空襲が奪った町と信仰の記憶
1930年代後半、日本社会は、日中戦争の長期化を背景に、総動員体制へと移行しつつ、次第に戦時体制へと組み込まれていきました。
こうした社会の変化の中で、キリスト教もまた例外ではなく、宗教界の一つとして国家との関係を再編することを迫られていきます。
日中戦争から太平洋戦争へと向かう過程で、国家は宗教界を戦時体制の一部として位置づけ、統制と管理を次第に強めていきました。
1941年の太平洋戦争開戦を境に、宗教活動は国家の監督下に置かれ、その在り方は大きな制約を受けるようになります。
こうした状況のもと、海外との結びつきが強いキリスト教は、特に慎重な対応を求められる宗教となりました。
外国人宣教師の存在や、教会が有していた国際的なつながりは、当時の国際情勢を背景に警戒の目を向けられやすく、宣教師や教会関係者は、治安維持の観点から警察による監視の対象とされることもありました。
前回の記事はコチラ:【今治とキリスト教③】プロテスタントに続いて根を下ろした今治のカトリック教会

制約の中で続けられた信仰生活
戦時下では物資不足や集会制限が続き、教会活動は著しく制約されました。
公の場で信仰を語ることは難しくなり、礼拝や信仰の営みは、より静かで目立たない形へと追いやられていきます。
こうした状況は、今治のキリスト教徒にとって決して初めての試練ではありませんでした。
明治期の今治教会(プロテスタント教会)創設期にも、信仰を持つことは社会的な緊張や誤解を伴い、ときに強い反発や圧力を受けることがありました。
反キリスト教的な言説が広まり、集会や教会活動が批判の的となることもあったと伝えられています。
それでも、信徒たちは信仰を捨てることなく、対立を激化させるのではなく、日常生活の中で静かに祈りを重ねながら、困難な時代を耐え忍びました。

戦時体制下で進められた教会統合
1940年(昭和十五年)、戦時体制の進展に伴い、同じ今治市内にあったプロテスタントの波止浜教会は、今治教会に合併されました。
港湾地区を拠点とした波止浜教会は、地域に根差した小規模な教会でしたが、戦時下における宗教政策の変化の中で、独立した教会として存続することが次第に困難となり、組織的な統合を受け入れることになります。
続く1941年(昭和十六年)には、政府主導によるプロテスタント諸教派の合同が進められ、日本基督教団(日本キリスト教団)が成立しました。
今治教会もまた、この新たな教団体制に合流し、従来の教派的枠組みを超えた一教会として再編されていきます。
これは今治に限らず、松山、西条、新居浜など、愛媛県内各地のプロテスタント教会に共通して見られた動きでした。
愛媛県内の諸教会も、それぞれの歴史や伝統を抱えながら、日本基督教団という統一組織のもとに組み込まれていきます。
さらに1943年(昭和十八年)には、これまで別系統として活動してきた関西学院系の今治メソヂスト教会との合同が行われました。
これにより、今治市内および周辺地域のプロテスタント信徒は、名実ともに一つの教会組織へと統合されることになります。
この段階での統合は、信仰理解や教派的背景の違いを超え、地域のプロテスタント教会を一元化する決定的な転換点となりました。
こうした一連の教会統合は、信徒や教会の自発的な選択の積み重ねというよりも、戦時下の国家方針によって制度的に進められたものでした。
その根拠となったのが、1939年(昭和十四年)に成立し、翌年から施行された宗教団体法です。
この法律は、宗教団体を国家の管理下に置き、法人格の付与や組織運営、活動内容を行政の監督下に置くことを目的としていました。
小規模で分立した宗教団体の存続は難しくなり、一定規模以上の統一組織への再編が強く求められるようになります。
今治教会が経験した統合と再編は、愛媛県内、さらには全国各地のプロテスタント教会が直面した現実の一例でした。
戦時という時代の制約の中で、教会は信仰と礼拝を守り続けるため、限られた選択肢の中で対応を迫られていたのです。
失われた今治教会の洋鐘
戦争が長期化し、深刻な物資不足に陥った日本では、軍需資源を確保するため、全国的に金属供出が進められました。
これは教会や寺院も例外ではなく、鐘や仏具、銅製の像などが「不要不急の金属」として回収対象とされたのです。
信仰の象徴であり、地域の人々にとって長年親しまれてきた存在であっても、戦時体制のもとでは供出を拒むことは困難でした。
今治教会に寄贈され、日本三大洋鐘の一つにも数えられていた洋鐘も、この流れから逃れることはできませんでした。
1942年(昭和十七年)、金属回収令に基づき、この鐘は強制的に供出され、四阪島の製錬所へと送られます。
町に時を告げ、祈りの始まりと終わりを知らせてきた鐘の音は、こうして今治から消えていったのです。

戦時下におけるカトリック教会
カトリック教会も、宗教団体法のもとで政府に認められる宗教団体として、日本天主公教教団(現:カトリック中央協議会)が位置づけられました。
これにより、教会活動は行政との折衝や各種手続きに強く左右され、カトリック教会もまた国家の監督下に置かれることになります。
こうした状況の中で、今治のカトリック教会も、礼拝や教育、信徒による共同体を守るため、時に外部との関係を整理し、時に活動の形を変えながら、限られた条件の中で継続の道を探り続けることになりました。
今治空襲によって失われた信仰の風景
こうした精神的な抑圧に加え、戦争はやがて、今治の町そのものを直接襲うことになります。
戦局が悪化するにつれ、戦火は次第に前線から日本本土へと移り、都市そのものが攻撃の対象となっていきました。
瀬戸内海の海上交通と工業の要衝として発展してきた今治もまた、その流れから逃れることはできませんでした。
今治が初めて空襲を受けたのは、1945年(昭和二十年)4月26日の朝でした。
午前8時47分、市上空に飛来したアメリカ軍のB-29爆撃機が、日吉地区から市街地中心部にかけて爆弾を投下します。
木造家屋が密集していた市街地は瞬く間に炎に包まれ、住宅や商店、公共施設が次々と焼失しました。
今治郵便局や明徳高等女学校では多数の犠牲者が出て、この一度の空襲だけで90人が命を落とし、300人以上が負傷するという深刻な被害を受けました。
それからわずか二週間後の五月八日、今治は再び空襲に見舞われます。
今治駅周辺を中心に前後8回にわたって爆弾が投下され、29人が死亡、重傷者4人、家屋140戸が損壊しました。
市民の間には、もはや逃げ場のない現実が重くのしかかっていきます。
そして、最大の惨禍が訪れたのが、8月5日深夜から6日未明にかけての空襲です。
B-29の大編隊が今治の上空を覆い、約2時間にわたって2,449発もの焼夷弾が投下され、火の粉は屋根から屋根へと飛び移り、やがて火災旋風が発生して市街地全体をのみ込みました。

市街地は壊滅状態となり、住宅や商店街だけではなく、学校や公共施設も、さらに町の歴史を受け継いできた神社や寺院も失われてしまったのです。
この三度にわたる空襲によって、今治市街はほぼ焼き尽くされ、575人以上が命を奪われたとされています。
そして、この空襲によって、今治教会やカトリック教会も焼失し、信仰の場であると同時に地域の拠り所であった建物が、戦火の中で姿を消しました。
戦争は、町の暮らしだけでなく、人々が心のよりどころとしてきた信仰の風景までも、容赦なく奪い去ったのです。

戦後復興と今治教会の歩み
それでも、人々の信仰そのものが消え去ったわけではありません。
終戦後、今治の町は深い傷を抱えながらも、少しずつ復興への道を歩み始めます。
住まいや仕事だけでなく、心の拠り所を取り戻すこともまた、人々にとって欠かせない課題でした。
空襲によって会堂を失った今治教会も、信徒たちの祈りと支えのもとで再出発を図っていきます。
現在へと続く教会のかたち
戦後、今治教会は新たな時代の歩みに向けて再出発し、現在の南宝来町に広い土地が与えられました。信徒たちの祈りと支えのもとで、新会堂建設の準備が静かに進められていきます。
焼失からの再建は決して容易なものではありませんでしたが、教会は単なる礼拝の場としてではなく、戦後の地域社会に希望をもたらす存在であろうとしました。
その願いのもと、信徒たちは力を合わせ、困難な状況の中でも再建に取り組んでいきます。
1949年(昭和二十五年)には新会堂が再建され、今治教会は再び祈りの場を取り戻しました。
1955年からは、上野光隆が戦後の牧師として就任し、混乱期を抜けつつあった教会の基盤整備に尽力しました。
続く1963年には、榎本保郎が第9代牧師として着任します。
榎本保郎は、後に三浦綾子の小説『ちいろば先生物語』のモデルとなった人物として知られ、在任中に自伝『ちいろば』を刊行し、その牧会姿勢は全国的にも注目を集めました。
榎本保郎は1975年に退任しますが、その後しばらくの間、今治教会では牧師の交代が続き、教勢も決して安定したものではありませんでした。
一時は教会運営の面で困難な時期を迎えることもありましたが、それでも教会は歩みを止めることなく、信徒とともに時代の変化に向き合い続けました。
1990年代に入ると、教会堂の建て替え計画が進められ、2000年には現在のモダンな礼拝堂が完成しました。
これは、戦後半世紀を経た今治教会が、新たな時代に向けて踏み出した象徴的な出来事でした。
2000年代以降は、榎本保郎の実弟である榎本栄次が牧会(牧師として教会と信徒を導き支える働き)を担います。
榎本栄次は同志社教会などでの牧会経験に加え、新潟の敬和学園高等学校で校長を務めた教育者でもあり、その経験を生かして教会と地域、教育との結びつきを大切にした歩みを進めました。
2016年4月からは、木谷誠が第15代牧師として着任し、教会付属のめぐみ幼稚園の園長も務めています。
現在の今治教会は、礼拝や集会を通じた信仰生活に加え、幼稚園教育をはじめとする地域に開かれた活動を継続し、信仰と社会への奉仕を両立させる教会として歩み続けています。
めぐみ幼稚園と信仰の継承
1951年(昭和二十六年)には、教会に併設するかたちで幼稚園が開設されました。
これが、現在の「めぐみ幼稚園」の始まりです。
自由と独立を重んじる同志社系の精神と、敬虔さを大切にする関西学院系の伝統が重なり合う中で、子どもたちは信仰とともに育まれていきました。
祈りの中で遊び、学ぶ日々は、戦争の記憶を越えて次の世代へと命をつないでいく営みでもありました。
2005年には学校法人となり、2007年には新園舎へと生まれ変わります。
時代や制度が変わっても、教会の祈りと地域の支えの中で歩み続けてきた姿勢は変わることなく受け継がれています。
2021年4月には創立70周年を迎え、めぐみ幼稚園は現在も多くの子どもたちとその家庭に寄り添い続けています。

戦後に始まったカトリック今治教会の再建
今治空襲によって、カトリック今治教会の聖堂や関連施設の多くは焼失しましたが、付属する若葉幼稚園の建物だけは、奇跡的に無事でした。
翌日には周囲から火の手が迫りましたが、神父や関係者たちが懸命に消火にあたり、建物は守られました。
地域を支えた若葉幼稚園
1945年8月8日、今治市役所の要請により、若葉幼稚園の建物の一部は食料配給所として使用されることになりました。
戦災直後の混乱の中で、教会の施設は地域社会を支える役割を担っていたのです。
その後、幼稚園はいったん閉鎖され、建物は仮の聖堂として用いられるようになります。
やがて教会再建の模索が始まりましたが、厳しい経済状況のもと、若葉幼稚園の一部を活用して洋裁学校を開設し、教会存続と再建への基盤づくりが進められました。
教会を守り抜いたトマス神父
しかし、戦災によって信徒の多くが市外へ避難していたため、教会活動の継続自体が危ぶまれる深刻な状況に陥りました。
信徒の姿がほとんど見られなくなった教会では、建物や備品も整理の対象とならざるを得ませんでした。
戦争末期の1945年7月26日深夜から翌27日未明にかけて起きた松山空襲によって、松山のカトリック教会も焼失しています。
そのため、今治教会に残されていたピアノは松山教会へ、机や椅子などの什器は新居浜教会へ、さらに残りの物資は宇和島の幼稚園へと移されました。
こうした中で、カトリック今治教会は閉鎖寸前の状況に追い込まれます。
しかし、当時主任司祭であったトマス・ガルシア神父はこの判断に強く反対し、教会存続を粘り強く訴え続けました。
その結果、今治教会はかろうじて存続することになります。
やがて戦後復興が進むにつれて、疎開していた信徒たちも少しずつ今治へ戻り始めました。
クリスマスのミサには進駐軍のアメリカ人将校の姿も見られるようになり、教会には再び人の集まりが生まれていきます。
こうした交流を背景に、英語を学びたいという声が教会内外から高まり、英会話教室が開かれるなど、新たな活動も芽生えていきました。
今治教会と若葉幼稚園の再出発
こうした再出発の歩みの中で、1949年(昭和二十四年)7月1日、旧地において新たな教会堂と司祭館が再建され、献堂式が執り行われました。
あわせて、閉園中であった若葉幼稚園も再開されます。
戦後の今治には、空襲によって家族を失った子どもや、生活に困窮する家庭が多く存在していました。
カトリック今治教会は、戦前と同じように若葉幼稚園と歩みをともにし、その後も増築や改修を重ねながら、子どもたちの保育や日常生活を支える役割を担っていきます。
その働きは教会の内にとどまらず、地域社会全体に広がり、今治の復興期において重要な存在となっていきました。
戦後の四国カトリック宣教体制の変化
この時期、四国におけるカトリック教会の管轄体制にも変化が生じます。
戦前から四国布教を担ってきたスペイン・フィリピン管区ドミニコ会が、愛媛県内の司牧を中心に担う体制となり、カトリック今治教会は新居浜や西条など東予地域への宣教師派遣の拠点としての役割を果たすようになったのです。
サンタマリア神父と聖歌隊の活動
1950年代に入ると、カトリック今治教会では、人の集まりや活動に次第に広がりが見られるようになります。
そうした変化の中で、1952年(昭和二十七年)、若きスペイン人司祭セルヒオ・サンタマリア神父が助任として着任しました。
音楽をこよなく愛したサンタマリア神父は、着任後まもなく聖歌隊「聖チェチリア聖歌隊」を結成します。
日曜日のミサで奏でられる聖歌は、礼拝の場に新たな雰囲気をもたらし、信徒だけでなく教会を訪れた人々の心にも深く響きました。
その聖歌を通して教会に親しみを覚える人が増え、やがて聖歌隊の活動をきっかけに洗礼を志願する者も次第に現れていきます。
この聖歌隊からは、後に世界的な活躍を遂げる人物も生まれています。
今治教会の聖歌隊員であった今井久仁恵は、その才能をサンタマリア神父に見いだされ、スペインのマドリッド国立音楽院へ留学します。
研鑽を重ねたのち、1958年(昭和三十三年)11月、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場で、日本人として初めてプリマドンナとして『蝶々夫人』の主役を務め、大きな喝采を浴びました。
この快挙は、カトリック今治教会の名を国内外に知らしめる出来事ともなりました。
新聖堂建設と今治教会の新たな時代
1950年代後半から1960年代にかけて、今治教会にはサトルニーノ・ゴンザレス神父、ホセ・デルガード神父、アドリアン・ペレス神父、レオナルド・マリン神父など、スペイン人宣教師を中心とする司祭たちが相次いで赴任します。
そのもとで、教会墓地の整備、レジオ・マリエやロザリオ会といった信心会の結成、信徒会活動の充実、さらにはボーイスカウトの設立など、多彩な取り組みが進められ、教会共同体は着実に厚みを増していきました。
そして1972年(昭和四十七)3月10日、今治教会は創立以来の大事業ともいえる新聖堂の建設を成し遂げます。
市内中心部の現在地に隣接する土地を取得し、鉄筋コンクリート造による現代的なゴシック様式の聖堂が完成します。
この新聖堂は、司祭館、信徒会館、幼稚園を一体化した総合施設として整えられ、教会の新たな歩みを象徴する存在となりました。
これが、現在も受け継がれているカトリック今治教会の姿です。
献堂式には、教会の守護者である「ピラールの聖母」にゆかりの深いスペイン・サラゴサから大司教が来日しました。
その際、本場の伝統に基づき、香柏の木から彫刻されたピラールの聖母像が贈られ、新聖堂の祭壇に安置されます。
この聖像は、戦災と復興を乗り越えた今治教会の歩みを象徴する存在として、今日まで大切に守り伝えられています。

今も残る今治教会(プロテスタント)の記憶
時代が移り変わり、戦災や再編を経て町の風景が大きく変わった現在でも、かつての記憶が静かに残されています。
その一つが、かつて今治教会の旧会堂が建っていたことを伝える石碑です。
人目につきにくい場所にひっそりと建てられたこの石碑は、注意して見なければ通り過ぎてしまうほど控えめな存在で、まるで町の記憶の奥にそっと置かれているかのようです。
碑文には、この地に今治教会が置かれていた歴史と、時代の中でたどってきた変遷が刻まれています。建物としての教会は失われましたが、その歩みが完全に忘れ去られたわけではないことを、石碑は今も静かに伝えています。

また、戦前の今治教会の記憶を今にとどめるものとして、当時の教会の門柱が、現在の今治教会の敷地内に残されています。
かつて信徒たちを迎え入れたその門柱は、戦災によって姿を消した会堂の存在と、そこに息づいていた信仰の歴史を象徴するものといえるでしょう。
目に見える建物は失われても、記憶は形を変えて受け継がれています。石碑と門柱は、今治の地に根を下ろしたプロテスタント教会の歩みを、今も静かに語り続けているのです。
キリスト教のあゆみ 今治 そしてこれから
今治の町におけるキリスト教の歴史は、決して一直線に続いてきたものではありません。
時代の変化や戦災、制度の再編をくぐり抜けながら、ときに形を変え、ときに場所を移しつつ、人々の信仰とともに受け継がれてきました。
現在も今治には、プロテスタントやカトリックをはじめ、さまざまなキリスト教の教会や信仰のかたちが存在し、それぞれの場で祈りと活動を続けています。
今治におけるキリスト教のあゆみは、今治の歴史を振り返るとき、欠かすことのできない要素の一つであったことがわかります。
ここではその一端に触れただけではありますが、今治という町の歩みの中で、キリスト教が人々の暮らしや社会とどのように関わり、受け継がれてきたのかを感じ取っていただければ幸いです。
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