足利義満が描いた新たな時代と河野氏
天授五年/康暦元年(1379年)11月6日、佐々久原の戦いで河野通直(通堯)は細川頼之と激戦を繰り広げた末、自ら命を絶ちました。
その後、細川軍は東予へ進軍し、新居郡・宇摩郡をはじめとする東予一帯は再び細川氏の勢力下に入ります。河野氏が苦難の末に奪還した伊予国は、再び細川氏の支配下へ戻ることになったのです。
しかし、それでも河野氏の血筋が絶えることはありませんでした。
通直には、二人の幼い男子が残されていたのです。
- 嫡子・亀王丸(10歳)
- 次男・鬼王丸(8歳)
父を失った幼い兄弟は、河野宗家の未来を託された最後の希望でした。
やがて二人は成長し、激動の南北朝時代を生き抜きながら、再び河野宗家再興への道を歩み始めることになります。
前回の記事はこちら:《世田山合戦⑪》細川頼之、再び伊予へ……。世田山の因縁から十五年「河野通直(通堯)最後の戦い
十歳で河野宗家を継いだ亀王丸
通直が亡くなると、嫡子・亀王丸は河野宗家第五十六代当主として家督を継承し、わずか十歳で河野宗家の命運を担うことになりました。
しかし、その年齢では武将として戦場へ立つことはもちろん、自ら軍勢を率いることもできませんでした。
しかも河野氏を取り巻く情勢は極めて厳しいものでした。
東予地方には細川軍が駐留し、一族の有力武将の多くは佐々久原の戦いで命を落としています。
細川氏がさらに進軍すれば、河野宗家そのものが滅亡する可能性も十分に考えられる状況でした。
それでも、「宗家を絶やしてはならない」という一族の強い思いが揺らぐことはありませんでした。
代々河野宗家を支えてきた十八家は、幼い亀王丸を中心に再び結束します。
それが、今岡・富岡・土居・得能・重見・森山・南・平岡・新居・来島・高市・今井・大井・石川・石井・久米・桜井・徳永の十八家です。
さらに、今岡・正岡・黒川・和田をはじめとする十八人の侍大将も定められ、一族は再び戦乱の時代へ立ち向かう体制を整えていきました。
幕府が下した河野氏存続の決断
そのころ、北朝方の本拠である京都の室町幕府では、伊予国で起きたこの出来事が大きな政治問題となっていました。
細川頼之は、康暦の政変によって管領職を罷免され、将軍・足利義満の命により蟄居していた身でした。
その頼之が、幕府の公命を受けることなく伊予へ侵攻し、幕府が正式に伊予守護へ任じていた河野通直を討ち取ったのです。
幕府では直ちに重臣たちによる評議が開かれました。
その結果、「たとえ頼之に大義があったとしても、公命なく一国へ攻め入り、幕府が任じた守護を討つことは決して許されるものではない」との結論に達します。
さらに、「河野氏には速やかに本領を安堵し、伊予国守護としての地位を改めて認めるべきである」という方針が決定されました。
これは河野氏を救済するだけではありません。
守護を任命する権限はあくまでも室町幕府にあり、武力によって守護を討ち替えることは認めないという、若き将軍・足利義満の強い政治的意思を全国へ示す意味もあったのです。
河野宗家再興を託された宮下野入道
幕府は、河野宗家を再興するため、宮下野入道に重要な使命を託しました。
それは、通直の弟・河野通昌を探し出し、京都へ迎えることでした。
当時の河野宗家は当主を失い、一族も離散するなど、存亡の危機にありました。
そのため、通昌を迎え、河野宗家の再建を進めることは、幕府にとって最優先の課題だったのです。
通昌は、周防国鼈戸関(へとのせき、現在の山口県下関市付近とされる)の柴庵に身を寄せ、人目を避けるように暮らしていました。
宮下野入道は周防国まで赴き、ついに通昌を探し当てます。
そして幕府の決定を伝え、河野宗家再興のため京都へ向かうよう説得したと伝えられています。
こうして二人は、河野宗家再興という大きな使命を胸に、京都への旅へ出発しました。
しかし、その願いがかなうことはありませんでした。
二人が西国街道を東へ進み、播磨国室津へたどり着いたところで、通昌は以前から患っていた病が再発します。
懸命の看病もむなしく、通昌はそのまま息を引き取り、京都へたどり着くことはできませんでした。
河野宗家再興という大きな使命は、目前で果たされることなく終わってしまったのです。
それでも宮下野入道は使命を諦めませんでした。
京都へ戻ると朝廷へ参上し、「通直には二人の子がおります。どうかその子らへ宣旨をお与えください」と願い出ました。
この進言によって、幕府は通直の遺児へ河野宗家を継承させる方針を固めました。
将軍・足利義満が認めた河野宗家
天授六年/康暦二年(1380年)2月13日、将軍・足利義満は、通直の長子・亀王丸へ、亡父・河野通直の忠節を称える御感御教書(武功や忠節を賞した将軍の公式文書)を与えました。
そこには、「亡父・河野通直の忠節は誠に神妙である」と記され、佐々久原(佐志久原)の戦いで最後まで戦い抜いた通直の忠義が、将軍によって正式に認められたのです。
さらに同年4月16日、義満は亀王丸に対し、伊予国守護職と河野氏代々の本領を正式に安堵する御教書を発しました。
その内容は、「伊予国守護職ならびに本知行については、河野通信以来の先例に任せ、相違なくこれを安堵する」というものでした。
これは、河野氏が代々受け継いできた守護職と所領を、そのまま幼い亀王丸へ正式に認めるという、幕府の明確な意思表示でした。
河野十八家にも与えられた将軍の御判
幕府が保護したのは、幼い亀王丸だけではありませんでした。
同じ4月16日には、一族や家臣たちの知行地についても相次いで安堵が行われます。
さらに、代々河野宗家を支えてきた河野十八家にも、それぞれ将軍・足利義満の花押を据えた御判が与えられ、その所領や立場が幕府によって正式に認められました。
つまり幕府は、河野宗家だけではなく、それを支える家臣団全体を保護することで、河野氏の支配体制そのものを維持しようとしたのです。
これは単なる恩賞ではありませんでした。若き将軍・足利義満が全国へ向け、「伊予国の正統な守護は河野氏である」という意思を明確に示し公式の宣言でもあったのです。
こうして幼い亀王丸は、多くの一族や家臣たちに支えられながら、幕府公認の伊予守護として新たな一歩を踏み出しました。
なぜ義満は河野氏を存続させたのか
こうした幕府の裁定の背景には、四国における勢力均衡を維持しようとする政治的判断がありました。
若き将軍・足利義満は、守護大名同士が互いに均衡を保つことで、将軍権力の強化を図ろうとしていたのです。
もし伊予国まで細川頼之の勢力下に入れば、かつて「四国管領」と称されるほど四国に強い影響力を持っていた頼之が、再び四国全域を掌握することになりかねませんでした。
一人の守護大名が四国全域に強大な勢力を築くことは、義満が目指す幕府の統治体制に反するものでした。
その事態を避けるため、義満は「河野氏を存続させる」という決断を下したのです。
足利義満が命じた和睦
もっとも、幕府が河野氏を保護したからといって、すぐに情勢が好転したわけではありませんでした。
幼い亀王丸を擁する河野氏には、それでもなお細川氏と正面から戦えるだけの兵力は残されていませんでした。
一方、幕府もまた、細川氏を完全に敵へ回すことは望んでいませんでした。
そこで将軍・足利義満は、河野氏と細川氏の和睦を命じます。
この命令を受けた河野一族は評議を重ねました。
一族の中には、なお徹底抗戦を主張する者もいたと考えられますが、正岡尾張守の進言によって「将軍の命には従うべきである」との結論に達します。
こうして河野氏は幕府の裁定を受け入れることを決断しました。
やがて双方は和気郡福角の北寺で対面し、長年にわたる戦いに終止符が打たれることになります。
この和睦は、単なる停戦ではありませんでした。
将軍・足利義満自らが裁定を下した正式な和議であり、河野氏と細川氏の対立に一つの区切りが付けられたのです。
河野氏と細川氏、戦いに終止符
将軍・足利義満の裁定を受け、河野氏と細川氏は和議を結ぶため、和気郡福角(現在の愛媛県松山市福角町)の北寺に会しました。
しかし、河野宗家当主となった亀王丸は、祖父・通朝の代から続く細川氏との宿怨からか、自らは出席せず、幼い弟・鬼王丸を名代として派遣したと伝えられています。
長年にわたり争い続けてきた両氏は、この北寺でついに同じ席に着くことになったのです。
そして、この和議の席で幕府は最終的な裁定を示しました。
それは、「新居郡・宇摩郡は細川頼之の領知とし、伊予国守護職は引き続き河野氏が務める」というものでした。
これは河野氏にとって厳しい裁定でもありました。
祖父・通朝から父・通直へと受け継がれ、二代にわたって命を懸けて守ろうとした東予二郡を、亀王丸の代で手放さざるを得なくなったからです。
その一方で、周敷郡・桑村郡(現在の愛媛県西条市の大部分)をはじめとする地域は再び河野氏の勢力圏となり、代々受け継がれてきた伊予守護としての地位も守り抜くことができました。
幼い亀王丸を擁する河野氏には、なお細川氏と再び全面戦争を行えるだけの兵力は残されておらず、この和睦は宗家を存続させるための現実的な選択でもあったのです。
こうして、祖父・通朝の代から二十年近く続いた河野氏と細川氏の戦いは、ようやく終止符を迎えました。
伊予国は、守護は河野氏、東予二郡は細川氏という新たな体制のもと、新たな時代へと歩み始めることになったのです。
※なお、後世には東予二郡が河野氏へ返還されたとする説も伝えられていますが、その後の史料からは細川氏による支配が続いたことが確認できるため、現在では東予二郡の実効支配は細川氏が担い、河野氏は伊予守護としての地位を維持したと考えられています。
河野宗家、再び幕府の信任を得る
至徳3年/元中3年(1386年)、亀王丸は成長して元服し、河野通能(こうの みちよし)と名乗りました。
一方、弟の鬼王丸も元服すると、細川頼之との和睦を契機として、頼之から一字を受け、六郎通之(みちゆき)と名乗りました。
父・通直を討ち、祖父・通朝とも長年にわたり争ってきた細川氏。その当主・頼之から一字を受けることは、複雑な思いもあったことでしょう。
しかし、それは長年にわたる両家の争いに終止符が打たれ、新たな時代へ歩み始めたことを象徴する出来事でもありました。
幼い兄弟が受け継いだ河野宗家は、こうして戦乱の時代を乗り越え、再び未来へ向かって歩み始めたのです。
相国寺造営で担った重要な役目
至徳3年/元中3年(1386年)、京都では室町幕府第3代将軍・足利義満の発願により、相国寺(しょうこくじ)の造営が進められていました。

相国寺(京都市上京区)日本現存最古の法堂 撮影:月城昴(Photo AC)
相国寺(京都市上京区)は義満が創建した臨済宗の大寺院で、後に京都五山第二位に列せられる名刹です。
その壮大な造営には全国の守護大名が動員され、各地から良材が京都へ運ばれました。
伊予からも造営用の材木が献上され、その海上輸送の警固を命じられたのが河野氏でした。
父・通直を失い、一時は宗家存亡の危機に立たされた河野氏でしたが、この頃には再び幕府の重要な役目を任されるまでに復興していたのです。
相国寺は義満の威信を象徴する一大事業でした。その海上輸送を任されたことは、河野氏と伊予水軍が瀬戸内海を支える重要な海上勢力として、幕府から高く評価されていたことを示しています。
「通能から通義へ」将軍に認められた伊予守護
さらに嘉慶2年/元中5年(1388年)、亀王丸は伊予守に任じられ、将軍・足利義満から「義」の一字を賜ったことから、それまで名乗っていた通能(みちよし)を改め、通義(みちよし)と称したと伝えられています。
当時の武家社会では、将軍や主君から名前の一字を授かることを偏諱(へんき)といい、主従関係や信任の深さを示す大きな名誉とされていました。
父・通直の死によって幼くして河野宗家を継いだ亀王丸は、多くの家臣たちに支えられながら成長し、やがて将軍・足利義満から「義」の一字を賜るほど厚い信任を受ける当主となります。
こうして河野氏は、幾度もの戦乱を乗り越え、再び室町幕府を支える伊予守護として確かな地位を築きました。
そして、「通能」から「通義」への改名は、河野宗家が幕府の信頼を取り戻し、新たな時代へ歩み始めたことを象徴する出来事となったのです。
将軍・足利義満のもと、変革の時代を迎えた室町幕府
河野通義が将軍・足利義満の信任を受け、伊予守護としての地位を固めつつあった頃、室町幕府では大きな変化が始まっていました。
南北朝の争いはなお続いていましたが、北朝を支える室町幕府の勢力は次第に全国へ広がり、幕府は各地の武士を従える政治組織として、その基盤を固めつつありました。
しかし、当時の幕府は将軍だけの力によって成り立っていたわけではありません。
全国各地を支配する守護大名たちは、それぞれの領国に多くの家臣や国人を抱え、独自の軍事力を持っていました。なかには複数の国の守護職を兼ね、将軍であっても容易には無視できないほどの勢力を築いた一族も存在していました。
室町幕府は、こうした有力守護の軍事力によって支えられる一方、守護大名の勢力が強くなりすぎれば、将軍の命令が十分に行き届かなくなるという矛盾を抱えていたのです。
室町幕府を揺るがせた「康暦の政変」
その問題が表面化したのが、天授5年/康暦元年(1379年)に起こった「康暦の政変」でした。
当時の室町幕府では、わずか十一歳で将軍となった足利義満を補佐する管領・細川頼之が幕政の中心となっていました。
頼之は、九州探題に今川了俊を任じて九州経営を進めるなど、幕府による全国支配の強化を推し進める一方、南朝との和平交渉や幕政改革にも力を注ぎました。
しかし、その強い指導力は、有力守護大名や比叡山などの宗教勢力との対立を次第に深めていきます。
やがて斯波義将・土岐頼康・山名氏ら反頼之派の守護大名は勢力を結集し、軍勢を率いて京都の将軍御所・花の御所を包囲する「御所巻」と呼ばれる実力行使に及びました。
義満はその圧力を受け、頼之を管領職から罷免します。
都を追われた頼之は一族を率いて領国である四国へ退き、その途中で出家しました。
この政変は、遠く伊予国にも大きな影響を及ぼします。
幕府では全国規模で守護職の入れ替え(守護改替)が行われ、伊予守護には河野通直が任じられました。
一方、四国へ戻った頼之は再起を図って伊予国へ侵攻し、河野通直は幕府方の伊予守護としてこれを迎え撃ちます。
こうして伊予国では、佐々久原の戦いをはじめとする激しい攻防が繰り広げられることになりました。
康暦の政変は、有力守護たちが力を合わせれば、幕府最高職である管領さえ失脚させることができるという現実を天下へ示した出来事でした。
同時に、若き将軍・足利義満にとっても、将軍でありながら有力守護たちの意向を無視して政治を進めることのできない、当時の幕府の不安定な権力構造を痛感する出来事でもありました。
しかし、この経験は義満の政治姿勢を大きく変えることになります。
成長した義満は、有力守護に左右される幕府のあり方を改め、将軍自らが政治と軍事を主導する体制を築こうとします。
しかし、強大な守護大名を正面から一度に討伐すれば、かえって全国の守護たちを敵に回しかねません。
また、一人の守護が広大な領国を支配し続ければ、やがて将軍の権威を脅かす新たな存在となることも十分考えられました。
そこで義満は、将軍直属の軍事力である奉公衆の整備を進める一方、守護一族の内部に生じた対立や家督争いを巧みに利用しながら、それぞれの勢力を少しずつ分断し、弱体化させていくことにしました。
「土岐康行の乱」義満が最初に挑んだ有力守護・土岐氏
義満が最初に勢力の抑制を図ったのが、東海地方に強大な勢力を築いていた土岐氏でした。
当時の土岐氏は、美濃・尾張・伊勢・志摩の四か国の守護職を兼ねる有力守護で、幕府の宿老として大きな影響力を持っていました。
その勢力は幕府を支える一方で、将軍にとっては容易に動かすことのできない存在でもありました。
元中4年/嘉慶元年(1387年)、土岐氏の最盛期を築いた当主・土岐頼康が亡くなると、長年その統率力によって保たれてきた一族の均衡が崩れ始めます。
頼康の跡を継いだのは養子となっていた甥の土岐康行でした。しかし、土岐氏の家督や守護職をめぐっては、康行だけでなく、その弟・土岐満貞をはじめ、一族の間に複雑な思惑がありました。
義満は、この内部対立を見逃しませんでした。
満貞は以前から尾張守護を望んでいたとされ、義満は満貞を尾張守護に任じます。しかし、尾張では康行の従兄弟・土岐詮直が大きな勢力を持っており、満貞の入国を拒否しました。
康行は詮直を支援し、満貞を敗走させます。
すると満貞は、この一連の行動は幕府への反抗であると義満へ訴えました。
義満はこれを土岐康行討伐の口実とし、幕府軍の動員を命じます。
こうして、元中6年/康応元年(1389年)から元中7年/明徳元年(1390年)にかけて、「土岐康行の乱」が起こりました。
この戦いは土岐氏の本拠・美濃国を中心に繰り広げられたことから、「美濃の乱」あるいは「美濃土岐の乱」とも呼ばれています。
元中8年/明徳2年(1391年)、康行は美濃国小島城を拠点として幕府軍を迎え撃ちました。
これに対し義満は、土岐頼忠・土岐頼益ら同じ土岐一族にも討伐を命じます。
同じ一族を討伐軍へ加えたことは、この戦いを幕府と土岐氏全体との全面戦争ではなく、一族内部の争いとして処理しようとした義満の巧みな政治手法でもありました。
幕府軍との戦いに敗れた康行は、尾張・伊勢の守護職を失い、美濃守護も叔父・土岐頼忠へ移されます。
土岐氏そのものは滅亡しませんでしたが、美濃・尾張・伊勢・志摩の四か国に及んだ広大な勢力は分割され、将軍に対抗できるほどの力を失いました。
もっとも、康行がその後ただちに政治生命を失ったわけではありません。
翌年の明徳の乱では幕府方として出陣し、戦功を挙げたと伝えられ、その後は伊勢守護へ復帰しています。
義満の目的は、有力守護を完全に滅ぼすことではありませんでした。
一族を分断して勢力を弱め、将軍に従わなければ守護職や所領を失うことを示したうえで、再び幕府の体制へ組み込むことにあったのです。
「明徳の乱」西国最大の守護勢力・山名氏
土岐氏の勢力を抑えることに成功した義満は、次に西国最大の守護勢力であった山名氏へ目を向けます。
山名氏は、新田氏の一族から分かれたとされる有力武士で、南北朝の内乱を通じて勢力を大きく伸ばし、西国屈指の守護大名へと成長しました。
特に山名時氏の代には、一時幕府と対立して南朝方へ転じたこともありましたが、その後は再び幕府へ帰順し、西国各地で守護職を獲得していきます。
その勢力は子や一族へ受け継がれ、やがて一門で全国六十六か国のうち十一か国の守護職を有するまでになりました。
全国のおよそ六分の一にあたる国々の守護職を一族で有していたことから、山名氏は「六分の一殿」と呼ばれました。
守護職を持った国々は、但馬・因幡・伯耆をはじめ山陰・西国各地に及び、日本海沿岸や山陰道を押さえることで、京都と西国を結ぶ重要な交通路にも大きな影響力を持っていました。
さらに、一族の兵力を結集すれば幕府軍とも互角に戦えるほどの軍事力を備えており、義満にとって最大の脅威となる守護勢力でもあったのです。
しかし、そんな山名氏も一枚岩ではありませんでした。
山名時氏の死後、その守護職や所領は一族へ分けられ、山名氏清・満幸・時熙・氏幸らが各地に勢力を築いていました。
広大な領国を維持する一方で、守護職や所領をめぐる対立も次第に深まっていきます。
義満は、この一族の対立を巧みに利用しました。
元中7年/明徳元年(1390年)、義満は山名氏清・山名満幸に命じて、同族の山名時熙・山名氏幸らを討たせます。
氏清らは将軍の命に従って軍勢を動かしましたが、その後、今度は義満が氏清・満幸の守護職や所領に手を加えようとしました。
将軍の命令で同族を討ったにもかかわらず、自らも追い詰められる立場となった氏清と満幸は、幕府への不満を強めていきます。
義満が初めから山名氏の分裂を狙っていたのか、それとも一族の争いが拡大した結果なのかについては、現在もさまざまな見方があります。
しかし結果として、山名氏の結束は大きく崩れることになり、将軍・義満との対立は避けられないものとなっていきました。
そして元中8年/明徳2年(1391年)、氏清・満幸らは幕府への反旗を翻し、ついに武力衝突へと発展しました。
これが「明徳の乱」です。
山名軍は山陰をはじめ各地から兵を集め、京都を目指して進軍を開始しました。
これに対し足利義満も、大内・細川・畠山・赤松・京極氏をはじめ、全国の有力守護へ出陣を命じます。
かつて康暦の政変では、有力守護たちの意向に押し切られ、頼みにしていた細川頼之を罷免せざるを得なかった義満。
しかし、あの政変から十余年。
若き日に守護の顔色を伺っていた義満は、いまや自ら全国の守護を動員し、巨大な山名氏すら討ち果たす軍勢を率いる強大な将軍へと成長を遂げていたのです。
同年十二月、京へ攻め込んだ山名軍と幕府軍は、かつて平安京の大内裏が置かれていた内野(現在の京都市上京区付近)で激戦の火蓋を切りました。
山名氏清は自ら陣頭に立って凄絶な奮戦を見せましたが、全国から集結した圧倒的な幕府軍の前に、次第に劣勢へと追い詰められていきます。
さらに、山名一族のすべてが氏清らに従ったわけではなく、幕府方に属して身内と刃を交える者たちも存在していました。
激戦の末、山名氏清は戦場で討ち死にを遂げ、満幸は京の街から落ち延びていきました。
将軍を頂点とする新たな幕府へ
明徳の乱に敗れた山名氏は、それまで有していた十一か国の守護職の大半を失いました。
一門に安堵された守護国は三か国ほどとなり、「六分の一殿」とまで呼ばれた巨大勢力は大きく縮小します。
もっとも、山名氏そのものが滅亡したわけではありません。
幕府方に従った山名一族には守護職や所領が与えられ、その後も但馬国などを中心に勢力を保ち続けました。後には応仁の乱で山名宗全が西軍の中心人物となることからも、その家名がなお存続していたことが分かります。
義満が明徳の乱によって成し遂げたのは、山名氏を滅ぼすことではなく、その巨大な勢力を分割し、将軍に対抗できない規模へと抑え込むことでした。
土岐氏に続いて山名氏の勢力を大きく削いだことで、有力守護たちは、将軍の命令に背けば守護職や所領を失い、幕府軍の討伐を受けることを思い知らされました。
これにより、義満の将軍としての権威は大きく高まっていきます。
この戦いには、河野通義も幕府の命を受けて出陣したと伝えられています。
詳しい戦功については明らかではありませんが、全国各地の有力守護が動員されたこの戦いに参加したことは、河野氏が室町幕府を支える伊予守護として、重要な地位を占めていたことを示しています。
こうして室町幕府は、有力守護の均衡によって支えられる体制から、将軍・足利義満が政治と軍事を主導する体制へと、大きく姿を変えていきました。
そして義満は、長年にわたって日本を二分してきた南朝と北朝の対立にも、終止符を打とうとしていました。
南北朝時代の終わり、そして室町時代へ
明徳の乱が終結した翌年の元中9年/明徳3年(1392年)、ついにその時が訪れました。
足利義満は南朝との和平交渉を進め、吉野の後亀山天皇(ごかめやまてんのう)に京都への帰還を求めます。
これを受け入れた後亀山天皇は京都へ入り、皇位の正統性を象徴する三種の神器を北朝の後小松天皇(ごこまつてんの)へ引き渡しました。
こうして南朝と北朝は再び一つとなり、これを境に、それまで南朝で用いられていた元中の元号は廃され、日本は統一された朝廷と室町幕府のもと、新たな時代へと歩み始めました。
「山名満幸再び挙兵」河野通義へ下った将軍の命
一方で、義満が築こうとした新たな秩序に従わない者も少なくありませんでした。
その一人が、明徳の乱で敗れた山名満幸です。
明徳4年(1393年)2月5日、満幸は出雲国の有力国人・塩冶遠江入道父子とともに、三刀屋城へ兵を進めます。
塩冶氏は、鎌倉時代に出雲国守護を務めた佐々木氏の一族・頼泰を祖とする名門です。
頼泰が塩冶郷(現在の島根県出雲市周辺)を本拠としたことから塩冶氏を名乗るようになり、代々斐伊川流域を支配して勢力を築きました。
南北朝時代には塩冶高貞が室町幕府の重臣・高師直との対立から足利尊氏の追討を受けて滅亡します。
しかし、その後も弟・時綱の系統が家名を継ぎ、守護代格の有力国人として出雲国内で大きな勢力を保ち続けていました。
満幸が手を結んだのは、そのような出雲屈指の有力国人だったのです。
しかし、三刀屋城を守る諏訪部菊松丸らは激しく抗戦し、満幸らの攻撃を退けました。
一見すると地方の一城をめぐる戦いに過ぎないようにも思えますが、この戦いの意味は決して小さなものではありませんでした。
明徳の乱によって山名氏は守護職の大半を失ったものの、旧領にはなお山名氏へ従う武士や国人が数多く残っていました。
満幸が出雲の有力国人と結んで再び兵を挙げたことは、山陰地方で再び大規模な反乱が起こる可能性を示すものであり、義満が明徳の乱によって築き上げた新たな支配体制を揺るがしかねない出来事だったのです。
山名満幸討伐命
当時、出雲守護には明徳の乱で功績を挙げた京極高詮が任じられ、伯耆国では山名氏幸が幕府方の守護として山陰の安定にあたっていました。
義満は、この新たな守護体制を確実なものとするため、満幸の再挙兵を決して見過ごしませんでした。
同年4月には満幸らが有していた旧領の一部を京極高詮へ与えるなど、幕府は山名氏の勢力基盤を切り崩す一方、各地の守護へ軍勢の動員を命じ、山陰に残る抵抗勢力の鎮圧へ乗り出します。
その命令は、遠く伊予国にも及びました。
河野通義へ届いた軍勢催促状
明徳4年(1393年)4月11日、伊予守護・河野通義のもとへ、将軍・足利義満から軍勢催促状が届けられました。
その内容は、「伊予国西条以東を除く軍勢」を率いて伯耆国へ向かい、伯耆国守護・山名氏幸に合力せよというものでした。
つまり通義は、西条より西側を中心とする伊予国の軍勢を動員し、瀬戸内海を渡って山陰で行われる幕府の軍事行動へ参加するよう命じられたのです。
山名満幸、最後の抵抗
もっとも、三刀屋城での敗北によって満幸の抵抗が終わったわけではありませんでした。
その後も満幸は各地で再起を図り、応永元年(1394年)には再び挙兵したことが幕府へ伝わります。義満は赤松義則らに討伐を命じ、山名氏残党の鎮圧を進めました。
しかし、度重なる討伐によって満幸の勢力は次第に衰え、翌応永2年(1395年)3月、満幸は京都五条坊門高倉の宿で京極高詮によって討たれ、その生涯を閉じます。
明徳の乱からおよそ三年半にわたり続いた山名満幸の抵抗は、こうして終わりを迎えました。
義満は土岐氏に続いて山名氏の勢力を抑え込み、将軍に対抗し得る有力守護を次々と弱体化させることに成功します。
その結果、室町幕府は有力守護の均衡によって支えられる体制から、将軍・足利義満を頂点とする政治体制へと大きく姿を変えていきました。
山名満幸の反乱鎮圧に河野通義が動員されたことは、その転換期において河野氏が幕府の軍事力を支える重要な守護として位置づけられていたことを示す出来事でもあったのです。
若若き守護の最期
室町幕府を支える伊予守護へと成長し、将軍・足利義満から厚い信任を受ける存在となった河野通義。
しかし、その歩みは長くは続きませんでした。
応永5年(1398年)8月下旬、通義は京都の邸宅で病に倒れます。
医師による懸命な治療もむなしく病状は悪化の一途をたどり、自らの最期が近いことを悟りました。
そこで通義は、国元にいた弟・通之を急ぎ京都へ呼び寄せます。
このとき、通義の妻は子を身ごもっていました。
しかし、胎内の子が男子であるかは分からず、無事に成長して宗家を継げる保証もありません。
ようやく再興を果たした河野宗家を、再び混乱させるわけにはいかない。
その強い思いから、通義は応永5年(1398年)11月22日、家督を通之へ譲る譲状をしたため、河野宗家に代々伝わる重要な文書や宝物、そして宗家を受け継ぐうえで必要なことを余すことなく伝え、その後を託しました。
その一方で、遺書には「もし生まれた子が男子であり、十六歳まで無事に成長して宗家を継ぐにふさわしい器量を備えていたならば、その者へ家督を譲ってほしい」と記し、さらに家督相続に関する詳しい取り決めは、信頼する重臣・久万宮内丞へ申し含めてあることも書き残しました。
その後、まもなく通義は京都で静かにその生涯を閉じました。
享年29。
法名は温玉院殿接岩道香大禅定門。
幼くして家督を継ぎ、常に河野宗家の重責をその若い肩に背負い続けてきた、短くも壮絶な生涯でした。
その志は弟・通之へ、そして未来の河野宗家へと確かに受け継がれていったのです。
今治に残る細川氏の足跡
河野通義が京都でその生涯を閉じた頃。
河野氏最大の宿敵であり、伊予をめぐって幾度となく激戦を繰り広げた細川頼之もまた、その人生の終わりを迎えようとしていました。
頼之は、父・細川頼春の遺志を受け継ぎ、若き日から四国各地を転戦した武将です。とりわけ伊予国では、河野氏と激しい攻防を繰り返し、その勢力を大きく後退させるなど、細川氏による四国支配の確立に大きな役割を果たしました。
その後、貞治6年(1367年)に第2代将軍・足利義詮が病没すると、わずか11歳で将軍職を継いだ足利義満を補佐するため、管領として幕政の中心に立ちます。
幼い義満を支えながら、有力守護大名を抑え、室町幕府の権威を高めていった頼之は、義満にとって単なる家臣ではありませんでした。将軍として成長していく義満を導き、幕府の基盤を築き上げた、いわば後見人ともいうべき存在だったのです。
康暦元年(1379年)の政変によって一度は管領の座を退き、四国へ戻った頼之でしたが、その後も幕府にとって欠かすことのできない重臣であり続けました。
かつては伊予国をめぐって激しく争った河野氏と細川氏。しかし時代は移り、明徳2年(1391年)の明徳の乱では、河野通義と頼之はともに室町幕府方として山名氏清討伐に参陣します。
長年にわたり伊予の覇権を争ってきた両者が、晩年には同じ幕府方として戦うことになったのです。
頼之はこの戦いでも幕府方の中心として軍勢を率い、乱の平定に大きく貢献しました。
その後は再び四国へ戻ったとされますが、翌年には将軍・足利義満の求めを受けて京都へ赴き、再び幕政に関わるようになります。
しかし翌年の元中9年/明徳3年(1392年)3月、病のため京都で享年64でその生涯を閉じました。
将軍・足利義満は、幼くして将軍となった自らを長年にわたって支え、室町幕府の基礎を築いた頼之の死を深く悼みました。
そして、頼之の功績を高く評価し、自ら葬儀を主催するとともに、自身が創建した京都・相国寺で葬儀を営ませました。法名は永泰院殿桂巌常久大居士と伝えられています。
伊予をめぐって河野氏と争い続け、やがて四国最大の勢力へと細川氏を押し上げ、さらに中央では幼い将軍を支えて室町幕府の礎を築いた細川頼之。
南北朝の動乱を駆け抜けた一人の名将の長い戦いは、静かに幕を閉じたのです。
京都・地蔵院には頼之の墓が、また細川氏ゆかりの讃岐国(現在の香川県)・立善寺には分骨墓と伝えられる五輪塔が残され、その生涯を今に伝えています。
萩森神社に残る細川父子の足跡
そんな頼之の足跡は、今治市にも残されています。
それが、今治市南高下町に鎮座する萩森神社(はぎもりじんじゃ)です。
この神社は、頼之の父・細川頼春(よりはる)を祀る神社として、古くから地域の人々に大切に受け継がれてきました。

四国全土へ勢力を広げようとする細川頼春にとって、伊予の掌握こそが悲願でした。
しかし、河野氏の激しい抵抗に遭い、その野望を果たせぬまま、足利義詮を守るため赴いた京都の地で壮絶な討ち死にを遂げます。
その父の悲願を受け継ぎ、ついに成し遂げたのが息子・頼之でした。
頼之は河野氏との長年にわたる戦いを制して伊予国をその勢力下に置き、さらに四国全域に強固な統治体制を築き上げ、細川氏は四国最大の勢力へと成長していったのです。
萩森神社の創建年代や創建の経緯は、現在のところ明らかになっていません。
しかし、伊予国は父・頼春が生涯を懸けながらも果たせなかった悲願の地であり、その志を受け継いだ頼之が、長年にわたる戦いの末についにその宿願を成し遂げた場所でもありました。
もしかしたら頼之が亡き父への思いを胸に、伊予の中心であり、かつて伊予国府が置かれた今治の地に、その御霊を祀ったのかもしれません。

もちろん、そのことを裏付ける史料は残されておらず、真相は分かっていません。
しかし、伊予国をめぐる激動の時代を生きた細川氏の足跡は、今も確かに今治の地に残されているのです。