伊予国を守り続けた三島信仰。越智氏から受け継がれた祭祀の歴史
伊予の軍事・政治を担う「河野氏」と、大山祇神社の祭祀を司る「大祝氏」。
伊予の歴史を支えたこの二つの名門は、いずれも越智玉澄(おちのたまずみ)から生まれた、いわば“兄弟の系譜”でした。
しかし実は、玉澄は当初からこの二つを分けるつもりではなかったと伝えられています。
本来、越智氏にとって「国を治めること」と「三島大明神(大山祇神)を祀ること」は、切り離すことのできない一つの務めでした。
政治・軍事を担うことも、祖神である大山祇神への祭祀を守ることも、すべて越智宗家が一体となって果たす。
それが本来の姿だったのです。
ではなぜ玉澄は、本来一つであったその役割を、あえて二つに分けるという決断を下したのでしょうか。
前回の記事はコチラ:【越智氏の系譜】戦国の終わりまで続く伊予の歴史はここから始まった。河野氏の祖・越智玉澄

「国務の河野」と「祭祀の大祝」朝廷の決断
越智玉澄がまだ健在であった頃、嫡男・越智益男(河野益男)は越智氏二十八代当主として家督を継ぎ、伊予の国務を担う立場となりました。
益男は周布郡に館を構え、その居館は現在の東禅寺のそばにあったと伝えられています。
さらに、かつて越智玉澄が宇摩郡で三島大神を勧請した例にならい、館のそばに「御矛宮(みほこのみや)」を造営しました。
この社は「正一位宮大明神」とも称され、佐理卿(藤原佐理)の真筆による額を神体としたとも伝えられています。
益男は、大三島の大山祇神社へ毎月船で海を渡って参籠する代わりに、この周布郡の社で祭祀を行うようになりました。
しかし、益男には次第に一つの考えが芽生えていきます。
「国務と祭祀を分け、祭祀は弟に任せたい」
国を治める政務と、三島大神を祀る祭祀。
その両方を一人で担うことは容易ではありませんでした。
弟・越智安元(河野安元・安久)に祭祀を託し、自らは国務に専念することで、一族の統治も祭祀もより安定すると考えたのです。
ところが、父・越智玉澄はこれを最後まで許さなかったと伝えられています。
それもそのはずでした。
越智氏の祖・彦狭島命(ひこさしまのみこと)がこの伊予の地へ下されたのは、孝霊天皇に代わって三島明神の祭祀を司るためであり、祭祀とは越智氏にとって統治そのものと並ぶ、極めて重要な使命だったからです。
しかし、孝謙天皇の御代になると国務はますます多忙となり、益男はついに朝廷へ願い出ます。
朝廷でも議論が重ねられた末、国務と祭祀を分け、それぞれに役割を担わせることが決定され、最後まで分離に反対していた玉澄も、この決定に従うこととなったのです。
「越智益男(河野益男)には河野家の家督を継がせ、国務と軍事を担わせる。そして、弟・安元には、大山祇神社の祭祀を司る「大祝(おおほうり)」の職を任せる」
こうして、神職としての「大祝氏(おおほうりし・おおほうりうじ)」が誕生したのです。

大山祇神社を支えた最高神職「大祝」とは
大祝とは、古代から中世にかけて神社に置かれていた神職の一つで、祭祀全体を統括する最高位の神職を指します。
神社には、祝詞(のりと)を奏上する「祝(ほうり・はふり)」、日々の神事や社務を補佐する「禰宜(ねぎ)」、神社全体の管理を担う「宮司(ぐうじ)」など、さまざまな役職がありますが、大祝はその中でも特別な存在でした。
単に祭りを執り行うだけでなく、神意を人々に伝え、神と人との間をつなぐ、いわば“神の代行者”とも考えられ、神社によっては神そのものに近い存在として崇められることもありました。
たとえば、長野県の諏訪大社では、大祝は祭神・建御名方神(たけみなかたのかみ)の依り代(よりしろ)として、神の化身のような存在とみなされていました。
伊予国(現在の愛媛県)においても、「大祝」はきわめて重要な役職でした。
瀬戸内海を代表する大社であり、伊予国一宮として古くから篤い信仰を集めてきた大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)では、この大祝が祭祀の最高責任者を務めていました。
大山祇神社の祭神・大山祇命(おおやまづみのみこと)は、山の神であると同時に、瀬戸内海の航海・漁業・武運を守る神として広く信仰され、全国から参拝者が訪れる特別な神でした。
そのため、大祝は単なる神職ではなく、伊予国全体の精神的支柱ともいえる存在だったのです。
この重要な役職は、古くから伊予を治めてきた豪族・越智氏の一族が代々世襲していました。
神社の神職を「祝(ほうり・はふり)」と呼ぶのに対し、大山祇神社の神主は別格であったため、特別に「大祝」と呼ばれるようになったと伝えられています。
そして、越智玉澄の子・安元(やすもと)の代に、国務を担う河野家とは別に、祭祀を専門に司る家として独立したことで、この役職を世襲する家は、やがて「大祝家(おおほうりけ)」、あるいは「大祝氏」と呼ばれるようになっていきました。
大祝に許された特別な装束
大山祇神社で祭祀の中心に立つ大祝には、一般の神職とは異なる特別な装束が許されていました。
大祝は、透額冠(すきびたいのかんむり)をかぶり、裾を長く引く格式ある装束をまとい、笏(しゃく)・袍(ほう)・襯(しん)・指貫袴(さしぬきばかま)などを備えていたと伝えられています。
こうした装いは、通常の神職とは明らかに異なるもので、大祝が大山祇神社の祭祀を司る別格の神職であったことを示しています。
冠をいただき、裾を引く装束に身を包み、笏を手に神前に立つその姿は、単なる神職というよりも、神の依り代に近い特別な祭祀者としての威儀を備えたものだったのでしょう。
ただし、大祝に関することは秘事とされる部分も多く、装束についても詳細な規定や実際の姿まですべてが明らかになっているわけではありません。
大祝を支えた祭祀組織
大山祇神社の祭祀は、大祝一人だけで成り立っていたわけではありません。
その背後には、大祝を支え、祭祀や社務を分担する多くの神職や奉仕者たちが存在していました。
「十官」大祝を支えた上級神職
大山祇神社の大祝のもとには、上司(かんつかさ)と呼ばれる十人の上級神職が置かれていました。
この十人は「十官」と呼ばれ、大祝を補佐しながら祭祀や社務の中枢を担う、いわば神社の幹部職員でした。
十官は冠をかぶり、黒い衣に浅黄色の袴を着け、笏や椎杖を持つことが許されるなど、一般の神職とは異なる特別な格式を持っていたと伝えられています。
その構成は、越智家五人・菅家五人とされ、補任の順によって座席や職分の序列も定められていました。
十官の中枢「四職」
十官の中でも、とくに重要な役職が「四職(ししき)」です。
これは、祭祀と社務の中枢を担う重要な職として、次のように越智家から二職、菅家から二職が選ばれていました。
- 擬神主(ぎかんぬし)[越智家第一位]:四職の筆頭にあたる役職で、大祝を最も近くで補佐する神職です。内陣の御戸開きの際には扉を開いて内陣に入り、掃除や幣帛(へいはく)の奉納・撤下を行うほか、遷宮や大祭では大祝を助け、平常の祈祷で大祝が出仕できない場合には、その代理として神事を執り行いました。まさに大祝の代行者ともいえる重要な存在でした。
- 権神主(ごんのかんぬし)[越智家第二位]:擬神主に次ぐ役職で、神殿の錠箱や封印を管理する神職です。祈祷や神楽の依頼があった際には祝言を奏し、擬神主に支障がある場合にはその代理も務めました。祭祀の実務を支える、副責任者のような役割を担っていたと考えられます。
- 国神主(くにかんぬし)[菅家]:内陣の鍵箱を預かる役職で、神殿管理において重要な責任を負っていました。
万一、大事が起こった際にはすぐに神前へ駆けつけて対処する役目があり、さらに神女の補任状を出すなど、人事にも関わる権限を持っていました。祭祀だけでなく、神社運営の管理職としての性格も持っていたようです。 - 修理行事(しゅうりぎょうじ)[菅家]:社殿の修理や造営に関する事務を司る役職です。祭祀そのものだけでなく、神社建築の維持管理や造営の実務を担い、大山祇神社の施設を守る重要な役目を果たしていました。いわば神社の建築・管理担当ともいえる職でした。
十官の下に置かれた多くの神職たち
大山祇神社の祭祀は、十官だけで成り立っていたわけではありません。
その下にも、祭礼や社務を支える多くの神職・奉仕者が置かれ、それぞれが役割を分担しながら大規模な祭祀組織を形づくっていました。
主な役職には次のようなものがあります。
- 行事(ぎょうじ)・小行事(しょうぎょうじ):祭礼の進行や実務を担当する役職。
- 棚守(たなもり):神宝や祭器具を管理・守護する役。
- 雑官(ざっかん):神社内の雑務や実務を担う役。
- 守手(もりて):社殿や神域の警護・管理を担当する役。
- 羽官(うかん):祭礼における音楽や楽の演奏を司る役。
- 伊勢御先(いせみさき):神楽の楽頭(がくとう)として楽人を統率する役。
- 小御先(こみさき):神輿渡御の際に先導を務める役。
- 長床(ながとこ):長床での儀式や祭礼の奉仕を担う役。
- 一の乙女・二の乙女・三の乙女:神に仕え、神楽や祭礼に奉仕する乙女たち。
- 大炊女(おおいめ)・厩女(うまやめ):神饌の調進や神馬の世話などを担う女性職。
- 大工・小工・鍛冶:社殿の造営や修理、祭具の製作を担う職人たち。
これらの下級神職や奉仕者たちは、布衣(ほい)・風折烏帽子(かざおりえぼし)の姿で奉仕したとされており、冠・黒衣・浅黄袴を許された十官とは、装束の面でも明確な格式の違いがあったことがうかがえます。
こうした祭祀組織は三十人を超える規模であったとも伝えられており、大山祇神社が瀬戸内有数の宗教組織であったことを物語っています。
大山祇神社を支える寺院
大山祇神社の祭祀を支えていたのは神職だけではありませんでした。
神仏習合の時代、大山祇神社には供僧(ぐそう)と呼ばれる僧侶たちが置かれ、読経や声明、祭礼の音楽などを担当し、神社の祭祀を仏教の側から支えていました。
こうした供僧たちが属していたのが、現在の祖霊社の場所にあったとされる「神宮寺(じんぐうじ)」です。

神宮寺とは、神社に付属して神仏習合の祭祀を担う寺院のことで、「神供寺」「神護寺」「宮寺」「神願寺」とも呼ばれ、神社の祭祀や祈祷を仏教の側から支える重要な役割を担っていました。
大山祇神社でも、この神宮寺がその役割を担っており、最盛期にはその下に二十四坊(にじゅうよんぼう)にものぼる坊院が置かれるなど、大規模な寺院群が形成されていました。
供僧の中にも厳格な序列があり、第一位を検校(けんぎょう)、第二位を院主(いんじゅ)、第三位を別当(べっとう)とし、この三職が神宮寺全体を統括していたと伝えられています。
大祝と大山祇神社の祭礼
大祝は、大山祇神社の祭祀を統括する最高位の神職でありながら、「擬神体職(ぎしんたいしょく)」とされる特別な存在でした。
大山祇神社の大礼(たいれい)では、大祝自身が神の依り代(よりしろ)となり、その身に神霊を宿すものと考えられていました。
祭礼の際には、本社の神霊が大祝に遷り宿り、中央の神輿は神を宿した大祝そのものとして扱われました。
そのため大祝は、単なる神職ではなく、神の姿をこの世に現し、神意を人々へ伝える神と人との仲立ちとして尊ばれていたのです。
遷宮の際には本宮の神体を載せて遷座し、また諸神官に対しては大明神に代わって神宣を伝え、惣社家の上に立って社人たちを指揮する役目を担っていました。
まさに大祝とは、祭祀の最高責任者であると同時に、神の意思を体現する特別な存在だったのです。
神を宿すための潔斎と擬神主の役割
大礼に臨む際には、大祝はまず沐浴して身を清め、厳しい斎戒(物忌み)に入り、みだりに人と顔を合わせないなど、徹底した潔斎を行ったと記されています。
また、左右の神輿には左右の御神霊が遷されましたが、このとき大祝は「神そのもの」として扱われるため、通常の神職として祭祀を執り行うことはできませんでした。
そのため、擬神主(ぎかんぬし)が大祝の代理として神前に立ち、祭礼全体の神事を執り行ったと伝えられています。
壮大な祭礼行列を支えた奉仕者たち
大山祇神社の祭礼は、厳かな神事だけではなく、多くの神職や奉仕者による壮大な祭礼行列によって彩られました。
神輿の先には小御先(こみさき)が立って道を開き、その後には供僧(ぐそう)が音楽を奏しながら進みます。
さらにその後には、一の乙女が「一曲侍使(内侍の使い)」として、二の乙女・神子・長床・小行事が「二曲侍使」として、三の乙女が「三曲侍使」として列をなし、それぞれ神前の儀式や祭礼に奉仕していました。
とくに三乙女は、神津姫宮に仕える女性たちで、神楽や祭礼に奉仕する重要な役割を担っていました。
女性たちも担った神聖な祭祀
この祭礼で注目されるのは、こうした役目が必ずしも男子だけのものではなかったことです。
大祝に妻がある場合にはその妻が奉仕し、遷宮の職事も女性が務めていました。
つまり、大山祇神社の祭礼は、大祝を中心とする神職だけでなく、乙女や女性奉仕者、供僧、楽人など多くの人々が加わり、神と人が一体となる大規模な祭祀空間として営まれていたのです。
現在へ受け継がれる神事
大山祇神社では、古くは正月・三月・四月・五月・七月・八月・九月・十一月の年八度にわたり祭礼が行われていたと伝えられています。
これらは一年を通じて整えられた重要な神事であり、大山祇神社の祭祀が日常ではなく、年中行事として体系的に営まれていたことを示しています。
しかし時代が下るにつれて祭礼制度は次第に衰え、後には四月・五月・九月・十一月の四つの祭礼を残すのみになったとも伝えられています。
それでも祭礼の形は時代とともに変化しながら受け継がれ、現在では大小あわせて年間120余りの祭典が執り行われています。
「別宮大山祇神社」本土に築かれたもう一つの大山祇神社
大祝氏には、大三島の大山祇神社のほかにも、重要な祭祀拠点がありました。
それが、本宮・大山祇神社の別宮として、越智玉澄によって築かれた「別宮大山祇神社(べっくおおやまずみじんじゃ)」です。

別宮大山祇神社は、和銅五年(712年)正月、伊予国越智郡日吉郷(現在の今治市)に三島地御前(みしまじごぜん)として造営され、「三島別宮大明神(別宮大山祇神社)」と称されるようになりました。
三島地御前とは、大三島に鎮座する大山祇神社の祭神・三島大明神の「御前」に対して、地(じかた=陸側)に設けられた「もう一つの御前」を意味します。
つまり、海の向こうにある大山祇神社の神を、陸地側から遥拝するための外宮・遥拝所として造営されたのです。


しかし、別宮大山祇神社は、単なる遥拝所や分社にとどまるものではありませんでした。
社殿が完成すると、それにあわせて、大三島から104人の社家が移されました。
さらに、神社に付属する別当寺として光明寺が置かれ、大三島の二十四坊のうち、南光坊・中之坊・大善坊・乗蔵坊・通蔵坊・宝蔵坊・西光坊・円光坊の八坊と、その供僧たちもこの地に移されたとされます。
つまり別宮大山祇神社は、社殿だけが造られたのではなく、神職・僧侶・別当寺を含む祭祀組織そのものが移されて成立した、一大宗教拠点だったのです。
創建当初の別宮大山祇神社は、神殿・諸堂・回廊・諸寮を備え、さらに一の楼門・二の楼門まで設けられた壮麗な社殿で、その姿は大三島の本宮・大山祇神社にも劣らないほど立派なものであったと記録されています。
また、創建当初は越智玉澄(おちのたまずみ)がその祭祀と運営を統括し、祭祀や社務の内容も本宮である大三島の大山祇神社とほぼ同じであったことから、伊予国本土に置かれた「もう一つの大山祇神社」ともいえる存在でした。
大山祇神社の新たな社家「別宮氏」
時代が下り、越智氏四十代当主であり河野氏の当主でもあった河野為世(越智為世)の一族は、大山祇神社の祭祀や寺院組織にも深く関わるようになります。
大山祇神社の神仏習合の祭祀を支える神宮寺の建立は、河野為世の娘の病気平癒の願いがかなったことへの奉謝として建立されたとも伝えられています。
さらに、為世の三男・河野為澄(越智為澄)は大三島の社司(しゃじ)となり、神社の祭祀に深く関わりました。
また、次男・河野為頼(越智為頼)は、二十四坊の一つである東円坊(とうえんぼう)に入り、供僧として神社に仕えたと伝えられています。

このように、河野氏の時代になっても、越智氏の代に築かれた祭祀の系譜と信仰の役割は受け継がれていきました。
そして、この時代に新たな社家が誕生します。
別宮の社務を司る立場に任じられた河野為頼は、別宮氏(べっくうし)を名乗り、日吉郷に住みながら別宮大山祇神社の祭祀と社務を担うようになりました。
為頼の子孫たちも代々、別宮氏を継承し、大三島の大祝家の流れをくむ社家として、別宮大山祇神社の祭祀と社務を担っていくことになります。
こうして、越智・河野氏の祭祀の系譜は、大山祇神社の大祝家と別宮大山祇神社の別宮氏という、二つの社家の流れとなって受け継がれていったのです。
大祝氏が総括する別宮の神事
しかし、この二つの家はそれぞれ独立していたわけではなく、祭祀の中心と権威はあくまで本宮・大三島の大祝家にあり、別宮氏はそのもとで別宮の祭祀と社務を担う立場にありました。
神社全体の格式に関わる重大事項については、すべて本宮・大三島の大祝の判断を仰がなければならず、社殿の造営や遷宮(神体を移す儀式)などの重要な神事も、本宮の大祝が総責任者となって執り行われました。
実際、光仁天皇の御代(8世紀後半)の社殿造営の際には、本宮と別宮が一括して造営され、その総責任者を大祝が務めたと記録されています。
つまり別宮大山祇神社は、祭祀の根本においては大三島の本宮と一体の存在であり、その統括権は常に本宮の大祝氏が握っていたのです。
独立した大山祇神社としての歩み
しかし、時代が下るにつれて、別宮氏は今治の地に定着し、別宮大山祇神社を支える現地の社家として独自の役割を強めていきました。
中世から近世にかけて、別宮大山祇神社は今治における三島信仰の中心として地域に深く根付き、本宮を仰ぎながらも独自の歴史を歩むようになります。
さらに明治時代になると、神仏分離令によって別当寺・光明寺としての機能は廃され、南光坊とも制度上分離されることになりました。
こうして別宮大山祇神社は、神仏習合の宗教施設から独立した神社として再編され、現在へと続く姿が整えられていったのです。
「大祝屋敷」武士となった大祝氏
越智氏の時代から続く慣例として、大祝氏は大山祇神社が鎮座する大三島には常住せず、神事や祭礼のたびに海を渡って大三島へ赴き、代々その祭祀を担ってきました。
しかし、鎌倉幕府の崩壊後、日本は南北朝の内乱期へと入り、伊予国内でも戦乱が各地に広がっていきます。この動乱の中で、大祝氏もまた大きな転機を迎えることになります。
元弘二年(1332年)、当主であった大祝安世(やすよ)は大山祇神社の大祝職に就き、従来どおり神事を執り行っていました。
ところが戦乱が激しくなるなか、安世は大祝職をわずか四年で子の安頭に譲り、自らは武士として戦乱の時代に身を投じることになります。
そして、北朝方の中心人物であった足利尊氏に従い、各地の戦いに参戦したとされています。
この過程で安世は一族の分家を立て、現在の今治市祇園町付近に新たな拠点を築きました。
これが、のちに「大祝屋敷(おおほうりやしき)」と呼ばれる屋敷です。
この屋敷は、北朝方の武将として活動した鳥生貞実(とりうさだざね)が居住していたことから、「鳥生屋敷(とりうやしき・とりゅうやしき)」とも呼ばれています。
系譜や活動時期からみて、鳥生貞実は大祝安世が武士として名乗った名であり、同一人物と考えられています。
鳥生貞実(大祝安世)は戦功を挙げる一方、男山八幡大神や仏城寺、広紹寺など今治周辺の神社仏閣の創建や整備にも関わったとされています。
そこには、神職の家に生まれた者として、戦乱の時代にあっても信仰と地域の安寧を守ろうとした、大祝氏の姿を見ることができます。


「神職にして水軍の長」越智氏の系譜が紡ぐ力
このように、大祝安世が戦乱の時代に武士として戦ったことは、決して特別な例ではありませんでした。
そもそも大山祇神社の大祝は、単なる神職ではなく、古くから政治・軍事にも深く関わる特別な立場にあったからです。
当時、大山祇神社は単なる宗教施設ではなく、瀬戸内海一帯の信仰を集めると同時に、地域の政治的・経済的中心でもありました。
そのため、大祝は祭祀を司るだけでなく、地域社会の秩序維持や領地の管理にも関わり、時には実質的な統治者としての役割も担っていたのです。
さらに、戦時には水軍の指導者として活動するという、きわめて特殊な立場にもありました。
これは、大山祇神社の祭神・大山祇命が、山の神であると同時に、航海・漁業・武運を守る神として信仰されていたことと深く関係しています。
瀬戸内海の海上交通を支える神として崇敬された大山祇神社において、その祭祀を司る大祝には、宗教的な権威だけでなく、海を守り、戦時には人々を率いる軍事的な指導力も求められたのです。
こうして大祝氏は、大三島の三島城を拠点とする三島水軍の長として、伊予水軍を率いた河野氏(越智氏の末裔)とも深い結びつきを持つようになりました。
それは単なる軍事的な協力関係ではなく、もともと同じ祖先である越智氏から分かれた一族同士という、血縁による強い結びつきでもありました。
このように大祝氏は、神職でありながら武器を持ち、水軍を率いて戦うという、武家とも社家とも異なる特異な立場にあった一族だったのです。
そして、この大祝氏の武勇を象徴する物語は、「鶴姫伝説」として現在も語り継がれています。
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大祝家の終焉と受け継がれ続ける歴史
古代から中世にかけて、大山祇神社の祭祀を担い、瀬戸内の信仰と歴史を支えてきた大祝氏。
海を渡って神に仕え、ときに武士として戦いながら、その家名と祭祀の系譜を代々受け継いできました。
しかし、長く続いた大祝家も、戦国から江戸へと時代が移り変わるなかで、大きな転機を迎えることになります。
この頃、大祝家は五家に分かれていましたが、宗家の長男・大祝安人が、鳥生に居住していた同族の大祝氏へ婿入りしたことで、塔の本の宗家は後継者を失うことになったのです。
この事情から、天正五年(1577年)、塔の本の大祝宗家は鳥生側へ合流し、その居館である大祝屋敷(鳥生屋敷)に本拠が移されました。
以後、代々の大祝は鳥生の地を活動の中心とし、神職としての務めや一族の伝統を受け継いでいくことになります。
戦国の終焉と祭祀基盤の揺らぎ
豊臣秀吉の四国平定によって河野氏が滅亡すると、大祝家も武士的な後ろ盾を失い、さらに太閤検地によって広大な社領が没収されたことで、古くからの祭祀基盤は大きく揺らぎます。
これにより、かつて行われていた多くの祭礼や御神幸も中絶・縮小を余儀なくされました。
慶長八年(1603年)、徳川家康が江戸幕府を開くと、日本各地では藩を中心とした統治体制が整えられ、伊予国でも松山藩と今治藩が成立しました。
こうした幕藩体制の成立は、古くから地域の宗教的権威を担ってきた大祝家にも大きな影響を与えました。
藩の保護によって一時的に祭礼市(三島市)が繁栄し、歌舞伎や富籤などで多くの参詣客を集めましたが、富籤の廃止によって市は急速に衰退し、幕末には不況のどん底に陥ります。
大祝氏も市の再興策として、牛馬市や伊予縞の入札市などを藩に提案しましたが、抜本的な立て直しには至らず、神社経営の有力な財源を取り戻すことはできませんでした。
祭礼や神事の維持も次第に難しくなり、祭祀の荒廃が進んでいったのです。
また、大祝を支えた社人組織も、時代とともにその役割や規模が変化し、神仏習合のもと祭祀を支えていた供僧や坊舎も、神領の減少とともに次第に縮小していきました。
江戸時代には、大祝と社家の間に激しい確執も生じ、万治年間(1658〜1661年)や正徳年間(1711〜1716年)には、大祝職が停職となるほどの事態も起こっています。
「三島家」への継承と受け継がれた祭祀
このような流れの中で、延宝三年(1675年)、今治・松山両藩主の合意のもと、当時の当主であった38代大祝安期は鳥生を離れ、大三島・宮浦へ移住することになります。
これにより、大祝一族の中心は再び本宮・大山祇神社の鎮座する大三島へ移されることになりました。
さらに、40代大祝安躬(やすみ)の代になると、家名はそれまでの「大祝」から「三島」へと改められます。
こうして、古代以来続いてきた「大祝」の名はここで一つの区切りを迎えました。
しかし、その血筋と祭祀の系譜が途絶えたわけではありません。
三島家という新たな名のもとで、大山祇神社に仕える一族として、その伝統は受け継がれていきました。
そして明治維新による神仏分離を経て、大祝職以下の旧来の神職制度は廃止され、宮司・禰宜など近代神社制度の神職が社務を担うようになります。
こうして、古代以来続いてきた大山祇神社の独特な祭祀制度は大きく姿を変え、大祝家という古い神職のかたちもまた、新たな時代の中でその役割を終えていったのです。

大祝の血を引く郷土の偉人・河上安固の治水記憶
このように、大祝一族の本拠が大三島へと戻っていった一方で、今治の地に残り、人々の暮らしのために尽力した大祝の一族もいました。
それが、38代大祝安期の弟・大祝安質です。
安質は今治城下に留まり、今治藩2代藩主・松平定時に召し抱えられ、以後は「河上」姓を名乗るようになります。
その子孫にあたるのが、今治の街を水害から救った偉人・河上安固(かわかみやすかた)です。
安固は鳥生にあった自宅から、毎日のように現在の大須伎神社が鎮座する権現山へ登り、山上から蒼社川の流れをじっと見下ろして綿密な観察を続けました。
関連記事:蒼社川の氾濫を止めろ!1200年の時を超えて挑み続ける今治の治水プロジェクト

観察の末、安固は「川の激しい蛇行こそが氾濫を誘発する最大の要因である」と結論づけ、川筋そのものを付け替えて直線化するという、当時としては大胆かつ前例のない大規模な治水工事を実行しました。
あわせて堤防の強化や、宗門掘りによる定期的な土砂の除去など、多角的な対策を推進。
これにより、長年今治の人々を苦しめてきた蒼社川の氾濫は大幅に減少していきました。
13年にも及んだこの大工事は、流域の暮らしを安定させただけでなく、その後の今治の産業発展を支える大きな基盤となったのです。

現在も大須伎神社の参道には、安固が権現山に腰を下ろし、蒼社川の流れを見つめながら治水の構想を練ったと伝えられる「河上安固の腰掛け石」が静かに遺されており、地域に捧げた情熱の記憶を今に伝えています。

今治の地に残る大祝氏の記憶
大祝家という家名や、古代以来続いた独特の祭祀制度は時代の中で姿を変えましたが、その記憶が消えたわけではありません。
今も今治の各地には、その足跡を伝える史跡が静かに残されています。
かつて大祝氏の本拠地であった今治市鳥生の大祝屋敷(鳥生屋敷)は、現在はなにもない住宅街の一角となっています。

しかし、敷地内には三島大祝霊碑や墓石が残され、かつてこの地に暮らした大祝一族の面影を今に伝えています。


茶道の祖・千利休の一族に連なる「千家墓地跡(せんけぼちあと)」も、この大祝屋敷跡の敷地内に築かれた貴重な遺構の一つです。
千利休が豊臣秀吉の怒りを買って切腹となった後、一族は各地に散ることとなりましたが、その一部が国分城へ入っていた福島正則を頼って今治に落ち延び、大祝家の手厚い庇護を受けて暮らしたと伝えられています。
やがて千家の末裔・次郎左衛門が大祝家の娘と結ばれ、この地に定住したことでこの墓所が築かれました。
平成17年(2005年)には墓域の大規模な整備が行われ、「千家墓地跡」と刻まれた大きな石碑が建立されています。

さらに大祝屋敷跡(鳥生屋敷跡)の側には、蒼社川の改修に命を懸けて尽力した、河上安固も眠っています。

一見すると、住宅街の一角に静かに開けた大祝屋敷跡(鳥生屋敷跡)ですが、この地には大祝氏の系譜だけでなく、河上家や千家一族の歴史も重なり合っているのです。

三嶋神社・祇園神社に残る大祝氏の信仰
大祝屋敷跡(鳥生屋敷跡)で捧げられていた「祈り」も、形を変えて今治のある場所へと受け継がれています。
それが、今治市祇園町一丁目に鎮座する三嶋神社・祇園神社です。

かつて鳥生屋敷の敷地内には、大祝氏の祖霊を祀っていた「御鉾社(みほこしゃ)」と呼ばれる社がありました。
その祭祀を担っていたのは近隣の「大熊寺(おおくまでら)」で、神仏習合のもと、両者は深く結びつきながら長い年月この地の信仰を支えてきたのです。

しかし、明治元年(1868年)の神仏分離令によって大熊寺は別当寺としての役割を失い、御鉾社との関係も制度的に断ち切られることとなります。
さらに明治39年(1906年)の神社合祀令によって、御鉾社は三嶋神社・祇園神社へと合祀され、独立した社としての姿は消すこととなりました。
とはいえ、屋敷を去った大祝氏の祈りが途絶えたわけではありません。
御鉾社は現在も三嶋神社・祇園神社の境内社として静かに祀られ、かつて屋敷に息づいていた一族の熱い信仰の記憶を、今日まで変わりなく伝え続けているのです。

別名村に残る大祝家の墓所
大祝氏が鳥生の地に屋敷を構えるさらに前、かつて本拠を置いていた今治市別名(べつみょう)の地にも、一族の確かな足跡が遺されています。
それこそが、現在は今治市の指定有形文化財にも登録されている「端谷五輪塔群(はしたにごりんとうぐん)」です。
この端谷五輪塔群は、かつてこの別名の地に居住し、地域を治めていた中世の大祝家一族の墓地と考えられています。
実はこれらの五輪塔、長い歳月の荒波の中で、かつては周囲の山中にバラバラに散在し、あやうく歴史の闇に埋もれかけていた時期がありました。
しかし、「先祖の、そして地域の偉大な記憶をこのまま失わせてはならない」と立ち上がった地元有志の熱い尽力により、斜面や藪の中から一つひとつ丁寧に収集・整備され、現在のように美しく整然とした姿へとまとめられたのです。

大祝氏の祈りが息づく今治の地
大祝屋敷跡に重なる千家や河上安固の記憶、神社へと合祀された御鉾社の信仰、そして別名の山中から集められた五輪塔群。
一見すると、何気ない住宅街の一角や、静かな境内、山あいの広場にすぎないかもしれません。
しかしその場所には、越智氏の時代から続く祭祀の系譜と信仰の記憶が、人々の暮らしや文化と深く結びつきながら、今も静かに息づいているのです。
それは、私たち一人ひとりが当たり前に見ている風景や、何気なく通り過ぎる道の中にすら、確かに残されています。
時代を超えてこの地を守り、信仰をつなぎ、文化を育み、人々の暮らしを支えようとした先人たちの生きた足跡は、今も何層にも折り重なりながら、静かに私たちの足元に息づいているのです。