海を越えた異国の兄弟が受け継いだ越智氏の系譜
白村江の戦いの後、伊予国越智郡(現在の今治市一帯)を治めた豪族として、伊予の歴史にその名を刻んだ越智守興(おちのもりおき)。
守興は郡の越智郡大領として、瀬戸内海の海上交通の要衝を掌握し、一族の盤石な基礎を築きました。
そして越智氏の系譜はさらに進んでいきます。
乎致命(越智氏族之祖) → 天狭貫 → 天狭介 → 粟鹿 → 三並 → 熊武 → 伊但馬 → 喜多守 → 高縄 → 高箕 → 高墅 → 三田回 → 阿次 → 門命 → 伍賈香 → 勝海 → 力士 → 百里 → 百男 → 益躬 → 武男 → 玉男 → 諸飽 → 万躬 → 守興 → 玉興(たまおき)
乎致命から数えて二十五代目として家督を継いだのが、守興の長男・越智玉興(おちのたまおき)です。
前回の記事はコチラ:【越智氏の系譜】水軍大将・越智守興が挑んだ伝説の海戦「白村江の戦い」
「伊予太夫」伊予国を任された越智氏・玉興
玉興は、父から受け継いだ越智郡だけでなく、朝廷から「散位(さんみ)」という位階を授けられます。
律令制において「散位」とは、具体的な官職(役職)には就いていないものの、朝廷から正式な位階を授けられている状態を指します。
一見すると名誉職のように思えますが、当時の地方社会において、この称号は極めて重い意味を持っていました。
- 朝廷公認の支配者:単なる地元の有力者ではなく、中央政府からその地位と権威を保証されている。
- 特権階級の証明:一般農民とは明確に一線を画す法的な身分であり、賦役(労働)免除などの経済的特権を有する。
- 政治力:文書に「散位」と記すことで、他の豪族や民衆に対し、自らが「律令国家の階級社会に組み込まれた正統な指導者」であることを誇示した。
このように強力な力をもった玉興は、越智郡だけではなく、伊予国全体を治める「伊予大領」となり、そのことから「伊予太夫(いよのたゆう)」とも称されました。
伝承では、この頃すでに伊予国から讃岐国が、土佐国から阿波国が分かれたとも伝えられていますが、その年代については詳しく分かっていません。
伊予の安寧を祈る聖なる守護者
玉興は、政治だけでなく祭祀にも深く関わり、伊予各地の神社や霊場の整備・創建にも大きな役割を果たしたと伝えられています。
その足跡は、現在の今治地方にも数多く残されています。
たとえば、奈良原神社の縁起によれば、持統天皇四年(690年)、玉興は修験道の開祖として知られる役小角を大和国・葛城山からこの地へ招き、楢原山の山頂を修行と信仰の霊場として開いたと伝えられています。

また、今治・鈍川に鎮座する石拆神社の由緒にも玉興の名が記されています。
持統天皇4年3月、国司・小千宿禰玉興(越智玉興)が、大和国葛城山より役小角を迎えてこの地を開いた際、石拆神、根拆神、石筒男神、天御中主神、天満尊神を奉斎して祀ったのが始まりと伝えられています。

さらに、富田地区の椿森神社にも、越智玉興に関する伝承が残されています。
創建年代は明らかではないものの、文武天皇(もんむてんのう)の御代(697年8月22日〜707年7月18日)に、玉興がこの神社を深く崇敬し、特別に保護していたと伝えられています。

そして、玉興は、越智氏一族の信仰の中心にあった大山祇神社を総本社とする「三島信仰」を伊予各地に広めるべく、その御霊(みたま)も勧請して回りました。
その足跡は今治の立花・鳥生地区にも及んでおり、郷本の三島神社には、和銅五年(712年)8月23日、玉興が大山祇神社から雷神(いかづちのかみ)と高龗神(たかおかみのかみ)の二柱を勧請し、社殿を建立したという伝承が残されています。

「古代日本最大の呪術事件」役小角の流罪
こうした数々の伝承は、玉興がいかに深くこの土地の神々を信仰し、人々の安寧を願っていたかを物語っています。
しかしこのことが、玉興を古代日本最大の呪術事件の渦中へと巻き込んでいくことになるのです。
文武天皇三年(699年)、役小角は「妖惑(ようわく)」、つまり呪術によって人々を惑わせたとして告発され、伊豆島へ流罪となりました。
当時、役小角は大和国・葛城山を中心に厳しい山岳修行を行い、不思議な法力を持つ人物として広く知られていました。
一方で、山中で鬼神を使役し、水を汲ませ、薪を運ばせていたといい、常人離れした噂が各地へ広がり、人々は役小角を「仙人」や「異人」のように畏れ敬っていました。
しかし、その強すぎる影響力は、律令国家にとって危険な存在でもありました。
当時の朝廷は、国家が定めた法律と祭祀を中心とした、強固な中央集権体制を築こうとしていました。
その中で、民衆から絶大な信仰を集め、山中で独自の呪術や修行を行う役小角の存在は、国家の管理外にある宗教者(異分子)として強く警戒されたと考えられます。
そんな中で、決定打となったのが次の噂です。
「役小角は大和葛城山(やまとかつらぎさん)の神・一言主神(ひとことぬしのかみ)に対し、大和と金峰山の間に橋を架けるよう命じ、神がこれを拒んだため、法力によってその神を縛り上げた」
神すら従わせる法力。
それは民衆にとって奇跡でしたが、朝廷から見れば危険な異能でもありました。
やがて役小角には、鬼神を操る、呪術を使う、人々を惑わせるといった悪評が流され、「妖惑」の罪によって伊豆島への流罪が決定します。
これは、日本史において記録に残る最古級の“呪術事件”ともいえる出来事でした。

Shimo-sagawa En-no-gyoja and Zenki stone statues 撮影:MirokunomichiProject(Wikimedia Commons) CC BY-SA 4.0
朝廷からかけられた玉興への疑惑
役小角を伊予へ招き、共に信仰の場を開いた玉興にとって、この報せは決して他人事ではなく、大きな衝撃であったことでしょう。
また、役小角は三島明神(大山祇神・大山積神)を深く信仰していました。
そのため、役小角を伊予へ招き入れ、共に信仰の場を開いただけでなく、一族の慣例通り三島社(大山祇神社)の祭祀を司っていた越智玉興にも疑いの目が向けられることとなりました。
当時の朝廷は、律令体制を強化する中で、国家の管理が及ばない強力な呪術や地方豪族の結びつきを極めて警戒していました。
役小角との深い親交は、時として「反乱の火種」と見なされる恐れがあったのです。
玉興は都へと召喚され、朝廷からの厳しい追及を受けることになります。
一族の存亡を懸けた緊迫した状況でしたが、最終的に玉興の身の潔白が証明され、玉興は無事に伊予への帰国を許されたのでした。
玉興が出会った「唐船」と異国の兄弟
一方で玉興は、流罪となった役小角の境遇を深く哀れみ、伊予への帰国の前に難波(現在の大阪)で小角と再会を果たします。
すると役小角は、「伊豆へ渡る前に、どうしても大三島(大山祇神社)へ参詣したい」と玉興へ願い出たといいます。
たとえ罪を背負わされた身であっても、三島の大神に祈りを捧げたいという役小角の切実な願い。
玉興はこの想いを叶えるため、自ら難波津(現:大阪港)へ出向き、大三島へ渡るための船を必死に探しました。
しかし、どの船も引き受けようとはしませんでした。
玉興が港で懸命に船を求め続けていた、その時でした。
港の片隅に、一隻の見慣れない唐船が停泊しているのが目に留まりました。
その船を率いていたのが、兄の孫溥開と、弟の孫律贄という兄弟でした。
時に、文武三年(699年)。
この出会いこそが、後の越智氏の歩みを大きく変え、さらには伊予の歴史そのものにも深い影響を与えていくことになるのです。

大阪港(Adobe Stock)
一方で、役小角(えんのおづぬ)の登場する物語とは異なる、別系統の伝承も存在します。
玉興が帰国の途上、備中国の水島(現:倉敷市玉島)に船を停泊させていた際、夢の中に一人の神霊が現れます。
それは、かつて生き別れとなっていた乎致命(おちのみこと)の兄弟であり、「山村権現(第二王子)」とも称される存在からの、予言めいたお告げでした。
そしてその後、一行は唐船と遭遇したとも伝えられています。

倉敷市玉島乙島(PIXTA)
いずれの伝承においても、最終的には唐船との遭遇という出来事へと繋がっており、それは越智氏一族の運命を大きく動かす転機として語り継がれているのです。
伊予国への帰国の航海と伝説
言葉こそ通じなかったものの、玉興(たまおき)は必死の思いで自らの事情を訴えかけました。
最初に頼った兄の溥開には断られたものの、決して諦めずに弟の律贄へ願い出ると、その熱意に動かされ、快く船を出すことを引き受けてくれたのです。
こうして一行は、目指す大三島へと向かって出航しました。
しかし、その行く手には、人知を超えた過酷な苦難と、それを救うことになる神々の大いなる奇跡が待ち受けていたのです。
《水島伝説》海水から湧き出した「命の水」
吉備沖(現:岡山県の瀬戸大橋付近)へ差しかかった頃、一行の船では飲み水が尽きようとしていました。
さらに、激しい風雨による嵐が海を荒らし、船は荒波に翻弄され続けます。
数日にわたって嵐は止まず、人々は飢えと渇きに苦しみ、ついには絶体絶命の状況へ追い込まれていったのです。
絶望が広がるなか、玉興はただ一心に、大山祇神社の三島大明神へ祈りを捧げ続けました。
そして祈りを終えると、玉興は手にしていた弓の筈(はず)で海面をかき回しました。
すると不思議なことに、海水の中から清らかな真水が湧き出したのです。
人々は、その霊水によって渇きを癒やし、一命を取り留めました。
この奇跡によって、その海域は後に「水島(現:水島灘)」と呼ばれるようになったと伝えられています。
《一宮大明神》嵐の中に現れた二柱の神
行く手を阻む激しい風雨。
数日間にわたって嵐は止まず、船は荒波に翻弄され、一行の飲み水は底を突きました。
飢えと渇き、そして自然の猛威の前に、一行はまさに極限状態に追い込まれたのです。
絶望が広がるなか、玉興はただ一心に、伊予国の守護神である三島大神へ祈りを捧げ続けました。
すると、その祈りに応えるかのように、荒れ狂う怒涛の向こうから、波を切り裂いて一隻の小舟が現れ、ゆっくりと近づいてきました。
その船には、二人の老人が乗っており、それぞれ次のように告げたといいます。
- 矛を持つ老人:「私は伊予国越智郡三島(現:今治市大三島)に住む一族の守護神である」
- 弓矢を持つ老人:「私は伊予国神野郡王円浜(現:新居浜市)に住む神である」
さらに二柱の神は、「案ずるな、お前たちに水を授けよう」と告げ、再び一行の渇きを癒やし、嵐を鎮めて危機を救ったと伝えられています。
筆談が解き明かした「唐船兄弟」の正体
幾多の困難を共に乗り越えたことで、玉興と唐船の兄弟の間には、確かな信頼が芽生え始めていました。
互いの言語は通じませんでしたが、唯一、「漢字」による筆談だけが、彼らを繋ぐ架け橋でした。
玉興は、この命懸けの航海を共にしてくれた異国の船頭たちへ心からの感謝を伝えるため、そっと紙と筆を手に取ったのです。
汝隔故國拾萬里 雲遠渡日東之海隔而 頃日共 嘗旅泊之艱苦 特蒙回船之恩恕何以報之 不審汝 是何國何氏族乎
【現代語訳】
あなたは故郷を遠く離れ、はるばる東の海を渡って日本まで来られました。この数日の旅では、私たちも共に海上での苦難を経験しましたが、特に船を寄せてくださったご恩を、どのようにお返しすればよいのか分かりません。
失礼ですが、あなたはどこの国の、どのような氏族の方なのでしょうか。
どうか、事情をお聞かせください。
それに対して、弟の孫律贄は静かに筆を取り、自らの素性を書き記し始めました。
我是南越之産也 聞説日本之軍将伊豫大領使守興者 為異邦退治過吾國 遲留三四年 于慈吾母了成野合之嫁娶 而生二子即吾儕是也 然後母辞浮世 父帰旧國 此故我孤露而子立也 今也為拝慈父之恩顔 遥渡日東之海隅、雖然國殊俗人異語 無由宣我中心云 天仮良縁而得通一言 幸請所告以問津焉
【現代語訳】
私は南越の生まれです。聞くところによれば、日本の武将で伊予の大領・越智守興というお方が、異国征討のため私の国に渡ってこられ、三、四年ほど滞在していたそうです。
その間に、私の母・了成と正式な婚礼こそ行わなかったものの、結ばれて夫婦となり、二人の子をもうけました。
それが私たち兄弟です。
やがて母はこの世を去り、父は祖国の日本へ帰ってしまいました。
そのため、私たちは身寄りのない孤児として育ったのです。
ようやく私たちも大人になり、父の面影を一目でも見たいと思って、はるばる東の海を渡って日本へやって来ました。
しかし、国が違えば風土も異なり、言葉も通じないため、そのことをうまく伝えることができませんでした。
今回、天が良き縁を与えてくれたおかげで、ようやくその思いを伝えることができました。
どうか、父について何かご存じでしたら、教えていただけませんか。
また、玉興は二人が父を探して遥か海を越え、日本の伊予まで辿り着いたものの、すでに父・守興は亡くなっていたことを知ります。
さらに、兄である玉興が都へ上ったと聞き、その行方を尋ねながら旅を続けていた途中だったということも分かりました。
これを知った玉興は、大きな衝撃を受けました。
すると兄弟は、さらに一通の書付を差し出しました。
書付を手に取った玉興は、再び驚くことになります。
そこに記された内容は、父・越智守興でなければ知り得ないものであり、さらにその筆跡もまた、玉興の記憶にある父そのものだったのです。
「この二人こそ、異国の地へ渡った父の血を引く、私の腹違いの弟たちだ」
そう確信した玉興は、すぐにその事実を兄弟に告げました。
兄弟たちも、これこそが父から聞かされていた「日本の兄」であることを知り、この奇跡的な出会いに大いに喜びました。
しかし、真実を知った兄・孫溥開は、喜びと同時に強い後悔に直面します。
そこで弟の孫律贄が間に立ち、難波津での非礼を玉興へ謝罪しました。
玉興はその謝罪を快く受け入れると、異国の地で生まれた二人の弟と一緒に、喜びのうちに伊予国へと帰国しました。
また、役小角は大三島まで送り届けられ、大山祇神社へ参詣したのち、伊豆国へ向かったと伝えられています。

玉興による嫡子縁組と「越智」への改姓
玉興には後を継ぐ子がなかったため、二人を嫡子(正当な世継ぎ)として正式に一族へ迎えることにしました。
そして、自身の名前から「玉」の一字を授け、それぞれに名を改めさせたのです。
- 兄:玉守(たまもり・玉男)
- 弟:玉澄(たまずみ・たますみ・玉純)
さらに玉興は、二人が「越(えつ)の国(唐)」から来たことにちなみ、これまで「小千(おち)」や「乎致(おち)」と称されていた姓を「越知(おち)」と改めさせ、二人に「越知玉守」「越知玉澄」と名乗らせました。
この「越知」という新たな表記も、読みがこれまでの「小千(おち)」と同じ響きであったことから、次第に旧来の表記に代わって広く用いられるようになったといいます。
やがて時代が下るにつれ、「越知」はさらに現在へと続く「越智(おち)」の字へと改められていきました。
こうして二人の兄弟は、後世において「越智玉守」「越智玉澄」の名で記され、伊予の名族・越智氏の繁栄を築く祖として語り継がれていくことになったのです。
また、この兄弟についても史料ごとにさまざまな表記が見られますが、これまで登場した人物以上に、多種多様な名前で記載されています。
それは、この兄弟が後の伊予の歴史において極めて重要な存在とされ、多くの系図・社伝・伝承の中で長く語り継がれてきたためです。
「別れた兄弟の運命」伊予を動かした玉守の血統
越智一族の嫡流として迎えられた兄弟は、その資質や運命の違いによって、それぞれ異なる道を歩むことになりました。
兄の越智玉守は、類まれな才能に恵まれていた一方で、性格はやや軽はずみで、自信過剰なところがあったと伝えられています。
そのため、一族からは将来を不安視され、当主の長男でありながら本家の家督を継ぐことは許されず、伊予国東部の神野郡へ移されることになります。
神野郡は、後の新居郡、現在の愛媛県新居浜市から旧西条市周辺にあたる地域です。

愛媛県西条市 加茂川河口の風景(Adobe Stock)
この地は、瀬戸内海の海上交通を押さえる要衝であり、古くから越智氏系統の勢力が進出していた、一族にとっても重要な土地でした。
一族は、この地に玉守のための館を築き、そこへ居住させたと伝えられています。
この館は後に「新居館」と呼ばれるようになり、ここを本拠とした玉守流の一族は「新居殿」と呼ばれる有力な一族へ成長していきました。
「新居の一宮」勅額が繋ぐ権威と守護
越智玉守は、新居・宇摩の二郡を管領するとともに、一宮大明神の神主職も兼ねていたと伝えられています。
一宮神社は、新居地方を代表する古社で、越智氏の祖神・大山積神を主祭神として祀っています。
社伝によれば、大山積神は古くからこの地に鎮座しており、雷神・高龗神(たかおかみのかみ)は和銅2年(709年)8月に、大山祇神社から奉遷されたと伝えられています。
これ以後、一宮神社は「郡一宮」として、地域の深い崇敬を集めるようになりました。
一宮神社の社殿は、推古天皇の御代に越智益躬によって造営されたと伝えられ、越智氏にとっても極めてゆかりの深い場所でした。
また、玉興らが海上で遭難した際、三島大神とともに神野郡(現在の新居浜周辺)の神が現れ、一行を救ったとされる一宮大明神の伝承は、この神社の社伝『一宮社記』に記されたものです。
さらに玉守には、一宮神社に関する伝承が残されています。
それによれば、玉守はある事情から、宝蔵に納められていた「勅額(ちょくがく)」を密かに持ち出し、新たに社を建立して祀ったというのです。
これが「新居の一宮大明神」と呼ばれたと伝えられています。
勅額とは、天皇から直々に授けられた、その神社の格式と権威を証明する極めて貴重な看板です。
それを奉じて新たな社を建てたという伝承は、玉守が単なる郡領としてだけでなく、神事における絶対的な権限と、越智一族の誇りを守り抜く強い意志を持っていたことを象徴しています。

Nihamaikku01 撮影:Dokudami(Wikimedia Commons) CC BY-SA 4.0
玉守から受け継がれる越智の血脈
越智玉守は、この地に強固な地盤を築き、その子孫たちは、時代の変遷とともに姓を改め、伊予の歴史を動かすさまざまな有力な武士団へと成長していきました。
「矢野氏」
玉守は、一宮神社の神職を兼ねる中で、「矢野」の姓を称するようになったとされています。
そのため、玉守の子孫は「越智姓矢野氏」を名乗り、代々一宮神社の神主家として続いていきました。
矢野玉守(越智玉守)→ 矢野益興 → 矢野益連 → 矢野実連
このことから玉守は、「矢野氏」の祖としても伝えられているのです。
一族がさらなる飛躍を遂げたのは、玉守から五代目の子孫にあたる実遠の時代でした。
【矢野氏の系譜】
矢野玉守(越智玉守)→ 矢野益興 → 矢野益連 → 矢野実連 → 矢野実遠
それまでこの地は「神野(かんの)郡」と呼ばれ、一族もまた「神野殿」を称していました。
しかし、行政区画の改編によって郡名が「新居(にい)郡」へ改められると、実遠はそれに合わせ、自らの家名も「新居殿」へと改めたのです。
これは単なる名称変更ではありませんでした。
一族が新居郡を代表する支配者であることを、内外へ強く示す象徴的な出来事だったのです。
「橘氏(伊予橘氏・新居橘氏)」
嵯峨天皇の御代に、矢野実遠はその実力を認められ、正五位下へ叙せられます。
そして、皇別系で伊予国司であった橘清正から「橘」の姓も賜りました。
これこそが、後に伊予の歴史へ深く名を刻むこととなる「新居橘氏」の始まりでした。
【橘氏の系譜】
橘実遠 → 橘実幸 → 橘実保 → 橘貞保 → 橘遠保
この一族は後世、「新居流伊予橘氏」あるいは「伊予橘氏」とも呼ばれ、瀬戸内海を代表する有力な武士団へと成長していきます。
その血統は代々受け継がれ、やがて橘遠保(たちばなのとおやす)が家督を継ぐことになります。
伊予の警固使として西国の海上治安を担っていた遠保は、「藤原純友の乱」において、日振島を拠点に瀬戸内海一帯へ勢力を広げていた海賊王・藤原純友を討ち取ったことで、その名を歴史へと深く刻みました。

日振島(photo library)
実は、討たれた側の藤原純友もまた、もともとは今治・高橋地域に居を構えた越智氏流「高橋氏」の出自であり、一説には「高橋純友」であったとも伝えられているのです。
つまりこの戦いは、強力な水軍を率いる同じ越智氏の流れを汲む者同士が瀬戸内で激突した、“同族対決”でもあったのです。
国家を揺るがす大乱の主役たちが、討つ側も討たれる側も、ともに伊予の海を拠点とする越智氏の血を引いていた。
この事実は、当時の越智氏が瀬戸内海において、いかに巨大な海上勢力を築いていたかを証明しています。
そして、そんな激動の歴史の余韻は、現在も今治市高橋の「円照寺(えんしょうじ)」に静かに伝えられています。

そして、玉守の子孫からはさらに氏族が分かれ、それぞれが新たな歴史を紡いでいくことになります。
二十六代目当主・越智玉澄
新居地方に強固な地盤を築いていった兄・玉守に対し、弟・玉澄はその資質を認められ、越智宗家の家督を継ぎ、第二十六代目当主として一族全体を率いる立場となりました。
乎致命(越智氏族之祖) → 天狭貫 → 天狭介 → 粟鹿 → 三並 → 熊武 → 伊但馬 → 喜多守 → 高縄 → 高箕 → 高墅 → 三田回 → 阿次 → 門命 → 伍賈香 → 勝海 → 力士 → 百里 → 百男 → 益躬 → 武男 → 玉男 → 諸飽 → 万躬 → 守興 → 玉興 → 玉澄(たまずみ)
玉澄も他の越智氏と同じく、後世の史料や伝承ではさまざまな表記で記されていますが、本記事では、混乱を避けるために以降は「オチノタマズミ」として表記を統一して進めていきます。
高龍寺に伝わる受け継がれし一族の至宝
玉興はオチノタマズミ(玉澄)に越智郡橘の里(現在の今治市および大島の一部)を譲り渡し、さらに父・守興が白村江の戦いから脱出するときに携えていた観音像を託したと伝えられています。
オチノタマズミ(玉澄)はその観音像を、越智一族の先祖・越智勝海ゆかりの寺院に奉納しました。
このとき、寺の名を「大亀山慈眼堂船玉院龍慶寺(現:高龍寺)」と定め、本尊である観音像はやがて「船玉様」と呼ばれるようになりました。

「宇摩郡大領」東の地へ広げた三島信仰
大宝元年(701年)頃、オチノタマズミ(玉澄)は宇摩郡(現:四国中央市周辺)を治める宇摩大領に任じられると、宇摩郡西部(現:上柏町御所付近)に新たな館を築き、この地の統治を始めました。

具定展望台からの眺望(Adobe Stock)
そしてその際、大三島・大山祇神社の祭神である大山積命(三島大神)をこの地へ勧請したとされています。こうして創建された神社が、現在四国中央市土居町中村に鎮座する「井守神社」であると伝えられています。

さらに、それから少しの時を経た養老年間(717年〜724年)には、同様に現在の四国中央市土居町小林の地へも三島大神を勧請し、新たに「三島神社」が創建されました。
「越智郡大領」多忙を極めた玉澄
オチノタマズミ(玉澄)は宇摩郡で三島信仰を広げながら、祭祀と統治の基盤を築き、その手腕によって次第に伊予国内で大きな存在となっていきました。
やがて父・玉興の跡を継いで越智郡の大領となると、伊予国府に近い府中高ノ森に新たな館を築き、この地を拠点として伊予全体の統治へと乗り出していったのです。
この場所は現在の今治市上徳周辺とされ、古くは「国府の森」あるいは「鴻(こう)森」とも呼ばれていました。
頓田川左岸一帯は、古くから伊予国府推定地として知られ、周辺には「小御門」「御厩」「宮ノ内」「馬出」など、国府との関わりを思わせる地名も今に残されています。
オチノタマズミ(玉澄)は、この伊予の中心地に館を構え、そのそばへ「上神宮(かみしんぐう)」を勧請したと伝えられています。
上神宮がどのような神を祀っていたのか、はっきりとしたことはわかっていません。
しかし、江戸初期の寛永十四年(1637年)の検地帳には、「上ノ新宮大明神庭馬場」の名が見え、さらに近世の村明細にも「上神宮大明神」の記載が残されていることから、「上神宮太明神」として篤く信仰され続けてきたことがわかります。
越智氏は代々大山祇神社の祭祀を司っており、オチノタマズミ(玉澄)もその慣例に従い、毎月海を渡って大三島へと赴き、神社に籠もって祈りを捧げる「参籠(さんろう)」を行っていました。
しかし、広大な伊予国を治める国司としての政務は多忙を極めました。
おまけに、現在のようにしまなみ海道があるわけでも、頑丈な船があるわけでもありません。
毎月、命がけで大三島へと渡り、さらに境内に留まって祈り続けるための時間を確保することは、容易ではありませんでした。
そこでオチノタマズミ(玉澄)は、大三島で行っていた祭祀を、本土の館でも厳かに執り行えるよう「上神宮」を勧請したとされています。
こうした経緯から、上神宮は単なる村の氏神ではなく、越智氏の三島信仰と深く結びついた特別な祭場であったのではないか、と考えられます。
この地は、やがて上神宮村と呼ばれるようになり、越智氏の流れをくむ一族、秋山氏が住むようになりました。
しかし、元禄年間の当主・秋山一助の時代に、藩による検地が行われ、その際に自邸を下方の川原地域へ移すこととなりました。
これにあわせて、館の敷地内にあった上神宮も別の場所へ遷され、旧館跡(現在の社地)には、かつて越智益躬(おちのますみ)が別の場所に創建していた「三嶋神社」が移され、新たに祀られることとなりました。
その後、上神宮村は徳久村と合併して「上徳村」となりましたが、その間も三嶋神社は地域の氏神として崇敬を集め続けました。
そして現在も、この神社は「三嶋神社・上徳」として地域の人々を静かに見守り続けています。

一方で、かつての「上神宮大明神(姫坂明神)」が、その後どのような経緯を辿ったのかについては、残念ながら明確な記録が残されておらず、現在ではさまざまな説が伝えられるのみとなっています。
しかし現在も、三嶋神社・上徳の境内には「上神宮大明神」の扁額がひっそりと残されており、人々が受け継いできた歴史は今も伝え続けられています。

伊予国に三島信仰を広げた越智玉澄
オチノタマズミ(玉澄)は、伊予国司として政務を担う一方、越智氏の祖神である大山積神への信仰に厚く、大山祇神社の再整備・遷座事業にも深く関わっていきました。
「大山祇神社」
この頃、大山積神(三島大明神)を祀る社殿は、大三島東海岸の「遠土宮(おんどのみや)・横殿宮(よこどののみや)」にあったと伝えられています。


しかし、遠土宮周辺は海抜が低く、潮の干満や津波の影響をたびたび受け、社殿や鳥居は幾度も損壊していました。
この状況を憂えたのが、当時伊予国司として国政を担っていたオチノタマズミ(玉澄)でした。
オチノタマズミ(玉澄)は、この地では祖神・大山積神を永く奉斎することは難しいと考え、新たな社地への遷座を朝廷へ奏上しました。
その願いは文武天皇に認められ、正式な勅許が下されたと伝えられています。
しかし、新たな神地を決めることは容易ではありませんでした。
オチノタマズミ(玉澄)は神意を問うため、「三本の矢」による神託を行ったとされています。
一本目の矢は大三島中腹の大原へ。
二本目は霊峰・鷲ヶ頭山の山頂へ。
そして三本目の矢は、現在の大山祇神社境内にある宇迦神社の神池へ落ちました。

オチノタマズミ(玉澄)は、この地こそ神が選んだ場所であると確信し、神池へと向かいました。
しかし、そこでオチノタマズミ(玉澄)が目にしたのは、思いもよらぬ光景でした。
なんと、神聖なるその池には、一体の大蛇(龍)が棲みついていたのです。
神の御意を受けたオチノタマズミ(玉澄)は、神の使いとしてこれと対峙し、ついに大蛇を三つに切り裂きました。
そして、その尾は空を舞って遥か備後国へと飛び、ある場所へ落ちました。
そのことから、その場所は「尾道(おのみち)」と呼ばれるようになったといいます。

尾道水道 日本遺産 瀬戸内海 眺望 撮影:だーますあねご(Photo AC)
無事に大蛇を討ち倒したオチノタマズミ(玉澄)は、そばにあった一つの大きな石に腰を下ろし、社殿をこの場所のどこに建立するべきか考えていたといいます。
この石は生樹の御門の近くに今も残されており、現代も神域の由緒を伝える霊石「越智玉澄腰懸石」として、大切に守り伝えられています。

やがて、オチノタマズミ(玉澄)は社殿の建立地を決断し、宮浦の地には大山祇神を祀る壮麗な社殿が建立されました。
その新社殿へ、霊亀二年(716年)には御神体が遷され、さらに養老三年(719年)には社殿の体制が整えられました。
その後、大山祇神社は朝廷よりたびたび神階を授けられ、「日本総鎮守(にほんそうちんじゅ)」「名神大社」「伊予国一宮」といった、日本最高峰ともいえる格式を持つ神社へと上り詰めていきました。
さらに、大山積神(おおやまづみのかみ)を祀る全国の神社の総本社として、「三島大明神」の名は全国へ広がり、山の神であると同時に、海・渡航・武運を司る神として、歴代朝廷や武士、水軍勢力から篤く崇敬される存在となっていったのです。

「別宮大山祇神社」
大三島で大山祇神社の遷座と社殿造営が進められていた頃、文武天皇には一つの大きな悩みがありました。
それは、たとえ壮麗な社殿が完成したとしても、人々が参拝するためには海を渡らなければならない、ということでした。
当時の瀬戸内海航海は、現在のように安全なものではありません。
船は風や潮流に大きく左右され、時には遭難や転覆によって命を落とす危険さえありました。
天候が荒れれば、大三島へ渡ること自体が不可能になることも珍しくなかったのです。
つまり、大山祇神へ祈りを捧げたいと願っても、誰もが簡単に参拝できるわけではありませんでした。
文武天皇は、「誰もが天候に左右されず、安全に神へ祈りを捧げられる場所を設けたい」と考えるようになります。
そして大宝3年(703年)、オチノタマズミ(玉澄)へ勅命を下し、本土側へ“もう一つの大山祇神社”、別宮を建立することを命じました。
勅命を受けたオチノタマズミ(玉澄)は、伊予国越智郡日吉郷。
現在の今治の地へ、大山積神を祀る新たな社殿の建立に着手します。
こうして創建されたのが「別宮大山祇神社(べっくおおやまづみじんじゃ)」です。

同じ頃、大三島では、大山祇神社に付随する別当寺として、神前での読経や祈祷を行う「法楽所」にあたる二十四坊の建立も進められていました。
その中の一つが、後に四国八十八ヶ所第五十五番札所となる「南光坊(なんこうぼう)」でした。
和銅五年(712年)、別宮大山祇神社の社殿完成にあわせて、大三島から社家や僧侶たちが今治へ移り住み、南光坊を含む八坊も本土側へ移設されます。
以後、南光坊は別宮大山祇神社を支える別当寺の一つとして栄え、神仏習合の信仰を支える重要な寺院となっていきました。
そして後の時代、南光坊は独立した寺院として発展し、現在では四国八十八ヶ所霊場・第五十五番札所として、多くの巡礼者を迎える祈りの寺となっています。

「三島神社・旦」
別宮大山祇神社の創建と時を同じくして、伊予各地には大山祇神を祀る「三島神社(三嶋神社)」が次々と建立されていきました。
これは、オチノタマズミ(玉澄)によって広められた“三島信仰”が、瀬戸内沿岸一帯へ急速に広がっていったことを意味しています。
特に、越智氏の本拠地であった今治周辺には、以下のように多くの三島神社が創建されました。
和銅年間(708〜714年)。
当時、元明天皇の詔勅(みことのり)により、伊予国司であったオチノタマズミ(玉澄)は、伊予国内の九十四郷それぞれへ三島神社を建立するよう命じられました。
オチノタマズミ(玉澄)はこの勅命を受け、大山祇神社から主祭神・大山祇命の神霊を各地へ勧請し、地域鎮護の神として祀っていきます。
「三島神社・旦」も、そうした三島信仰の広がりの中で創建されました。

「三嶋神社・町谷」
「三嶋神社・町谷」もまた、和銅年間(708〜715年)、元明天皇の詔勅を受けたオチノタマズミ(玉澄)が、伊予九十四郷に「一郷一社」の三島宮を勧請した、その一社であると伝えられています。
後の時代には、今治周辺で勢力を持った秋山氏との結びつきも深くなり、現在も境内には「姫坂神社」や「秋山明神社」が祀られています。

「三島神社・馬越」
「三島神社・馬越」も同じく、元明天皇の詔勅を受けたオチノタマズミ(玉澄)が、和銅5年(712年)8月23日、鯨山古墳の地に大山祇神社から大山積神(おおやまづみのかみ)の神霊を勧請し、地域鎮護の神として祀ったことに始まると伝えられています。

そして「三島神社・馬越」の境内には、神社に付属する神宮寺(別当寺)が建立されました。
この神宮寺こそが、後の「安養寺・馬越」の起源にあたります。

「大山積神社・石井町」
時代は下り奈良時代の神亀五年(728年)八月二十三日。
聖武天皇の勅命を受けたオチノタマズミ(玉澄)が、大山祇神社より御祭神・大山積大神を勧請し、「大山積神社・石井町」を創建したと伝えられています。

「三島神社・新谷」
同じく神亀5年(728年)、乎致宿祢玉興(越智玉興)と、その子・オチノタマズミ(乎致宿祢玉澄)は、朝廷の命を受け、大山祇神社より大山祇神(三島大明神・大山積神)の神霊を新谷の地へ勧請しました。
その後、新谷郷の氏神として信仰を集める中で、玉興の父・乎致宿祢守興(おちのすくねもりおき・越智守興)の御霊も、この社へ合祀されたと伝えられています。
こうして「三島神社・新谷」は、一族の祖神である大山祇神と祖霊をともに祀る、特別な聖域として今も静かに受け継がれているのです。

伊予各地へ広がる祈り
オチノタマズミ(玉澄)は、寺院の建立や仏教信仰の普及にも力を注ぎ、その祈りを伊予各地へ広げていきました。
その代表的な存在の一つが、現在の松山市にある四国八十八ヶ所第五十一番札所「石手寺(いしてじ)」です。
寺伝によれば、神亀5年(728年)、伊予国の太守であったオチノタマズミ(玉純)が、この地を霊地であると悟り、熊野十二社権現を祀って伽藍を建立したと伝えられています。
さらに翌年の天平元年(729年)には、行基菩薩が薬師如来を刻み、本尊として安置しました。
創建当初の寺名は「安養寺(あんようじ)」で、後に弘法大師・空海の来訪によって真言宗の寺院となり、現在の「石手寺」へと発展していきました。

Ishite-ji temple 撮影:Reggaeman(Wikimedia Commons) CC BY-SA 4.0
こうしたオチノタマズミ(玉澄)による寺院建立や仏教信仰の広がりは、今治地域にも数多く残されています。
奈良時代の慶雲2年(705年)、オチノタマズミ(玉澄)は自らの念持仏であった薬師如来を安置するための堂宇「嘯月庵(しょうげつあん)」を建立しました。
これが、「嘯月院(しょうげついん)」の起こりになります。

また、東禅寺に伝わる薬師堂にも、オチノタマズミ(玉澄)にまつわる古い伝承が残されています。
薬師堂には、かつて本尊として「如意輪観世音菩薩像」が安置されていました。
この尊像は、天平元年(729年)に伊予巡錫でこの地に訪れた高僧・行基律師が、霊木から等身大に彫り上げたものと伝えられています。
長い歴史を持つこの観音像は、東禅寺の信仰の中心として、地域の人々の祈りを受け止め続けてきました。
別の伝承では、この尊像は白村江(はくすきのえ)の戦いで捕虜となり、奇跡的に帰国を果たした越智守興が携えていた観音像であったとも伝えられています。

「河野姓の始まり」河野郷に刻まれた玉澄の伝承
オチノタマズミ(玉澄)は、こうした信仰を基盤とした統治の中で、伊予国内に四十一の館を設け、毎月各地を巡視しながら国を治めていたと伝えられています。
その中の一つが、伊予国風早郡。
現在の松山市北部(旧:北条市河野)にあたる「風早郡河野郷」でした。

愛媛県松山市 モンチッチ海岸周辺の風景(Adobe Stock)
この河野郷に館を構えて統治を始めたことから、オチノタマズミ(玉澄)は「河野(もとは阿野とも記される)」という姓を名乗るようになったと伝えられています。
そして現在も、その歴史を伝えるかのように、松山市(旧北条市)の善応寺の入口には「河野氏発祥之地」と刻まれた大きな石碑が建てられ、訪れる人々に往時の歴史を静かに伝えています。

「水島伝説」
「河野」という名乗りには、伊予国へ渡る途中に起きた「水島伝説」の後日談も伝えられています。
玉興は、吉備沖で海水の中から真水が湧き出すという奇跡によって一行が救われたことを、伊予国・高縄山から流れてきた神水によるものだとして、この地へ館を構えたオチノタマズミ(玉澄)へ次のように語ったといいます。
「この水の可なること、予が里よりす」
つまり、「高縄山は神の山だ。あの時、海水の中から真水が湧き上がったのは、遠く離れたこの高縄山の水を呼び寄せて起こった奇跡なのだ」と説いたのです。
玉興はさらに、この奇跡と覚悟を名に刻むよう命じました。
「これからは、『水(氵)が、予(自分)の里となる可(べ)し』との意を込め、『水(氵)可里予』の四字を組み合わせ、“河野(かわの)”と名乗るがよい」
こうしてオチノタマズミ(玉澄)は「河野」の姓を名乗るようになり、その居館を中心とした周辺地域は「河野郷」と称されるようになったと伝えられています。
道後温泉の開発
オチノタマズミ(玉澄)は、河野郷の館を拠点に伊予各地の統治を進める一方で、現在まで続く伊予最大級の事業にも関わっていたと伝えられています。
それが、日本最古の温泉とも称される「道後温泉」の再開発です。

夕暮れの道後温泉本館(Adobe Stock)
「白鷺伝説」と越智玉澄
古代、伊予の温泉は「熟田津石湯(にきたつのいわゆ)」と呼ばれ、『日本書紀』にも斉明天皇がここへ行幸された記録が残るほどの高名な名湯でした。
しかし、この温泉は天武13年(684年)の白鳳地震によって壊没し、さらに天平17年(745年)の大地震によって山が崩れ、完全に埋没して荒廃してしまっていたと伝えられています。
伊予の至宝ともいえる名湯が失われてしまったことを、オチノタマズミ(玉澄)は深く憂いていました。
そこで、新たな源泉を探し求めて自ら山野を巡り、再び湯が見つかるよう神々へ祈りを捧げていた、ある時のことです。
オチノタマズミ(玉澄)は、一羽の白鷺が傷ついた足を、こんこんと湧き出る湯につけて癒やしている姿を目撃します。
白鷺は、古くから伊予の田園に親しまれてきた身近な鳥ですが、大山祇神社を中心とする三島信仰では、神使(しんし)として崇められる神聖な鳥でもありました。
これぞ神の導きと悟ったオチノタマズミ(玉澄)は、白鷺が示したその地を掘り進め、ついに新たな源泉を見つけ出しました。
やがてこの地は、白鷺が導いた霊泉の地として「鷺谷(さぎだに)」と呼ばれるようになったといいます。
そしてその名は、現在も湯神社周辺にあたる「鷺谷町」の地名として残されています。
この伝承は現在も「白鷺伝説」として語り継がれており、坊っちゃんカラクリ時計の近くには、白鷺の足跡が残ったと伝わる「鷺石(さぎいし)」が今もひっそりと佇んでいます。
また、道後温泉本館の屋上で天を仰ぐ白鷺の像をはじめ、道後の町のいたるところに、白鷺の姿を見ることができます。

道後温泉(Adobe Stock)
名僧・行基と支援者としての玉澄
伝承によれば、天平勝宝元年(749年)に伊予を巡錫していた行基律師がこの地を訪れ、温泉を修理して浴地を整え、神井を穿ち、湯釜を設け、その上に玉形の蓋を作ったと伝えられています。
そして、その造営を資金や人夫の面で支援したのが、オチノタマズミ(玉澄)であったともされています。
明治時代に編纂された郷土史料『伊豫温故録』に引用される「豫州温泉古事記」にも、道後温泉を発見・開発した偉大な功労者として、はっきりとオチノタマズミ(玉澄)の名が刻まれています。
道後公園(湯築城跡)には、明治27年(1894年)の道後温泉本館建設まで実際に使われていた、行基作と伝わる日本最古の湯釜が移設され、「湯釜薬師」として大切に祀られています。


一方で、伝承では行基が道後温泉の修理や湯釜造営に関わったとされますが、『続日本紀』には行基が749年2月に亡くなったことが記されており、伝承の年代には若干の揺らぎも見られます。
また、白鷺伝説についても諸説あり、白鷺が傷を癒やす姿を見た人々がその湯の効能を知り、やがて広く利用するようになったとする話 なども伝えられています。
それでも、こうした伝承の名残は現在も大切に受け継がれ、道後温泉の歴史とともに人々の記憶の中に息づいているのです。
「藤原広嗣の乱」玉守・玉澄兄弟が戦った動乱
第45代・聖武天皇の御代。
当時の日本は、度重なる飢饉や疫病、さらに政争によって社会不安が広がっていました。
朝廷では、遣唐使として唐から帰国した吉備真備(きびのまきび)や、僧・玄昉(げんぼう)が、聖武天皇や光明皇后の側近として重用されるようになり、その急速な台頭に反発する貴族も少なくありませんでした。
そうした中、九州全体の統治や外交・軍事を担う大宰府(現在の福岡県太宰府市)で、次官にあたる「大宰少弐(だざいのしょうに)」を務めていた藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)は、吉備真備や玄昉を排斥すべきであると朝廷へ上表します。
しかし朝廷はこれを退け、逆に広嗣追討へ動き始めました。
これに不満を抱いた広嗣は、天平12年(740年)9月、筑紫で兵を挙げます。
これが、後に「藤原広嗣の乱」と呼ばれることになる動乱の始まりでした。

綱掛岩三島神社に秘められた玉澄の記憶
朝廷はこれを国家への重大な反逆とみなし、大野東人を大将軍として、二万余の軍勢を率いて討伐へ向かわせました。
この時、オチノタマズミ(玉澄)もまた、兄・玉守とともに勅命を受け、伊予勢およそ千五百余人を率いて西国へ出陣し、朝廷軍へ加わったと伝えられています。
その道中、一行は伊予国櫛生(現在の大洲市長浜町櫛生)沖で突風に遭遇します。
やむなく三ツ岩へ艫綱(ともづな)を掛けて船を留め、一行は海岸へ上陸しました。
この時、船を繋いだ岩は後に「綱掛岩」と呼ばれるようになったと伝えられています。
そしてオチノタマズミ(玉澄)は、その浜辺に三島大明神の祠を建立し、海上安全と武運長久を祈願してから、西国へ向かいました。
戦いの中でオチノタマズミ(玉澄)は、広嗣軍の拠点近くの森林へ伏兵を潜ませ、密かに城内の様子を探らせます。
やがて事情を知らない広嗣軍が城外へ打って出ると、伏兵が一斉に襲いかかり、広嗣軍は大きく崩れました。
さらにオチノタマズミ(玉澄)は、その隙を突いて城へ火を放ったと伝えられています。
炎に包まれた広嗣軍は退路を失い、広嗣は逃亡。
最終的には松浦郡長野村で討ち取られ、乱は鎮圧されました。
そして討伐を終えたオチノタマズミ(玉澄)は、帰陣の途中で再び櫛生の三ツ岩へ立ち寄り、現在の大峯の地に新たな社殿を建立したと伝えられています。
これが、現在の綱掛岩三島神社の起こりとされています。

綱掛岩三島神社 撮影:わだたく(Photo AC)
その後、平成二十一年(2009年)には現在地へ遷宮され、社殿も新たに整えられました。
この社は、「櫛生の三島神社」として、オチノタマズミ(玉澄)の伝承とともに地域の人々によって大切に守り継がれています。
伊予国司・伊予守となった玉澄
この戦功によって、オチノタマズミ(玉澄)は朝廷から功績を認められ、伊予国司・伊予守へ任じられたと伝えられています。
もっとも、藤原広嗣の乱が起きた天平12年(740年)の時点で、系譜上のオチノタマズミ(玉澄)はすでに七十代後半に達していた計算になります。
そのため、実際には自ら前線で武器を振るう武将というより、伊予勢を率いる総大将的存在として語り継がれていたのかもしれません。
また、この時代の越智氏系譜には、後世の伝承や年代整理が重なっている部分も多く、オチノタマズミ(玉澄)の事績もまた、そうした伝承の中で受け継がれてきたものと考えられています。
兄弟の確執と父・玉興の英断
河野郷・宇摩郡・越智郡など、伊予各地に勢力基盤を築いていったオチノタマズミ(玉澄)は、やがて「河野宇摩大領越智足尼」と称されるようになり、伊予全域にわたって統治と信仰の基盤を整えていきました。
この「足尼(すくね・宿禰・宿祢)」とは、古代日本において朝廷から与えられた格式ある称号(姓・かばね)の一つです。
こうして名実ともに「伊予の国主」とも言うべき絶対的な地位を確立し、一族の栄華を極めていったオチノタマズミ(玉澄)ですが、その一方で、玉守は次第に不満を抱くようになっていきました。
本来であれば、長兄として自分が受けるべきであったはずの賞賛と権力。
それがすべて弟のオチノタマズミ(玉澄)へと集まっていく状況は、玉守の心に暗い影を落とします。
「なぜ、弟ばかりが重用されるのか」
伊予全土に広がるオチノタマズミ(玉澄)の輝かしい統治の裏側で、一族を揺るがす肉親同士の確執という、新たなる波乱の火種が静かに燃え上がろうとしていたのです。
しかし父・玉興は、そうした玉守の内に秘めた心情をいち早く察していました。
一族の分裂を防ぎ、それぞれの才を活かすため、玉興は思い切った配置を試みます。
玉守を宇摩郡へと移し、自らの側近として重用するようになったのです。
やがて玉守は、新居郡と宇摩郡の二郡を広く管領する重要な立場を任されることとなりました。
伊予国の東の要衝を治めるという大役と、一族における確固たる地位を与えられたことで、玉守の心にあった弟への嫉妬やわだかまりは次第に消え去っていきました。
こうして二人の確執は回避され、越智一族の結束は再び強固なものとなっていったといいます。
晩年の玉澄が遺した、次なる伊予の歴史
やがてオチノタマズミ(玉澄)も歳を重ね、心身の衰えとともに、かつてのように自由に立ち居振る舞うことも難しくなっていきました。
そこで嫡子(跡継ぎ)の益男に家督を譲り、かつて父・玉興(たまおき)が居住していた宇摩郡・上柏御所の館を修復し、そこへ移り住んで余生を過ごしたと伝えられています。
「伊予三島から四国中央市へ」海を渡れなくなった玉澄の祈り
第一線を退いたオチノタマズミ(玉澄)でしたが、その信仰心は少しも衰えることなく、大三島の大山祇神社へ毎月参籠を続けていたといいます。
年齢を重ねるにつれ、やがて海を渡って大三島へ赴くことも難しくなっていきました。
そこで玉澄は、余生を過ごしていた館の近く、八津名浦三津名御崎冠ヶ岡(現在の愛媛県四国中央市具定町)の地に、大山祇神を身近に祀る社を建立することにしたのです。
養老4年(720年)8月23日には、社殿が完成し、大山祇神を奉斎して「三島神社」が創建されました。
そして、この地は「三島」と呼ばれるようになりました。

この三島信仰は、その後も三島地域の中心として受け継がれ、中世には武士たちの崇敬を集め、近世には宇摩郡統治の重要拠点として発展していきました。
境内には、国分山城を拠点に伊予を治めていた領主・福島正則が奉納したと伝わる一対の石灯籠(福島灯籠)が今も残されています。

寛永三年(1626年)には、この地に今治藩主・松平定房によって陣屋が置かれ、郡内十八ヶ村を統括する中心地となりました。
さらに明治22年(1889年)の町村制施行によって「三島村」が成立し、明治31年(1898年)には「三島町」へ昇格しました。
昭和29年(1954年)には周辺六ヶ村と合併して「伊予三島市」となり、平成16年(2004年)には川之江市・新宮村・土居町と合併して現在の「四国中央市」が誕生しました。
しかし「三島」の名は今も消えることなく、「伊予三島駅」の駅名や、四国中央市に残る住所・地名の中に受け継がれています。

伊予三島駅(photo library)
「河野氏と大祝氏」玉澄が託した二大系譜
さらにオチノタマズミ(玉澄)は、自らの築いた統治と信仰の基盤を、次の世代へと託していきました。
嫡男である越智益男(河野益男)には越智氏(河野家)の家督を譲り、ここから武家としての「河野氏」の系譜が始まったと伝えられています。
以降、その子孫たちは「河野」と「越智」の両方の姓を名乗っていたと考えられ、史料の中にも、それぞれの名で歴史へその姿を残していくようになります。
一方で、次男の越智安元(河野安元)は三島大社(大山祇神社)の大祝(おおほうり)に任じられ、神職としての「大祝氏」の祖となりました。
政治・軍事を担う河野氏。
そして、大山祇神社の祭祀と信仰を司る大祝氏。
こうして、オチノタマズミ(越智玉澄・河野玉澄)を始祖として、伊予の軍事・政治を担う「河野氏」と、大山祇神社の社家として続く「大祝氏」という、伊予を支える二大氏族の歴史が幕を開けることとなったのです。
そしてそれは、戦国時代の終焉まで続く伊予の水軍や、現在も語り継がれる鶴姫伝説など、後の伊予の歴史へと繋がっていく、すべての始まりでもありました。
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玉澄公が眠る最後の地
天平十九年(747年)4月、オチノタマズミ(玉澄)は84歳で、その激動の生涯を閉じたと伝えられています。
その御霊は、かつて藤原広嗣の乱で打ち立てた類まれなる武功によって、鉄人伝説で知られる一族の英雄・越智益躬の偉業と並び称されました。
関連記事:【越智氏の系譜】国を救った伊予の英雄・越智益躬 ── 鉄人伝説と“樹下”に残る記憶
そして玉澄は、益躬と同じく「樹下大明神(きのもとだいみょうじん・樹下大神)」という神格を与えられ、祀られることとなったのです。
伝承によれば、鴨部神社のそばにオチノタマズミ(玉澄)の御霊を祀るための社が建立されたといいます。
しかし、度重なる時代の変化や戦災、境内の改変などを経て、その社は失われたのか、現在その痕跡は残されていません。

一方、そのお位牌は玉澄が創建に関わった「嘯月院(旧:嘯月庵)」に安置され、今日に至るまで大切に守り伝えられています。

また、その亡骸は、嘯月院から徒歩10分ほどの場所にある、現在の今治市別名・本郷の田園地帯へ埋葬されたと伝えられています。
そして、その墓標として植えられたとされるのが、「玉澄さんの大楠」と呼ばれる巨大な楠(くすのき)です。
根回り約10メートル、高さ22メートルに達するこの巨木は、昭和34年(1959年)に愛媛県の天然記念物に指定され、今もオチノタマズミの墓所を守る神木として、地域の人々に大切に守り継がれています。

オチノタマズミ(越智玉澄)。
遠い異国で生まれ、古代伊予を駆け抜けたその名は、長い歳月を超えて愛媛の地に語り継がれてきました。
それは、神話や伝説として語られるだけの存在ではなく、各地に残る神社や史跡、地名、そして人々の祈りの中に、その足跡を今も確かに残しています。
今治の空の下、オチノタマズミ(越智玉澄)は今日も大楠とともに、千年を超えて受け継がれてきた人々の祈りと歴史を、静かに見守り続けているのです。

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