伊勢時雄の伝道と今治教会が果たした近代史的役割
明治維新を経て、日本は政治制度だけでなく、人々の思想や信仰のあり方においても大きな転換期を迎えました。
江戸時代を通じて厳しく禁じられてきたキリスト教は、1873年(明治六年)に禁制が解かれ、ようやく公の場で信仰することが許されるようになります。
この宗教的解禁は、単に信仰の自由が認められたという意味にとどまらず、西洋の思想や学問、価値観が本格的に日本社会へ流れ込む契機ともなりました。
各地でキリスト教の伝道が始まり、近代教育や社会事業と結びつきながら、新しい時代の精神を伝える役割を果たしていきます。
明治初期の今治も、こうした時代の大きな変化の中にありました。
廃藩置県によって藩政時代の支えを失った今治は、経済的な停滞に直面し、新たな都市の在り方を模索する時期を迎えていました。
かつて今治城の外堀であった金星川が内港へと注ぐ港町ではありましたが、港湾設備は十分とは言えず、城下町としての役割を終えた後の方向性は定まっていませんでした。
そのような状況の中で、今治の地に新しい思想としてもたらされたのが、プロテスタント系キリスト教でした。
キリスト教は、信仰としてだけでなく、西洋文明や近代的価値観を日本社会へ伝える貴重な媒介として、多くの人々の関心を集めたのです。
前回の記事はコチラ:【今治とキリスト教①】嵐が運んだ信仰、今治に残る隠れキリシタンの記憶

今治に訪れたアメリカ人宣教師
今治にキリスト教の種をまいた人物が、アメリカ人宣教師・ジョン・レイドロー・アトキンソン(John Laidlaw Atkinson)です。
アトキンソンはアメリカン・ボード(米国会衆派海外伝道団)から派遣され、西日本各地を巡りながら伝道活動を行っていました。
1876年(明治九年)、アトキンソンは松山での伝道を経て今治を訪れます。
当時、外国人宣教師の話を直接聞く機会は極めて珍しく、今治では宿屋や私邸、小学校の校舎などを会場として連日集会が開かれました。
わずか数日間で延べ二千人を超える人々が集まり、町の人口の三分の一近くがその話に耳を傾けたとされています。
集会の参加者は士族や商人、医師、学生など多岐にわたり、キリスト教は「新しい宗教」であると同時に、「新しい知識と思想に触れる場」として受け止められていたとされています。
それから二年後の1878年(明治十一年)に、今治においてプロテスタント信者が誕生しました。

初代牧師・伊勢時雄が築いた信仰の基盤
こうした伝道活動の積み重ねの中で、ついに1879年(明治十二年)九月二十一日、四国で最初となるプロテスタント教会「日本基督教団今治教会(日本キリスト教団今治教会)」が設立され、仮会堂が建てられました。
※以下、今治教会と記します。
そして、このような今治教会の性格を方向づけ、その基礎を築いた人物が、NHK大河ドラマ『八重の桜』にも描かれた、今治教会初代牧師・伊勢時雄(いせ ときお)でした。
時雄は1857年(安政四年)に肥後国下益城郡沼山津(現在の熊本県)に、幕末維新期の思想家として知られる横井小楠(よこいしょうなん)の元に生まれました。
幼少期より漢学や洋学に親しみ、明治四年、従兄・横井大平の勧めで熊本洋学校に入学しました。
そこで出会ったのが、アメリカ人教師・リロイ・ランシング・ジェーンズ(Leroy Lansing Janes)です。
ジェーンズは授業の傍ら、自宅に学生を招いて聖書講義を行い、若者たちに深い精神的影響を与えました。

その結果、1876年(明治九年)、三十五名の学生が熊本城外の花岡山に集い、「奉教趣意書」に署名し、キリストへの忠誠を誓います。
これが後に「熊本バンド」と呼ばれる集団です。
伊勢時雄もこの熊本バンドの一員でした。
熊本洋学校はこの動きを理由に廃校となりますが、時雄をはじめとする青年たちは新島襄の同志社英学校へと進み、日本人キリスト者としての学びを深めていきました。
伊勢時雄は同志社神学校の第一回卒業生となり、わずか21歳で今治に招かれ、今治教会の初代牧師に就任します。
若き牧師・伊勢時雄が今治で示した行動力は、当時の地方都市では異例といえるほど際立ったものでした。
1879年(明治十二年)に今治教会へ赴任すると、伊勢は礼拝や説教にとどまらず、講演会や聖書講義、家庭集会を各地で開き、人々の日常生活に寄り添うかたちでキリスト教の教えを伝えていきます。

地方都市に芽吹いた信仰の力
1880年(明治十三年)、教会は活動の広がりに合わせて恵美須町一丁目へと移転します。
ここで信徒たちの手によって仮会堂が建てられ、翌1881年(明治十四年)六月二日には、本格的な会堂が完成しました。
海を通じて外の世界と結ばれてきた今治という町において、この立地は決して偶然ではなかったと考えられます。
瀬戸内海を行き交う人や物、新しい情報や思想が集まる港のそばに教会が置かれたことで、今治教会は地域に根ざしながらも、日本各地、さらには海外ともつながる場となっていきました。
港町の一角に姿を現したこの会堂は、当時の今治ではほとんど見られない美しい外観をもつ建物で、その評判は今治の外にも広まり、人々の目を引く存在でした。
同年7月3日の開堂式には多くの関係者や信徒が集い、その中には新島襄・新島八重夫妻も含まれていました。
新島襄は、幕末に密出国してアメリカへ渡り、近代的なキリスト教教育を日本にもたらした人物として知られています。
帰国後は京都に同志社英学校(後の同志社大学)を創設し、「良心の教育」を掲げて、日本の近代教育とキリスト教の結びつきを象徴する存在となりました。
妻の新島八重もまた、会津藩出身で戊辰戦争を生き抜いた後、キリスト教に出会い、日本におけるキリスト教女性教育の草分けとなった人物です。
また、1884年(明治十七年)には、明治維新の立役者の一人である板垣退助も今治教会を訪れています。
このように著名人が、首都や大都市ではなく、地方都市である今治の教会開堂式に自ら足を運んだことからも、今治教会が当時のキリスト教界において注目される教会であったことがうかがえます。
実際に、伊勢の在任中、今治教会の受洗者数は年ごとに増え続け、わずか数年のうちに信徒数は急増しました。
その規模は、当時すでに日本有数の教勢を誇っていた神戸教会に次ぎ、西日本で二番目に数えられるほどに達していました。
港地・神戸という特別な環境に根差した大教会と肩を並べる存在へと、瀬戸内の一地方都市に過ぎなかった今治の教会が成長したことは、当時としては極めて異例の出来事でした。

今治で英語を学ぶ、教会が担ったもう一つの役割と文学
今治教会では、信仰を伝える場であることにとどまらず、人を育てる教育にも力を注ぎ、英学塾(英語学校)が設けられていました。
この英学塾には、後に文壇で活躍する徳富蘆花(とくとみ ろか)や、日本のキリスト教思想を代表する論客となる 村井知至(むらい ともよし)が教師として関わっています。
徳富蘆花(本名・徳富健次郎)は、1868年(明治元年)、熊本県水俣に生まれ、思想家・言論人として知られる徳富蘇峰(とくとみ そほう)の弟として育ちました。
1879年(明治十二年)夏、従兄であり今治教会牧師であった伊勢時雄を頼って今治を訪れました。
さらに1885年(明治十八年)3月には再び今治を訪れ、伊勢時雄のもとでキリスト教の教えに触れながら、今治英学校の教師として翌年6月まで滞在しました。

この時期は、信仰と現実、理想と迷いのあいだで揺れ動く多感な青春期にあたり、港と町が近接する今治での生活は、蘆花の精神形成に大きな影響を与えたと考えられます。
こうした体験は、のちに小説『黒い眼と茶色の目』をはじめ、『富士』『思出の記』などの作品として表現されていきました。
特に『黒い眼と茶色の目』には、地方の町で出会った人々の姿や、教会を中心に形成された思想的環境が色濃く反映されており、今治での経験が創作の背景となっていたことが読み取れます。
蘆花はその後、『不如帰』によって文名を高めますが、1918年(大正七年)8月には再び今治を訪れており、今治が特別な意味を持つ土地であったことを感じさせます。
また、今治の思い出は、1913年(大正二年)九月に大阪から別府までを旅した紀行文『木浦丸』の一節にも描かれ、桜花の吹揚城跡や島々の瀬戸の風景とともに追想されています。
こうした今治と徳富蘆花との深い関わりを今に伝えるため、1984年(昭和五十九年)10月、今治ロータリークラブの寄贈により、旧港湾ビル北側に徳富蘆花記念碑が建立されました。
設計は建築家・丹下健三、揮毫(きごう)は書家・村上三島、撰文は和田茂樹が担当しています。
その後、港湾地区におけるみなと再生事業の進展に伴い、2013年(平成二十五年)には記念碑は現在の「ふれあいマリン広場」へと移設されました。
建築、書、文章という三分野の表現が重ね合わされたこの記念碑は、文学者・徳富蘆花の足跡を今治の地に伝えています。

今治教会から生まれた社会へのまなざし
また、英学塾や教会をめぐる人のつながりは、文学や思想の分野にとどまらず、社会的な実践へと広がっていきました。
監獄教誨師として不良少年の更生に尽力した留岡幸助(とめおか こうすけ)も、伊勢時雄を頼って今治に身を寄せた人物の一人です。
留岡は、信仰を個人の内面に閉じるのではなく、社会の中で具体的に生かすこと、特に人命(じんめい)を尊ぶ実践に強い関心を抱いていました。
教会を中心とした交わりは、やがて教育や社会事業への志と結びつき、今治におけるキリスト教的精神文化の厚みを形づくっていきました。

海を越えて届いた教会の鐘が街に響く
この急速な教勢の拡大は日本国内にとどまらず、海外の宣教団体からも注目を集めました。
今治教会は、当時日本に多くの宣教師を派遣していたアメリカの宣教団体「アメリカン・ボード(米国会衆派海外伝道団)」から見ても、地方教会としては例外的な成長を遂げた、日本有数の教会の一つとして認識されていたとされています。
アメリカン・ボードは、幕末から明治期にかけて神戸や横浜、東京などを拠点に日本宣教を進めていた組織で、牧師の派遣や教会設立、教育事業を通じて日本の近代キリスト教の形成に大きな役割を果たしました。
その宣教活動の中心は、横浜や神戸、東京といった大都市に置かれるのが一般的であり、地方都市の教会が高い評価を受けることは、当時としてはきわめて異例のことでした。
1883年(明治十六年)12月、今治教会の発展を記念し、アメリカ・アイオワ州の会衆派教会連合からクリスマスプレゼントとして一基のブロンズ製の洋鐘(ベル)が贈られます。
地方都市の一教会に対して、海外の教会組織からこのような贈り物が届けられることは当時としては極めて珍しく、今治教会の活動が国外からも注目されていたことを物語っています。
翌1884年(明治十七年)には教会堂に尖塔と鐘楼が設けられ、洋鐘は朝夕に鳴らされるようになりました。
当初は、キリスト教に対する警戒感がなお残っていたため、鐘を鳴らすことに反対する声もあり、警察への届け出が必要とされる時期もあったといいます。
それでも、澄んだ鐘の音は次第に町の暮らしに溶け込み、やがて人々に時を知らせる存在として親しまれていきました。
日曜の礼拝時に限らず、平日の朝夕や、小学生の登校時刻を告げる合図としても用いられ、この鐘は「町の鐘」として今治の日常の一部となっていきます。
港町・今治に響いた洋鐘の音は、信仰の広がりを示すと同時に、地方都市でありながら外の世界とつながり、新しい文化や価値観を受け入れていく今治の姿を象徴するものでもありました。

今治を拠点にしたプロテスタント伝道
伊勢時雄の活動は、今治一地にとどまるものではありませんでした。
今治を拠点としながら、波止浜、伊予小松、西条、松山といった周辺地域にも積極的に足を運び、説教や集会を通じて各地にプロテスタント信仰の基礎を築いていきました。
これらの地域で形成された教会は、日本基督教会(日本組合基督教会)の系譜に連なり、四国全体におけるキリスト教受容の広がりに大きな影響を与えることになります。
こうした歩みの中で、今治教会は「四国最初のプロテスタント教会」と位置付けられるようになりました。
それは単に創立時期が早かったという理由だけでなく、今治を起点として四国各地へ信仰と人材を送り出した、その波及力が高く評価された結果であったと考えられます。
近代日本のはざまに生きた伊勢時雄の生涯
一方で伊勢時雄自身も、地方伝道の最前線で得た経験を通して、牧師としての役割を越え、より広い舞台で思想や教育に関わる道を志すようになっていきました。
1886年(明治十九年)、今治教会牧師を辞任した伊勢時雄は京都に戻り、同志社英学校(後の同志社大学)に関わることになります。
ここでは特定の教会を率いる立場から離れ、教育と思想の分野に軸足を移し、若い世代と向き合いながら、キリスト教的価値観と近代的な思考を伝えていきました。
東京で直面した信仰と制度の衝突
翌1887年(明治二十年)には東京へ移り、熊本バンドの一員として知られ、のちに同志社総長も務めたキリスト教指導者である海老名弾正(えびな だんじょう)の後任として、東京・弓町にあった本郷教会の牧師に就任します。
この頃、時雄は「伊勢」の姓を用いていましたが、1889年(明治二十二年)には生家の姓に戻り、「横井時雄」と名乗るようになりました。
余談ですが、その後も海老名弾正との縁は途切れることなく続き、1915年(大正4年)には、海老名が伊勢の妹と今治教会において結婚式を挙げています。
今治教会は、横井時雄の在任期を経て、こうした人と人とのつながりが重ねられていく場としても、長く記憶される存在となっていきました。
また、このころの今治には、ギリシャ正教会の信徒も存在しており、港町という土地柄のもとで、キリスト教もまた一つの流れにとどまらず、多様なかたちで受け入れられていたことがうかがえます。

本郷教会において時雄は、牧師として礼拝説教にあたる一方、積極的に言論活動にも関与していきます。
『基督教新聞』や『六合雑誌』の編集に携わり、当時日本で広がりつつあった自由主義神学の立場を紹介し、擁護する論陣を張りました。
その過程で、内村鑑三(うちむら かんぞう)をはじめとする思想家・知識人とも交流を深めています。
こうした思想的営為の集大成として、1894年(明治二十七年)、時雄は『我邦の基督教問題』を刊行しました。
この著作は、単なる教義解説にとどまらず、近代国家として歩み始めた日本社会において、キリスト教がどのような位置を占めるべきかを根本から問い直す内容であり、当時のキリスト教界に一定の反響を呼びました。
同じ1894年から1896年(明治二十九年)にかけて、時雄はアメリカに渡り、イェール大学神学校に留学します。
イェール在学中は神学に加え、哲学や歴史学なども幅広く学び、日本の教会とキリスト教思想を国際的な視野から捉え直す貴重な経験を重ねました。
1897年(明治三十年)に帰国すると、その学識と手腕が高く評価され、同志社の第3代社長(現在の総長)に就任します。
しかし在任中、徴兵猶予の特典を得ることを目的として校則から「キリスト教主義教育」の綱領を一時的に削除する措置をめぐり、学内で深刻な対立が生じました。
結果として、在任期間は約一年半にとどまり、1898年(明治三十一年)に辞任することとなります。
官僚から衆議院議員としての歩みと挫折
やがて時雄は、神学や教育の第一線から距離を置き、活動の場を学界から官界、さらに政界へと移していきます。
彼が最初に身を置いたのが、当時の中央官庁であった逓信省(ていしんしょう)でした。
逓信省は、郵便・電信・電話といった通信事業に加え、鉄道や海運なども所管する、近代日本のインフラを担う重要官庁です。
時雄はここで官房長を務め、行政の中枢に近い立場から国家運営に関わる経験を積みました。
こうした官界での経験を経て、1903年(明治三十六年)に立憲政友会(りっけんせいゆうかい)の公認候補として、岡山県郡部選挙区から衆議院議員に当選しました。
立憲政友会は、伊藤博文を中心に結成された当時最大規模の政党であり、官僚出身者や知識人を多く擁する現実政治の中核勢力でした。
時雄の当選は、思想家としてだけでなく、政策形成に直接関与する政治家としての道を切り開いた出来事でした。
近代国家の制度整備や経済政策に関心を寄せ、代議士として数年間、国政の舞台に立ちましたが、その政治家としての歩みは、決して長く続くものではありませんでした。
1909年(明治四十二年)、台湾の製糖事業をめぐる大規模な疑獄事件が発覚し、時雄もこの日本製糖汚職事件に関係した一人として逮捕・起訴されます。
この事件は、台湾の製糖事業をめぐる利権を守るため、企業側が複数の衆議院議員に金品を渡し、立法への影響力を行使しようとしたことが明るみに出たものでした。
政党政治と企業利益の癒着を白日の下にさらしたこの疑獄は、当時の社会に大きな衝撃を与えます。
時雄もこの事件に関与したとして捜査の対象となり、同年、逮捕・起訴されます。直接の首謀者ではなかったものの、立法に関わる立場にあった以上、その責任を免れることはできませんでした。
同年5月、時雄は責任を取る形で衆議院議員を辞職します。
そして同年8月、東京控訴院において、旧刑法に定められていた軽罪の主刑である一重禁錮5か月および追徴金2,500円の有罪判決を受け、位階・勲等も剥奪されたとされています。
この判決により、時雄の政治家としての歩みは、事実上ここで終止符を打たれることとなりました。

政界引退後の言論活動と国際社会へのまなざし
しかし、社会や国家の在り方を問い続ける姿勢は失われていませんでした。
やがてジャーナリストとして再起し、雑誌『時代思潮』を刊行するなど、社会評論や時事論評を通じて積極的に発言を続けていきます。
そこでは、特定の政党や立場に与するのではなく、近代日本が直面する課題を広い視野から捉え直そうとする姿勢が一貫していました。
政治の表舞台から退いた後も、時雄にとって「言論」はなお社会と関わるための重要な場であり続けたのです。
1919年(大正八年)には、第一次世界大戦後の国際秩序を定めるパリ講和会議に、日本代表団の一員として参加しました。
列強各国が主導する国際政治の現場に身を置いたこの経験は、日本という国家が世界の中で置かれている位置を改めて見つめ直す機会となりました。
晩年とその生涯が遺したもの
時雄は晩年になっても、出版や言論の分野に身を置き、社会への発言を続けていました。
激動の時代をくぐり抜けてきたその姿勢は、かつての政治的栄光や挫折とは異なる、静かな思索の時間へと移っていったとも言えるでしょう。
しかしその活動も長くは続かず、脳溢血で倒れます。
そして1927年(昭和二年)9月13日、療養先であった大分県別府市において、69歳でその生涯を閉じました。
墓所は京都市左京区の南禅寺天授院に置かれ、今もひっそりとその名をとどめています。
没後には『故横井時雄君追悼演説集(1928年)』が刊行され、宗教者、教育者、政治家、言論人として多方面にわたったその足跡が振り返られました。
理想を掲げて宗教界に立ち、国家の中枢に身を置き、やがて言論を通して社会を見つめ直した時雄の生涯は、近代日本が経験した思想と権力、信仰と現実の交錯を体現した、一人の近代人の軌跡として記録されています。

今治教会の継承と激動の時代へ
横井時雄が1886年(明治十九年)に今治教会牧師を辞任した後も、教会の働きが途切れることはありませんでした。
横井の後を受け、教会は複数の牧師によって引き継がれ、時代に応じた歩みを続けていきます。
1909年(明治四十二年)には教会堂の増築も行われるなど、教勢は着実に拡大していきました。
昭和に入ると、教会は次の世代の牧師たちへと引き継がれていきます。
昭和初期には菅原菊三が牧師として在任し、その後、中村三郎、さらに亀井政一が相次いで教会を導き、それぞれの時代の課題と向き合いながら牧会にあたりました。
そして1943年(昭和十八年)、椿真六が牧師に就任します。
教会はこの頃、太平洋戦争という国家的な危機の中に置かれ、やがて今治空襲という未曾有の出来事を迎えることになります。
今治教会の歩みもまた、戦争という時代の大きな流れの中に巻き込まれていくことになるのです。
その歴史をさらに進める前に、プロテスタントと並ぶもう一つの大きなキリスト教の教派である、カトリック教会(ローマ・カトリック教会)の今治における歩みを見てみましょう。
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