「伊予南朝方」対「北朝方四国総大将・細川頼春」
興国三年/康永元年(1342年)。
北朝方四国総大将・細川頼春率いる軍勢によって川之江城を失い、金谷経氏の決死の反撃も阻止されたことで、伊予の南朝方はさらに厳しい状況へ追い込まれていました。
しかし、南朝方はまだ戦いを諦めてはいませんでした。
脇屋義助の死後、その後を継いで総大将となったのは、義助の甥であり、伊予守護として南朝方を率いていた大館氏明(おおだち うじあき)です。
大館氏明をはじめとする南朝方諸将は、国分山を離れ、天然の要害である世田山・笠松山へと拠点を移し、徹底抗戦の構えを固めていました。
そこに、細川頼春率いる大軍が迫ります。
軍勢は椎ノ木越(しいのきごし)を越え、ついに世田山・笠松山の防衛線をその目前に捉えました
伊予南朝方を率いる大館氏明と、これを攻め滅ぼそうとする北朝方の細川頼春。
両軍は、ついにこの地で相まみえることになったのです。
前回の記事はこちら:《世田山合戦⑤》北朝方四国総大将・細川頼春の伊予侵攻
伊予国が誇る最強の山城
古くから城攻めは「守る側が有利」とされ、攻め手には守備側の三倍以上の兵力が必要ともいわれています。
なかでも、険しい地形を巧みに利用して築かれた山城は、大軍を擁していても兵力を十分に展開することができず、守備側が圧倒的に有利でした。
世田山・笠松山もまた、そのような天然の要害の一つでした。
この一帯は山全体が花崗岩によって形成されており、現在でも巨大な岩塊が各所に露出しています。
さらに、風化した花崗岩は「真砂土(まさど)」となり、乾燥時には比較的歩きやすいものの、ひとたび雨が降れば足元はぬかるみ、急斜面は非常に滑りやすくなります。
攻め手は狭い尾根道や急斜面を登りながら、山上から降り注ぐ弓矢や投石に耐えなければなりませんでした。
さらに、巨岩が点在する険しい斜面では、一歩足を踏み外せば滑落する危険もありました。
一度隊列が乱れれば後続の兵も前進できなくなり、大軍であることがかえって足かせとなる場合もあったのです。
このような地形であったからこそ、世田山・笠松山は少数の兵でも大軍に対抗できる天然の要害となり、伊予の命運を懸けた決戦の舞台として選ばれたのでした。

「世田山城」総大将・大館氏明
脇屋義助の死後、伊予の南朝方を率いることができる有力武将は限られていました。
その中で、南朝方の総大将としてその重責を担ったのが、新田義貞以来の宿将として数々の戦場を転戦してきた歴戦の武将、大館氏明(おおだち うじあき)でした。
氏明は、これまでの拠点であった国分山を離れ、世田山山頂に築かれた世田山城へ入りました。
そして伊予南朝方の総大将として、迫り来る細川頼春率いる大軍を迎え撃つ決意を固めたのです。

「笠松山城」新田四天王・篠塚重広
尾根続きの笠松山城には、「新田四天王」の一人として名高い篠塚重広(しのづか しげひろ)が入りました。
重広は新田義貞以来の宿将であり、各地の戦場を転戦してきた歴戦の勇将です。
笠松山城は世田山城と連携しながら防衛線を形成する重要拠点であり、篠塚重広はここで細川軍の侵攻に備えていました。

「行司原城」南朝方を支えた補給拠点
周辺にも有力武将や支城が配置され、世田山・笠松山を中心とした重層的な防衛網が築かれていました。
その一つである笠松山城の麓・行司原城は、世田山城・笠松山城へ兵糧や武具を送り続ける補給拠点であり、長期籠城戦を支える生命線ともいえる存在でした。
この重要拠点には、もともと笠松山城主であった河野重次郎こと岡武蔵守光信(おかむさしのかみみつのぶ)が入り、矢矧神社の神官家・久保加賀守通貞(久保通貞)とともに兵糧の調達や補給を担う兵糧方としての任に就きました。

「真光寺」北朝方・細川頼春の本陣
このように世田山・笠松山には有力武将たちが配置され、支城や補給拠点も含めて、伊予南朝方が持てる力を結集した一大防衛網が築かれていたのです。
一方の北朝方・細川頼春は、府中拝志郷(現在の今治市拝志付近)へと進軍すると、頓田川のほとりにある海松山真光寺(現在の真光寺・東村)に本陣を据えました。
そして、ここから世田山・笠松山攻略の軍略を練りました。
この頃、頼春のもとには北朝方の軍勢がさらに集結し、その兵力は七千を大きく上回り、一万人を超える規模に達していました。

「世田山合戦」細川軍による完全包囲と総攻撃
そして興国三年/康永元年(1342年)8月24日の早朝。
細川頼春は世田山の背後にある山へ進出し、城を見下ろす位置に布陣しました。
ついに世田山攻略へと乗り出したのです。
頼春は一万余騎の軍勢を七手に分け、世田山・笠松山一帯の山城群を完全に包囲すると、四方の尾根や山道から一斉に攻め登り、世田山城・笠松山城を激しく攻め立てました。
一か月を超える籠城戦と攻めあぐねる細川軍
しかし、世田山・笠松山は急峻な山肌と複雑に入り組んだ尾根によって守られた天然の要害であり、一万を超える大軍をもってしても容易に攻略できる城ではありませんでした。
細川軍は狭い尾根道や木戸口を一つひとつ突破しなければならず、一度に攻め込むことはできませんでした。
そこへ南朝方は山上から矢を射かけ、石を落とし、険しい山道を登ってくる敵兵を激しく押し返します。
細川軍が一方の尾根から攻め寄せれば、南朝方はそこへ兵を集中させて防ぎ、別の尾根から攻めれば、また別の守備兵が駆けつける。
世田山と笠松山を結ぶ尾根一帯は、まさに山全体が戦場となっていきました。
細川頼春は兵を七手に分け、昼夜を問わず波状攻撃を繰り返します。
一方の南朝方も、大館氏明・篠塚重広らを中心に必死の防戦を続け、山城の利を生かして何度も敵を撃退しました。
昼は兵たちの雄叫びと矢音が山中に響き渡り、夜になっても両軍の警戒は緩むことなく続きました。
両軍は休む間もなく攻防を繰り広げ、その激戦は一か月以上にも及んだと伝えられています。
しかし、どれほど兵を送り込んでも、険しい地形を利用した南朝方の防御を突破することはできませんでした。
戦死者や負傷者も増え続け、細川軍は大軍を擁しながらも決定打を欠いていたのです。
頼春の戦術転換「兵糧攻め」
そこで頼春は戦術を大きく転換します。
力攻めではなく、兵糧攻めによって城を屈服させようと考えたのです。
細川軍は山へ通じる道を封鎖し、世田山へ運び込まれる兵糧や武具を断ちました。
さらに城兵たちの命綱であった水の手までも押さえ、じわじわと南朝方を追い詰めていきます。
こうして世田山・笠松山は完全に孤立し、城内では食糧不足の不安が広がり始めました。
「行司原城陥落」断たれた補給線
そして、この兵糧攻めを成功させるため、細川軍は南朝方の籠城戦を支える生命線であった行司原城へ猛攻を加えます。
行司原城を守る岡武蔵守光信と久保加賀守通貞は、押し寄せる北朝軍を相手に必死の抗戦を続けました。
しかし圧倒的な兵力差を覆すことはできませんでした。
多くの兵たちが馬もろとも討死し、城兵たちは次第に追い詰められていきます。
やがて光信と通貞も、もはやこれまでと覚悟を決め、自ら命を絶ちました。
城内では軍兵として頼りにされていた岡部出羽守の一族四十余人もまた、自害して城と運命をともにします。
こうして行司原城は陥落し、頼みの綱であった補給路を断たれた南朝方は、もはやこれ以上の籠城を続けることができない状況へと追い込まれていったのです。
「世田山城落城」大将・大館氏明の最期
それでも大館氏明らは退くことなく、決死の覚悟で世田山を守り続けました。
しかし、攻防が四十日を超えるころには、城内の矢や兵糧も尽きかけ、傷つく兵も増え、南朝方はついに限界を迎えていました。
北朝方の細川軍もまた、この機を逃せば再び城を落とす機会はないと考え、総力を挙げて決着をつけようとしていました。
そして興国三年/康永元年(1342年)9月3日の夜明け前。
大館氏明は、ついに最後の決断を下します。
氏明は主従わずか17騎を率いると、一の木戸口を開いて敵陣へ打って出ました。
突然の突撃に木戸口付近の細川軍は大きく動揺します。
氏明らは堀に取り付いていた敵兵へ真っ向から斬り込み、五百余人を遥か麓まで追い落としたといいます。
わずか17騎による、まさに壮絶な決死隊でした。
しかし、それは勝利を目指した戦いではありませんでした。
氏明はすでに世田山城を守り切れないことを悟っていたのです。
そして、これ以上の奮戦は叶わぬと悟った氏明は、世田山城に火を放ち、17人の部下とともに壮絶な切腹を遂げたといいます。
享年38歳。
奇しくも、新田義貞や脇屋義助と同じ年齢で、その生涯を閉じることとなりました。
こうして、伊予南朝方最大の拠点であった世田山城は陥落したのです。
「笠松山城落城」篠塚重広の離脱伝説
同じ頃、尾根続きの笠松山城では、篠塚重広が奮戦を続けていました。
しかし、世田山城が陥落し、大将・大館氏明が自刃したことで、笠松山城もまた支えきれなくなります。
細川軍の攻撃は四方から迫り、城内の兵たちも、もはやこれまでと覚悟を決めました。
篠塚重広のために最後まで矢を射て時間を稼いでいた兵たちも、ある者は敵と組み合って刺し違え、またある者は自ら詰め所に火をかけ、燃え上がる炎の中へ飛び込んで命を絶っていきました。
城内の武士たちは、それぞれのやり方で壮絶な最期を迎え、笠松山城もまた、ついに落城の時を迎えようとしていたのです。
それでも、篠塚重広はこの場で討死する道を選びませんでした。
この先の重広の行動は、後に伝説として語り継がれることになります。
世田山城の落城を見届けた重広は、兜の内側に秘めていた一寸八分(約5.5センチ)の黄金観音像をそっと取り出し、笠松山の山頂に安置すると、静かに戦支度を整えました。
そして、生き残った部下たちを城外へと脱出させた重広は、城門を自ら開き、馬にも乗らず、弓矢も持たず、ただ太刀一振りを携えて、たった一人で敵中へ向かって歩き出したのです。
その姿を見た細川軍の兵たちは、あまりの異様さに目を疑いました。
普通であれば、討死を覚悟した武将は馬にまたがり、最後の突撃をかけるものです。
しかし、篠塚重広は違いました。
まるで散歩でもするかのように、悠々と山を下りてくるのです。
やがて重広は、大音声で名乗りを上げました。
「外にては、定めて名をも聞きつらん!今近づいて、我を知れ!」
「畠山庄司次郎重忠に六代の孫!武蔵国に育って、新田殿に一人当千と頼まれたりし篠塚伊賀守ここにあり!」
「討って勲功に預かれ!」
その声は山中に響き渡り、敵兵を震え上がらせたといいます。
当時、篠塚重広の名を知らぬ者はほとんどいませんでした。
新田四天王に数えられた豪勇であり、一人当千の豪傑・超武辺者として、その名は広く知れ渡っていたのです。
しかし、細川軍の兵たちは、さすがにただ一人の武将を見逃すわけにはいきません。
讃岐の藤原姓・橘姓・大伴姓の武士たち二百余騎が、後を追って討ち取ろうとしました。
しかし、篠塚重広は少しも慌てませんでした。
小歌を口ずさみながら、まるで何事もないかのように静かに歩き続けたのです。
敵兵が距離を詰めると、重広は立ち止まり、振り返ってこう言い放ちました。
「おお、近づきすぎるなよ。首と胴とが喧嘩別れすることになるぞ」
さらに敵が矢をつがえるとこう言いました。
「わしの鎧には、おまえたちのヘロヘロ矢など通るまい。まあ、試してみるがよい」
そう言って、なんと背中を見せて休む始末でした。
その余裕、その異様な胆力に、追う敵兵たちも容易には近づけません。
もし一撃で討ち取れなければ、逆にこちらが斬られる。
誰もがそう感じたのでしょう。
こうして、二百余騎に囲まれながらも、篠塚重広は少しも動じることなく、敵中を悠々と通り抜け、そのまま戦場を去っていったのです。
その後、今張(現:今治)の浜まで辿り着いた篠塚重広は、岸近くに留められていた敵の船を見つけました。
船には一人の船乗りが残っていました。
重広は岸から海へ飛び込み、波をかき分けながらその船に泳ぎ着きました。
そして船に乗り移ると、「われは篠塚伊賀守なり。この船で沖ノ島へ送れ」と名乗り、自ら刀を抜いて船乗りに命じました。
その気迫はすさまじく、船乗りは一言も発せず、ただ従うほかなかったといいます。
こうして船は海原へと漕ぎ出し、篠塚重広は沖ノ島(愛媛県上島町魚島 or 因島)へと逃れました。
その道中、なんと重広は船の屋形に上がり、まるで戦の疲れを忘れたかのように豪快ないびきをかいて眠っていたと伝えられています。
敵船でありながら、まるで意にも返さないその姿は、篠塚重広という武将の胆力と度量を物語る逸話として今に伝わっています。
世田山合戦の終結と首実検
こうして、世田山合戦は北朝方の勝利に終わりました。
激戦地となった野々瀬口、現在の水大師周辺一帯では、敵味方の多くの兵が命を落とし、谷を埋めるほどの屍が折り重なっていたといいます。
四十日を超える激戦の末、山は静けさを取り戻しましたが、そこに残されたのは、無数の戦死者と勝敗を決した戦の現実でした。
南朝方のために戦った大館氏明をはじめ、討死・自刃した武将たちの首級(しゅきゅう・生首)は、戦功の証として、細川頼春の本陣が置かれていた真光寺・東村へと運ばれ、本堂前に並べられたとされています。

そして、並べられた首級の身元が一つひとつ確認され、誰がその戦功を立てたのかが明らかにされていきました。
これが「首実検」です。
首実検とは、討ち取った武将の首級を大将の前に並べ、その人物が誰であるかを確認するとともに、誰がその戦功を立てたのかを明らかにするためのものです。
中世の戦場において、それは戦の勝敗を正式に確定させ、武士たちの功績を認めるための、戦後の重要な儀式でもありました。
現在も残る世田山合戦の記憶
やがてそうした戦後の緊迫した空気も去り、世田山にも静けさが戻っていきました。
戦場の生々しい傷跡は少しずつ自然の中へと埋もれ、かつての激戦地にも静かな日常が戻っていきました。
しかし、この地で繰り広げられた壮絶な戦いの記憶が消えることはなく、今も世田山周辺には、あの夏を駆け抜け、南朝の義に命を捧げた武士たちの足跡が静かに残されています。
「大舘氏明公之首塚」
三嶋神社・東村の本殿裏の道沿いには、大館氏明の首を祀った首塚ではないかと伝えられる塚が、今も静かに残されています。

地元では古くから「間のお地蔵さん」と呼ばれ、眼や風邪にご利益があるとして、近郷はもちろん遠方からも参拝者が訪れる信仰の場となっています。そのため、「眼のお地蔵さん」「風邪のお地蔵さん」と呼ばれることもあります。
昔は、この前を通る際に履物を脱ぎ、素足で通る人も多かったといわれ、今でも時折そのように参拝する人がいるそうです。
一見するとお地蔵さんのようですが、その姿は供養塔や墓の形態をとっており、古くから「高貴な人物を祀った墓ではないか」と語り継がれてきました。

「大舘氏明公供養塔」
かつて細川頼春の本陣が置かれ、首実検が執り行われた真光寺・東村。
この寺は、長い時の流れの中で、世田山合戦の記憶と、この地で散った武士たちの魂を静かに今へ伝えてきました。
そして平成十一年(1999年)5月30日、東村信徒の発願によって、伊豫守護大舘氏明公(大館氏明)を弔う供養塔が建立されました。

塔には新田氏の家紋である「一つ引両」が刻まれ、その凛とした佇まいが、大舘氏明の誇り高き生涯を偲ばせます。
供養塔の左には「伊豫守護 大舘氏明公供養塔」「南北両朝軍物故者合同供養塔」と刻まれた石柱が立ち、右には「ふと頬を挙げればそこは海」という一句の句碑、そしてその裏手には「南朝忠臣烈火の碑」が静かに刻まれています。

また、石室の内部には、南北朝時代の戦いにゆかりのある各地から集められた祈願の土砂が納められているほか、氏明公の冥福を祈る祈願文や百巻以上の写経が丁重に収められており、今もなお、この地で散った武士たちへの祈りが静かに息づいています。
栴檀寺(世田薬師)で守られる大館氏明の記憶
大館氏明の位牌は栴檀寺(世田薬師)に、今も大切に祀られています。
また、世田山八合目にある奥之院(旧本堂)の隣には、世田山合戦で命を落とした武将たちの墓が静かに並んでいます。


その中に、伊予守護・大館氏明の墓所があります。
現在の墓碑は天保8年(1837年)、子孫である大館氏晴(17代)によって建立されたものと伝えられています。

また、寺の伝承ではその左後ろにある小さな墓こそが、かつて建立された当初のもの、あるいはゆかりの深い墓ではないかともいわれています。
戦乱の時代を駆け抜けた大館氏明の魂は、こうして世田山の地に深く抱かれ、現代の人々の祈りによって守られ続けているのです。
「笠松観音堂」篠塚重広が残した祈りの像
笠松山には、篠塚重広が残したとされる観音像の伝説が語り継がれています。
ある日、山へ登った村人たちが、草木の中に佇む黄金の観音像を見つけました。
その尊くも神秘的な姿に深い敬意と畏敬の念を抱いた村人たちは、この地に小さな社を建て、観音像を丁重に祀りました。
この社が現在も笠松山の山頂に残る「笠松観音堂」になります。

一方で、その後の篠塚重広自身の足跡には、数々の伝説と波乱が秘められています。
沖ノ島に落ち延びて没したという説がある一方で、一説にはその戦意は一向に衰えることなく、しばらくの潜伏を経て、岡山県児島半島で再び挙兵し、足利軍への反撃を試みたとも伝えられています。
ところが、戦況は次第に不利に傾き、ここでも敗北を喫しました。
それでも重広は決して諦めることなく、さらに遠く丹後国(現在の京都府北部)へ渡って再び兵を挙げます。
幾度もの敗北にも屈せず戦い続けた重広でしたが、ついに討ち死にし、その波乱に満ちた生涯を閉じました。
北朝方の圧倒的な力の前に散った大館氏明と、最後まで信念を貫き転戦した篠塚重広。
世田山・笠松山を巡る物語は、南北朝という激動の時代を生きた武士たちの、あまりに熱く、そして儚い記憶を今に伝えています。
行司原城址に残る墓所と首なし武者の怪異
行司原城址には、岡武蔵守光信の供養碑が建立され、今も世田山合戦の記憶を静かに伝えています。

しかし、この碑が建立されるまでには、村人たちを震え上がらせる不思議な噂が絶えなかったといいます。
江戸時代末期の天保元年(1830年)ごろから、野々瀬・野田を通って山越へ抜ける行司原山の街道で、夜になると「首のない馬に、首のない武者がまたがって駆ける」という亡霊がたびたび現れるようになったといいます。
その亡霊が現れる時には、行司原山の山頂あたりから、大勢の人々の叫び声とも、うめき声ともつかない異様な声が響いたとも伝えられています。
この首なし武者に出会った村人は、その後しばらく寝込んでしまったとされ、村人たちは夜道を通ることを大いに恐れました。
人々はこれを、約五百年前の世田山合戦で討死した岡武蔵守光信の霊が、今なお成仏できずにさまよっているのではないかと語り合い、やがて夜にこの道を通る者はいなくなったといいます。
特に、行司原山落城から五百年忌にあたる天保十二年(1841年)ごろには、この怪異はさらに激しくなったと伝えられています。
そこで山越の村人たちはたびたび集まり、討死した武将や兵たちの霊を慰め、成仏を祈るため供養を行うことを決めました。
村の若者たちの奉仕によって、岡武蔵守光信の供養碑と、戦死した兵たちを弔う「千人塚」が築かれ、さらに少し離れた場所には、光信の乗馬や、世田山城・笠松山城へ兵糧を運ぶ途中で倒れた駄馬たちを弔うための「馬頭観音」も祀られました。
そして嘉永二年(1849年)12月、近隣の寺院の僧侶たちによる読経と、村人たちの手による大規模な法要が営まれたといいます。
不思議なことに、この供養が行われた後は、首なし武者の亡霊が現れることはなくなり、怪異の噂も次第に静まっていったと伝えられています。

岡武蔵守光信ゆかりの古刹「正善寺」
岡武蔵守光信ゆかりの寺として知られるのが、朝倉にある古刹「正善寺(しょうぜんじ)」 です。
正善寺の前身は、南北朝時代に河野氏の祈願寺として創建された「法隆山本道寺」とされ、のちに岡武蔵守光信によって堂宇が整備され、寺号も「正禅寺」と改められたと伝えられています。
しかし、その再建からわずか二年後、世田山合戦の戦火によって寺は焼失。
岡武蔵守光信もまた行司原城で討死し、寺も戦乱の中にのみ込まれていきました。
その後、寺は再興され、現在の正善寺へと名を改め、今も朝倉の地で静かに法灯を守り続けています。

大館氏明の血を受け継いだ久保氏
岡武蔵守光信と共に行司原城で戦った久保加賀守通貞は、大館氏明とも深い縁で結ばれた人物として伝えられています。
伊予国が南北朝の動乱に揺れる中、通貞の娘は大館氏明の妻となり、二人の間には成氏という男子が生まれました。
しかし、興国三年/康永元年(1342年)の世田山合戦によって、父・大館氏明と祖父・久保加賀守通貞は相次いで命を落とします。
戦乱の中を生き延びた成氏は母とともに阿波国三好郡加茂野宮瀧上奥(現在の徳島県東みよし町加茂周辺)へ落ち延びたと伝えられています。
その後、成氏は母方の祖父の家を継ぎ、久保氏を称しました。
さらに成氏は後に多伎神社の神官を務めたと伝えられており、大館氏明の血筋は久保氏を通じて後世へと受け継がれていきました。

その子孫は阿波の地で家名を守り続け、戦国時代には阿波・讃岐を中心に四国一帯へ勢力を広げた戦国大名・三好(みよし)氏に仕えました。
そして阿波の中心拠点であった勝瑞城(しょうずいじょう)に在城した人物もいたと伝えられています。
世田山で散った大館氏明と久保加賀守通貞の血脈は途絶えることなく、成氏によって守られ、やがて阿波の地で新たな歴史を刻んでいくことになったのです。

徳島県 勝瑞城跡(photo library)
世田山に迫る新たな戦い
世田山合戦の敗北は、伊予南朝方にとって決定的な打撃となりました。
脇屋義助、大館氏明という二人の指導者を失ったことで、その勢力は大きく後退し、北朝方が伊予国内で主導権を握るきっかけとなったのです。
しかし、この世田山を巡る戦いは、これで終わりではありません。
それからおよそ二十年後。
今度は同じ北朝方同士の河野氏宗家と細川氏が対立し、再びこの世田山の地で、伊予の命運を巡って激突することになるのです。
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