松山・宇和島、そして今治へ。愛媛県におけるカトリック布教の歩み
明治期の今治では、すでにプロテスタント教会が地域社会に定着していました。
港町として外の世界と結びついてきた今治は、新しい思想や文化を受け入れる素地を備えており、キリスト教もまた信仰であると同時に近代的価値観に触れる入り口として関心を集めていきます。
そうした流れの中で、カトリック教会の布教もまた、愛媛県内で少しずつ進んでいました。
前回の記事はコチラ:【今治とキリスト教②】明治の今治から始まった、四国最初のプロテスタント教会
イエズス会が伝えたカトリック信仰
愛媛県で最初に触れられたキリスト教は、16世紀にイエズス会の宣教師によってもたらされたカトリック信仰でした。
戦国期から江戸初期に史料に見える「キリシタン」は、すべてこのカトリック信仰を受け入れた人々を指しています。
例えば、戦国期に土佐一条氏の当主であった一条兼定(いちじょう かねさだ)が挙げられます。
一条兼定は、戦国の争いの中で土佐を追われた後、豊後国に滞在し、この地で宣教師から洗礼を受け、キリシタンとなりました。洗礼名は「パウロ」と伝えられています。
その後、兼定は伊予へ移り、宇和島沖の戸島に隠居し、同地で生涯を終えたとされています。
この事実は、愛媛がキリスト教とまったく無縁の土地ではなく、カトリックに改宗した人物が実際に流入し、その記憶が地域史の中に残された場所であったことを示しています。
もっとも、これは教会組織や信徒共同体が継続的に存在していたことを意味するものではありません。
あくまで、戦国期における個人レベルでの改宗や移動の記録であり、愛媛におけるキリスト教の「前史」として捉えるべきものです。
また、伊予国南部を治めた宇和島藩においても、禁教以前に洗礼を受けたとみられる武士やその家族が、家臣団の周辺に存在していたことが、藩政資料などから知られています。
こうした記録は、愛媛が「完全に白紙の土地」だったのではなく、近代以前からキリスト教と何らかの接点を持っていた地域であったことを物語っています。
明治以降の宣教は、こうした過去のカトリック信仰のあり方をそのまま受け継いだものではありません。
しかしそれは、何もないところから突然始まったのでもなく、過去の記憶と長い断絶を抱えた土地で、時間をかけて築き直されていった歩みだったことがわかります。

再び松山から始まった愛媛のカトリック布教
明治六年(1873年)にキリシタン禁制が解かれると、カトリック教会は日本各地で宣教活動を再開しました。
この再宣教の中心を担ったのは、フランスのパリ外国宣教会でした。
各地に司祭が派遣され、ミサの再開や信徒共同体の形成、さらに教育や救護といった社会的活動を通して、地域社会との関係を慎重に築いていきます。
四国において最初にカトリック司祭が到着したのは、1882年(明治十五年)3月のことでした。
高知県須崎に上陸したメリー・プレッシ神父の来訪が、その始まりであったとされています。
四国での宣教は、まず瀬戸内海や太平洋に面した港町を足がかりとし、そこから各県へと歩みを進めていく形で展開していきました。
愛媛県におけるカトリック布教が本格的に動き出す出発点となったのは、かつてイエズス会の宣教活動が行われていた歴史とも重なる松山市でした。
松山は行政と教育の中心都市であり、教会側から見ても布教の拠点を置きやすい場所であったと考えられます。
1885年(明治十八年)頃には、深堀達右ヱ門神父が大阪司教区から松山を巡回し、数名に洗礼を授けたと伝えられています。
ただし、この段階ではあくまで巡回伝道にとどまり、司祭が常駐して教会共同体を形成する体制はまだ整っていませんでした。
転機となったのは1887年(明治二十年)7月のことです。
パリ外国宣教会のエンリケ・ダリトン神父が松山に常駐し、ここから継続的な宣教活動の基盤づくりが始まりました。
その後も1890年代にかけて司祭が交替しながら伝道が続けられましたが、当時の松山ではキリスト教に対する関心は決して高いものではなく、布教の成果は「労多くして収穫は少ない」と表現されるほど、伸び悩んだとされています。
こうした状況の中で、宣教師たちは次第に説教中心の布教から、慈善や救護へと力点を移していきました。
病人や困窮者に寄り添い、医療や救貧といった実践を通して、地域社会との信頼関係を築く道を模索したのです。
信徒の数を急激に増やすのではなく、まずは受け入れられる土壌を整えること。
松山におけるカトリック布教は、そのような時間をかけた歩みとして進められていきました。

「日露戦争と松山」捕虜と信仰が交差した近代都市
松山のカトリック史を語る上で、最も特徴的な時期として挙げられるのが、日露戦争(1904~1905年)です。
この時期、松山は日本の中でも特別な役割を持つ都市として注目されるようになります。
日露戦争が続く中で、松山にはロシア兵を中心とする多数の捕虜が送致されました。
捕虜の中にはロシア人だけでなく、ポーランド出身のカトリック信徒も含まれていたとされています。

ポーランド人捕虜とカトリック信仰
当時のポーランドは独立国家ではなく、18世紀末の分割以降、その大部分がロシア帝国の支配下に置かれていました。
そのため、ポーランド人はロシア帝国の臣民として扱われ、意思とは関係なくロシア軍に徴兵される立場にありました。
日露戦争に出征したロシア軍の中にも、多くのポーランド人兵士が含まれていたのです。
また、ポーランド人の多くはロシア帝国による支配に反感を抱いており、「敵の敵は味方」という感情から、日本に対して内心では好意的な感情を持っていた者も少なくなかったとされています。
松山に送致された捕虜たちは、市内の寺院や公共施設を転用した収容施設に収められ、当時としては比較的自由度の高い環境のもとで生活していました。
この捕虜収容に際し、カトリック教会も重要な役割を果たしました。
司祭が当局の許可を得て収容施設を巡回し、カトリック信徒のためにミサを捧げたことが記録に残されています。
特にポーランド人捕虜にとって、母語や自らの信仰に基づく典礼に触れる機会は、異国の地で過ごす中で大きな精神的支えとなりました。
戦争という非常時の中で、カトリック教会は単なる宗教施設にとどまらず、地域社会の中で異国人を支える場として機能しました。

ロシア兵捕虜を支えたロシア正教会
日露戦争期の松山を考えるうえで、ロシア正教会の存在は欠かすことのできない要素です。
当時のロシア帝国において、ロシア正教会は国家と深く結びついた宗教であり、皇帝(ツァーリ)を頂点とする国家体制と一体となった、国教に準ずる存在でした。
そのため、ロシア人として生まれ育った兵士の多くは、特別な選択をすることなく、日々の生活と同じ延長として正教の信仰を身につけていました。
日露戦争中、松山には多数のロシア兵捕虜が収容されました。病や負傷によって帰国を果たせないまま亡くなる者もおり、松山の「ロシア兵墓地」には、百人近い捕虜が葬られたことが記録として残されています。
異国の地で命を終えた人々の存在は、戦争のもう一つの現実として、松山の近代史に重く刻まれています。

ロシア兵墓地 撮影:CT-May(Wikimedia Commons) CC BY-SA 4.0
日露戦争終結後、松山で亡くなったロシア兵たちの魂の安息を祈るため、1908年(明治41年)、松山市にはロシア正教の復活聖堂「松山ハリストス正教会(聖ニコライ聖堂)」が建立されました。
この聖堂は、捕虜という立場に置かれた兵士たちの信仰を尊重し、正教会の作法に基づいて祈りと葬送を行うための場として設けられたものであり、当時としてはきわめて人道的で先進的な対応であったと評価されています。
復活聖堂の建立費用はすべて、モスクワの篤信家であり大富豪・クセイア・フェオドロヴナ・コレスニコワ姉の献納によるものでした。
異国の地に倒れた無名の兵士たちのために私財を投じたこの行為には、正教信仰に基づく深い慈愛の精神が込められていました。
しかし、この松山の復活聖堂は恒久的に残されたわけではありませんでした。
1923年(大正12年)の関東大震災により、東京復活大聖堂(ニコライ堂)が壊滅的な被害を受けたため、日本正教会は礼拝の場を失うことになります。
その代替として選ばれたのが、松山に建てられていた復活聖堂でした。
聖堂は部材ごと丁寧に解体され、東京へと移送され、ニコライ堂境内において「奇蹟者聖ニコライ聖堂」として再建されます。
以後、この聖堂はニコライ堂復興までの間、奉神礼(礼拝)の場として使用されました。

ニコライ堂 撮影: ひとつめちびぃ(写真AC)
その後、建物の老朽化により、1962年(昭和37年)にこの旧松山聖堂は解体されますが、内部の聖具や調度品は各地の正教会に分けて受け継がれていきました。
旧松山復活聖堂のイコノスタス(聖障)は大阪の庇護聖堂へ、他のイコンは東京のニコライ堂へ、鐘は函館へと移されました(鐘はのちに供出され、現存していません)。
そして、堂内を照らしていたシャンデリアは、秋田県にある北鹿ハリストス正教会・曲田生神女福音会堂へと運ばれ、現在も使用されています。
このシャンデリアは、かつて松山でロシア兵捕虜たちの魂の安息を照らし、その後は震災後の東京で信徒たちを照らし、今は北国の地で祈りの場を照らし続けています。

北鹿ハリストス正教会聖堂 撮影:baggio4ever(Wikimedia Commons) CC BY-SA 4.0
松山に根を下ろし始めた四国カトリックとドミニコ会
このように、日露戦争期の松山では、ロシア兵捕虜のためのロシア正教会と、ポーランド人捕虜を中心とするカトリック教会という二つのキリスト教宗派が、同じ時期にそれぞれの信徒を支える形で共存していました。
このような状況は、日本の地方都市ではほとんど例のないものでした。
こうした日露戦争期と前後して、四国全体のカトリック宣教体制も大きな転換点を迎えます。
それまで四国の宣教はパリ外国宣教会が担っていましたが、二十世紀初頭になると、その担当はドミニコ会の司祭、特にスペイン人宣教師へと引き継がれていきました。
ドミニコ会は、13世紀初頭に聖ドミニコによって創設された修道会で、説教と教育を重視することを大きな特徴としています。
日本との関わりも古く、16世紀末から17世紀初頭にかけて宣教師が来日し、キリスト教迫害の時代には多くの殉教者も生みました。
いったん日本から姿を消したものの、明治期以降になると再び来日し、教育と司牧を軸とした宣教活動を再開することになったのです。
教会堂と教育が形づくった松山のカトリック
この宣教体制の転換により、松山にもドミニコ会司祭が着任しました。教会堂や司祭館の整備が進められるなど、宣教の基盤は次第に形を整えていきます。
これは単なる担当修道会の交代ではありませんでした。
説教と教育を重視するドミニコ会の伝統は、宣教のあり方そのものに影響を及ぼし、信徒教育の方法や、地域社会との関わり方にも変化をもたらしていきました。
1921年(大正十年)には、煉瓦造りの本格的な教会堂が建設され、松山の町に教会の鐘の音が響くようになりました。
教会が町の風景の一部となったことで、松山のカトリックは人々の日常の中に少しずつ溶け込んでいきます。
さらに1924年(大正十三年)末には、女子教育の場として美善女学校(現:聖カタリナ学園高等学校)の準備が進められ、翌1925年(大正十四年)に開校しました。
こうして松山のカトリックは、慈善と教育という二つの柱によって、地域社会に定着する形をようやく整えていきました。

南予・宇和島に築かれたカトリックの拠点
松山に続いて布教の拠点となっていったのが南予の宇和島です。
宇和島では1891年(明治二十四年)頃から伝道が始まり、フランス人司祭の派遣が行われたとされますが、当初は成果が乏しく、さらに日清戦争期の社会状況や、地域の空気も重なって苦しい時期が続きました。
その後、ドミニコ会の体制に移ってから、宇和島では教会堂が整えられ、ようやく共同体としての形が固まり始めます。
決定的だったのは1918年(大正七年)に着任したイシドロ・アダネス神父の長期司牧でした。
アダネス神父は長く宇和島に留まり、地域の人々に親しまれ、「宇和島の神父さん」と呼ばれたとも伝えられています。
宇和島では幼児教育にも力が注がれ、幼稚園の設立など、地域社会に根ざした活動が布教と並行して進められていきました。
南予の拠点が固まったことは、のちに周辺地域へと信仰の繋がりが伸びていく土台にもなりました。
港町・今治で始まったカトリック
松山や宇和島にカトリックの拠点が整えられていく一方で、東予の中心都市である今治市では、教会の設立が大きく遅れていました。
今治は造船や海運、繊維産業の発展によって工業都市化が進んでいたにもかかわらず、カトリックの布教はなかなか本格化しませんでした。
背景として考えられるのは、今治ではすでにプロテスタントが先行しており、1870年代から教会が形成され、地域社会に一定の影響力を持っていたことです。
そのためカトリック側は、拠点の整備や司祭配置の優先順位の中で、今治への展開を慎重に見極めていた可能性があります。
ただし、今治市内でカトリック信者の存在が確認されるのは大正期に入ってからです。
1915年(大正四年)には、広島方面から信者が今治に移り住み始め、中には、すでに今治で根付いていたプロテスタントへと改宗する人もいました。
都市としての将来性も含め、教会当局は東予地域での布教を、次第に重要な課題として意識するようになります。
今治で踏み出された小さな一歩
1925年(大正十四年)、松山三番町教会のクラウディオ・ニュト神父が、今治にカトリック教会を創建する計画を提案しました。
この構想は、長らくプロテスタントが先行してきた今治の地に、新たにカトリックの拠点を築こうとする、ささやかながらも重要な一歩でした。
同年十月中旬には、信者である松本好造氏が今治へ移り住み、恵美須町にあったプロテスタント系の今治教会近くの二階建て日本家屋を住居として使用することになります。
この民家は、やがて宣教と祈りの拠点となっていきました。
翌1926年(大正十五年)の正月を迎える頃、松山では今治での宣教開始に向けた準備が進められ、徳島から
マカリオ・ルイス神父が招かれます。
そして二月九日、プロテスタント宣教開始からおよそ半世紀を経たこの時期に、ルイス神父が今治へ派遣され、今治におけるカトリック宣教は本格的に動き始めました。
仮の礼拝所となった民家の室内には、「ピラールの聖母」の御絵が掲げられ、簡素ながらも祈りの場として整えられていきます。
ピラールの聖母は、スペインの古都サラゴサに伝わる聖母信仰で、聖母マリアが柱(ピラール)の上に現れたという伝承に由来します。
これはスペインでも最も古い聖母崇敬の一つであり、人々の生活と深く結びついた国民的信仰として知られています。
スペイン出身のルイス神父にとって、この聖母は異国の地で宣教に踏み出す際の精神的な支えであり、今治の地に新たな信仰の柱を打ち立てる象徴でもあったと考えられます。
カトリック今治教会は、特別な建物を構えるのではなく、町の暮らしの中に溶け込むような、ごく普通の民家からの、きわめて慎ましい出発でした。
翌二月十日、この仮聖堂において、今治で初めてのカトリックのミサが捧げられます。
参列者はわずか五名でしたが、この小さな集いこそが、今治におけるカトリック共同体の確かな第一歩となりました。
その中には、越智南海子という女性の姿がありました。娘の通子はその後も教会に通い続け、洗礼に先立って学ぶキリスト教の基本的な教えである要理(カテキズム)を学びながら信仰を深めていきます。
そして同年四月四日、通子は洗礼を受け、「マリア・ピラール」の霊名を授かったと伝えられています。
これは、今治の地で最初に確認されるカトリックの洗礼であったとされています。
仮聖堂に掲げられていた聖母の名を冠したこの洗礼名は、今治のカトリック信仰が、ピラールの聖母への信心とともに始まったことを象徴する出来事でもありました。
このように、集まった人々はごく少数でしたが、一つ一つの祈りと出会いを積み重ねながら、今治のカトリック共同体は、町の中で静かに、しかし確実に形づくられていくことになります。

教会から幼稚園へ。若葉幼稚園が果たした役割
今治のカトリックが地域に根を下ろしていくうえで、重要な役割を担ったのが教育事業です。
1933年(昭和八年)、今治では現在の宝来町に教会兼司祭館と付属幼稚園が建てられ、翌1934年(昭和九年)に幼稚園「若葉幼稚園」が開園します。
これは、今治におけるカトリック教会が、祈りの場を持つだけでなく、地域社会の中で具体的な役割を担おうとした最初の大きな試みでした。
当時の今治は、繊維産業や造船業の発展によって工業都市として成長を続けていましたが、人々の価値観や信仰の面では、なお伝統的で保守的な気風が色濃く残っていました。
そのため、大人が宗教としてカトリックに近づくことには、心理的な壁も少なくなかったと考えられます。
こうした状況の中で、若葉幼稚園は、教義を前面に掲げて人々を招く場ではなく、子どもを育てるという誰にとっても身近な営みを通して、町の暮らしの中へ静かに入り込んでいくための入り口となったのです。

戦時下を生きた今治のキリスト教徒
このように、今治におけるカトリックの歩みは、短期間で大きく広がるものではなく、町の成長と歩調を合わせながら、静かに、しかし確実に積み重ねられていきました。
しかし、その歩みもやがて避けることのできない時代の大きな転換点に直面します。
それが、太平洋戦争の始まりでした。
戦争は、社会の価値観や日常生活を根底から揺さぶり、宗教活動にも深い影を落としていきます。
今治の町に育まれてきた信仰の営みもまた、この激動の時代の中で、大きな試練を迎えることになるのです。
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