二つに分かれた名門・河野氏
伊予国(現在の愛媛県)を四百年以上にわたって治めた名門・河野氏。
源平合戦では河野通信が源頼朝に従って武功を挙げ、鎌倉幕府成立後は伊予国最大の御家人として勢力を伸ばしました。
さらに、モンゴル帝国(元)による元寇ではその武名を轟かせ、南北朝時代には一族が北朝方と南朝方に分かれて戦いながらも再び勢力を回復するなど、幾多の戦乱を生き抜いてきました。
そして、武田信玄や上杉謙信、毛利元就、織田信長、羽柴秀吉(豊臣秀吉)など、日本史にその名を刻んだ名だたる戦国大名たちが天下を懸けて覇を競う戦国時代を迎えます。
河野氏もまた、その大きな時代のうねりにのみ込まれ、やがて秀吉の四国攻めによって滅亡の時を迎えることになります。
しかし実は、河野氏の命運を左右する争いは、戦国時代を迎えるはるか以前から始まっており、伊予国は長きにわたる争乱の舞台となっていました。
しかも、その争いの相手は外部の勢力ではありませんでした。
それは、ほかならぬ同じ河野氏一族だったのです。
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「河野宗家」伊予国を統率した河野氏の本流
現在の私たちは、「本家」や「分家」という言葉には馴染みがあります。
しかし、中世の武家社会では、それ以上に重要だったのが「惣領(そうりょう)」という存在でした。
惣領とは、一族全体を統率する当主のことです。
単に最年長者や本家という意味ではなく、一族を代表して幕府や朝廷と交渉し、所領を管理し、有事には軍勢を率いる最高責任者でもありました。
さらに、一族に属する庶流や家臣たちは惣領の指揮に従い、一つの武士団として行動しました。
つまり惣領とは、一族をまとめる「総大将」であり、その存在なくして武士団は成り立たなかったのです。
そのため惣領の座は、単なる家督ではありません。
一族の命運だけでなく、国の政治や軍事を左右するほど重要な地位でした。
河野氏において、この惣領を代々継承してきた本流が「宗家(そうけ)」です。
河野宗家の当主は、室町幕府から伊予守護に任じられ、一族を率いるだけでなく、伊予国全体の軍事・警察・政治を担う立場にありました。
守護職は将軍から任命される幕府の役職であり、河野氏だけで自由に世襲できるものではありませんでした。
そのため河野宗家の家督を継ぐということは、単に河野家の当主になるだけではなく、伊予国を代表する武士として、一族と国の命運を担うことを意味していたのです。
「豫州家」宗家に並び立ったもう一つの河野氏
河野宗家が河野一族の本流として代々惣領を務めていた一方で、河野氏には宗家に並ぶもう一つの有力な家系が存在しました。
それが、河野通之(こうの みちゆき)を祖とする庶流・豫州家(よしゅうけ・予州家)です。
実は、「豫州家」という呼称は後世に定着したもので、室町時代当時から正式に用いられていたわけではありません。
一般には、通之の子孫が代々「伊予守」を称したことに由来すると説明されることがあります。
しかし、実際には通之は「対馬守(つしままもり)」、その子・通元は「民部大輔(みんぶのたいふ)」を称していました。
「対馬守」や「民部大輔」は、朝廷から与えられる官職名(官途名)です。
対馬守は対馬国の国司、民部大輔は戸籍や租税など民政を司る民部省の次官にあたる官名ですが、中世の武士にとっては実際の職務に就くというよりも、家格や格式を示す名誉的な称号として用いられることが一般的でした。
このことから、「豫州家」が代々「伊予守」を称したことに由来するという説には、史実との食い違いがあることも指摘されています。
河野氏分裂のはじまり「二つの正統が生んだ家督争い」
後に「豫州家」と呼ばれることになる河野通之(こうの みちゆき)の家系は、もともと河野宗家を支える有力な庶流の一つでした。
当時、この家系が河野宗家と肩を並べ、一族を二分する存在になるとは、誰も想像していなかったことでしょう。
しかし、第30代当主・河野通義(こうの みちよし)の突然の死をきっかけに、その運命は大きく変わります。
幼くして河野氏を継いだ若き当主・河野通義
応安3年(1370年)、南北朝の戦乱が終息へ向かう中、河野氏では新たな男子が誕生しました。
幼名は亀王丸(かめおうまる)。
後に河野氏第30代当主となり、一族の運命を大きく左右することになる河野通義(こうの みちよし)です。
この頃の河野氏は、長く続いた南北朝の戦乱によって勢力が大きく揺れ動いていました。
父・河野通堯(こうの みちたか)は伊予守護として一族を率いていましたが、康暦元年(1379年)、室町幕府の命を受けて細川頼之討伐へ出陣し、戦いの末に討ち死にしてしまいます。
この時、亀王丸はまだわずか10歳でした。
幼くして父を失った亀王丸は、河野氏の家督を継承し、一族を率いる惣領となります。
翌年には将軍・足利義満から伊予守護職を安堵され、その後元服して「通義」と名乗り、さらに伊予守にも任じられました(『予陽河野盛衰記』では後に「通能」と改名したと伝えられています)。
若き当主となった通義は、一族十八家をまとめ上げ、南北朝の混乱によって弱体化していた河野氏の再建を進めました。
しかし、その歩みは決して長くは続きませんでした。
河野氏最大の危機「当主不在」
応永元年(1394年)、通義は京都で突然病に倒れ、わずか25歳でこの世を去ってしまいます。
しかし、その死は河野氏に大きな危機をもたらしました。
通義には、まだ成人した男子の後継者がいなかったのです。
とはいえ、通義の妻はすでに身重でした。
もし生まれてくる子が男子であれば、その子こそが河野宗家を継ぐ正統な後継者となります。
しかし、その子が誕生し、成人して家督を継げるようになるまでには十数年もの歳月が必要でした。
その間、一族を統率する惣領が不在となれば、河野氏は混乱し、伊予守護としての地位さえ失いかねません。
まさに一族の命運が懸かった重大な局面だったのです。
そこで通義は、死に際して実弟・河野通之(こうの みちゆき)へ後事を託しました。
『予陽河野盛衰記』によれば、通義は「妻の胎内の子が男子であれば、その子を家嫡として家名を継がせよ」と遺言を残したと伝えられています。
つまり、通之へ家督を譲ったのではありません。
あくまでも、生まれてくる嫡男が成長して家督を継ぐまでの間、一時的に河野氏を預かるよう託したのです。
河野通之が守った兄の遺言
通之は兄・通義の遺志を受け継ぎ、河野氏の惣領として一族を率いました。
やがて通義の遺児は無事に男子として誕生します。
その子が、後の第31代当主・河野通久(こうの みちひさ)です。
通久が成長すると、通之は兄との約束どおり家督を返上し、惣領の地位を通久へ譲りました。
兄との約束は守られ、河野氏の家督は本来あるべき嫡流へ戻されたのです。
この出来事だけを見れば、一族は危機を乗り越え、円満な家督継承が実現したように思えます。
しかし、その決断を複雑な思いで見つめていた人物がいました。
通之の嫡男・河野通元(こうの みちもと)です。
河野通元が抱いた「もう一つの正統性」
通元から見れば、父・通之は単なる後見役ではありませんでした。
通之は長年にわたり河野氏の惣領として一族を率い、伊予守護として国を治めてきた正式な当主だったのです。
そのため、惣領の地位は父から子へ受け継がれるべきであり、自らにも家督を継ぐ資格があると考えたとしても、不思議ではありませんでした。
一方、通久にも揺るぎない正統性がありました。
通久は先代当主・通義の嫡男であり、生まれる前から父によって後継者と定められていた人物です。
つまり、通元は「現当主・通之の嫡男」として、通久は「先代当主・通義の嫡男」として、それぞれが河野氏の家督を継ぐ正当な理由を持っていたのです。
この争いには、単純な善悪では語れない難しさがありました。
どちらにも正統性があり、どちらにも一理があったのです。
二つの正統が生まれた瞬間
通之が存命中は、その威望によって対立が表面化することはありませんでした。
しかし、通之が亡くなると状況は一変します。
通元は通久に対して反旗を翻し、河野氏の家督をめぐる争いが本格化しました。
やがて伊予国内の重臣や国人領主、さらには寺社までもが、それぞれ通久と通元のどちらを支持するか選択を迫られるようになります。
では、なぜ河野氏の家督争いは、これほど長く続く大乱へ発展したのでしょうか。
その背景には、当時の武家社会そのものが大きな転換期を迎えていたことがありました。
室町時代になると、有力武家では、それまで兄弟や一族で所領を分け合うことも少なくなかった相続制度から、嫡男一人が家督を継ぐ「嫡子単独相続」が次第に定着していきます。
その結果、家督を継ぐ嫡流と、それ以外の庶流との間には、それまで以上に大きな立場の差が生まれました。
家督を継げなければ、一族の中心的地位だけでなく、所領や家臣団、さらには将来の権力までも失うことになります。
そのため、家督争いは一族の存亡を左右する重大問題となっていったのです。
さらに、河野氏の場合、この争いは単なる家督相続では終わりませんでした。
河野宗家の当主は伊予守護を兼ねていたため、この争いは「誰が河野家の当主になるのか」という問題であると同時に、「誰が伊予国を代表する武士となり、一族と国の命運を担うのか」という政治問題でもありました。
当然ながら、室町幕府もこの問題を看過することはできませんでした。
そして、この家督争いをさらに複雑にしたのが、河野氏に従う重臣や国人領主たちの存在です。
彼らは、単純に嫡流だからという理由だけで支持する相手を決めていたわけではありません。
当時の武士たちは、血筋だけではなく、一族を率い、国を治め、家臣をまとめ上げるだけの力量や統率力を備えた人物こそ当主にふさわしいと考えていました。
そのため、正統な後継者である通久を支持する者がいる一方で、長年にわたり河野氏を支えてきた通之の嫡男・通元こそが惣領にふさわしいと考える者も少なくありませんでした。
重臣や国人領主たちは、それぞれの利害や政治的立場だけでなく、「誰なら河野氏を率いていけるのか」という視点からも支持する勢力を選び、一族は次第に二つへと分裂していったのです。
こうして始まった家督争いは、一族の内紛という枠を超え、家臣団や国人領主、寺社、さらには室町幕府までを巻き込む伊予国最大の政治問題へと発展しました。
実際、この頃には通久と通元の双方が、それぞれ独自に所領安堵状を発給していたことが史料から分かっています。
本来、一族の惣領だけが行うことのできる権限を、双方がそれぞれ行使していたのです。
また、永享2年(1430年)の『大徳寺文書』には、当時の伊予国の混乱が「国中錯乱」と記され、翌年の『満済准后日記』には、河野通久が幕府の命を受けて九州へ出陣しようとした際、通元が幕府へ訴訟を起こし、家督問題が紛糾していたことが記されています。
これらの史料から、この頃には河野氏の家督争いが、もはや一族内部の問題ではなく、室町幕府も介入せざるを得ない政治問題へ発展していたことがわかります。
そして、この対立は通久と通元の代では終わりませんでした。
その子の世代である河野教通(こうの のりみち)と河野通春(こうの みちはる)の代になると、争いはさらに激化します。
「河野教通」河野宗家を率いた河野氏
通久の後を継ぎ、河野宗家の第32代当主となったのが、河野教通(こうの のりみち)です。
教通は、河野通義から通久へと受け継がれてきた宗家の正統な後継者であり、河野氏惣領として一族を統率する立場にありました。
さらに、室町幕府から伊予守護に任じられ、伊予国を代表する武家として国の政治と軍事を担う最高責任者でもありました。
しかし、その歩みは決して平穏ではありませんでした。
父・通久は幕府の命を受けて九州へ出陣し、永享7年(1435年)、豊後国姫嶽城で討ち死にします。
教通は若くして家督を継ぎましたが、その頃には祖父・通義の死をきっかけに始まった家督争いが、父・通久の代になっても解決しないまま続いていました。
通之の子・通元の系統も、自らこそ河野氏の正統な後継者であると主張し続けていたのです。
つまり教通が受け継いだのは、伊予守護の地位だけではありません。
祖父の代から続く、一族を二分する長年の対立そのものでした。
それでも室町幕府は、通義から通久へと受け継がれてきた河野宗家を正統な惣領と認め、教通を一貫して支持していました。
しかし、その一方で、父・通元の意思を受け継ぎ、宗家に対抗する勢力を急速に拡大していた人物がいました。
それが、通元の子・河野通春(こうの みちはる)です。
「河野通春」豫州家を率いた河野氏
河野通春は、河野通之の孫、通元の子として生まれました。
祖父・通之は兄・河野通義の急死に際し、一時的に河野氏の惣領を務めた人物であり、父・通元は、その家督が通義の嫡男・通久へ返還されたことに強く反発して宗家との対立を深めました。
通春は、その父の意思を受け継ぎ、自らの家系こそ河野氏の正統な後継者であるとの立場を貫きます。
やがて宗家に不満を抱く重臣や国人領主が次々と通春のもとへ集まり、その勢力は宗家に匹敵するほどまでに成長していきました。
後に「豫州家」と呼ばれるこの家系は、もはや単なる庶流ではありません。
河野宗家と並び立つもう一つの河野氏として、伊予国の政治を左右する一大勢力となっていったのです。
二つの河野氏が向かい合った城「湯築城と港山城」
宗家と豫州家の対立は、単なる家督争いではありませんでした。
両者はそれぞれ独自の本拠を構え、家臣団を率いて伊予国内に勢力を築いていました。
河野宗家の本拠となったのが、現在の松山市道後公園に残る湯築城です。

湯築城は伊予守護・河野氏の居城として、政治・軍事・外交の中心を担う城でした。
一方、豫州家の河野通春は、現在の松山市港山町付近にあった港山城(湊山城)を本拠としたと伝えられています。

港山城は、三津の内湾と宮前川河口を見下ろす天然の良港を押さえる要害であり、瀬戸内海を行き交う船を監視できる、水軍の拠点として極めて重要な城でした。
応仁年間には通春の居城となり、宗家との抗争の中心舞台となります。文明14年(1482年)に通春が没すると、宗家の攻撃を受けて落城し、その後は河野宗家の支配下に入りました。
以後、港山城には河野氏直属の水軍である「湊山衆」が置かれ、忽那氏らがこれを統率します。大友氏や毛利氏が伊予へ侵攻した際には、瀬戸内海防衛の最前線として重要な役割を果たしました。
宗家の湯築城と、豫州家の港山城との距離は、およそ7kmしかありません。
わずか数キロを隔てて、二つの河野氏がそれぞれ城を構え、一族同士が対峙していたのです。
教通は湯築城から伊予守護として国を統治しようとし、通春は港山城を拠点に水軍や海上勢力を味方につけて宗家へ対抗しました。
この二つの城の存在は、河野氏の家督争いが単なる相続争いではなく、伊予国の政治・軍事・海上支配をめぐる内戦へ発展していたことを象徴しているのです。
「伊予を越えた大乱へ」宗家と豫州家の全面対決
宗家と豫州家は、それぞれ湯築城と港山城を本拠に勢力を築き、伊予国内で緊張状態を保っていました。
両者は互いに勢力を拡大しながら対立を続けていたものの、この時点ではまだ全面的な武力衝突には至っていませんでした。
しかし、その均衡を破る出来事が起こります。
嘉吉の乱が引き金となった宗家と豫州家の最初の激突
嘉吉元年(1441年)、室町幕府では日本の歴史を大きく変える事件が起こりました。
第6代将軍・足利義教(あしかが よしのり)が、播磨国の守護大名・赤松満祐(あかまつ みつすけ)の館で暗殺された「嘉吉の乱(かきつのらん)」です。
足利義教は、くじ引きによって将軍に選ばれた異例の人物でした。
当時のくじ引きは神意を問う神聖な儀式と考えられていましたが、将軍となった義教は、自らを「神に選ばれた存在」と強く意識し、将軍権力の強化を進めます。
公家や寺社、有力守護大名に対しても容赦なく処罰を加えるその苛烈な政治は、「万人恐怖」とまで恐れられました。
やがて、自らも将軍から討たれるのではないかという危機感を抱いた赤松満祐は、ついに将軍暗殺という前代未聞の行動へ踏み切ります。
将軍が家臣の手によって討たれたという事件は、室町幕府の権威を大きく揺るがしました。
幕府は直ちに赤松氏討伐軍を編成しましたが、守護大名たちの動きは鈍く、討伐は混乱の中で進められます。
この事件を境に幕府の統制力は次第に弱まり、やがて応仁の乱、さらには戦国時代へと続く時代の転換点になったとも評価されています。
こうした全国的な混乱は、伊予国にも大きな影響を及ぼしました。
当時、伊予守護を務めていた河野教通(こうの のりみち)は、幕府の命を受けて赤松氏討伐軍へ加わります。
一方、豫州家の河野通春(こうの みちはる)も参陣する立場にありましたが、その対応をめぐって幕府から問題視されました。
教通はこれを契機として通春討伐へ乗り出します。
もっとも、多くの研究者は、これはあくまで討伐の名目にすぎず、実際には以前から続いていた宗家と豫州家の対立が、この全国的混乱を機に一気に表面化したものと考えています。
こうして、通久と通元の代から続いていた家督争いは、ついに武力衝突へと発展しました。
河野氏の内紛は、一族内部の相続争いではなく、伊予国全体を巻き込む本格的な内乱へと姿を変えていったのです。
室町幕府は河野宗家を支持した
嘉吉の乱を契機として宗家と豫州家の対立が武力衝突へ発展すると、室町幕府は一貫して河野宗家の当主・河野教通を支持しました。
教通は幕府から正式に伊予守護へ任じられた人物であり、幕府が認める河野氏の正統な惣領でもありました。
もし教通を見放せば、将軍が任命した守護の権威そのものが揺らぎかねません。
そのため幕府は、教通に豫州家・河野通春の討伐を命じるとともに、中国地方の有力守護にも援軍の派遣を命じました。
このように河野氏の家督争いは、もはや伊予国内の一族内部の問題ではありませんでした。
将軍が任命した守護の権威を守るという、室町幕府の政治そのものに関わる重大な問題へと発展していたのです。
幕府の援軍でも崩れなかった豫州家
文安元年(1444年)、室町幕府は教通を支援するため、安芸国の有力守護・小早川氏へ援軍の派遣を命じました。
しかし、一度の援軍では戦況を覆すことはできませんでした。
豫州家・河野通春の勢力は幕府の予想以上に強大であり、伊予国内では依然として宗家と互角に渡り合っていたのです。
そのため幕府は、その後も教通支援の手を緩めることはありませんでした。
宝徳2年(1450年)には吉川経信(きっかわ つねのぶ)や小早川氏当主・小早川盛景(こばやかわ もりかげ)へ伊予への渡海を命じ、翌宝徳3年(1451年)にも杉原伯耆守や小早川氏らへ再び出陣を督促しています。
これほど繰り返し援軍が派遣されたことは、室町幕府が河野氏の内紛を単なる地方の争いではなく、将軍権威にも関わる重大な政治問題として捉えていたことを物語っています。
こうした幕府の全面的な支援を受けた教通は、重見氏・森山氏・大野氏ら伊予国内の有力国人とも連携し、通春方の城郭二十余か所を攻略したと伝えられています。
さらに教通は、小早川盛景らの戦功を幕府へ詳細に報告するなど、宗家と幕府、中国地方の守護勢力との結び付きは一層強固なものとなっていきました。
また、宇和・喜多両郡では重見氏を中心に大野氏・森山氏らが宗家方として結束し、教通を支える体制も整えられていきます。
しかし、それでも戦いは終わりませんでした。
通春のもとにも伊予国内の多くの国人領主や水軍勢力が従っており、その勢力は容易に崩れることはなかったのです。
幕府が幾度となく援軍を送り込んでもなお、豫州家に決定打を与えることはできず、伊予国内では宗家と豫州家がほぼ拮抗した状態が続きました。
戦局が一変した細川勝元の介入
この長く続く内乱の流れを大きく変えた人物が、後に室町幕府の実力者となる管領・細川勝元(ほそかわ かつもと)でした。
細川勝元は細川氏宗家の当主であり、室町幕府で三度にわたり管領を務めた幕府屈指の実力者です。摂津・丹波・讃岐・土佐などの守護を兼ね、将軍を補佐しながら幕政を主導した人物として知られています。後に応仁の乱では東軍総大将として山名宗全と天下を二分する戦いを繰り広げることになります。
当初、室町幕府は一貫して教通を正統な惣領として支援し続けていました。
ところが享徳2年(1453年)頃になると、勝元は従来の幕府方針とは異なる動きを見せ始めます。
勝元は将軍・足利義政の意向とは異なる形で河野教通を守護職から外し、通春を伊予守護に据えました。
しかし、この任命は勝元の独断によるものだったとされ、問題が発覚すると義政から厳しく叱責され、一時は管領辞任を申し出る事態にまで発展しています。
その理由を明確に示す史料は残されていません。
しかし、多くの研究では、伊予国を細川氏の影響下に置くため、宗家と豫州家を競わせながら河野氏全体を掌握しようとした可能性が指摘されています。
さらに、瀬戸内海の海上交通や日明貿易をめぐる利権も、その背景にあったと考えられています。
瀬戸内海は西日本の物流と外交を支える大動脈であり、その中心に位置する伊予国を押さえることは、細川氏にとって極めて重要な意味を持っていました。
勝元の支持を受けた通春は、一時は伊予守護職に任じられ、豫州家は河野宗家をしのぐほどの勢力を築くまでになります。
しかし、通春は細川氏の意のままに動く人物ではありませんでした。
伊予国内で独自の勢力を維持し、河野氏の当主として自立した立場を貫こうとしたため、両者の関係は次第に悪化していきます。
やがて勝元は通春への支援を打ち切り、自らの一族である細川賢氏(ほそかわ かたうじ)を伊予守護に任じて、通春討伐へと方針を転換しました。
これにより河野氏の家督争いは、新たな局面を迎えます。
河野氏の内紛が西日本の覇権争いへ
細川氏という大きな後ろ盾を失った豫州家・河野通春が、新たな支援者として迎えたのが、周防・長門を本拠とする西国屈指の大名・大内氏でした。
当時、室町幕府は管領・細川勝元を中心に河野宗家を支援していました。
寛正5年(1464年)、阿波・讃岐に勢力を持つ細川氏の軍勢が通春と衝突すると、幕府は細川氏を援護するため、周防・長門の守護大名・大内教弘(おおうち のりひろ)に出兵を命じます。
しかし、教弘は幕府の命には従わず、あえて通春を支援する道を選びました。
教弘は翌寛正6年(1465年)、通春を救援するため自ら大軍を率いて伊予へ向かいましたが、途中で病に倒れ、興居島(現在の愛媛県松山市)でその生涯を閉じます。
その遺志を継いだのが、第15代当主・大内政弘(おおうち まさひろ)でした。
政弘は周防・長門・安芸・石見・豊前・筑前の六か国の守護を兼ねる西日本屈指の大名となり、父の路線を受け継いで細川氏と対峙していきます。
一見すると、伊予国の一族内の家督争いに、大内氏ほどの巨大勢力が深く関わる理由はないようにも思えます。
しかし、その背景には、瀬戸内海の制海権と日明貿易の主導権をめぐる、細川氏と大内氏の激しい対立がありました。
当時、大内氏は博多を拠点に明との貿易を積極的に展開し、西日本屈指の経済力を築いていました。
その繁栄を支えるためには、遣明船が安全に往来できる瀬戸内海の航路を確保することが不可欠でした。
一方、室町幕府の管領である細川勝元も、堺商人と結びながら瀬戸内海への影響力を強め、日明貿易の主導権を握ろうとしていました。
つまり、細川氏と大内氏の対立は、単なる大名同士の勢力争いではなく、西日本の海上交通と国際貿易を支配するための覇権争いでもあったのです。
その要衝に位置していたのが伊予国でした。
芸予諸島を擁する伊予には、後に「村上水軍」として知られる強力な海上勢力が存在し、瀬戸内海の航路を押さえる重要な地域でした。
この伊予を味方につけることは、瀬戸内海の制海権を握ることに直結していたのです。
大内氏にとって、宗家と対立する通春を支援することは、細川氏の勢力拡大を食い止めるだけでなく、将来的に芸予諸島の海上勢力を自らの影響下へ取り込む絶好の機会でもありました。
こうして河野宗家と豫州家の家督争いは、一族の内紛という枠を超え、室町幕府・細川氏・大内氏という西日本を代表する巨大勢力の思惑が交錯する広域戦争へと発展していったのです。
応仁の乱がもたらした宗家の復権
応仁元年(1467年)、京都で応仁の乱が勃発すると、河野氏の内紛は、一族の家督争いという枠を超え、全国規模の戦乱へと組み込まれていきました。
この戦いは、将軍家や有力守護家の後継者争いをきっかけとして始まり、東軍の細川勝元と西軍の山名宗全が激突した、日本史上最大級の内乱です。
宗家の河野教通は東軍を率いる細川勝元に従い、室町幕府方として戦いました。
一方、豫州家の河野通春は、後ろ盾である大内政弘とともに西軍へ加わり、京都へ出陣します。
大内政弘は応仁元年六月、長門国の忌宮神社で戦勝祈願を行った後、およそ二万五千の大軍を率いて上洛しました。
備中下津井で細川方を破ると、八月には京都へ入り、西軍の主力として十一年にわたり畿内各地を転戦します。
河野氏の家督争いは、もはや伊予国だけの問題ではありませんでした。
宗家は東軍、豫州家は西軍という構図となり、河野氏の内紛そのものが応仁の乱の一部となっていったのです。
しかし、十一年にも及ぶ長期戦は、東西両軍に深刻な疲弊をもたらしました。
京都では市街地の大半が焼失し、戦火は畿内だけでなく全国へ広がっていきます。
一方、政弘が京都で戦い続ける間、細川方は大内氏の本国への攻勢を強めました。
九州では少弐氏や大友氏が侵攻し、さらに文明2年(1470年)には叔父・大内教幸が反乱を起こすなど、大内氏は領国そのものが揺らぐ危機に直面します。
それでも政弘は京都を離れず、西軍の中心として戦い続けました。
領国は重臣・陶弘護らが守り抜き、大内氏は辛うじてその勢力を維持することに成功します。
その頃、伊予では教通が宗家を支持する国人領主との結び付きを強め、徐々に勢力を回復していました。
一方の通春も大内氏の支援を受けて抵抗を続けましたが、長年に及ぶ戦乱によって双方とも疲弊し、決定的な勝利を得ることはできませんでした。
そして文明9年(1477年)、十一年に及んだ応仁の乱は終結し、大内政弘も山口へ帰国します。
教通は東軍方としての功績を認められ、再び伊予守護としての地位を確かなものにしました。
一時は豫州家へ移っていた守護職も再び宗家へ戻り、河野氏の主導権は宗家へ帰ることになります。
これは河野宗家にとって大きな勝利でした。
しかし、その代償はあまりにも大きなものでした。
約九十年に及んだ宗家と豫州家の対立は、一族の結束を大きく損ない、伊予国内の国人領主たちは次第に独自の勢力を強めていきます。
さらに、細川氏や大内氏といった巨大勢力が繰り返し伊予へ介入したことで、河野氏はもはや一国を以前のように強固に統率できる存在ではなくなっていました。
応仁の乱は終わりましたが、河野氏の内紛は真の意味で終結したわけではありません。
この長きにわたる内乱が残した亀裂は、やがて戦国時代における河野氏衰退の大きな要因となっていくのです。
「戦国時代の伊予」再燃した宗家と豫州家の対立
戦国時代に入ると、伊予国は西日本の有力戦国大名たちが覇権を争う最前線となっていきました。
瀬戸内海の中央に位置する伊予は、芸予諸島を押さえる交通・軍事・物流の要衝であり、能島・来島・因島の村上水軍が活動する海上交通の中心地でもありました。
伊予を支配することは、瀬戸内海の制海権や日明貿易にも大きな影響を及ぼすことから、大内氏、毛利氏、大友氏、そして後には四国統一を目指す長宗我部氏など、西日本の有力大名が次々と伊予へ介入するようになります。
河野氏は村上水軍や各地の国人領主と協力しながら国を守ろうとしましたが、相次ぐ外敵との戦いに加え、一族内部の対立という長年の火種も抱え続けていました。
そんな中で、河野氏は深刻な後継者問題に直面します。
河野氏の家督争い「天文伊予の乱(来島騒動)」
享禄年間(1528〜1532年)、伊予国守護・河野氏宗家の当主・河野通直(こうの みちなお)は、正室との間に男子を授かることができませんでした。
河野宗家に後継者がいないという事態は、一族や重臣たちに大きな不安を与えます。
家臣たちの多くは、宗家と同じ河野氏の血を引き、長年にわたって宗家と家督を争ってきた豫州家の惣領・河野通政(こうの みちまさ)こそが最もふさわしい後継者であると考え、通直へその擁立を進言しました。
しかし、通直は家臣たちの予想とは異なる決断を下します。
河野通直は、来島を本拠とする村上水軍三家の一つ・来島村上氏の当主であり、来島城主として河野氏水軍を率いる瀬戸内屈指の海上武将・村上通康(むらかみ みちやす・来島通康)を後継者に指名したのです。
通康は河野氏の重臣として厚い信頼を受けており、通直は自らの娘を嫁がせて姻戚関係を結ぶほど、その力量を高く評価しており、本拠・湯築城へ迎え入れて政務を任せるようにりました。
しかし、この事は一部の重臣たちの強い反発を招きました。
「河野氏の家督は河野氏の血を引く者が継ぐべきである」と主張した重臣たちは、豫州家の河野通政を中心に結束し、神仏へ忠誠を誓う起請文(きしょうもん)を交わして盟約を結ぶと、ついに兵を挙げました。
これが、後に「天文伊予の乱(来島騒動)」と呼ばれる河野氏最大の戦国内乱です。
「湯築城包囲戦」来島通康、決死の脱出
あっという間に、湯築城は豫州家の軍勢によって完全に包囲されました。
城内で通直に従った者は少なく、防衛の中心となったのは娘婿・村上通康と、その家臣団だったと伝えられています。
通康は河野氏水軍を率いる瀬戸内屈指の武将でしたが、多勢に無勢の状況を覆すことは容易ではなく、河野通直は自害を覚悟したともいわれています。
しかし、それを必死に思いとどまらせたのが村上通康でした。
通康は幼い通直の子を背負い、自ら先頭に立って敵中突破を敢行し、激しい戦いの末、家臣たちとともに湯築城を脱出して、本拠である来島城へと退きました。
その後、湯築城を掌握した通政は、来島城への攻撃を開始します。
しかし、来島城は来島という島そのものを要塞化して築かれた海城であり、周囲には日本三大急潮の一つとして知られる来島海峡の激しい潮流が流れる、天然の要害でした。
さらに、代々この海域を本拠としてきた来島村上氏は、潮流を巧みに利用しながら本土との補給路を維持していたため、通政方は決定的な攻撃を加えることができず、戦いは膠着状態に陥ったのです。

大友義鑑の仲裁と河野晴通の誕生
戦いが長引き、河野氏そのものが疲弊していく中、その仲裁に乗り出したのが豊後国の戦国大名・大友義鑑(おおとも よしあき)でした。
室町幕府もこの対立を憂慮し、大友義鑑に両者を和解させるよう命じています。
度重なる交渉の末、宗家と豫州家は和睦し、河野氏の家督は通政が継承することで決着しました。
その後、通政は将軍・足利義晴から偏諱を受け、「河野晴通(こうの はるみち)」と名乗ります。
一方、村上通康は後継者の座こそ退いたものの、その忠節は高く評価されました。
和睦後も河野氏一族としての立場を認められ、「折敷に三文字」の家紋の使用と、「越智」姓を名乗ることを許されるという特別な待遇を受けたのです。
河野晴通による河野氏再統一
こうして天文伊予の乱(来島騒動)の後、河野氏の当主となった河野晴通は、宗家と豫州家に分かれていた河野氏を再びまとめようと尽力しました。
しかし、約一世紀に及んだ内紛によって生じた対立は根深く、一度の和睦によって完全に解消されたわけではありませんでした。
重臣や国人領主の間にもなお対立の火種が残り、河野氏の統治は決して盤石とはいえない状況が続きます。
さらに戦国時代が進むにつれ、西国では大内義隆、毛利元就、大友宗麟ら有力戦国大名が勢力を拡大し、伊予国もその影響を強く受けるようになりました。
晴通は国内の統一を進める一方で、こうした外部勢力との外交や軍事対応にも追われることとなったのです。
河野宗家への家督返還
天文23年(1554年)、河野晴通は病によりこの世を去ります。
男子に恵まれなかった晴通は、生前に河野通直を養子として迎えていました。
この通直こそ、かつて天文伊予の乱で湯築城を脱出し、村上通康によって命を救われた河野宗家の人物でした。
こうして河野氏の家督は、再び宗家へ戻ることになります。
一度は豫州家へ移った家督が、再び宗家へ返されたのです。
この継承によって、河野氏は形式上、宗家を中心とする体制へ戻りました。
しかし、それは過去の対立が完全に消え去ったことを意味するものではありませんでした。
さらに、その頃には河野氏を取り巻く戦国の勢力図そのものが、大きく変わり始めていたのです。
中国地方では毛利氏が急速に勢力を伸ばし、畿内では織田信長が天下統一へ向けて勢力を拡大するなど、戦国の情勢は大きく変化していきました。
河野氏もまた、長年の内紛によって国力を消耗し、毛利氏の軍事的支援なくしては、独立した戦国大名として国を維持することが難しい状況となっていました。
来島村上氏、秀吉を選ぶ
こうした情勢の中、来島村上氏の当主となったのが、村上通康の子・来島通総(くるしま みちふさ)です。
通総が当主となった頃には、中国地方では毛利氏、畿内では織田信長、四国では長宗我部元親が勢力を競い合い、瀬戸内海をめぐる情勢は大きく揺れ動いていました。
このような複雑に入り組んだ戦国情勢の中、来島村上氏もまた、一族の将来を左右する大きな決断を迫られることになります。
そして天正9年(1581年)、通総はついに河野氏との長年にわたる主従関係に終止符を打ち、羽柴秀吉との同盟を選択しました。
この決断の背景には、天文伊予の乱で豫州家と敵対し、来島城を攻められたことや、父・通康が河野宗家を救い、その後継者として期待されながらも河野氏の家督を継ぐことがかなわなかったことも、一つの要因となったのかもしれません。
この決断によって、来島村上氏は村上水軍三家の中で唯一、毛利氏・河野氏と袂を分かつことになります。
一方、能島村上氏・因島村上氏は引き続き毛利氏に従い、河野氏を支える道を選びました。
こうして、かつて瀬戸内海を席巻した村上水軍は三家が異なる勢力へ分かれ、その結束は大きく揺らぐこととなったのです。
「来島城陥落」裏切りの代償
来島村上氏の離反は、河野氏の軍事力を弱体化させただけでなく、毛利氏と河野氏が長年築き上げてきた瀬戸内海の海上統治体制を大きく揺るがす出来事となりました。
当然ながら、この離反を毛利氏が見過ごすことはありませんでした。
当時、毛利氏は瀬戸内海の制海権を維持するうえで村上水軍を極めて重要な戦力としており、その一角を担う来島村上氏の離反は、海上支配そのものを揺るがしかねない重大な問題だったのです。
毛利氏は河野氏と連携し、さらに能島村上氏・因島村上氏もこれに加わって来島城への攻撃を開始しました。
こうして、かつて同じ村上水軍として瀬戸内海を支配していた三家は、互いに敵味方へ分かれて戦うこととなります。
海と陸の双方から激しい攻撃を受けた来島城は、もはや持ちこたえることができませんでした。
通総は、一族を滅ぼすことだけは避けるため、来島城を放棄する決断を下します。
そして毛利・河野連合軍の包囲網を突破し、命からがら羽柴秀吉のもとへ落ち延びたのです。
この脱出によって来島村上氏は本拠・来島を失いましたが、一族そのものは存続し、後に秀吉の家臣として新たな道を歩むことになります。

天下統一へ動き出した羽柴秀吉
天正10年(1582年)、本能寺の変によって織田信長が明智光秀に討たれると、信長が進めていた四国攻略は一時中断されました。
しかし、羽柴秀吉は山崎の戦いで明智光秀を討ち、さらに賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破るなど、織田家中の実権を掌握して天下統一への歩みを加速させます。
一方、西日本では中国地方を支配する毛利氏と、四国統一を目前に控えた土佐の長宗我部元親が、それぞれ大きな勢力を築いていました。
当時の河野氏は、長年の内紛によって国力が衰え、独力で国を守ることが難しい状況にありました。そのため毛利氏と結んでその軍事的支援を受け、伊予国を維持していました。
しかし、織田方へ転じた来島村上氏の離反や、中国地方で秀吉軍との戦いが激化したことで、毛利氏は河野氏を十分に支援する余力を失っていきます。
その間に長宗我部元親は伊予への侵攻を強め、四国統一まであと一歩というところまで勢力を拡大しました。
秀吉は、長宗我部氏による四国統一を認めれば、西国支配そのものが脅かされると判断します。
さらに、中国地方を平定したのち、西日本を完全に掌握するためには四国の制圧が不可欠でした。
「秀吉の四国攻め」毛利氏の支援を失った河野氏
天正13年(1585年)、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は、小早川隆景、黒田官兵衛、宇喜多秀家らを総大将とする十万ともいわれる大軍を四国へ送り込み、四国攻めを開始しました。
この軍には、かつて河野氏から離反した来島村上氏も秀吉方の一員として加わり、長年主従関係にあった河野氏と敵味方に分かれて戦うことになります。
当時の河野氏は、すでにかつてのような毛利氏の支援を受けられる状況ではありませんでした。
中国地方では羽柴秀吉による中国攻めが進み、毛利氏は本国の防衛に兵力を集中せざるを得なくなります。
さらに本能寺の変後、毛利氏は秀吉と和睦し、その後は豊臣政権に従属したため、河野氏へ十分な援軍を送ることができなくなっていました。
こうして最大の後ろ盾を失った河野氏は孤立し、もはや独力で豊臣軍の大軍に対抗することは不可能な状況となっていたのです。
小早川隆景の説得と湯築城開城
四国各地で戦いが繰り広げられる中、土佐の長宗我部元親は降伏し、四国の勢力図は大きく塗り替えられます。
やがて伊予国にも秀吉方の大軍が押し寄せ、本拠・湯築城は完全に包囲されました。
しかし、もはや援軍を望むこともできず、河野氏に勝機は残されていませんでした。
そこで小早川隆景は、河野通直に対して無益な戦いを避けるよう説得します。
四国攻めで伊予方面軍を率いた小早川隆景は、毛利元就の三男で、「毛利両川」の一人として毛利氏を支えた名将でした。
永禄10年(1567年)には河野氏を援けるため伊予へ出兵したほか、来島通康に養女を嫁がせるなど、河野氏・来島村上氏の双方と深い関係を築いていた旧知の間柄でもありました。
通直は、旧知の隆景からの申し入れを受け入れ、湯築城を開城します。
故郷・伊予国へ帰ることなく迎えた河野氏の終焉
開城後、河野通直は自らの館で静かに暮らしながら、秀吉の裁定によって河野氏再興の道が開かれることを願っていました。
しかし、四国平定後、秀吉は論功行賞によって伊予国三十五万石を小早川隆景に与えました。
これにより、河野氏が再び伊予国を治める望みは絶たれることになります。
それでも隆景は、旧主である河野氏を見捨てることはありませんでした。
隆景は、若き日に竹原小早川家の家督を継ぎ、小早川氏当主として歩み始めたゆかりの地・安芸国竹原(現在の広島県竹原市)へ河野通直を迎え入れます。
この地で通直は、いつの日か河野氏再興の日が訪れることを願いながら余生を送りました。
しかし、その願いが叶うことはありませんでした。
天正15年(1587年)、河野通直は竹原で跡継ぎのないままこの世を去ります。
その後も河野氏の遺臣たちは再興を諦めることなく機会をうかがいましたが、豊臣秀吉がそれを認めることはありませんでした。
こうして、伊予国を代表する名族として続いてきた河野氏は、大名としての歴史に静かに幕を下ろしたのです。
約九十年の内乱が刻んだ伊予の歴史
約九十年に及んだ河野宗家と豫州家の対立は、河野氏だけでなく、中世伊予の歴史を大きく変えました。
もし、あのとき宗家と豫州家が争うことなく力を合わせていたなら、伊予の歴史は違ったものになっていたのかもしれません。
その答えを知ることはできません。
しかし、この激動の時代を今に伝える史跡や伝承は、今も伊予の各地に静かに残されています。
その舞台となった湯築城や港山城、そして愛媛県内の各地には、今もなお当時を物語る史跡や伝承が数多く残されています。
実際にその場所に立ち、約五百年前、この地で河野宗家と豫州家の武将たちが一族の命運を懸けて戦った歴史に思いを馳せてみてください。
きっと、見慣れた伊予の風景が、これまでとは違った歴史の表情を見せてくれることでしょう。