九州から伊予へ、伊予の歴史を変えた大反攻
伊予に残っていた河野一族や家臣たちは、細川勢の厳しい監視のため、容易には海を渡って通直のもとへ向かうことができませんでした。
そのため、多くの者は伊予郡・浮穴郡を拠点とする山方衆の勢力圏など伊予各地へ身を潜め、細川方の厳しい監視を逃れながら、河野宗家再興の日を待ち続けていました。
中には九州へ下って通直の軍勢に加わる者もいましたが、伊予に残った一族たちの状況は、通直のもとにも十分には伝わっていませんでした。
前回の記事はこちら:《世田山合戦⑨》若き河野宗家当主が歩んだ再興への道「伊予脱出と九州・征西府」
小笠原氏との合流を目指した沼島遠征
正平二十二年/貞治六年(1367年)2月10日。
豊前国小倉(現在の福岡県北九州市小倉北区・小倉南区周辺)にいた河野方の一行は、淡路国沼島(現在の兵庫県南あわじ市沼島)へ向かう計画を立てました。
目的は、長年にわたって南朝方に従っていた小笠原氏と合流し、伊予帰還への足がかりを得ることでした。
小笠原氏は、もともと甲斐源氏の流れをくむ名族で、鎌倉時代以来、阿波国(現在の徳島県)にも勢力を持っていました。
南北朝の動乱のなかでは、一族の中に南朝方として活動する者もあり、河野方にとっては頼みとなる存在だったのです。
一行は屋代島(現在の山口県周防大島町)を出航し、奴和(現在の愛媛県松山市怒和島)・牟須岐(現在の睦月島)を経て、瀬戸内海を東へ進みました。
途中、新居津倉淵(現在の愛媛県新居浜港周辺にあったと考えられる倉庫)を焼き払い、細川方の補給路に打撃を与えながら、淡路国沼島(現在の兵庫県南あわじ市沼島)へ向かいました。
しかし、沼島に到着してみると、頼みとしていた小笠原氏はすでに北朝方へ降伏していました。

諭鶴羽山から見る沼島 撮影:Pinqui(Wikimedia Commons) CC BY-SA 3.0
長年南朝方として尽くしてきた小笠原氏でしたが、この頃、細川頼之は管領として幕府の中心に立ち、西国への影響力を強めていました。
そのため、小笠原氏もまた、南朝方にとどまるよりも将軍方へ従う道を選んだと考えられます。
河野方にとって、これは大きな誤算でした。
小笠原氏と合流し、瀬戸内海東部から反攻の道を開くはずだった計画は、ここで大きく崩れてしまいます。
一行はやむなく引き返し、再び各地へ分散することになりました。
二代将軍・足利義詮の死と細川頼之の上洛
伊予奪還への道は、なお険しいものでしたが、同年12月7日、室町幕府に大きな異変が起こります。
初代将軍・足利尊氏の跡を継ぎ、第二代将軍として幕府を率いてきた足利義詮が、38歳の若さでこの世を去ったのです。
足利義詮は、父・尊氏が築いた室町幕府を受け継ぎ、観応の擾乱によって混乱した政権の再建に尽力した将軍でした。
有力守護大名の離反や南朝勢力の反攻が続くなか、将軍権威の回復、恩賞制度の整備、守護大名の統制などに力を注ぎ、室町幕府の基盤を着実に固めていきます。
初代・尊氏が幕府を築き、三代・義満がその最盛期を築いたとすれば、義詮は両者をつなぐ存在でした。
その義詮が急逝すると、跡を継いだのは、まだ幼い嫡男・足利義満(あしかが よしみつ)でした。
幼少の将軍を支えるため、幕府は四国経営で大きな功績を挙げていた細川頼之を管領に任じ、義満の後見役として京都へ迎えます。
頼之は阿波・讃岐・伊予を平定し、四国における幕府勢力の中心として活躍していましたが、管領就任によって幕府政務を統括する立場となり、以後は京都を離れることが難しくなります。
もちろん、頼之の上洛によって、ただちに伊予の細川勢が弱体化したわけではありません。
しかし、伊予攻略を主導してきた頼之が京都へ移ったことで、細川氏が四国で築き上げてきた統治体制には、少なからぬ揺らぎが生じました。
長きにわたり潜伏を余儀なくされてきた河野方の武将たちにとって、この情勢の変化は、まさに待ち望んだ反撃の好機でした。
河野宗家再興へ立ち上がる伊予、迎え撃つ仁木軍
正平二十三年/応安元年(1368年)。
伊予では河野宗家ゆかりの武将たちが次々と河野宗家の旗のもとへ集結し、およそ三千騎の軍勢を集めて高縄城(高縄山城)で挙兵しました。
目指すは、四国における細川氏の重要拠点・讃岐国。
ここを攻略し、河野宗家再興への突破口を開こうとしていたのです。

高松市街と瀬戸内海の島々 撮影:Arabrity(Wikimedia Commons) CC BY-SA 4.0
そして、この知らせは九州・豊後国高田にいた河野通直のもとへも届けられました。
同じ頃、通直自身も本国・伊予への帰還と河野宗家再興を目指し、反攻の機会をうかがいながら帰国の準備を進めていました。
その動きはすでに伊予国内にも伝わっており、「通直が帰国すれば、伊予国は再び河野氏に従うに違いない」という声が人々の間で語られるようになっていました。
河野宗家再興への機運は、着実に伊予全土へ広がり始めていたのです。
「総大将・仁木義尹」北朝方仁木軍が伊予へ進軍
この伊予の情勢は、四国全体を勢力下に置いていた細川氏にとって極めて重大な脅威であり、北朝方の室町幕府にとっても、西国統治体制を揺るがしかねない深刻な事態でした。
河野方の再起の動きは、阿波・讃岐の細川方にも伝わり、京都へ次々と急報が送られました。
「河野氏と菊池氏が結びつけば、西国の情勢は大きく覆りかねない」
幕府首脳は強い危機感を抱き、伊予における河野氏再興を阻止するため、新たな討伐軍の派遣を決定しました。
総大将として伊予守護に任じられたのは、将軍・足利義詮に従って各地の南朝軍と戦い、数々の戦功を挙げてきた幕府屈指の武将・仁木義尹(にき よしただ・仁木兵部大輔義尹)です。
応安元年/正平二十三年(1368年)4月25日、義尹は七千騎の大軍を率いて京都を出発し、伊予へ向かいました。
大田の攻防戦
伊予へ入った仁木軍は、宇和郡・喜多郡方面から兵を進め、山方衆の本拠地である浮穴郡大田(現在の愛媛県喜多郡内子町小田)へ迫ります。
これを迎え撃ったのは、河野義直・直頼父子をはじめ、吉岡氏、大野氏、森山氏ら山方衆を中心とする河野方の軍勢でした。
伊予奪還を目指す河野方と、それを阻止しようとする北朝方仁木軍は大田でついに激突します。
河野方は山間の地形を生かして必死に抗戦しましたが、七千騎の大軍を擁する仁木軍の攻勢は凄まじく、激戦の末、大野氏や森山氏ら有力武将が相次いで敗れ、戦況は次第に北朝方へと傾いていきます。
高縄山城を包囲する仁木軍
大田の戦いに勝利した仁木軍は、その勢いのまま河野方再興の拠点・高縄山城へ迫りました。
高縄山城は険しい尾根に築かれた天然の要害です。河野方は険しい山の地形を巧みに利用して籠城し、仁木軍の攻撃を何度も退けました。
しかし、仁木軍も容易には引き下がりません。昼夜を分かたぬ攻撃を繰り返しましたが、それでも城を落とすことはできませんでした。
そこで幕府は、阿波・讃岐をはじめとする諸国からさらに七千余騎の援軍を送り込み、高縄山城を三方から包囲して総攻撃を開始します。
山全体が戦場となる激しい攻防のなか、大野左衛門尉、森山伊賀守ら河野方の主力武将が相次いで討ち死にし、城兵の犠牲も増える一方でした。
それでも河野方は決して降伏せず、城を守り続けました。
しかし、戦況は日に日に悪化し、高縄山城は陥落も時間の問題と思われるほどの危機へ追い込まれていったのです。
動き出した祖国奪還への戦い
本国・伊予の状況は、すぐに九州・豊後国高田にいた河野通直のもとへも届けられました。
細川氏に奪われた本国・伊予を取り戻すため、通直は九州で軍勢を養いながら、長年にわたり再起の機会を待ち続けてきました。
しかし今、伊予では河野方の武将たちが命を懸けて戦い、高縄山城は猛攻を受け、まさに存亡の危機に立たされていました。
もはや、一刻の猶予もありませんでした。
通直はただちに懐良親王に拝謁し、「伊予に残る一族の危難を救い、積年の無念を晴らし、本国を回復したい」と出兵を願い出ると、その願いは聞き入れられ、通直は出兵が許されました。
運命の船出
応安元年/正平二十三年(1368年)6月4日。
通直は豊前国根津浦(現在の福岡県行橋市沓尾)へ向かい、今岡通任の船に一族や従兵とともに乗り込みました。
さらに同年6月17日、九州で苦楽をともにしてきた河野方の武将や従兵たちが続々と合流し、本格的な伊予遠征が始まりました。
また、筑紫でも通直の挙兵に呼応して新たな武将や兵が加わり、通直軍は着実にその陣容を整えていったのです。
応安元年/正平二十三年(1368年)6月20日、通直軍は周防国の屋代島へ到着しました。
ここでは、河野氏恩顧の武将である戒能氏をはじめ、二神氏、久枝氏らが通直を迎え、伊予奪還へ向けた軍議が開かれます。
島には各地から次々と河野方の武将や海上勢力が集まり、奪還作戦の詳細が協議されました。
そして6月26日、軍議を終えた通直軍はいよいよ伊予を目指して進発します。
二神氏は呉方面へ、久枝氏・正岡氏は能美島方面から軍勢を率いて合流し、さらに忽那諸島や周辺の海上勢力も次々と船を率いて加わりました。
九州で通直に従ってきた者たち、屋代島で待ち受けていた河野方、そして伊予の島々から馳せ参じた海上勢力―。
それぞれ別々に動いていた河野方の軍勢は、ここに至って一つとなります。
軍船は三十余艘、出陣する兵は二百余人。
目指すは、本国・伊予国。
河野宗家再興を懸けた帰還の航海が、いま始まったのです。
河野通直が再び伊予の地を踏む
応安元年/正平二十三年(1368年)6月30日、河野通直は三十余艘の軍船を率いて松前浜(松崎浦・現在の愛媛県伊予郡松前町付近)へ着岸し、ついに本国・伊予国へ上陸しました。

愛媛県 伊予市・松前町・松山市の風景 撮影:setsuna0410(Photo AC)
世田山合戦の敗北によって九州へ落ち延びてから三年。
ついに河野宗家再興を懸けた反攻が、本国・伊予の地で始まったのです。
その知らせは瞬く間に伊予各地へ広がりました。
通直の帰国を待ち望んでいた河野方の武将たちが続々と軍勢を率いて合流します。
こうして河野方の兵力は三千七百余騎にまで膨れ上がり、その勢いは日ごとに増していきました。
伊予奪還戦、最初の激突
しかし、細川方も黙って見過ごすことはありませんでした。
伊予へ帰還した河野通直を食い止めるべく、細川方の武将・完草入道父子が二百余騎を率いて松前へ出撃します。
未の刻(現在の午後1時〜3時頃)、両軍はついに激突しました。
戦の声が海辺に響き渡り、松前浜はたちまち激戦の舞台となります。
河野方は一気に敵陣へ突撃し、敵将数名を討ち取る戦果を挙げました。
完草入道父子は河野軍の猛攻を支えきれず、大空城へ退いて籠城を余儀なくされます。
この勝報は瞬く間に伊予各地へ広がり、吾河氏や黒田氏、岩屋谷の衆をはじめ、河野宗家再興を待ち望んでいた武将たちが真っ先に通直のもとへ馳せ参じました。
さらに、西園寺方や山方衆も続々と河野方へ加わり、その勢いは日に日に増していきます。
大空城攻略
応安元年/正平二十三年(1368年)閏6月8日(旧暦では6月が二度あった年の二回目の6月8日)、通直軍は花見山に陣を構えると、大空城を完全に包囲しました。
河野方の軍勢は、西園寺方や山方衆が次々と加わったことで、史料に「その勢、雲霞のごとし」と記されるほどの大軍となり、大空城を四方から圧迫しました。
そして閏6月11日、正岡六郎左衛門尉が密かに大空城へ潜入し、河野方はついに城を攻略します。
閏6月13日の夜、追い詰められた完草入道父子は若党六人とともに自害しました。
城内に籠もっていた国人たちも、ある者は降伏し、ある者は城を捨てて逃亡し、大空城はついに河野方の手へ落ちたのです。
応安元年/正平二十三年(1368年)7月17日、花見山城主・久枝四郎左衛門入道は降伏し、河野方へ帰順しました。

恵良城、無血開城
河野方は勝利の勢いそのままに、かつて通直が九州へ落ち延びる際、最後の拠点となった恵良城へ軍を進めました。
当時の恵良城には、望月六郎左衛門尉・松浦氏・浅海氏・尾越氏ら細川方の武将が籠城していました。
通直は能島衆にも出陣を命じて城を包囲させますが、力攻めは選びませんでした。
庄帯刀左衛門尉を使者とし、今岡通任を中心に村上氏・山内氏・池内氏・須佐美氏らへ城方の調略を命じたのです。
その結果、応安元年/正平二十三年(1368年)八月十六日、恵良城の将兵は退路の保証を条件に開城し、戦うことなく退去しました。
こうして河野方は流血を避けながら恵良城を手中に収め、細川氏に奪われていた旧領を次々と回復していきます。
そして、いよいよ伊予の中心地であり、伊予の国府が置かれた府中(現在の愛媛県今治市)攻略へと乗り出したのです。

伊予府中を懸けた高仙山の攻防
一方、北朝方の総大将・仁木義尹は、このまま河野方の進撃を許せば、府中までも失いかねないと判断しました。
応安元年/正平二十三年(1368年)8月29日、河野通直が府中攻略へ向けて進軍を開始すると、仁木軍も反撃に転じます。
9月6日、仁木義尹は河野方の進軍を阻止するため、佐波城(現在の愛媛県今治市砂場町)を拠点としていた木梨入道に出撃を命じました。
そして、木梨入道の兵とともに菊万(現在の愛媛県今治市菊間町)へ入り、高仙山(史料では「高山」。本稿では現在の高仙山に比定)のふもとに陣を築きました。
この急報は、得居氏・正岡氏・東条氏・得重氏・長左近らによって通直のもとへ届けられます。
小部(現在の今治市波方町小部)をはじめ、鴨部(現在の今治市玉川町鴨部)、大井(現在の今治市大西町大井)、乃万(現在の今治市北西部の旧乃万郷)一帯にも伝わり、周辺地域は騒然となりました。
「このままでは背後を突かれる」
通直は府中攻略を中断し、ただちに全軍を反転させ周辺の武士たちに加勢を命じると、仁木軍の陣へ急行しました。
戦いは朝から夕方まで途切れることなく続き、河野方は敵兵数名を討ち取る猛攻を見せ、仁木軍を府中方面へと退却させることに成功します。
しかし、河野軍が勝利を収めたのも束の間でした。
わずか数日後の9月10日、仁木軍は再び菊間へ進軍すると、今度は高仙山の峰に陣を構えました。
これに対し、通直はあえて兵を動かしませんでした。
敵はなぜ再び高仙山へ戻ってきたのか。
さらなる援軍を待っているのか、それとも河野軍を誘い込む罠なのか。
軽率な攻撃は、大きな犠牲につながりかねません。
通直は軍を動かさず、敵の真意を慎重に探り続けました。

久米原の戦い
そして、仁木義尹は次の一手を打ちました。
9月13日、高仙山に布陣する本隊とは別に、約一千騎の別働隊を野々口から山中へ進ませ、八蔵(現在の愛媛県伊予市八倉)への進出を命じたのです。
その狙いは定かではありませんが、もし八蔵に新たな拠点を築くことができれば、高仙山の本隊と挟み込む形で河野軍の側面を突くだけでなく、湯築城方面にも大きな圧力を及ぼすことになったでしょう。
しかし、通直はこの動きを見逃してはいませんでした。
浄土寺(現在の松山市鷹子町にある四国八十八箇所第49番札所)に布陣していた河野軍へ、ただちに仁木軍の迎撃を命じたのです。

四国霊場-011 撮影:クリクリ50(Photo AC)
そして両軍は久米原(現在の松山市久米地区)で激突しました。
この戦いで河野方は敵兵数名を討ち取るなどして勝利を収め、仁木軍は八蔵に陣を築くことすらできないまま敗走します。
この敗報が仁木義尹のもとへ届くと、「これまで積み重ねてきた苦労が、すべて水の泡となった」と、自らの失策を深く恥じたと伝えられています。
高仙山夜襲と仁木軍の敗走
久米原の戦いで敗れたものの、高仙山では仁木軍の主力と睨み合いが続いていました。
通直は敵の動きを慎重に探りながら好機を待ち、9月19日の夜、ついに高仙山の敵陣へ夜襲を敢行します。
闇夜に紛れた河野軍の猛攻に、不意を突かれた仁木軍は総崩れとなり、府中方十四人が討ち取られました。
河野方も大籠蔵人が討死するという犠牲を払いましたが、高仙山の仁木軍は壊滅的な打撃を受け、仁木義尹は大井庄(現在の愛媛県今治市大西町大井付近)への撤退を余儀なくされました。
その後、大井庄で残兵を集めて再起を図ろうとした仁木義尹でしたが、その動きを察知した各地の郷兵が続々と押し寄せたため、踏みとどまることはできませんでした。
やむなく野間へ退きましたが、相次ぐ敗戦によって軍の士気は大きく低下し、この頃には兵の離散が相次いで、もはや軍勢を維持することさえ困難な状況に陥っていました。
それでも義尹は残兵を率い、船で北朝方の拠点・讃岐国へ退却するため、海へ出る機会をうかがいながら西條(西条)方面へと軍を進めたのです。
河野通直、府中入城で伊予国を奪還
応安元年/正平二十三年(1368年)9月29日。
北朝方の主力・仁木義尹を退けた通直は、ついに府中へ入りました。
やがて木梨入道が籠城していた佐波城も落城し、中道氏や前手向氏、越智氏らも次々と河野方へ帰順します。
村上氏・山内氏・池内氏・正岡氏らは軍勢を分けて瀬戸内海沿岸の港や入り江を次々と制圧し、南氏・望月氏・多賀谷氏・庄氏・大野氏らは伊予各地を巡って諸勢力を河野方に従わせました。
こうして伊予国は再び河野宗家の勢力下に入りました。
仁木軍が新居郡・宇摩郡へ
その頃、撤退を続けていた仁木軍は、かつてない窮地に立たされていました。
船で讃岐へと退却しようとしていたところ、それを聞きつけた村上氏(村上義弘)の水軍に襲撃を受けたのです。
このため仁木軍は船に乗ることができず、船だけを讃岐国へ回し、新居郡・宇摩郡(現在の愛媛県新居浜市・四国中央市)付近にとどまり、讃岐からの援軍を待ちながら防戦態勢を整えることにしました。
河野軍、仁木軍を追って東予へ進軍
一方、河野通直は攻勢の手を緩めませんでした。
正平二十三年/応安元年(1368年)11月には、重臣・重見通勝を東予へ派遣し、河野宗家再興の旗を掲げて各地の武士たちを糾合します。
その結果、生子山・松木・高方面の武士たちも次々と河野方へ加わり、河野宗家再興の動きは新居郡・宇摩郡一帯へと急速に広がっていきました。
翌、正平二十四年/応安二年(1369年)8月、河野通直は自ら軍勢を率いて新居郡へ進軍し、さらに宇摩郡へ兵を進めました。
「生子山城の戦い」細川頼有、仁木軍と合流
東予へ勢力を広げるためには、新居・宇摩両郡を押さえることが不可欠でした。
その要となるのが、生子山城(しょうじやまじょう・現在の愛媛県新居浜市角野地区)です。
生子山城は、四国山地から新居浜平野へ張り出した標高約300メートルの尾根上に築かれ、西を流れる国領川、東を流れる西谷川の険しい渓谷を天然の堀とする堅固な山城でした。旧新居郡と宇摩郡の境に位置し、讃岐・阿波方面から伊予へ入る交通路を押さえる東予屈指の要害でもあります。
築城は南北朝時代と伝えられ、城主を務めた松木氏(のちの一条氏)は、河野氏と同じく越智氏を祖とする一族でした。代々河野氏に従って南朝方として戦い、生子山城は東予における河野方の重要拠点となっていたのです。
河野方は、この生子山城に家臣の一条修理亮俊村を城主として置き、守備を固めました。俊村は通直に従い、生子山城を東予反攻の拠点として細川方を迎え撃ちます。
これに対して細川方は、管領・細川頼之の実弟で、阿波・備後両国の守護を務める細川氏屈指の武将・細川頼有(よりあり)を送り込みました。
頼有は兄・頼之に代わって四国方面の軍事を担う重鎮であり、自ら讃岐の援軍を率いて伊予へ入ります。
しかし頼有は、生子山城の険しい地形と堅固な守りを前に正面攻撃を避け、西へ進んで福武(現在の愛媛県西条市福武)で仁木義尹の軍勢と合流し、河野軍との決戦に備えました。
一方、通直は敵の動きを慎重に見極めながら軍を進め、敵陣の間隙を突いて北条(現在の愛媛県西条市北条)方面へ兵を進め、細川・仁木連合軍を揺さぶります。
通直は戦局を一気に動かそうと、細川・仁木連合軍に対して夜襲を敢行しました。
しかし、敵陣を崩すには至らず、勝敗はなお決しませんでした。
「加茂川の決戦」河野氏再興を決定づけた戦い
そこで通直は軍を横岡から鹿場(現在の愛媛県西条市洲之内付近)へ移し、高外木城(たかとぎじょう)を拠点として決戦に備えました。
高外木城は、現在の愛媛県西条市洲之内の高峠山に築かれた山城で、別名・高峠城(たかとうげじょう)とも呼ばれています。
新居郡と周桑郡を結ぶ交通の要衝を押さえる天然の要害でした。
やがて細川頼有・仁木義尹率いる連合軍は、加茂川を渡って河野軍への攻撃を開始します。
通直はこの機を逃さず、渡河してきた細川・仁木連合軍を迎え撃ちました。
正平二十四年/応安二年(1369年)11月16日、東予の命運を懸けた決戦の火蓋が切られます。
河野軍は大手・搦手の両面から一斉に攻勢を開始し、加茂川を渡った直後で隊列の整わない細川・仁木連合軍へ猛攻を加えました。
激戦の末、細川・仁木連合軍は総崩れとなって讃岐へ退却します。
さらに仁木義尹も、この戦況を幕府へ報告するため上京したことで、東予における幕府方の勢力は大きく後退しました。

愛媛県西条市 加茂川 河口 撮影:setsuna0410(Photo AC)
良成親王を迎えた河野氏と伊予国
高外木城の戦いによって東予を奪還した河野通直は、伊予における南朝方最大の勢力へと成長しました。
良成親王は幼くして九州へ渡り、叔父・懐良親王のもとで育てられた南朝の皇子でした。
この勝利は、単に伊予国内の勢力図を書き換えただけではありません。
九州・太宰府に置かれた南朝の政権「征西府」にとっても、伊予は瀬戸内海を東へ進み、四国を経て京都へ至る重要な軍事・交通の拠点でした。
しかし、その航路を確保するためには、四国の幕府方を打ち破り、伊予を南朝方の確かな拠点とすることが不可欠でした。
こうした情勢の中、正平二十四年/応安二年(1369年)2月、征西府は河野通直に対し、九州へ軍船を派遣するよう命じます。
ところが、この計画は何らかの事情で延期され、同年12月に征西府は新たな決断を下しました。
後村上天皇の第六皇子であり、征西将軍・懐良親王の甥にあたる良成親王(よしなりしんのう)を伊予へ下向させたのです。
良成親王の下向後、河野通直は伊予の南朝方を代表する武将として、さらに大きな役割を担うことになります。
建徳二年/応安四年(1371年)、通直は征西将軍宮から南朝方の伊予国守護に任じられました。
世田山合戦で父・通朝を失い、わずか十五歳で伊予を追われた通直は、九州へ落ち延びたのち南朝へ帰順し、ついには伊予国守護として認められるまでになったのです。
さらに河野軍は、細川氏の勢力圏である讃岐国へ攻め入り、大野(現在の香川県高松市香川町大野)まで進撃しました。
この一連の出来事は、四国における細川氏の統治体制を揺るがすだけでなく、北朝方の室町幕府にとっても看過できない大きな脅威となりました。
このような情勢の中、河野氏と仁木氏は再び伊予国を舞台に激突することになります。
仁木義尹、再び伊予へ侵攻
文中二年/応安六年(1373年)、仁木義尹が一万余騎の大軍を率いて伊予国へ侵攻し、越智郡鴨部郷(現在の愛媛県今治市玉川町鴨部付近)へ陣を構えました。
仁木軍は河野軍を見渡すと、「敵は少数である」と判断し、それ以上警戒することなく軍議も開かず、酒宴を催して舞を舞うなど、勝利を目前にしたかのように大いに浮かれ騒いでいました。
一方、河野方では斥候が仁木軍の様子を探り、その備えが極めて手薄であることを知ります。
「この機を逃してはならぬ」
通直は直ちに軍議を開き、夜襲を決断しました。
折しもその夜は激しい雨が降っていました。
夜半になると、河野軍三千余騎は袖印と合言葉を定め、闇と雨に紛れて仁木軍へ静かに忍び寄ります。
そして、一斉に総攻撃を開始しました。
まったく予想していなかった仁木軍は大混乱に陥り、何をすべきかも分からないほど狼狽します。
その隙を逃さず、大内式部の弟・延吉をはじめ、越智一族や南氏らが仁木軍の本陣へ突入しました。
河野軍は混乱する敵兵を次々と討ち倒し、仁木軍は総崩れとなりました。
海上でも村上氏・正岡氏らの水軍が仁木方の船を奪い、あるいは焼き払ったため、仁木軍は海路で退却することもできませんでした。
仁木義尹は残兵を率いて讃岐国へ敗走し、河野氏は再び伊予国を守り抜くことに成功したのです。
時を超えて受け継がれる高仙山の記憶
高仙山を舞台に繰り広げられた河野軍と仁木軍の激戦。
その記憶は、約六百五十年を経た現在も各地に残されています。
その一つが、松山市来住町に鎮座する軍ヶ森神社(いくさがもりじんじゃ)です。
現在、この一帯には閑静な住宅街が広がっていますが、約六百五十年前には森に覆われていました。
そして、この地こそが河野軍と仁木軍が激突した久米原の戦いの舞台だったのです。
激戦が終わったのち、この地には多くの討ち死にした仁木軍の兵が横たわっていました。
哀れに思った村人たちは、亡くなった兵たちを一人ひとり森へ葬り、供養のために塚を築いたといいます。
やがて、この森は「軍ヶ森(いくさがもり)」と呼ばれるようになりました。
その後、天正年間になると、この地に祀られていた八幡社は「軍森八幡宮」と称されるようになり、時代の変遷を経て現在の「軍ヶ森神社」となったといいます。
菊間に残る戦いの記憶
そして、この戦いの記憶は、激戦の舞台となった高仙山がそびえる今治市菊間町にも残されています。
高仙山での戦いから十年余りが過ぎた南北朝時代末期の康暦年間(1379〜1381年)、山上に祀られていた神社が山麓へと遷されました。
以後、神社は元の場所へ戻ることはなく、天授五年/康暦元年(1379年)に三永九郎通能によって留山へ、さらに元中四年/嘉慶元年(1387年)には放山へと遷座しました。
これが、現在の貴布禰神社・種の始まりと伝えられています。

さらに元中六年/康応元年(1389年)には、それまで貴布禰神社に合祀されていた賀茂明神が遍照院の鎮守として分霊されました。
応永六年(1399年)には遍照院から現在の地へ遷座し、地域の氏神として新たな歩みを始めました。
これが秋祭りの「お供馬の走り込み」で知られる加茂神社・浜の始まりと伝えられています。

その後、高仙山の山頂には再び社殿が建立され、かつてこの地に祀られていた貴布禰神と賀茂明神の二柱があらためて合祀され、高仙神社として信仰されるようになりました。

もっとも、これらの創建や遷座の経緯については、当時を直接伝える史料がほとんど残されておらず、後世の社伝による部分も多いため、異説も伝えられています。
また、本稿で南北朝期の戦いの舞台とした高仙山についても、史料の記述や高仙神社の由緒、地理的状況などを踏まえ、高山を高仙山に比定していますが、史料には「高山」と記されるのみで、「高山」が現在の高仙山であることを明確に示す史料は現在のところ確認されていません。
しかし、この地で繰り広げられた南北朝の戦乱の記憶は、今も確かに菊間の歴史と人々の生活の中に生き続けています。