河野通盛と足利尊氏、世田山合戦へ続く運命の出会い
愛媛県今治市と西条市の境にそびえる標高339メートルの世田山。
そして、その尾根続きに連なる標高357メートルの笠松山。

山頂に立てば、北には来島海峡と瀬戸内海の島々、東には燧灘の穏やかな海原、南には霊峰・石鎚山を主峰とする石鎚連峰が広がります。


周囲を大きく見渡せる、開放感あふれる世田山と笠松山の麓には、古くから人々の営みと篤い信仰が息づいてきました。
世田山の南東の麓には、古くから「世田薬師」として地域の人々の信仰を集める名刹・栴檀寺があり、現在では登山客に親しまれる登山口ともなっています。


また、笠松山の麓に広がる野々瀬地域には、古墳時代の「野々瀬古墳群」が残されており、この一帯が遥か昔から人々の暮らしの中心地であったことを今に伝えています。

さらに、桜井地区の長沢、そして朝倉地区一帯には、飛鳥時代の女帝・斉明天皇にまつわる数多くの伝承や史跡も残されており、古代から瀬戸内海交通の重要拠点として栄えてきた歴史を感じさせます。
このように世田山・笠松山周辺は、古墳時代、飛鳥時代、そして南北朝時代へと続く、長い歴史の積み重なりの中で発展してきた地域だったのです。
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そして朝倉地区には、今治の地場産業であるタオル文化を発信する「タオル美術館」があります。

タオルの製造工程や歴史を紹介する展示をはじめ、館内にはタオルを使ったアート作品やキャラクター展示、美しいヨーロピアンガーデンなどが整備されており、世代を問わず楽しめる観光施設として知られています。

また、冬になると館内や庭園一帯は幻想的なイルミネーションで彩られ、昼間とはまた違った華やかな景観が広がり、今も多くの観光客を魅了しています。


しかし、こうした穏やかな自然と人々の暮らしに囲まれた山並みは、近年、二度にわたる大規模な山林火災に見舞われ、全国的にもその名が知られることになりました。
一度目の火災が起きたのは2008年8月24日。
今治市朝倉上から出火した火は、笠松山一帯へと瞬く間に燃え広がり、約107ヘクタールもの山林を焼き尽くしました。
懸命な消火活動の末、5日後にようやく鎮火したものの、黒く焼け焦げた山肌は地域の人々に大きな衝撃を与えました。
それから年月を経た2025年3月23日、二度目の悲劇が山を襲います。
今治市長沢の山林から出火した火災は、乾燥した気象条件と強風の影響により一気に拡大し、世田山・笠松山周辺の広大な山林を呑み込みました。
3月31日にようやく激しい燃え広がりが抑えられ、4月14日に完全な鎮火が宣言されるまで、焼損面積は約481.6ヘクタールに及びました。

これは平成以降の愛媛県内では最大規模の林野火災となり、建物への被害や避難指示が出されるなど、地域に深い爪痕を残しました。
今も山肌に残るその大火の傷跡は、私たちに自然の厳しさを伝えています。
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伊予の覇権を巡る「天然の要害」
この山々が人々の記憶に深く刻まれている理由は、近年の火災だけではありません。
遠く瀬戸内海を望むこの二つの山は、古くから「天然の要害」として恐れられ、同時に重宝されてきました。
山頂に立てば、周囲の動きを手に取るように一望することができます。北にはかつて国府が置かれた府中平野、東には瀬戸内海の海上交通、南には四国山地へと続く街道筋が広がります。
まさに伊予国の交通と軍事を押さえる最重要戦略拠点であり、中世には天然の地形を生かした堅固な山城が築かれ、国府防衛の要衝として幾度となく戦乱の舞台となりました。
中でも世田山は「伊予の剣」とも称され、この山を制することは、すなわち伊予の覇権を握ることを意味していました。
その重要性から、「世田山城が落ちれば伊予は亡ぶ」とまで語られたほどです。
その歴史の中でも、特に大規模な戦いは「世田山合戦」として歴史にその名を残しています。

そしてこの世田山合戦は、一度きりのものではありませんでした。
あまりに重要な拠点であったがゆえに、時代を超えて何度もこの地で激しい火花が散らされたのです。
美しい景色の裏に、激動の記憶を秘めた世田山。
今回は、伊予が歩んだ戦乱の時代、源平合戦、鎌倉幕府の隆盛と滅亡、そして南北朝時代へと続く足跡をたどりながら、激戦の地・世田山に秘められた記憶を追っていきます。
「伊予の名物・河野氏」瀬戸内海を駆けた名門の決断
その歴史を紐解く上で欠かせないのが、伊予の名門・河野氏の存在です。
河野氏と幕府との関わりは、源氏と平家が天下を争った「源平合戦」の時代にまでさかのぼります。
保元元年(1156年)、東禅寺に「若松丸」という一人の男子が生まれました。
この若松丸こそ、河野氏の当主として、源平合戦にその名を刻むことになる河野通信(こうのみちのぶ)です。
当時の伊予国では、河野氏が瀬戸内海に強大な勢力を持つ有力豪族として知られていました。
特に河野水軍は、複雑な潮流と海路を自在に操る「海の武士団」として名を馳せ、その勢力は伊予一国にとどまらず、瀬戸内海全域にまで及んでいました。
瀬戸内海は、潮の流れや風向きが激しく変化する難所として知られています。
しかし河野水軍は、その海を知り尽くしていました。
どの潮に乗れば最も早く進めるのか。
どの海峡が危険なのか。
どの風を利用すれば敵より先に動けるのか。
河野氏は、そうした“海を読む力”を武器に、海上交通と地域の守りを統率していたのです。
源平合戦への参戦と河野氏の活躍
平安時代後期になると、平清盛を頂点とする平家一門が急速に勢力を拡大していきます。
平家は、瀬戸内海の制海権を掌握し、中国大陸との貿易を支配するため、西国支配を強めていました。
その動きは、伊予の海を握っていた河野氏にとって、無視できない脅威となっていきます。
平家に従うのか。
それとも、自立を守るために戦うのか。
河野氏は、大きな決断を迫られていました。
そして治承四年(1180年)、源頼朝が平家打倒の兵を挙げると、河野氏はいち早く源氏方として立ち上がります。
これは単なる援軍ではありませんでした。
平家の勢力拡大に対抗し、一族の独立と伊予での地位を守るための、まさに命運を懸けた決断だったのです。
ところが、戦局は河野氏にとって厳しいものでした。
河野氏は一度平家軍に敗れ、通信の父・河野通清(こうのみちきよ)を失うという大きな打撃を受けます。
その跡を継いだのが河野通信でした。

通信は父の無念を胸に一族再興を誓い、再び河野水軍をまとめ上げると、源義経(みなもとのよしつね)とともに平家との決戦へ身を投じていきます。
その力が大きく発揮されたのが、「屋島の戦い」と「壇ノ浦の戦い」でした。
屋島では、河野水軍が瀬戸内海で平家軍を牽制することで、義経による奇襲作戦を成功へ導きました。

高松市街並みと瀬戸内海(香川県屋島山上からの眺望)(Adobe Stock)
さらに元暦二年(1185年)の壇ノ浦の戦いでは、関門海峡の激しい潮流を巧みに利用しながら平家軍を追い詰め、源氏勝利に大きく貢献しました。
こうして平家は滅亡し、長く続いた源平合戦は終結しました。

みもすそ川公園長州(壇ノ浦古戦場跡)(Adobe Stock)
鎌倉幕府の重鎮・河野通信
そして源頼朝は鎌倉に日本初の武家政権・鎌倉幕府を開き、日本は貴族から武士中心の時代へと移っていきます。
その中で、壇ノ浦をはじめ源氏勝利に大きく貢献した河野通信は、源氏の功臣として高く評価されました。
源頼朝からは「源氏・北条に次ぐは河野」とまで称えられ、幕府草創期の酒宴では、上座より源頼朝、北条時政、そして河野通信の順に座したとも伝えられています。
さらに通信は、頼朝の正室・北条政子の妹を妻に迎え、河野氏は鎌倉幕府中枢と血縁で結ばれることになりました。
こうして河野氏は、武力・政治・血縁のすべてにおいて、幕府有数の名門としての地位を築き上げていったのです。
しかし、その栄光は長くは続きませんでした。
壇ノ浦をともに戦った源義経が、やがて兄・頼朝と深く対立するようになったのです。
義経は朝廷との結びつきを強め、頼朝の許可を得ず官位を受けるなど、独自の行動を取るようになっていました。
これを危険視した頼朝は、ついに義経討伐を命じます。
兄に追われた義経は各地を流浪した末、奥州平泉(現:岩手県平泉)へ落ち延びました。
しかし、庇護していた奥州藤原氏も幕府の圧力には抗しきれず、文治五年(1189年)、義経は平泉で自害へと追い込まれます。

岩手 源義経公妻子の墓 撮影:kazu_m49(Photo AC)
そして、義経と深い絆を持っていた河野通信にも、幕府の疑いの目が向けられることになるのです。
その後、幕府の実権が源氏から北条氏へと移り変わるなかで、古参の御家人や朝廷の間には、次第に北条氏への不満が高まっていきました。
かつて源頼朝とともに戦場を駆け抜けた武士たちにとって、北条氏による政治の私物化は、源氏による武家政権とは別物に映っていたのかもしれません。
「承久の乱」河野一族を裂いた非情な生存戦略
承久三年(1221年)、ついに後鳥羽上皇が北条氏打倒を掲げて挙兵。
日本史上初となる、朝廷と武家政権の全面衝突「承久の乱(じょうきゅうのらん)」が勃発します。
この戦いは、河野氏一族を「幕府」と「朝廷」という二つの陣営へ引き裂く、過酷な運命をもたらしました。
当主・河野通信は、義経の一件以来抱いていた幕府への不信感に加え、息子たちが後鳥羽上皇の側近として仕えていたこともあり、朝廷方として挙兵します。
一方、北条氏と深い血縁関係にあった通信の子・河野通久(みちひさ)は幕府方へ残りました。
通久の母は北条政子の妹であり、通久自身もまた北条氏と深い血縁関係にあったためです。
これは、一族のどちらが敗れても血筋を残すための、乱世における“非情な生存戦略”であったとも言われています。
しかしそれは同時に、親子や兄弟が敵味方に分かれ、戦場で刃を向け合うという悲劇でもありました。
やがて戦いは、わずか一ヶ月ほどで幕府方の圧勝に終わります。
後鳥羽上皇は隠岐へ流され、朝廷の権威は大きく失墜しました。
敗れた河野通信は伊予へ戻り、高縄山城に籠もってなお抵抗を続けます。
しかし翌年、幕府は北条時房を大将とする大軍を伊予へ派遣しました。
河野氏は高縄山一帯で激しく抗戦したものの、圧倒的な兵力差を覆すことはできず、ついに敗北します。

高縄山の看板と夕日 撮影:たくSAN(写真AC)
そして通信は捕らえられ、河野氏惣領家の所領の多くを没収され、自らも奥州へ流罪となりました。
その流刑地は、かつて盟友・源義経が最期を迎えた奥州平泉でした。
源平合戦では義経とともに壇ノ浦まで戦い抜き、その後も義経討伐を拒んで鎌倉幕府と対立した通信にとって、平泉への配流はあまりにも皮肉な運命だったといえるでしょう。
貞応二年(1223年)、河野通信は平泉の地で、波乱に満ちた68年の生涯を静かに閉じました。

ひじり塚(photo library)
しかし、その名が忘れ去られることはありませんでした。
弘安三年(1280年)には、河野通信の孫で時宗の開祖「一遍上人(いっぺんしょうにん)」が、通信が流刑先で没した奥州平泉を訪れ、祖父の墓参りを行いました。
そして帰郷後、通信の位牌を東禅寺へ納めました。
以来、東禅寺は河野通信の菩提所として歴代河野氏の崇敬を集めることとなります。
通信の戒名は「東禅寺殿前豫州太守観光西念大居士(とうぜんじどの ぜんよしゅうたいしゅ かんこうさいねんだいこじ)」と伝えられ、現在も位牌が大切に守られています。

また一遍上人は、祖父・通信だけでなく、その父であり河野氏再興の礎を築いた曾祖父・河野通清(こうのみちきよ)の菩提をも深く弔いました。
弘安二年(1279年)、通清の百回忌にあたり、通清が壮絶な討死を遂げたと伝わる現在の山神古戦場跡で供養を行い、そこに万霊の闇を照らす「万霊塔」を建立したとされています。
一族の興亡、そして生と死を見つめ続けた一遍上人が残した祈りは、現在も大切に受け継がれています。


通久から続く伊予守護職を継承した「河野通有」
河野通信(こうのみちのぶ)の系統が没落した一方で、幕府方として戦った河野通久(こうのみちひさ)は、その戦功によって久米郡石井郷(現在の松山市東石井・西石井周辺)を与えられました。
さらに通久の系統が伊予守護職を継承したことで、河野氏は辛うじて宗家の断絶という危機を免れることになります。
その後、家督は通久の弟・河野通継(こうのみちつぐ)へと受け継がれ、さらに通継の子・河野通有(こうのみちあり・六郎通有)が家督を継承しました。

通有は、伊予国風早郡河野郷(現在の松山市北条地区)を本拠とし、後に善応寺が建立される場所に居館を構えていました。
さらに背後の双子山城を中心として、恵良山城・鹿島城・大山寺城・高縄山城などを連携させた防衛網を築き、伊予北部一帯を統治していたと考えられています。

また通有は、鎌倉幕府が京都に設置していた西国統治機関である六波羅探題(ろくはらたんだい)の指揮下で活動し、伊予の水軍を統率して瀬戸内海の海上警備や西国防衛にもあたっていました。
六波羅探題は朝廷や西国武士の監視・統制を担う幕府の重要機関であり、その信任を受けた河野氏は、西国有数の有力御家人として大きな勢力を誇るようになります。

美しい田園や瀬戸内海、街並みが見える風景。愛媛県松山市北条で撮影。(Adobe Stock)
蒙古襲来と河野氏の隆盛
こうして北条氏による統治体制は確固たるものになったかと思われましたが、13世紀後半、日本を襲った二度の蒙古襲来「元寇(1274年〜1281年)」が、幕府の足元を大きく揺るがすことになります。
この時、河野通有は瀬戸内海に勢力を持つ三島水軍(河野水軍)を率いて九州へ出陣し、博多湾防衛に参加しました。
さらに、村上頼久率いる村上水軍とも連携し、瀬戸内海屈指の海上戦力として元軍に立ち向かったのです。
とくに弘安の役では、河野水軍は夜陰に乗じて元軍船へ斬り込みをかけるなど果敢な海上戦を展開し、河野通有自身も自ら敵船へ乗り込んで奮戦したと伝えられています。

seaside aerial view in Fukuoka Japan(Adobe Stock)
こうした伊予の水軍の活躍は、西国武士たちの武勇を天下へ示すこととなり、河野氏は瀬戸内海防衛を担う有力御家人として、さらにその名を高めていきました。
元寇の役で大きな戦功を挙げた通有は、旧領の回復に加え、山崎荘(現在の伊予市周辺)や九州各地にも新たな所領を与えられ、再び高縄山城を本拠として勢力を伸ばしていきます。
しかし、その栄光の陰には、多くの犠牲がありました。
元寇では伯父・河野通時をはじめ、一族や家臣たちが命を落とし、激戦の爪痕は深く刻まれていました。
そこで通有は、弘安五年(1282年)、元寇で亡くなった一族や家臣、さらには敵味方を問わず戦没者の冥福を祈るため、周布郡北条郷(現在の西条市北条)にあった自らの館を改め、臨済宗の禅寺「海印山長福寺」を建立したと伝えられています。
長福寺は河野氏ゆかりの菩提寺として知られ、後に河野氏の精神的支柱となっていきました。

その後も通有は鎌倉幕府の厚い信任を受け続け、水軍を統率する西国有数の有力御家人として活躍します。
徳治二年(1307年)には、幕府から西国および熊野浦一帯における海賊追捕を命じられました。
熊野浦は古くから海上交通の要衝である一方、海賊行為も頻発していた地域であり、その鎮圧は容易な任務ではありませんでした。
通有は水軍を率いてこの任にあたり、瀬戸内海から紀伊水道にかけての海上秩序の維持に尽力したと伝えられています。
そして応長元年(1311年)7月14日、通有は62歳でその波乱の生涯を閉じました。
その遺骸は、自ら建立した長福寺に葬られたと伝えられています。
現在も長福寺の境内には、通有の墓とされる宝篋印塔が建ち、「長福寺殿天心紹晋大居士」の法名が刻まれています。
承久の乱による衰退から河野氏を立て直し、元寇という国難に立ち向かい、河野水軍を率いて瀬戸内海防衛の要となった通有。
その功績から、後世には「河野氏中興の祖」と称えられ、河野氏歴代当主の中でも屈指の名将として語り継がれているのです。

「元弘の乱」後醍醐天皇、討幕の旗を掲げる
河野氏が元寇での活躍によって勢力を回復した一方で、全国の多くの武士たちの間には不満が広がっていました。
元寇は異国からの侵略を防ぐための戦いであり、勝利したとしても新たな領地を獲得できる戦ではありませんでした。
そのため、莫大な軍費を費やし命懸けで戦ったにもかかわらず、鎌倉幕府は多くの御家人たちに十分な恩賞を与えることができなかったのです。
その結果、「命をかけて戦ったのに見返りがない」という不満が武士たちの間に広がり、やがて北条氏による専制政治への反発とも結びつき、討幕への機運へと変わっていきました。
元徳三年(1331年)、こうした情勢の中で後醍醐天皇はついに幕府打倒を掲げて挙兵します。
これが「元弘の乱(げんこうのらん)」です。
当初、この挙兵は失敗に終わり、後醍醐天皇は隠岐の西ノ島へ配流となりました。

隠岐 西ノ島 撮影:Lychee82(Photo AC)
しかし、楠木正成(くすのき まさしげ)や、播磨国(現在の兵庫県南西部)の有力武士・赤松則村(あかまつ のりむら・法名:円心)らが各地で抗戦を続けたことで、討幕運動は衰えることなく、やがて全国規模の反幕府運動へと発展していきました。
「幕府方と討幕方」二つに割れた伊予国
後醍醐天皇による討幕運動が全国へ広がるなか、その影響は伊予国にも及んでいました。
河野氏の当主・河野通盛(こうの みちもり・初名:通治)は幕府方として行動し、大船三百艘を率いて京都へ向かいました。
ところが伊予国内の河野氏一門は、必ずしも一枚岩ではありませんでした。
通盛が幕府方として行動する一方で、河野氏の庶流や配下の有力国衆たちのなかには、後醍醐天皇方に加わって戦う者たちも現れます。
その中には、土居氏・得能氏・重見氏をはじめ、後に村上水軍の祖として知られる村上義弘や、大山祇神社の神職として三島水軍を率いていた大祝氏らも含まれていました。
つまり、この時点ですでに伊予国内では、同じ河野氏一門やその被官層が異なる陣営に分かれており、後の南北朝争乱へとつながる対立の芽が生まれていたのです。
やがて土居氏・得能氏らを中心とする討幕軍は土佐方面へ進軍します。
その途中で幕府方の長門探題・北条時尚(または時直)と星ヶ岡(現在の愛媛県松山市星岡町)で激突しました。
戦いは討幕軍の勝利に終わり、北条時尚父子は行方不明になったと伝えられています。
この勝利によって伊予の討幕勢力は大きく勢いづきました。
四国各地から続々と武士たちが集まり、その兵力は六千余騎に達したともいわれる討幕軍は、今治浦から大船団を繰り出し、本格的な討幕戦へと乗り出したのです。
幕府方として戦った河野通盛の戦歴
一方、元弘三年(1333年)、後醍醐天皇方の勢力は全国で蜂起し、播磨では赤松則村(円心)が幕府軍を圧迫していました。
河野通盛は伊予の兵を率いて上洛し、鎌倉幕府の西国統治機関である六波羅探題軍に加わります。
当時の河野氏宗家は幕府から伊予守護職を与えられた有力御家人であり、幕府側として戦うことはごく自然な選択でした。
六波羅探題軍は赤松円心軍とたびたび交戦し、一時はこれを撃退することにも成功します。
この戦いで河野通盛と陶山次郎は大きな戦功を挙げ、通盛は対馬守に任じられ、将軍家から太刀を賜ったと伝えられています。
また陶山次郎も備中守に任じられ、褒賞として馬を与えられました。
しかし、戦局は急速に幕府不利へと傾いていきます。
「鎌倉幕府滅亡」有力御家人・足利尊氏の裏切り
鎌倉幕府は討幕勢力を鎮圧するため、有力御家人であった足利尊氏を西国へ派遣しました。
ところが尊氏は丹波国篠村において幕府への反旗を翻し、後醍醐天皇方へ寝返ります。
幕府の有力御家人であり、北条氏に次ぐ名門であった足利氏の離反は全国の武士たちに大きな衝撃を与えました。

足利市足利尊氏銅像 撮影:秋の夜長(写真AC)
そして元弘三年(1333年)5月、尊氏は京都へ進軍し、幕府の西国支配の拠点であった六波羅探題を攻略します。
さらに東国では新田義貞が挙兵し、鎌倉へ向けて進軍していました。
義貞軍は分倍河原や関戸などで幕府軍を破りながら鎌倉へ迫り、ついに鎌倉へ突入します。
追い詰められた執権・北条高時以下北条一門は東勝寺で自害し、ここに約150年続いた鎌倉幕府は滅亡しました。
「建武の新政の混乱」武士たちが選んだ新たな棟梁・足利尊氏
元弘三年(1333年)、鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇は、天皇自らが政治を行う新体制「建武の新政」を開始しました。
しかし、この新政は次第に大きな矛盾を抱えることになります。
後醍醐天皇は公家を重用し、自らに権力を集中させる政治を進めましたが、討幕のために命を懸けて戦った武士たちへの恩賞は十分ではありませんでした。
土地問題や所領争いも解決されず、多くの武士たちの不満は急速に高まっていきます。
こうした中、武家の棟梁として高い家格と強大な軍事力を持つ足利尊氏のもとへ、多くの武士たちが集まるようになりました。
「中先代の乱」足利尊氏と後醍醐天皇の関係に亀裂
そんな折の建武二年(1335年)、鎌倉では北条高時の遺児・北条時行(ほうじょうときゆき)が、信濃国(現在の長野県)の諏訪大社大祝・諏訪頼重(すわよりしげ)の庇護を受けて挙兵します。
当時の時行は、まだ8歳前後の幼い少年でした。
しかし、「鎌倉幕府を再興したい」と願う旧幕府勢力の期待を一身に集め、その旗印として担ぎ上げられたのです。
この戦いは「中先代の乱(なかせんだいのらん)」と呼ばれています。
「中先代」とは、鎌倉幕府を支配した北条氏を「先代」、後に室町幕府を開く足利氏を「当代」とした場合、その両者の間に立った北条時行を指す言葉です。
つまり中先代の乱とは、滅亡した北条氏による最後の鎌倉奪還戦だったのです。
時行軍は各地で勢力を拡大し、ついには足利尊氏の弟・足利直義(あしかがただよし)が守る鎌倉を奪還することに成功しました。
この報せを受けた尊氏は、後醍醐天皇へ出兵を願い出ます。
しかし、その際に征夷大将軍や惣追捕使への任命を求めました。
これらはいずれも全国の武士を統率するための強大な軍事権限を伴う役職であり、尊氏が武士の頂点に立つことを意味していました。
朝廷はこれを警戒し、出兵を認めませんでした。
足利氏の力がこれ以上強大になることは、後醍醐天皇にとっても大きな脅威だったのです。
ところが尊氏は朝命を待たず、自らの判断で出兵を決断します。
そして、わずか二週間ほどで北条時行軍を撃破すると、そのまま鎌倉に留まり、独自に恩賞を与え始めました。
さらに朝廷からの度重なる帰京命令も拒否したことで、後醍醐天皇との対立は決定的なものとなります。
こうして尊氏は、もはや朝廷の命令に従う一武将ではなく、武士たちを率いる新たな指導者として独自の道を歩み始めました。
これこそが、後の南北朝動乱、そして室町幕府成立へとつながる歴史の大きな転機となったのです。
一方、この激動の変化のなかで、伊予国の河野氏の宗家(本家)は滅亡の危機に瀕していました。
「通盛と尊氏」伊予の名門を救った運命の出会い
河野通盛は、京都防衛の要であった蓮華王院三十三間堂(れんげおういん さんじゅうさんげんどう)周辺で、足利尊氏率いる討幕軍と激しい戦闘を繰り広げました。
しかし戦局は次第に討幕軍へと傾き、通盛ら幕府方は奮戦むなしく敗北。
幕府の西国支配の拠点であった六波羅探題はついに崩壊し、通盛は京都からの撤退を余儀なくされます。

京都 蓮華王院 三十三間堂 撮影:秋の夜長(写真AC)
この京都をめぐる激戦の最中、通盛はあまりにも深い悲劇に見舞われていました。
それが嫡男・河野通遠(みちとお)の戦死です。
通遠は若くして武勇に優れ、河野家の将来を担う後継者として大きな期待を集めていましたが、大高二郎との戦いで壮絶な討死を遂げていたのです。
六波羅の陥落に加えて最愛の息子までをも失い、完全に政治的な後ろ盾と未来の希望を断たれた河野氏は、所領や官職、さらには一門としての未来までもが足元から大きく揺らぎ始めます。
もはや打つ手が尽きかけた通盛は、厳しい追及の目をかいくぐり、各地に身を隠して苦難の日々を送っていました。
せめて失われた所領だけでも回復しようと考えた通盛は、一縷の望みをかけて鎌倉へ向かい、幕府へ必死の訴えを起こしました。
しかし、この時には幕府の権威は完全に失墜しており、政治も破綻していたため、その訴えをまともに取り次ぐ者すら見つかりません。
頼るべき相手も、一族の未来を描く術も見出せない中、さらに追い打ちをかけるように最後の頼みの綱であった鎌倉幕府そのものが滅亡してしまったのです。
出家を決意した河野通盛
幕府の滅亡。
一族の没落。
そして最愛の嫡男の死。
度重なる苦難は、通盛の心に深い傷を残しました。
「いっそ出家して世を捨ててしまおう」
そう考えた通盛は、武士として生きることに終止符を打つ決意を固めると、一族や従者たちに暇を与え、相模国藤沢にある時宗の藤沢道場(現在の清浄光寺・遊行寺)を訪ねました。
ここは、河野通信の孫であり時宗の開祖となった一遍上人ゆかりの地であり、通盛はその深い縁を頼ったのです。

【神奈川県】藤沢市・清浄光寺(遊行寺) 撮影:@ぶらいあんと(写真AC)
通盛は藤沢の上人に対し、髪を下ろして出家したいと願い出ました。
しかし上人は涙を流しながら、「御家の事情はよく存じております。まずはしばらく当寺で心身を休めなさい」と優しく語りかけました。
さらに上人は続けます。
「あなたのご懇意はありがたいが、これは私が独断すべきことではありません。河野家といえば世間に隠れもない名門、むやみに家を捨ててはなりません。たとえご自身は世を捨てる気だとしても、後日のために幕府(朝廷)へ訴えを起こす道は残しておくべきです。我ら時宗の僧は世捨て人ですから世間の政務には無力ですが、鎌倉の建長寺に南山和尚という高僧がおられます。あの方は鎌倉将軍とも格別な繋がりをお持ちです。出家されるにしても、まずはあの方の門下に入れば、自然と家名回復の助けになる機会もあるでしょう」
その言葉に心を動かされた通盛は、自らの胸の内を打ち明けました。
「上人のお言葉は、まことにありがたく存じます。しかし私は今や頼るべき者もなく、どこへ願い出ればよいのかさえ分かりません。どうかお力添えをいただき、南山和尚へお取り次ぎいただけないでしょうか」
すべてを失い、どこへ向かえばいいかも分からぬ通盛の心細さを察した上人は、優しく微笑んで答えました。
「私は南山士雲和尚のもとへ常々参ってお話をうかがっておりますので、そのように大げさなことではございません。もし本当にそのお心であるならば、私がお供いたしましょう」
この心強い言葉通り、上人は自ら同行を引き受け、二人は鎌倉の建長寺へと向かいました。

冬の建長寺 三門 撮影:黄金色(写真AC)
足利尊氏との運命の出会い
上人の案内によって、通盛は南山和尚との面会を果たすことができました。
お互いに席に就き、落ち着いて言葉を交わすなか、通盛が自らこれまでの過酷な事情を語り出すと、南山和尚もその身の上をじっと聞き届け、深く同情しました。
「まことにお気の毒なことです。あの河野家といえば天下の名家であり、とりわけ貴殿は洛中(京都)においても名高く、比類なき武士であった方。それほどの御仁が今なお困窮し、このような世を捨てる志を持たれるにいたるとは……。しかし、人の世の習いとして栄枯盛衰は免れがたいものです。自然な折を見て私が将軍へお話しし、力になれるか試してみましょう。剃髪などのことは、幕府の宿老たちも承知していませんし、今は無益なことです」
和尚はそう言って通盛の出家を必死に思いとどまらせようとしました。
しかし、通盛はきっぱりとした口調で再三願い出ます。
「御教訓のお言葉、かたじけなく存じます。なお一層、御慈悲をこうむりたく存じます。ただ、私の心の半ばは、すでに深い道心(仏道を求める心)にあります。万一、南山和尚のお計らいによって所領などについての取り計らいが叶うのであれば、それは本国(伊予)にいる不肖の息子の名義に寄せて申し付けたいと思います。私自身は姿を変えて、心安らかに過ごしたいのです。そうである以上、どうか御慈悲を賜りたい」
我が子のために道を残しつつも、自らは仏に仕えたいという固い決意に、和尚もついに折れました。
通盛の鬢髪(びんぱつ:生え際の髪)を剃り落とし、戒名を「善恵(ぜんえ)」と定めたのです。
しかし、通盛が俗世を離れ、僧としての道を歩み始めようとしていたその時、一人の武人が寺を訪れました。
その人物こそ、かつて元弘の乱で幕府方の通盛と敵対し、鎌倉幕府を滅ぼした張本人、足利尊氏でした。
尊氏の到来を受け、まずは侍者を通じて御所の間へ案内が申し出られました。
すると尊氏からは使僧を通して、「まことにめでたいことである。しかし少々事情があるので、のちほど対面しよう」
との言葉が返ってきます。
やがて、尊氏と南山和尚との対談の席が設けられました。
南山和尚は静かに申し上げました。
「思いがけず一人の俗人が参りまして、出家を願い出ました。そのため、力の及ぶ限り発心(ほっしん)させ、剃髪を執り行っておりました。そのために尊氏公との対面が遅れてしまいました」
すると尊氏は「それは、どのような人物なのか」と尋ねたので、南山和尚はこう答えました。
「伊予国の本主である、河野対馬守(通盛)でございます。近年の逆乱(戦乱)に際しては、都と地方の間を奔走し、一族の骨身を惜しまず幕府のために尽力した人物であります。私どもにも縁がありましたので、本来ならばその多大な忠義の事情を前々から貴殿へ申し上げるべきでございましたが、恐れ多くもその機会を得られず、そのまま過ぎてしまいました。本人は長年、辛抱を重ねて家名の宿願を果たしたいと願っておりましたが、本国を離れて流浪するうちに、ついに術も尽き果ててしまいました。そこで今では出家して後世の安楽を願う身になろうと考え、愚僧の弟子になりたいと申しましたので、先ほど剃髪させたのでございます」
そう語るうちに、南山和尚は熱いものが込み上げ、御衣(法衣)の袖で涙をぬぐいました。
天下の武人がここまで追い詰められていた事実に、尊氏は深く感じ入り、激しい衝撃を受けました。
「まことに無念なことである。言語道断の扱いだ。私はそのことをまったく知らなかった」
尊氏は、河野家は代々続く名家であり、通盛もまた並ぶ者のない人物である。もし自らに服従するのであれば、これを取り立てるべきであると考え、ただちに側近たちへ命令を下しました。
奉行人たちは急ぎ召し出され、河野氏の戦功や没収された所領の経緯について詳しい調査が行われました。
すると関係者たちも、「南山和尚のお言葉のとおりでございます」と事実を認め、通盛の訴えに理があることが明らかとなったのです。
それを聞いた尊氏は、「それならば、速やかに所領を返付すべきである」と裁断し、河野氏旧領の回復を命じました。
あまりにも迅速な裁決に南山和尚も大いに喜び、「まことに結構なことでございます」と深く感謝したと伝えられています。
そして尊氏の命令は直ちに実行へ移されることとなりました。
まず建武二年(1335年)9月16日、足利尊氏は河野氏に対し「伊予国河野四郎通信以来の所領については、従来どおり安堵する」との安堵状を発給しました。
さらに建武三年(1336年)2月15日には、足利直義(館小路殿)が「元弘以来没収されていた所領については、従来どおり知行すべし」との文書を発給し、河野氏の所領支配を正式に認めます。
続いて同年3月18日、足利尊氏は「伊予国河野四郎通信以来の所領は本来の所領である以上、先例に従って沙汰(統治・支配)すべきである」との御教書を発給しました。
こうして河野通盛は長年失われていた所領を回復し、河野氏再興への大きな一歩を踏み出しました。
長く続いた流浪の日々は終わりを告げ、ついに故郷・伊予への帰国が現実のものとなったのです。
「河野家再興の日」
河野通盛は、足利尊氏・直義から本領安堵に加え、その権利を確実に執行させるための遵行状まで与えられ、ついに正式に故郷・伊予国への復帰を果たすことになりました。
このときまで通治に付き従っていた通賢(久万太郎左衛門尉通賢)は、「一度は断絶しかけた家運が再び興ったのは、ひとえに藤沢の上人の導きによるものである。私のような者までこの幸運にあずかれたのは天の恵みであり、上人の弟子となってその大恩に報いたい」と語り、自ら髪を剃って出家しました。
そして上人から「万阿弥陀仏」という法名を授けられます。
こうして通盛(善恵)と通賢(万阿弥陀仏)の二人は、ともに剃髪し、墨染めの僧衣をまとって故郷・伊予への帰路につきました。
その姿は、かつて甲冑に身を固めて戦場を駆けた武将の面影をほとんど残していませんでした。
頭を丸め、袈裟をまとった姿は、誰が見ても一介の僧侶そのものだったのです。
しかし、その僧衣は二人にとって何よりも尊いものでした。
まるで錦の衣をまとうかのように大切に身につけながら、二人は故郷への道を歩みます。
伊予へ帰国すると、一族や国衆たちは驚きながらもこれを歓迎しました。
そこにいたのは流浪の末に帰還した敗軍の将ではなく、苦難を乗り越えて戻ってきた河野氏の棟梁だったのです。
こうして通盛は再び河野氏の当主として迎え入れられ、長く続いた争乱の末に、河野氏はようやく本拠の地へ帰り着くことができたのでした。
新たな拠点の築城と南山和尚の法灯
その後、通盛は河野氏の新たな本拠として、道後の地に大規模な城の築城を開始しました。
一方、城の築城と並行して、通盛は信仰の面でも大きな事業を進めました。
南山士雲の大恩に報いるため、通盛は越智玉澄以来800年にわたり河野氏の居館であった河野郷土居館を、京都東福寺に擬した壮大な伽藍へと造り替えたのです。
その後、通盛はこの寺院を託すにふさわしい高僧を求めました。
当時の伊予には、大通寺の南浦紹明の法流をはじめ、南渓和尚、器岩和尚、竹亭和尚など、多くの高名な禅僧たちが活躍していました。
しかし通盛は、「私の命を救い、一族の危機を救ってくださったのは、建長寺の南山和尚のみである」と考え、ただ南山和尚の法流を受け継ぐことを願いました。
そこで府中の西念寺に住む樞浴主(すよくす)という僧に、熱い思いを打ち明けます。
「私は南山和尚の大慈悲によって三度の危難を救われ、一鉢三衣を授かりました。その慈恩によって命を保ち、さらに家督と所領を安堵されることとなりました。その御恩は幾度生まれ変わろうとも報い尽くせるものではありません。せめて南山和尚の門流の僧たちを住まわせ、その恩徳の万分の一でもお返ししたいのです」
すると樞浴主は、その志を称えながらも一人の高僧を推薦しました。
「そのご信心の深さはまことにありがたいことです。そうであるならば、中道前北条(現:愛媛県西条市北条)にある長福寺の正堂士顕和尚が近ごろ帰朝されています。この方は南山和尚のお弟子です。中国ではすでに四百余州にまで法の教えを広め、宗風を盛んにし、日本では顕侍者と呼ばれて並ぶ者のない名僧です。この和尚をお招きになり、開山の祖として崇敬なされるならば、それはすなわち南山和尚の余光が四海にまで照り渡ることになるでしょう」
これを聞いた通盛は「まことにその通りである」として、使者として通賢を派遣しました。
河野氏の信仰が宿る名刹「善応寺」
長福寺を訪れた通賢は、本坊の西の橋のたもとで、自ら法衣を干している一人の気取らない老僧と出会います。
通賢が用件を伝えると、老僧は一旦奥へ入られ、しばらくして鮮やかな黄色の掛絡(けさの一種)を身につけて厳かに出て来られ、対面されました。
その人物こそ、名高い正堂士顕和尚その人だったのです。

事情を聞いた和尚は快く招請を受け入れ、その日のうちに府中(現在の今治市付近)へ向かい、翌日には河野郷に新たに建立された寺院へ到着したと伝えられています。
善恵(通盛)がすぐに参拝し、開山として迎えたいとお願いしたところ、そのまま入院(住職就任)され、この寺を「称好山 善應寺(ぜんのうざん しょうこうじ・好成山 善応寺)」と号されました。
この名は、三島明神(大山積神)の本地仏(本来の姿である仏)である大通智勝仏(だいつうちしょうぶつ)が出世した国「好成国(こうじょうこく)」の名を表したものであり、河野氏の氏神への深い信仰と感謝が込められたものでした。
善応寺は時代を経た現在も法灯を受け継ぎ、河野氏ゆかりの寺院としてその歴史を伝えています。

湯築城築城と南北朝動乱の幕開け
そして、河野通盛は完成した城へと拠点を移しました。
それまで河野氏は高縄山城を本拠としていましたが、高縄山城は山中に築かれた典型的な山城であり、戦時の防御には優れていたものの、平時の政治や経済活動には必ずしも適した場所ではありませんでした。
一方、道後平野に築かれた新たな城は、伊予国内を統治するための政治拠点として優れた立地を備えていました。
陸路と海路の往来を押さえる交通の要衝であり、瀬戸内海の海上交通とも密接に結びついていたため、国衆たちを統率し、伊予一国を治める本拠地として理想的な場所だったのです。
この城こそが、現在の道後公園一帯に築かれたとされる湯築城(ゆづきじょう)です。
湯築城は単なる居城ではなく、河野氏の政治・軍事の中心として機能しました。
以後およそ200年にわたり河野氏の本拠となり、南北朝時代から戦国時代にかけて伊予国を代表する城郭として発展していきます。
戦国時代には幾度も周辺勢力との戦いの舞台となり、瀬戸内海の水軍勢力とも連携しながら、河野氏の権威と統治を支える重要な拠点となったのです。

南北朝の激動と引き裂かれた河野氏
一度は滅亡寸前まで追い込まれた河野氏は、通盛の帰国によって再び伊予の有力勢力として復活を遂げることになりました。
しかし、その前には新たな戦乱が待ち受けていました。
後醍醐天皇を奉じる南朝勢力と、足利尊氏を擁する北朝勢力との全面対決。
日本を二分する南北朝の動乱の中で、ようやく本領を回復した河野氏の家中もまた、南朝方と北朝方に分かれて対立することになりました。
河野氏再興の立役者となった河野通盛。
しかし、故郷の地で通盛を待ち受けていたのは、河野氏の再興ではなく、かつての仲間同士が二つに割れて争う未曾有の動乱だったのです。
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