主を替え、時代を読み、その名を残した武将
今治城を築城し、城跡に銅像が建つ戦国武将、藤堂高虎(とうどう たかとら)。
今治を治め、今治城を築いたことから「初代今治藩主」と誤解されることも少なくありません。
しかし、高虎は厳密には今治藩主ではなく、現在の津市(三重県)を中心とする津藩を立藩した初代藩主です。
それでも高虎が今治に残した足跡は極めて大きく、城と港を中心に整えられた町の姿は、この時代に形づくられました。
今治の歴史を語る上で、藤堂高虎の存在は欠かすことのできないものといえるでしょう。
では、藤堂高虎とはいったいどのような人物だったのでしょうか。
戦国から江戸へと時代が移り変わる中で、主家を変えながらも生き抜き、築城と政治の両面で手腕を発揮した高虎の生涯を、ここから辿っていきます。
前回の記事はコチラ:【今治城の歴史⑧】吹揚神社春祭りに響くもう一つの築城の唄「よいやな節」
藤堂高虎の誕生と若き日の素顔
藤堂高虎(幼名 与吉)は、弘治2年(1556年)1月6日、近江国犬上郡藤堂村(現在の滋賀県犬上郡甲良町)に、土豪・藤堂虎高の次男として生まれました。
高虎が生まれた近江国は、古くから東国と西国を結ぶ交通の要衝であり、軍事的にも経済的にも重要な地域でした。
戦国期には多くの武将や軍勢が往来し、常に緊張と変動の中に置かれていた土地でもあります。
高虎は、こうした戦乱の気配が身近にある環境で少年時代を過ごしました。
成長した高虎は若い頃から勇猛さで知られ、身長はおよそ190センチにも及んだと伝えられています。
当時としては群を抜いた巨躯の持ち主で、体格だけでなく気性も激しく、戦場では先陣を切ることを恐れない武将でした。
しかし高虎の資質は武勇だけにとどまりません。若年の頃から戦場での判断力や人の動きを読む力にも長けており、後年には政治や領国経営においても非凡な手腕を発揮する人物へと成長していきます。
放浪の若年期と武将としての基礎
13歳で兄を戦死によって失い家督を継承した高虎は、ほどなく近江の戦国大名である浅井長政に仕えます。
そして元亀元年(1570年)、姉川の戦いで初陣を飾りました。
足軽として戦場に立ち、実戦の中で武士としての第一歩を踏み出しています。
しかし浅井氏が滅亡すると、高虎は浪人となり、阿閉氏、磯野氏、津田信澄らのもとを転々とする生活に入ります。
この時期の高虎は、まだ小禄の武士に過ぎませんでしたが、各地を歩くことで戦場感覚を磨き、同時に乱世を生き抜くための現実的な処世術を身につけていきました。
戦国という動乱の時代の中で、高虎は一人の主君に固執することなく、その時々の情勢を見極めながら仕官先を替えていきます。
七度も主君を変えたことから、後世には「渡り奉公人」とも語られますが、これは単なる身勝手な転身ではありませんでした。
高虎はその都度、戦場での働きや実務能力によって信頼を勝ち取り、自らの居場所を切り開いていったのです。
この放浪の時代に、高虎は数多くの合戦と城を目にし、自然と城郭構造や防御のあり方にも関心を深めていきました。
豊臣兄弟・秀長との出会いと飛躍
転機となったのは天正4年(1576年)でした。
藤堂高虎は、当時織田信長の重臣として勢力を拡大していた豊臣(羽柴)秀吉の弟である豊臣(羽柴)秀長(ひでなが)に300石で召し抱えられます。
この「三百石」とは、およそ三百人分の一年間の食糧に相当する収入であり、武将としては極めて小規模な身分でした。
家臣団を抱えることも難しく、高虎はほぼ一介の実戦要員として秀長のもとに身を寄せたに過ぎませんでした。
後に歴史に名を残す大名へと上りつめる高虎にとって、ここがまさに出発だったのです。
秀長のもとに入って以降、高虎は紀州征伐や各地の戦役に参加し、実戦の場で武働きを重ねていきます。
勇猛な戦いぶりで知られる一方、合戦の合間には陣地構築や普請にも関わり、軍事と実務の両面で経験を積み重ねていきました。
天正11年(1583年)には賤ヶ岳の戦いに参戦し、豊臣方の武将として武働きを重ねます。
続く天正13年(1585年)には紀州平定に従軍し、さらに同年、平定後に行われた粉河城の築城に深く関与しました。
この粉河城普請は、高虎にとって初めて本格的に携わった築城とされます。
地形を生かした防御構造や兵の動線を重視した実戦的な城づくりで、高虎は現場を通じて城郭構造への理解を深めていきました。
この経験こそが、後に「築城の名手」と称される高虎の原点となります。
こうした賤ヶ岳での武働き、紀州平定への従軍、さらに粉河城築城という一連の功績は、やがて秀吉の目にも留まり、高虎は紀伊国粉河一万石を与えられ、独立した領主として取り立てられました。
もとは小身の浪人武士であった高虎が、大名への道を歩み始めたのです。
主君の死と出家…武士を捨てようとした藤堂高虎
豊臣政権下で着実に地位を高めていった藤堂高虎でしたが、主君であった羽柴秀長が天下統一を果たした翌年、天正19年(1591年)1月22日に大和郡山の居城にて52歳で病没しました。
その後、秀長の養子である豊臣秀保に仕えることになりますが、この秀保も17歳という若さでこの世を去り、高虎は再び主を失うこととなります。
相次ぐ主君の死は高虎に大きな影を落としました。
秀保の菩提を弔うため、高虎は一時出家して高野山に入ります。
武士としての人生から身を引こうとしたこの時期は、高虎の生涯の中でも重要な一幕と言えるでしょう。
ところが、その才能を惜しんだ豊臣秀吉の命により還俗を命じられ、高虎は再び武士の世界へと戻ることになるのです。
伊予の地で開花した才覚
復帰した高虎に与えられたのが、伊予国板島(現在の宇和島市)七万石でした。
こうして高虎は、伊予国(現在の愛媛県)と深く関わることとなります。
伊予入封後の高虎は、領国経営と築城に力を注ぎ、旧来の板島城を大改修して城名を宇和島城と改めます。
ここでも高虎は実戦を意識した堅固な城づくりを行い、地形を生かした防御構造や兵の動線を重視するなど、築城家としての評価をさらに高めていきました。
さらに1597年から始まる文禄・慶長の役では水軍を率いて朝鮮半島へ渡り、蔚山の戦いなどで戦果を挙げています。
この遠征によって海上戦闘や補給線維持の実務経験を積んだことは、後に海城である今治城を構想するうえで極めて重要な意味を持ちました。
帰国後、高虎はその戦功と働きを評価され、伊予大洲一万石を加増されました。
これにより、所領は宇和島七万石と合わせて計八万石に達し、伊予国における存在感をさらに高めることになります。
崩れゆく豊臣体制
慶長3年(1598年)8月、豊臣秀吉が没すると、豊臣政権は急速に不安定化します。
後継者である秀頼はまだ幼く、政権の実務は五大老・五奉行と呼ばれる重臣たちによる合議制で運営されることになりました。
しかしこの体制はもともと脆弱でした。
なかでも最大の勢力を持っていたのが、五大老筆頭の徳川家康です。
「五大老」豊臣政権の最高幹部・家康の台頭
「五大老」とは、豊臣秀吉の死後、幼少の豊臣秀頼を補佐し、政権を支えるために置かれた以下の最高幹部の大名たちのことです。
・徳川家康
・前田利家
・毛利輝元
・上杉景勝
・宇喜多秀家
本来は協力して豊臣家を支える体制でしたが、実際にはそれぞれが独自の勢力と利害を抱えており、統一的な意思決定は困難でした。
とくに最大の石高と軍事力を持つ徳川家康の存在は突出しており、次第に政局の主導権は家康を中心に動くようになっていきます。
「五奉行」豊臣政権の実務を担った5人の官僚
この状況に強い危機感を抱いたのが、五奉行の中心人物である石田三成でした。
「五奉行」とは、豊臣政権の実務を担った、いわば最高官僚グループのことで、主に内政・財政・裁判・軍事動員などを担当していました。
五大老が「軍事と大名統制」を担う存在だったのに対し、五奉行は「政務の中枢」を支える役割を果たしていたのです。
・石田三成
・増田長盛
・長束正家
・前田玄以
・浅野長政
いずれも秀吉の側近として行政能力を評価された人物で、とくに石田三成は財政・兵站・検地などを担当し、豊臣政権の実務を支える中心的存在でした。
石田三成が感じた豊臣政権崩壊の危機
秀吉の死後、五大老筆頭である徳川家康が諸大名との縁組や領地再編を進め、急速に勢力を拡大していきました。
これは五奉行の中心人物である石田三成にとって、到底受け入れられるものではありませんでした。
三成にとって家康の動きは、単なる権力争いではなく、豊臣家の体制そのものを揺るがしかねないものに映っていたのです。
そもそも三成が、これほどまでに豊臣家に忠誠を尽くした背景には、その生い立ちが深く関係しています。
近江国に生まれた三成は、幼い頃に大原観音寺へ預けられていました。
ある日、そこへ立ち寄ったのが豊臣秀吉でした。
このとき三成は、秀吉に三杯のお茶を差し出したと伝えられています。
一杯目はぬるめのお茶をたっぷりと、二杯目は温かいお茶を半分ほど、そして三杯目には熱いお茶を少量。
この心遣いは、まず喉の渇きを癒し、次に味を楽しみ、最後にじっくりと余韻を味わってもらおうとするものでした。
この気配りに深く感動した秀吉は、三成を家臣として取り立てます。
以後、三成は秀吉の恩に報いるため、政務・財政・兵站といった実務の中枢を担い、豊臣政権を支える存在へと成長していきました。
そのため、秀吉亡き後も三成は「豊臣家を守ること」そのものを自らの使命と考え、家康の台頭を強く警戒します。
こうして、豊臣家の存続を第一に考える三成と、実力を背景に政局を主導しようとする家康との対立は、次第に避けられないものとなっていきました。
関ヶ原の戦いと藤堂高虎の決断
もともと家康とも交流があった高虎は、秀吉没直前の頃から家康に接近し、豊臣家臣団が分裂していく中で、早くも徳川方に与する決断を下します。
ところが出陣の途中、石田三成が挙兵したとの報がもたらされます。
家康はただちに軍を反転させ、諸大名に動員をかけ、事態は一気に全国規模の内戦へと発展していきました。
同年9月、美濃国関ヶ原において東西両軍が激突します。
これが、天下分け目の戦いとして後世に語り継がれる「関ヶ原の戦い」です。
この戦いは「豊臣家と徳川家の戦い」と誤解されがちですが、当時の家康はあくまで豊臣政権の筆頭大名であり、形式上は豊臣家臣でした。
一方の三成も豊臣政権の中枢を担う官僚武将です。
つまり関ヶ原の戦いとは、豊臣政権内部で起きた最終的な主導権争い、いわば内部抗争だったのです。
高虎は東軍として家康に従い、本戦では先鋒の一翼を担って早朝に大谷吉継隊と衝突。
その後も山中方面へ転戦し、西軍総大将である石田三成の軍勢と交戦しています。
さらに伊予国内では、留守となっていた高虎領で毛利輝元の策動による一揆を鎮圧。
加えて、浅井氏時代からの人脈を生かし、脇坂安治、小川祐忠、朽木元綱、赤座直保ら西軍諸将に働きかけ、東軍への内応工作を進めたとも伝えられています。
これら戦場内外での働きが戦況に大きな影響を与え、東軍勝利の重要な一因となりました。
関ヶ原本戦の敗北後、三成は伊吹山方面へ逃走しますが、間もなく近江国で捕縛され、京へ護送されます。
そして慶長5年(1600年)10月、六条河原において処刑されました。
こうして豊臣政権内部の主導権争いは、徳川家康の勝利という形で決着を迎え、戦国時代は事実上終焉へと向かっていくのです。

関ヶ原古戦場2 撮影:sabi(写真AC)
藤堂高虎、今治へ
関ヶ原の戦い終結後、高虎の功績は家康からも高く評価されます。
同年、家康は高虎を宇和島八万石の領主として安堵し、あわせて伊予今治十二万石を加えました。
これにより高虎の所領は計二十万石となります。
高虎は桜井地区の国分山城(古国分山・唐子山)を居城として統治を開始しました。

当時の戦国大名にとって、新領地を得た際に最も重要な仕事は、政治・軍事・経済の拠点となる城を整備することでした。
城は単なる防御施設ではなく、城下町の形成や領国経営の中枢となる存在だったのです。
しかし、国分山城は中世以来の山城で、急峻な地形を利用した防御力には優れていたものの、物資の集散や港町の形成には不向きでした。
そこで高虎は、瀬戸内海交通の要衝である今張浦(いまはりうら)沿岸部に着目します。ここは海運の拠点として理想的な立地であり、交易や城下町の発展に直結すると考えたのです。
慶長7年(1602年)から築城工事を開始し、慶長9年(1604年)には今治城と城下町が完成しました。
今治城は堀に海水を引き込む海城(うみじろ)として設計され、防御性の高さと海運活用の両立を実現しました。
この構造は後世まで高く評価され、現代の今治港にもつながる発展の原点となります。

今治を離れた藤堂高虎の新たな役割
一方で、高虎の今治統治は長く続きませんでした。
慶長8年(1603)、徳川家康は征夷大将軍に任じられ、名実ともに政権を掌握しました。
しかし当時、大坂城には豊臣秀吉の嫡子である豊臣秀頼が健在で、西国にはなお豊臣恩顧の外様大名が多数存在していました。
こうした情勢に強い警戒感を抱いた家康は、京への入口や主要街道の要衝、大坂城を包囲する軍事的要地を中心に、防衛網として各地の城郭整備を進めます。
これらは諸大名に工事を割り当てる「天下普請」によって実施され、新たに成立した徳川政権の軍事基盤を固める国家的事業でもありました。
高虎は各地で縄張(城の基本設計)や普請の指揮を任され、徳川政権の城郭網構築に深く関与しました。
とくに重要だったのが江戸城の天下普請です。
当時の江戸城はまだ簡素な構えで、将軍家の居城としては十分とは言えませんでした。
家康は江戸を名実ともに天下の中心とするため、本格的な城郭整備に着手し、その指揮を高虎に託します。
高虎は江戸城の外郭石垣や高石垣の築造、堀の設計などを担当したとされ、とくに石垣を高く積み上げる工法や、水利を考慮した堀の配置において卓越した技術を発揮しました。
また層塔式天守の築造にも深く関わったと伝えられ、天守台や主要な石塁の整備は、高虎を中心に進められたと考えられています。
この築城政策の中核を担ったのが、築城技術に卓越した藤堂高虎でした。
高虎は石垣築造や堀の設計など重要部分を任され、実戦を想定した合理的な城郭構造を江戸の中心部に落とし込んでいきます。
その結果、江戸城は次第に壮麗な近世城郭へと姿を変え、やがて「天下の名城」と称される巨大城郭へと発展していきました。
津藩初代藩主として伊勢へ
慶長13年(1608年)、江戸城普請をはじめとする築城事業での功績が徳川家康から高く評価され、藤堂高虎は伊勢・伊賀あわせて約三十二万石で転封され、伊勢津を本拠として津藩を開き、津藩初代藩主となりました。
高虎が去った今治は、家臣で養子でもあった藤堂高吉が今治城城代として統治を引き継ぎました。
この人事は、単なる加増ではなく、江戸と京都の中間に高虎を配置することで、西国大名への抑えとする家康の戦略的判断だったとも考えられています。

津城 藤堂高虎の銅像 撮影:ねこしゃん(写真AC)
「大坂の陣・冬の陣」かつての主家と向き合う決断
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣、翌元和元年(1615年)の大坂夏の陣では、藤堂高虎は徳川方として参戦し、かつて仕えた豊臣家と戦うことになります。
最終的に豊臣氏は滅亡し、戦国時代は完全に終わりを告げました。
こうして藤堂高虎は、かつて仕えた豊臣秀吉の家と敵味方として相まみえるという苦い立場に立ちながらも、徳川家康の政権成立を軍事面から支えた中心人物の一人となりました。
「今治藩主ではなかった理由」
この一連の功績は家康から高く評価され、寛永12年(1635年)、藤堂家は伊賀国名張を重視する体制へと移行し、伊予今治から完全に退くことになります。
これにより、藤堂家による今治統治は、およそ35年間で幕を閉じました。
藤堂家の退去後、今治に入封したのが久松松平家です。
以後、今治は江戸幕府体制のもとで、正式な藩として整えられていきます。
ここで重要なのは、「藩」という制度がまだ確立途上だった点です。
江戸時代の藩とは、幕府が諸大名に与えた領地を基盤に、その大名が行政・軍事・司法を一元的に担う体制を指しますが、この仕組みが制度として整うのは17世紀前半になってからでした。
高虎が今治を治めていた慶長年間(1600年〜1608年)は、江戸幕府成立直後の過渡期にあたり、藩制度はまだ固まっていません。
そのため歴史的には、高虎は今治城主(領主)ではあっても、「今治藩主」ではなかったのです。
藤堂高虎が残した今治のかたち
それでも高虎は、短い統治の中で今治城と城下町を築き、港と町を一体化させる都市構造を整えました。
これが後の今治藩の基盤となり、近世から現代まで続く今治の街づくりの骨格を形づくったのです。
高虎が設計した城の内港は、後に今治港として受け継がれ、大正11年(1922年)には四国で初めて外国貿易港に指定されました。
港の発展は市の経済や文化を支え、今治は瀬戸内の要衝として成長を続けます。

こうした功績から、高虎は「今治市の基盤を築いた偉人」として市民に広く親しまれています。
平成16年(2004年)には、市内中心部の吹揚公園に高虎像が建立され、その姿は今も港町を見守り続けています。
令和4年(2022年)、今治港が開港100周年を迎える節目の年には、藤堂高虎公にゆかりのある5都市(津市・伊賀市、甲良町、熊野市、今治市)が集う「高虎サミット」が開催されました。
藤堂高虎が残した遺産は、400年以上の時を超えて、今も今治の風景と人々の記憶の中に息づいているのです。
次の記事はコチラ:【今治城の歴史⑩】今治を形づくった戦国武将・藤堂高虎の生涯(後編)