港湾・海運・繊維・造船、広がった今治の産業史
今治教会の初代牧師・伊勢時雄(いせ ときお)の伝道は、今治の町の内部にとどまるものではありませんでした。
今治を拠点としながら、波止浜や小松、西条、さらには松山へと足を延ばし、各地で人々と向き合い、語り合いながら、のちに教会や信仰共同体が各地に形づくられていく、その下地を整えていきました。
当時の四国では、キリスト教会の数はまだ限られており、今治教会は次第に人々が集い、行き交う場となっていきます。
やがてそこは、四国各地から人が訪れ、交流を重ねる中で、キリスト教的な交わりが育まれる拠点として知られるようになりました。
特に、神戸教会とのつながりを通じて、今治は西日本へと広がる人の流れや思想の交流と結びついていきます。
今治教会は単なる礼拝の場ではなく、新しい価値観や社会の在り方について語り合い、時代を考えるための開かれた空間でもありました。
さらに、教会に併設された英学塾を起点とする人の往来は、宗教や文化の刺激にとどまらず、教育の現場や社会的な取り組みへと広がっていきます。
知識や思想は教会の中にとどまらず、人を通して町へ、そして地域社会へと浸透していきました。
伊勢時雄が今治を去った後も、その流れが途切れることはありませんでした。
日本人初の救世軍士官(牧師)・山室軍平(やまむろ ぐんぺい)や、生協の父・賀川豊彦(かがわ とよひこ)といったキリスト教関係者が今治を訪れ、教会を中心とした人的ネットワークは脈々と受け継がれていきます。
今治は、四国における思想と信仰の交差点としての役割を果たし続けたのです。
こうしたコミュニティを通じてもたらされた思想や情報は、当時の人々にとって単なる知識ではなく、生き方を支える精神的な糧となりました。
それは人生の指針となり、志を形づくる重要な要素でもあったと考えられます。
やがて、その中から高い志を抱き、地域や社会の発展を担う人材が育っていきました。
今治の近代化を支えた人々の多くは、工場経営だけでなく、港湾整備、交通網の構築、金融の仕組みづくりといった社会基盤の形成にも深く関わっています。
産業を興すためには、物を運ぶ道と港があり、資金が循環する仕組みが不可欠である。
その現実を理解していた人々が、教会を通じて得た思想や倫理観を内に抱きながら、今治の町を内側から支えていったのです。
前回の記事はコチラ:【今治とキリスト教④】戦時下の今治のキリスト教徒が迎えた試練と復興
港から始まった近代今治、飯忠太郎と信仰が支えた産業のかたち
港町・今治の近代化を語るうえで、欠かすことのできない人物がいます。
それが、「今治港の父」「港の恩人」と称される実業家・飯忠太郎(いいちゅうたろう・晩年に忠七と改名)です。
瀬戸内海のほぼ中央に位置し、来島海峡に面する今治港は、古くから海上交通の要衝として栄えてきました。
その象徴が、町の中心に築かれた今治城です。
藤堂高虎によって築かれた今治城は、三重の堀に海水を引き込む「海城(うみじろ)」であり、城と港、そして城下町が一体となる都市構造を備えていました。
築城当初から城内には「舟入(ふないり)」と呼ばれる船着場が設けられ、外堀を通じて海と直接結ばれていました。
物資や人の移動は城下へと直結し、今治は防御の拠点であると同時に、流通と経済の拠点としても機能していたのです。
1635年(寛永十二年)に伊勢国から移封された松平定房が、城下に近い蔵敷に船頭町を置いたことも、海運を基盤とする都市構造が早くから形づくられていたことを示しています。
このように今治は、近世以来、海とともに歩んできた町でしたが、その港が近代的な商港として大きく姿を変えていくのは、明治期に入ってからのことでした。
その転換期に深く関わったのが、飯忠太郎でした。
港で育った実業家
飯忠太郎は、1841年(天保十二年)12月、今治藩の御用紺屋「吉田屋」の長男として生まれました。
幼い頃から物資の流通や舟運が町の経済を左右する現場に身を置き、港と商いが一体となった今治の姿を肌で感じながら育ちます。
こうした経験が、彼に早くから海運の重要性を意識させました。
明治初年、忠太郎は当時としては先進的だった押切船(おしきりぶね)による舟運事業に乗り出します。
櫓と帆を併用する押切船は、所要日数を短縮できる一方で、多くの漕手を必要とし、経費がかさむという難点もありました。
しかし忠太郎は、これを企業的に成立させる道を選びます。
明治四年(1871年)には早船「金吉丸」を購入し、今治産木綿を積んで大阪へ向かう航路を開拓しました。
初航海では木綿とともに乗客も運び、わずか三日半で大阪に到着したと伝えられています。
この航路開拓によって、今治地方で生産された木綿布は阪神方面へと販路を広げ、帰路には文明開化を象徴する品々が今治にもたらされました。
忠太郎の舟運は、単なる輸送にとどまらず、地方と都市を結ぶ経済と情報の循環を生み出していきます。
汽船を今治港に呼び止めた男
忠太郎の視線は、さらに先の時代を見据えていました。
明治七年(1874年)頃には、帆船の時代が終わり、蒸気船が主流になることを予見します。
そして今治港に蒸気船を寄港させようと、港に立ち続けました。
沖を通過する汽船を見つけると、小舟で近づき、昼は旗を、夜は提灯を振って停船を懇願したという逸話は、今も語り継がれています。
その姿は周囲から狂気とさえ噂されましたが、忠太郎の熱意は次第に実を結び、明治九年(1876年)、ついに蒸気船の今治港寄港が実現しました。
これを契機に、城下以来の舟入を原型としてきた今治の港は、近代的な商港としての性格を急速に強めていきます。
洗礼と地域社会への貢献
明治十七年(1884年)、忠太郎は今治教会の牧師であった横井時雄から洗礼を受けました。
以後、キリスト教信仰を人生の拠り所としながら、港湾整備や航路開拓、さらには来島海峡の安全を願って灯台建設を提唱するなど、人命と公共の利益を重んじる姿勢を貫いていきます。
その行動は、事業の成否を超えて、地域社会全体の安全と発展を見据えたものでした。
信仰をめぐっては一時、父と対立し今治を離れる時期もありましたが、明治二十四年(1891年)に家業を継承すると再び今治に戻り、海運業を基盤に町の発展へ尽力するようになります。
忠太郎が営んだ吉忠旅館は、その姿勢を象徴する存在でした。
酒や芸者を置かず、茶代も取らないという、当時としては異例の経営方針を貫き、訪れる商人や実業家を誠実にもてなしました。
この姿勢は地元では驚きをもって受け止められましたが、阪神方面から訪れる商社関係者の信頼を集め、吉忠旅館は今治と外部の商業世界を結ぶ重要な拠点として機能していきます。
港と町に刻まれた功績
さらに忠太郎は、大連航路の整備や、海運と鉄道を結びつけた物流体制の構築にも尽力しました。
今治港を単なる船の出入り口としてではなく、人・物・情報が集まり交わる場として機能させようとしたのです。
こうした飯忠太郎の取り組みは、城下町以来の港の基盤の上に、近代的な商港としての姿を重ねていく過程において、欠かすことのできない役割を担っていました。
現在、今治港近くに建つ「飯忠七翁功績之碑」は、港と町の発展に人生を捧げたその歩みを、静かに今へと伝えています。
近代化を内側から支えた八木亀三郎の信仰と経済観
波止浜出身の実業家・八木亀三郎もまた、キリスト教信仰を生き方の軸とした人物でした。信仰は私的な信念にとどまらず、事業のあり方や地域との関わり方に深く反映されていきます。
亀三郎は、幕末の文久三年(1863年)十二月、伊予松山藩領の波止浜(現・今治市波止浜)に生まれました。
当時の波止浜は、瀬戸内有数の塩田地帯であり、主要航路にも面した港町として栄えていました。
亀三郎の父・友蔵は、塩田経営と塩廻船を手がける商家「升屋」の当主で、町年寄も務めた地域の名望家でした。
明治十七年(1884年)、亀三郎が二十歳のときに父・友蔵が亡くなります。
長男であった亀三郎は後妻の子であったため、本家は養子の八木常吉が継ぎ、亀三郎は分家を立てる道を選びました。
ただし、明治十五年には財産を相続しており、後に「八木本家」と称される経済的基盤を築いていきます。
信仰を地域の中で生かす
明治二十年(1887年)三月、亀三郎はキリスト教の洗礼を受けます。
翌年には波止浜教会の設立に尽力し、信仰を地域社会の中で生かす歩みを本格的に始めました。この信仰は、亀三郎の事業観に大きな影響を与えていきます。
亀三郎の事業は、塩業から海運、さらにロシア方面での鮭・蟹漁業へと広がり、その系譜は後の日本水産やマルハニチロへと受け継がれていきました。
しかし、亀三郎の特徴は事業規模の拡大そのものよりも、経営姿勢にありました。
労働者を単なる労働力としてではなく、一人の人間として遇すること。
地域が困難に直面したときには、私財を投じてでも支え合うこと。金融不安の際に地域経済を守るため奔走した姿には、キリスト教の「隣人愛」が色濃く表れています。
八木亀三郎にとって経済とは、富を独占するための手段ではなく、人々の生活を支え、地域を持続させるための営みでした。
信仰に根ざしたこの価値観は、今治教会を中心とするコミュニティの中で共有され、港湾整備や金融、産業育成へと波及していきます。
八木亀三郎が体現した「隣人愛の経済」は、今治の近代化を支えたもう一つの原動力でした。
その精神は、特定の事業や個人にとどまるものではなく、港湾整備や金融、産業育成といった地域全体の営みへと浸透していきます。
経済とは利潤を独占するためのものではなく、人と町を持続させるための公共的な営みであるという価値観が、今治の地に静かに根づいていったのです。
こうして整えられた港と信用、そして人材の蓄積は、次の時代に新たな産業を受け入れる土台となりました。
その上に花開いたのが、近代今治を象徴するもう一つの基幹産業である造船業でした。
造船の町・今治を支えた石崎金久の信仰
近代今治が「造船の町」として歩み始める過程で、重要な役割を果たした実業家たちの中にも、教会と深い関わりを持ち、その価値観の影響を受けた人物が存在していました。
それが、「愛媛近代造船の父」とも称される石崎金久です。
石崎金久は、松山藩御用商人の家系に生まれ、早くから造船業の将来性に着目していました。
三津浜で造船事業に携わった後、経営難に陥っていた波止浜船渠の再建を託され、世界恐慌という厳しい逆境の中にあっても、呉海軍工廠の仕事を受注するなどして事業の立て直しに尽力します。
その後、住友グループの資本参加を実現し、今治で初となる鋼船の建造が行われました。
戦後には波止浜造船所として再出発し、その流れは現在の新来島どっくへと受け継がれていきます。
石崎金久の歩みは、今治が造船都市として発展していく過程そのものと重なっています。
石崎金久が今治教会でキリスト教の洗礼を受けたのは、1966年(昭和四十一年)、78歳のときでした。
八木亀三郎が建てた蟹御殿(旧八木本店)に住んでいたこともあり、以前から今治教会との関わりは続いていたと考えられています。
1969年(昭和四十四年)には、今治教会創立九十周年記念事業の一環として、長年にわたり風雨にさらされ荒廃が進んでいた波止浜教会堂の修復が実現しました。
地域に残る信仰の場を次代へと受け継ぐこの取り組みは、石崎自身の強い思いによって支えられたものでした。
1982年(昭和五十七年)、94歳でその生涯を閉じた石崎金久の葬儀は、今治教会で執り行われています。
晩年に受けた洗礼は形式的なものではなく、人生の最終章において教会が精神的な拠り所となっていたことを示しています。
今治タオルに受け継がれたクリスチャンの精神
造船業と港湾整備によって発展してきた今治には、もう一つ、世界的に知られる産業があります。
それが「今治タオル」です。
瀬戸内海の要衝に位置する今治は、海運と物流を基盤に成長してきた町でした。その土台の上で育まれた今治タオルは、単なる地場産業ではなく、日本を代表する繊維産業の一つへと発展していきます。
そして、今治タオルが現在の姿に至るまでの歴史には、キリスト教を信仰の軸とし、誠実な職業倫理と社会への責任を重んじた人々の存在がありました。

伊予ネルを生んだ矢野七三郎、信仰と実業で今治産業を支えた生涯
今治タオルの誕生を語るうえで、決して欠かすことのできない存在があります。それが、明治期に今治の地で育まれた「伊予ネル」です。
伊予ネルは単なる新製品の開発ではありませんでした。衰退しつつあった地域産業を再生させようとする、一人のクリスチャンの強い志から始まった挑戦でもあったのです。
その人物こそ、「今治綿業の父」と称される矢野七三郎でした。
矢野七三郎は、低迷する白木綿産業の現状を憂い、紀州から綿ネルの技術を導入します。
当時の今治には十分な設備も経験もなく、その歩みは決して平坦なものではありませんでした。
試行錯誤を重ねながら製品改良に取り組み、販路の開拓にも力を注いだ結果、やがて軍需用としての受注を獲得するに至ります。
伊予ネルはここでようやく、産業としての確かな足場を築き始めました。
矢野七三郎の事業姿勢を特徴づけているのは、信仰と実業を切り離さなかった点にあります。
矢野七三郎は洗礼を受けるにあたり、信仰の妨げになると考えた酒造事業を弟に譲り、自らの生活と事業の在り方を一致させる道を選びました。
横井時雄から学んだ隣人愛の思想は、単なる利益追求にとどまらず、「地域を支える産業を興す」という使命感へと結びついていきます。
その功績は、伊予ネルの創始にとどまりませんでした。矢野七三郎は、自らの技術を独占することなく、周囲の職人や事業者に惜しみなく伝え、今治全体の織物産業の基盤づくりに尽力します。
その姿勢に触発され、多くの人々が伊予ネルの製造に参入し、町の織物産業は急速に活気を取り戻していきました。
伊予ネルとともに今治に残されたのは、技術だけではありませんでした。
志を共有し、産業を通して地域を支えようとする文化そのものが、ここに育まれていったのです。
しかし、この希望に満ちた歩みは突然断ち切られます。
1889年、師走を迎えた今治の町は、新しい年への期待に包まれていました。
冷たい冬の風の中にも活気があり、町並みには次の時代への希望が漂っていました。
12月24日のクリスマス・イヴの夜、矢野七三郎は教会で祈りを捧げ、静かな気持ちで帰路につきます。
その夜、自宅で休んでいた矢野七三郎は、強盗の侵入によって命を奪われました。
抵抗する間もなく襲われ、享年35年。あまりにも突然で、あまりにも痛ましい最期でした。
この知らせは瞬く間に今治中を駆け巡り、繊維産業に携わる人々だけでなく、町全体を深い悲しみに包み込みます。
クリスマスの喜びに満ちていた空気は一変し、伊予ネルの将来を不安視する声が広がりました。
若き中心人物を失った今治の織物産業は、大きな岐路に立たされることになります。

伊予ネルを継承し、近代今治の礎を築いた柳瀬義富
矢野七三郎の急逝によって、大きな岐路に立たされた伊予ネル事業。
その重責を引き受け、事業を再び軌道に乗せた人物が、叔父にあたる柳瀬義富でした。
柳瀬家は今治藩御用商人の家系に連なり、江戸時代には藩財政の危機を幾度も救った実績を持つ名家です。
町人層のみならず武士層からも厚い信望を集め、町年寄格として苗字帯刀を許されるなど、代々町政と経済を支えてきた存在でした。
明治期においても、今治を代表する有力実業家として地域社会に大きな影響力を持っていました。
七三郎亡き後、義富は興業舎を引き継ぎ、未整備であった生産体制の立て直しに着手します。
設備投資を進めると同時に人材育成にも力を注ぎ、伊予ネル事業の基盤を着実に強化していきました。
その結果、事業は今治有数の綿織物産業へと成長し、最盛期には4,000人を超える従業員を抱える四国屈指の規模にまで発展します。
伊予ネルは、名実ともに今治の主要産業として確固たる地位を築いていきました。
義富の視野は、工場経営にとどまりませんでした。
産業を持続的に発展させるためには、金融と流通の基盤整備が不可欠であると考え、今治商業銀行の設立に尽力します。
これにより地域の事業者は資金を得やすくなり、町の中で資金が循環する仕組みが整えられていきました。
伊予ネルを核とした産業の成長は、今治の近代化を力強く後押しする原動力となったのです。
こうした実業家としての歩みと並行して、柳瀬義富の人生に大きな転機をもたらしたのがキリスト教との出会いでした。
もともとは黒住教の信徒でしたが、1883年、今治教会初代牧師・横井時雄の説くキリスト教の教えと、その高潔な人格に深く心を打たれ、洗礼を受けて改宗を決意します。
信仰を選ぶにあたり、義富は信仰の妨げになると判断した酒造事業を廃し、米屋や運送業へと事業形態を改めました。
この決断は、信仰を個人の内面にとどめず、社会的実践として引き受ける姿勢を明確に示すものでした。
仕事のあり方そのものを見直す義富の姿は、今治教会を中心とする人々に静かな影響を与えていきます。
また柳瀬家は教育にも力を注ぎ、娘たちを神戸女学院で学ばせるなど、次世代の育成にも積極的でした。
五女・豊子は横井時雄の後妻となり、伝道活動を内側から支えます。
この縁によって、柳瀬家は横井家、新島襄、徳富蘆花とも姻戚関係を結び、今治教会を中心とした人的ネットワークはさらに広がっていきました。

今治教会と宮崎儀三郎、伊予ネルから世界へ
そして、今治教会の信徒の中から、伊予ネルの時代を支え、やがて今治タオルを世界へと押し出していく実業家も現れていきます。
その代表的な存在が、宮崎儀三郎(みあざき ぎさぶろう)でした。
宮崎儀三郎は、1867年(慶応三年)、今治の商家に生まれました。
矢野七三郎とは幼馴染の関係にあり、七三郎が興業舎を起こした際には、同じキリスト教信仰を持つ仲間として工場支配人を務め、伊予ネル事業の現場を実質的に支える存在となります。
信仰に基づく誠実さと、現場を知る実務能力を併せ持つ儀三郎は、七三郎の理想を現実の産業へと形づくる役割を果たしていました。
しかし1889年、矢野七三郎が凶行によって急逝すると、今治の繊維産業は再び大きな転機を迎えます。
儀三郎はこの混乱の中で独立し、「宮崎儀三郎商店(現:みやざきタオル)」を創業します。
ここから宮崎儀三郎は、単なる製造業者ではなく、繊維商社的な存在として今治産織物の新たな道を切り開いていきました。
宮崎商店は、綿織物の製造と販売を一体で行い、国内市場にとどまらず、奉天、天津、台北など海外にも支店を展開します。
今治港を拠点に、海を越えて製品を送り出すその姿は、港町今治の地の利と、教会を通じて培われた国際的な視野が結びついたものでした。
信仰に裏打ちされた取引の誠実さは海外でも評価され、宮崎商店は今治織物の信用を支える重要な役割を担うようになります。
宮崎家の歩みは、個人の成功にとどまりませんでした。
長男の清は一橋大学を卒業後、三井物産に入社し、のちに同社社長を務めるまでに至ります。
一方、次男の勝行は宮崎商店を継ぎ、地域経済や各種経済団体の要職を歴任しました。
このように宮崎家は、今治という地方都市から、日本の財界中枢へと人材を送り出す家系ともなっていきます。
そして、今治タオル史において決定的な役割を果たすのが、儀三郎の外孫にあたる宮崎研一(みやざきけんいち)です。
宮崎研一は、戦前から戦後にかけて今治タオル産業の中核を担い、特に戦後復興期において、産地全体をまとめ上げた最大の功労者の一人でした。
太平洋戦争末期、今治市街は空襲によって大きな被害を受け、タオル工場の多くが焼失します。
宮崎研一の工場も例外ではありませんでした。しかし研一は、いち早く再建に取り組み、個社の復興だけでなく、産地全体の再生を優先します。
戦後間もなく設立されたタオル調整組合において、研一は中四国地域の代表的指導者として、設備調整や品質管理、流通秩序の確立に尽力しました。
それは、目先の利益よりも、産地全体の信頼を守るという選択でした。
今治教会の信徒たちが切り開いた今治タオルの道
他にも、現在の今治タオルへとつながる技術革新や産業の歩みの中には、今治教会に連なる実業家や技術者の存在が見られます。
彼らに共通していたのは、信仰を私的な内面にとどめず、職業を通して社会に仕えるものとして引き受けていたという点でした。
産業は単なる生計の手段ではなく、町を支え、人を生かすための責任ある営みであるという意識が、今治教会を中心とする人々の間で共有されていたのです。
今治タオル草創期を担った一人が、阿部平助(あべ へいすけ)です。
阿部平助は今治藩御用商人の家系に生まれ、綿業に携わる中で、泉州で生産されていたタオルに将来性を見いだしました。
明治二十年代には織機を導入し、今治で本格的なタオル製造を開始します。
需要がまだ限られていた時代にあっても、綿ネルと並行しながら試行錯誤を重ね、今治の地にタオル産業の芽を着実に根づかせていきました。

この流れを大きく押し広げたのが、技術者の麓常三郎(つもと つねさぶろう)です。
麓常三郎は長年にわたる研究の末、「二挺筬バッタン」と呼ばれる高性能なタオル織機を開発しました。
この技術革新によって、生産効率と品質は飛躍的に向上し、今治では綿織物からタオルへと転業する事業者が急増します。
麓常三郎の存在は、今治タオルを地域産業の枠にとどまらない全国的な産地へと押し上げる決定的な契機となりました。
さらに、製品の価値を一段と高めたのが、中忠株式会社の創業者・中村忠左衛門(なかむらちゅうざえもん)です。
中村は、タオルは白いものという当時の常識にとらわれることなく、糸を染めてから織る「先晒し縞タオル」や、ジャカード機による模様表現を導入しました。
これにより、今治産タオルは実用品としてだけでなく、デザインを備えた製品としても高く評価されるようになっていきます。
今治の産業に息づく助け合いの精神
このように、今治タオルが長く品質と信頼を保ち続けてきた背景には、技術や設備だけではなく、今治教会を中心に育まれてきた精神的な土壌がありました。
誠実なものづくり、信用を重んじる取引、利益を独占するのではなく地域に還元しようとする姿勢。
こうした価値観は、今治タオルを支えた多くの事業者の間で、世代を超えて共有されてきました。
この精神的な土壌こそが、今治タオルの品質と信頼を長く支え続けてきた要因であったといえるでしょう。
そしてそれは、今治タオルだけではなく、港湾や海運、織物、造船といった今治の産業全体に通底する考え方でもありました。
仕事は単なるお金稼ぎの手段ではなく、地域を支え、人と人をつなぎ、豊かな人生を育むもの。
その意識が、今治という町の中で静かに共有されていったのです。
この価値観を育む場の一つとなっていたのが、今治教会でした。
教会は信仰の場であると同時に、人々が出会い、語り合い、互いの生き方や仕事のあり方を確かめ合う場でもありました。
そこで結ばれた信頼の輪が、町の中へと広がっていきます。
そして、このような考え方は、キリスト教という枠の中だけで完結するものではありませんでした。
今治の地域社会に古くから見られる無尽(むじん)の仕組みにも、よく似た精神が息づいています。
無尽は、互いを信じ、困ったときには支え合い、得た力を独り占めせず、順番に分かち合うための仕組みでした。
そこにあったのは、利益を追求するための制度というよりも、人と人との関係を守り、地域の暮らしを持続させるための知恵でした。
今治教会を中心に育まれてきた価値観と、無尽に象徴される地域の相互扶助の文化は、形こそ違えど、同じ方向を向いています。
仕事や経済を通して人をつなぎ、信頼を積み重ね、地域全体で生きていく。その感覚が、この町の中で重なり合いながら受け継がれてきたのです。
それは創立当初から、教会に集った人々の顔ぶれの中に、はっきりと表れていました。
今治教会の誕生とともに信仰を受け入れたのは、当時の町の暮らしを支えていた仕事人たちでした。
- 中谷卯三郎(石屋)
- 蜂谷徳三郎(小間物屋)
- 大倉治衛門(大工)
- 渡邊福治(鍛冶屋)
- 矢野万助(米屋)
- 真鍋定造(同志社学生)
石を扱い、物を売り、家を建て、鉄を打ち、米を扱う。
ここに並ぶ生業は、明治初期の今治という町の日常そのものです。今治教会は、最初から地域の暮らしと切り離された存在ではなく、町の営みのただ中に置かれた場でした。
今治教会を中心に育まれてきたこの精神は、時代が移っても、知らず知らずのうちに、私たちの生活の中で息づいています。
それらは特別なものとして意識されることなく、日々の暮らしの中で、自然に受け継がれてきました。
そしてそれは、幸せとは何か、どう生きればいいのかを、声高に語るのではなく、静かに私たちに教えてくれているようにも感じられます。