河野氏の運命を変えた兄弟の約束
応永五年(1398年)、病に倒れた河野通義(こうの みちよし・河野通能)は、その死を前に弟・河野通之(こうの みちゆき)へ家督を譲り、一族の将来を託しました。
その相続の経緯は将軍・足利義満のもとへ報告され、翌応永六年(1399年)1月15日、義満は次のような御判を下します。
「伊予国守護職と河野氏代々の所領は、亡き兄・河野通能(通義)の跡を六郎通之が受け継ぐものとする」
この御判により、通之は幕府から正式に河野氏の当主として認められ、伊予国守護職と代々の所領を受け継ぐことになりました。
しかし、通之が受け継いだのは、河野氏の家督そのものではありませんでした。
通義は譲状の中で、もし妻が男子を産み、その子が成長して当主にふさわしい人物となったならば、家督をその子へ返すよう命じていたのです。
つまり、通之に託された役目は、自らの子孫へ家督を継がせることではありませんでした。
兄の遺児が成長するまで河野家を守り、伊予国の政務を担うこと。
それが、通義が弟へ託した最後の願いだったのです。
しかし、この約束がやがて河野氏を二分する激しい内乱の始まりとなることを、この時誰も想像していませんでした。
前回の記事はこちら:《世田山合戦⑫》南北朝時代の終焉を駆け抜けた若き伊予守護「河野通義」
「応永の乱」将軍・足利義満と大内義弘の対立
通之が河野氏の当主として新たな歩みを始めた頃、室町幕府では再び大きな戦乱が起ころうとしていました。
将軍・足利義満は、強大な守護大名の勢力を抑え、将軍権力の確立を進めていました。
すでに康暦の政変では細川頼之を失脚させ、土岐康行の乱では土岐氏の勢力を削減。さらに明徳の乱では、全国六十六か国のうち十一か国の守護職を有し、「六分の一殿」と呼ばれた山名氏を打ち破っています。
その義満が次に警戒したのが、中国・九州地方で巨大な勢力を築いていた大内義弘でした。
大内義弘は周防・長門・石見の守護を務め、九州探題・今川了俊に従って九州の南朝勢力と戦い、その功績によって豊前国の守護職も与えられた有力守護です。
康応元年/元中六年(1389年)には、安芸国の厳島へ参詣した義満を周防国へ迎えて歓待し、その帰京に従って上洛しました。
その後は京都に滞在して幕府への奉公を重ね、元中八年/明徳2年(1391年)の明徳の乱では、幕府方の武将として大きな戦功を挙げます。
この功績によって和泉・紀伊の守護職を新たに与えられた義弘は、周防・長門・石見・豊前と合わせて六か国の守護職を有するまでになりました。
さらに、元中九年/明徳3年(1392年)の南北朝合一にも尽力したとされ、その功績から足利一門に準じるほどの厚い待遇を受けるようになります。
義弘は、義満にとって幕府を支える重要な存在でした。
しかし同時に、広大な領国と強大な軍事力を持つ大内氏は、将軍権力の確立を目指す義満にとって、次第に警戒すべき存在にもなっていったのです。
義満との対立を深める大内義弘
応永元年(1394年)、足利義満は将軍職を実子・足利義持へ譲りました。
しかし、政治の実権は引き続き義満が握っており、太政大臣への就任や出家を経て、公家・武家の双方を超越するほどの権力を築きつつありました。
一方、応永二年(1395年)には九州探題・今川了俊が解任され、その後任として渋川満頼が九州へ派遣されます。
これを機に九州では再び戦乱が起こり、応永五年(1398年)に義弘もその鎮圧のため京都から九州へ向かいました。
義弘は九州の争乱を鎮めたものの、そのまま京都へ戻ろうとはしませんでした。
義満は使者を送り、義弘に京都への上洛を命じます。
応永六年(1399年)10月13日、これを受けた義弘は、多数の軍勢を率いて和泉国堺(現在の大阪府堺市)へ到着しました。
しかし、そのまま堺にとどまり、京都へ入って義満と対面しようとはしませんでした。
京都では、義弘が幕府に反旗を翻そうとしているとの噂が広がります。
義満はあらためて使者を派遣し、上洛して自ら弁明するよう求めました。しかし、義弘は身の危険を感じているとして、これを受け入れませんでした。
この頃には、義弘は義満が自らを滅ぼそうとしているのではないかという疑念を深めていたのです。
義弘はこれまで、九州での戦い、明徳の乱、南北朝合一、さらに九州で再燃した戦乱の鎮圧など、幕府のために数々の功績を挙げてきました。
ところが、少弐氏との戦いで弟・満弘を失ったにもかかわらず、その遺族に十分な恩賞が与えられなかったことや、和泉・紀伊の守護職を奪われるとの噂が広まったことで、義弘は幕府への不信感を募らせていきます。
また、義弘は朝鮮との交易を通じて大きな富を築いており、海外貿易の主導権を握ろうとする義満との間にも利害の対立が生じていたと考えられています。
こうした政治的な対立に加え、互いへの疑念も深まったことで、義満と義弘の関係は修復できないところまで悪化していきました。
「応永の乱の始まり」交渉の決裂
応永六年(1399年)年10月27日、義満は禅僧・絶海中津を正式な使者として堺へ派遣し、義弘の説得を試みました。
絶海中津は、世間の噂に惑わされることなく京都へ上り、義満へ直接申し開きをするよう勧めます。
しかし義弘は、自らがこれまで幕府のために尽くしてきた功績を語ったうえで、義満がその忠節に報いず、自らを滅ぼそうとしていると訴えました。
さらに、鎌倉公方・足利満兼とともに義満の政治を諫める約束を交わしているため、自分だけが京都へ上るわけにはいかないと述べたといいます。
交渉が決裂した義弘は幕府との全面対決を決意し、堺を拠点として徹底抗戦の構えを固めました。
鎌倉公方・足利満兼をはじめ、土岐氏や山名氏の残党、比叡山・興福寺の寺社勢力、さらに菊池氏や楠木氏など、幕府に不満を抱く各地の勢力へ挙兵を呼びかけます。
また、堺の周囲には広大な要害を築き、数多くの井楼や櫓を設けて、幕府軍の襲来に備えました。
これに対して義満は、全国の守護へ大内義弘討伐の命令を下しました。
こうして、後世に「応永の乱」と呼ばれる戦いの幕が切って落とされたのです。
堺をめぐる激戦
堺には三万騎ともいわれる幕府の大軍が押し寄せ、町全体には張り詰めた空気が漂っていました。両軍は互いに陣を構え、今にも決戦の火蓋が切られようとしていたのです。
幕府軍は東・南・北の三方から堺を包囲し、海上には四国・淡路の水軍百余艘が展開して、堺と西国を結ぶ海上交通を遮断しました。
大内義弘の本国である周防・長門と堺を結ぶ瀬戸内海の航路は、援軍や兵糧、武器を送り届けるための生命線でした。
その海路が断たれたことで、本国からの支援は著しく困難となり、大内軍は陸と海の双方から孤立していきます。
もはや大内軍に打開策は残されていませんでした。
応永六年(1399年)11月29日、ついに幕府軍は堺への総攻撃を開始しました。
幕府軍が堅固な要害へ一斉に殺到すると、大内軍は井楼や櫓の上から無数の矢を放って応戦し、戦場はたちまち激しい攻防戦となります。
堺の北側では畠山基国の軍勢が一の木戸、二の木戸を破り、さらに奥の三の木戸へ攻め込みました。
これに対し、大内軍も杉弘信・杉重明・野上豊前らが迎え撃ち、両軍入り乱れて激しい白兵戦が繰り広げられます。
義弘も自ら二百余騎を率いて戦場へ駆けつけ、先頭に立って幕府軍の猛攻を食い止めました。
東側でも京極氏・六角氏・小笠原氏らの軍勢と、義弘の弟・大内弘茂が率いる軍勢が夜まで激しく戦い、堺の各所で壮絶な攻防が続きます。
しかし、大内軍の防備は極めて堅く、幕府軍は堺を攻略することができませんでした。
全国へ広がる戦火
戦いの火の手は、堺だけにとどまりませんでした。
義弘と鎌倉公方・足利満兼の呼びかけに応じ、各地で反幕府勢力が相次いで兵を挙げます。
美濃国では土岐詮直が挙兵し、一時は勢力を広げましたが、幕府方の土岐頼益によって鎮圧されました。
また、丹波国では、明徳の乱で討たれた山名氏清の子・宮田時清が京都への進軍を試みます。
しかし、義満は山名時煕らを差し向け、時清は討死しました。
さらに近江国でも京極氏の一族が挙兵しましたが、これも短期間で鎮圧され、義弘が期待した全国規模の一斉蜂起は実現しませんでした。
各地の反乱が次々と鎮圧されたことで、義弘は堺で完全に孤立します。
一方、幕府軍も正面攻撃だけでは堺を攻略することができず、戦いは膠着状態となりました。
堅固な要害をこのまま正面から攻め続けても、味方の損害が増えるばかり。
そう判断した義満は戦略を大きく転換し、堺の防衛施設そのものを焼き払う火攻めを決断しました。
最後の総攻撃
総攻撃をかけても堺を攻略できなかった幕府軍は、攻撃方法を大きく転換しました。
堅固な要害を正面から攻め続ければ味方の損害が増えるだけと判断した義満は、堺の防衛施設そのものを焼き払う火攻めを決断します。
そして応永六年(1399年)12月21日、幕府軍は強風を利用して井楼や櫓へ一斉に火を放ち、堺への最後の総攻撃を開始しました。
炎は瞬く間に堺の町へ燃え広がり、防衛施設は次々と焼き落とされます。火煙が立ち込めるなか、幕府軍は木戸を乗り越えて大内軍の陣内へ突入しました。
大内軍は必死に防戦しましたが、圧倒的な兵力差を覆すことはできませんでした。杉弘信・杉重明をはじめとする有力武将も相次いで討ち死にし、防衛線は各所で崩壊していきます。
家臣たちは義弘に脱出を勧めました。
しかし、義弘はこれを拒み、自ら手勢を率いて幕府軍へ突撃しました。
激しい乱戦のなか、義弘は最後まで奮戦を続けましたが、ついに討ち死にします。
享年四十二。
総大将を失った大内軍は総崩れとなり、諸将も相次いで討ち死にするか降伏し、堺での戦いは幕府軍の勝利に終わりました。
さらに戦火は堺の町へ燃え広がり、一万軒もの家屋が焼失したとも伝えられています。
こうして応永の乱は、幕府方の勝利によって終結しました。
この勝利によって足利義満の権威は決定的なものとなり、有力守護大名の勢力は大きく後退します。
以後、室町幕府は義満を頂点とする強固な政治体制を築き、その統治体制はさらに安定していくことになりました。
一方、大内氏は当主・義弘を失いましたが、その後は弟・大内盛見(もりはる)が家督を継ぎ、周防・長門を基盤として勢力を立て直します。
そして再び西国屈指の守護大名へと成長し、戦国時代まで西国の政治を左右する名門として存続していくことになるのです。
「越智郡大島をめぐる争い」瀬戸内海をめぐる攻防
応永の乱が終わった翌年の応永7年(1400年)、河野氏の部将である今岡氏・宮内氏らの水軍が、越智郡大島(現在の愛媛県今治市大島)へ攻め入る出来事が起こりました。
大島は伊予国に属する島であり、瀬戸内海の中央部に位置する海上交通の要衝でした。
そのため、古くから河野氏や伊予水軍にとって、瀬戸内海の制海権を左右する極めて重要な拠点でもありました。
しかし、康暦元年(1379年)10月、将軍・足利義満は勲功の恩賞として、大島の地頭職を安芸国の小早川宗平へ与えています。
さらに当時の管領・斯波義将は、伊予守護であった河野通直に対し、小早川氏が大島で持つ権益を認めるよう命じました。
こうして大島は、伊予国に属しながらも安芸国の小早川氏が地頭職を持つという、複雑な統治体制のもとに置かれることになります。
そこへ応永七年(1400年)、今岡氏・宮内氏らが率いる伊予水軍が大島へ侵攻しました。
この行動が河野通之の命令によるものだったのか、それとも現地の水軍勢力による独自行動だったのかは明らかではありません。
しかし、この出来事を受けて小早川氏は幕府へ訴えを起こし、将軍・足利義満は河野通之に対し、小早川氏の権益を侵害することのないよう命じる御教書を発しています。
このことからも、応永の乱が終結した後も、瀬戸内海では海上統治をめぐる争いが続いていたことがわかります。
また、この時代には多くの水軍勢力が瀬戸内海で活躍していました。
その中でも村上氏は、後に能島・来島・因島の三家へと分立し、「村上水軍」として瀬戸内海を代表する海上勢力へと成長していくことになります。
「河野氏の継承」兄との約束を果たした河野通之
河野氏の命運を背負って生まれたその幼子は、通之の庇護のもと、未来の当主として大切に育てられていきます。
犬正丸の元服の時期や初名については、史料によって異なる伝承が残されています。
『予陽河野家譜』では、犬正丸は応永十三年(1406年)正月に湯築城で元服し、「持通」と名乗ったとされています。
この名は、将軍・足利義持から偏諱を受けたものと考えられており、その後、将軍・足利義持の推挙によって朝廷から「刑部大輔」に任ぜられたと伝えられています。
刑部大輔は、本来は朝廷の刑部省に属する次官の官職であり、中世には武士にとって名誉ある称号の一つでした。
一方、『河野氏之世暦調』(加藤友太郎編纂)では、犬正丸は応永九年(1402年)に十五歳で元服し、「通豊」と名乗ったと記されています。
なお、同史料では「河野刑部太輔通豊」と記されており、後世の官職名を付して表記している可能性があります。
元服の時期や初名については史料によって異なりますが、その後、河野氏中興の祖として知られる鎌倉時代の当主・河野通久と同名の、「通久」と改名したと伝えられています。
そして、応永十六年(1409年)に通之は兄との約束を守り、自らの子へ家督を継がせることなく、成長した通久へ家督を譲りました。
一方で、通之は通久へ家督を譲った後も、河野氏の政治から退いたわけではありませんでした。
若き通久を補佐し、伊予国内の政務を支え続けたのです。
その功績から河野一族の深い尊敬を集め、「家殿」と称えられました。
足利義持から義教へ…‥揺れ動く室町幕府
応永十六年(1409年)に家督を継いだ河野通久が活躍したのは、室町幕府第四代将軍・足利義持から、第六代将軍・足利義教に至る時代でした。
その前年の応永十五年(1408年)には、南北朝の合一を成し遂げ、強大な権力を築いた第三代将軍・足利義満が死去しています。
義満の死後、幕政を担ったのが、その子である足利義持でした。
義持は父・義満とは異なる政治を進めながら、長期にわたって幕府を率いました。その治世は室町時代の中では比較的安定していたとされますが、国内の争いがすべて収まったわけではありませんでした。
関東では鎌倉公方と関東管領の対立が続き、西国では有力な守護大名がそれぞれの領国で勢力を拡大していました。
また、応永二十六年(1419年)には、朝鮮王朝の軍勢が対馬へ侵攻する「応永の外寇」が起こるなど、日本を取り巻く情勢も大きく動いていました。
瀬戸内海を挟んで中国・九州地方と向き合う伊予守護・河野氏も、こうした西国の争いや海をめぐる情勢と無縁ではいられませんでした。
応永三十年(1423年)、義持は将軍職を子の足利義量へ譲ります。
しかし、第五代将軍となった義量は病弱で、応永三十二年(1425年)、わずか十九歳で亡くなりました。
その後も義持が実権を握りましたが、義持自身も応永三十五年(1428年)に後継者を定めないまま死去します。
将軍家に後継者がいなくなったため、幕府では義持の弟たちの中から、くじ引きによって次の将軍を選ぶことになりました。
こうして第六代将軍に選ばれたのが、出家して義円と名乗っていた足利義教です。
義教は将軍に就任すると、諸国の守護大名を幕府の命令に従わせ、弱まりつつあった将軍権力を立て直そうとしました。
その政治は次第に強権的なものとなっていきますが、当初は各地の争いへ積極的に介入し、幕府を中心とした秩序を回復しようとしていました。
なかでも、義教が重視した地域の一つが九州でした。
当時の九州では、大内氏・大友氏・少弐氏・菊池氏らが互いに勢力を争い、幕府が置いた九州探題も十分な力を発揮できない状態が続いていました。
九州北部には大陸との交易港である博多があり、その周辺を安定させることは、幕府にとって政治的にも経済的にも重要でした。
義教は西国の有力守護であった大内氏を支援し、九州における幕府の影響力を回復しようとしたのです。
大内盛見は筑前国をめぐって少弐氏・大友氏・菊池氏らと争い、義教の九州政策を支える中心的な存在となっていました。
大内盛見の戦死と九州の混乱
永享三年(1431年)、周防・長門・豊前などに勢力を持っていた大内盛見は、筑前国で大友・少弐勢の攻撃を受けて戦死しました。
幕府の九州政策を支えていた盛見の死によって、大内氏の軍勢は一時九州から後退を余儀なくされます。
さらに大内氏の内部では、盛見の後継者をめぐって、亡き大内義弘の子である持盛と持世が対立しました。
兄の大内持盛は豊前国を拠点に独自の動きを見せ、大内持世との間で家督をめぐる争いを繰り広げます。
そこへ大友氏や少弐氏も介入したため、九州北部の情勢は一層複雑になりました。
将軍・足利義教は大内持世を大内氏の後継者として支援し、持世を中心として九州の秩序を立て直そうとします。
永享四年(1432年)4月、義教は河野通久らに対し、大友氏や少弐氏が幕府の意向に背いて大内持盛を援助した場合には、直ちに出兵して持盛を討伐するよう命じました。
さらに同年10月、大内持世が幕府へ援軍を求めると、義教は伊予・安芸・石見など西国の諸国から軍勢を動員しようとします。
伊予守護であった河野通久もまた、幕府の命令を受けて大内氏を援助する立場となりました。
かつて南北朝の争乱の中で伊予国内の存亡を懸けて戦った河野氏は、この時代になると、幕府の西国政策を支える守護として、瀬戸内海を越えて九州の戦乱へ軍勢を送ることを求められるようになっていたのです。
そして、この九州をめぐる争いは、やがて河野通久自身の運命を大きく変えることになります。
河野通久の最期、そして二つの河野氏へ
永享四年(1432年)以降も九州の戦乱は収まることはありませんでした。
大内持世は兄・持盛との家督争いに勝利して大内氏を統一すると、筑前国へ進軍し、少弐満貞を攻めて肥前方面へ勢力を広げます。
しかし、少弐氏や大友氏はなお各地で抵抗を続け、幕府が望んだ九州の平定は容易には実現しませんでした。
将軍・足利義教は、大内氏を支援して九州支配を確立するため、西国の守護大名にたびたび出兵を命じます。
永享七年(1435年)5月、義教は再び伊予・安芸・石見などの守護へ軍勢の派遣を命じました。
河野通久も幕府の命令に従い、大内持世を援けるため伊予の軍勢を率いて豊後国へ渡ります。
この出兵には、河野氏の重臣である土居通吉をはじめ、多くの伊予武士が従軍していました。
当時の河野氏は、伊予一国を治める守護であると同時に、瀬戸内海の海上交通を支える有力な勢力でもありました。
そのため、九州への渡海や兵站の確保において重要な役割を担い、幕府からも大きな期待が寄せられていたのです。
しかし、大友方は河野軍との正面決戦を避け、巧みな計略を用いました。
河野軍を豊後国の山間部へ誘い込み、敵地の奥深くで包囲しようとしたのです。
通久らは敵を追撃しながら進軍を続けましたが、それは大友方の巧みな誘いでした。河野軍は豊後国の姫嶽城(現在の大分県津久見市付近)まで深入りし、やがて四方を敵軍に囲まれて退路を断たれてしまいます。
河野軍は奮戦しましたが、敵地で孤立した状況を覆すことはできませんでした。
永享七年(1435年)6月29日。
河野通久は、土居通吉ら伊予から従軍した武将たちとともに壮絶な討ち死にを遂げます。
享年四十八。
南北朝の動乱を生き延び、一族を再興した通義の遺児として家督を継ぎ、二十六年にわたり河野氏を支えてきた通久の生涯は、遠く九州の戦場で幕を閉じました。
しかし、その死は一人の当主を失っただけでは終わりませんでした。
通久の後継者はまだまだ若く、その実権をめぐって一族の思惑が再び交錯し始めます。
「河野宗家」と「豫州家」
河野通之には、通元・通高・通篤・通存・通行ら多くの男子がいました。
通之の子らは、父・通之が将軍・足利義満から伊予守護職と本領を安堵され、河野氏の当主として一族を率いた時代を知る世代でした。
そのため、自分たちこそが河野氏の家督を継ぐべき立場にあると考えるようになっていきます。
こうして河野氏の内部には、通義から通久へ続く河野宗家とは別に、通之の子孫へ続くもう一つの有力な家系が生まれることになります。
後に「豫州家」と呼ばれるこの家系は、やがて河野宗家に匹敵する勢力へと成長し、両家は伊予守護職と河野氏の家督をめぐって長きにわたる争いを繰り広げることになるのです。
関連記事はこちら:《河野宗家と豫州家》二つの正統が生んだ約九十年の家督争い
西条市壬生川に残る河野通之の足跡
兄・通義の遺志を守り、幼い通久へ家督を引き継ぐまで、その礎を築いた河野通之。
その足跡は、現在も愛媛県西条市に残されています。
現在の西条市壬生川に鎮座する鷺森神社(さぎのもりじんじゃ)は、中世には河野氏の重要な拠点であった鷺ノ森城(さぎのもりじょう)の跡として知られています。

由緒によれば、文和元年(1352年)、通之の曾祖父にあたる伊予国守護・河野通盛が海岸を埋め立て、この地へ伊勢神宮を勧請しました。
その際に植えられた楠には多くの白鷺が集まり、やがてこの地は「鷺森」と呼ばれるようになったと伝えられています。
応永年間(1394〜1428年)、兄・通義から家督を継いだ河野通之は、伊予守護として国内の統治を進める一方、東予地方の勢力基盤の強化にも力を注ぎました。
当時、東予地方では宇摩郡・新居郡の有力国人の中に、讃岐国の細川氏と結んで河野氏に対抗しようとする動きが見られるようになり、東予地方は河野氏の勢力を左右する最前線となっていました。
そこで通之は、東予を守る境目の城として鷺ノ森城を築かせ、温泉郡の桑原城(現在の愛媛県松山市桑原・桑原寺付近)を本拠としていた家臣・桑原河内守通興(くわばら かわちのかみ みちおき)をこの地へ移住させます。
通興はその後、この地名にちなみ「壬生川氏」を名乗りました。
その子孫は代々鷺ノ森城を守り、道前地方の鎮撫を担う河野氏の有力家臣として活躍し、後世には河野十八将の一つに数えられるようになります。
戦国時代に入ると、鷺ノ森城は新居郡の金子氏や周布郡の黒川氏との激しい攻防の舞台となりました。
元亀二年(1571年)には金子氏・黒川氏の猛攻によって落城の危機を迎えましたが、毛利氏と来島氏の援軍によって危機を乗り越えました。
翌元亀三年(1572年)、阿波国の三好氏が伊予へ侵攻すると、河野通直は鷺ノ森城を本陣として迎え撃ち、西条市氷見付近で三好軍を破ったと伝えられています。
この戦いでは、それまで敵対していた黒川氏も河野方に加わり、ともに三好軍を退けました。
しかし、天正三年(1575年)、再び金子元宅・黒川通博らの軍勢が鷺ノ森城を攻撃します。
城主・壬生川通国は城外の大曲で討ち死にし、その後、鷺ノ森城は金子氏の勢力下に置かれることとなりました。
そして天正十三年(1585年)、豊臣秀吉による四国平定では、小早川隆景率いる豊臣軍の攻撃によって落城し、約二百年にわたり東予の最前線を守り続けた鷺ノ森城は、その歴史に幕を下ろしました。
現在、往時の城郭は残されていませんが、神社の周囲には堀の名残とされる水路が残り、境内には社伝に伝わる大楠が、今も変わることなく雄大な姿を見せています。

兄・通義の遺志を守り、一族の未来をつないだ河野通之。
乱世の中で託された使命を最後まで果たしたその生涯は、河野氏再興の礎を築いた、かけがえのない歩みとして歴史に刻まれています。
