瀬戸内海に面する今治城
IMABARI CASTLE / EHIME
IMABARI CASTLE / HISTORY

今治城を知って
今治を知る

海辺に生まれた一つの城から、現在の今治へ。

城とともに港が整い、町が生まれ、人々の暮らしが広がった。
その記憶は、今も今治の町に残っています。

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今治城の歴史を、気になる方へ。

1600 / TAKATORA ARRIVES

藤堂高虎
今治へ

関ヶ原の戦いを経て、 藤堂高虎は今治へ入りました。 ここから、今治城と城下町へつながる新しい歴史が始まります。

しかし、このとき高虎が最初に入ったのは、
現在の今治城ではありませんでした。

最初の拠点となったのは、 現在の桜井・唐子山にあった国分山城。 高虎はまず山城を拠点とし、 そこから次の城づくりへと動き始めます。

今治城の藤堂高虎像
TODO TAKATORA / IMABARI
今治城に立つ藤堂高虎像
1600
IMABARI / BEGINNING

「山から海辺へ」

高虎が今治で最初の拠点とした国分山城から、 新たな築城地となる海辺へ。 この章では、今治城誕生の直前に起きた 「山から海への移動」をたどります。

現在の唐子山・国分山城跡 KOKUBUYAMA / SAKURAI
01 / KOKUBUYAMA CASTLE

高虎が最初に入った
唐子山の国分山城

国分山城は、周囲を見渡すことのできる山上の城でした。 高虎も今治へ入った当初、この城を拠点として領国経営を始めます。

ただし、関ヶ原を境に時代は大きく変わろうとしていました。 戦うための山城だけでなく、政治や物流、商業を支える新しい城が求められるようになります。

城に必要なのは、
「守る場所」だけではなくなっていく。

港を整え、船で物資を運び、平地に大きな城下町をつくる。 そのためには、山上の国分山城とは異なる新しい場所が必要でした。

唐子山から望む今治市街と瀬戸内海
FROM THE MOUNTAIN TO THE SEA

山の上から、その先に広がる海へ

A NEW CENTER

戦の城ではなく
新しい都市の中心

瀬戸内海を行き交う船を利用すれば、 人や物資をより効率よく集めることができます。

さらに平地であれば、武家地や町人地、道路、寺院を計画的に配置し、 城を中心とした大きな城下町を形成することもできます。

山城から、
海と町を結ぶ城へ。

こうして高虎は、 現在の今治城が建つ海辺、 「小田の長浜」と呼ばれた一帯へ目を向けていきます。

A REGIONAL CONSTRUCTION PROJECT

今治城築城

海辺に巨大な城を築くには、 石垣を積む石、建物を建てる木材、土地を造成する土砂、 そしてそれらを運び、組み上げる多くの人の力が必要でした。

そのため築城資材は、 国分山城だけでなく、周辺の旧城や寺院、 さらに瀬戸内海の島々からも集められたと伝えられています。 とくに石垣に用いる築石は、小船や石船によって海を渡り、 海辺の築城地へ運び込まれました。 今治城は一つの場所だけで生まれたのではなく、 周辺地域と島々を巻き込んだ大規模な普請によって形づくられていきました。

1602
CONSTRUCTION BEGINS

築城開始

国分山城から海辺の「小田の長浜」へ。 藤堂高虎が新しい城の建設に着手すると、 今治の山、島、寺院、そして多くの人々が動き始めました。

MATERIALS / CASTLES / TEMPLE

古い城と寺の一部が
新しい今治城へ

新しい城を築くため、 それまで地域にあった建物や石垣の資材が 新たな築城地へ集められていったと伝えられています。

STONES ACROSS THE SETO INLAND SEA

石は、海を渡って今治へ

今治城の石垣を築くための石材は、 国分山城など陸側の旧城だけではなく、 芸予諸島の島々からも船で運ばれたと伝えられています。 海城を築く工事そのものが、瀬戸内海の海運と深く結びついていました。

瀬戸内海を渡って運ばれる築城石を描いた資料画像
STONE TRANSPORT / SETO INLAND SEA
島で切り出された石は、船に載せられ、海を越えた。
OSHIMA

大島

良質な花崗岩を産する島。 大島の石は、今治城築城に用いられたと伝えられています。

HAKATAJIMA / KITAURA

伯方島・北浦

北浦の人々は水軍時代の経験を生かし、 小船で築石を運び、石積みにも携わったと伝えられています。

SEKIZEN AREA

関前方面

愛媛県史には、関前の石材も切り出され、 小舟に載せて今治へ運ばれたとする記述が残されています。

DESTINATION

小田の長浜
─ 今治城築城地

島で切り出された石は、 小船や石船によって瀬戸内海を渡り、 現在の今治城が建つ海辺へ集められていきました。

※島の石材利用については伝承・地域史料を含みます。 『愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)』には、 伯方島北浦の人々が小船で築石を運び石積みに携わったこと、 国分山城の石垣に加えて関前の石材を切り出し、 小舟で運んだと伝えられることが記されています。 また大島の石も今治城築城に使われたと伝えられています。 これらは『愛媛県史』などの地域史料・伝承に基づく紹介です。
PEOPLE / LABOR / KIYAMA ROKUNOJO

城を築いたのは
資材だけではない

KIYAMA ONDO

築城の現場から生まれたと伝わる
「木山音頭」

今治城の普請奉行として築城工事を支えた人物の一人が、 木山六之丞です。 地元の地形や潮の流れに通じ、 人夫や職人をまとめながら工事にあたったと伝えられています。

海辺の軟弱な土地では、 地面を繰り返し突き固める地固めも重要な作業でした。 そこで人々が調子を合わせて働けるように歌われたと伝わるのが、 後の「木山音頭」です。

厳しい普請の現場で
人々の声と足拍子が一つになった

築城のための作業歌として語り継がれた音頭は、 やがて今治の盆踊りとして受け継がれ、 現在のおんまくでも踊られています。

藤堂高虎 TODO TAKATORA / IMABARI
1608 TURNING POINT

藤堂高虎が
今治を去った日

慶長13年(1608年)、藤堂高虎は伊勢・伊賀へ転封となり、 築き上げた今治城と城下町をあとにしました。 今治には藤堂高吉が残り、城と領地を引き継ぎます。 ここから、高虎自身の歩みと今治城の歴史は、 それぞれ別の道へ進んでいきます。

PATH 01 / AFTER IMABARI

その後の高虎の歩み

今治を離れた高虎は、伊勢・伊賀へ移り、 その後も徳川政権を支える大名として歩み続けました。 その足跡は、やがて江戸・上野へとつながっていきます。

1608
伊勢・伊賀へ転封

高虎は今治を離れ、新たな領地へ移ります。

江戸初期
徳川政権を支える大名へ

天下普請などを通じて幕府を支え、 江戸にも藤堂家の歴史を残していきました。

1630
江戸で生涯を終える

高虎は江戸で75年の生涯を閉じました。

東京・上野の寒松院
KANSHOIN / UENO, TOKYO

高虎の歴史は、
江戸・上野へ

高虎は江戸・上野に寒松院を創建し、 藤堂家の菩提寺としました。 今治城を築いた人物の歴史は、 今治を離れた後、遠く江戸へと続いていきます。

KANSHOIN → UENO TODAY

寒松院の旧境内

高虎の菩提寺となった寒松院の旧境内地は、 明治以降の上野公園整備を経て、その一部が現在の上野動物園となりました。 そして、その園内に藤堂家墓所が残されています。

現在の上野動物園
PRESENT DAY / UENO ZOO

現在の上野動物園

かつて寒松院の境内だった場所の一部は、 現在、多くの人が訪れる上野動物園となっています。 その園内の一角に、高虎へと続く場所が残っています。

上野動物園内に残る藤堂高虎の墓・藤堂家墓所 INSIDE UENO ZOO / TODO FAMILY GRAVES
TAKATORA’S RESTING PLACE

園内の
藤堂高虎の墓所

藤堂家墓所は、かつての寒松院境内に築かれました。 周囲が上野動物園へと姿を変えた現在も墓所は旧境内地に残り、 高虎が生きた時代の記憶を今へ伝えています。

藤堂家墓所を詳しく見る
藤堂家墓所
一般非公開の墓所

高い塀と門に囲まれ、現在も保存されています。

BOOK GUIDE
created by Rinker
諏訪勝則 (著)藤堂高虎はじめての本格的通史! 卓越した築城術、秀長・家康に愛された人間力。 「我れ亡き後、国家に万一のことあれば高虎を先鋒とせよ」と、 家康が絶大な信頼を寄せた戦国随一の〝猛将〟の実像とは。
CASTLE TOWN PLANNING

高虎がつくった
今治の形

今治城の築城と並行して、その周囲では新しい城下町の整備が進められました。 武家地、町人町、港、堀、水路、そして寺町。 海辺の城を中心に、人が暮らし、物が集まり、船が行き交う 新しい都市・今治の骨格がつくられていきます。

THE SIX MERCHANT QUARTERS

本町を軸に
海と内陸へ町が広がる

慶長8年(1603年)頃から、高虎は今治城下の町人町の町割を進めました。 三之丸北門・辰之口へ続く本町を中心に、 室屋町、米屋町、風早町、中浜町、片原町などが配置されていきます。

本町は城下の軸となる通りとなり、 その周囲には商人や職人が暮らす町が形成されました。 海側へ近づくほど港や水運との関わりも強くなっていきます。

IMABARI CASTLE TOWN / SIX DISTRICTS
現在の町名と位置関係
CASTLE / PORT / WATERWAY

水がつないだ
「城」「港」「町」

海に面して築かれた今治城では、 水は城を守るためだけのものではありませんでした。 船を城の近くまで導き、物資を運び、 港と城下町を一つの都市として結びつけていました。

今治城の水辺と城郭
IMABARI CASTLE / WATERFRONT
今治城の堀と水辺
MOAT / WATERWAY
今治城と海へつながる水辺
CASTLE / PORT / TOWN
01
FUNAIRI

舟入

海から船が城の近くまで入ることのできる舟入が設けられ、 今治城は瀬戸内海と直接つながる城となりました。

02
MOATS / WATERWAY

堀と水路

海水を引き込んだ内堀・中堀・外堀は、 防御施設であると同時に、 城と水辺を結ぶ都市構造の一部となっていました。

03
PORT / CASTLE TOWN

港と城下町

海から届いた人や物資は城下へ入り、 水辺には商人や問屋が集まりました。 城・港・町が水によって結ばれることで、 今治の都市としての骨格が形づくられていきます。

今治城は、城だけが独立して存在したのではなく、 海と港、そしてその周囲に広がる城下町と一体となって機能していました。
今治市寺町に残る旧町名「寺町」の石碑
TERAMACHI / IMABARI
旧町名「寺町」
FROM CASTLE TOWN TO TERAMACHI

城下の外縁に
寺院が集まる

高虎の都市づくりは、武家地や町人地だけではありませんでした。 城下の外側には寺院を集める構想が進められ、 後に「寺町」と呼ばれる寺院群へと発展していきます。 寺院は人々の信仰の場であるとともに、 広い境内や建物を持つことから、 城下の外縁を構成する空間としても重要な役割を担いました。

14
城下形成期に集められたと伝わる寺院
11
現在も寺町に残る寺院
TERAMACHI TODAY

城下町の記憶が今も続く
「寺町」

01 / 11
※現在の寺町に残る寺院が、すべて1603年の町割と同時に現在地へ移されたわけではありません。 高虎期に寺院を城下外縁へ集める都市計画の骨格がつくられ、 その後、藤堂高吉の時代や久松松平家の時代にも寺院の移転・創建・定着が進み、 現在につながる寺町が形成されていきました。
1604 / THE CITY TAKES SHAPE

整った城下町の骨格
今治は新しい時代へ

慶長9年(1604年)頃には今治城の普請が大きく進み、 城・港・町・寺院を結ぶ新しい都市の姿が見え始めます。
しかし高虎は、その完成を見届けることはありませんでした。

1608 TODO TAKAYOSHI

藤堂高吉の時代

藤堂高虎が伊勢・伊賀へ移った慶長13年(1608年)。 今治に残ったのが、高虎の養子・藤堂高吉でした。 越智郡二万石を与えられた高吉は、 高虎が築いた今治城と城下町を受け継ぎ、 その後およそ27年にわたって今治を治めていきます。

WHO WAS TAKAYOSHI?

丹羽長秀の子
高虎の養子

高吉は天正7年(1579年)、織田信長の重臣・丹羽長秀の三男として生まれました。 幼くして羽柴秀長の養子となり、その後、藤堂高虎の養子として藤堂家へ迎えられます。

丹羽家に生まれ、豊臣政権の中で育ち、
藤堂家の一員として今治へ

戦国から江戸へと時代が移るなか、 高吉は今治で一つの領地を治める立場となりました。 城を守るだけではなく、寺社を保護し、 高虎が形づくった町をこの地に根づかせていきます。

1579 丹羽長秀の三男として誕生 羽柴秀長 一時、秀長の養子へ 藤堂高虎 のち藤堂家の養子となる
BEFORE 1608 / KINUBOSHIYAMA & HAISHI

高吉衣干山への進軍
「拝志騒動」

慶長9年(1604年)、今治では藤堂家と加藤家の所領が入り組み、 今治城と拝志城が近接する緊張した状況にありました。 家臣の殺害をきっかけに「拝志騒動」が起こると、高吉は兵を率いて衣干山付近まで進軍。 武力衝突寸前まで事態が高まりましたが、重臣の説得を受けて踏みとどまったと伝えられています。

1608–1635 / IMABARI

築く時代から
守り育てる時代へ

高吉が受け継いだころ、今治にはすでに城、港、町人町、寺町の骨格が生まれていました。 高吉の役割は、それらを引き継ぎ、領主として今治の町に根づかせていくことでした。

27 YEARS IN IMABARI

1608年から1635年まで、およそ27年。 高吉は越智郡二万石を領し、今治の政務を担いました。 高虎から久松松平家へ一気に移ったように見えがちな今治城の歴史には、 その間に高吉が治めた長い時間がありました。

TERAMACHI / TAKAYOSHI'S ERA

高吉が整えた寺町

高虎期に始まった寺町の構想は高吉が受け継ぎ、寺院の移転や保護を進めていきました。

大雄寺 DAIO-JI / TERAMACHI
DAIO-JI

両親の菩提を弔うため

大雄寺は、高吉が両親の菩提を弔うため、 現在の寺町へ移したと伝えられています。 寺町は高虎の時代だけで完成したのではなく、 高吉の時代にもその姿を変えながら整えられていきました。

大雄寺を詳しく見る
RYUKEI-JI

大浜から城下へ

隆慶寺も、高吉によって大浜から現在の寺町へ移されたと伝えられています。 こうした寺院の移転は、高吉の時代にも城下の空間が整えられ続けていたことを伝えています。

隆慶寺を詳しく見る
隆慶寺 RYUKEI-JI / TERAMACHI
TRACES IN IMABARI

寺院に残る
高吉の足跡

来迎寺
藤堂家の位牌を納め、その供養料として年貢米を寄進したと伝えられています。
詳しく見る
南光坊
高虎の保護を受けた南光坊に、高吉は薬師堂を寄進したと伝えられています。
詳しく見る
東禅寺
高吉の時代、薬師堂の修復が行われた記録が残されています。
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海禅寺
1633年、信徒たちの願いを受けた高吉が寺領を認め、 海禅寺としての歩みが始まったと伝えられています。
詳しく見る
KORIN-JI / TAMAGAWA

高吉の思いを宿す光林寺

城や寺町の整備とは少し違う、 高吉個人の思いを伝える記憶が玉川町の光林寺に残されています。

光林寺を詳しく見る
玉川町の光林寺
KORIN-JI / TAMAGAWA
光林寺にある藤堂高吉供養塔 KORIN-JI / TODO TAKAYOSHI
TAKAYOSHI & NIWA NAGAHIDE

実父・丹羽長秀を偲んで

高吉は光林寺に実父・丹羽長秀の廟堂を祀り、 たびたび参拝していたと伝えられています。 当時の住職とも親交があり、 高吉からの書状が十数通残されているともいいます。

領主として今治を治めた姿だけでなく、 父を思い、寺を訪ねた一人の人物としての高吉を感じさせる場所です。

※写真の藤堂高吉供養塔は近年建立されたものです。
1635 / LEAVING IMABARI

二十七年の今治統治を終え
高吉も今治を離れる

寛永12年(1635年)、高吉が伊賀・名張へ移ったことで、今治における藤堂家の治世は終わりを迎えました。
名張へ入った高吉は「名張藤堂家」の初代となり、城下町の整備や家臣団の基盤づくりに尽力。津藩本家を支える重臣として重要な役割を果たし、 寛文10年(1670年)に92歳の長寿を全うしてこの世を去りました。

1635 THE LORDS OF IMABARI

今治藩の時代

寛永12年(1635年)、松平定房が今治三万石の領主となりました。 それから明治4年(1871年)の廃藩置県まで、およそ236年。 今治藩は十代にわたる久松松平家の藩主たちによって受け継がれていきます。

HISAMATSU-MATSUDAIRA / TOKUGAWA CONNECTION

久松松平家とは

久松松平家は、久松氏の系統から出た大名家です。 その家を徳川将軍家と強く結びつけたのが、 徳川家康の生母・於大の方でした。

於大の方は、家康の父・松平広忠と離縁したのち、 久松俊勝に再嫁しました。 その間に生まれた松平定勝は、徳川家康の異父弟にあたります。 初代今治藩主・松平定房は、その定勝の子でした。

徳川家康に近い血縁の家
「今治藩主家」

THE TOKUGAWA CONNECTION 於大の方から見る、今治藩主家へのつながり
MOTHER 於大の方 徳川家康の生母
松平広忠との子 徳川家康 江戸幕府を開く
久松俊勝との子 松平定勝 家康の異父弟
定勝の子 松平定房 初代今治藩主
AN OLDER LINEAGE

菅原道真公の系譜

久松家には、徳川家との血縁よりもさらに古い系譜の伝承があります。 久松松平家は菅原道真の子孫・菅原資行の流れをくむと伝えられ、 道真を遠祖とする家系とされています。

菅原道真ゆかりの梅
PLUM / SUGAWARA MICHIZANE
MICHIZANE → TENJIN → PLUM
梅を愛し、「天神さま」として祀られた菅原道真

一方、菅原道真は梅を愛した人物として知られ、死後は「天神さま」として祀られるようになりました。 各地の天満宮や天満神社では、道真と深く結びついた梅が、天神信仰を象徴する意匠として受け継がれています。 これは久松松平家の家紋の由来を直接説明するものではなく、道真と梅の結びつきを知るための背景です。

綱敷天満神社に見られる梅の神紋 綱敷天満神社を詳しく見る
HISAMATSU-MATSUDAIRA / FAMILY CREST

久松松平家の家紋 「星梅鉢」

菅原道真を遠祖とする系譜を伝える久松松平家では、 家を象徴する家紋として「星梅鉢」が用いられました。 この紋は、今治藩主家の系譜と家格を伝える印として 代々受け継がれてきました。

「星梅鉢」は、久松松平家を象徴する家紋として、 甲冑や調度品などにも用いられました。 現在の今治城天守の展示室でも、 梅鉢紋が付された実物資料を見ることができます。

久松松平家へつながる「梅鉢紋」を詳しく見る
今治城天守展示室に展示される梅鉢紋の付された資料
HOSHI-UMEBACHI / IMABARI CASTLE EXHIBITION
FIRST LORD

初代今治藩主
松平定房

定房は、徳川家康の異父弟・松平定勝の子として生まれました。 久松松平家は徳川将軍家に近い家柄で、 定房の兄・定行は松山藩主となっています。

松山には兄・定行
今治には弟・定房

1635年、定房は今治三万石を与えられ、 久松松平家による今治藩の初代藩主となりました。 藩政では塩田の開発や綿花栽培を奨励し、 瀬戸内海を通じた海運や商業の発展にもつながる経済基盤を整えていきます。 1665年には江戸城代に任じられ、 関東に一万石を加増されました。

松平定勝 → 兄・松平定行(松山藩) / 弟・松平定房(今治藩)
TEN GENERATIONS

初代から十代へ
受け継がれていく

1635年から1871年まで、およそ236年にわたる今治藩の時代。 十人の藩主が久松松平家の家督を継ぎ、 それぞれの時代の課題に向き合いながら今治を治めました。

01 / FIRST
松平定房
1635年、初代今治藩主となる。久松松平家による今治藩の始まり。
02
松平定時
定房のあとを継いだ二代藩主。弟・松平造道に五千石を分与し、今治藩は三万五千石となる。
03
松平定陳
軍事・農政・新田開発・商業政策を進め、今治藩の基盤強化に取り組んだ三代藩主
04
松平定基
宝永地震、蒼社川の洪水、室屋町の大火など災害が相次ぐなか、復興と治水に取り組んだ四代藩主。
05
松平定郷
五代藩主として家督を継ぐ。
06
松平定休
六代藩主として今治藩を治める。
07
松平定剛
七代藩主として久松松平家を継承。
08
松平定芝
八代藩主。時代は次第に幕末へ近づいていく。
09
松平勝道
九代藩主として家督を継ぐ。
10 / LAST
松平定法
十代、そして最後の今治藩主。版籍奉還後は今治藩知事となり、廃藩置県による藩政の終焉を迎える。
THIRD LORD

三代
松平定陳

三代藩主・松平定陳は、藩政改革に力を注ぎ、 今治藩の発展に大きく貢献した藩主とされています。 その治世では、軍事体制の整備から農業政策、新田開発、 商業の安定化まで、幅広い課題に取り組みました。

軍備、農業、商業。
藩の基盤を多方面から整えた三代藩主。

定陳は兵学者・江島為信を重用して軍事体制を整える一方、 甘藷の栽培を奨励し、新田開発を進めました。 さらに大島で塩田開発を行い、 今治藩の重要な産業である塩の生産拡大にも取り組んでいます。

元禄8年(1685年)には町法度を発布し、 商人による買い占めや売り惜しみを禁じることで、 城下町の商業と人々の暮らしの安定を図りました。 また元禄11年(1698年)には、 関東の飛び地五千石に代わって伊予国宇摩郡18村を受領し、 ため池の築造や井関の修築を進めて農業生産の向上を図りました。

こうして今治藩の財政と領内整備を支えた定陳でしたが、 元禄15年(1702年)、36歳でその生涯を閉じました。

10TH LORD / SADANORI
10

最後の今治藩主
十代・松平定法

久松松平家の家督は、幕末には十代・松平定法へと受け継がれました。 幕府の時代が終わり、新しい政治体制へ移るなか、 定法は今治藩最後の藩主となります。

1869
版籍奉還 今治藩知事へ
1871
廃藩置県 今治藩、廃止

明治2年(1869年)の版籍奉還後、定法は今治藩知事となり、 明治4年(1871年)の廃藩置県によって今治藩は廃止されました。 1635年から続いた久松松平家の藩政は、ここで大きな区切りを迎えます。

ONE FAMILY / TWO GRAVE SITES

二つの今治藩主の墓

今治藩主の墓は、今治市古国分の山上に残されています。
しかし、ここにすべての歴代藩主が眠っているわけではありません。

江戸時代、藩主たちは参勤交代によって領国と江戸を行き来し、江戸にも藩邸を構えて長い時間を過ごしていました。
こうした事情から、大名家には領国だけでなく江戸にも菩提寺を持つ例が多く、亡くなった場所や家の慣例によって墓所も分かれていました。

IMABARI 唐子山 初代・三代・四代
AND
EDO 霊巌寺 二代・五代〜十代
唐子山に残る今治藩主の墓 KARAKOYAMA / IMABARI
IMABARI / EHIME

今治に眠る
三人の藩主

中央 初代 松平定房
左  三代 松平定陳
右  四代 松平定基

今治市桜井地区の唐子山(古国分山)中腹には、 初代・定房、三代・定陳、四代・定基の墓が残されています。 約180平方メートルの墓域は瓦葺きの土塀で囲まれ、 その奥に高さ約3.6メートルの宝篋印塔が三基並びます。 参道には家臣たちが奉納した石灯籠が60基以上並び、 墓塔には久松松平家の家紋「星梅鉢」も刻まれています。 江戸時代前期の大名墓所の姿を伝える県指定史跡です。

唐子山に残る今治藩主の墓 KARAKOYAMA / IMABARI
今治藩主の墓に刻まれた星梅鉢
墓塔に刻まれた「星梅鉢」 久松松平家の家紋である星梅鉢は、 藩主家の系譜と格式を静かに伝える意匠として墓所にも残されています。
今治藩主の墓を詳しく見る
FUKAGAWA / EDO

東京に眠る
七人の藩主

二代 松平定時
五代 松平定郷
六代 松平定休
七代 松平定剛
八代 松平定芝
九代 松平勝道
十代 松平定法

東京都江東区白河の霊巌寺は、久松松平家が江戸で菩提寺とした寺院です。 ここには二代・松平定時をはじめ、五代から十代までの藩主の墓所が置かれました。 かつては歴代藩主だけでなく、正室や子どもたちの墓も数多く並んでいました。

大正12年(1923年)の関東大震災で墓所は大きな被害を受け、 その後の墓域整理によって縮小されました。 現在は、保存された五輪塔のもとに歴代藩主や家族がまとめて祀られ、 今治藩主家が江戸にも確かな足跡を残していたことを伝えています。

霊巌寺を詳しく見る
東京都江東区白河の霊巌寺
REIGAN-JI / TOKYO
霊巌寺に残る久松松平家の五輪塔
HISAMATSU MATSUDAIRA / GORINTO
PEOPLE BEHIND THE DOMAIN

今治藩を
支えた人々

今治藩の歴史を動かしたのは、 歴代藩主だけではありません。 藩主のそばで政務を担った家老、 城下と領地を支えた家臣たち、 学問や武芸を受け継いだ人々。 今治に残る寺院と墓所には、 そうした人々の記憶が今も残されています。


01
FIRST RETAINERS

新しい今治藩を
最前線で支えた筆頭家老

新たな領地へ藩主とともに移った 「長島譜代衆」。 その中でも、 今治藩成立期の政務と軍事を担った 中心人物の一人が久松長政でした。

大雄寺に残る久松長政ゆかりの墓所 DAIO-JI / TERAMACHI
今治藩創設期 / 筆頭家老

久松長政

久松長政は、 初代藩主・松平定房が伊勢長島から今治へ入封する際、 ともに新領へ移った家臣団の一人でした。

この家臣団は「長島譜代衆」と呼ばれ、 誕生したばかりの今治藩を支える 中核家臣団となります。

長政は定房から家禄一千石を与えられ、 筆頭家老として軍事と政務の両面から 今治藩の基盤づくりを支えました。

また、大雄寺の境内には久松長政の宝篋印塔と、 同家七代当主・久松清儀の墓石が残されており、 今治藩成立期を支えた久松家の記憶を今に伝えています。

大雄寺を詳しく見る
02
LORDS / RETAINERS / MEMORY

藩主が祈り 桜を愛で
家臣たちが眠った海禅寺

海禅寺は歴代今治藩主の祈願所として 厚く庇護されました。 同時に藩主一族や家老、 上級藩士たちの菩提寺でもあり、 今治藩を支えた人々の記憶が 集まる場所となっていきました。

桜に包まれた海禅寺 KAIZEN-JI / SPRING
1687
LORDS & CHERRY BLOSSOMS

今治藩主が
桜を愛でた場所

海禅寺は祈願の場であると同時に、 今治の町並みを望む静かな憩いの場所でもありました。 春になると境内と裏山は桜に包まれます。 貞享4年(1687年)、 第3代今治藩主・松平定陳は海禅寺を訪れ、 名木「塩釜桜」とその風景に心を動かされ、 一首の和歌を詠んだと伝えられています。 今も春になると桜が境内を彩り、 藩主が目にした季節の風景を 現在へ伝えています。

1633
藤堂高吉の時代に再興

天嶺玄嶝和尚が藤堂高吉に請願し、 寺領を受け、 海禅寺として新たな歩みを始めました。

1635
久松松平家の祈願所へ

松平定房の入封後、 歴代藩主の祈願所として庇護され、 藩主家と深く結ばれていきます。

江戸時代
家老・藩士たちの菩提寺へ

藩主一族、家老、上級藩士の 菩提寺として発展し、 日吉山には多くの墓が築かれました。

HIYOSHIYAMA CEMETERY

墓石に残された
今治藩士たちの名前

海禅寺の奥に広がる日吉山墓地。 ここには今治藩に仕えた家臣やその一族、 学者や武芸者などの墓が残されています。 城や藩庁が失われた現在でも、 墓石に刻まれた名前から、 藩を実際に動かしていた人々の存在を たどることができます。

03
RETAINER / FAITH / LEGACY

幕末の一藩士から
現在まで続く信仰

幕末になると、 今治藩にも黒住教の信仰が広がりました。 第10代藩主・松平定法自身も入信し、 家臣や地域の有力者へ教えが浸透していきます。 その中で布教に大きな役割を果たした 今治藩士が柿原誠楽でした。

幕末
今治藩士
黒住教教師として活動
1862
松平定法が第10代藩主へ
黒住教を信仰
1884
柿原誠楽死去
日吉山墓地へ
2022
墓石から分霊
今治宗忠神社へ
HIYOSHIYAMA / IMABARI

柿原誠楽の墓

柿原誠楽は今治藩士であり、 黒住教教師として愛媛各地へ教えを広めた人物です。 明治17年(1884年)11月15日に亡くなると、 今治藩士たちが代々眠る 海禅寺そばの日吉山墓地に葬られました。 没後もその人柄と教化の功績は忘れられず、 墓所は信徒によって大切に守られてきました。

IMABARI MUNETADA SHRINE

「柿原霊神」として現在へ

誠楽は没後、 「柿原霊神」として人々から崇敬されるようになります。 令和4年(2022年)4月8日には、 日吉山に残る誠楽の墓石から分霊が迎えられ、 今治宗忠神社の斎庭にご神像が鎮座しました。 一人の今治藩士の記憶が、 138年の時を越えて、 現在の祈りの場へと受け継がれたのです。

TWO PLACES / ONE MEMORY

墓所と神社をめぐる「両参り」

日吉山に残る柿原誠楽の墓所と、 分霊された柿原霊神を祀る今治宗忠神社。 墓所と神社、 二つの祈りの場をめぐることで、 藩士として生きた一人の人物の記憶が、 現在の信仰へと受け継がれていることが見えてきます。

IMABARI DOMAIN / INFRASTRUCTURE

今治藩が手がけた
インフラ整備

今治藩の歴史を動かしたのは、城や藩主だけではありません。 洪水から田畑と家々を守り、余分な水を流し、 日照りのときにはため池に水を蓄えて農地へ届ける。 そうした水の仕組みを整えることもまた、 今治の土地と暮らしを支える大切な仕事でした。

INFRASTRUCTURE
RIVER CONTROL / SOJA RIVER

危険な暴れ川
「蒼社川」の大改修

蒼社川

蒼社川は、たび重なる氾濫によって田畑や家屋を脅かしてきました。 1635年に入部した松平定房の時代以降、 堤防の強化や流路の安定化が進められ、 洪水後には川底にたまる土砂を取り除く川ざらえも続けられます。 治水は、城下だけでなく藩領全体の暮らしを守る仕事でした。

蒼社川の治水史を詳しく見る
1751
宝暦元年

今治藩は、洪水を繰り返す蒼社川に対して、 川筋そのものを付け替える大規模な工事へ踏み出しました。

ENGINEER / KAWAKAMI YASUKATA

今治藩の土木を支えた偉人
「河上安固」

河上安固墓所
KAWAKAMI YASUKATA GRAVE

蒼社川の流れを変えた土木の中心人物

河上安固は川の流れを見極めながら、 蛇行する流路を整理し、堤防を強化する大工事を進めました。 工事は13年に及び、現在につながる蒼社川の姿へと大きく変わっていきます。

その功績は、単なる治水工事にとどまりません。 洪水を抑えながら城下と田畑を守るという、 今治の基盤づくりそのものに関わるものでした。

大須伎神社の腰掛石
KOSHIKAKE-ISHI

今も残る「腰掛石」と土木の記憶

大須伎神社には、河上安固にまつわる 「腰掛石」が今も伝えられています。

河川だけでなく、城下の排水を調整する呑吐樋など、 水を「流す」仕組みにも関わったと伝えられています。 今治藩の土木は、川と城下を別々に考えるのではなく、 一つの水の流れとして整えていくものでした。

こうした仕事の記憶が、史跡だけでなく神社の伝承としても残っていることは、 河上安固の存在が地域の中で長く語り継がれてきたことを物語っています。

鹿ノ子池と鹿児神社
1771 → 1799
IRRIGATION / KANOKO POND

洪水を防ぐだけでなく
水を蓄える

今治藩が向き合ったのは、水害だけではありません。 六代藩主・松平定休の時代には鹿ノ子池の拡張が進められ、 長い工事を経て1799年に完成。 干ばつに備え、農地へ安定して水を届けるための基盤が強化されました。 同じ年には池の守護神として大山積神を祀る鹿児神社が建立され、 水利と信仰の記憶は現在まで受け継がれています。

鹿ノ子池と鹿児神社を詳しく見る
鹿児神社
KANOKO SHRINE
IMABARI DOMAIN / INFRASTRUCTURE LEGACY

今治市民の暮らしの中で

蒼社川の治水、城下の排水、そして鹿ノ子池の水利。 今治藩が長い年月をかけて整えてきた水の仕組みは、 田畑や町を守りながら、現在の今治へと受け継がれてきました。 私たちが暮らす土地の姿にも、かつて人々が水と向き合い、 暮らしを守ろうとした歴史が静かに残っています。





THE END OF THE CASTLE

今治城解体

明治維新によって、 約二百六十年続いた今治藩の時代は終わりました。 政治の中心だった今治城も役割を失い、 やがて建物の多くが解体されていきます。 しかし、そのすべてが失われたわけではありません。 城門や城内の建築の一部は、 今治の寺院や神社へと受け継がれました。

1635

今治藩が
始まったとき
天守はなかった


寛永12年(1635年)、松平定房が今治へ入封し、 久松松平家による今治藩が始まります。 この時点で、藤堂高虎が築いたとされる天守は、 すでに城内に残っていなかったと考えられています。

それでも今治城は、藩庁として、そして城下町を束ねる 政治の中心として使われ続けました。 天守の有無だけでは測れない「城の役割」が、ここにはありました。

現在の今治城
IMABARI CASTLE / PRESENT DAY
1608前後
藤堂高虎、今治を離れる

この前後に、高虎期の天守は姿を消したと伝えられています。

1635
久松松平家が入封

松平定房が今治へ入り、天守のない今治城で藩政が始まります。

藩政期
城は政治の中心として存続

天守はなくても、今治城は藩庁としてその役割を果たし続けました。

丹波亀山城
TANBA KAMEYAMA CASTLE
ONE THEORY / THE LOST TOWER

消えた天守はどこへ?

今治城 丹波亀山城

一説には、解体された今治城の天守は、慶長15年(1610年)の丹波亀山城の天下普請に際して 徳川家康へ献上され、丹波亀山城へ移されたと伝えられています。 後世に編纂された『寛政重修諸家譜』にも「今治の天守」を同城へ移した趣旨の記述があるとされます。

HISTORICAL CAUTION

ただし、今治城では当時の天守を直接裏づける天守台などの遺構が確認されておらず、 実在の姿や移築の詳しい経緯には不明な点があります。

幻の天守を詳しく見る
1869
IMABARI CASTLE ABANDONED

「当今時勢不用之品」
今治城の解体が始まる

明治2年(1869年)10月、 今治城は時代に合わない不要なもの「当今時勢不用之品」とされ、廃城となりました。
これは明治6年(1873年)の 全国的な廃城令よりも早い動きでした。
櫓や門、御殿など城内に残っていた建物は順次取り壊され、 城郭を形づくっていた木材や建築物の一部は 城下へ払い下げられていきました。

BUILDINGS
城郭建築の解体

櫓・門・御殿など、 江戸時代の城郭建築の多くが姿を消しました。

MOATS
外堀・中堀の埋め立て

市街地の形成とともに、 城を囲んだ堀も次第に失われていきました。

REMAINS
石垣と内堀が残る

主郭部を囲む石垣と内堀は、 現在まで今治城の重要な遺構として残りました。

THE CASTLE SURVIVES ELSEWHERE

解体された城は
今治の町の中へ

払い下げられた建築物の中には、 寺院や神社へ移され、 新しい役目を与えられたものがありました。
それらは今も大切に守られており、実際に見て触れることができます。

延命寺 ENMEI-JI / IMABARI
SURVIVING CASTLE GATE

延命寺に残る
今治城の城門

延命寺の山門は、 かつて今治城を守っていた城門の一つです。 天明年間(1781~1789年)に建造されたとされ、 明治期の廃城後に延命寺へ移されました。 総欅造りの重厚な門は、 寺の山門として新たな役目を与えられ、 二百年以上の時を越えて現在まで残されています。

延命寺を詳しく見る
乗禅寺 JOZEN-JI / IMABARI
TATSUMI GATE

乗禅寺に残る
辰之口の門

乗禅寺にも、 廃城となった今治城から門の一つが移されました。 寺に伝わるところでは、 慶長年間に築かれた武家専用の通用門で、 かつて城の辰巳の方位に構えられていた「辰之口の壱ノ門」とされます。 城下の防御を担った門は、 廃城後には寺院の入口として 第二の歴史を歩んでいます。

乗禅寺を詳しく見る
天満神社・小泉 TENMAN SHRINE / KOIZUMI
A BUILDING FROM THE CASTLE

城内にあった社殿は
小泉へ

城門だけではありません。 今治城内にはかつて、 久松松平家と深い関わりを持つ 「松本天神社」が鎮座していました。 廃城後もその本殿は城跡に残されていましたが、 大正15年(1926年)、 取り壊しの話を知った小泉の人々が保存を決意します。 本殿は屋根・胴体・基礎石へ分解され、 牛車を使って夜間に運ばれ、 小泉に鎮座していた天満神社へ移築されました。

天満神社・小泉を詳しく見る
1872
FUKIAGE SHRINE / FORMER HONMARU

本丸跡に
創建された神社
「吹揚神社」


明治5年(1872年)、旧本丸跡に吹揚神社が創建されました。 かつて藩主が城を治めた場所は、 廃城後、人々が祈りを寄せる場所へと姿を変えていきます。

城の建物は失われても、 本丸という場所そのものの記憶まで消えたわけではありません。 今治城の中心は、神社という新しいかたちで 地域の人々に受け継がれていきました。

吹揚神社を詳しく見る
今治城本丸跡に鎮座する吹揚神社
FUKIAGE SHRINE / FORMER HONMARU
吹揚神社
FUKIAGE SHRINE / IMABARI
FROM CASTLE TOWN TO HONMARU

4つの神社が合祀

吹揚神社を創建するにあたり、城下町で人々の信仰を集めていた神明宮・蔵敷八幡宮・厳島神社・夷宮が合祀されました。

武士の時代には城主の居所だった本丸が、 明治以降は地域の人々が参拝する場所へと変わりました。 「城の中心」であり続けた場所が、時代とともに役割を変えていったことがわかります。

BOOK GUIDE
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「日本100名城」と「続日本100名城」の200城が一冊になった いちばん人気の公式ガイドブック!公益財団法人日本城郭協会 (監修)
REBUILDING IMABARI CASTLE

今治城再建

明治の廃城によって建物の多くを失った今治城。 それから長い年月を経て、残された堀と石垣を守りながら、 現在の今治城が少しずつ形づくられていきました。

今治城に残る堀と石垣
MOAT / STONE WALL / IMABARI CASTLE
1953
PRESERVING THE CASTLE SITE

保存の始まり
「愛媛県指定史」

昭和28年(1953年)、 今治城の主郭部跡と内堀は愛媛県の史跡に指定されました。 建物の多くを失ったあとも残されていた石垣と堀が、 今治城の歴史を伝える遺構として守られていくことになります。

再建へ進む前に、まず残された城跡を守る動きが始まりました。
今治城の天守と城内
TOWER / IMABARI CASTLE
1980
THE CASTLE RETURNS

天守をはじめ
城郭建築が再び姿を見せる

昭和55年(1980年)、 主郭部跡に天守閣、多聞櫓、武具櫓などが再建されました。 廃城から一世紀以上を経て、 今治城に再び城郭建築が立ち上がります。

現在の天守は五層六階の展示施設として整備され、 最上階からは今治の市街地や瀬戸内海を一望することができます。

REBUILDING THE CASTLE

少しずつ現在の今治城へ

1980年を起点に、 櫓や門の再建・復元が段階的に進められました。

現在の今治城
1985
OKANE YAGURA

御金櫓

昭和60年(1985年)、 二の丸跡の東隅に御金櫓が再建されました。 現在は郷土出身作家の作品を紹介する展示施設として利用されています。

今治城の城郭と堀
1990
YAMAZATO YAGURA

山里櫓

平成2年(1990年)、 二の丸北西隅に山里櫓が再建されました。 建物が加わることで、城郭の輪郭がさらに整っていきます。

今治城の鉄御門周辺
2007
KUROGANE GOMON

鉄御門

平成19年(2007年)、 二の丸の表門である鉄御門と、 それに付随する櫓門・多聞櫓などが再現復元されました。



現在の今治城
IMABARI CASTLE TODAY

今治城の歴史は
城の中だけではない

城を離れて町へ目を向けると、かつての城門や町名、寺町など、城下町だった時代の痕跡がさまざまな場所に残っています。

今治城を写真で見る

CASTLE / PORT / TOWN

街を歩くと見えてくる
本当の今治城

藤堂高虎がつくったのは、 今治城という一つの建物だけではありませんでした。 海と城を結ぶ舟入。 城を取り囲む堀。 そこを行き交う船と物資。 商人や職人たちが暮らす町。 そして城下の外縁に集められた寺院。 城を中心として、 港・物流・商業・交通・信仰までを組み込んだ 新しい都市そのものが形づくられていったのです。

今治城と今治港 01 IMABARI CASTLE / PORT
PORT / FUNAIRI
江戸時代 ─ 舟入

今治城から繋がる歴史
「今治港」

今治城は、 海水を堀へ引き込んだ海城でした。 城の北側には、 船が海から城郭内へ直接入ることのできる 「舟入」が設けられ、 その周辺には船頭町も置かれました。 瀬戸内海を行き交う船と城下町を結ぶこの場所は、 人や物資が出入りする海の玄関口となります。 その港湾機能は時代とともに発展し、 現在の今治港へとつながっていきました。 今治は最初から、 城だけではなく「港」とともに築かれた町だったのです。

THEN
今治城・舟入
→
TODAY
今治港
今治市街を流れる金星川 02 KINSEI RIVER / IMABARI
OUTER MOAT / WATERWAY
江戸時代 ─ 今治城外堀

城の外堀の記憶が残る川
「金星川」

江戸時代の今治城は、 現在残る内堀だけでなく、 中堀・外堀を備えた広大な城郭でした。 明治以降、 城下の姿が変わるにつれて 外堀の多くは埋め立てられていきます。 しかし、その水系の痕跡は 現在の金星川として街の中に残されています。 今では住宅や道路の間を流れる小さな川ですが、 その流れをたどることは、 かつての今治城下の輪郭を たどることでもあるのです。

THEN
今治城・外堀
→
TODAY
金星川
今治城下の旧町名・川岸端 03 KAWAGISHIBATA / IMABARI
WATER TRANSPORT / CASTLE TOWN
江戸時代 ─ 川岸端

堀を行き交った船の記憶
「川岸端」

今治城の堀は、敵から城を守るためだけの施設ではありませんでした。海とつながった水路には船が入り、城下へさまざまな物資が運び込まれます。その荷物を陸へ上げる場所の一つが、「川岸端」と呼ばれた一帯でした。周辺には商人や問屋が集まり、水運を利用した物流と商業によって城下町の賑わいが生み出されていました。現在では当時の水辺の姿は大きく変わり、アーケードが広がる商店街の一角となっています。

THEN
水運・荷揚げ
→
TODAY
旧町名「川岸端」
辰之口の碑 04 TATSU-NO-KUCHI / IMABARI
CASTLE / TOWN
江戸時代 ─ 辰之口

城と城下町が繋がる
「辰之口」

城郭と城下町の境には、 人や物資が行き交うさまざまな出入口がありました。「辰之口」も、今治城下を構成していた重要な場所の一つです。かつて巨大な城郭があったその場所は現在公園となっており、やすらぎを与える市民の憩いの場となっています。

THEN
城と城下の接点
→
TODAY
辰之口の碑
ドンドビの由来を伝える呑吐樋の記念碑 05 DONDOBI / IMABARI
WATER CONTROL / OUTER MOAT
呑吐樋
どんどび

城の堀は消えても
名前は暮らしの中で

現在の今治中心部には、 「ドンドビ」と呼ばれる交差点があります。 その名の由来とされるのが、 かつてこの付近にあった「呑吐樋」です。 今治城の外堀と水路がつながるこの一帯では、 水の流れを調整するための樋が設けられていました。 水を「呑み」、 そして「吐く」ように出入りさせることから、 「呑吐樋」と呼ばれたといいます。 城の外堀が埋め立てられ、 かつての水路が見えなくなった現在でも、 「ドンドビ」という呼び名は残され、「ドンドビ」と言えば今治の人ならすぐにあの場所だと伝わるほど、街の目印として親しまれています。

藤堂家と久松松平家の家紋が入った今治城の御城印
IMABARI CASTLE / CASTLE SEAL
COME TO IMABARI CASTLE

藤堂家と久松松平家
今治城で
二つの家紋が重なる

今治城を築いた藤堂高虎と、 今治藩主として城と城下町を受け継いだ久松松平家。 今治城では、両家の家紋が一枚に重なる特別な御城印を手にすることができます。

今治にお越しの際は、ぜひ今治城へ足を運び、 堀や石垣、城下町の名残が残る街をゆっくり歩いてみてください。 そして、城のすぐ先に広がる瀬戸内海にも目を向けてみてください。 海とともに築かれ、港とともに発展してきた今治の歴史が、 今の街や海の景色の中にも静かに息づいていることを感じられるはずです。

城を歩き、町を歩き、海を眺めたその先に。
二つの家紋が重なる御城印を、今治城で。
IMABARI CASTLE / FEATURE STORIES

今治城の歴史を
もっと深く

今治城には、ここだけでは語りきれない物語があります。 築城に関わった人々、城に残る石、受け継がれた唄、 幻となった天守、そして現在の城へ。 「今治城の歴史」特集では、それぞれの物語を個別の記事で詳しく紹介しています。

「今治城の歴史」特集を見る
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