河野氏、来島村上氏、そして井手家へと続く信仰の寺
「安養寺・紺原(あんようじ)」は、享禄二年(1529年)、風早(愛媛県今治市風早町)の安楽山大通寺二世・華屋英曇大和尚がこの地に来て開いたと伝えられています。
その後、大通寺の中興開山として知られる玄室守腋大和尚を勧請開山として迎え、寺の基礎が整えられました。
風早の古刹「安楽山大通寺」と安養寺の関係
安養寺・紺原の開創に関わる大通寺は、現在の愛媛県松山市下難波にある曹洞宗の寺院で、山号を安楽山といい、本尊は釈迦如来です。
大通寺の創建は平安時代末期とされ、風早地方に古くから存在する寺院群の一つに数えられています。
貞和年間(1345~1350年)、伊予の守護であった河野通朝の請いにより、大応国師十八哲の一人である大堯禅師が開山し、寺号を「獅吼山普門院大通寺」と称しました。
大堯禅師が開山となったのは、太宰府にいた頃、河野通有が大応国師門下の参禅者であった縁によるものと伝えられています。
通朝は七堂伽藍と七つの坊を整え、寺は大いに栄えました。現在知られている坊としては、好成庵・正蓮寺・大智庵・是光庵・吉祥庵などが挙げられます。
その後、大通寺は戦火によって衰退しましたが、明応八年(1499年)に河野通宣が備中華光寺から玄室守腋和尚を招き、曹洞宗の寺院として再興しました。
このとき東禅寺・天福寺・隆昌寺などを末寺とし、再び寺勢を取り戻したと伝えられています。
天文の内訌(伊予の乱)と来島村上氏
しかしその後、再び戦乱の兵火に巻き込まれることになります。
それが、天文11年(1542年)、河野氏の内部で家督争いが発生した「天文の内訌(伊予の乱)」です。
この争いは、伊予国の守護であった河野通直が男子の後継者に恵まれなかったため、娘婿である来島通康(村上通康)を後継者に据えようとしたことに端を発します。
しかしこの決定に反発する一族や重臣たちとの対立が激化し、やがて伊予国全体を巻き込む大きな内乱へと発展しました。
来島通康は、瀬戸内海で勢力を誇った来島村上氏の当主でした。来島村上氏は、能島村上氏・因島村上氏とともに「村上水軍」と呼ばれる海の武士団の一角を担い、瀬戸内海の海上交通を掌握していたことで知られています。
その拠点となったのが、今治市沖の来島海峡に浮かぶ来島でした。

来島海峡は日本三大急潮の一つに数えられる海の難所であり、この潮流を自在に操ることのできた来島村上氏は、この海域を拠点に大きな勢力を築いていきました。
通康は義父である河野通直を支え、自らの拠点である来島城に迎え入れて抗戦しました。
激流の海に守られた来島城は天然の要害であり、反対勢力を退け続け、ついに城が落ちることはありませんでした。
この籠城戦で示された通康の忠義は伊予一円に広く知られることとなり、その功績によって通康は越智姓を名乗ることを許され、さらに「折敷に縮み三文字」の家紋を授かったと伝えられています。
しかしこの戦乱の中で、風早周辺の寺社や城郭も兵火に巻き込まれ、大通寺もまたこの頃の戦火によって焼失したと伝えられています。
その後、領主でもあった来島通康・通総父子が寺領を寄進し、備中華光寺から玄室守腋和尚を招いて曹洞宗の寺院として再興しました。
以後、大通寺は来島村上氏の菩提寺としても知られるようになります。
このような大通寺の寺勢のもと、安養寺・紺原もまた玄室守腋和尚の法系に属する寺院として開かれたものと考えられています。
戦乱による大通寺の焼失と再興
しかしその後、安養寺は長い年月のうちに次第に衰退し、二世月峰恵心大和尚の頃まで、およそ二百年余りにわたって荒廃した状態が続いたと伝えられています。
やがて普宗密全大和尚が住職としてこの地に来られると、寺の再興が進められました。
普宗密全大和尚は、本寺である豊後の安楽寺に協力を仰ぐとともに、久留島氏の援助を受け、波止浜の来島にあった櫓の材木を譲り受けて堂宇を新たに建て直しました。
豊後森藩主・久留島家の菩提寺「安楽寺」
安楽寺は、大分県玖珠郡玖珠町森にある曹洞宗の寺院で、豊後森藩主・久留島家の菩提寺として知られています。
久留島氏は、瀬戸内海で勢力を誇った来島村上氏を祖とする家です。
関ヶ原の戦いの後、来島村上氏の当主であった来島康親は豊後国森へ移封されることとなりました。
これに伴い家名を「来島」から「久留島」と改め、豊後森藩一万四千石の藩主として新たな歴史を歩むことになります。
それまで来島村上氏の菩提寺は伊予国風早郡の安楽山大通寺でしたが、豊後へ移封されたことにより、新たな地に菩提寺を設ける必要が生じました。
そこで康親は、貞和年間に開創された古い寺院を整備し、旧菩提寺である安楽山大通寺にちなみ、山号と寺号を入れ替えて「大通山安楽寺」と名付けました。
このゆかりによって再興された安養寺は、瀬戸内海で活躍し、その後豊後へ移った来島村上氏(久留島氏)の歩みを今に伝える場所でもあります。
素鵞神社・紺原と安養寺の関係
安養寺は、寺院としてだけでなく、かつては地域の神社祭祀にも関わる役割を担っていました。
紺原にある素鵞神社の前身は、古く「滝之宮」と呼ばれる社で、大山積命・高寵神・雷神などを祀る神社として信仰されていました。
この滝之宮には神社の祭祀を司る別当寺が置かれ、野間寺・金剛寺・安養寺・地福寺の四ヶ寺が交替でその役を務めていたと伝えられています。
しかし天正18年(1590年)、豊臣秀吉による天下統一の時代の変化の中で、これらの別当寺は廃されることとなりました。
野間郡の大庄屋・井手家と安養寺
延宝年間(1673年~1681年)になると、安養寺は地域の有力者であった大庄屋・井手家の檀家寺として庇護を受けるようになりました。
井手家は野間郡を代表する名家の一つで、庄屋として村政を担いながら地域社会の中心的な役割を果たしていた家柄でした。
こうした井手家の支援によって、安養寺は寺院としての基盤を整え、紺原の地における信仰の拠点として発展していきました。
当時の農村社会において寺院は、仏事を行う場所であるだけでなく、地域の精神的な支えとなる存在でもありました。
安養寺もまた、井手家をはじめとする地域の人々の信仰を受けながら、紺原の人々の暮らしと深く結びついた寺院として受け継がれています。

武家と地域信仰の中で受け継がれた安養寺の歩み
このように安養寺・紺原の歴史は、風早の古刹・大通寺の法系にはじまり、伊予の守護河野氏、そして瀬戸内海で勢力を誇った来島村上氏の歴史と深く関わりながら受け継がれてきました。
天文の内訌による戦乱、寺院の焼失と再興、さらに関ヶ原の戦いの後に来島村上氏が豊後へ移り久留島氏となった歴史など、瀬戸内海を舞台とした武家の動きもまた、安養寺の歩みに影響を与えてきました。
また、滝之宮の別当寺として神社祭祀にも関わり、地域の信仰を支える役割を担っていたことも、この寺院の特徴の一つといえます。
やがて江戸時代になると、大庄屋井手家の庇護を受けることで寺院としての基盤を整え、紺原の人々の信仰の中心として発展していきました。
このように安養寺は、武家の歴史、地域の信仰、そして村人たちの暮らしとともに歩んできた寺院であり、紺原の歴史を今に伝える大切な場所となっています。



