再び一つとなった河野宗家と伊予南朝方
正平十九年/貞治四年(1364年)、世田山合戦で河野宗家を破った細川頼之(ほそかわ よりゆき)は、伊予国の政治・行政の中心である国府が置かれた伊予府中(現在の今治市中心部)にしばらく留まりました。
その後、頼之は勝利の勢いに乗って河野氏の本拠・湯築城へ軍を進め、激しい攻防の末にこれを攻め落とすと、一族の細川天竺禅門(ほそかわ てんじくぜんもん)を代官として配置し、ここを伊予国統治の拠点としました。
この勝利によって細川頼之は四国随一の実力者となり、細川氏は阿波・讃岐・土佐に続いて伊予もその勢力下に収めたことで、四国における覇権を決定的なものとしたのです。
前回の記事はコチラ:《世田山合戦⑧》父の遺志を継いだ細川頼之と河野通朝 ── 伊予北朝方を二分した決戦「1364年 世田山合戦」
河野宗家最後の希望・徳王丸
一方、世田山合戦によって滅亡したかに見えた河野宗家には、ただ一人の後継者が残されていました。
それが、河野通朝の嫡子・徳王丸(とくおうまる)です。
世田山城の落城が迫る中、わずか十五歳の徳王丸は城を脱出し、竹林寺で僧たちの命がけの庇護を受け、その身を守られます。
若き命をつないだ逃避行
しかし、世田山城から竹林寺までは、わずか数里(約十キロ前後)しか離れていませんでした。
細川軍の追手が半日ほどで到達しても不思議ではない距離であり、いつ竹林寺へ迫ってもおかしくない極めて危険な状況でした。
そこで徳王丸は翌日には神途山(じんどやま)へ移されます。
神途山には、別名「十二台城」とも呼ばれる神途城が築かれていました。
「十二台城」の名は、十二の櫓台(郭)があったことに由来すると伝えられています。
貞治3年・正平19年(1364年)には、すでに河野氏の山城として存在していたと考えられ、高縄山城を守る支城の一つであり、河野氏一族・通忠の居城であったとも伝えられています。
四方を深い山々に囲まれた神途山は、天然の要害でした。
追撃する細川軍に容易に発見されることはなく、河野宗家唯一の後継者を守るには最適の隠れ場所だったのです。
その後、徳王丸は風早郡難波(現在の松山市北条地区難波)の河野氏ゆかりの古刹・大通寺へ移され、僧侶たちのもとで養育されることになりました。
「恵良城で元服」若き当主・河野通堯の誕生
やがて徳王丸は、風早郡にそびえる恵良山(えりょうやま)の山頂に築かれた恵良城(えりょうじょう)へ移りました。
恵良城は、標高約302メートルの独立峰・恵良山を利用した天然の要害で、古くから河野氏の重要な拠点として守り継がれてきた山城です。
その歴史は古く、天暦二年(948年)に河野散位親経が築いたとも伝えられ、「立烏帽子山城(たてえぼしやまじょう)」の別名でも知られています。
現在も山頂には恵良神社奥の院が鎮座し、曲輪や石積などの城跡が往時の姿を今に伝えています。

この河野氏ゆかりの堅固な山城で、徳王丸は元服し、「六郎通堯(ろくろう みちたか)」と名乗りました。
祖父・通盛を失い、父・通朝も世田山で討たれた今、若き通堯は、わずか十五歳にして河野宗家の命運を一身に背負うことになります。
湯築城奪還
細川氏が伊予各地を次々と制圧し、その勢力は揺るぎないものとなる中、河野宗家はまさに滅亡寸前ともいえる危機に立たされていました。
しかし、通堯は決して屈することはありませんでした。
一族や国人たちを再び結集させると、細川氏に奪われた伊予を取り戻すため、自ら先頭に立って反撃へと打って出ます。
正平二十年/貞治四年(1365年)正月27日、通堯はおよそ五百騎を率いて道後へ進軍し、細川頼之が代官として配置していた細川天竺禅門(ほそかわ てんじくぜんもん)の守る湯築城を包囲しました。
激しい攻防は数刻に及びましたが、ついに天竺禅門は力尽きて自害し、湯築城は再び河野氏の手へ戻ったのです。
「大空城の戦い」迫る細川頼之の大軍
湯築城を奪還した通堯は、その勢いを駆って攻勢に転じ、続いて温泉郡の大空城(おおうつのしろ・岩子山城)を包囲しました。
大空城は、道後平野を見渡す岩子山に築かれた天然の要害で、湯築城とともに道後地方を押さえる戦略上の要衝でした。この頃は、細川氏に従い北朝方についた大祝氏の大祝安林や庄林秀純らが城に籠もっていました。
もし大空城まで河野方の手に落ちれば、細川氏が伊予に築いた勢力基盤は大きく揺らぐことになります。
通堯の反撃を知った細川頼之は、これ以上河野方の勢力拡大を許せば伊予国そのものを失いかねないと判断し、阿波・讃岐から大軍を率いて自ら伊予へ進軍を開始しました。

高縄山城の攻防戦と恵良城への撤退
この報は、すぐに通堯のもとへ届けられました。
細川頼之率いる軍勢は、河野方をはるかに上回る圧倒的な兵力でした。
このまま大空城の包囲を続ければ、河野軍は頼之率いる大軍に背後を衝かれ、城兵との前後からの挟撃を受けて、逆に包囲される危険がありました。
通堯は苦渋の決断の末、大空城の包囲を解き、河野宗家最後の拠点である高縄山城へ退いて籠城し、細川軍との決戦に備えます。
そして4月10日、細川頼之率いる大軍が高縄山城へ押し寄せ、河野宗家の命運を懸けた最後の攻防戦が始まりました。
河野方は懸命に抗戦しましたが、部将や国人の中から細川氏へ内応する者も現れ、もはや高縄山城の陥落は避けられない状況となっていました。
通堯は苦渋の末に脱出を決断し、高縄山城を抜け出して河野氏ゆかりの山城・恵良城へ落ち延びたのでした。

河野宗家を救った村上水軍の祖
しかし、細川軍の追撃は止まりませんでした。
やがて恵良城にも頼之率いる大軍が迫り、河野宗家は再び絶体絶命の危機に追い込まれます。
そのような絶望的な状況の中、通堯は最後の望みを託し、南朝方の風早郡日高山城主・重見通宗(しげみ みちむね)へ救援を求めます。
急報を受けた通宗は、一刻の猶予もないと判断し、一人の僧を使者として能島城へ送りました。
その救援要請を受けたのが、後に村上水軍の祖とも伝えられる村上義弘(むらかみ よしひろ)でした。

海の武将・村上義弘
村上一族は古くから河野氏に属し、瀬戸内海の制海権を握る海上武士として活躍していました。
なかでも当主・村上義弘は、「海賊方の棟梁にして河野十八家大将の随一」と称された河野氏屈指の武将です。
元弘三年/正慶二年(1333年)、後醍醐天皇の綸旨を受けて挙兵すると、土居氏・得能氏らとともに水軍を率いて北条氏の軍勢を破り、上洛して六波羅探題攻めにも加わりました。
その村上義弘の本拠・能島城は、現在の今治市宮窪町沖に浮かぶ能島に築かれた、日本でも極めて珍しい海城でした。
北は船折瀬戸・宮ノ窪瀬戸、東は荒神瀬戸という急潮に囲まれ、大潮時には潮流が最大十ノット(時速約十八・五キロ)にも達します。
この激流そのものが天然の堀となって外敵の侵入を阻み、能島城は難攻不落の海上要塞として知られていました。
村上一族はこの城を本拠に瀬戸内海の制海権を握り、河野氏を支え続けてきたのです。
その後、南北朝の争いが始まると、河野宗家が足利氏に従って北朝方へ転じる中、義弘は土居氏・得能氏らとともに南朝方の旗を掲げ、河野宗家と敵味方に分かれて北朝方との戦いを続けました。
その活躍によって、村上一族は瀬戸内海における南朝方屈指の海上勢力へと成長し、肥後国の菊池氏や懐良親王とも連携しながら、河野氏再興を支える大きな力となっていきます。
また義弘は、南朝方の河野氏重臣・河野通任(こうの みちとう)が義弘の姉妹を妻に迎えるなど、河野氏と村上氏は姻戚関係を結びました。
こうした縁組により、両家の結びつきはさらに深まっていきました。
河野通任は、通有の三男通種の次男で、今岡家を継いだことから今岡通任(今岡左衛門尉通任)と名乗り、村上義弘とともに能島を拠点として村上水軍を率い、副将として義弘を支えました。
南朝を支えた海の武士団「伊予水軍」
村上氏は、今岡氏や忽那氏、得居氏ら複数の海上武士団とともに、強力な海上武士団を形成し、南朝方の海上戦力として各地を転戦しました。
それが伊予水軍です。
伊予水軍は瀬戸内海の海上交通を掌握し、船舶の護衛や曳船、関銭・警固料の徴収を担う海賊衆・警固衆として知られ、その勢力は瀬戸内海一帯に及んでいました。
また、後醍醐天皇の皇子・懐良親王(かねながしんのう)が征西大将軍として九州へ下向した際、その渡海を護衛したのも伊予水軍でした。
南朝最後の希望「征西府」
懐良親王は九州へ下向した後、肥後国(現在の熊本県)の名門・菊池氏らの支援を受けながら、南朝方の勢力を拡大していきました。
菊池氏は、元弘の乱以来一貫して後醍醐天皇に忠節を尽くした九州屈指の名族でした。
鎌倉幕府滅亡の戦いでは当主・菊池武時(きくち たけとき)が命を懸けて戦い、その志は子・武重(たけしげ)、さらに武光(たけみつ)へと受け継がれていきます。
そして正平16年/康安元年(1361年)、筑後川の戦いで北朝方に勝利すると、当時九州の政治・行政の中心であった大宰府を奪還します。
これを機に、それまで菊池を拠点としていた南朝の政庁「征西府(せいせいふ)」は大宰府へ移され、九州における軍事・政治の中心として整備されました。
当時の征西府は、吉野朝廷に次ぐ南朝最大の拠点であり、各地の南朝武将が集う最後の希望ともいえる存在でした。
恵良城脱出
九州の南朝勢力とも深い結びつきを築いていた村上義弘は、恵良城の危機を知らせる急報を受けると、義兄でもある今岡通任とただちに協議を重ねました。
二人は、細川氏の大軍に包囲された伊予で戦い続けても河野宗家の再興は望めないと判断し、九州・大宰府の征西府で懐良親王の支援を受け、力を蓄えて再起を図る以外に道はないとの結論に至ります。
そして正平二十年/貞治四年(1365年)4月22日の夜、村上義弘・今岡通任らは、およそ三百騎の伊予水軍を率いて恵良城近くの浅海浦へひそかに軍船を寄せました。
義弘は通堯に、「わずかな兵で細川氏と戦い続けるよりも、いったん九州へ下り、南朝方と力を合わせて再起を図るべきです」と進言します。
通堯はこの進言を受け入れ、伊予水軍の護衛を受けながら夜陰に紛れて恵良城を脱出し、浅海浦から船で九州を目指して旅立ったのです。
河野宗家再興を懸けた九州への渡海
通堯一行が九州へ向かう途中、最初に身を寄せたのが安芸国能美島(現在の広島県江田島市能美島)でした。
能美島は、世田山合戦で亡くなった通堯の母・久枝氏と縁戚関係にあった能美氏一族・中村十郎左衛門尉の所領で、安全に身を寄せることのできる地だったのです。
中村十郎左衛門尉は通堯一行を迎え入れると、三吉浦でしばらく匿いました。
この間、河野一族の重見通宗・通勝らが仲介役となって征西府との交渉が進められ、九州下向へ向けた道筋が整えられていきました。

江田島源風景 撮影:せいかいまる(Photo AC)
九州へ集結した伊予の南朝方勢力
河野宗家の当主・河野通堯が九州の征西府を目指しているという知らせは、やがて伊予各地の南朝方にも伝わりました。
これまで敵味方に分かれて戦ってきた河野氏一門や国人たちも、再び河野宗家の旗のもとへ集い、細川氏に奪われた伊予を取り戻すため立ち上がります。
その中には、かつて南朝方で河野惣領として河野氏を率いていた得能越後守通宗(吉岡殿)と、得能通種(高畝殿)の姿もありました。
しかし、九州への海路を押さえる由並本尊城の城主・得能壱岐守通遠が、細川方へ寝返ろうとしていたため、海を渡ることができなくなってしまいました。
この知らせを受けた通堯は、6月8日に迎えの使者を伊予へ派遣し、得能通宗・通種らを迎えて同じ船で屋代島(現在の山口県周防大島)へ渡らせました。

山口県 周防大島嵩山展望台から見た景色 撮影:アクセルF(Photo AC)
細川頼之の報復と能島城の陥落
一方、恵良城を包囲しながら河野通堯の脱出を許した細川頼之は、「これはすべて村上氏の計略によるものだ」と激しく憤りました。
この頃、村上義弘は新居大島(現在の愛媛県新居浜市大島)を本拠として活動していました。
頼之は報復として新居郡・宇摩郡へ軍勢を送り込み、正平二十年/貞治四年(1365年)5月20日には能島城にも攻撃を加えます。
激しい攻防の末、能島城はついに陥落し、村上一族は新居大島・能島の拠点を相次いで失いました。
義弘はやむなく伊予国を離れ、同じ瀬戸内海で活動していた周防国屋代島(現在の山口県周防大島)の海賊衆・中子左衛門大夫藤重を頼って屋代島へ移ります。
そして屋代島に滞在しながら、たびたび能美島へ使者を遣わし、通堯と密に連絡を取り続けたのです。
九州への船出
その頃、通堯一行のもとには、先に九州へ渡っていた者たちから、「南朝方に味方して九州へ参れば、菊池氏が一族や家臣、兵糧などを与えてくださるよう取り計らってくださる」との知らせが届けられました。
やがて菊池氏本人からも、「一日も早く九州へ下れば、万事うまく取り計らおう」との返書が寄せられます。
これにより九州への下向が正式に決定し、河野方は7月17日を出航の日と定めました。
そして迎えた当日、中村十郎左衛門尉久枝が用意した四艘の船に、得能氏・重見氏・中川氏・正岡氏ら河野方の武将たちがそれぞれ乗り込みました。
いよいよ出航しようとしたその時、屋代島で待機していた村上義弘や今岡通任らが通堯のもとへ参上したため、一行はこれを迎え入れ、能美島三吉浦を出航しました。
その後、屋代島和田へ着岸すると、通堯は浅海五郎左衛門尉を通じて今岡通任に「親子の契りを結ぶべきである」と申し渡します。
通任はこれを謹んで受け入れ、通堯はその恩賞として風早郡柳原村の所領を与えました。
こうして河野宗家と今岡氏との結びつきは、いっそう強固なものとなったのです。
その後、一行は四艘の船団を率いて瀬戸内海を西へ進みました。
一方、得能通宗・通種らは途中、竈戸関から豊後国へ渡り、一足先に菊池氏のもとへ向かいました。
南朝最大の拠点・征西府へ
正平二十年/貞治四年(1365年)7月30日、通堯一行は屋代島から瀬戸内海を西へ航海し、ついに筑前国宗像大島へ到着しました。
ここで一行は宗像大宮司(福岡県宗像市にある宗像大社の宮司)の庇護を受け、使者の案内によって九州南朝の本拠・大宰府の征西府へ向かいます。
同年8月3日、太宰府へ到着した通堯は、ただちに征西府へ参上しました。
征西府では、後醍醐天皇の皇子・懐良親王(かねながしんのう)が自ら通堯を迎えました。
懐良親王は、代々伊予国を治めてきた河野氏の名門としての家格を深く重んじ、通堯との対面に際して自ら直垂を召し替えられました。
これは、通堯が錦の直垂を着て出仕したため、親王もこれにふさわしい装いへ改められたもので、河野宗家にとっては、まさに面目この上ない栄誉でした。
さらに懐良親王は、「これからの軍事は、そなたに大いに期待している」と通堯へ深い信任を示し、厚く遇しました。
さらに通堯は南朝方の讃岐守に任じられ、この頃から「河野通直(みちなお)」と名乗るようになります。
また、先例にならって西海警固を命じられ、瀬戸内海から西海にかけての海上防衛を担う重責を託されました。
※『予章記』には、この際に刑部大輔へ任じられたとも記されていますが、現存する文書では刑部大輔への任官は天授元年/永和元年(1375年)に確認されるため、この点は後年の任官を『予章記』が遡って記したものと考えられています。

岩屋城跡から望む市街地と山並み 撮影:s3do(Photo AC)
菊池武光が迎えた河野宗家の帰順
そして、九州南朝を支えてきた菊池武光は河野一族の到着を大いに喜び、「我らが長年の悲願が、いよいよ実現するときが来た。今や南朝の運は開けようとしている」と語り、その労をねぎらって数日にわたり厚くもてなしました。
河野氏は代々伊予国を治めてきた四国屈指の名門武家であり、祖父・河野通盛(通治)は足利尊氏に従って北朝方の伊予守護も務めた人物でした。
その河野宗家当主・河野通直(通堯)が正式に南朝へ帰順したことは、単に一人の武将が加わったという出来事ではありませんでした。
それは、征西府にとって四国再興への大きな転機となり、南朝勢力の結束を象徴する歴史的な出来事として受け止められたのです。
伊予水軍と西海警固
太宰府では、通直は先に九州へ渡っていた得能越後守通宗らとも再会を果たし、河野宗家再興に向けて再び行動をともにすることとなりました。
一方、河野通直を征西府まで護送した村上義弘・今岡通任らは、自らが率いる伊予水軍とともに、再び瀬戸内海での戦いに備えるため屋代島へ戻ろうと出航します。
しかし、その頃の屋代島は北朝方の大内氏によって占拠されており、一行は上陸することができませんでした。
しかたなく豊後国高田(現在の大分県豊後高田市)まで退き、領主・高田三郎や菊池氏と合流し、共に戦うことになりました。
九州最大の激戦地・豊後国
当時の豊後国は、九州南北朝時代最大の激戦地の一つでした。
延元元年/建武3年(1336年)には天然の要害・玖珠城で八か月に及ぶ籠城戦が繰り広げられ、その後も懐良親王と菊池武光が勢力を盛り返して豊後国府を攻略するなど、南朝方と北朝方は九州の覇権を懸けて激しく争い続けていました。
一方、北朝方では大友氏時が豊後守護として高崎山城を本拠に勢力を固め、南朝方の攻勢に対抗していました。
こうして豊後国は、南朝・北朝双方にとって決して譲ることのできない最前線となっていたのです。
豊後国高田へ退いた村上義弘・今岡通任らは、高田三郎をはじめとする南朝方諸将と合流し、菊池氏の支援を受けることになります。
やがて河野通直も高田へ入り、河野氏・村上氏・高田氏・菊池氏が連携して北朝方との戦いに臨みました。
正平二十一年/貞治五年(1366年)、通直は豊前国今塔(現在の福岡県北九州市・行橋市周辺と考えられています)に陣を構え、一族の武将たちを集めて軍議を開きます。
軍議では、将来の伊予奪還を見据え、軍船の確保が最重要課題であることが確認されました。
そこで懐良親王へ軍船の貸与を願い出ると、親王は使者として大豆津・底将監を派遣し、軍船三艘と水夫十人を与えました。
各船には吉岡氏・重見氏・太田氏・浅海氏ら河野方の武将たちが配置され、九州各地を転戦する体制が整えられました。
その後、通直らは高田勢・菊池勢とともに豊後国臼野へ兵を進め、さらに周防方面へ攻め入って北朝方の拠点を焼き払うなど、積極的な攻勢を展開します。
やがて大友氏時が宮熊城を攻撃すると、通直らは後詰として救援に向かい、菊池勢と力を合わせて激戦を繰り広げました。
その結果、北朝軍を退け、宮熊城を守り抜くことに成功します。
さらに同年10月には、菊池氏の出兵に呼応して豊後国戸次方面へも進軍し、南朝軍の一翼として各地を転戦しました。
こうして河野勢・村上勢・高田勢・菊池勢は一体となって九州各地で戦い続け、通直もまた懐良親王配下の有力武将としてその名を知られるようになっていったのです。
朝廷が認めた河野氏の正統性
しかし、河野通直の胸中を占めていたのは、細川氏に奪われた本国・伊予へ帰り、先祖代々受け継がれてきた河野氏の領国を取り戻すことでした。
九州で北朝方との戦いを続けるなか、通直には後村上天皇から綸旨が下され、河野氏の惣領職と所領が正式に安堵されます。
河野氏の正統性は朝廷によって保証され、伊予奪還の大義名分は整いました。
あとは自ら軍勢を率いて本国・伊予へ帰り、細川氏との決戦に臨むだけだったのです。
しかし、最大の問題は、瀬戸内海を越えて本国へ帰るための十分な軍船を確保できなかったことでした。
戦いの合間にも河野方は船の調達を続けましたが、思うようには進まず、やむなく一行は佐伯へ帰陣し、伊予奪還の機会を待ち続けることとなります。
九州での度重なる転戦は、河野勢に豊富な実戦経験をもたらしただけでなく、菊池氏や高田氏をはじめとする南朝方諸将との結びつきを、さらに強固なものにしました。
この九州で培われた軍事力と人脈こそが、後に河野通直が本国・伊予へ帰還し、細川氏との決戦へ挑む大きな力となっていくのです。
南北朝時代を駆け抜けた伊予水軍の祖「村上義弘」
河野氏に仕え、南北朝時代には伊予水軍を率いて各地で活躍した村上義弘。
河野宗家存亡の危機に際しては、自ら伊予水軍を率いて河野通堯を救出し、九州・征西府への脱出を成功させるなど、河野氏再興の立役者となりました。
義弘の没後、伊予水軍は新たな時代へと歩み始めます。
後世の伝承では、姻戚関係にあった今岡通任がその勢力を受け継ぎ、その後、村上師清らの活躍によって能島・来島・因島の三家へと発展したと伝えられています。
やがて戦国時代になると、村上三家は瀬戸内海最大級の海上勢力へと成長し、「村上水軍」の名は全国へと轟きました。
その礎を築いた人物こそが、村上義弘だったのです。
その生涯には今なお多くの謎が残されていますが、その足跡は現在も瀬戸内海の各地に残されています。
生誕地と伝わる愛媛県新居浜市沖の新居大島には、生家跡と伝わる旧村上邸をはじめ、大島城跡や船かくし、船くぼなど、伊予水軍ゆかりの遺構が数多く残され、中世に海上交通の要衝として栄えた往時の姿を今に伝えています。
そして、ここ今治市にも村上義弘ゆかりの史跡が数多く残されています。
宮窪町沖に浮かぶ能島には、義弘が本拠としたと伝えられる国史跡・能島城跡があり、今治市大島には村上義弘の菩提寺と伝えられる古刹・高龍寺があります。

高龍寺は、推古四年(596年)の創建とも伝えられる古い歴史を持つ真言宗の寺院で、古くから能島城主・村上氏の祈願所として厚く崇敬されてきました。
寺には現在も村上義弘の位牌が伝えられ、境内には大正8年(1919)に贈五位が追贈されたことを記念する「贈五位村上義弘公碑」が建立されるなど、その功績は今なお顕彰されています。

実は、高龍寺の本堂は現在の場所ではなく、現在は亀老山展望公園として親しまれている亀老山の中腹にあったと伝えられています。


その旧地には、高龍寺奥の院(島四国第三十四番札所・妙法堂)が建っており、その隣には村上義弘の墓と伝わる宝篋印塔があります。


村上義弘は、正平二十五年(1370年)から天授二年(1376年)の間に没したと考えられていますが、確実な没年や最期を迎えた場所は明らかになっておらず、その生涯は今なお多くの謎に包まれています。
そんな中、村上義弘公の墓と伝わる宝篋印塔の地下から、一つの経筒が発見されました。
その経筒には「為村上義弘作(村上義弘のために造る)」という銘が刻まれていたことから、この宝篋印塔は村上義弘公の墓、あるいは供養塔と考えられるようになったのです。
南北朝時代、幾度もの戦乱が繰り広げられた伊予国。
その激動の歴史は、今も各地に残る城跡や寺院、古戦場、そして人々に語り継がれてきた伝承の中に息づいています。
七百年近い歳月を経た現在も、それらの史跡は、この地で命を懸けて戦った武将たちの足跡を静かに今へ伝え続けているのです。