国家存亡の危機を乗り越え、伊予の武士団が伝えた三島信仰
愛媛県今治市・大三島に鎮座する大山祇神社は、伊予国一宮・日本総鎮守として古代より信仰を集めてきた由緒ある神社です。
山と海の恵みをもたらす神として、また武運・航海・五穀豊穣を司る守護神として、武士や水軍、農漁民などあらゆる人々の信仰の中心であり続けました。

その大山祇神を奉じる「三島信仰」は、伊予の地に深く根ざし、特に今治地域を中心に多くの三島神社(三嶋神社)が創建されました。
諸島部を除く今治市だけでも、以下のように三島信仰に関わる神社が点在しています。
- 三島神社・旦(今治市・桜井地区)
- 三島神社・登畑(今治市・桜井地区)
- 三島神社・新谷(今治市・清水地区)
- 三島神社・四村(今治市・清水地区)
- 三嶋神社・祇園神社(今治市・立花・鳥生地区)
- 三島神社・郷本(今治市・立花・鳥生地区)
- 三島神社・小泉(今治市・日高地区)
- 三島神社・馬越(今治市・日高地区)
- 大山積神社・石井町(今治市・近見地区)
- 大山積神社・別所(今治市・玉川地区)
- 別宮大山祇神社(今治市・今治中央地区)
さらに、その他の神社において境内社として合祀されている例も多く、伊予では三島信仰が広く根づいています、
三島信仰は、伊予にとどまることなく、西国から東国へと広がり、全国各地でその信仰が受け継がれています。
東京・台東区に点在する3つの三島神社「本社三島神社」「元三島神社」「三島神社(下谷)」もまた、その流れの中で誕生し、地域の人々の暮らしとともに歴史を歩んでいます。
愛媛県、そして今治市。
大都会・東京23区、その一角をなす台東区。
距離も風土も異なるこの二つの土地ですが、歴史をたどれば、両者は確かな縁によって結びついているのです。
人類史上最大最強の帝国「モンゴル帝国」
その歴史の始まりは、国家滅亡の危機とも称される「蒙古襲来(元寇)」にさかのぼります。
13世紀当時、モンゴル帝国は史上最大級の領土を誇る超大国として、ユーラシア大陸を東西にまたぎ、アジアとヨーロッパを呑み込んでいました。
これを現在の国名でたとえるなら、中国・モンゴル・韓国・ロシア・カザフスタン・ウズベキスタン・イラン・イラク・トルコ・ウクライナ・ポーランド・ハンガリーなど、実に30か国以上の領土を一挙に支配していたことになります。
総面積はおよそ3300万平方キロメートル。これは、現代のロシアとアメリカと中国を足してもなお及ばない規模です。
当時の世界人口の半分近くが、モンゴル帝国の支配下にあったとも言われています。
では、なぜモンゴル帝国はこれほどまでに広い領土を手に入れることができたのでしょうか?
その答えは、軍事・組織・思想の3つの面で、当時の他国を圧倒していたからです。
① 驚異的な機動力を持つ騎馬軍団
- 幼い頃から馬に乗り、身体の一部のように馬を操る習慣を持っていた。
- 一日に100キロ以上を駆け抜けながら弓を放ち、敵を翻弄した。
- 「逃げるふりをして敵を誘い込み、包囲する」など、戦術も非常に巧みだった。
② 組織力と柔軟さ
- 軍隊は厳格な編制に従い、命令系統も明確に整っていた。
- 征服地の技術者を積極的に活用し、実用的な知識や技術を吸収。
- 火薬、投石器、造船など、当時の最新技術を即座に導入する柔軟性を持っていた。
③ 絶対的な征服思想
- 「服属しない国は滅ぼす」という強硬な理念を掲げていた。
- 降伏しない国や都市に対しては容赦なく侵攻・殲滅を行った。
- あらゆる国・民族に対して妥協のない征服戦争を続けた。
このような軍事力・組織・思想の三拍子が揃っていたからこそ、モンゴル帝国は当時、どの国も逆らえないほどの最強の国だったのです。
大陸の覇者・フビライ・ハンが日本を狙う
そして、この巨大帝国の頂点に立ち、世界を見据えて指揮を執っていたのが「フビライ・ハン」です。
1271年、フビライは中国に「元」という新たな王朝を打ち立てました。
これは単なる王朝交代ではなく、遊牧国家モンゴルが中国王朝として正式に支配することを内外に示す、きわめて重要な転換点でした。
当時、中国南部にはまだ南宋(なんそう)という漢民族の王朝が存在し、激しい抵抗を続けていました。
しかしフビライは、軍事力と巧みな統治政策をもって南宋を徐々に追い詰め、長江流域から南方へと勢力を拡大していきます。
中国全土の統一は、もはや時間の問題となっていました。
そんな中で、次に目をつけたのが、海の向こうの日本列島でした。
東アジアの秩序を再編し、元を中心とする国際体制を築こうとするフビライにとって、日本は無視できない存在だったのです。
フビライにとって、日本は必ずしも最初から「征服すべき敵」ではありませんでした。
むしろ理想は、高麗と同じように属国とし、元を中心とする国際秩序の中に組み込むことでした。
仮に完全な属国化が難しくとも、朝貢という形式で従わせることができれば、形式上の服属を得ると同時に、交易という実利的な利益も確保できます。
これは、当時の中華世界における、ごく常識的な外交発想でした。
こうした判断のもと、1266年、フビライは高麗政府を通じて、日本の鎌倉幕府に対し、最初の外交使節を派遣し「元の支配を受け入れ、友好関係を結ぶよう」求めました。
鎌倉幕府の対応と元寇の始まり
しかし、鎌倉幕府はこれを無視し、返答を一切行いませんでした。
実は鎌倉幕府は、国家として体系的な外交を行った経験がほとんどなく、国外の国との外交を想定した制度も慣行も存在しなかったのです。
そのため幕府は、元からの使節に対して、積極的な対応を取ることも、明確な拒絶の返書を出すこともなく、結果として「何も返答しない」という態度を示しました。
1269年、フビライは再び元使潘阜を中心とする約70名の使節団を日本へ派遣します。
しかし彼らは対馬から先へ進むことすら許されず、やむなく対馬の島民二名を捕らえ、「日本に到達した証拠」として大都へ連れ帰ることになりました。
三度目の使節派遣において、フビライはこれまでとは異なる対応を取りました。
先に連れ帰っていた対馬の島民を日本へ送り返し、そのうえで改めて正式な国書を携えた使者を派遣したのです。
これは、日本との関係修復と外交交渉の再開を、なおも模索していた姿勢の表れだったと考えられます。
このときの国書は、元帝国の中枢機関である中書省から、日本の最高行政機関である太政官宛てに出された正式なものでした。
国書はついに京都の朝廷にまで届けられ、朝廷ではこれに対する返書を作成しようとします。すなわち、朝廷側は元との外交関係を一定程度は維持しようと考えていたのです。
しかし、この動きを鎌倉幕府が許しませんでした。
幕府は「返事に及ばず」として返書を差し止め、結果として元に対する正式な返答は、またしても行われないままとなります。
これは、朝廷と幕府という二重権力構造を持つ日本独特の政治体制が、対外関係において明確な意思表示を行えなかったことを意味していました。
フビライにとって、日本が国書に対して沈黙を貫くという行為は、単なる無礼ではなく、外交的意思表示そのものでした。
帝国の皇帝からの正式な文書に対し、返答を拒むことは、事実上の服属拒否であり、挑戦と受け取られても不思議ではありません。
こうして日本が「返答しない」という選択を重ねた結果、フビライは、外交によって日本を従わせる可能性はもはやないと判断します。
そして最終的に、力によって日本を屈服させる以外に道はないと結論づけ、軍事侵攻へと大きく舵を切ることになったのです。
「文永の役」最初の襲来と武力による威圧
1274年(文永11年)、元は朝鮮半島の高麗を従え、大規模な艦隊を編成して日本への出兵を命じました。
こうして始まったのが、日本史上最大級の危機ともいわれ、日本初の本格的な異国からの侵攻となった元寇(蒙古襲来)の幕開けとなる「文永の役」です。
元軍はまず対馬と壱岐を攻め、島の守備兵や民間人を容赦なく討ち取りながら進軍を続けました。
そして博多湾に上陸すると、数に勝る兵力と火薬兵器を用いて、あっという間に日本の武士たちを圧倒しました。
元軍の戦い方は、日本の伝統的な一騎討ちとはまるで異なっていました。
太鼓や銅鑼を打ち鳴らし、集団で一人を取り囲む戦法、さらには「てつはう(鉄砲の語源)」と呼ばれる火薬爆弾や毒矢といった未知の兵器を駆使し、日本側に大きな衝撃を与えました。
日本の武士が重んじてきた一騎討ちの作法は、集団戦を前提とする元軍の戦法の前ではほとんど通用しませんでした。
数と装備に勝る元軍は、短時間で日本側を圧倒します。
しかし、元軍は博多に長く留まることなく、わずか一日ほどで船に引き揚げました。
これは、当初から日本を滅ぼすことが目的ではなく、実力を誇示して日本に恐怖と従属を促すことが狙いだったと考えられています。
ところが、日本はこの圧力に屈することはありませんでした。
「弘安の役」大群で日本に侵攻
1275年、フビライは再び日本を服属させようと使者を派遣しました。
しかし、幕府はこれに応じるどころか、使者を捕らえ、執権北条時宗の命により、鎌倉の竜ノ口で斬首するという強硬な対応に出ます。
これを知ったフビライは激怒し、全面戦争によって日本を屈服させることを決意します。
1279年、元は長年の宿敵・南宋をついに滅ぼし、中国全土を完全に掌握。
そして1281年、元は高麗軍に加え、降伏した南宋の軍勢までも動員し、数千隻の軍船と十数万の兵力をもって、日本に再び進軍を開始しました。
これが、後に「弘安の役」と呼ばれる、2度目の蒙古襲来です。
この大軍は、東路軍(元・高麗)と江南軍(旧南宋)に分かれて出発し、日本を挟み撃ちにする計画でした。
未曾有の国難の中で、日本の武士たちは、九州各地の海岸で防衛線を築き、激しい戦闘が繰り広げられました。
そして、伊予国の河野氏も、鎌倉幕府の執権・北条時宗より博多湾の防備を命じられ、兵を挙げて九州へと赴いたのです。
没落していた河野氏と、その運命を決めた時代
実は、この頃の河野氏は承久の乱によって没落していました。
その背景を理解するためには、時をさらにさかのぼり、平安時代末期の源氏と平家が激突した「源平合戦」のはじまりまで歴史を巻き戻す必要があります。
当時、平清盛を中心とする平氏は、朝廷の中枢を掌握し、「平家にあらずんば人にあらず」とまで称されるほどの権勢を誇っていました。
一方、源氏の棟梁・源義朝は平治の乱(1159年)で敗れ、命を落とします。その嫡男・源頼朝は伊豆へと流罪にされ、東国で長い幽閉生活を送っていました。
しかし治承4年(1180年)、後白河法皇の皇子・以仁王が平氏討伐の令旨を発し、これを受けて頼朝が伊豆で挙兵。
ここに、全国を巻き込む源平合戦の火蓋が切られます。
この戦いに、伊予国の有力武士である河野氏もいち早く加わります。
当主の河野通信(こうの みちのぶ)は、自らの率いる水軍をもって源氏に味方し、とくに源義経と深い信頼関係を築き、義経の盟友として壇ノ浦の戦いにおいても共に戦いました。
源平合戦は寿永4年(1185年)の壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡したことで、源氏の勝利に終わりました。
義経と共に華々しい戦功を挙げた河野通信は、頼朝から伊予国の統治権を正式に認められた上、頼朝の正室・北条政子の妹を妻に迎えるなど、北条家と政略的な縁戚関係を結び、一時は大きな栄華を誇りました。
源頼朝から「源、北条に次ぐのは河野よ」とまで讃えられ、鎌倉幕府が開かれた際の酒宴では、上座から順に源頼朝、義父である北条時政、そして三番目に河野通信が着座したと伝えられています。
しかしこの安定は、やがて崩れ始めます。
源頼朝と義経の間に深刻な対立が生じ、頼朝は義経を追討対象とし、義経は奥州平泉で自害に追い込まれます。
盟友だった義経の最期は、河野氏にも暗い影を落としました。
義経に近しい立場にあった河野通信も、幕府からの警戒を受けるようになり、徐々にその地位を弱めていきます。
さらに頼朝の死後、将軍家はわずか三代で断絶し、幕府の実権は北条氏へと完全に移ります。
この体制の変化の中で、かつての功臣である河野氏のような御家人たちは冷遇され、忠誠と従順ばかりが重視される政権運営のなかで、政治の主流から遠ざかっていきました。
一方で、朝廷もまた北条氏の台頭を快く思わず、両者の間には緊張が高まっていきます。
そしてついに、後鳥羽上皇は朝廷の威信回復と武家政権への対抗を決意し、承久3年(1221年)に幕府打倒を掲げて挙兵します。
これが「承久の乱」の始まりです。
朝廷方と幕府方への分裂…敵味方に分かれた河野氏一族
承久の乱において、河野通信は鎌倉幕府方(北条氏)ではなく、朝廷方である後鳥羽上皇方として参戦しました。
これは、源義経との関係から幕府に不信を抱かれていたことへの不満に加え、北条氏が御家人を強引に抑圧し始めたことへの反発が背景にあったと考えられます。
さらに、通信の子である河野通政、通俊、そして孫の通秀らは、すでに京都において後鳥羽上皇の側近として仕える西面武士となっていました。
そのため通信は、家族の動向とも歩調を合わせ、朝廷方に付くという選択をしたとも考えられます。
一方で、通信のもう一人の子、河野通久は幕府方に残りました。
通久は、北条時政の娘・谷の子として生まれました。
母の谷は、源頼朝の正妻である北条政子の妹にあたり、通久は母方を通じて鎌倉幕府中枢ときわめて近い立場にありました。
このような血縁関係から、一族のほとんどが朝廷方につく中にあっても、通久は幕府方に属して行動したと考えられます。
また、これは戦乱の世において河野氏一族の滅亡を避けるため、あえて一族の進路を分けた生存戦略であった可能性も考えられます。
河野氏のような地方豪族にとって、権力者たちの勢力争いが絶えない乱世では、一族の一部を異なる陣営に分散させることで、一族全体の滅亡を回避することが重要な手段でした。
しかし、こうした戦略は、家族が戦場で敵として向き合い、時には命を奪い合うという、きわめて過酷な運命をもたらすことにもなったのです。
承久の乱の結末と河野通信の最期
こうして始まった承久の乱は、多くの武士が後鳥羽上皇方に参じたものの、幕府もすぐに対応し、執権・北条義時の命を受けて、北条泰時を総大将とする鎌倉軍を京都へ派遣しました。
幕府軍は、日頃から戦闘訓練を重ねた武士によって組織され、統制も取れた精鋭部隊でした。
一方、上皇方は数こそ劣らなかったものの、急きょ動員された寄せ集めの軍勢で、貴族や戦闘経験の乏しい地方武士が中心だったため、統率に欠け、次第に士気を失っていきました。
京へ向かう鎌倉軍は各地で合戦を繰り広げ、次々と勝利を重ねて、ついには京都を制圧。
こうして承久の乱は幕府側の圧勝に終わります。
敗れた後鳥羽上皇は隠岐へ、順徳上皇は佐渡へ、それぞれ遠流とされ、上皇方に加わった武士たちも多くが処罰を受けました。
こうした中で、河野通信は通政と共に伊予へ戻り、高縄山城に籠もって幕府方に対する抵抗を続けました。
しかし翌年、幕府軍によって居城を攻められ、ついに降伏に追い込まれます。
通政は戦死、あるいは処刑されたとされ、河野氏の所領の多くは没収され、当主の通信は流罪となりました。
そして何の因果か、その流刑地はかつての戦友であった源義経が最期を迎えた奥州・平泉でした。
義経との絆を心に抱き続けた通信にとって、義経が眠るこの地での流罪は運命の皮肉ともいえるものでした。
それからわずか数年後の貞応二年(1223)、河野通信はその平泉の地において、68年の波乱に満ちた生涯を静かに終えました。
時が流れ、通信の孫にあたる「一遍上人(いっぺんしょうにん)」が、祖父の足跡をたどり平泉を訪れ、墓参りを行い、故郷に戻ると通信のお位牌を、河野通信が生まれ育った東禅寺へと納めました。
以来、東禅寺は通信の菩提寺として、河野氏の祖霊を祀る静かな祈りの場となり、今もなおその歴史を伝え続けています。

蒙古襲来、河野氏再興を賭けた戦いが始まる
こうして、当主・通信を失った河野氏でしたが、その血脈がここで断たれることはありませんでした。
承久の乱において鎌倉幕府方についた河野通久が、乱の終結後に家督を継ぎ、河野氏の当主となったのです。
もっとも、その再出発は決して平坦なものではありませんでした。
惣領家を継いだ通久のほかには、兄の通広や、配流後に赦免された通政の遺児らといった、わずかな庶流を残すのみで、一族の勢力は大きく縮小していました。
承久の乱が河野氏にもたらした打撃の深刻さが、ここからもうかがえます。
通久は乱における戦功によって、幕府から阿波国富田荘(現在の徳島県阿南市周辺)の地頭職を与えられました。
地頭職とは、鎌倉幕府が在地支配を任せた役職で、年貢の徴収や土地管理、治安維持などを担う立場です。
地頭に任じられることは幕府からの信任を意味しましたが、それは必ずしも旧来の所領や勢力が回復したことを示すものではありませんでした。
通久はやがて、この富田荘にとどまることを望まず、本拠である伊予との結びつきを重視します。
その結果、貞応二年(1223年)、富田荘の地頭職は、伊予国久米郡石井郷(現在の松山市)の地頭職と交換されることになりました。
それでもなお、承久の乱以前と比べれば、河野氏の所領は大きく削減されたままで、かつての有力豪族としての地位を失っていました。
再興の間で河野氏を二分した家督争い
河野通久を中心に、一族再興への歩みを進め始めた河野氏でしたが、その過程で、家中では次第に家督をめぐる深刻な対立が生じていきました。
通久には、嫡男の河野通時と、その弟である河野通継という二人の子がいました。
嘉禎三年(1237年)、兄の通時は父から、河野氏の本拠地である伊予国久米郡石井郷の地頭職を譲られ、当初は正統な後継者として扱われていたことがわかります。
このとき、弟の通継にも同郷内の別名の領地が与えられており、兄弟は石井郷の中で所領を分け合っていました。
しかしその後、通時は父・通久の妻妾と密懐(密通)した疑いをかけられ、父子の関係は大きく損なわれることになります。
最終的には、通時は家督継承の立場から外され、家中での地位を失ったと伝えられています。
一方で、弟の通継は次第に父の信任を得て、家中での立場を強めていきました。
こうした経緯を経て、文永四年(1267)、通久は通継に惣領の地位と石井郷全域などの主要な所領を譲り、正式に家督を継がせることになります。
この決定に対し、通時は強く反発しました。
「実際に妻妾と密懐していたのは弟の通継の方である」
通時は、この家督相続は不当であるとして鎌倉幕府に訴訟を起こしたのです。
こうして河野氏内部の対立は、公的な場で争われる事態へと発展しました。
この相論は長期に及びましたが、文永九年(1272年)、幕府の裁定によって一定の決着が図られます。
このときは、通継が惣領として家督を継ぐことを認める一方で、通時に対して石井郷内の一部を分与する形で和与が成立しました。
ただし、この裁定において通時と和解した相手は、すでに通継の後継者となっていた河野通有(こうの みちあり・河野対馬守通有)でした。
さらに、当時の幕府裁許状には「通継はすでに死去しており、その密懐疑惑については審理の対象としなかった」旨が記されていることから、通継はこの時点ですでに没していたと考えられています。
なお、密懐をめぐる主張については、通時・通継の双方が互いに相手の不義を訴えており、その真偽を確定することは困難です。
当時、この種の訴えは家督争いにおいて相手を失脚させるための常套的な手段として用いられることも多く、通時が後継者の地位を失った理由が密懐そのものにあったのか、それとも一族内の権力関係や後継問題に起因するものだったのかについては、なお議論の余地が残されています。
国難に際して求められた河野氏の水軍力
このような経緯を経て、正式に一族を率いる立場となった河野通有に、やがて鎌倉幕府から重大な命が下されます。
それが、二度目の蒙古襲来である弘安四年(1281)の「弘安の役」において、博多湾沿岸の防備にあたることでした。
弘安の役では、前回の文永の役を大きく上回る規模で元軍が来襲すると予測されており、日本側は九州北部を中心に、陸海両面からの防衛体制を整える必要に迫られていました。
なかでも博多湾は、元軍が上陸を狙う最重要地点とされ、その防備は幕府にとって国家の命運を左右する重大な課題でした。
このため幕府は、九州の御家人だけでなく、瀬戸内海に強力な水軍を擁する諸勢力にも出陣を命じます。
元軍の侵攻は九州沿岸を主戦場としていましたが、その大軍を支えるためには、兵站を維持する補給路と安定した海上交通の確保が不可欠でした。
仮に上陸戦で優位に立ったとしても、海上からの補給が断たれれば、遠征軍は長期的な作戦行動を続けることができません。
このため日本側にとっては、元軍を陸上で迎え撃つだけでなく、周辺海域において元軍の船団や補給路を攪乱し、海上交通を遮断することが防衛戦略の重要な柱となっていました。
こうした状況の中で、瀬戸内海に勢力を持つ水軍の参戦は、日本側にとって極めて重要な意味を持っていました。
瀬戸内海は西国と九州を結ぶ海上交通の要衝であり、ここを掌握する水軍は、九州北部へ向かう航路や潮流を熟知し、状況に応じて迅速に移動しながら柔軟な戦闘行動を展開することができたからです。
なかでも、伊予を本拠とし、瀬戸内海の複雑な潮流や航路に精通しつつ、代々水軍を統率してきた河野氏の存在は大きなものでした。
河野氏の水軍は、単なる防備にとどまらず、元軍の船団に直接打撃を与えうる重要な戦力として大きな期待を寄せられていたのです。
大山祇神社に伝わる河野通有の伝説
河野通有は、自らが棟梁を務める三島水軍(伊予水軍・河野水軍)を率い、河野一族の有力者である河野通純や、かつて家督争いを経て和解していた伯父の河野通時とともに、博多湾防備のため参陣しました。
通有は戦地へ向かうにあたり、伊予国大三島に鎮座する大山祇神社を訪れたと伝えられています。
大山祇神社は、大山積神を祀る神社として、古代伊予の有力豪族である越智氏によって建立されたと伝えられています。
大山積神は一柱の神でありながら、さまざまな名で呼ばれてきました。
代表的なものとしては「大山積大神(おおやまづみのおおかみ)」のほか、「三島明神」「三島大明神(三嶋大明神)」「三島大神」などがあり、地域や時代、信仰の文脈によって呼称が使い分けられてきました。
大山積神は単なる山の神にとどまらず、瀬戸内海の海上交通と航海安全、さらには武運長久をも司る神として信仰されてきました。
その神格の高さから、古来「日本総鎮守」とも称され、朝廷や武士、水軍関係者から特別な崇敬を集めてきたのです。
越智氏は、代々この大山積大神を一族の祖神として篤く崇敬してきました。
山と海の両方を守護する神を氏神とすることは、伊予から瀬戸内海一帯に勢力を張る越智氏の支配と深く結びついており、その宗教的権威は一族の基盤でもありました。
そして、越智氏の後裔を称する河野氏もまた、その血脈を引く一族として、大山積神への信仰を祖先以来の氏神信仰として受け継いできました。
代々の当主は、大事に臨む前には必ず神前に立ち、誓いを立て、神意を受けてから行動に移ることを重んじていたと伝えられています。
大山積大神への感謝と祈願は、河野一族にとって武運と家門の安泰を願う根幹的な行為であり、とりわけ国家の命運を左右するような大事の前には、神意を受けてから戦に臨むことが重んじられていたのです。
社伝によれば、このとき通有は「十年のうち蒙古寄せ来たらずば、異国へ渡りて合戦すべき」との起請文を書き、氏神である三島社に誓いを立て、その文を焼いて灰を飲んだといいます。
これは、たとえ元軍が再び来襲しなかったとしても、自ら異国へ渡って戦う覚悟を示したものであり、通有の悲壮な決意と、一族の武運長久を神に託す強い思いを象徴する逸話として語り継がれてきました。
さらに通有は、出陣に際して神門の脇にそびえる大楠に自らの兜を掛けたとも伝えられています。
これが、現在も大山祇神社の境内に雄々しく根を張る「河野通有兜掛の楠」です。
この大楠は、現在は枯れてしまいましたが、河野氏が国難に際して示した覚悟と祈りを今に伝える存在として、社殿の側に横たわっています。

河野氏の軍に加わった瀬戸内の海賊衆「村上水軍」
そして、九州へと向かう河野氏の水軍の中には、もう一つ重要な戦力が存在していました。
それが、瀬戸内海において河野氏と古くから協力関係を築いてきた、村上氏の水軍です。
当時、伊予から瀬戸内一帯の海域では、「海賊衆」と呼ばれる海の武士団が、海を舞台に独自の軍事勢力を築いていました。
彼らは単なる略奪者ではなく、海上交通の掌握や警固、戦時における水上戦闘を担う存在として、在地の有力勢力と結びつきながら活動していた集団でした。
その中でも、特に強い影響力を誇っていたのが、村上氏の率いる水軍、いわゆる村上水軍です。
瀬戸内海の要所を拠点とし、高い航海技術と戦闘力を備えた村上水軍は、海上の動向を左右する存在として知られていました。
このとき、その村上水軍を率いていたのが、第四代当主とされる村上頼久でした。
頼久は河野十八衆の筆頭として位置づけられ、水軍を率いる立場にあり、伊予と芸予の海上勢力を結びつける要の存在でした。
さらにそれだけではなく、村上頼久は河野氏の血を引いていたとも伝えられています。
村上氏は、第56代「清和天皇(せいわてんのう)」の皇子を祖とする源氏の名門氏族である清和源氏頼信流に連なる一族と伝えられ、源頼信の次男・源頼清の嫡男である源仲宗の代から「村上」を称したとされています。
仲宗の次男・顕清は、兄・唯清が関与した白河上皇呪詛事件に連座して信濃へ配流され、村上郷に居住しました。
その子孫の一人・村上為国は、戦国時代に東北信一帯に勢力を誇った信濃村上氏の祖となったといわれています。
一方、保元の乱(1156)後、瀬戸内海方面から伊予へと進出した一族もいました。
この系統は、後に伊予村上氏と呼ばれるようになります。
伊予村上氏は淡路島を経て讃岐の塩飽諸島に居住していましたが、平治の乱(1159年)を契機として平家が海上支配を強化したため、さらに西へと移動しました。
そして永暦元年(1160)、伊予の越智大島(現在の今治市大島)へと拠点を移したと伝えられています。
この人物こそが、伊予村上氏の祖であり、のちに村上水軍の祖とも称される村上定国(むらかみ さだくに)です。
定国が伊予へ移住した背景には、祖父・村上仲宗と、河野氏当主であった 河野親経 との間にあった古くからの協力関係があったと考えられています。
こうした河野氏との結びつきが、村上氏の伊予進出を後押ししたのでしょう。
それを裏づけるように、定国の嫡子・ 村上清長 は河野氏の家臣となり、大島の亀老山山頂(現:亀老山展望公園)に隈ヶ嶽城を築き、水軍としての基盤を固めていきました。

清長の子・村上頼冬もまた河野家に仕え、源平合戦では源氏方として数々の武功を挙げたと伝えられています。
しかし、頼冬には実子がなく、後継者の確保が大きな課題となっていました。
そこで迎えられたのが、河野通信の弟・河野通吉の子である亀千代丸でした。
養子となった亀千代丸は名を、「村上左衛門太夫頼久(村上頼久)」と改め、のちに日向守頼久(ひゅうがのかみ よりひさ)とも称しました。
このように河野氏と村上氏は、軍事的な協力関係にとどまらず、血縁によっても強く結ばれていたのです。
国家存亡の危機で証明された河野氏水軍の実力
そしていよいよ、河野氏と村上氏の水軍は、決戦の地・北九州へと到着します。
瀬戸内海を発し、幾多の島々を越えて玄界灘へと進出したその船団の前には、これまで経験したことのない光景が広がっていました。
海原一面を埋め尽くすかのように浮かぶ元軍の大船団。
江南軍と、高麗を基盤とする四万の兵からなる東路軍を合わせ、総勢十数万ともいわれる兵を載せた軍船は、およそ四千隻に及んでいました。
その威容は、瀬戸内海で数々の海戦を経験してきた水軍の兵たちでさえ、思わず息をのむほどのものでした。
当時の日本人にとって、これほどの規模の艦隊を前にするのは、まさに前代未聞の出来事でした。
これは単なる一地方の戦いではなく、国家の存亡を懸けた、かつて経験したことのない未曾有の海戦だったのです。
戦地に舞い降りた白鷺の伝説
元軍は筑前国の海岸に迫りましたが、博多湾沿岸に築かれていた堅固な石塁によって、容易に上陸することができませんでした。
河野通有は、この石塁を背にして前線に陣を構え、その前に布陣したことから、将兵たちはこれを「河野の後築地」と呼び、その大胆さと覚悟に驚嘆したと伝えられています。
河野通有と村上頼久が率いる水軍は、元軍の艦隊に対して火矢を浴びせ、敵船を焼き払うとともに、夜陰に乗じて果敢な切り込みを繰り返しました。
日本側の水軍が採った戦法は、敵船に接近して乗り移る接舷戦を基本とするもので、火砲を持たない時代においては、最も実践的な戦い方でした。
特に瀬戸内海の荒海で鍛えられた河野氏の水軍は、複雑な潮流や風向きを読み、小舟を自在に操る技量を備えていました。
数では圧倒的に劣っていたものの、こうした経験に裏打ちされた戦いによって、元軍の行動を攪乱し、侵攻作戦の進行を大きく妨げたのです。
志賀島周辺の戦いでは、夜の闇に紛れ、河野通有自らが二隻の小舟を操って元軍の大艦に接近し、奇襲を仕掛けました。
敵船に乗り込んで激しい戦闘を繰り広げ、ついには敵将を捕らえるという戦果を挙げたとされ、この奮戦は日本の軍の士気を大いに高めました。
この戦いには、象徴的な伝承も残されています。
出陣の途上、通有のもとに一羽の白鷺が舞い降り、矢を咥えて敵将のいる船の方角を示したというのです。
瀬戸内における三嶋信仰では、白鷺は神の導きとして現れる縁起の良い鳥と考えられてきました。
この信仰は、鴨部神社の地に眠ると伝えられている、古代伊予の豪族・越智益躬が、靺鞨の将「鉄人」を討伐したという伝承に由来します。

鉄人を貫いた神の刃…越智益躬と白鷺の伝説
今からおよそ1300年前、靺鞨(まっかつ)という民族が、北東アジア(現在の中国東北部やロシア沿海州)一帯に広く住んでおり、ツングース系の強大な戦士民族として、周辺諸国から恐れられていました。
その靺鞨の中に、「鉄人」と名乗る特に恐るべき武将がいました。
※一説には、この鉄人は靺鞨ではなく、当時の朝鮮半島にあった新羅・百済・高句麗、いわゆる三韓のいずれかに仕えていたとも言われており、その出自には諸説あります。
鉄人は、卓越した知略と圧倒的な武力を兼ね備えた存在で、その名を聞くだけで人々を震え上がらせるほどでした。
そんな鉄人が、あろうことか8000人もの靺鞨の兵を率いて海を越え、筑紫の国(現在の九州地方)から侵攻を開始したのです。

有明海(Adobe Stock)
これは、当時の日本にとってまさに未曾有の危機でした。
日本も必死に応戦しましたが、ようやく鉄人を包囲したかと思えば、突如「風雨の術」と呼ばれる神秘の力を操り、戦場に暴風と豪雨を巻き起こして混乱を招き、包囲網をあざ笑うかのように突破していきました。
兵たちは翻弄され、多くの戦死者を出るなかで、もはや手のつけようがない状況に陥っていきました。
さらに鉄人には、ただ戦うだけでなく、倒した人々を食べるという恐ろしい噂まで流れていました。
このため、地域の老人や女性、子どもたちは山林に身を潜め、日夜、命の危険と隣り合わせの恐怖の中で暮らすしかありませんでした。
暮らしは悲惨を極め、誰もが「次は我が身か」と怯えながら日々を送っていたのです。
そしてついに、鉄人が筑紫の国から都(京都)へと攻め上がろうとしていることが明らかになると、朝廷は深刻な危機感を抱きます。
もはや一刻の猶予も許されぬ状況の中、国家の命運を託されたのが、文武両道に優れた古代伊予の豪族「小千益躬・(越智益躬・おちのますみ)でした。
朝廷から鉄人討伐の勅命を受けた越智益躬は、戦に向かうにあたり一族の守護神である「大山積神(三嶋大明神・三島大明神・大山祇神)」に、七日七夜(一週間)にわたって祈願を捧げました。
その祈りが通じたのか、益躬のもとに神託が下されました。
「鉾(ほこ)を鏃(やじり)にして隠し持ち、鉄人の隙を見て討て」
この神託が、後に鉄人との戦いにおける重要な導きとなります。
いよいよ鉄人と対峙することになった益躬ですが、鉄人の強さは予想以上でした。
武力での勝利は難しいと判断した益躬は、思い切って鉄人に降伏し、家来となることでその隙をうかがうことにしました。
しかし、用心深い鉄人にはほとんど隙が見当たらず、見つけた弱点といえば「馬に乗っている際に足の裏にわずかな穴が開いている」ぐらいでした。
それでも益躬はじっとチャンスを待ち続けました。鉄人はそのまま進軍し、やがて現在の兵庫県にあたる播磨国(はりまのくに)の明石の蟹坂(かにさか)にまで到達しました。
この時、ついに決定的な好機が訪れます。
その日、鉄人は目の前に広がる美しく壮大な景色に心を奪われ、警戒心を忘れて無防備に立ち尽くしていました。
すると、突然の雷鳴が響き渡り、空を裂く稲妻が辺りを照らしました。
益躬はこれぞ三島大明神のご霊験の現れと感じ、すかさず懐に忍ばせていた鏃(やじり)を取り出し、渾身の力で投げつけました。
鏃は鋭く空を裂き、風を切りながら鉄人の方へと飛んでいき、ついに唯一の弱点といわれた足の裏の穴に突き刺さったのです。
突如の激痛に、さすがの鉄人も落馬しました。
その瞬間、益躬の家来たちが一気に斬りかかり、ついに鉄人を討ち取ることに成功したのです。
大将である鉄人を失い、大混乱に陥った軍はあまりにも脆く、益躬は鉄人の家来を次々と打ち破り、逃げた者は生け捕りにしました。
手をあわせ命乞いをする者は捕まえて獄舎につなぎ、鉄人についての詳しい情報を吐かせました。
詳細な鉄人の情報を知った益躬は、討ち取った首を手にして宮中に参上し、朝廷(天皇)に鉄人のことについて申し上げました。
この勝利に、朝廷は非常に喜び、益躬に伊予の国(今の愛媛県)越智郡の大領(郡の長官)の役を任じました。
その後、益躬は、鉄人との死闘において自らを守り導いた三島大明神への深い感謝と、命を落とした多くの兵士たちへの鎮魂の念を胸に、信仰の証を各地に残していくことになります。
まず、三島大明神が稲妻となって舞い降りたと伝えられる明石の地において、益躬はその御神恩を後の世に伝えるべく、社を勧請しました。
こうして創建された神社は、古くは「稲妻大明神」と称されていましたが、時代を経る中でその名が転じ、「稲爪(いなづめ)」となったと伝えられています。
これが、現在の兵庫県明石市大蔵本町に鎮座する稲爪神社(いなづめじんじゃ)の起源です。

稲爪神社(PIXTA)
崇峻天皇二年(589年)、益躬が凱旋帰郷したのちには、鉄人との戦いで命を落とした兵士たちの霊を慰めるため、一寺を建立しました。
これが、後に河野氏の菩提寺となる「東禅寺」のはじまりです。

そして、とある場所の一本の榊(さかき)の大樹の枝に鏡を懸け、戦勝と神恩への感謝を胸に、大山積大神を祀る社をそのふもとに創建しました。
榊は「境の木」とも書かれ、神と人の世界をつなぐ神聖な木とされ、まさに神霊が宿るにふさわしい依代(よりしろ)でした。
この社は、木の下(樹下)という場所に建てられたことから「木の下三島宮(きのもとみしまぐう)」と称されました。
そしてこの社が、後に合祀されて三嶋神社・祇園神社へと発展していく、三嶋神社の起源であるとされています。

やがてその神木に白い鳥が集まり、多くの巣を作って子を育て始めました。
人々はこの神秘的な光景を神意の表れと捉え、「鳥生(とりう)の宮」と呼ぶようになり、現在の鳥生町という地名の由来となったと伝えられています。
「白鳥」とされたその鳥は、実は「白鷺(しらさぎ)」で、清らかで神々しい姿から、「月の神使」または「三嶋神の神使(しんし・つかはしめ)」として崇敬されるようになります。

白鷺(Adobe Stock)
こうして、瀬戸内における三嶋信仰では、白鷺は神の導き手と考えられ、航海安全や戦勝をもたらすめでたい鳥として尊ばれ、三嶋神社(三島神社)において重要な象徴的存在となっていきました。
越智氏の後裔を称する河野氏にとって、この白鷺の伝承は祖先以来の信仰と深く結びついたものであり、河野通有の戦勝譚に白鷺が登場するのも、こうした三嶋信仰の系譜の中で生まれたものと考えられます。
今まさに国土を侵略せんと押し寄せてくる、かつてない強大な異国の軍勢。
その緊迫した戦場にあって、風に乗って舞い、空を渡る白鷺の姿は、神が進むべき道を示しているかのような神秘性を帯び、戦に臨む武士たちの心を大いに奮い立たせたことでしょう。
死闘の果てに吹いた伝説の神風
しかし、通有とともに参陣していた村上頼久は、この激戦のさなかに戦死し、また伯父の河野通時も、敵船に乗り込み火を放つなどの奮戦の末、重傷を負って船中で亡くなってしまいました。
河野氏・村上氏の水軍を支えてきた有力武将が次々と倒れていく中で、通有自身もまた負傷し、療養のため一時帰郷を余儀なくされました。
こうして主力武将の多くが倒れ、兵力・装備・軍事技術において大きく劣る日本側は、圧倒的な侵攻軍の前に、いつ陥落してもおかしくない状況へと追い込まれていきました。
その極限状態の中で、武士たちは筑前国の「筥崎八幡宮」に祀られる武神・八幡神にすがるようにして勝利を祈りました。
すると、まるでその祈りに応えるかのように、異変が起こりはじめます。
突如として激しい風が吹き荒れ、雷鳴が鳴り響き、波は荒れ狂い、一気に嵐となって、海上の元軍を襲ったのです。
容赦ない暴風にさらされた船は、次々に転覆し、帆柱はへし折れ、兵たちは荒波にのまれていきました。
指揮系統が混乱した元軍は壊滅状態に陥り、日本に上陸していた部隊は補給線は断たれたことで孤立し、一人また一人と、討ち取られていったのです。
こうして日本は、国家滅亡の危機、まさに神の加護とも思える奇跡によって救われたのでした。
やがて人々はこの暴風を、八幡神がもたらした神の加護「神風(かみかぜ)」と呼ぶようになりました。
河野通有の奮戦、水軍の粘り強い抵抗、そして自然の猛威が重なり合って迎えたこの結末は、単なる軍事的勝利にとどまるものではありませんでした。
それは、中世日本の人々の心に、「この国は神々に守られている」という強烈な歴史意識を刻み込む出来事となり、後世にまで語り継がれていくことになったのです。

河野通有が江戸・上野に伝えた三島神社
河野通有は、その戦功により、かつて失われていた伊予の旧領を再び与えられ、さらに九州・肥前国の神崎荘や山崎荘などの恩賞地も拝領しました。
これにより、治承・寿永の乱以降、長く衰退の兆しを見せていた河野氏の勢力は大きく回復し、通有は「河野氏中興の祖」と称されるようになりました。
さらに通有は、祖先から受け継がれる信仰と精神性にも深く向き合っていきました。
そうした折、通有は夢の中で、大山積神、すなわち三島大明神からの神託を受けたと伝えられています。
その内容は、「御神霊を武蔵国豊島郡へ勧請せよ」というものでした。
これは、元寇という未曾有の国難を乗り越えたことへの報恩であると同時に、三島明神の神威を新たな地に広めよという神意として受け止められました。
武蔵国豊島郡は、現在の台東区をはじめ、荒川区、北区、豊島区、板橋区、文京区、新宿区、千代田区、港区、渋谷区などを含む広大な地域に相当します。
中世においても、交通や経済の要衝として重要性を増しつつある土地でした。
通有がこの地を勧請先とした背景には、婚姻による地縁があります。
河野氏は、江戸の有力豪族で鎌倉幕府御家人であった江戸重長(えど しげなが)の娘を妻に迎えており、その縁によって、武蔵国豊島郡の上野山(現:上野公園・上野動物園)の山中に館を構えていました。

通有は神託に従い、自身の館の敷地内に大山積神(三島大明神)の分霊を勧請し、鎮祭を行ったと伝えられています。
こうして創建された三島神社こそが、現在の台東区周辺に広がる三島信仰の起点であり、後世に三島神社(下谷)、本社三島神社、元三島神社へと連なっていく由緒の始まりとなります。
河野通有への信任とその晩年
河野通有は、元寇後も鎌倉幕府の厚い信任を保ち続け、水軍を統率する有力御家人としてその地位を確かなものとしていました。
瀬戸内海をはじめとする海上支配に精通した通有は、軍事面だけでなく治安維持の面でも重要な役割を担う存在であったといえます。
徳治二年(1307年)には、幕府から西国および熊野浦一帯における海賊追捕を命ぜられました。
熊野浦は古くから海上交通の要衝である一方、海賊行為も多発する地域であり、その鎮圧は容易な任務ではありませんでした。
通有は水軍を率いてこの任にあたり、海上の秩序回復と幕府権力の安定に尽力したと伝えられています。
この命令そのものが、通有が実戦経験と統率力を兼ね備えた武将として高く評価されていた証しでもありました。
やがて応長元年(1311年)7月14日、通有は62歳でその生涯を閉じます。
その遺骸は、自身が元寇で命を落とした家来たちの菩提を弔うために建立した、周布郡北条郷(西条市北条・旧東予市北条)の長福寺に葬られました。

江戸時代に繰り返された三島神社の遷座と信仰
河野通有の没後も江戸の上野周辺の里人は、大山積神を祭神とする三島神社を深く尊崇し、その御神徳を忘れることなく、日々の暮らしの中で変わらぬ敬意をもって奉斎し続けました。
しかし、時代は下って江戸時代に入ると、幕府の都市政策や用地整理の影響を受け、何度も遷座(移転)を繰り返すことになります。
寛永寺建立がもたらした上野の大転換
寛永二年(1625年)、江戸幕府は国家安泰と天下泰平を祈願して、上野山に寛永寺を建立します。
このとき上野の山全体は寺域として再整備されることとなり、周辺地域は大きな影響を受けることになったのです。
寛永寺は、天台宗の高僧・天海大僧正の構想のもと、京都・奈良の名所を江戸に再現するという壮大な計画のもと整備されていきました。
清水寺を模した清水観音堂(1631年)、吉野山の桜を模した植栽、不忍池に浮かぶ弁天堂は琵琶湖の竹生島を模したものです。
こうして、寛永寺は信仰と行楽を同時に享受できる“東の比叡山”として発展し、庶民から武士階級に至るまで幅広い層から崇敬を集めるようになります。
最盛期の寛永寺には、なんと36か院もの塔頭(子院)が山内に建ち並び、境内面積はおよそ30万5千坪(約100ヘクタール)、寺領は1万5千石にも達したとされています。
これは当時の中規模な大名領に匹敵する規模で、以下のような規模に相当します。
- 東京ドーム:約4.7ヘクタール → 約21個分
- 現在の上野公園:約53ヘクタール → 約2倍
- 皇居(東京):約115ヘクタール → ほぼ同等
- バチカン市国:約44ヘクタール → 2倍以上
現在では、上野公園内の一部や周辺の塔頭(根本中堂、徳川霊廟など)へと縮小しましたが、かつての寛永寺は数多くの堂塔と塔頭を有する、世界的にも稀に見るほどの「宗教都市」だったのです。

「本社三島神社」浅草に遷された三島神社
このような寺域の拡張と再整備にともない、上野山周辺の神社や集落にもさまざまな影響が及びました。
もともと上野山内に鎮座していた三島神社も、寛永寺の拡張に伴い、慶安三年(1650年)に三代将軍・徳川家光の命によって金杉村へ遷座します。
しかし、その移転先である金杉村の社地もまた、宝永六~七年(1709~1710年)に東叡山寛永寺の境内地、すなわち幕府の御用地として指定されることになります。
これを受け、宝永七年(1710年)に代替地として与えられた、浅草小揚町(現在の台東区寿)へと再び遷座が行われました。
こうして浅草小揚町に遷された三島神社は、寿三島神社とも称され、明治以降は本社の三島神社として扱われました。
これが現在の本社三島神社になります。
境内は千坪に及び、門前には町屋が許されていたが、明治三年(1870年)の上地(社寺領上知令)によって門前地は国有地とされ、往時の門前町の姿は失われてしまいました。
また、徳川三代将軍・家光から寄進されたと伝えられる神輿も所蔵されていましたが、大正十二年(1923年)の関東大震災により、社殿とともに焼失してしまいました。
これにより、江戸期以来伝えられてきた貴重な神宝や建築の多くが失われることとなりましたが、それでもなお、人々の信仰そのものが途絶えることはなく、三島明神への崇敬は形を変えながら今日まで受け継がれていったのです。

「元三島神社」金杉・根岸の人々が守ろうとした氏神
一方で、こうした移転の流れに対し、金杉村・根岸一帯に代々暮らしてきた氏子たちの間には、強い思いがありました。
「氏神様が地元を離れてしまうのは、誠に不都合である」
そうした切実な声が次第に高まり、金杉・根岸の村民たちは幾度も協議を重ねます。
その結果、かつて三島神社が鎮座していた地に最も近い場所である金杉の地に、改めて三島大明神の御神霊をお迎えすることが決まりました。
そして、当地に古くからあった熊野社と合祀する形をとり、ここに新たな社が整えられます。
こうして成立したのが「元三島神社」です。
「元三島」という社名は、新たな替地を賜るまでの間、御神体を一時この熊野社の社内に移して安置していたことから元三島神社と称するようになったといいます。
つまり、この地は一時的とはいえ三島大明神の御神霊が遷座された由緒ある場所であり、その記憶が社名として今に伝えられているのです。

「三島神社(下谷)」下谷の氏子たちが選んだ再勧請
同じく、金杉村字金杉町、現在の台東区下谷の地においても、氏神様が遠方へ移ってしまったことによる不便さと心細さは大きな問題でした。
日々の暮らしの中で折に触れて祈りを捧げ、災厄を避け、家内安全や五穀豊穣を願ってきた人々にとって、氏神の存在は生活と切り離せないものであったからです。
そこで下谷の氏子たちは、「氏神様が遠くては困る」という切実な思いを共有し、話し合いを重ねた末、改めて三島大明神の分霊を勧請することを決断します。
こうして、火除稲荷神社の社地に三島大明神の分霊を迎え、鎮祭したのが、現在の三島神社(下谷)の創始になります。
特筆すべき点として、この三島神社(下谷)の宮司は、代々河野通有の子孫が務めており、単なる信仰の場にとどまらず、河野氏と三島信仰との深い結びつきを今に伝える貴重な神社となっています。

三島神社 東京都台東区下谷(PIXTA)(PIXTA)
「折敷に三文字の謎」神紋に込められた三島信仰の系譜
本社三島神社、元三島神社、三島神社(下谷)の3つの神社は、いずれも伊予の大山祇神社から分霊を迎えて創建された神社ですが、これら三社が使っている神紋は大山祇神社のものとは少し違っています。
大山祇神社の神紋は「折敷に揺れ三文字(隅切折敷縮三文字)」です。
「折敷に揺れ三文字」のデザインは、四隅を切り取った八角形の「折敷(おしき)」の中に、波型の「三」の文字が描かれたものです。
この紋章は、神事や儀式で供物を捧げる際に使用される白木の台「折敷」に由来し、神聖な空間と調和を象徴するものとして扱われてきました。
折敷にはさまざまな形状がありますが、大山祇神社では特に八角形の「隅切折敷」が用いられています。
この八角形の形は、神が宿る場を示すとともに、天地の調和や自然の秩序を表しているとされます。

「三」の文字が波型で描かれているのは、瀬戸内海の穏やかな波を想起させるとともに、大山積大神(おおやまづみのおおかみ)が山と海の恵みを授ける神であることを象徴しています。
こうした神紋「折敷に揺れ三文字」は、大山祇神社を総本社とする愛媛県内の他の三島神社においても広く使用されており、伊予国における三島信仰の広がりと一体性を物語る重要な文化的シンボルとなっています。
愛媛県の他の三島神社でも、大山祇神社の神紋である「折敷に揺れ三文字」が広く用いられています。


さらに、この信仰の担い手であった越智氏・河野氏が建立に関わった神社仏閣や、一族の血を引く家系、その信仰を受け継いできた氏子の家々においても、この「折敷に揺れ三文字」は家紋として受け継がれ、単なる図案を超えて、信仰・血縁・歴史の象徴として今日まで尊ばれています。

なぜ異なる「三」のかたち?
一方で、台東区に鎮座する3つの三島神社「本社三島神社(寿)・元三島神社(根岸)・三島神社(下谷)」では、よりシンプルで整った「三」の文字を折敷に配した「折敷に三文字」の紋が用いられています。
なぜ本社とは異なる神紋を用いることになったのでしょうか。
はっきりとした由来は残されていませんが、この神紋の違いには、いくつかの可能性が考えられます。

三嶋大社の神紋
実はこの「折敷に三文字」は、静岡県三島市に鎮座する伊豆国一宮・三嶋大社の神紋としても広く知られています。
これは単なる意匠上の一致ではなく、より大きな宗教的・文化的背景を物語っています。

三嶋大社(photolibrary)
ここで浮かび上がってくるのが、「三島信仰(みしましんこう)」です。
三島信仰とは、大山祇神(おおやまづみのかみ)および三嶋大明神を中心とした信仰で、古代から中世にかけて、特に武士や水軍、海民など海洋・軍事に関わる人々の間で広く浸透しました。
この信仰は、単一の神社によるものではなく、二つの「総本社」によって支えられてきました。
- 一つは、瀬戸内海の要所・愛媛県今治市の大山祇神社(伊予国一宮)。古代伊予の有力豪族・越智氏によって創建されたと伝わり、海上交通と軍事の守護神として篤く信仰されました。
- もう一つは、東海道沿いの要地である静岡県三島市の三嶋大社(伊豆国一宮)。源頼朝が伊豆で挙兵した際に戦勝祈願を行った神社としても知られ、以降、関東一円の武家の厚い崇敬を受けるようになります。
両社ともに大山祇神を主祭神としつつも、それぞれの地域や時代背景に応じて神格や呼称が微妙に異なりながらも、根本的には「山・海・武の神」として全国各地に分霊が勧請されていきました。
特に鎌倉時代以降、武家社会の成立と発展にともない、三島大明神への信仰は全国へと急速に広がっていきました。
その象徴とも言えるのが、「三島神社」という社名を冠する神社の増加です。
各地の武士や水軍によって勧請された三島神社は、戦勝祈願や海上安全を祈る信仰の拠点として、各地の地域社会に根づいていきました。
中でも関東地方では、伊豆国一宮である静岡県三島市の三嶋大社への信仰がより強く、広く浸透していたと考えられています。
源頼朝が三嶋大社に戦勝を祈願し、鎌倉幕府を開いたという伝承がその信仰の広がりに大きく影響を与えたとも言われ、以降、関東一円に勧請された多くの三島神社は、三嶋大社を本所とする系譜に連なるものと見なされるようになりました。
こうした背景を踏まえると、たとえ伊予国の大山祇神社から分霊を受けた由緒をもつ神社であっても、関東に鎮座する三島神社で「折敷に三文字」の神紋が使われているのは、ごく自然な流れだったのかもしれません。
河野氏の意匠と神紋の関係
もう一つの重要な視点は、三島神社をこの地に勧請した河野通有の家柄との関係です。
河野氏は、 越智氏より続く「隅切折敷縮三文字」を家紋に用い、第23代当主の河野通信より「折敷に三文字」へ変更しました。
つまり、河野氏が信仰と共に自身の象徴的意匠である「折敷に三文字」の紋を持ち込み、それが神社の神紋となったのではないかと考えられます。

信仰と家柄が密接に結びついていた時代においては、氏族の紋章が神社の神紋に転用されたり、影響を与えることは珍しいことではありませんでした。
ただし、河野家の家紋に使われる「三文字」は、三本の横線がすべて等しい長さで構成されており、台東区の三島神社に見られる神紋とはやや異なります。
このため、神紋としての使用に際して、あるいは時代の流れの中で、より視認性や象徴性が重視されるようになり、結果として意匠が簡略化・整形されていった可能性が考えられます。
殿や奉納幕、祭礼の道具などに用いる際に、誰の目にもわかりやすく印象に残る図柄が求められたことが、現在見られる「折敷に三文字」のすっきりとした意匠につながったのかもしれません。
いずれにせよ、台東区に鎮座する3つの三島神社に用いられている「折敷に三文字」の神紋は、単なる装飾ではなく、三島信仰の広がりと武士文化の影響、さらには江戸という都市ならではの地域風土が交錯した証といえるでしょう。
時を越えて伊予から江戸へ受け継がれ続ける
愛媛県・今治市大三島に鎮座する大山祇神社。
今治を中心に広がる伊予の「三島信仰」は、河野氏という伊予の武門を通じて、はるか遠く江戸の地にまでその祈りを届けました。
こうして江戸の町の中で三島神社は新たな歴史を刻みながら、時代や場所を越えて、人々の暮らしと精神の中に静かに根づいていったのです。
この信仰の歩みは、単なる神社の移転ではありません。伊予という地方と、江戸という都市とを結ぶ、知られざる歴史の架け橋でもありました。
三島神社の御神体に込められた祈りと感謝、そして伊予(愛媛県)との深い縁は、今もなお東京・台東の地で静かに息づいています。
歴史の中に脈々と流れる信仰の絆を感じながら、ぜひ一度、台東区に点在する3つの三島神社を訪ねてみてください。
静かな社のたたずまいの中に、愛媛と東京をつなぐ時の流れが、きっと感じられるはずです。