今治の礎を築いた藤堂高虎、その終焉の地をたどる
今治城を築き、城下町と港町の礎を整えた武将・藤堂高虎(とうどう たかとら)は、どこに眠っているのでしょうか。
もちろん今治にある「今治藩主の墓(久松松平家歴代藩主の墓)」に葬られているわけではありません。
高虎は今治城を築いた人物ではありますが、今治藩主ではなかったためです。
前回の記事はコチラ:【今治城の歴史⑨】今治を形づくった戦国武将・藤堂高虎の生涯(前編)

実は高虎の墓所は、東京都台東区。
日本で最初の動物園で、現在も年間多くの来園者が訪れる東京を代表する観光地、上野動物園の園内にあります。

多くの人が動物たちを目当てに訪れるこの場所に、戦国を生き抜いた名将の眠る場所があることは、あまり知られていません。
藤堂家墓所は一般公開されておらず、上野動物園の園内マップや公式案内にも掲載されていないため、その存在を知る人は限られています。

しかし、この一帯はもともと寛永寺の境内地であり、江戸時代には将軍家ゆかりの寺院を中心とした政治と歴史の重要な舞台でもありました。
この地に高虎が葬られた背景には、徳川幕府の中で果たした重要な役割が深く関わっています。
ここからは、今治を離れた後の高虎の足跡をたどりながら、晩年に至るまでの人生を追っていきます。
徳川政権と宗教への貢献
伊勢津藩初代藩主となった藤堂高虎は、外様大名(とざまだいみょう)でありながら徳川家康から格別の信頼を寄せられた存在でした。
「外様大名」とは、家康が関ヶ原の戦いに勝利した後になって徳川政権に従った大名を指し、もともと徳川家の直臣であった譜代大名とは異なり、政治の中枢からは距離を置かれるのが一般的でした。
多くの場合、要職には就けず、幕府から警戒される立場にあったのです。
そのような立場でありながら、高虎は異例とも言えるほど厚く家康から信頼され、徳川政権を実務面から支える中心人物となっていきます。
その働きぶりは、単なる一大名の域を超え、「徳川家が治める国の基盤を実務で支える人物」として認識されていたと考えられます。
その象徴的な出来事が、徳川家康の神格化事業への参加でした。
徳川家康の遺言と東照宮のはじまり
死の直前、家康は「遺体は久能山に納め、一周忌が過ぎたならば日光山に小さな堂を建てて勧請し、神として祀ること。そして八州の鎮守となろう」と遺言したと伝えられています。
これは単なる個人的信仰ではなく、自らを神として祀らせることで、徳川の治世そのものを霊的に守護させようとする、きわめて政治的な国家構想でした。
元和2年(1616年)4月17日、75歳で家康が薨去すると、その御遺命に従い、遺骸はいったん駿河国の久能山へと運ばれます。
これに伴い軍事拠点であった久能城は廃され、その跡地に家康を神として祀る社殿が建立されました。
これが、のちに「東照宮」と呼ばれることになる久能山東照宮で、創建当初は「東照社」と称されていました。

久能山東照宮 撮影:baggio4ever(Wikimedia Commons) CC BY-SA 4.0
もっとも、久能山はあくまで最初の鎮座地に過ぎませんでした。
家康の本意は、関東と東国全体を見渡す日光の地において、自らを国家守護の神として祀らせることにありました。
そのため、日光では藤堂高虎によって本格的な社殿造営が進められ、元和3年(1617年)4月、ついに日光東照宮の社殿が完成しました。
朝廷から家康に「東照大権現」の神号と正一位の位階が追贈され、4月8日(新暦5月12日)には奥院廟塔へ改葬、さらに家康死去一周忌にあたる4月17日には盛大な遷座祭が執り行われました。

Nikko toshogu shrine 撮影:Koichi Sato(Wikimedia Commons) CC BY-SA 4.0
こうして家康は、人間の将軍から“神君”へと位置付けられ、日光東照宮を中心として東照信仰は全国へ広がっていきます。
各地に東照宮・東照社が創建され、徳川政権の正統性は軍事や政治だけでなく、「宗教」という形でも強固に裏付けられていきました。
そして、この国家的事業の中核を担った高虎の働きは、単なる築城奉行の役割を超えたものとして高く評価され、同年10月1日には領地が整理され、石高三十二万石余が与えられました。
こうして藤堂高虎は名実ともに大大名となり、徳川政権を支えた武将として、日本史にその名を刻む存在となったのです。
「天海僧正と藤堂高虎の協働」家康に仕えた二人の役割
藤堂高虎と並び、徳川家康から深い信頼を寄せられた人物がいます。
それが、天台宗の高僧・天海(てんかい)僧正です。
天正10年(1582)、天海は武蔵国無量寿寺(現在の埼玉県川越市)に入寺し、この頃から「天海」の名を用いるようになったと伝えられています。
その後家康と出会い、やがて両者は天台宗に深く帰依する関係となりました。
慶長14年(1609)頃から家康は天海を側近として重用し、単なる僧侶ではなく、朝廷との折衝や宗教政策を担う重要な参謀役として遇します。
以後、天海は家康・秀忠・家光の三代に仕え、徳川政権の精神的支柱とも言える存在になっていきました。
高虎と天海は家康が薨去する約二か月前、家康の枕元に呼ばれ、「三人一つ処にて、末永く魂の鎮まるところを作ってほしい」と遺言を託されたと伝えられています。
この遺志を受けた天海は、徳川の安泰と万民の平安を祈願し、江戸城の鬼門にあたる上野の山を“東の比叡山”と定め、ここに寛永寺を建立します。

京都の比叡山延暦寺になぞらえ、江戸を霊的に守護する防衛線を築こうとした壮大な構想でした。
そして、この国家的事業にも高虎は深く関わりました。
当時、この上野一帯には高虎をはじめ複数の大名の下屋敷が存在していましたが、高虎は自らの屋敷地を差し出し、寺域や参詣路の整備に協力しました。
単なる用地提供ではなく、参道の動線、伽藍配置、周辺地形との関係まで含めた総合的な設計に高虎は関与しました。
築城で培った「人の流れを制御する技術」が、ここでは宗教都市計画として生かされたのです。
さらに寛永4年(1627)、高虎は寛永寺境内に東照社を奉納します。
後に宮号を賜り、これが現在の上野東照宮になります。

一説によれば「上野」という地名も、高虎の城地である伊賀上野に由来するといわれています。
また天海は、吉野山から譲り受けた桜を上野の山に移植し、境内一帯を桜の名所として整えました。
これにより上野は、江戸時代から庶民の花見の名所として親しまれるようになり、現在も「さくら名所100選」に名を連ねる、日本有数の花見の地として、春になると多くの人々でにぎわっています。
寒松院の創建と藤堂家墓所
寛永年間(1620年代)、初代津藩主の藤堂高虎は、上野東照宮の創建と法要にあたり、隣接していた自らの下屋敷地を含む一帯を提供し、別当寺として寒松院を建立しました。
そしてここを藤堂家の菩提寺と定めます。

寒松院は、寛永寺の子院(塔頭)の一つとして上野山内に配され、創建当初から上野東照宮を支える別当寺の役割を担いました。
徳川将軍家と藤堂家の精神的な結び付きを象徴し、双方の信仰と格式を体現する寺院として、特別な位置付けを与えられていたのです。
寺名「寒松院」は、初代津藩主・藤堂高虎の法名(戒名)「寒松院殿道賢高山権大僧都」に由来します。
そして、この寺名にも、徳川家康と高虎との深い信頼関係を伝える次のような逸話が残されています。
病床の家康は高虎の手を取り、「あなたの助けがなければ、今日の天下太平は成し得なかった。ただ一つ心残りなのは、宗門が異なるため、来世の浄土を共にできないことだ」と語りかけました。
これを聞いた高虎は深く胸を打たれ、涙を流しながら「上様と同じ天台宗に帰依いたします」と応じ、天台宗へ改宗しました。
そして、この時天海から寒松院という法名を授けられたといいます。
この出来事は、高虎と家康との深い信頼関係を象徴する逸話として、後世まで語り継がれています。

戦場を駆け抜けた武将・藤堂高虎の最期
晩年の高虎は家督を養子の藤堂高次に譲り、江戸向柳原(現在の東京都墨田区両国周辺)にあった藤堂家江戸藩邸で、静かな余生を送っていました。
しかし、長年の戦歴によって刻まれた身体の傷に加え、元和9年(1623年)頃から患い始めた眼病のため、次第に視力を失っていきました。
寛永7年(1630年)頃には、ほぼ失明に近い状態であったとも伝えられ、自らその重篤な視機能障害を嘆いていた記録も残されています。
こうした身体の不調によって体力的にも衰えていったのかもしれません。
寛永7年10月7日(1630年11月6日)、高虎は老衰により同藩邸にて生涯を閉じました。
享年75歳。
それは晩年に深く信任された徳川家康と同じ年齢であり、主従として歩んだ最後の時を、静かに重ね合わせるかのようでした。
全身に刻まれた戦の痕
伝承によれば、没後に遺体を清めた際、その身体には鉄砲傷や槍傷が無数に残り、傷のない場所を探すのが難しいほどであったといいます。
右手の薬指と小指は失われ、左手の中指は短く、足の指には爪を欠いたものもあったと伝えられています。
さらに手の指には多くの豆があり、これは戦場で馬を駆り、鞍を叩き続けたためだと、高虎自身が生前に語っていたともいわれます。
築城の名手、現実主義の政治家として知られる一方、その肉体は、まさに生涯戦場の最前線に立ち続けた武将であったことを雄弁に物語っていました。
寒松院の寺勢と近代以降の変遷
寒松院は江戸時代を通じて整備が進み、本堂・書院・位牌堂を備えた堂々たる伽藍を構える大寺院へと発展していきました。
寺領としては四百石が与えられ、さらに末寺は十八か寺を数えるなど、藤堂家の厚い庇護のもとで安定した寺勢を保ち続けます。
寺院の維持や修繕、年中行事に至るまで藩費によって賄われ、藩主は毎月欠かさず参拝し、歴代藩主の命日には必ず法要が営まれるのが慣例でした。
こうしたあり方からも、寒松院が単なる墓所ではなく、藤堂家の祖霊信仰と家の結束を支える精神的中枢として、極めて重視されていたことがうかがえます。
しかし、明治維新によって藩制度が廃止されると、寒松院は藤堂家による経済的・制度的な保護を失い、寺院の基盤は大きく揺らぐことになります。
二度の戦災を越え、寒松院と藤堂家墓所がたどった道
さらに明治元年(1868)の戊辰戦争では、上野一帯に旧幕府将軍・徳川慶喜の警護を名目として結成された佐幕派の武装集団・彰義隊(しょうぎたい)が立てこもり、激しい戦闘が繰り広げられました。
この戦いで寛永寺は新政府軍の総攻撃を受け、根本中堂を含む伽藍の多くが焼失し、広大な寺領の大半を失う壊滅的な打撃を被ります。
この戦火により寒松院も焼失しました。
戦後、旧寛永寺境内は政府の管理下に置かれ、1873年(明治6年)の「古来名勝旧跡と称する地は公園とせよ」という政府方針により、東叡山寛永寺(上野)の旧境内地は上野公園(現:上野恩賜公園)として整備されました。
その後、明治21年(1888)、寒松院は寛永寺本坊(上野公園内)裏手の旧本坊西側にあたる土地へ移され、再建されました。
ところが昭和20年(1945)、太平洋戦争末期の東京空襲によって再び戦災に遭い、寒松院は二度目の焼失を経験します。
戦後、寒松院は現在の上野公園東側、東京国立博物館敷地脇へ移転して再建されましたが、境内は往時と比べて大幅に縮小されました。
その結果、藤堂家の墓所は旧境内地に取り残され、上野動物園の園内に残される現在の形になりました。

戦火を越えて守られた藤堂家墓所
藤堂家の墓所は、幾度もの戦火と災害をくぐり抜けながら、今日まで守り伝えられてきました。
戊辰戦争では、旧幕府軍の本陣が上野東照宮の境内に置かれ、上野一帯は激しい戦場となりました。
寛永寺の伽藍の多くが焼失する中でも、上野東照宮や藤堂家の墓所は直接の戦火を免れ、奇跡的に残されています。
さらに関東大震災でも大きな被害を受けることなく、昭和20年(1945)の東京大空襲においても、周囲が焼夷弾によって甚大な被害を受ける中、墓所近くに落とされた焼夷弾が不発に終わるという幸運に恵まれました。
こうして残された藤堂家墓所には、初代津藩主・藤堂高虎から第十代・高兌(たかあきら)までの歴代藩主の供養塔が10基、そして高虎夫人をはじめとする親族の墓4基が、南北二列に向かい合うように並んでいます。

それぞれ3メートル50センチを優に超す堂々たる墓塔や供養塔で、その重厚な姿は、静寂の中にあっても大名家の威厳を今に伝えています。
高虎の墓は、一列に並ぶ9基のうち、ちょうど中央にあたる5基目(写真一番左)に据えられています。
藤堂家の祖として、一族を見守るようにその中心に鎮座しているのです。
この墓所は寒松院の管轄下にあり、台東区指定史跡として保存管理されています。
関係者以外の立ち入りは禁止され、上野動物園の園内の非公開区域に石塀で囲まれているため、内部からの撮影はできませんが、門や塀の外から外観を望むことは可能です。

門越しに見える石垣と木立は、今も静かな時を刻みながら、藤堂高虎の生涯と、その後に続いた藤堂家の歴史を変わらず伝え続けています。
今治の礎を築いた藤堂高虎は、いまも東京の上野に静かに眠っています。
城づくりに生涯を捧げ、各地の基盤を整えた高虎の足跡は、瀬戸内の港町・今治市と、江戸の中心地であった上野という二つの土地を、時を越えて結び続けています。
それは、歴史や遺産が時と距離を超えて受け継がれていくことの証であり、現在も私たちの暮らしの中で確かに続いています。