神話から歴史へ。敵将を討った一矢と鎮魂の地・今治
物部氏の祖・饒速日命から始祖・乎致命へと繋がる越智の系譜は、代々伊予の地へ受け継がれ、その血脈は数々の伝説を生み出していきました。
そして、その系譜の中から、再び今治の地で語り継がれる伝説的人物が現れます。
それが、越智益躬(おちのますみ)です。
前回の記事はこちら:【越智氏の系譜】越智氏の祖・乎致命と二千年の系譜
益躬までの越智氏の系譜
乎致命(越智氏族之祖) → 天狭貫 → 天狭介 → 粟鹿 → 三並 → 熊武 → 伊但馬 → 喜多守 → 高縄 → 高箕 → 高墅 → 三田回 → 阿次 → 門命 → 伍賈香 → 勝海 → 力士 → 百里 → 百男 → 益躬
- 二代目・天狭貫(天狭貫皇命):伊予二名洲(四国島)を治めた君主。成務天皇5年8月15日に没し、小千郡朝倉で天狭貫王(天崇矢矧大明神)として祀られる(現在の矢矧神社)。
- 三代目・天狭介(天狭介王命):伊予二名洲の君主。野間郡大井を治め、その霊廟は後の大井宮(現在の大井八幡大神社)へ繋がる。
- 四代目・粟鹿(粟鹿王):周布郡北条郷を拠点とした君主。宗廟には後に八幡神が相殿として祀られた。 五代目・三並:景行天皇の熊襲征伐に従軍し、多くの軍功を挙げる。
- 六代目・熊武:伊予国府で政治を司る。
- 七代目・伊但馬:土佐国境付近に館を構え、土地の名から「伊但馬」を称する。
- 八代目・喜多守:喜多郡に新館を築き十年間居住。後に本館へ戻る。成務天皇の御代には伊予・土佐両国分の武器を預かる。
- 九代目・高縄(躬尺丸):高縄山へ館を移し、「高縄」を称する。大浜八幡大神社の創建者。仲哀天皇の熊襲征伐に従軍し、神功皇后の三韓征伐では三島神の神託を奏上。海神より満珠・干珠を授かり、新羅遠征では白鷺を三島神の神光として皇船へ奏上した。
- 十代目・高箕:高縄館を本拠とする。忠臣の諫言を退け、苛烈な振る舞いを重ねたことで家中が乱れる。後に野間の小才との争いから高箕夫妻は殺害され、小才も逃亡の末に討たれた。
- 十一代目・高墅:高箕の弟。高縄館を継承し、応神天皇の小豆島行幸の際に警衛を務める。忠節を賞され百戸の地を賜った。
- 十二代目・三回田:高縄館を本拠とする。
- 十三代目・阿次:高縄館を継承。
- 十四代目・門命:高縄館を本拠とする。宣化天皇の御代、新羅・任那救援のため派遣された大伴狭手彦軍に従い、貞臣比芦田を代理として出韓させた。後に日振島へ隠居し、子孫は代々島主となり「清家」を称した。
- 十五代目・伍賈香:高縄館を本拠とする。欽明天皇の御代、新羅・高句麗征討の際には、大伴狭手彦に従って河野一族も出兵した。伍賈香は文武に優れながらも慎み深く、驕ることなく一代を平穏に治め、後に山居して俗世を離れた。
- 十六代目・勝海:後継を巡って一族内部で争乱が発生。矢瀬は家督を奪おうとして館を夜襲したが、於美・盻部兄弟や忠臣・陌手らが応戦し、激戦となった。家臣・更生治は敵将・大鮨を討ち取るものの、館は炎上。勝海は重臣たちに助けられて脱出し、西伊予を預かる蘇香の館へ逃れた。その後、勝海は夢告を受けて山中を巡り、かつての給仕「深」のもとで密かに育てられていた十歳の遺児と再会した。また於美は、米倉へ三島神の神記を納め、石鉄山・補陀落山・奈良原山など三島信仰の霊地と深く関わった。
- 十七代目・力士 :喜多郡に新館を築き、後に「久米磨(久米麻呂)」と改名。その館は「久米館」と呼ばれるようになった。矢祢・蘇香の争乱を平定した後、再び高縄館へ帰還する。蘇香は矢祢を討ちながら忠義を装っていたが、久米麻呂はその反意を見抜き、三島明神へ奉じた願文を証拠として蘇香を討った。その後、蘇香が願文を携えて船出すると、突如暴風が起こり船は難破。この出来事から「風族」と呼ばれた地は、後に「風早」となったという。また、願文を納めた箱が流れ着いた地は「箱潟」と呼ばれ、現在の波方周辺にあたるとされる。久米麻呂は後に矢祢・蘇香を「二神」として祀り、これが二神姓の始まりになった。
- 十八代目・百里
- 十九代目・百男
九代目当主・高縄と高縄神社。越智益躬へ繋がる信仰の歴史
越智益躬(おちのますみ)へと続く系譜の中で、深く関わる人物として伝えられているのが、大浜八幡大神社を創建した九代目当主・高縄(おちのたかなわ・小千高縄・乎致足尼高縄・小千躬尺)です。
高縄は、「高縄山」や「高縄半島」の由来となったとも伝えられ、この地域一帯にその名を深く刻んだ伝説的人物として語り継がれています。
高縄山(たかなわさん)はかつて「登美高名和(とみたかなわ)」と呼ばれ、その山頂は「天神ヶ森」と称されていました。
古くから神が降臨した聖地とされ、伝承によれば、饒速日尊と天道女尊からなる高名和登美大神がこの地に天降ったと伝えられています。
仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の御代、越智高縄は三島大神(三島大明神・大山祇神・大山積神)の御神託を受けてこの地へ進出し、天神ヶ森を居城の地に定め、祖神である大山積神を奉祀したと伝えられています。
そして、この地に住したことから自らを「高縄」と名乗るようになり、それまで「登美高名和」と呼ばれていた山の名も、その名にちなんで「高縄山」と呼ばれるようになったといいます。

高縄山の看板と夕日 撮影:たくSAN(写真AC)
やがてこの高縄山は、単なる居城の地にとどまらず、神聖な山として信仰の中心となっていきました。
推古天皇7年(599年)には、山頂の天神ヶ森に社殿が造営され、三島大明神を主祭神として、天と地のあらゆる神々とともに祀られ、「高縄神」と尊称され、越智氏の氏神として崇敬されるようになりました。
さらに時代が下ると、平安時代の保延2年(1136年)、河野氏の祖・河野親清によって他の場所へ遷され、「高縄三島宮」として祀られるようになりました。
この神社は、現在では「高縄神社(愛媛県松山市宮内甲102)」として地域の鎮守となり、古代から続く信仰のかたちを今に伝えています。
そして、高縄神社の始まりとなった推古天皇の御代、天神ヶ森に社殿を造営し、三島大明神を祀った人物。
それこそが、今回ご紹介する「オチノマスミ(越智益躬)」になります。
二十代目当主・越智益躬
越智益躬は始祖である乎致命から数えて二十代目にあたり、その存在の大きさから、後世の史料や伝承では以下のようにさまざまな表記で記されてきました。
- 越智益躬(おちのますみ)
- 乎致益躬(おちのますみ)
- 小千益躬(おちのますみ)
- 乎致宿禰益躬(おちのすくねますみ)
- 小千宿禰益躬(おちのすくねますみ)
また、越智一族の姓(かばね)である「直(あたい)」を付して、越智直益躬(おちのあたいますみ)とも記されています。
本記事では、混乱を避けるために以降は「オチノマスミ」として表記を統一して進めていきます。
このオチノマスミの名を、単なる一族の長から「国を救った英雄」へと昇華させたもの。
それが、「鉄人伝説(てつじんでんせつ)」です。
「鉄人伝説」最恐の敵を貫いた神の刃
今からおよそ1300年前、靺鞨(まっかつ)という民族が、北東アジア(現在の中国東北部やロシア沿海州)一帯に広く住んでおり、ツングース系の強大な戦士民族として、周辺諸国から恐れられていました。
その靺鞨の中に、「鉄人」と名乗る特に恐るべき武将がいました。
※一説には、この鉄人は靺鞨ではなく、当時の朝鮮半島にあった新羅・百済・高句麗、いわゆる三韓のいずれかに仕えていたとも言われており、その出自には諸説あります。
鉄人は、卓越した知略と圧倒的な武力を兼ね備えた存在で、その名を聞くだけで人々を震え上がらせるほどでした。
そんな鉄人が、あろうことか8000人もの靺鞨の兵を率いて海を越え、九州・有明海に面する「筑紫(つくし)の国」から侵攻を開始したのです。

有明海(Adobe Stock)
これは、当時の日本にとってまさに未曾有の危機でした。
日本も必死に応戦しましたが、ようやく鉄人を包囲したかと思えば、突如「風雨の術」と呼ばれる神秘の力を操り、戦場に暴風と豪雨を巻き起こして混乱を招き、包囲網をあざ笑うかのように突破していきました。
兵たちは翻弄され、多くの戦死者が出る中で、もはや手のつけようがない状況に陥っていきました。
さらに鉄人には、ただ戦うだけでなく、倒した人々を食べるという恐ろしい噂まで流れていました。
このため、地域の老人や女性、子どもたちは山林に身を潜め、日夜、命の危険と隣り合わせの恐怖の中で暮らすしかありませんでした。
暮らしは悲惨を極め、誰もが「次は我が身か」と怯えながら日々を送っていたのです。
そしてついに、鉄人が筑紫の国から都(京都)へと攻め上がろうとしていることが明らかになると、朝廷は深刻な危機感を抱きます。
もはや一刻の猶予も許されぬ状況の中、国家の命運を託されたのが、以前から外敵警備の任にあたっていたオチノマスミ(小千益躬・越智益躬)でした。
オチノマスミ(益躬)は生まれながらの武将でありながら、若い頃から朝廷に忠勤を尽くし続け、生涯にわたってその務めを怠ることのなかった、忠義の人として知られています。
この国家の一大事において、その揺るぎない忠誠と力が求められたのです。
益躬は祖神である「大山積神(三嶋大明神・三島大明神・大山祇神)」を深く崇敬しており、館を移すたびに必ず一社を建立して祀るなど、日頃から神意を何より重んじていました。
鉄人討伐という、国を揺るがす重大な勅命を受けた益躬は、戦に向かうにあたり大山積神に、七日七夜(一週間)にわたって祈願を捧げました。
すると満願の夜、ついにオチノマスミのもとへ神託が下されます。
「鉾(ほこ)を鏃(やじり)にして隠し持ち、鉄人の隙を見て討て」
この神託が、後に鉄人との戦いにおける重要な導きとなります。
いよいよ鉄人と対峙することになったオチノマスミですが、鉄人の強さは予想以上でした。
武力での勝利は難しいと判断したオチノマスミは、思い切って鉄人に降伏し、家来となることでその隙をうかがうことにしました。
「日本から来た降人(亡命者)である益躬が申し上げます。私は扶桑(現在の日本)に生まれ、かつては都に身を寄せておりました。若い頃より学問を志して文章の奥義を学び、また長く武芸の道にも励んでまいりました。しかし、朝廷にも才能を認められず、人々から信頼を得ることもできないまま、東西を流浪し、南北を漂泊するうちに、むなしく歳月だけが過ぎ去ってしまいました。このまま飢えに苦しみながら生きるよりはと思っていた折、近頃、異国の軍船が西海へ到着したと聞き及びました。どうか私を、大将軍の配下に加え、戦わせてください」
こうして、うまく異国の軍船に潜り込んだオチノマスミでしたが、用心深い鉄人にはほとんど隙が見当たらず、見つけた弱点といえば「馬に乗っている際に足の裏にわずかな穴が開いている」ぐらいでした。
それでもオチノマスミはじっとチャンスを待ち続けました。
鉄人はそのまま進軍を続け、播磨国(はりまのくに・現在の兵庫県南西部)たつの市室津(むろつ)付近から上陸すると、さらに東へと進軍し明石の蟹坂(かにさか、現在の和坂)あたりにさしかかりました。
そして、ついに決定的な好機が訪れます。
この時、鉄人は目の前に広がる美しく壮大な景色に心を奪われ、警戒心を忘れて無防備に立ち尽くしていました。
すると、突然の雷鳴が響き渡り、空を裂く稲妻が辺りを照らしました。
突然の出来事に、さすがの鉄人も馬上で思わずおののき、身をすくませたのです。
オチノマスミはこれぞ三島大明神のご霊験の現れと感じ、すかさず懐に忍ばせていた鏃(やじり)を取り出し、渾身の力で投げつけました。
鏃は鋭く空を裂き、風を切りながら鉄人の方へと飛んでいき、ついに唯一の弱点といわれた足の裏の穴に突き刺さったのです。
このとき放たれた矢は、足裏より脳天まで射抜くという心願が込められていたといいます。
突如の激痛に、さすがの鉄人も落馬しました。
その瞬間、オチノマスミの家来たちが一気に斬りかかり、ついに鉄人を討ち取ることに成功したのです。
この一矢は、後に「鬼射しの矢」と称されるようになりました。
大将である鉄人を失い、大混乱に陥った軍はあまりにも脆く、オチノマスミは鉄人の家来を次々と打ち破り、逃げた者は生け捕りにしました。
手をあわせ命乞いをする者は捕まえて獄舎につなぎ、鉄人についての詳しい情報を吐かせました。
こうして戦いに敗れ、降伏を願い出た残兵たちは、その後も日本に留まることを許され、日本の西の海(西海)の漁夫(ぎょふ)になったと伝えられています。
鉄人の詳細な情報を知ったオチノマスミは、討ち取った首を手にして宮中へ向かうと、朝廷(天皇)の前で事の顛末を詳しく報告しました。
この見事な働きに朝廷は大いに喜び、益躬の忠義と功績を高く称えました。
この類まれなる功績を讃え、オチノマスミを伊予国越智郡(現:今治市一帯)の大領(郡の長官)へと任じました。
鉄人との決着の地・明石に残る益躬の足跡
その後、オチノマスミは鉄人との死闘において自らを守り導いた三島大明神への深い感謝と、命を落とした多くの兵士たちへの鎮魂の念を胸に、信仰の証を各地に残していくことになります。
特に、鉄人との激戦が繰り広げられた明石の地には、その記憶を今に伝える神社や伝承が数多く残されています。
「稲爪神社」稲妻となって舞い降りた三島大明神
まず、三島大明神が稲妻となって舞い降りた場所、大蔵谷の地に御神恩を畏れ敬い、社を勧請しました。
こうして創建された神社は、古くは「稲妻大明神」と称されていましたが、時代を経る中でその名が転じ、「稲爪(いなづめ)」となったと伝えられています。
これが、現在の兵庫県明石市大蔵本町に鎮座する稲爪神社(いなづめじんじゃ)の起源です。

稲爪神社(PIXTA)
「穂蓼八幡神社」益躬が祀られた越智の社
そして後の時代に、稲爪神社から見て南東(辰巳)の方角、大蔵海岸沿いの地に、オチノマスミの子・越智武男によって、父であるオチノマスミを祀る別の社も建立されました。
この社は、当初「越智神社」として創建され、オチノマスミのみを祀る神社でした。
その後、神功皇后・応神天皇・玉依姫命を合わせ祀るようになり、次第に八幡信仰と結びついていきます。
この神社にはもう一つ、人々の心に深く関わる伝承が残されています。
かつて鉄人の来襲に際し、戦うもそれを食い止めることができなかった人々の子孫たちは、オチノマスミへの深い感謝とともに、どこか後ろめたさを抱きながら、この地を通っていたといいます。
神社の前では馬や籠から下り、オチノマスミに敬意を表す者もいれば、その無念ゆえにこの地を避け、海路を選んで通過する者もいたと伝えられています。
こうした状況を憂慮した当時の明石藩主・松平直常は、宝永2年(1705年)、社殿の建て替えにあわせて社名を「穂蓼八幡(ほたてはちまん)」へと改め、さらに社地をわずかに東へ移す措置をとりました。
これにより、人々はようやく従来どおり馬や籠で往来できるようになったと伝えられています。
「穂蓼」という名の由来には諸説ありますが、こうした人々の思いと、それを受け止めようとした時代の判断が重なって生まれた名であるとも考えられています。
穂蓼八幡は、その鎮座地である大蔵の地名に由来して「大蔵八幡神社」とも称されるようになり、稲爪神社の境外摂社として、現在も地域の人々の篤い信仰を集めています。
益躬が故郷に残した信仰のかたち
英雄となったオチノマスミ(越智益躬)は、のちの記録において「越智郡大領(おちぐんたいりょう)」や「伊予国守」、「鴨部大領」といった名でも記され、大きな名声を得た人物として伝えられています。
ちなみに「大領」という呼び名は、大宝律令(701年)より後に使われ始めた言葉なので、後世の人々がオチノマスミの功績を称えて当時の最高の役職に当てはめて語り継いだという背景があるのかもしれません。
また、オチノマスミには「樹下の押領使(きのもとのおうりょうし)」という、もう一つ特徴的な通り名があります。
これは、伊予国府中の「樹下(きのもと)」と呼ばれる地に館を構えたことからそう呼ばれ、その場所は三嶋神社・祇園神社の社地にあたるとされています。
また、オチノマスミの旧宅は、現在の広紹寺があった場所であったとも伝えられています。


神木のもとに捧げた祈りと「鳥生」の地名
オチノマスミが凱旋帰郷した際に着船したと伝えられるのが、小千郡の樹下の浜(木の下の浜・鳥生町の浜)とされています。
そして、その浜にほど近い場所にあった一本の榊の大樹の枝に鏡を懸け、戦勝と神恩への感謝を胸に、大山積大神をそのふもとに奉斎しました。
榊は「境の木」とも書かれ、神と人の世界をつなぐ神聖な木とされており、神霊を迎える依代(よりしろ)として、まさに神社建立にふさわしい存在でした。
この社は、木の下(樹下)という場所に建てられたことから「木の下三島宮(きのもとみしまぐう)」と称されました。
そしてこの社は、後に合祀されて三嶋神社・祇園神社へと発展していく、三嶋神社の起源であるとされています。

やがて、その神木に不思議な出来事が起こります。 どこからともなく白鳥(白い鳥)が集まり、多くの巣を作って子を育て始めたのです。
人々はこの神秘的な光景を神意の表れとして尊び、いつしか「鳥生(とりう)の宮」と呼ぶようになりました。
これが、現在の「鳥生町」という地名の由来になったと伝えられています。
「白鷺」神の意思を伝える鳥
この伝承に登場する「白鳥」の正体は、「白鷺(しらさぎ)」であったといわれています。
そのため、白鷺は単なる鳥ではなく「月の神使(しんし)」、あるいは「三嶋神の神使(つかはしめ)」として、人々から格別に尊ばれるようになりました。
今治の川辺や田園で目にする白鷺は、古くから人々の暮らしに溶け込み、ごく当たり前の風景として親しまれています。
しかしその一方で、大山祇神社を中心に広がる三島信仰の中では、特別な霊鳥でもあるのです。

白鷺(Adobe Stock)
益躬が各地に広めた三島信仰
他にも、オチノマスミは越智氏の祖神である三嶋大明神(大山積神)を中心とする「三島信仰」を伊予各地に広めており、ここ今治にも多くの足跡を残しています。
たとえば、「三島神社・登畑」では、高市郷に三島神を勧請して、この戦いの勝利を祝ったことが創建の由来とされています。

また、オチノマスミが生きていたとされる時代とは異なりますが、奈良時代の神亀5年(728年)8月23日には、伊予国司であったオチノマスミ(小千宿祢益躬)が聖武天皇の勅命を奉じ、伊予八社の一つとして「三嶋神社・上徳」を創建したとする伝承も残されています。

玉川に遺された神器の記憶
三島信仰の広まりにとどまらず、オチノマスミは各地の神社創建にも関わったとする伝承が残されています。
たとえば玉川地区の御鉾神社には、オチノマスミ(小千益躬)が訓見郡徳威の宮から神聖な神器「天之逆矛(あめのさかほこ)」を大三島宮(現・大山祇神社)へ奉納するという重要な神事を担っていたと伝えられています。
その際、玉川のこの地にしばらく滞在し、その神威を後世に伝えたいと願って、自ら小さなお社を築き、「御鉾の宮(みほこのみや)」として祀ったことが起源であるとされています。

戦の先にあった仏教の慈悲
オチノマスミが故郷へ注いだ眼差しは、神々への崇敬だけではありませんでした。
各地で神社の創建に関わる一方で、オチノマスミは日々の暮らしの中では仏教への信仰も深めていきました。
剃髪こそしなかったものの十戒を受け、法名を「定真(じょうしん)」と称していたと伝えられています。
そこには、戦いの現実に身を置いてきたオチノマスミが深く感じていた、命の儚さへの思いと、静かな祈りの心があったのかもしれません。
東禅寺に込められた戦没者への祈り
戦いに勝ち故郷へ戻ったあと、オチノマスミの心に深く刻まれていたのは、鉄人との激闘のなかで命を落とした兵士たちの姿でした。
自分を信じて戦い、散っていった仲間たちの霊を慰めたい。
その一心で、オチノマスミは一つのお寺を建立します。
この寺院が、承久の乱で活躍した河野通信(こうのみちのぶ)が生まれ育った場所としても知られる「東禅寺」です。
オチノマスミは毎朝、心静かに法華経を読み、夜には念仏を唱えることを欠かさず、その信仰は生涯にわたって変わることがなかったといいます。
東禅寺では、オチノマスミ自身が仏前に端座し、法華経を唱えながら、鉄人との戦いで命を落とした兵たちの冥福を、静かに祈り続けていたのかもしれません。

寺院建立に見る益躬の信仰
そして、こうした篤い信仰心は、寺院の建立というかたちとなって各地に残っています。
伝承によれば、オチノマスミは伊予各地において仏教の普及に関わり、法安寺(西条市小松町)や湯之町廃寺(松山市道後)、願成寺(内子町)などの寺院の建立にも関わったとされています。
法安寺は飛鳥時代創建とされる伊予最古級の寺院であり、礎石や古代瓦が残る大規模な寺院跡として知られています。
また、湯之町廃寺からは法隆寺式の瓦が出土しており、中央文化とのつながりを示す白鳳時代の重要な遺跡とされています。
なかでも今治では、自らの病を薬師如来の加護によって癒やされたことを契機に、推古天皇十年(602年)、水之上の古寺山に寺院を建立し、「高蔵寺(現:光蔵寺)」と名付けたと伝えられています。

「往生伝」益躬伝説の最期
忠義に生き、武に秀で、そして深い信仰を貫き続けたオチノマスミの姿は、この地に暮らす人々の誇りであり、誰もが敬意をもってその名を語りました。
しかし、そんなオチノマスミもまた一人の人間。
やがて、静かに終わりの時が訪れました。
仏教では、西に阿弥陀如来の住む極楽浄土があるとされ、臨終の際にその方角を向いて念仏を唱えることは、安らかな往生を願う作法とされています。
オチノマスミは、その教えに従うように、西の方角に静かに坐り、定印を結んで念仏を唱えながら、痛みも迷いもなく、穏やかに息を引き取りました。
その瞬間、村人たちは空から不思議な音楽が響くのを聞き、また、言葉では言い尽くせない芳香が村全体に満ちたと伝えられています。
この神秘的な出来事に、人々は驚きとともに深く感動し、涙を流してその往生を讃えたといいます。
最期のその時まで、オチノマスミは誠を尽くし、静かに気高く生をまっとうしたのでした。
「樹下大神」樹下に埋葬された越智氏
その後、オチノマスミの遺体は、子・越智武男によって府中樹下の地へ手厚く葬られました。
さらに武男は父の功績を称え、鴨部大明神廟を建立して、益躬を「樹下大神」としても祀り、その傍らには堂宇を建て、「東禅寺殿」と号し、益躬の御影に似せた薬師如来像を安置しました。
後に廟は東禅寺へ移され、一族の祭祀の場となっていったといいます。
「鴨部神社」神格化された越智氏
オチノマスミが亡くなったという報せはすぐに朝廷に届きました。
慶雲元年(704年)にはその比類なき武勲と、誠心をもって貫いた忠誠が朝廷に認められ、文武天皇(在位697〜707年)より「鴨部大神(かんべおおかみ)」の尊号が贈られ、神格化されました。
これを受け、この地の人々はその御神霊を長く敬い、恩徳に報いようと、かつてオチノマスミが建立した東禅寺の近くに、鴨部大神をお祀りする社殿を設けました。
こうして創建されたのが、「鴨部神社」です。

「神戸から鴨部へ」地名の変遷に見る神格化
「鴨部(かんべ)」という地名の由来については、もともと「神戸(かんべ)」と呼ばれていた地域が、大同4年(809年)に「鴨部」に変更されたとされています。
『伊予郡誌』には、「神戸大神祭神小千宿称益躬、大同四年部と改む」と記録されており、この記述からも当時の地名変更が確認できます。
つまり、オチノマスミ(小千益躬)は当初「神戸大神(かんべおおかみ)」の称号を授けられ、神戸神社に祀られた後に、文字の変更によって現在の「鴨部」という表記になったと考えられます。
鉄人の亡骸はどこへ?蒼社川河口に残された地名
さらに、鴨部神社にはもう一つ、この地の歴史をより深く、そして神秘的に彩る伝承が息づいています。
それが、「鉄人の亡骸がこの地に埋葬されている」という驚くべき伝承です。
古文書『予陽河野盛衰記』(別名:『予陽盛衰記』『河野軍記』)には、オチノマスミ(越智益躬)が敵将・鉄人を討ち取った際、その屍をわざわざ伊予へと持ち帰り、府中の「樹下(きのもと)」に葬ったと記されています。
この「樹下」という場所こそが、現在の鴨部神社の境内を指すとされ、まさにこの場所が鉄人の終焉の地であると伝えられてきました。
神社の周辺には、今も「樹ノ本」という小字が残されており、この伝承が単なる物語ではなく、土地の記憶として今に刻まれていることを物語っています。
さらに、「樹下」という地名が三嶋神社・祇園神社の創建伝承にも登場していることから、蒼社川の河口一帯が、かつて「樹下(きのもと)」と呼ばれていた地域であったとも考えられます。
宿敵・鉄人と眠る英雄との鎮魂の場
そして、鴨部神社がもともとは墓所であったという伝承が事実であるなら、そのすぐそばに建立された「東禅寺」の存在は、より深い意味を持つことになります。
オチノマスミにとって東禅寺は、単に亡き部下を弔うための場ではなく、鉄人を含め、この戦いで命を落としたすべての魂を等しく慰めるための聖域だったのではないでしょうか。
もし埋葬伝承が事実であるならば、かつて生死を賭けて激しく戦った敵と味方の将が、時を超えて同じ場所に葬られていることになり、鴨部神社はさらに深い精神性を帯びることになるのです。
「越智益躬公墳墓之地」もう一つの埋葬伝承
鴨部神社の境内には、「越智益躬公墳墓之地」と刻まれた石碑が建てられています。
この碑は、神社の主祭神であるオチノマスミ(越智益躬)の伝承を今に伝えるものであり、今治市においても重要な歴史的・文化的意味を持っています。
一方で、オチノマスミの墓所については諸説あり、現在伝えられている場所が必ずしも実際の墓ではないのではないか、という見方もあります。

鴨部神社の場所は海だった
実は、鴨部神社が創建されたとされる時代、この一帯はまだ海であった可能性があると考えられています。
それを大きく変えたとされるのが、天武13年(684年)10月14日に発生した白鳳地震(南海トラフ巨大地震)です。
震源域は四国から近畿におよび、広範囲にわたって激しい揺れをもたらし、各地で山は崩れ、津波が押し寄せて村々を呑み込みました。
『日本書紀』には、伊予の温泉について、舒明天皇の行幸(639年)、斉明天皇の行幸(661年)、さらに白鳳地震によって湯が出なくなったとする記事(684年)が記されています。
また、「土佐国の田苑五十余万頃、没して海となる」と記されており、高知沿岸では広大な田畑が沈降し、一面の海と化した様子が記録されています。
この大災害の記憶は時代を超えて伝えられ、江戸時代に編まれた郷土史『五社鎮座傳記』(甲把瑞益著)にも引用されるなど、後世においても地域の歴史意識に深く刻まれてきました。
一方で、白鳳地震の影響は沈降だけにとどまらず、場所によっては地殻の隆起として現れたとも考えられています。
今治沿岸、とくに府中平野では隆起が起こったとされ、それまで遠浅の海が広がっていた場所が干潟や砂地へと変わり、やがて陸地化していったと伝えられています。
また、その影響は伊予全体にも及び、684年(天武天皇13年)の白鳳地震の際には、道後温泉の湯が一時止まったことが『日本書紀』に記されています。
一方、オチノマスミ(益躬)が没したと伝わる頃には、舒明天皇と皇后がともに道後温泉へ行幸していた時代であり、温泉はまだ通常通り湧出していました。
このことから、鴨部神社の社殿が建立された場所、少なくともオチノマスミ(益躬)が埋葬されたとされる場所は、当時まだ陸地ではなく、海、あるいは海辺に近い場所であった可能性があります。
そして白鳳地震による地盤隆起によって周辺が陸地化した後、祭礼の場が現在地へ移されたのではないか。
そのようにも考えられているのです。
「樹之本古墳」豪族が眠る“樹下”の古墳
もし、これらの説が事実だとするならば、オチノマスミは一体どこに埋葬されたのでしょうか。
その有力な候補の一つとして考えられているのが、「樹本(きのもと)」の名を持つ朝倉地区に残る古代の墓所「樹之本古墳(きのもとこふん)」です。

樹之本古墳は、巨大な円形の墳丘を持つ古墳「円墳(えんぷん)」です。
朝倉地区に現存する300基以上ともいわれる古墳群の中でも、最古級かつ最大級の規模を誇る重要古墳として知られています。
築造時期は古墳時代中期、およそ5世紀頃。
つまり、ヤマト王権が全国へ勢力を拡大し始めた時代に、この朝倉の地にはすでに巨大古墳を築くほどの強力な豪族勢力が存在していたことになります。
巨大な墳丘を築くには、多くの労働力や高度な土木技術、そして地域を統率できる強大な支配力が必要不可欠でした。
そのため、樹之本古墳に葬られた人物は、単なる地方豪族ではなく、瀬戸内海航路を掌握しながら広い勢力圏を築いていた有力支配者だった可能性が高いと考えられています。
日本の殿堂、東京国立博物館が認めた価値
樹之本古墳の重要性が世に知られるきっかけとなったのは、明治時代の調査でした。
明治41年から42年(1908〜1909年)にかけて発掘調査が実施され、当時の人々を驚かせるような貴重な遺物が次々と姿を現したのです。
その歴史的重要性が認められ、出土品の中には東京・上野の東京国立博物館に収蔵されているものもあります。
- 細線式獣帯鏡(さいせんしきじゅうたいきょう) 直径23.6cmを誇る、極めて大型の青銅鏡です。中国で3世紀頃に製作されたとされるこの鏡が、時を経て5世紀の朝倉に埋葬されていたという事実は、当時の被葬者が大和王権と密接な繋がりを持ち、大陸との外交ルートに関与していた「一級の権力者」であった証拠です。
- 獣帯画像漢式青銅鏡(じゅうたいがぞうかんしきせいどうきょう) 直径24cmにも及ぶ、極めて大型で精巧な青銅鏡です。中国・漢代の高度な工芸技術を取り入れたこの鏡は、当時の「王」の権威を象徴する最高級の持ち物でした。
- 青銅製の刀身・槍身 武力を象徴する青銅製の武器類も出土しており、この地の首長が軍事的な指導力も兼ね備えていたことがうかがえます。
- 貴重な埴輪(はにわ)群 古墳の周囲を飾った埴輪もまた、東博に保管されています。当時の高度な造形技術を今に伝えるこれらの遺物は、被葬者の権威を視覚的に示す、最高級の祭祀用具でした。
「薬師如来像の出土」仏教伝来以前の信仰
そして、樹之本古墳をさらに特別な存在にしているのが、銅製の「薬師如来像」が出土していることです。
これは、日本の歴史を塗り替える可能性を秘めた、極めて異例の発見でした。
通常、日本への仏教伝来は6世紀中頃(538年または552年)とされ、薬師如来信仰が定着するのは7世紀初頭以降のことです。
しかし、樹之本古墳の築造はそれよりも早い5世紀中頃〜後半と推定されています。
また、薬師如来信仰そのものが日本に定着するのは7世紀初頭以降とされ、現存する最古の像は飛鳥時代の遺品に見られ、代表的な例としては、奈良・薬師寺の本尊像(7世紀末〜8世紀初頭)が知られています。
もしこの薬師如来像が古墳築造と同時期に奉納されたものであれば、仏教の公式伝来以前に、すでにこの地に仏教的思想や信仰が根付きはじめていたとも考えられるのです。
さらに、オチノマスミが生前から仏教を深く信じていたという伝承をふまえると、この薬師如来像の出土は、そうした信仰が実際にこの地に根ざしていたことを示す、有力な証拠のひとつとなり得ます。

伝説と謎が交差する「海の王国」
瀬戸内海は、古代日本における“国際航路”でした。
海を通じて、中国や朝鮮半島から最先端の文化や思想が流れ込んでいたとしても不思議ではありません。
多くの古墳群や出土品が物語るように、この朝倉の地は古代伊予における単なる地方の集落ではなく、「海を通じて世界と繋がる先進地域」だったのです。
そして、その中でもその規模と貴重な出土品から、樹之本古墳は古代伊予国を治めた有力豪族の墓であったと考えられており、その人物像はオチノマスミの姿とどこか重なり合うものがあります。
しかし、現在のところ確定的な証拠があるとはいえず、その真相は依然として歴史の闇の中にあるといっても過言ではありません。
また、越智益躬公墳墓の地であるとされるこの地に、本当に墳墓が存在したのか、あるいは人々の畏怖の念から生まれた象徴的な聖地であったのかも謎のままです。
それでも、この二つの地には、それぞれ異なるかたちで、オチノマスミの伝説と謎に包まれた歴史のロマンが、今もこの地に確かに息づいているのです。
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