伊予を二分する南北朝動乱の幕開け
当時の伊予国は、瀬戸内海航路を押さえる軍事・交通・海上輸送の要衝でした。
そのため、西国支配を進めるうえで極めて重要な地域とされ、南朝・北朝の双方が強い関心を寄せていました。
特に、伊予最大の武士団であり、瀬戸内海に強い影響力を持つ河野氏の動向は、西国の戦局そのものを左右すると言っても過言ではありませんでした。
建武政権が崩壊すると、多くの武士たちは後醍醐天皇ではなく足利尊氏を支持するようになります。
武士による政権運営を望む声は強く、「武士の世は武士の手で守るべきだ」という考えが広がる中、西国の有力武士たちも次々と尊氏の陣営へ加わっていきました。
河野氏の当主・河野通盛(河野通治)もまた、本領回復の大恩を受けた尊氏への忠誠心に加え、家中において北朝方を支持する声が強かったことから、尊氏を擁する北朝方に与します。
そして、それまで本拠としていた河野郷の居館(現在の善応寺周辺)から、新たに湯築城へ本拠を移し、伊予国統治の強化を進めていきました。
延元元年/建武三年(1336年)、足利尊氏が九州から再び攻め上って来た時、通盛および一族郎従たちは、村上義弘とともに、兵船七百余艘、兵八千余騎を率いて参陣しました。
通盛らは兵庫・和田崎の戦いで戦功を挙げ、さらに西宮方面でも新田義貞軍を破るなど、北朝方の勝利に大きく貢献しました。
こうした功績が高く評価され、通盛は伊予守護に補任されます。
さらに延元二年/建武四年(1337年)には、新天皇即位の際に東寺から供奉する栄誉にも浴し、京都における軍事行動でも度々軍忠を尽くしました。
その功績によって尊氏・直義兄弟や幕府から与えられた判物(公式文書)は二十通余りに及んだと伝えられています。
一度は没落の淵に立たされた河野氏でしたが、通盛の代に再び伊予守護として復活を遂げ、北朝方における西国有数の有力守護としてその地位を確かなものにしていったのです。
しかし、そんな河野氏も決して一枚岩ではありませんでした。
実は伊予には、河野通盛とは別に「自らこそ正統な河野氏である」と主張する一族が存在していたのです。
前回の記事はこちら:《世田山合戦②》国家を二分した大騒乱「南北朝時代」の幕開け
二つの「河野惣領」と伊予国分裂
その発端となったのが、承久三年(1221年)の承久の乱でした。
この戦いで、河野通信の子である通政・通末、孫の通秀らは後鳥羽上皇方として挙兵しますが、最終的に幕府軍に敗北します。
その結果、河野通信は奥州へ配流となり、多くの所領も没収されました。
こうして河野氏嫡流は大きく没落することになります。
しかし、通信の庶子であった河野通俊(みちとし)は処分を免れ、その後は周桑郡得能郷(現在の西条市丹原町周辺)に土着して勢力を保ちました。
この通俊の系統は、本拠地の名にちなみ「得能氏」と名乗りました。
通盛が伊予へ帰国した頃にも、得能郷にはこの通俊の系譜がなお勢力を保っていたのです。
また河野氏には、得能氏以外にも各地へ分かれた庶流が数多く存在していました。
なかでも有力だったのが、久米郡土居(現在の松山市南土居町周辺)を本拠とした河野氏の庶流・土居(どい)氏です。
土居氏は、元寇で活躍した河野通有の弟・通成を祖とする一族で、得能氏と並び、伊予有数の国人勢力へと成長していました。
南朝が認めた河野氏の正統・得能通綱
そして南北朝時代になると、得能氏と土居氏は後醍醐天皇を奉じる南朝方(吉野朝廷)の中心勢力となりました。
後醍醐天皇による建武政権は、幕府方であった河野通盛の所領を没収し、得能通綱(とくのう みちつな・得能備後守通綱)に、、河野通信以来の旧領を与え さらに 河野氏惣領にも任じました。
惣領(そうりょう)とは、一族を統率する正統な当主の地位を意味します。
つまり南朝方は、得能通綱こそ河野氏の正統な後継者であると認めていたのです。
また、同じく一族の土居通増(どい みちます・土居備中守通増)も重用され、得能氏とともに伊予における南朝方の中核勢力として位置付けられました。
この二人は、元弘の乱以来、後醍醐天皇方として戦い続けた南朝方屈指の武将でした。
元弘3年(1333年)には伊予で挙兵し、忽那重清らとともに伊予守護・宇都宮貞宗の府中城を攻略したほか、長門探題・北条時直を幾度も打ち破るなど、伊予における倒幕運動の中心的役割を果たしています。
建武政権成立後も南朝方として各地を転戦し、土居通増は湊川の戦いにも従軍しました。
そして建武3年(1336年)、新田義貞が北陸で南朝勢力の再建を図ると、土居通増・得能通綱もこれに従って越前へ向かいます。
土居通増の最期
しかし北陸での戦いは苛烈を極めました。
土居通増は越前荒乳(あらち)で斯波高経(しば たかつね)率いる北朝軍の襲撃を受けます。
折しも予想外の降雪による厳しい寒さと兵糧不足に苦しむ中での戦いでした。
通増はなおも奮戦しましたが、ついに刀折れ矢尽き、一族とともに壮絶な最期を遂げたと伝えられています。
得能通綱の最期
一方の得能通綱は敦賀の金ヶ崎城へ入り、尊良親王や新田義顕らとともに最後まで抗戦を続けました。
しかし城は北朝方の大軍に包囲され、兵糧攻めの末に落城します。
得能通綱もまた南朝への忠節を貫き、金ヶ崎城で壮絶な最期を遂げました。
「正四位追贈」今なお受け継がれる忠義
南朝に尽くしたその忠節は後世まで高く評価され、明治14年(1881年)、土居通増・得能通綱には正四位が追贈されました。
また、西条市土居町の土居城跡(現在の萬福寺)や西条市丹原町には、両名を顕彰する供養塔が建立されています。


さらに、河野氏が道後に築いた本拠・湯築城(現在の湯築城跡・道後公園)に鎮座する岩崎神社には、河野氏の祖・小千命をはじめ、河野家代々の霊とともに、土居通増・得能通綱も祭神として祀られています。
その忠節は、南朝に殉じた両雄の名とともに、今なお地域の歴史の中に受け継がれているのです。
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「二つの河野惣領」分裂する伊予国
このように土居氏・得能氏は、河野氏の名を背負い、南朝方の旗頭として戦い続けていました。
しかし、南朝が認める河野惣領が存在する一方で、北朝にもまた河野惣領がいました。
それが、伊予へ帰還し、足利尊氏率いる室町幕府の支援を受ける北朝方の河野惣領・河野通盛だったのです。
こうして伊予国では、北朝が正統と認める河野氏宗家・河野通盛と、南朝が河野惣領に補任した得能氏という、二つの河野惣領家が並び立つことになります。
南北朝の正統争い、瀬戸内海の支配権、伊予守護職、そして河野氏の家督継承問題。
それらが複雑に絡み合ったことで、伊予国は南朝・北朝双方の勢力が激しく争う最前線となっていったのです。
伊予に派遣された「三親王」
後醍醐天皇は足利尊氏の北朝方勢力を各地で食い止めるため、自らの皇子たちを地方へ派遣し、それぞれの地で南朝方の拠点を築かせました。
皇子の存在は単なる軍事的な意味にとどまりません。
天皇の血統そのものが「南朝こそ正統である」という象徴となり、在地武士たちを結集させる大きな求心力となったのです。
なかでも瀬戸内海の海上交通を押さえ、西国戦略の要衝であった伊予国は、南朝にとって決して失うことのできない重要拠点でした。
そこで後醍醐天皇は、延元元年/建武三年(1336年)11月11月に以下の三親王を派遣しました。
- 満良親王(みつながしんのう)
後醍醐天皇の第十一皇子。母は藤原忠子(中院流藤原氏の出身)と伝えられます。 - 懐良親王(かねながしんのう)
後醍醐天皇の第十六皇子。母は阿野廉子(新待賢門院、後醍醐天皇の寵妃)で、正嫡の血筋に属する皇子です。 - 尊真親王(そんしんしんのう)
後醍醐天皇の第六皇子。出家して「蓮明親王」とも称されます。母は藤原氏の出身と伝えられますが、詳細は明らかではありません。
三親王は、後醍醐天皇から四国・九州の平定を託される「征西将軍(せいせいしょうぐん)」に任命され、朝廷の命運を背負う精鋭の家臣団を従えて伊予国へと渡りました。
その一行の中には、岡部忠重(のちの重茂山城主)、神野頼綱(のちの怪島城主)、神野十郎通頼(のちの弓杖島城主)といった、親王が最も信頼を寄せる側近たちを含む四十人余りの屈強な武士たちが名を連ねていました。
これらの武士たちは、単に親王の身辺を守るだけでなく、伊予の国人を南朝方へと巻き込み、反撃の矢面に立って戦線を切り拓いていく実戦部隊としての重責を負っていたのです。
「大館氏明」伊予守護
三親王に従って伊予へ下向した武将の中で、特に重要な存在だったのが大館氏明(おおだちうじあき)です。
氏明は義貞より年長であったとみられ、新田一門の中でも数々の戦場をくぐり抜けてきた歴戦の将、いわゆる「宿将」として厚い信頼を受けていました。
延元元年/建武三年(1336年)、後醍醐天皇が京都を脱出して吉野へ移った際、いち早く馳せ参じた功績によって、南朝方の伊予国守護に任じられ、伊予へ移住することになったのです。
「篠塚重広」新田四天王筆頭の猛将
その氏明と並び、三親王を支えた武将の中でひときわ名を知られたのが篠塚重広(しのづか しげひろ)、または篠塚伊賀守広重(しのづか いがのかみ ひろしげ)です。
重広は篠塚に生まれ、新田義貞の鎌倉攻めで勇名を轟かせ、新田四天王(栗生顕友・畑時能・由良具滋・篠塚重広)の中でも、筆頭格として知られていました。
超武辺者として当代随一の武勇を誇り、その名は敵味方を問わず広く知られていました。
大館氏明とともに三親王を支える軍事的支柱となり、その後の伊予における南朝方勢力の中核を担っていくことになります。
「四条有資」伊予国司として南朝を支えた公家武将
藤原北家の流れをくむ名門公家・四条家の出身で、四条有資(しじょう ありすけ)も南朝の伊予国司としてこれに加わっていました。
有資は後に宇和荘を拠点として兵を集め、忽那島へ渡って自ら合戦の指揮を執るなど、伊予における南朝方の政治・軍事両面の中心人物として活躍していくことになります。
また、後醍醐天皇の後を継いで南朝を率いた後村上天皇や、九州経営を担った懐良親王と伊予の武士たちを結ぶ重要な役割を担うなど、南朝朝廷の意向を西国へ伝える窓口としても大きな存在感を発揮していきました。
伊予の大井の浜に響いた南朝の旗
延元元年/建武三年(1336年)11月、長い船旅を経て三親王一行の船団は伊予国へ到着しました。
一行は野間郡大井浦沖に浮かぶ弓杖島(ゆづえしま・古名:弓津恵島)や景島(かげしま・別名:怪島)に船を寄せた後、大井の浜(現在の愛媛県今治市大西町大井浜)へ上陸します。


南朝方の伊予拠点となった大井の寺院群
この上陸を迎えたのは、南朝方の有力武将であり、南朝から河野氏惣領として認められていた得能通政(河野通政)でした。
通政は、伊予国守護を務めた得能通綱(河野通綱)の孫であり、得能通言(河野通言)の嫡男として得能氏を率いていました。
当時の伊予における南朝勢力の中心人物の一人であり、土居氏とともに南朝方の基盤を支えていた存在でもあります。
得能通政は大井寺、法隆寺、清林寺を仮宮として整え、伊予へ下向した三親王を丁重に迎え入れました。
当時の大井浦は燧灘に面した天然の良港であり、瀬戸内海航路の要衝でもありました。
さらに周辺には古くから栄えた寺院が点在し、得能通政ら南朝方勢力の基盤も存在していたため、三親王を迎える拠点として極めて適した土地だったのです。
「大井寺」
大井寺は、現在は今治市大西地区山之内に所在する古刹ですが、かつては法隆寺の場所に建立され、その後、大井八幡大神社付近に移設されたと伝えられています。
「清林寺」
清林寺は、行基菩薩によって大井寺(明堂菩薩本寺)が創建された後、その流れを受けて宝亀十年(779年)8月に「明堂菩薩本寺清林寺」として開創されたと伝えられます。
大井寺と同じく清林寺も、当初は特定の宗派に属さない「無宗」の寺院であり、衆生済度を目的とした道場的な性格を強く備えていました。
宗派の枠にとらわれず、地域社会に広く開かれた祈りと救済の場であったと考えられます。
「法隆寺」
法隆寺は、大井八幡大神社に隣接する寺院で、弘仁六年(815年)、弘法大師(空海)が四国巡錫の折に創建したと伝えられています。
空海は当地で地蔵菩薩を自ら刻み、本尊として安置したとされ、そのため庶民救済の祈願寺として篤い信仰を集めました。
さらに、貞観元年(859年)には大徳行教上人によって伽藍の整備が進められ、地域における宗教的拠点としての姿を整えました。
詳細は不明ですが、元々は宮脇の寺谷の場所に建立されていたとされ、後の時代に現在の場所に移されたとされています。
北朝方の夜襲と三親王の危機
三親王が伊予の地に滞在したことは、南朝方の軍勢にとって大きな精神的支えとなり、伊予勤王軍の士気は大いに高まりました。
満良親王・懐良親王・尊真親王という皇族を迎えたことで、伊予は南朝の重要拠点の一つとなり、多くの武士たちがそのもとへ集まり始めます。
しかしその一方で、皇族を擁する南朝勢力の拠点が伊予に築かれたことは、北朝方にとって見過ごすことのできない重大な脅威でもありました。
延元元年/建武三年(1336年)12月19日の夜。
増援の招集や各地との連絡のため、多くの家臣たちが周辺へ出向いていた隙を狙い、北朝方の兵三十余名が大井の仮宮へ突如として夜襲を仕掛けます。
突然の襲撃に対し、僧侶でありながら大井寺の義泰法印は、清林寺の成戒法印、法隆寺の成道法印らとともに武器を手に取り、僧兵さながらに激しく応戦しました。
しかし敵は不意を突いた奇襲であり、多勢に無勢でした。
義泰法印らは奮戦の末に討死し、残っていた将兵たちも次々と命を落とします。
こうして三親王の陣営は壊滅的な打撃を受け、伊予へ下向して間もない南朝勢力は、早くも存亡の危機に直面することとなったのです。
夜襲後に分かれた三親王の道
幸いにも三親王の命は守られたものの、尊真親王は深手を負い、これ以上この地に留まり続けることは、あまりにも危険な状況でした。
仮宮はすでに北朝方の目標となっており、再び襲撃があれば三親王の命運は尽きかねないと家臣団は強く危惧したのです。
そこで、三親王はそれぞれの将来と南朝再興の大義を考え、やむなくこの地を離れる決断を下しました。
「満良親王」浮穴郡へ退避
大井浦での夜襲を辛くも逃れた満良親王は、北朝方の追撃を避けるため浮穴郡(うけなぐん)へと移りました。
浮穴郡は、現在の松山市南部から東温市、久万高原町、砥部町、伊予市、内子町の一部にまたがる広大な地域で、山岳地帯と盆地が入り組んだ天然の要害でもありました。
古くから南予と中予を結ぶ交通の要衝でもあり、山中には在地武士や修験者の活動拠点も多く存在していたことから、北朝方の追及を避けるには格好の土地でした。
満良親王は、庇護を受けながら各地を転々とし、南朝再興の機会をうかがったとされています。
こうした満良親王の足跡は、現在も愛媛県内各地に伝承として残されています。
今治にもその記憶は受け継がれており、玉川町の楢原山(ならばらさん)山頂に鎮座する奈良原神社の境内社「壬生川上神社(みぶかわかみじんじゃ・勝手明神)」は、満良親王を祀る神社として知られています。
壬生川上神社は、別名「勝手明神」とも呼ばれ、修験道の信仰が篤く、後醍醐天皇の皇子・満良親王(みつよししんのう)を御祭神として祀る神社です。
満良親王は伊予へ下向した後、この地で活躍したと伝えられており、その遺徳を偲んで御祭神として祀られるようになりました。
また「勝手明神」の名は、南朝の本拠地であった大和国吉野の勝手神社(勝手明神)信仰に由来するとされ、壬生川上神社もその系譜を受け継ぐ神社として信仰されてきました。
なお、「勝手」とは古くは「入り口」や「始まり」を意味する言葉とされ、人々は勝手明神を新たな物事の始まりを守護する神として崇敬してきたのです。

「懐良親王」瀬戸内海を渡って九州へ
懐良親王は瀬戸内海を拠点とする有力な海賊衆の庇護を受けることになります。
村上水軍の大将・村上義弘は、新居浜の新居大島に居館を構え、そこに懐良親王を迎え入れ、一年間にわたり厳重に警護しました。
その後は忽那水軍(くつなすいぐん)の大将・忽那義範が松山沖の忍那島に迎え、三年間にわたり匿いました。
この両水軍は瀬戸内を支配する強大な勢力であり、親王を守り抜くことは南朝方にとっても大きな意味を持っていました。
やがて興国三年/康永元年(1342年)、14歳に成長した懐良親王は、豊後水道を経て九州へと送り届けられました。
伊予で守り抜かれた若き親王の命は、やがて九州における南朝再興の大きな支えとなっていくことになります。
「尊真親王」この地に残り戦い続けた皇子
尊真親王は大井醍醐宮を拠点にこの地で戦い続けることを選びました。
四条少将らの忠実な護衛を受けながら、阿波・讃岐両国に勢力を張る北朝方を討ち払おうと軍を整えました。
しかし、負った傷は癒えることなく次第に病のように体を蝕み、思うように戦を指揮することも困難となりました。
それでも親王は南朝方の旗頭として最後まで奮起し続けましたが、延元三年/暦応元年(1338年)3月8日、ついに力尽きて崩御されました。
尊真親王の死後も、伊予国は混沌とした戦乱の渦中にあり続けました。
南朝方と北朝方はそれぞれ兵を集めながら勢力の拡大を図っていきました。やがて両軍の対立は決定的なものとなり、伊予の未来を懸けた大決戦へと向かっていくことになります。
大西に残る尊真親王の足跡
激動の南北朝時代、この地で最期の時を迎えた尊真親王。
志半ばで崩御されたその御霊(みたま)は、この地の人々によって代々、厚く祀られてきました。
それは数百年の歳月が流れた現在も続けられており、地域の人々による篤い信仰の灯火は絶えることなく、今なお大切に守り伝えられています。
「法隆寺」親王を葬送した寺院
尊真親王の亡骸は、別当寺であった法隆寺(ほうりゅうじ)が神主と協力し、藤山(現・藤山健康文化公園)にある「脇の宮」で丁重に葬られたと伝えられています。
法隆寺ではさらに、阿弥陀如来・普賢菩薩・文殊菩薩の三尊を造立し、親王の御霊を慰める供養を行いました。
この出来事を後世に伝えるため、法隆寺では毎年三月八日に法会を営み、尊真親王への供養を続けています。

「尊真親王御陵墓」静寂に眠る皇子の祈り
尊真親王が葬られた藤山(現・藤山健康文化公園)は、古くから地域の人々に尊ばれてきた聖域で、「御陵の山」と呼ばれていました。
御陵は現在「尊真親王御陵墓」として宮内庁によって厳重に管理されており、静寂の中に往時の歴史を伝える場となっています。

「明堂さん」清林寺旧跡に見る南朝の面影
清林寺(大井醍醐宮)の旧跡は「明堂」と呼ばれ、後にその地には小堂が建てられました。
地域の人々からは「明堂さん」と親しまれ、この小堂には聖観世音菩薩(または阿弥陀如来・普賢菩薩・文殊菩薩)が安置されました。
尊真親王の菩提を弔うために祀られたこの尊像は「明堂本尊」「明堂菩薩(明堂観音菩薩)」とも呼ばれ、今なお人々の信仰を集め続けています。

「大井寺」再建に込められた忠義の心
大井寺はこの戦いで焼失しましたが、天正年間(1573~1592)に河野一族の重茂山城主・岡部忠重が、尊真親王の御霊を慰めるため明堂の地に聖観音菩薩像を安置し、七堂伽藍を備えた壮麗な寺院として再建しました。
その後、再び兵火によって焼失したものの、岡部忠重は城の鬼門除けとするため、現在の地に改めて大井寺を建立したと伝えられています。

「大井八幡宮」尊真親王の御霊を祀る
尊真親王の御霊は大井八幡宮(大井八幡大神社)に合祀され、今なお厚い崇敬を集めています。
大井八幡社は古くから地域の鎮守として人々の信仰を受けてきましたが、尊真親王の御霊が祀られたことによって、単なる氏神の社にとどまらず、南北朝の動乱を偲ぶ歴史的な聖地としての性格を帯びるようになりました。

「衣笠妙見神社」尊真親王の御霊を祀る社
尊真親王の御霊を祀る社は、大井八幡宮(大井八幡大神社)だけではありません。
今治市大西町山之内に鎮座する衣笠妙見神社(きぬがさみょうけんじんじゃ)もまた、尊真親王を祭神として祀る神社として伝えられています。
地域では古くから「妙見さん」と親しまれており、その名のとおり妙見信仰と結びついた社ですが、一般的な妙見神社が北辰妙見大菩薩や天之御中主神を祀るのに対し、この神社では尊真親王の御霊が祀られていると伝承されています。
大井の地で北朝方と戦い続け、傷を負いながらも南朝方の旗頭として生涯を全うした尊真親王。
その忠節と悲劇的な最期は人々の心に深く刻まれ、やがて親王を守護神として崇敬する信仰が生まれたのでしょう。
衣笠妙見神社が鎮座する山之内一帯は、かつて重茂山城が築かれた地域でもあり、南北朝以来の歴史や伝承が数多く残されています。
そのため同社は、単なる妙見信仰の社ではなく、尊真親王の記憶と南朝の歴史を今に伝える貴重な祈りの場として受け継がれてきました。

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