予国府をはじめ、国分寺(伊予国分寺)や守護所、有力武士の居館などが置かれ、伊予国の政治・軍事・行政の中心地として栄えてきました。

さらに瀬戸内海交通を押さえる要衝でもあったことから、この地を制する者は、伊予国の政治だけでなく軍事や物流にも大きな影響力を及ぼすことができました。
国府を押さえることは、伊予の政治・軍事・交通を握る最重要拠点を手中に収めることを意味します。
それは、すなわち伊予国の主導権を握ることにほかなりませんでした。
頼春が目指していたのは、世田山合戦で南朝方を打ち破ることだけではありませんでした。
伊予国を北朝方の勢力下に置き、その政治・軍事の中心である府中を掌握することで、四国における細川氏の地位を決定的なものとすることだったのです。
「伊予守護職」四国の命運を握る要職
南北朝時代の伊予国を治めるうえで、極めて重要な役職がありました。
それが、「伊予国守護」です。
守護と地頭の誕生
守護(しゅご)とは、鎌倉幕府が全国統治のために設置した役職で、一国における軍事・警察を担う幕府の最高責任者でした。
その起源は文治元年(1185年)。
源平合戦によって平家が滅亡すると、源頼朝は鎌倉を拠点に武家政権の確立を進めていきました。
しかしその一方で、平家滅亡の立役者であった弟・源義経は、頼朝の許可を得ず朝廷から官位を受けるなど独自の行動を取り、兄弟の関係は次第に悪化していきます。
やがて頼朝は義経追討を名目として朝廷に守護・地頭の設置を認めさせ、武家政権の基盤を築きました。
守護の主な役割は、国内の治安維持や謀反人・犯罪者の追捕、そして戦時に国内の武士たちを統率することでした。
一方、地頭(じとう)は荘園や公領ごとに置かれた在地管理者で、土地の管理や年貢の徴収を担う役職でした。
また、戦時には守護の命令に従って軍役を務めるなど、幕府の地方を支える重要な存在でもありました。
つまり、守護が「国全体」を統括する立場であったのに対し、地頭は「個々の土地」を管理する役職だったのです。
南北朝時代に高まる守護の重要性
伊予国でも鎌倉時代以来、多くの地頭が各地に配置されました。
忽那氏のように地頭職を代々受け継いだ一族もあり、河野氏や橘氏をはじめとする在地武士たちは、それぞれの所領を基盤として勢力を築いていました。
しかし南北朝時代になると状況は大きく変化します。
全国規模の戦乱が続くなか、守護には単なる治安維持だけでなく、国内の武士をまとめ上げ、軍勢を動員し、幕府の命令を実行するという軍事・政治の両面を担う役割が求められるようになりました。
とくに南朝勢力との戦いが続く伊予国では、その重要性はさらに高まっていたのです。
さらに南北朝時代には、北朝と南朝がそれぞれ独自に守護を任命していました。そのため伊予国では、両朝がそれぞれの守護を立てて主導権を争う状況となり、守護職は国の命運を左右する極めて重要な地位となっていました。
守護に任じられることは、単なる名誉職ではありませんでした。
その国における幕府方の代表者として認められ、軍事・政治の中心に立つことを意味していたのです。
細川頼春が目指した伊予守護職
すでに頼春は、四国における細川勢力の中心人物として大きな影響力を築いていました。
もし伊予守護職を兼ねることができれば、細川氏の勢力は伊予にも及び、四国全体における地位はさらに揺るぎないものとなります。
伊予守護職は、頼春にとって四国における主導権を確かなものとするため、どうしても手に入れなければならない地位だったのです。
南朝との戦いが生んだ伊予守護の交代劇
南北朝時代の伊予国では、戦乱の激化とともに伊予守護も次々と交代していきました。
足利尊氏は戦況に応じて有力武将を伊予へ送り込み、守護職を託しながら南朝方との戦いを進めていったのです。
「伊予守護・河野通盛」尊氏に従った河野氏宗家
当初、北朝方の伊予守護職には、建武三年/延元元年(1336年)、河野氏宗家の河野通盛(こうの みちもり)が任じられていました。
通盛は足利尊氏に従って伊予守護に任じられ、伊予における北朝方の中心として土居氏・得能氏・忽那氏ら南朝方勢力と戦い続けていました。
しかし当時の伊予国では、なお南朝方の勢力が強く、通盛だけで国内全域を押さえることは容易ではありませんでした。
特に東予から中予にかけては土居氏・得能氏らが、瀬戸内海では忽那氏や村上氏ら水軍勢力が活動しており、北朝方の勢力は決して盤石とはいえなかったのです。
さらに伊予には、後醍醐天皇の皇子である満良親王・懐良親王・尊真親王の三親王も下向しており、南朝方の大きな精神的支柱となっていました。
こうして伊予の戦乱は、単なる在地武士同士の争いではなく、河野氏惣領をめぐる対立や、南朝と北朝の正統性をめぐる大きな戦いへと発展していったのです。
北朝方にとって、伊予に残る南朝勢力を抑えることは急務でした。
そこで北朝方は、河野通盛を支援するとともに伊予国内の南朝勢力を討伐するため、新たに伊予守護を送り込むことにしました。
「伊予守護・岩松頼宥」伊予へ下向した北朝方新田一族
建武五年/延元三年(1338年)、北朝方は岩松頼宥(いわまつ らいゆう)を伊予守護に任じ、備後から大軍を送り込みました。
岩松頼宥は新田氏の一族でしたが、鎌倉幕府滅亡後は足利尊氏に従い、僧形の武将として各地を転戦した北朝方の有力武将でした。
頼宥は備後国から瀬戸内海を渡って大三島へ上陸し、三島社(現在の大山祇神社)に戦勝を祈願したのち、伊予各地を転戦しながら南朝方への攻勢を強めていきました。
「鳥生貞実」南朝から北朝へ転じた大祝氏
この時、岩松頼宥の先鋒として活躍した武将の一人が、鳥生貞実(とりう さだざね・鳥生又三郎貞実)です。
鳥生貞実は越智氏の流れをくむ武将で、「越智又三郎貞実」とも記されています。
その系譜や活動時期、各地に残る伝承などから、大山祇神社の第21代大祝(おおほうり)・大祝安世(おおほうり やすよ)と同一人物ではないかと考えられています。
安世は、後に第23代大祝となる安顕(やすあき)の父でもあり、大祝氏嫡流の中心人物でした。
大祝とは、大山祇神社において代々祭祀を司ってきた最高神職です。
しかし、大祝氏は単なる神職ではありませんでした。
越智氏の嫡流に連なる名門として、瀬戸内海海上交通の要衝・大三島を本拠に勢力を築き、神社の祭祀を司る一方で武士団を率いて軍事にも携わるなど、宗教と武力の両面から地域を支えた伊予屈指の有力一族だったのです。
その特別な地位は、中世に大祝安顕が残した記録からもうかがえます。
そこには「大祝職は神壇を居所にかまへ、半大明神を号す」「弓箭を携へず、国境を出でず」と記されており、本来の大祝は武器を執ることなく神事と祈祷に専念し、神の依代、すなわち「生き神」として崇敬される存在でした。
元弘2年(1332年)、安世は大祝職に就きました。
しかし、その直後に元弘の乱が起こると、全国は未曾有の戦乱へと突入します。
安世は大祝職を嫡子・安顕へ譲り、自らは武士として戦乱の中へ身を投じたと伝えられています。
本来であれば神前で祈りを捧げるべき大祝自らが鎧をまとい戦場へ赴いたことは、当時の混乱がいかに深刻であったかを物語っています。
当時の伊予では、土居氏・得能氏・忽那氏ら多くの有力武士が後醍醐天皇を奉じる宮方(南朝方)として挙兵しており、大祝氏もまた、その中心勢力の一つでした。
実際、大祝氏一族の大祝安親(おおほうり やすちか)は、護良親王の討幕の令旨に応じて土居通増・得能通綱らとともに挙兵し、元弘3年(1333年)には石井浜で長門探題・北条時直の軍勢を撃退しました。
その後も星岡や根来城など各地を転戦し、その武功は『三島家文書』に残る「祝安親軍忠状」や「中院通顕感状」に詳しく記されています。
しかし、建武政権が成立すると情勢は大きく変化します。
武士たちの恩賞に対する不満が高まり、足利尊氏が武家政権の再建を掲げて挙兵すると、日本は再び南朝と北朝に分かれて争う時代を迎えました。
この激動は大祝氏にも大きな影響を及ぼします。
安親もまた時代の流れの中で足利方へ転じ、河野通盛と協力して松前城や由並城を攻略するなど、北朝方の武将として活躍しました。
安親に続いて、大祝安世(鳥生貞実)も元弘の乱では宮方(南朝方)として戦い、その武勇を示したと伝えられています。
しかし、建武政権の崩壊とともに情勢は大きく変化し、安世(鳥生貞実)もまた北朝方へと転じました。
このように、大祝氏は南朝方・北朝方の双方で活躍した一族でした。
南北朝時代には、同じ一族や親子、兄弟が敵味方に分かれて戦うことは決して珍しいことではありませんでした。
河野氏をはじめ、土居氏・得能氏・忽那氏、そして大祝氏もまた、それぞれが時代の大きなうねりの中で異なる立場を選択していったのです。
鳥生貞実もまた、激動の時代の中で自らの進むべき道を選んだ武将の一人だったのです。
関連記事はこちら:【越智氏の系譜】神を宿した水軍の長「大祝氏」。大山祇神社を司る最高神職の一族
「府中奪還」北朝方、伊予国府を再びその手中に
北朝方へ転じた鳥生貞実は、岩松頼宥軍の先鋒として、新居関の戦いを皮切りに東予各地を転戦します。
新居関を突破すると庄司山の要害へ入り、さらに西条庄へ進軍して郷城・得重城を攻め落としました。
その後も西条庄一帯の制圧を進め、朝倉・高市方面へ兵を進めると、宮崎山に要害を築き、府中(現在の今治中心部)を勢力下に置いていた南朝方と対峙します。
府中は伊予国府や守護所が置かれた伊予国の政治・軍事の中心地であり、この地を押さえることは、伊予における主導権を掌握することを意味していました。
そのため、府中を勢力下に置く南朝方と、それを奪還しようとする北朝方との攻防は、伊予の命運を左右する極めて重要な戦いとなったのです。
建武五年/延元三年(1338年)11月25日、貞実は府中から押し寄せた南朝軍を高市郷竹林寺付近で迎え撃ち、佐礼山から竜岡城(龍岡城)方面へと追い詰めました。
さらに鴨部中村から各地の敵勢を掃討しながら府中へ攻め入り、敵軍を石清水八幡神社が鎮座する八幡山へ退却させます。
続く11月27日には、岩松頼宥の府中進軍に従軍し、南朝軍を佐波城・竜岡城方面へ退却させました。
こうした一連の攻勢によって南朝方の勢力は大きく後退し、同年11月、北朝方は再び府中をその勢力下に置くことに成功したと考えられています。
府中の奪還は、単に一地域を取り戻しただけではありませんでした。
伊予国の政治・軍事の中心地を掌握したことで、北朝方は伊予支配の足掛かりを築き、その後の伊予攻略を大きく前進させたのです。
しかし、土居氏・得能氏・忽那氏をはじめとする南朝方の有力武士たちはなお健在でした。
府中を失った後も各地で抵抗を続けており、伊予の戦乱は終息するどころか、さらに激しさを増していくことになります。
「伊予南朝方の反攻」湯築城陥落と忽那島合戦
延元四年/暦応二年(1339年)には、後醍醐天皇の皇子・懐良親王を奉じた忽那義範が北朝方と激しく戦い、道後方面でも北朝方の河野氏宗家との戦闘が繰り広げられました。
この頃の伊予では、土居氏・得能氏・忽那氏ら南朝方諸勢力が各地で攻勢を強めており、北朝方は守勢に回る場面も少なくありませんでした。
とりわけ忽那義範は、瀬戸内海の島々を拠点に土居通世らと連携しながら各地を転戦し、北朝方の拠点や兵站線を脅かし続けていました。
さらに暦応四年(1341年)になると、南朝方は伊予における北朝勢力の中心であり、河野通盛の本拠でもあった湯築城への総攻撃を開始します。
土居通世や忽那義範ら南朝方諸将は大軍を率いて湯築城を包囲し、城の周辺一帯を戦場とする激しい攻防戦を展開しました。
湯築城は伊予守護・河野氏宗家の本拠であるだけでなく、北朝方の伊予支配を支える政治・軍事の中心拠点でした。
そのため、この城を失うことは単なる一城の落城ではなく、伊予における北朝方支配そのものが揺らぐことを意味していました。
戦いは数か月に及ぶ長期戦となり、翌興国三年/康永元年(1342年)3月まで続きます。
そしてついに湯築城は陥落したと伝えられており、河野通盛率いる北朝方は存亡の危機に立たされました。
一方、河野通盛も黙って敗北を受け入れたわけではありませんでした。
興国三年/康永元年(1342年)3月、通盛は自ら大軍を率いて南朝方の海上拠点である忽那島への反撃を開始します。
忽那島は懐良親王が滞在した地であり、忽那義範の本拠でもありました。
また、瀬戸内海の海上交通を押さえる戦略上の重要拠点でもあり、ここを制圧できれば南朝方の海上活動に大きな打撃を与えることができました。
これに対し忽那義範は、一族の重勝・忠重や睦月島の地頭・則久らおよそ三百余人を集めて迎撃します。
戦いは野島・梅児・長師の三か所で繰り広げられ、三日間にわたる激戦となりました。
忽那勢は島々の地形と潮流を熟知しており、地の利を最大限に活かしながら河野軍を迎え撃ちます。
激しい戦闘の末、河野軍は攻め切ることができず、ついに退却を余儀なくされました。
忽那義範は北朝方の大軍を撃退することに成功し、その武名は瀬戸内一帯に轟くことになります。
こうして興国三年/康永元年(1342年)春頃の伊予では、湯築城の陥落、忽那島での北朝方敗退という出来事が相次ぎ、南朝方の勢いは最高潮に達しました。
しかし、この事態を重く見た足利尊氏は細川皇海に通盛への援軍を命じ、安芸・土佐などから軍勢を動員して南朝方への反撃を開始しました。
その結果、河野通盛は勢力を立て直し、一時南朝方の手に落ちたとされる湯築城を奪還することに成功します。
河野氏宗家の本拠を回復したことで、北朝方は伊予における足場を再び固めることとなりました。
「伊予守護・細川頼春」伊予掌握への第一歩
さらに興国三年/康永元年(1342年)5月、脇屋義助が伊予へ下向し、南朝方による大規模な反攻が開始されます。
こうした情勢を受け、北朝方は伊予戦線を立て直すため、より強力な軍事指揮官を送り込む必要に迫られました。
そこで白羽の矢が立ったのが、四国に勢力を広げる細川一門の中でも、とりわけ武名と実績を兼ね備えた細川頼春(ほそかわ よりはる)でした。
頼春は、阿波・讃岐・土佐を基盤として四国屈指の軍事力を率い、足利方の四国経営を支える中心人物の一人でもありました。
北朝方は頼春を新たな伊予守護に任じ、伊予戦線の立て直しを託します。
一方、それまで伊予守護を務めていた岩松頼宥は、その任を終えて伊予を離れることになりました。
頼春の伊予守護就任は、単なる守護の交代ではありませんでした。
南朝方の攻勢を食い止め、伊予における足利方の勢力を立て直すとともに、伊予の主導権を確かなものとするための重要な一手だったのです。
「細川頼春と河野通盛」伊予を巡る北朝方の内紛
そして伊予へ下向していた南朝方の総大将・脇屋義助が病没したとの報を受けると、頼春はこの好機を逃さず、大軍を率いて南朝方討伐を開始します。
頼春は川之江城を攻略したのち、世田山合戦で大館氏明ら南朝方の主力を打ち破り、伊予における戦局を北朝方優位へと大きく転換させました。
しかし、頼春の目的は南朝方を打ち破ることだけではありませんでした。
世田山合戦に勝利した頼春は、本拠である阿波へ戻ることなく、そのまま伊予にとどまります。
それは、北朝方の勢力を立て直すためだけではありません。
伊予国そのものへの影響力を強め、四国における細川氏の地位をさらに確かなものとしようとしていたのです。
「千丈ヶ原の戦い」河野一族十七人の討死
細川頼春は、石鉄山麓の大保木・天河寺に陣を構え、伊予国内における北朝方の有力者であった河野通盛にも圧力を加え始めました。
これに対し河野通盛は、細川氏が伊予で勢力を拡大することに強い危機感を抱きます。
河野氏は、古代伊予を代表する豪族・越智氏の流れをくむとされる一族であり、代々伊予国に勢力を築いてきた名門でした。
南北朝の動乱によって河野氏一門も南朝方と北朝方に分かれて争っていました。しかし、それはあくまでも河野氏一門の内部における伊予の主導権をめぐる争いでした。
そのため、たとえ同じ北朝方であっても、外部から来た細川氏が伊予へ深く介入し、河野氏を押しのけて勢力を広げようとすることは、通盛にとって到底容認できるものではなかったのです。
そしてついに、伊予の主導権をめぐる両者の対立は武力衝突へと発展しました。
興国三年/康永元年(1342年)、河野通盛は一族や郎従を率いて、大保木・天河寺に陣を構える細川頼春軍への攻撃を開始します。
これに対し頼春も大軍を率いて本陣を出陣しました。
そして戦場となったのが、かつて金谷経氏ら南朝方が細川軍と激戦を繰り広げた千丈ヶ原でした。

両軍はこの地で激しく衝突しましたが、戦いは河野方にとって厳しいものとなります。
河野一族十七人は「十死一生」の覚悟で奮戦し、ついに一人残らず討死したと伝えられています。
さらに多くの将兵も戦場に散り、千丈ヶ原の戦いは河野氏にとって大きな痛手となりました。
しかし、この勝利によっても頼春が伊予を完全に掌握したわけではありませんでした。
「北条吉岡の戦い」河野氏の反撃と和睦
当主・河野通盛は兵を立て直し、細川頼春との戦いを続ける決意を固めました。
そして今度は通盛自らが総大将となって軍勢を率い、北条吉岡(現在の松山市北条地区周辺)で細川頼春軍と再び激突します。
両軍は激しい戦いを繰り広げ、河野勢は北条・吉岡方面で細川軍を幾度も迎え撃ちました。
こうした河野軍の執拗な反撃を受けた頼春は、新居郡を経て宇摩郡と讃岐国の国境付近まで後退します。
その後も両軍は国境地帯で数か月にわたって対陣し、一進一退の緊張状態が続きました。
一方、同じ頃、全国各地で南朝方の蜂起が相次ぎ、北朝方は四国の戦いだけに兵力を集中させることができなくなっていました。
北朝方にとっては、河野氏との争いを続けるよりも、各地で再び勢力を盛り返しつつあった南朝方への対応を優先せざるを得ない状況となっていたのです。
やがて将軍家から両者の和睦を命じる御教書が下され、頼春は伊予での戦いを切り上げて京都へ帰還することとなりました。
こうして河野氏と細川氏はひとまず和睦し、伊予を揺るがせた北朝方内部の争いも一旦の終息を見ることになったのです。
北朝最大の危機と細川頼春、最後の戦い
当時の北朝方・室町幕府は、まだ成立して間もない不安定な政権でした。
将軍・足利尊氏(あしかが たかうじ)は各地で続く南朝勢力との戦いに追われ、有力武将たちは一国に留まることなく全国各地を転戦しながら幕府を支えていました。
その中でも細川頼春は、兄・細川和氏(ほそかわ かずうじ)とともに細川氏を率い、四国経略を担う中心人物として重きをなしていました。
阿波を本拠に四国各地で活躍し、伊予攻略を進めた頼春は、足利氏の四国経略を支えた最大級の功臣の一人でした。
また、その武勇だけでなく政治的手腕にも優れ、各地の戦いで重要な役割を果たすなど、北朝方を支える重臣として厚い信頼を集めていました。
こうした働きから、将軍・足利尊氏はもちろん、嫡男の足利義詮(あしかが よしあきら)からも厚い信頼を寄せられていたのです。
しかしその頃、幕府内部では、やがて政権そのものを揺るがす大きな対立が生まれようとしていました。
幕府を揺るがした「観応の擾乱」
室町幕府の草創期、将軍・足利尊氏と、その実弟である足利直義(あしかが ただよし)は、それぞれ異なる役割を担いながら政権を支えていました。
尊氏が軍事や恩賞の決定を担当する一方、直義は行政や裁判を統括し、幕府の実務を取り仕切っていました。
この兄弟による二元的な統治体制は、建武政権崩壊後の混乱を収めるうえで大きな役割を果たし、一見すると安定した政権運営が続いているように見えました。
しかし、その均衡は次第に崩れ始めます。
尊氏の側近として強い影響力を持っていた執事・高師直(こうの もろなお)が勢力を拡大すると、政治方針や人事をめぐって直義との対立が深刻化していきました。
師直は武功を重視して新興武士を積極的に登用したのに対し、直義は既存の秩序や法制度を重んじる立場を取っていました。
両者の対立は単なる個人的な確執ではなく、幕府のあり方そのものをめぐる争いへと発展していったのです。
やがてその争いは幕府全体を巻き込み、将軍家を中心とする尊氏派と直義派に分かれて争う大規模な内乱へ発展しました。
これが後に「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」と呼ばれる戦乱です。
正平五年/観応元年(1350年)、直義が挙兵すると、全国の守護や国人たちも、それぞれの利害や思惑から両派に分かれて戦うようになりました。
ようやく成立したばかりの室町幕府は事実上の分裂状態に陥り、各地で戦乱が相次ぎます。
さらに混乱の中で南朝方へ転じる武将も現れ、これまで劣勢に立たされていた南朝勢力は再び息を吹き返していきました。
そして頼春もまた、足利政権を支える重臣として、この未曾有の動乱の渦中へ身を投じていくことになるのでした。
北朝消滅という未曾有の事態
観応の擾乱はやがて将軍家そのものを巻き込む骨肉の争いへ発展しました。
正平六年/観応二年(1351年)、尊氏と直義は一時的に和睦します。
しかしその和平は長く続かず、再び対立が激化します。
追い詰められた尊氏は、長年敵対してきた南朝の権威を利用して直義を討とうとしました。
この結果成立したのが「正平一統(しょうへいいっとう)」です。
北朝の天皇は廃され、年号も南朝の「正平」に統一されました。
一時的とはいえ北朝は事実上消滅し、室町幕府の権威は大きく揺らぐことになります。
さらに翌正平七年/観応三年(1352年)2月、足利直義が鎌倉で急死しました。
これによって観応の擾乱そのものは終息へ向かいます。
しかし幕府が受けた傷はあまりにも大きく、全国の支配体制は大きく揺らいでいました。
そして、その混乱を南朝方が見逃すはずはありませんでした。
.jpg)
伝足利直義墓(鎌倉市) 撮影:C2revenge(Wikimedia Commons) CC BY-SA 4.0
都に迫る北朝方最大の危機
後村上天皇を奉じた南朝方は、北朝方の室町幕府の弱体化を好機とみて一斉に反撃へ転じます。
楠木正成の遺志を継ぐ楠木正儀(くすのき まさのり)、北畠顕家の弟である北畠顕能(きたばたけ あきよし)ら有力武将が大軍を率いて都へ進軍しました。
南朝軍の勢いは凄まじく、各地で北朝方を撃破しながら都へ迫ります。
当時、将軍・足利尊氏は東国にあり、関東で直義派残党への対応に追われていました。
都を守っていたのは嫡男・足利義詮(あしかが よしあきら)でした。
義詮はすでに幕府政権の中心人物となっており、もしここで討たれれば、足利政権そのものが瓦解しかねません。
実際、この時期の幕府は観応の擾乱によって著しく疲弊していました。
北朝は一時的に消滅し、将軍家は分裂し、各地の守護たちは対立を続けています。
しかも尊氏は東国にあり、都を守るべき兵力も各地へ分散していました。
もはや都を失えば、室町幕府が再起できる保証はどこにもありませんでした。
まさに幕府存亡の危機だったのです。
その危機に立ち向かったのが細川頼春でした。
頼春は義詮を守るため、自ら軍勢を率いて出陣します。
四国各地を転戦し、足利氏の四国経略を支えてきた名将は、今度は将軍家と幕府そのものを守るため、最後の戦いへと向かったのでした。
そして両軍は東寺北方、七条大宮付近(現在の京都市下京区・七条大宮交差点周辺)で激突します。

四条大宮交差点 撮影:photoland(Photo AC)
「心残りは伊予国」細川頼春、壮絶なる最期
戦いは激しい市街戦となりました。
寺院や屋敷が立ち並ぶ都の中で、両軍は入り乱れて戦います。
南朝軍は勢いに乗って猛攻を加え、北朝方も必死に応戦しました。
頼春は総大将でありながら、自ら先頭に立って戦ったと伝えられています。
それは若き日の足利尊氏とともに幾多の戦場を駆け抜け、阿波・讃岐・土佐へと細川氏の勢力を広げてきた、歴戦の名将らしい姿でした。
しかし、戦況は北朝方にとって極めて厳しいものでした。
激戦の最中、頼春は落馬したと伝えられています。
そこへ南朝方の兵が一斉に殺到し、頼春は敵兵に囲まれました。
壮絶な乱戦の末、頼春は深手を負います。
最期を悟った頼春に、家臣たちは「何か思い残すことはありませんか」と問いかけました。
すると頼春は、静かにこう答えたと伝えられています。
「思い残すことといえば、伊予国のことばかりである」
阿波・讃岐・土佐を平定しながらも、河野氏がなお抵抗を続ける伊予だけは、ついに完全に手中へ収めることができませんでした。
四国統一を目前にしながら果たせなかった伊予攻略。
それこそが、頼春にとって最後まで胸に残り続けた悲願だったのです。
家臣たちは「そのことはどうかご安心ください。きっとご子息が志を継がれるでしょう」と頼春を励ましたと伝えられています。
その後、頼春は息を引き取り、その波乱に満ちた生涯に幕を下ろしました。
享年は四十九とも五十四とも伝えられています。
阿波を本拠に讃岐・土佐へ勢力を広げ、伊予攻略を指揮し、北朝方による四国統治の礎を築いた名将。
その最期は、主君・足利義詮を守るための壮絶な討死でした。
細川頼春は最後まで足利将軍家への忠義を貫き、その志を次の世代へ託したのです。
そして、その遺志は嫡男・細川頼之(ほそかわ よりゆき)へと受け継がれます。
やがて頼之は父が果たせなかった伊予平定を目指して四国へ渡り、伊予国をめぐる細川氏と河野氏の戦いは、新たな局面を迎えることになるのでした。
「鳥生貞実と南北朝の記憶」今治に残る北朝武将の足跡
こうした南北朝の戦乱は、七百年近い歳月を経た現在では遠い過去の出来事となりました。
しかし、その激動の時代を生きた武将たちの足跡は、今も伊予各地に数多く残されています。
もちろん、ここ今治にもその痕跡を見ることができます。
その代表的な人物の一人が、北朝方の武将として活躍した鳥生貞実です。
鳥生貞実ゆかりの居館「大祝屋敷」
その鳥生貞実が暮らしていたと伝えられるのが、「大祝屋敷」です。
大祝屋敷は、大山祇神社の最高神職である大祝家ゆかりの居館であり、「鳥生屋敷」とも呼ばれています。
これは、鳥生貞実がこの屋敷を居館としていたことに由来すると考えられています。
もともと大祝家の宗家は、現在の日高地区の別名村に屋敷を構えていましたが、天正五年(1577年)、大祝安人の婿入りに伴って宗家が鳥生へ移り、この大祝屋敷が大祝家の本拠となりました。
残念ながら現在、往時の建物は残されていません。

しかし敷地内や周辺には三島大祝霊碑や墓石、千家墓地跡、河上安固の墓などが残されており、大山祇神社と深く結びついた大祝家と、鳥生氏ゆかりの歴史を今に伝えています。


鳥生貞実の居城「衣干城」
鳥生貞実ゆかりの史跡は、大祝屋敷跡・鳥生屋敷跡だけではありません。
鳥生地区を見下ろす丘陵、現在の衣干八幡大神社が鎮座する場所には、貞実の居城と伝えられる「衣干城(きぬぼしじょう)」が築かれていたといいます。
元弘年間(1331〜1334年)から建武年間(1334〜1338年)にかけて、鳥生貞実がこの地に城砦を構えていたと伝えられており、衣干城は鳥生氏の軍事拠点として重要な役割を果たしていたと考えられています。
当時の伊予では南北朝の争いが激化し、各地の武士たちが山城や砦を築いて勢力を競い合っていました。
周囲を広く見渡すことのできる衣干山は、敵の動向を監視するとともに、地域防衛の要として重要な役割を果たしていたのでしょう。

鳥生氏の菩提寺「広紹寺」
衣干城の南東約500メートルの場所には、鳥生氏の菩提寺として知られる広紹寺(こうしょうじ)があります。
広紹寺は、延元四年/暦応二年(1339年)、伊予国への進出を進めていた細川氏と鳥生貞実の協力によって建立された寺院と伝えられています。
建立地となった場所は、古代伊予を代表する豪族・越智氏の英雄であり、河野氏の祖としても仰がれる越智益躬(おちのますみ)の旧宅跡と伝えられる由緒ある土地でした。
越智益躬は古代伊予において数々の武功を挙げた伝説的人物であり、その名は後世の越智氏・河野氏一族の精神的支柱として語り継がれてきました。
その旧宅跡に寺院を建立したことには、越智氏の歴史と伝統を受け継ぐとともに、北朝方の勢力拡大を背景に築かれた新たな時代を象徴する寺院としての意味も込められていたと考えられています。
また広紹寺は鳥生氏の菩提寺としての役割も担い、大祝屋敷からほど近い場所に建立されました。
さらに開山始祖には、当代随一の高僧として名高い夢窓疎石(むそう そせき・夢窓国師)が迎えられたと伝えられており、広紹寺が当時から高い格式を備えた寺院であったことがうかがえます。
寺名は現在も「広紹寺町」という地名として受け継がれています。

「男山八幡大神社」鳥生貞実が勧請した鎮守
鳥生貞実ゆかりの史跡として、現在も地域の人々の信仰を集めているのが男山八幡大神社(おとこやまはちまんだいじんじゃ)です。
その起源は元寇(蒙古襲来)の時代にまでさかのぼります。
弘安四年(1281年)の弘安の役では、伊予国の河野通有や河野通純らが率いる水軍が九州へ出陣し、元軍との激戦に挑みました。
この戦いを機に武神として崇敬される八幡神への信仰が高まり、翌弘安五年(1282年)、河野氏によって筥崎八幡宮の神霊が伊予各地へ勧請されたと伝えられています。
男山八幡大神社の前身である「樹下鎮守八幡宮」も、その際に創建された一社でした。
そして南北朝時代の延元四年/暦応二年(1339年)。
北朝方の武将として活躍していた鳥生貞実は、京都の石清水八幡宮に祀られる男山八幡大神をあらためてこの地へ勧請し、地域の鎮守としました。
これにより社号も「男山八幡大神社」となり、現在へと続く信仰の礎が築かれたのです。
八幡神は古来、国家鎮護や武運長久の神として朝廷や武士たちから篤く崇敬されてきました。
岩松頼宥や細川頼春に従って各地を転戦した鳥生貞実にとっても、八幡大神は武運を託す精神的な支柱であったことでしょう。

「仏城寺」戦乱の犠牲者を弔う寺
長く続く戦乱によって、多くの人々が命を落としていく現実を目の当たりにしていた貞実は、戦没者の霊を弔い、人々の安寧を祈るため、一寺を建立することを決意します。
その願いに応えたのが、室町幕府を開いた足利尊氏でした。
尊氏は寺領として十町歩余(約10ヘクタール)におよぶ田畑を寄進し、延元四年/暦応二年、仏城寺(ぶつじょうじ)が創建されたと伝えられています。

仏城寺は単なる地方寺院ではありませんでした。
創建に際しては、足利家の家紋である「二ツ引両(ふたつびきりょう)」の使用が特別に許され、足利氏の保護を受ける格式ある寺院として位置付けられていました。
それは同時に、北朝方による伊予支配を象徴する寺院でもあったのです。
現在も境内には足利氏との深いゆかりを伝える歴史が受け継がれ、足利尊氏の位牌が大切に祀られています。

七百年の時を越えて受け継がれる記憶
このように、鳥生貞実が遺した足跡は、今も今治の地に数多く残されています。
それぞれの史跡は、南北朝という激動の時代を生きた鳥生貞実の足跡と、その時代を生きた人々の記憶を、七百年近く経った今も静かに語り継いでいます。
次の記事はこちら:《世田山合戦⑧》父の遺志を継いだ細川頼之と河野通朝 ── 伊予北朝方を二分した決戦「1364年 世田山合戦」