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古くから信仰を集めてきた神社の由緒と、その土地に根付いた文化を紹介。

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蒙古襲来の記憶を伝える河野氏ゆかりの禅寺

愛媛県西条市北条(旧・壬生川町)に佇む「長福寺(ちょうふくじ)」は、戦国の時代から今に至るまで、地域の人々に静けさと安らぎをもたらしてきた臨済宗妙心寺派の禅寺です。

その創建は、伊予国の名族・河野氏の当主、河野通有(こうの みちあり・河野対馬守通有)公によるものと伝えられ、日本が国の命運をかけて立ち向かった「元寇(蒙古襲来)」が深く関わっています。

人類史上最大最強の帝国「モンゴル帝国」

13世紀当時、モンゴル帝国は史上最大級の領土を誇る超大国として、ユーラシア大陸を東西にまたぎ、アジアとヨーロッパを呑み込んでいました。

これを現在の国名でたとえるなら、中国・モンゴル・韓国・ロシア・カザフスタン・ウズベキスタン・イラン・イラク・トルコ・ウクライナ・ポーランド・ハンガリーなど、実に30か国以上の領土を一挙に支配していたことになります。

総面積はおよそ3300万平方キロメートル。これは、現代のロシアとアメリカと中国を足してもなお及ばない規模です。

当時の世界人口の半分近くが、モンゴル帝国の支配下にあったとも言われています。

では、なぜモンゴル帝国はこれほどまでに広い領土を手に入れることができたのでしょうか?

その答えは、軍事・組織・思想の3つの面で、当時の他国を圧倒していたからです。

① 驚異的な機動力を持つ騎馬軍団
  • 幼い頃から馬に乗り、身体の一部のように馬を操る習慣を持っていた。
  • 一日に100キロ以上を駆け抜けながら弓を放ち、敵を翻弄した。
  • 「逃げるふりをして敵を誘い込み、包囲する」など、戦術も非常に巧みだった。
② 組織力と柔軟さ
  • 軍隊は厳格な編制に従い、命令系統も明確に整っていた。
  • 征服地の技術者を積極的に活用し、実用的な知識や技術を吸収。
  • 火薬、投石器、造船など、当時の最新技術を即座に導入する柔軟性を持っていた。
③ 絶対的な征服思想
  • 「服属しない国は滅ぼす」という強硬な理念を掲げていた。
  • 降伏しない国や都市に対しては容赦なく侵攻・殲滅を行った。
  • あらゆる国・民族に対して妥協のない征服戦争を続けた。

このような軍事力・組織・思想の三拍子が揃っていたからこそ、モンゴル帝国は当時、どの国も逆らえないほどの最強の国だったのです。

大陸の覇者・フビライ・ハンが日本を狙う

そして、この巨大帝国の頂点に立ち、世界を見据えて指揮を執っていたのが「フビライ・ハン」です。

1271年、フビライは中国に「元」という新たな王朝を打ち立てました。

これは単なる王朝交代ではなく、遊牧国家モンゴルが中国王朝として正式に支配することを内外に示す、きわめて重要な転換点でした。

当時、中国南部にはまだ南宋(なんそう)という漢民族の王朝が存在し、激しい抵抗を続けていました。

しかしフビライは、軍事力と巧みな統治政策をもって南宋を徐々に追い詰め、長江流域から南方へと勢力を拡大していきます。

中国全土の統一は、もはや時間の問題となっていました。

そんな中で、次に目をつけたのが、海の向こうの日本列島でした。

東アジアの秩序を再編し、元を中心とする国際体制を築こうとするフビライにとって、日本は無視できない存在だったのです。

フビライにとって、日本は必ずしも最初から「征服すべき敵」ではありませんでした。

むしろ理想は、高麗と同じように属国とし、元を中心とする国際秩序の中に組み込むことでした。

仮に完全な属国化が難しくとも、朝貢という形式で従わせることができれば、形式上の服属を得ると同時に、交易という実利的な利益も確保できます。

これは、当時の中華世界における、ごく常識的な外交発想でした。

こうした判断のもと、1266年、フビライは高麗政府を通じて、日本の鎌倉幕府に対し、最初の外交使節を派遣し「元の支配を受け入れ、友好関係を結ぶよう」求めました。

鎌倉幕府の対応と元寇の始まり

しかし、鎌倉幕府はこれを無視し、返答を一切行いませんでした。

実は鎌倉幕府は、国家として体系的な外交を行った経験がほとんどなく、国外の国との外交を想定した制度も慣行も存在しなかったのです。

そのため幕府は、元からの使節に対して、積極的な対応を取ることも、明確な拒絶の返書を出すこともなく、結果として「何も返答しない」という態度を示しました。

1269年、フビライは再び元使潘阜を中心とする約70名の使節団を日本へ派遣します。

しかし彼らは対馬から先へ進むことすら許されず、やむなく対馬の島民二名を捕らえ、「日本に到達した証拠」として大都へ連れ帰ることになりました。

三度目の使節派遣において、フビライはこれまでとは異なる対応を取りました。

先に連れ帰っていた対馬の島民を日本へ送り返し、そのうえで改めて正式な国書を携えた使者を派遣したのです。

これは、日本との関係修復と外交交渉の再開を、なおも模索していた姿勢の表れだったと考えられます。

このときの国書は、元帝国の中枢機関である中書省から、日本の最高行政機関である太政官宛てに出された正式なものでした。

国書はついに京都の朝廷にまで届けられ、朝廷ではこれに対する返書を作成しようとします。すなわち、朝廷側は元との外交関係を一定程度は維持しようと考えていたのです。

しかし、この動きを鎌倉幕府が許しませんでした。

幕府は「返事に及ばず」として返書を差し止め、結果として元に対する正式な返答は、またしても行われないままとなります。

これは、朝廷と幕府という二重権力構造を持つ日本独特の政治体制が、対外関係において明確な意思表示を行えなかったことを意味していました。

フビライにとって、日本が国書に対して沈黙を貫くという行為は、単なる無礼ではなく、外交的意思表示そのものでした。

帝国の皇帝からの正式な文書に対し、返答を拒むことは、事実上の服属拒否であり、挑戦と受け取られても不思議ではありません。

こうして日本が「返答しない」という選択を重ねた結果、フビライは、外交によって日本を従わせる可能性はもはやないと判断します。

そして最終的に、力によって日本を屈服させる以外に道はないと結論づけ、軍事侵攻へと大きく舵を切ることになったのです。

「文永の役」最初の襲来と武力による威圧

1274年(文永11年)、元は朝鮮半島の高麗を従え、大規模な艦隊を編成して日本への出兵を命じました。

こうして始まったのが、日本史上最大級の危機ともいわれ、日本初の本格的な異国からの侵攻となった元寇(蒙古襲来)の幕開けとなる「文永の役」です。

元軍はまず対馬と壱岐を攻め、島の守備兵や民間人を容赦なく討ち取りながら進軍を続けました。

そして博多湾に上陸すると、数に勝る兵力と火薬兵器を用いて、あっという間に日本の武士たちを圧倒しました。

元軍の戦い方は、日本の伝統的な一騎討ちとはまるで異なっていました。

太鼓や銅鑼を打ち鳴らし、集団で一人を取り囲む戦法、さらには「てつはう(鉄砲の語源)」と呼ばれる火薬爆弾や毒矢といった未知の兵器を駆使し、日本側に大きな衝撃を与えました。

日本の武士が重んじてきた一騎討ちの作法は、集団戦を前提とする元軍の戦法の前ではほとんど通用しませんでした。

数と装備に勝る元軍は、短時間で日本側を圧倒します。

しかし、元軍は博多に長く留まることなく、わずか一日ほどで船に引き揚げました。

これは、当初から日本を滅ぼすことが目的ではなく、実力を誇示して日本に恐怖と従属を促すことが狙いだったと考えられています。

ところが、日本はこの圧力に屈することはありませんでした。

「弘安の役」大群で日本に侵攻

1275年、フビライは再び日本を服属させようと使者を派遣しました。

しかし、執権北条時宗はこれを一蹴し、使者を処刑します。国家を代表する使者の殺害は、事実上の宣戦布告に等しい行為でした。

しかし、幕府はこれに応じるどころか、使者を捕らえ、執権北条時宗の命により、鎌倉の竜ノ口で斬首するという強硬な対応に出ます。

これを知ったフビライは激怒し、全面戦争によって日本を屈服させることを決意します。

1279年、元は長年の宿敵・南宋をついに滅ぼし、中国全土を完全に掌握。

そして1281年、元は高麗軍に加え、降伏した南宋の軍勢までも動員し、数千隻の軍船と十数万の兵力をもって、日本に再び進軍を開始しました。

これが、後に「弘安の役」と呼ばれる、2度目の蒙古襲来です。

この大軍は、東路軍(元・高麗)と江南軍(旧南宋)に分かれて出発し、日本を挟み撃ちにする計画でした。

未曾有の国難の中で、日本の武士たちは、九州各地の海岸で防衛線を築き、激しい戦闘が繰り広げられました。

そして、伊予国の河野氏も、鎌倉幕府の執権・北条時宗より博多湾の防備を命じられ、兵を挙げて九州へと赴いたのです。

没落していた河野氏と、その運命を決めた時代

実は、この頃の河野氏は承久の乱によって没落していました。

その背景を理解するためには、時をさらにさかのぼり、平安時代末期の源氏と平家が激突した「源平合戦」のはじまりまで歴史を巻き戻す必要があります。

当時、平清盛を中心とする平氏は、朝廷の中枢を掌握し、「平家にあらずんば人にあらず」とまで称されるほどの権勢を誇っていました。

一方、源氏の棟梁・源義朝は平治の乱(1159年)で敗れ、命を落とします。その嫡男・源頼朝は伊豆へと流罪にされ、東国で長い幽閉生活を送っていました。

しかし治承4年(1180年)、後白河法皇の皇子・以仁王が平氏討伐の令旨を発し、これを受けて頼朝が伊豆で挙兵。

ここに、全国を巻き込む源平合戦の火蓋が切られます。

この戦いに、伊予国の有力武士である河野氏もいち早く加わります。

当主の河野通信(こうの みちのぶ)は、自らの率いる水軍をもって源氏に味方し、とくに源義経と深い信頼関係を築き、義経の盟友として壇ノ浦の戦いにおいても共に戦いました。

源平合戦は寿永4年(1185年)の壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡したことで、源氏の勝利に終わりました。

義経と共に華々しい戦功を挙げた河野通信は、頼朝から伊予国の統治権を正式に認められた上、頼朝の正室・北条政子の妹を妻に迎えるなど、北条家と政略的な縁戚関係を結び、一時は大きな栄華を誇りました。

源頼朝から「源、北条に次ぐのは河野よ」とまで讃えられ、鎌倉幕府が開かれた際の酒宴では、上座から順に源頼朝、義父である北条時政、そして三番目に河野通信が着座したと伝えられています。

しかしこの安定は、やがて崩れ始めます。

源頼朝と義経の間に深刻な対立が生じ、頼朝は義経を追討対象とし、義経は奥州平泉で自害に追い込まれます。

盟友だった義経の最期は、河野氏にも暗い影を落としました。

義経に近しい立場にあった河野通信も、幕府からの警戒を受けるようになり、徐々にその地位を弱めていきます。

さらに頼朝の死後、将軍家はわずか三代で断絶し、幕府の実権は北条氏へと完全に移ります。

この体制の変化の中で、かつての功臣である河野氏のような御家人たちは冷遇され、忠誠と従順ばかりが重視される政権運営のなかで、政治の主流から遠ざかっていきました。

一方で、朝廷もまた北条氏の台頭を快く思わず、両者の間には緊張が高まっていきます。

そしてついに、後鳥羽上皇は朝廷の威信回復と武家政権への対抗を決意し、承久3年(1221年)に幕府打倒を掲げて挙兵します。

これが「承久の乱」の始まりです。

朝廷方と幕府方への分裂…敵味方に分かれた河野氏一族

承久の乱において、河野通信は鎌倉幕府方(北条氏)ではなく、朝廷方である後鳥羽上皇方として参戦しました。

これは、源義経との関係から幕府に不信を抱かれていたことへの不満に加え、北条氏が御家人を強引に抑圧し始めたことへの反発が背景にあったと考えられます。

さらに、通信の子である河野通政、通俊、そして孫の通秀らは、すでに京都において後鳥羽上皇の側近として仕える西面武士となっていました。

そのため通信は、家族の動向とも歩調を合わせ、朝廷方に付くという選択をしたとも考えられます。

一方で、通信のもう一人の子、河野通久は幕府方に残りました。

通久は、北条時政の娘・谷の子として生まれました。

母の谷は、源頼朝の正妻である北条政子の妹にあたり、通久は母方を通じて鎌倉幕府中枢ときわめて近い立場にありました。

このような血縁関係から、一族のほとんどが朝廷方につく中にあっても、通久は幕府方に属して行動したと考えられます。

また、これは戦乱の世において河野氏一族の滅亡を避けるため、あえて一族の進路を分けた生存戦略であった可能性も考えられます。

河野氏のような地方豪族にとって、権力者たちの勢力争いが絶えない乱世では、一族の一部を異なる陣営に分散させることで、一族全体の滅亡を回避することが重要な手段でした。

しかし、こうした戦略は、家族が戦場で敵として向き合い、時には命を奪い合うという、きわめて過酷な運命をもたらすことにもなったのです。

承久の乱の結末と河野通信の最期

こうして始まった承久の乱は、多くの武士が後鳥羽上皇方に参じたものの、幕府もすぐに対応し、執権・北条義時の命を受けて、北条泰時を総大将とする鎌倉軍を京都へ派遣しました。

幕府軍は、日頃から戦闘訓練を重ねた武士によって組織され、統制も取れた精鋭部隊でした。

一方、上皇方は数こそ劣らなかったものの、急きょ動員された寄せ集めの軍勢で、貴族や戦闘経験の乏しい地方武士が中心だったため、統率に欠け、次第に士気を失っていきました。

京へ向かう鎌倉軍は各地で合戦を繰り広げ、次々と勝利を重ねて、ついには京都を制圧。

こうして承久の乱は幕府側の圧勝に終わります。

敗れた後鳥羽上皇は隠岐へ、順徳上皇は佐渡へ、それぞれ遠流とされ、上皇方に加わった武士たちも多くが処罰を受けました。

こうした中で、河野通信は通政と共に伊予へ戻り、高縄山城に籠もって幕府方に対する抵抗を続けました。

しかし翌年、幕府軍によって居城を攻められ、ついに降伏に追い込まれます。

通政は戦死、あるいは処刑されたとされ、河野氏の所領の多くは没収され、当主の通信は流罪となりました。

そして何の因果か、その流刑地はかつての戦友であった源義経が最期を迎えた奥州・平泉でした。

義経との絆を心に抱き続けた通信にとって、義経が眠るこの地での流罪は運命の皮肉ともいえるものでした。

それからわずか数年後の貞応二年(1223)、河野通信はその平泉の地において、68年の波乱に満ちた生涯を静かに終えました。

時が流れ、通信の孫にあたる「一遍上人(いっぺんしょうにん)」が、祖父の足跡をたどり平泉を訪れ、墓参りを行い、故郷に戻ると通信のお位牌を、河野通信が生まれ育った東禅寺へと納めました。

以来、東禅寺は通信の菩提寺として、河野氏の祖霊を祀る静かな祈りの場となり、今もなおその歴史を伝え続けています。

蒙古襲来、河野氏再興を賭けた戦いが始まる

こうして、当主・通信を失った河野氏でしたが、その血脈がここで断たれることはありませんでした。

承久の乱において鎌倉幕府方についた河野通久が、乱の終結後に家督を継ぎ、河野氏の当主となったのです。

もっとも、その再出発は決して平坦なものではありませんでした。

惣領家を継いだ通久のほかには、兄の通広や、配流後に赦免された通政の遺児らといった、わずかな庶流を残すのみで、一族の勢力は大きく縮小していました。

承久の乱が河野氏にもたらした打撃の深刻さが、ここからもうかがえます。

通久は乱における戦功によって、幕府から阿波国富田荘(現在の徳島県阿南市周辺)の地頭職を与えられました。

地頭職とは、鎌倉幕府が在地支配を任せた役職で、年貢の徴収や土地管理、治安維持などを担う立場です。

地頭に任じられることは幕府からの信任を意味しましたが、それは必ずしも旧来の所領や勢力が回復したことを示すものではありませんでした。

通久はやがて、この富田荘にとどまることを望まず、本拠である伊予との結びつきを重視します。

その結果、貞応二年(1223年)、富田荘の地頭職は、伊予国久米郡石井郷(現在の松山市)の地頭職と交換されることになりました。

それでもなお、承久の乱以前と比べれば、河野氏の所領は大きく削減されたままで、かつての有力豪族としての地位を失っていました。

再興の間で河野氏を二分した家督争い

河野通久を中心に、一族再興への歩みを進め始めた河野氏でしたが、その過程で、家中では次第に家督をめぐる深刻な対立が生じていきました。

通久には、嫡男の河野通時と、その弟である河野通継という二人の子がいました。

嘉禎三年(1237年)、兄の通時は父から、河野氏の本拠地である伊予国久米郡石井郷の地頭職を譲られ、当初は正統な後継者として扱われていたことがわかります。

このとき、弟の通継にも同郷内の別名の領地が与えられており、兄弟は石井郷の中で所領を分け合っていました。

しかしその後、通時は父・通久の妻妾と密懐(密通)した疑いをかけられ、父子の関係は大きく損なわれることになります。

最終的には、通時は家督継承の立場から外され、家中での地位を失ったと伝えられています。

一方で、弟の通継は次第に父の信任を得て、家中での立場を強めていきました。

こうした経緯を経て、文永四年(1267)、通久は通継に惣領の地位と石井郷全域などの主要な所領を譲り、正式に家督を継がせることになります。

この決定に対し、通時は強く反発しました。

「実際に妻妾と密懐していたのは弟の通継の方である」

通時は、この家督相続は不当であるとして鎌倉幕府に訴訟を起こしたのです。

こうして河野氏内部の対立は、公的な場で争われる事態へと発展しました。

この相論は長期に及びましたが、文永九年(1272年)、幕府の裁定によって一定の決着が図られます。

このときは、通継が惣領として家督を継ぐことを認める一方で、通時に対して石井郷内の一部を分与する形で和与が成立しました。

ただし、この裁定において通時と和解した相手は、すでに通継の後継者となっていた河野通有でした。

さらに、当時の幕府裁許状には「通継はすでに死去しており、その密懐疑惑については審理の対象としなかった」旨が記されていることから、通継はこの時点ですでに没していたと考えられています。

なお、密懐をめぐる主張については、通時・通継の双方が互いに相手の不義を訴えており、その真偽を確定することは困難です。

当時、この種の訴えは家督争いにおいて相手を失脚させるための常套的な手段として用いられることも多く、通時が後継者の地位を失った理由が密懐そのものにあったのか、それとも一族内の権力関係や後継問題に起因するものだったのかについては、なお議論の余地が残されています。

国難に際して求められた河野氏の水軍力

このような経緯を経て、正式に一族を率いる立場となった河野通有に、やがて鎌倉幕府から重大な命が下されます。

それが、二度目の蒙古襲来である弘安四年(1281)の「弘安の役」において、博多湾沿岸の防備にあたることでした。

弘安の役では、前回の文永の役を大きく上回る規模で元軍が来襲すると予測されており、日本側は九州北部を中心に、陸海両面からの防衛体制を整える必要に迫られていました。

なかでも博多湾は、元軍が上陸を狙う最重要地点とされ、その防備は幕府にとって国家の命運を左右する重大な課題でした。

このため幕府は、九州の御家人だけでなく、瀬戸内海に強力な水軍を擁する諸勢力にも出陣を命じます。

元軍の侵攻は九州沿岸を主戦場としていましたが、その大軍を支えるためには、兵站を維持する補給路と安定した海上交通の確保が不可欠でした。

仮に上陸戦で優位に立ったとしても、海上からの補給が断たれれば、遠征軍は長期的な作戦行動を続けることができません。

このため日本側にとっては、元軍を陸上で迎え撃つだけでなく、周辺海域において元軍の船団や補給路を攪乱し、海上交通を遮断することが防衛戦略の重要な柱となっていました。

こうした状況の中で、瀬戸内海に勢力を持つ水軍の参戦は、日本側にとって極めて重要な意味を持っていました。

瀬戸内海は西国と九州を結ぶ海上交通の要衝であり、ここを掌握する水軍は、九州北部へ向かう航路や潮流を熟知し、状況に応じて迅速に移動しながら柔軟な戦闘行動を展開することができたからです。

なかでも、伊予を本拠とし、瀬戸内海の複雑な潮流や航路に精通しつつ、代々水軍を統率してきた河野氏の存在は大きなものでした。

河野氏の水軍は、単なる防備にとどまらず、元軍の船団に直接打撃を与えうる重要な戦力として大きな期待を寄せられていたのです。

大山祇神社に伝わる河野通有の伝説

河野通有は、自らが棟梁を務める三島水軍(伊予水軍・河野水軍)を率い、河野一族の有力者である河野通純や、かつて家督争いを経て和解していた伯父の河野通時とともに、博多湾防備のため参陣しました。

通有は戦地へ向かうにあたり、伊予国大三島に鎮座する大山祇神社を訪れたと伝えられています。

大山祇神社は、大山積神を祀る神社として、古代伊予の有力豪族である越智氏によって建立されたと伝えられています。

大山積神は一柱の神でありながら、さまざまな名で呼ばれてきました。

代表的なものとしては「大山積大神(おおやまづみのおおかみ)」のほか、「三島明神」「三島大明神(三嶋大明神)」「三島大神」などがあり、地域や時代、信仰の文脈によって呼称が使い分けられてきました。

大山積神は単なる山の神にとどまらず、瀬戸内海の海上交通と航海安全、さらには武運長久をも司る神として信仰されてきました。

その神格の高さから、古来「日本総鎮守」とも称され、朝廷や武士、水軍関係者から特別な崇敬を集めてきたのです。

越智氏は、代々この大山積大神を一族の祖神として篤く崇敬してきました。

山と海の両方を守護する神を氏神とすることは、伊予から瀬戸内海一帯に勢力を張る越智氏の支配と深く結びついており、その宗教的権威は一族の基盤でもありました。

そして、越智氏の後裔を称する河野氏もまた、その血脈を引く一族として、大山積神への信仰を祖先以来の氏神信仰として受け継いできました。

代々の当主は、大事に臨む前には必ず神前に立ち、誓いを立て、神意を受けてから行動に移ることを重んじていたと伝えられています。

大山積大神への感謝と祈願は、河野一族にとって武運と家門の安泰を願う根幹的な行為であり、とりわけ国家の命運を左右するような大事の前には、神意を受けてから戦に臨むことが重んじられていたのです。

社伝によれば、このとき通有は「十年のうち蒙古寄せ来たらずば、異国へ渡りて合戦すべき」との起請文を書き、氏神である三島社に誓いを立て、その文を焼いて灰を飲んだといいます。

これは、たとえ元軍が再び来襲しなかったとしても、自ら異国へ渡って戦う覚悟を示したものであり、通有の悲壮な決意と、一族の武運長久を神に託す強い思いを象徴する逸話として語り継がれてきました。

さらに通有は、出陣に際して神門の脇にそびえる大楠に自らの兜を掛けたとも伝えられています。

これが、現在も大山祇神社の境内に雄々しく根を張る「河野通有兜掛の楠」です。

この大楠は、現在は枯れてしまいましたが、河野氏が国難に際して示した覚悟と祈りを今に伝える存在として、社殿の側に横たわっています。

河野氏の軍に加わった瀬戸内の海賊衆「村上水軍」

そして、九州へと向かう河野氏の水軍の中には、もう一つ重要な戦力が存在していました。

それが、瀬戸内海において河野氏と古くから協力関係を築いてきた、村上氏の水軍です。

当時、伊予から瀬戸内一帯の海域では、「海賊衆」と呼ばれる海の武士団が、海を舞台に独自の軍事勢力を築いていました。

彼らは単なる略奪者ではなく、海上交通の掌握や警固、戦時における水上戦闘を担う存在として、在地の有力勢力と結びつきながら活動していた集団でした。

その中でも、特に強い影響力を誇っていたのが、村上氏の率いる水軍、いわゆる村上水軍です。

瀬戸内海の要所を拠点とし、高い航海技術と戦闘力を備えた村上水軍は、海上の動向を左右する存在として知られていました。

このとき、その村上水軍を率いていたのが、第四代当主とされる村上頼久でした。

頼久は河野十八衆の筆頭として位置づけられ、水軍を率いる立場にあり、伊予と芸予の海上勢力を結びつける要の存在でした。

さらにそれだけではなく、村上頼久は河野氏の血を引いていたとも伝えられています。

村上氏は、第56代「清和天皇(せいわてんのう)」の皇子を祖とする源氏の名門氏族である清和源氏頼信流に連なる一族と伝えられ、源頼信の次男・源頼清の嫡男である源仲宗の代から「村上」を称したとされています。

仲宗の次男・顕清は、兄・唯清が関与した白河上皇呪詛事件に連座して信濃へ配流され、村上郷に居住しました。

その子孫の一人・村上為国は、戦国時代に東北信一帯に勢力を誇った信濃村上氏の祖となったといわれています。

一方、保元の乱(1156)後、瀬戸内海方面から伊予へと進出した一族もいました。

この系統は、後に伊予村上氏と呼ばれるようになります。

伊予村上氏は淡路島を経て讃岐の塩飽諸島に居住していましたが、平治の乱(1159年)を契機として平家が海上支配を強化したため、さらに西へと移動しました。

そして永暦元年(1160)、伊予の越智大島(現在の今治市大島)へと拠点を移したと伝えられています。

この人物こそが、伊予村上氏の祖であり、のちに村上水軍の祖とも称される村上定国(むらかみ さだくに)です。

定国が伊予へ移住した背景には、祖父・村上仲宗と、河野氏当主であった 河野親経 との間にあった古くからの協力関係があったと考えられています。

こうした河野氏との結びつきが、村上氏の伊予進出を後押ししたのでしょう。

それを裏づけるように、定国の嫡子・ 村上清長 は河野氏の家臣となり、大島の亀老山山頂(現:亀老山展望公園)に隈ヶ嶽城を築き、水軍としての基盤を固めていきました。

清長の子・村上頼冬もまた河野家に仕え、源平合戦では源氏方として数々の武功を挙げたと伝えられています。

しかし、頼冬には実子がなく、後継者の確保が大きな課題となっていました。

そこで迎えられたのが、河野通信の弟・河野通吉の子である亀千代丸でした。

養子となった亀千代丸は名を、「村上左衛門太夫頼久(村上頼久)」と改め、のちに日向守頼久(ひゅうがのかみ よりひさ)とも称しました。

このように河野氏と村上氏は、軍事的な協力関係にとどまらず、血縁によっても強く結ばれていたのです。

国家存亡の危機で証明された河野氏水軍の実力

そしていよいよ、河野氏と村上氏の水軍は、決戦の地・北九州へと到着します。

瀬戸内海を発し、幾多の島々を越えて玄界灘へと進出したその船団の前には、これまで経験したことのない光景が広がっていました。

海原一面を埋め尽くすかのように浮かぶ元軍の大船団。

江南軍と、高麗を基盤とする四万の兵からなる東路軍を合わせ、総勢十数万ともいわれる兵を載せた軍船は、およそ四千隻に及んでいました。

その威容は、瀬戸内海で数々の海戦を経験してきた水軍の兵たちでさえ、思わず息をのむほどのものでした。

当時の日本人にとって、これほどの規模の艦隊を前にするのは、まさに前代未聞の出来事でした。

これは単なる一地方の戦いではなく、国家の存亡を懸けた、かつて経験したことのない未曾有の海戦だったのです。

戦地に舞い降りた白鷺の伝説

元軍は筑前国の海岸に迫りましたが、博多湾沿岸に築かれていた堅固な石塁によって、容易に上陸することができませんでした。

河野通有は、この石塁を背にして前線に陣を構え、その前に布陣したことから、将兵たちはこれを「河野の後築地」と呼び、その大胆さと覚悟に驚嘆したと伝えられています。

河野通有と村上頼久が率いる水軍は、元軍の艦隊に対して火矢を浴びせ、敵船を焼き払うとともに、夜陰に乗じて果敢な切り込みを繰り返しました。

日本側の水軍が採った戦法は、敵船に接近して乗り移る接舷戦を基本とするもので、火砲を持たない時代においては、最も実践的な戦い方でした。

特に瀬戸内海の荒海で鍛えられた河野氏の水軍は、複雑な潮流や風向きを読み、小舟を自在に操る技量を備えていました。

数では圧倒的に劣っていたものの、こうした経験に裏打ちされた戦いによって、元軍の行動を攪乱し、侵攻作戦の進行を大きく妨げたのです。

志賀島周辺の戦いでは、夜の闇に紛れ、河野通有自らが二隻の小舟を操って元軍の大艦に接近し、奇襲を仕掛けました。

敵船に乗り込んで激しい戦闘を繰り広げ、ついには敵将を捕らえるという戦果を挙げたとされ、この奮戦は日本の軍の士気を大いに高めました。

この戦いには、象徴的な伝承も残されています。

出陣の途上、通有のもとに一羽の白鷺が舞い降り、矢を咥えて敵将のいる船の方角を示したというのです。

瀬戸内における三嶋信仰では、白鷺は神の導きとして現れる縁起の良い鳥と考えられてきました。

この信仰は、鴨部神社の地に眠ると伝えられている、古代伊予の豪族・越智益躬が、靺鞨の将「鉄人」を討伐したという伝承に由来します。

鉄人を貫いた神の刃…越智益躬と白鷺の伝説

今からおよそ1300年前、靺鞨(まっかつ)という民族が、北東アジア(現在の中国東北部やロシア沿海州)一帯に広く住んでおり、ツングース系の強大な戦士民族として、周辺諸国から恐れられていました。

その靺鞨の中に、「鉄人」と名乗る特に恐るべき武将がいました。

※一説には、この鉄人は靺鞨ではなく、当時の朝鮮半島にあった新羅・百済・高句麗、いわゆる三韓のいずれかに仕えていたとも言われており、その出自には諸説あります。

鉄人は、卓越した知略と圧倒的な武力を兼ね備えた存在で、その名を聞くだけで人々を震え上がらせるほどでした。

そんな鉄人が、あろうことか8000人もの靺鞨の兵を率いて海を越え、筑紫の国(現在の九州地方)から侵攻を開始したのです。

これは、当時の日本にとってまさに未曾有の危機でした。

日本も必死に応戦しましたが、ようやく鉄人を包囲したかと思えば、突如「風雨の術」と呼ばれる神秘の力を操り、戦場に暴風と豪雨を巻き起こして混乱を招き、包囲網をあざ笑うかのように突破していきました。

兵たちは翻弄され、多くの戦死者を出るなかで、もはや手のつけようがない状況に陥っていきました。

さらに鉄人には、ただ戦うだけでなく、倒した人々を食べるという恐ろしい噂まで流れていました。

このため、地域の老人や女性、子どもたちは山林に身を潜め、日夜、命の危険と隣り合わせの恐怖の中で暮らすしかありませんでした。

暮らしは悲惨を極め、誰もが「次は我が身か」と怯えながら日々を送っていたのです。

そしてついに、鉄人が筑紫の国から都(京都)へと攻め上がろうとしていることが明らかになると、朝廷は深刻な危機感を抱きます。

もはや一刻の猶予も許されぬ状況の中、国家の命運を託されたのが、文武両道に優れた古代伊予の豪族「小千益躬・(越智益躬・おちのますみ)でした。

朝廷から鉄人討伐の勅命を受けた越智益躬は、戦に向かうにあたり一族の守護神である「大山積神(三嶋大明神・三島大明神・大山祇神)」に、七日七夜(一週間)にわたって祈願を捧げました。

その祈りが通じたのか、益躬のもとに神託が下されました。

「鉾(ほこ)を鏃(やじり)にして隠し持ち、鉄人の隙を見て討て」

この神託が、後に鉄人との戦いにおける重要な導きとなります。

いよいよ鉄人と対峙することになった益躬ですが、鉄人の強さは予想以上でした。

武力での勝利は難しいと判断した益躬は、思い切って鉄人に降伏し、家来となることでその隙をうかがうことにしました。

しかし、用心深い鉄人にはほとんど隙が見当たらず、見つけた弱点といえば「馬に乗っている際に足の裏にわずかな穴が開いている」ぐらいでした。

それでも益躬はじっとチャンスを待ち続けました。

鉄人はそのまま進軍し、やがて現在の兵庫県にあたる播磨国(はりまのくに)の明石の蟹坂(かにさか)にまで到達しました。

この時、ついに決定的な好機が訪れます。

その日、鉄人は目の前に広がる美しく壮大な景色に心を奪われ、警戒心を忘れて無防備に立ち尽くしていました。

すると、突然の雷鳴が響き渡り、空を裂く稲妻が辺りを照らしました。

益躬はこれぞ三島大明神のご霊験の現れと感じ、すかさず懐に忍ばせていた鏃(やじり)を取り出し、渾身の力で投げつけました。

鏃は鋭く空を裂き、風を切りながら鉄人の方へと飛んでいき、ついに唯一の弱点といわれた足の裏の穴に突き刺さったのです。

突如の激痛に、さすがの鉄人も落馬しました。

その瞬間、益躬の家来たちが一気に斬りかかり、ついに鉄人を討ち取ることに成功したのです。

大将である鉄人を失い、大混乱に陥った軍はあまりにも脆く、益躬は鉄人の家来を次々と打ち破り、逃げた者は生け捕りにしました。

手をあわせ命乞いをする者は捕まえて獄舎につなぎ、鉄人についての詳しい情報を吐かせました。

詳細な鉄人の情報を知った益躬は、討ち取った首を手にして宮中に参上し、朝廷(天皇)に鉄人のことについて申し上げました。

この勝利に、朝廷は非常に喜び、益躬に伊予の国(今の愛媛県)越智郡の大領(郡の長官)の役を任じました。

その後、益躬は、鉄人との死闘において自らを守り導いた三島大明神への深い感謝と、命を落とした多くの兵士たちへの鎮魂の念を胸に、信仰の証を各地に残していくことになります。

まず、三島大明神が稲妻となって舞い降りたと伝えられる明石の地において、益躬はその御神恩を後の世に伝えるべく、社を勧請しました。

こうして創建された神社は、古くは「稲妻大明神」と称されていましたが、時代を経る中でその名が転じ、「稲爪(いなづめ)」となったと伝えられています。

これが、現在の兵庫県明石市大蔵本町に鎮座する稲爪神社(いなづめじんじゃ)の起源です。

さらに、益躬が凱旋帰郷したのちには、鉄人との戦いで命を落とした兵士たちの霊を慰めるため、一寺を建立しました。

これが、後に河野氏の菩提寺となる「東禅寺」のはじまりです。

そして、とある場所の一本の榊(さかき)の大樹の枝に鏡を懸け、戦勝と神恩への感謝を胸に、大山積大神を祀る社をそのふもとに創建しました。

榊は「境の木」とも書かれ、神と人の世界をつなぐ神聖な木とされており、神霊を迎える依代(よりしろ)として、まさに神社建立にふさわしい存在でした。

この社は、木の下(樹下)という場所に建てられたことから「木の下三島宮(きのもとみしまぐう)」と称されました。

そしてこの社が、後に合祀されて三嶋神社・祇園神社へと発展していく、三嶋神社の起源であるとされています。

やがてその神木に白い鳥が集まり、多くの巣を作って子を育て始めました。

人々はこの神秘的な光景を神意の表れと捉え、「鳥生(とりう)の宮」と呼ぶようになり、現在の鳥生町という地名の由来となったと伝えられています。

「白鳥」とされたその鳥は、実は「白鷺(しらさぎ)」で、清らかで神々しい姿から、「月の神使」または「三嶋神の神使(しんし・つかはしめ)」として崇敬されるようになります。

こうして、瀬戸内における三嶋信仰では、白鷺は神の導き手と考えられ、航海安全や戦勝をもたらすめでたい鳥として尊ばれ、三嶋神社(三島神社)において重要な象徴的存在となっていきました。

越智氏の後裔を称する河野氏にとって、この白鷺の伝承は祖先以来の信仰と深く結びついたものであり、河野通有の戦勝譚に白鷺が登場するのも、こうした三嶋信仰の系譜の中で生まれたものと考えられます。

今まさに国土を侵略せんと押し寄せてくる、かつてない強大な異国の軍勢。

その緊迫した戦場にあって、風に乗って舞い、空を渡る白鷺の姿は、神が進むべき道を示しているかのような神秘性を帯び、戦に臨む武士たちの心を大いに奮い立たせたことでしょう。

死闘の果てに吹いた伝説の神風

しかし、通有とともに参陣していた村上頼久は、この激戦のさなかに戦死し、また伯父の河野通時も、敵船に乗り込み火を放つなどの奮戦の末、重傷を負って船中で亡くなってしまいました。

河野氏・村上氏の水軍を支えてきた有力武将が次々と倒れていく中で、通有自身もまた負傷し、療養のため一時帰郷を余儀なくされました。

こうして主力武将の多くが倒れ、兵力・装備・軍事技術において大きく劣る日本側は、圧倒的な侵攻軍の前に、いつ陥落してもおかしくない状況へと追い込まれていきました。

その極限状態の中で、武士たちは筑前国の「筥崎八幡宮」に祀られる武神・八幡神にすがるようにして勝利を祈りました。

すると、まるでその祈りに応えるかのように、異変が起こりはじめます。

突如として激しい風が吹き荒れ、雷鳴が鳴り響き、波は荒れ狂い、一気に嵐となって、海上の元軍を襲ったのです。

容赦ない暴風にさらされた船は、次々に転覆し、帆柱はへし折れ、兵たちは荒波にのまれていきました。

指揮系統が混乱した元軍は壊滅状態に陥り、日本に上陸していた部隊は補給線は断たれたことで孤立し、一人また一人と、討ち取られていったのです。

こうして日本は、国家滅亡の危機、まさに神の加護とも思える奇跡によって救われたのでした。

やがて人々はこの暴風を、八幡神がもたらした神の加護「神風(かみかぜ)」と呼ぶようになりました。

河野通有の奮戦、水軍の粘り強い抵抗、そして自然の猛威が重なり合って迎えたこの結末は、単なる軍事的勝利にとどまるものではありませんでした。

それは、中世日本の人々の心に、「この国は神々に守られている」という強烈な歴史意識を刻み込む出来事となり、後世にまで語り継がれていくことになったのです。

河野通有が開いた海印山長福寺

河野通有は、弘安の役(1281年)における勇敢な奮戦と顕著な戦功によって、かつて失われていた伊予国の旧領を鎌倉幕府より再び与えられました。

さらにその功績は高く評価され、伊予の地のみならず、九州の肥前国にある神崎荘や山崎荘といった重要な荘園までも恩賞地として拝領しています。

これにより、治承・寿永の乱以降、長く衰退の兆しを見せていた河野氏の勢力は大きく回復し、通有は「河野氏中興の祖」と称されるようになりました。

さらに通有は、祖先から受け継がれる信仰と精神性にも深く向き合っていきました。

激戦の記憶が残る翌年の弘安5年(1282年)。

元寇の戦いで亡くなった河野一族・伯父の河野通時や家臣の霊、さらに敵味方を問わず冥福を長く弔うため、周布郡北条郷(現在の西条市北条)にあった自らの館を臨済宗の禅寺に改めました。

そして、開山(初代住職)には東福寺派の雲心善洞禅師を迎え、寺号を海印山長福寺と定めました。

これが、長福寺の起源とされています。

河野通有への信任とその晩年

河野通有は、元寇後も鎌倉幕府の厚い信任を保ち続け、水軍を統率する有力御家人としてその地位を確かなものとしていました。

瀬戸内海をはじめとする海上支配に精通した通有は、軍事面だけでなく治安維持の面でも重要な役割を担う存在であったといえます。

徳治二年(1307年)には、幕府から西国および熊野浦一帯における海賊追捕を命ぜられました。

熊野浦は古くから海上交通の要衝である一方、海賊行為も多発する地域であり、その鎮圧は容易な任務ではありませんでした。

通有は水軍を率いてこの任にあたり、海上の秩序回復と幕府権力の安定に尽力したと伝えられています。

この命令そのものが、通有が実戦経験と統率力を兼ね備えた武将として高く評価されていた証しでもありました。

やがて応長元年(1311年)7月14日、通有は62歳でその生涯を閉じます。

その遺骸は、自ら建立した海印山長福寺に葬られたと伝えられています。

現在、長福寺の境内には通有の墓とされる宝篋印塔が建ち、「長福寺殿天心紹晋大居士」という法名が刻まれています。

戦国末の動乱の中で繋がった一色氏との縁

その後も長福寺は河野氏の篤い帰依を受け、伊予国における禅宗の拠点として栄えました。

こうした歴史のなかで、戦国時代には一色氏との縁も次第に深まっていきます。

一色氏は足利氏の一門に連なる名族で、南北朝から室町時代にかけて丹後国(現在の京都府北部)を本拠とし、守護職を世襲する有力守護大名として栄えました。

足利義満の時代には幕政の中枢に関わるほどの勢力を誇りましたが、応仁の乱以降の戦乱や家中の内紛、さらに織田信長の台頭により次第に衰退していきます。

天正3年(1575年)、一色左京太夫義員は越前一向一揆攻めに水軍を率いて参戦し、信長から丹後国を安堵されました。

しかし、追放された将軍・足利義昭を庇護したことで信長の怒りを買い、天正7年(1579年)には細川藤孝・忠興父子が明智光秀の加勢を受け、義員の籠もる田辺城を攻撃します。

義員は義昭の命に従い徹底抗戦し、その忠義は感状によって賞されました。

しかし翌天正8年(1580年)、田辺城は落城し、義員は責任を取って中山城にて自刃します。

こうして、約190年にわたって続いた丹後守護・一色氏の歴史は終焉を迎えました。

このとき中山城にあったと考えられるのが、義員の三男・一色右馬三郎範之(のちの一色重之)です。

重之は母方の外祖父である伊予の国衆・河野通泰(村上通泰)を頼り、双子の息子(重直・重次)とともに家臣十余名を率いて伊予へ落ち延びました。

一行は新居郡の高峠城主・石川通清の庇護を受けて萩生村に入り、その後、桑村郡旦ノ上村へと移住します。

さらに重次は地元の有力者・青野六太夫只正の娘を娶り、この地に根を下ろしました。

天正18年(1590年)、重之は麻田藩主・青木一重の命を受け、北条村の地頭・越智勘左衛門を討ち、「三ツ屋」と称する拠点を築きます。

そして文禄2年(1593年)5月13日、一色重之は次男・重次、嫡男・重直らとともに、周敷郡三谷城主・荒井藤四郎考宣を討ち取りました。

これは、豊臣政権下における過酷な年貢徴収への反発を背景とした「道前一揆」と呼ばれる動乱の一環でした。

この勝利により、一色家は伊予における政治的基盤を確立します。重直は三谷城主として周布村を、重次は三津屋村に拠点を置き、それぞれの地を治めることとなりました。

その後、一色氏(豫洲三津屋重之流一色)は、壬生川村・明理川村を含む四か村において庄屋を世襲し、江戸時代を通じて地域の指導層としての地位を築いていきます。

「四国攻め戦火」長福寺をよみがえらせた一色氏の力

一色氏は政治的基盤を固めるだけでなく、文化や宗教の面でも深く地域に関わっていきました。

長福寺は、天下統一を目指す羽柴秀吉(豊臣秀吉)による四国攻め(四国征伐)の戦火により、大きな被害を受けていました。

天正13年(1585年)、秀吉の命を受けた小早川隆景らの軍勢が伊予国新居郡に上陸し、金子城や高尾城をめぐって激戦が展開されました。

総勢三万ともいわれる毛利・小早川軍に対し、金子備後守元宅率いる地元勢力はわずか二千余で抗戦し、城を焼いて討って出るなど壮絶な戦いの末に敗れました。

これが「天正の陣(てんしょうのじん)」と呼ばれる戦いです。

この戦いにより周辺一帯は戦場と化し、多くの社寺が焼失したと伝えられており、長福寺もまたその戦火によって大きな被害を受けたのです。

そして、河野氏は湯築城に籠城して最後の抵抗を試みましたが、圧倒的な兵力を誇る豊臣軍の前に抗う術はなく、小早川隆景の説得を受けて降伏します。

こうして河野氏による長きにわたる伊予統治の歴史は終焉を迎え、河野氏の庇護を受けていた長福寺もまた荒廃することとなりました。

しかし、慶長年間(1596〜1615年)に入ると、一色重之が寺の再興に尽力し、大通門(現在の山門と本堂の間に建立)を寄進しました。

さらに次男の重次も、観音堂(のちの護国殿)および当時の方丈(のちの庫裡)を寄進しています。

こうして、戦乱によって荒廃していた長福寺は、再び禅宗寺院としての姿を取り戻しました。

重之は慶長16年(1611年)9月21日に没し、母方である河野氏ゆかりの長福寺に葬られたと伝えられています。

再興へ導いた伊予三大禅師・南明禅師

このようにして再興されていった長福寺でしたが、寺の体制を整え、禅刹としての基盤を確かなものとするためには、新たな導き手の存在が必要不可欠でした。

こうした状況の中で、やがて長福寺の「中興の祖」と称されることになる一人の禅僧が、この寺に入門してきます。

それが、後に「伊予三大禅師」の一人として高く讃えられ、嘯月院(今治市・日高地区)の再興にも尽力し、石風呂薬師堂・桜井石風呂(今治市・桜井地区)とも深い縁を結ぶ南明禅師(南明東湖・なんめいとうこ)です。

南明東湖(南明禅師)は、元和2年(1616年)、安芸国(現在の広島県)に生まれ、幼名を岩松丸(いわまつまる)といいました。

父は伊予幸門城主の正岡盛元(常元とも称され)、母は周敷郡小松町妙口の剣山城主・黒川通広の娘であったと伝えられています。

  • 正岡氏:正岡氏は、伊予国風早郡正岡郷(現・松山市北条付近)を本拠としていましたが、保延年間(1135〜1140年)頃に越智郡へ進出して幸門城(今治市玉川町龍岡下)を拠点としました。中世には河野氏の重臣として仕えましたが、天正13年(1585年)の豊臣秀吉による四国征伐に際しては、城主・正岡経政が籠城の末に討ち死にし、幸門城は落城。ここに正岡氏は滅亡しました。
  • 黒川氏:黒川氏は、伊予国周敷郡千足村黒川を本拠とする国衆で、その起源には河野氏流説・長宗我部分流説・在地説など諸説があります。享禄元年(1528年)、黒川元春が剣山城を築き、周敷郡の旗頭にのし上がりました。やがて正岡氏から養子を迎えて一族を継ぎ、河野氏の勢力下で地域を治めましたが、天正13年(1585年)の豊臣秀吉による四国征伐で剣山城が落城し、黒川氏は没落しました。

このように、父母双方に名門の血を引く家系に生まれた南明は、幼少の頃より宗教的環境に育まれ、やがて出家の道を歩むこととなりました。

幼少期と出家

寛永元年(1624年)、9歳の南明は母方の祖父の導きによって、長福寺(現・西条市北条)に入門し、同寺院の住職・沢甫西堂(たくほ さいどう)に弟子入りしました。

沢甫西堂は、学識と修行に優れた高僧でありながら、黒川通広に仕えた家老・今井左京の四男でした。

つまり、沢甫は南明にとって単なる師僧ではなく、母方の縁戚関係にあたる存在だったのです。

そのため、南明の修行生活は厳しい一方で、家柄に裏打ちされた温かな後援のもとに始まったと考えられます。

寛永六年(1629年)には、14歳で剃髪の儀を受け、髪を落として清らかな僧形となり、正式に仏門に入ることとなりました。

剃髪は単なる通過儀礼ではなく、「俗世を離れ、仏道に身を捧げる」という決意を示す重要な行いであり、このときを境に南明の本格的な修行僧としての生涯が始まったのです。

大本山・妙心寺での修行

寛永八年(1631年)、17歳になった南明は、さらなる学問と修行を志して京都へ向かいました。

当時の京都は学問と仏教の中心地であり、多くの若き修行僧にとって憧れの地でした。

南明はここで臨済宗妙心寺派の大本山・妙心寺の一院である海福院(かいふくいん)に入門します。

海福院は「塔頭(たっちゅう)」と呼ばれる小寺院のひとつで、本山を支える学問と修行の場として知られており、南明はこの地で本格的な修行生活を始めました。

雲居禅師と伊達家との繋がり

さらに翌年、南明は奥州・松島(現:宮城県松島町)にある臨済宗の名刹・瑞巌寺(ずいがんじ)に赴きました。

そこで師事したのが、伊予国上三谷(現・愛媛県伊予市)の出身で、後に「慈光不昧禅師」「大悲円満国師」とも号された高僧・雲居希膺(うんごきよう・うんごけよう)禅師です。

雲居禅師は天正10年(1582)に伊予国三谷の毘沙門堂で誕生しました。

若くして京都に上って修行を積んだのち、諸国を巡り歩き、多くの名僧から学びを深めました。

寛永13年(1636)、仙台藩祖・伊達政宗と二代藩主・忠宗の度重なる要請を受けて、瑞巌寺第99世住職となり、中興の大業を成し遂げました。

質素倹約を旨とし、生涯を通じて木綿の僧衣を纏い続け、権力者にも庶民にも隔てなく接したその姿は「生き仏」と称されるほど広く尊崇を集めました。

南明が修行を仰いだのは、まさに同じ伊予国に生まれた先輩でもありました。

南明にとって雲居禅師は、ただの師というだけでなく、「同郷の師」として深い縁を感じさせる存在であったに違いありません。

このころの瑞巌寺は、伊達政宗による壮大な造営事業を経て、東北随一の禅刹として藩の精神的支柱を担っていました。

南明はここで5年間にわたり雲居禅師のもとで修行を重ね、その学徳を身につけると同時に、伊達家とも深く関わることになりました。

そして、この時に得た伊達家(仙台藩)との縁は、のちの南明の布教活動や伊予各地における寺院再興の広がりへと繋がっていきました。

長福寺への帰郷と中興の歩み

寛永14年(1637年)、23歳のとき、南明は奥州での修行を終えて故郷の長福寺に戻り、師の教えを受け継いで住職となりました。

以後は寺を支え、伊予における布教と修行の中心的な役割を果たしていきました。

寛永20年(1643年)には、父・正岡盛元が85歳で摂津国にて病没すると、その冥福を祈るために大阪市旭区中宮町に正岡山寒松寺を建立しました。

同年十月には再び京都の大本山・妙心寺に入り、さらなる研鑽を積んだのち故郷の長福寺へ戻り、それまでの山号「海印山」を「東海山」に改め、宗派も東福寺派から妙心寺派へと改宗して再興を果たしました。

そして明暦三年(1657年)、師・沢甫正堂の入寂にともない、その跡を継いで南明が長福寺の住職となります。

荒廃から立ち上がりつつあった長福寺において、南明は堂宇の整備と寺風の再建に尽力し、禅刹としての基盤を確かなものとしていきました。

この功績により、後に南明は長福寺「中興の祖」と仰がれるようになります。

その後も南明は各地を巡り、寺院の再興や布教活動に励みながら、故郷伊予においても禅宗振興に力を注ぎました。

晩年は病を得ながらも活動を続け、嘯月院再建の援助を求めて仙台へ向かう途中、京都にて病が再発。

看病を受けましたが回復には至らず、貞享元年(1684年)十月十五日、六十九歳でその生涯を閉じています。

没後三年目の貞享四年(1687年)には、東山天皇より「虚霊空妙禅師」の禅師号が追贈され、その学徳と布教の功績が公式に顕彰されました。

「一色氏と長福寺」忠義の系譜と地域への貢献

一色氏は、その後も長福寺を菩提寺として篤く敬いながら、代々にわたり地域社会に多大な貢献を果たしてきました。

明治以降には、周布村長・壬生川村長・壬生川町長・愛媛県議会議員をはじめ、今治市・東予市・西条市の各市議会議員を歴任する人物を数多く輩出し、地方政治や行政の場でその存在感を示してきました。

とくに注目すべきは、壬生川町長および愛媛県議会議員を務めた一色耕平(1859~1948年)の存在です。

一色耕平は、住友四阪島製錬所による煙害問題に直面し、その被害を受けた地域住民の代表として、住友側と真摯に向き合いました。

この煙害は、明治末期に四阪島(現・新居浜市沖)に建設された住友の銅製錬所から発生した亜硫酸ガスが、周辺の農作物や森林を枯死させたことで深刻化。

住民の生活と健康が脅かされる中、一色耕平は住民の代弁者として補償交渉に尽力し、住友本社との直接交渉や県議会での議論を重ねながら、地域の再建に力を注ぎました。

また、近隣市の市議会議員にも一族出身者が名を連ねており、現職の西条市議・一色輝雄氏をはじめ、地域政治・行政の現場で存在感を示し続けています。

一族は代々、先祖供養と家門の繁栄を祈りながら、互いの絆を大切にしつつ親睦を深めてきました。

こうした郷土の苦難に寄り添い、声を上げた姿は、政治家としての責任感と先祖の遺徳を継ぐ者としての矜持を感じさせます。

一族は代々、先祖供養と家門の繁栄を祈りつつ、互いの絆を大切にしながら親睦を深めています。

重之の実際の墓所は、かつて三蔵院宝積寺(西条市三津屋136-1)に隣接する旧墓地にありましたが、平成20年(2008年)5月に、他の先祖の墓とともに旭新開墓地へと移されました。

一方で、長福寺は今も一色家の菩提寺としての縁を繋いでいます。

万延元年(1860年)、重之公二百五十回忌に際して圓明院の院号が贈られ、九世にあたる一色範序が袈裟を奉納しました。

近代以降においても、その結びつきは脈々と続いています。

昭和62年(1987年)11月には、豫州三津屋重之流一色同族会により家紋幕が制作され、翌昭和63年(1988年)には重之の三百八十回忌法要が執り行われました。

さらに平成27年(2015年)には、本来の没後四百年(慶長16年〈1611年〉)を四年遅れで記念する大法要が、長福寺において厳かに営まれています。

この節目の法要には、一色家の子孫や関係者が多数参列し、重之の遺徳を偲びながら、一族と地域社会の深いつながりを再確認する機会となりました。

とくに400回忌では、徳峰住職による法要に加え、重之の事績を紹介する歴史解説や邦楽の奉納演奏も行われるなど、単なる追悼にとどまらず、文化と記憶を次代へと伝える意義深い場となりました。

長福寺に残されている貴重な文化財

創建以来およそ七百年にわたり歩みを重ねてきた長福寺には、河野氏の時代から一色氏、南明禅師の中興、そして近世に至るまで、寺史を物語る多くの貴重な文化財が静かに守り継がれています。

「護国殿」長福寺最古の堂宇

一色重之の次男・一色丑之助重次(弥兵衛)が寄進した護国殿は、長福寺に現存するもっとも古い建築物です。

堂内中央には、大正時代に河野会によって寄進された河野通有公の像が安置され、その前に江戸時代中期の小松藩第三代藩主・一柳因幡守直卿(ひとつやなぎなおあきら)公が奉納した扁額が据えられています。

一柳直卿は寛文6年に初代藩主・一柳直治の長子として生まれ、四十歳で家督を継ぎました。

詩歌・書画など諸芸に優れており、特に書道は群を抜き、当時の三百諸侯の中で「第一の能書家」と称されました。

将軍家にも習字の手本を納め、神仏への信仰も厚く、各地の社寺に数多くの額を奉納しています。

護国殿の中に安置されているこの扁額もその一つであり、堂の建立に先立って寄進されたもので非常に珍しく、現在は西条市の指定文化財として、静かに守り伝えられています。

山門と扁額「東海山」(西条市指定有形文化財)

長福寺の山門は、現存する建造物の中でも護国殿に次ぐ古さを誇り、安永3年(1764年)に建立された格式ある構えです。

その姿には、禅宗寺院ならではの厳粛さと、武家文化の意匠が見事に融合しています。

この門は、一色重之の曾孫・重好の孫にあたる壬生川村庄屋・一色左衛門範江によって寄進されたもので、その功績を讃えて、門の額の左右には一色家の家紋「丸に二引き両」が堂々と飾られています。

さらに、屋根瓦には、長福寺の創建に深く関わった河野氏が用いてきた家紋「折敷に揺れ三文字(隅切折敷縮三文字)」が施されており、河野氏と一色氏、両家の歴史的なつながりが静かに表現されています。

建築形式は薬医門で、両脇に築かれた築地塀には「矢狭間(やさま)」と呼ばれる矢を射るための開口部が設けられています。

この武家風の意匠は、戦国期の緊張感や防御の工夫を今に伝え、長福寺が単なる信仰の場を超えて、武士たちの精神的な拠点であったことを物語っています。

門上に掲げられた扁額「東海山」も、一柳直卿の揮毫によるもので、平成2年(1990年)11月19日に西条市の有形文化財に指定されました。

力強くも端正な筆致は門全体に威厳を与え、訪れる者の目を惹きつけています。

梵鐘(県指定有形文化財)

本堂の右手にそびえる鐘楼堂は、天保11年(1840年)に建立されたもので、屋根の下部が袴のように広がる「袴腰(はかまごし)式」という特徴的な構造を持っています。

鎌倉様式の欄干に支えられた4本の柱が高く直立する姿は、県内でも珍しい建築様式として注目されています。

この鐘楼に吊るされている梵鐘は、明暦元年(1655年)に鋳造された青銅製の名鐘で、鐘身の高さは90.3cm、重量は187kg。表面には舞う天女の姿が刻まれ、銘文には七言絶句の漢詩や「明暦元年」の年号、「本光院」の法名が彫られています。

本光院は織田信長の一族にあたる織田長の娘で、この梵鐘は彼女が京都・守禅庵に寄進したものでした。

守禅庵は大徳寺派の寺院でしたが、明治初年に廃寺となり、その際に当時の長福寺住職がこの梵鐘を譲り受け、現在に至るまで大切に守られてきました。

鐘身は細身で縦に長く、朝鮮鐘風の造形を持ち、調べ(音色)、姿(形状)ともに「県下随一の優美な鐘」と称されています。

戦時中、金属供出の危機にも直面しましたが、昭和19年には「重要美術品」として認定されたことで供出を免れました。

そして昭和40年(1965年)4月2日、正式に愛媛県指定有形文化財に登録され、長福寺の歴史と信仰を象徴する宝として、今も地域の人々に親しまれています。

毎年大晦日には、この鐘の澄みわたる音が除夜の鐘として響き渡り、参拝者たちが一年の終わりと新たな始まりを静かに見つめる時間を演出しています。

禅の精神と歴史を映す建築

長福寺の本堂は、明治27年(1894年)に再建されました。

屋根は禅宗寺院特有の入母屋造・本瓦葺で構成されており、堂内には本尊である釈迦如来像を中心に、両脇に脇侍像が安置されています。

静謐な空気に包まれた内部空間は、参詣者を自然と静かな心へと導くような荘厳さを湛えています。

正面には書院造の大玄関が構えられ、建築全体からは格式の高さと風格が感じられます。

また、境内に点在する諸堂や書院とは回廊によってゆるやかにつながれており、訪れる者に落ち着いた印象を与える静謐な空間が巧みに演出されています。

本堂に隣接して建つ庫裡は、昭和初期に再建された建物で、僧侶たちの生活の場であると同時に、写経会や座禅会など修行や信仰活動の場としても活用されています。

書院風の設えが取り入れられており、簡素にして気品あるたたずまいが禅宗寺院らしさを今に伝えています。

南明禅師書写「予章記」(愛媛県指定有形文化財)

長福寺には、江戸時代初期の中興開山・南明禅師が書写した二つの貴重な文献も伝わっています。

それが『予章記』と『河野系図』です。

南明禅師が自筆した『予章記』は、禅の教義や倫理を記した貴重な文献です。

平成21年(2009年)2月26日に西条市の有形文化財に指定され、さらに平成29年(2017年)2月26日には愛媛県の有形文化財にも指定されました。

南明禅師書写『河野系図』(西条市指定有形文化財)

『予章記』と同時期に南明禅師が書写したとされるもう一つの文献が『河野系図』です。

この系図は、第七代孝霊天皇から河野氏最後の当主・通直に至るまで、河野家の歴代当主を約4メートルにわたって記した長大な系図であり、内容の体系性と連続性に優れた構成を持ちます。

平成29年(2017年)3月28日に西条市の有形文化財に指定され、近世の寺院文化を伝える資料として大切に保管されています。

これら二つの文献は、単に寺宝としての価値にとどまらず、中世伊予の記憶を今に伝える文化遺産として、現在も寺に大切に保管されています。

四季の彩りとともに生きる寺

長福寺の境内に足を踏み入れると、そこには静謐な空気とともに、長い歳月が育んできた歴史と文化が息づいています。

春には白・藤色・桃色の三色の藤が一本の棚に咲き揃い、風にそよぐ花房が訪れる人々を優しく迎えます。

藤棚の下には、遠い時代から続く祈りや営みが今も静かに流れており、地域の人々の心の拠りどころとしての存在感を感じさせます。

そして、5月5日の花祭り(灌仏会)には、釈迦の誕生を祝う甘茶の接待が行われ、自然の恵みと仏の教えが穏やかに交差する光景が広がります。

受け継がれる「河野姓」

こうした穏やかな時間の流れの中で、長福寺の歴史は建物や自然だけでなく、人の営みによっても受け継がれてきました。

長福寺では、歴代の住職が河野姓を名乗っており、河野氏ゆかりの寺としての系譜が現在まで続いています。

河野氏はかつて伊予国を治めた有力な武家であり、長福寺もその庇護のもとで発展してきました。

戦国時代の動乱により河野氏は滅亡しましたが、その後も寺との結びつきは途絶えることなく、かたちを変えて受け継がれていきます。

寺院において住職の継承は、もともと師から弟子へと受け継がれるのが基本とされてきました。

これは鎌倉・室町時代以来続く仏教本来のあり方であり、血縁による世襲とは異なるものです。

長福寺においても、外部から入門した僧が弟子として修行を重ね、その後継として住職を継ぐかたちがとられてきました。

そして住職となった者は河野の姓を名乗り、寺の歴史と由緒を受け継いでいきます。

この「河野姓」の継承は、単に名字を受け継ぐということではありません。

そこには、河野氏との歴史的なつながり、そして長福寺が歩んできた時代の記憶そのものを受け継ぐという意味が込められています。

そうした人のつながりによって紡がれてきた歴史は、今もなお長福寺の中に静かに息づいているのです。

寺院名

長福寺(ちょうふくじ)

所在地

愛媛県西条市北条655

宗派

臨済宗妙心寺派

山号

東海山

本尊

釈迦三尊

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