応仁の乱が開いた戦国乱世
足利義満の時代、室町幕府は南北朝の内乱を終わらせ、将軍を頂点とする新たな政治体制を築き上げました。
伊予国でも河野氏は幕府の信任を取り戻し、守護として再びその地位を固めていきます。
しかし、その平穏は長くは続きませんでした。
十五世紀後半になると、将軍家の後継者問題や有力守護大名の対立が再び幕府を揺るがし、日本は再び大乱の時代を迎えます。
そして、この新たな戦乱は河野氏一族の運命をも大きく変えることになります。
前回の記事はこちら:《世田山合戦⑬》河野通之が果たした兄との約束。応永の乱、そして二つの河野氏の始まり
「応仁の乱」戦国時代の幕を開けた天下の大乱
文正二年(1467年)正月18日、京都の上御霊社(かみごりょうじんじゃ)で、畠山義就と畠山政長の軍勢が激突しました。
畠山氏では長年にわたって家督争いが続いており、義就と政長はそれぞれ有力な守護大名を後ろ盾として対立していました。
この上御霊社の戦いをきっかけとして、京都に集結していた諸勢力の緊張は一気に高まっていきます。
同年3月5日、元号は文正から応仁へ改められ、五月二十六日には京都で東西両軍による本格的な戦闘が始まりました。
これが応仁の乱です。
応仁の乱は、畠山氏や斯波氏など有力守護家の家督争いに、将軍家の後継者問題や室町幕府内部の権力争いが複雑に絡み合って起こった戦乱でした。
やがて、細川勝元を中心とする東軍と、山名宗全を中心とする西軍のもとへ全国各地の守護大名や国人が集結し、京都を主戦場とする大乱へと発展します。
戦いは文明九年(1477年)まで約十一年にわたって続き、激しい戦闘によって京都の町は各地で焼失しました。さらに戦火は京都だけにとどまらず、摂津・丹波・近江をはじめ、それぞれの大名が本拠とする領国へも広がっていきます。
河野氏もまた、この天下を二分した戦乱と無縁ではありませんでした。
細川氏と対立した豫州家・河野通春
当時の河野氏では、通義から通久へ続く宗家と、後に「豫州家(よしゅうけ)」と呼ばれる通之の子孫との間で、家督と伊予守護職をめぐる対立が続いていました。
豫州家当主の河野通春(こうの みちはる)は、以前から細川氏に対抗するため、周防国山口(現在の山口県山口市)を本拠とし、西国に広大な勢力を誇る守護大名・大内氏と結びつきを深めていました。
当時、大内氏と細川氏は、将軍を支える有力守護大名同士の主導権争いに加え、瀬戸内海の航路や海上勢力、さらには対明貿易をめぐる利権をめぐって激しく対立していました。
瀬戸内海に面する伊予を本拠とし、強大な水軍勢力を擁していた河野氏にとって、この対立は決して他人事ではありませんでした。
さらに河野氏は、南北朝時代の世田山合戦以来、およそ百年にわたって細川氏と対立を続けており、その因縁はなお色濃く残されていました。
関連記事はこちら:「河野宗家と豫州家」約90年続いた河野氏最大の内乱と伊予国の行方
大内・河野連合軍、瀬戸内海を東進
応仁元年(1467年)5月10日、山名宗全を中心とする西軍へ加わった大内政弘は、周防・長門をはじめとする八か国の軍勢を率いて、本拠・山口を出発しました。
六月には長門国二宮・忌宮神社で戦勝を祈願し、諸国の軍勢を率いて上洛の途につきます。
軍勢の一部は陸路を進みましたが、政弘の本隊は船団を率いて海路を選び、野上・柳井・屋代島・室津を経て瀬戸内海を東へ進みました。
その道中、伊予から河野通春も水軍を率いてこれに合流します。
この戦いで河野軍は、大内軍と肩を並べて西軍を支える主力の一角を担っていました。
当時の記録では、この上洛軍は「大内・河野連合軍」と記されるなど、両軍は一体の軍勢として広く認識されていました。
その兵力は二万、あるいは三万とも伝えられ、『応仁記』や『細川勝元記』では、そのうち河野軍だけでも二千余騎を率いていたと記されています。
途中、備中国下津井では、上洛を阻止しようとした細川方の軍勢を撃破し、瀬戸内海の制海権を握った大内・河野連合軍は、その勢いのまま京都を目指して東進しました。
そして7月20日、大内・河野連合軍は摂津国兵庫へ到着しました。
摂津の細川・赤松軍を破る
この頃、京都では東軍と西軍が一進一退の攻防を繰り返し、戦局はなお膠着した状態が続いていました。
東軍を率いる細川勝元は、大内政弘率いる西国の大軍が京都へ到着すれば、西軍が一気に優勢となることを強く警戒します。
そのため摂津や京都周辺へ細川氏・赤松氏の軍勢を配置し、大内・河野連合軍の進軍を阻止しようとしました。
しかし、兵庫へ上陸した大内・河野連合軍は、その勢いのまま京都を目指して進軍を開始します。
8月3日には兵庫を出発し、摂津各地で東軍の迎撃軍と激しく衝突しました。
8月7日には尼崎へ進軍し、東軍方と結んで抵抗した若衆を討って町を制圧します。
さらに8月10日には難波・水堂で細川・赤松方の軍勢を破り、東軍の防衛線を次々と突破しました。
赤松政則も椋橋方面で迎え撃ちましたが敗れ、大内・河野連合軍の進撃を止めることはできませんでした。
この一連の戦いでは、河野通春が率いる伊予水軍も大内軍とともに各地で奮戦し、尼崎・大物浦の戦いでは戦功を挙げたことが伝えられています。
瀬戸内海を本拠とする河野水軍は、海上からの兵員輸送や補給だけでなく、上陸後の戦闘でも大内軍の重要な戦力となっていました。
こうして大内・河野連合軍は京都への道を切り開き、西軍は西国最大級の軍勢を迎え入れることに成功しました。
そして応仁元年(1467年)8月23日、大内・河野連合軍はついに京都へ入り、東寺へ陣を構えました。
数万ともいわれる西国の大軍が入京したことで、西軍は一気に勢いを盛り返し、応仁の乱は新たな局面を迎えることになります。
船岡山に築かれた大内・河野軍の本陣
翌8月24日、大内・河野連合軍は東寺から京都北郊の船岡山付近へ陣を移しました。
その本陣は、船岡山東端にあった梶井門跡御所の焼失跡に置かれたと考えられています。
船岡山は京都盆地を一望できる軍事上の要衝であり、京都北部を押さえる戦略拠点でした。西軍はここを本陣として各方面へ軍勢を展開し、大内・河野連合軍は以後、京都における西軍の中核戦力として行動することになります。
大内・河野連合軍の入京によって、それまで東軍優勢で推移していた戦局は再び均衡し、京都では東西両軍による激しい市街戦が繰り広げられました。
同年10月には相国寺を舞台とする大規模な戦闘が勃発し、寺院や公家屋敷を巻き込んだ激戦によって京都の町は各地で焼失していきます。
西軍は大内・河野連合軍を得て攻勢を強めましたが、東軍を率いる細川勝元も各地から軍勢を集めて反撃を続けたため、戦局を決定づけることはできませんでした。
こうして応仁の乱は短期間で終結するどころか、京都を舞台とする長期戦へと発展し、やがて全国の守護大名を巻き込む天下の大乱となっていきます。
「兵庫港をめぐる攻防戦」西軍の命運を握った補給路
大内・河野連合軍の入京によって西軍は勢いを盛り返しましたが、戦いはなお決着しませんでした。
京都では東西両軍による市街戦が続く一方、その戦線は摂津・丹波・近江など畿内各地へと広がり、応仁の乱は長期戦の様相を強めていきます。
その中でも、戦局を左右する重要な拠点となったのが摂津国の兵庫港でした。
兵庫港は瀬戸内海と京都を結ぶ西国最大級の港であり、西国諸国から軍勢や軍需物資を送り込む玄関口でもありました。
大内・河野連合軍が京都で戦い続けるためには、この港を経由して兵力や物資を絶え間なく送り続けなければなりませんでした。
そのため東軍を率いる細川勝元は、兵庫港を押さえて西軍の補給路を断とうとし、摂津各地へ軍勢を送り込みます。
これに対して西軍も兵庫港を死守するため応戦し、兵庫・尼崎・大物浦・神崎周辺では補給路の主導権をめぐる激しい攻防が繰り返されました。
河野通春率いる伊予水軍も、この戦いで各地を転戦し、大内軍とともに西軍の戦線を支える重要な役割を果たしたのです。
西軍の生命線を支えた河野水軍
西軍の主力として戦い続けた河野通春。
その具体的な軍事行動を伝える史料は多くありませんが、文明元年(1469年)5月4日に西軍方から発給された御教書によって、通春が引き続き京都に在陣していたことが確認されています。
この御教書からも、通春が一時的な援軍ではなく、大内政弘とともに西軍の主力として京都や摂津を転戦し続けていたことが分かります。
長期化した応仁の乱は、京都で繰り広げられた市街戦だけで勝敗が決まる戦いではありませんでした。
西軍にとって、本拠・山口から瀬戸内海を渡り、兵庫港を経て京都へ至る海上補給路は、戦いを継続するための生命線でした。
京都で東西両軍が激しく刀を交えていたその背後では、河野通春率いる河野水軍も大内軍とともに、その生命線を支える重要な役割を果たしていたと考えられます。
二つの幕府の対立と河野氏の家督争い
摂津方面の戦いには、豫州家当主・河野通春だけでなく、宗家当主・河野教通(こうの のりみち)の弟である河野通生(こうの みちなり・通生)も出陣したことが史料から確認されています。
河野一族の内部では宗家と豫州家の対立が続いていましたが、少なくともこの時期の通生は通春らとともに摂津方面へ進み、西軍の戦いに加わっていたとみられます。
一方で、教通は西軍方に完全につくことはなく、伊予国にとどまって戦況の推移を見守る形をとっていました。
当時、どちらの陣営が勝利するかは予測できませんでした。
しかも、西軍には通春を支援する大内政弘が加わり、東軍の中心には長く対立してきた因縁の相手、細川氏がいました。
教通にとって、どちらを選んでも河野氏内部の家督争いや伊予国内の情勢へ大きな影響を及ぼすことは避けられなかったのです。
そのため教通は、いずれの陣営にも与することなく、慎重に情勢を見極めていたのでしょう。
「西軍へ…。」通春が教通へ送った書状
教通が東軍・西軍のいずれにも明確な態度を示さないまま、時だけが過ぎていきました。
そんな中、京都に滞在していた河野通春は、自ら筆を執り、教通へ一通の書状を送りました。
そこには、西軍への加勢を求める切実な思いが綴られていました。
通春はまず、「天下の争乱は今後も長く続くだろう」と戦乱の行く末を見据えたうえで、「あなたは、こちらへ味方してくださるのでしょうか」と、教通へ率直に問いかけます。
さらに、以前にも大内氏から協力を求める使者が送られていたにもかかわらず、いまだ返事がないことにも触れ、決断を先送りにする教通の姿勢へ静かに疑問を投げかけます。
そして、東軍では足利義政、西軍では足利義視がそれぞれ将軍として擁立されている現状を挙げ、「どちらの命令に従ったとしても、本質的な違いはない」と自らの考えを示しました。
そのうえで、摂津での戦功によって自らが守護職に任じられた経緯に触れながら、「私が守護となっても、あなたが守護となっても、河野家の名を高めることに変わりはありません」と語りかけます。
宗家と豫州家が争い続けるのではなく、一族が再び力を合わせ、河野氏の名のもとに西軍へ加わってほしい。
その切実な願いこそが、この一通の書状に込められていたのです。
東西に並び立った二つの幕府
同じ頃、京都では東西両軍の対立がさらに深まり、新たな展開を迎えようとしていました。
応仁二年(1468年)9月、前年に京都を逃れて伊勢国へ赴いていた足利義視は、将軍・足利義政の求めに応じていったん帰京したものの、義政との関係は再び悪化しました。
同年11月、義視は東軍を離脱して比叡山へ入り、その後、山名宗全らに迎えられて西軍へ加わりました。
西軍は義視を将軍として、東軍側の室町幕府に対抗する独自の政治体制「西幕府」を築いていきました。
こうして京都の中に、足利義政とその子・義尚を戴く東軍方の幕府と、足利義視を中心とする西軍方の「西幕府」という二つの政権が並び立って対立することになりました。
通春の呼びかけと教通の東軍参与
文明元年(1469年)、大内氏の働きかけによって、足利義視から九州・四国の諸大名へ西軍への参加を求める書状が数多く発給されました。
河野通春からも共に西軍へ加わるよう呼びかけがなされましたが、河野宗家の教通はこの呼びかけに応じず、東軍方につきました。
文明三年(1471年)成立の朝鮮の史書『海東諸国紀』には、教通について「山城居住」と記されており、教通はこの時期、山城国(京都周辺)に滞在しながら東軍としての活動を行っていたと考えられています。
河野氏に生まれた二人の守護
文明五年(1473年)3月、西軍の中心人物であった山名宗全が亡くなり、同年5月には東軍を率いた細川勝元も死去しました。
東西両軍の中心人物が相次いで世を去ったことで、長く続いた戦いは次第に終息へ向かい始めます。
その一方で、河野氏の家督と伊予守護職をめぐる争いは、さらに複雑になっていきました。
同年11月、教通は「通直」と改名し、東軍方の室町幕府から伊予国守護に任じられます。
一方の通春も、西軍方の西幕府から伊予守護として認められていました。
こうして伊予国では、宗家の通直(教通)と豫州家の通春という、同じ河野氏一族から二人の守護が再び並び立つこととなりました。
それは、南北朝時代にも繰り返された河野氏一族の分裂が、再び表面化した瞬間でもありました。
応仁の乱の終結と引き継がれた河野氏の分断
文明六年(1474年)には、通直方とみられる中川氏らの軍勢が京都に滞在し、西軍方の土岐成頼の屋敷を攻め落としました。一方、通春は引き続き大内政弘と行動をともにし、西軍として戦い続けました。
戦いが長期化するなか、東軍・西軍の双方に厭戦の空気が広がっていきます。
京都は長年の戦闘によって荒廃し、諸大名の領国でも反乱や領地争いが相次ぎました。
大内政弘の領国でも、政弘の伯父・大内教幸が東軍と結んで挙兵し、さらに九州では少弐氏や大友氏が大内領へ侵入します。
しかし、留守を預かっていた陶弘護がこれらの勢力を撃退したため、大内政弘は京都から撤退することなく、西軍の中心として戦いを続けました。
やがて大内政弘は東軍との和解へ向かいます。
文明九年(1477年)4月19日、河野通春も、すでに東軍との交渉を進めていた大内政弘の仲介によって和睦を申し入れました。
その後、通春は東軍方の室町幕府将軍・足利義尚から所領の安堵を受けます。
同年11月、大内政弘は京都の陣を引き払い、本国・周防国山口へ帰国しました。
通春も大内軍とともに伊予国へ戻ったものと考えられています。
こうして文明九年(1477年)11月、東西両軍が相次いで京都から軍勢を引き揚げたことで、十一年に及んだ応仁の乱はようやく終結を迎えました。
焼け野原となった京都では、諸大名や公家が前将軍・足利義政のもとへ参上し、長年の戦乱の終息を祝います。人々は荒廃した都の復興へ向け、新たな一歩を踏み出しました。
しかし、この大乱を通じて深まった河野宗家と豫州家の亀裂は最後まで修復されることはありませんでした。
応仁の乱は終わっても、河野氏の内紛は終わらなかったのです。
戦国時代の幕開けと伊予での主導権争い
応仁の乱によって室町幕府の統治権威は大きく失われていました。
将軍の命令は地方へ届きにくくなり、各地では守護の統制を離れた地侍や国人たちが、自らの武力を頼りに領地を守り、あるいは勢力を広げる時代へと移り変わっていきます。
もはや家柄や血統、幕府から与えられた権威だけでは生き残ることはできません。
実力のある者が上位者を凌ぎ、ときには主君すら倒して実権を握る「下剋上」の風潮が全国へ広がり、日本列島は戦国時代へと突入していきました。
この下剋上の波は、伊予国も例外ではありませんでした。
宗家と豫州家に分裂した河野氏の争いは、国人や船衆(海上勢力)を巻き込み、その動向によって戦局が左右される、より複雑な争いへと発展していきます。
帰国した豫州家の河野通春と、宗家の河野通直(教通)は、再び伊予国の主導権を懸けて激突しました。
文明十年(1478年)、湊山城(みなとやまじょう・港山城)を本拠とする通春は宗家方への攻勢を強め、一時はこれを大いに破ります。
通春の勢力は伊予国の三分の一から半国近くにまで及び、敗れた通直の嫡男・通秋は来島への退去を余儀なくされました。
戦局を優位に進めた通春は府中へ入り、しばらく滞在したのち、本拠の湊山城へ帰還します。
しかし、この時代の勝敗を左右したのは、当主の威光だけではありませんでした。
どちらの陣営に国人や船衆(海上勢力)が味方するかが、戦局を大きく左右する時代となっていたのです。
宗家の通直方が体制を立て直して反撃を開始すると、伊予国内の国人や諸豪族は、それぞれの生き残りを懸けて離合集散を繰り返しました。
劣勢に立たされた通春は、応仁の乱以来の同盟者であった大内政弘へ援軍を要請します。
通春が求めたのは、呉・能美・蒲刈の三島を拠点とし、瀬戸内海で大きな勢力を誇った船衆(海賊衆)の派遣でした。
当主の軍勢だけでは戦局を覆せず、海上勢力の力を借りなければならなかったことは、戦国時代の幕開けとともに、武士社会の勢力図が大きく変化していたことを物語っています。
激しい攻防の末、文明十二年(1480年)頃になると、宗家の通直が再び伊予国の主導権を握ることに成功しました。
しかし、豫州家の勢力が完全に消滅したわけではなく、河野一族の対立はその後も戦国時代を通じて繰り返され、やがて河野氏の運命を大きく左右していくことになります。
受け継がれる宗家と豫州家の対立
文明十四年(1482年)閏7月14日、河野通春は湊山城で波乱に満ちた生涯を閉じました。
その最期については、病没したとする説がある一方、湊山城の山麓で河野教通の軍勢と激しく戦い、流れ矢を受けて討ち死にしたとも伝えられています。
しかし、通春の死によっても宗家と豫州家の争いが終わることはありませんでした。
通春の実子・河野通篤(みちあつ)が豫州家の家督を継ぎ、明応九年(1500年)に宗家当主・河野通直が湯築城で没すると、その子・通宣が宗家を継承します。
その後も、通宣と通篤の対立は明応年間から大永年間にかけて長く続きました。
やがて通篤は勢力を失って伊予国を離れることとなりますが、通之の子孫から始まった豫州家と宗家の対立は、実に長い年月にわたって河野氏を分裂させることになりました。
河野氏にとって、応仁の乱は単なる京都の戦乱ではありませんでした。
伊予国で続いていた宗家と豫州家の家督争いを、細川氏と大内氏、東軍と西軍という全国規模の対立へと結び付け、一族の分裂を決定的なものとした戦乱だったのです。
応仁の乱によって深まった一族の亀裂は、そのまま戦国時代へと受け継がれ、河野氏の運命を大きく左右していくことになるのです。
港町・三津浜に受け継がれる河野通春の記憶
愛媛県松山市西部に位置する三津浜。
この美しい港町は、古くから瀬戸内海の海上交通の要衝として栄え、松山の海の玄関口として発展してきました。
江戸時代から続く商家や土蔵、大正・昭和初期の近代建築が今も残るレトロな街並みには、古民家をリノベーションしたカフェやレストラン、雑貨店などが点在し、ノスタルジックな雰囲気の中でまち歩きを楽しめる人気スポットとなっています。
現在も三津浜港には瀬戸内海の島々や山口県方面を結ぶフェリーが発着し、多くの人々が行き交う港町の風景が受け継がれています。
また、毎年夏には愛媛県を代表する夏の風物詩「三津浜花火大会」が開催され、美しい花火を楽しもうと県内外から多くの人々が訪れ、港町は一年で最も華やかな季節を迎えます。
そんな歴史と港町の風情が息づく三津浜には、河野通春の足跡が今も残されています。
「湊山城跡」通春の居城
三津浜港を見下ろす小高い丘陵・港山(みなとやま)。
山頂へ続く遊歩道を登ると、三津浜の町並みや瀬戸内海、そして興居島(ごごしま)を望むことができます。
この美しい眺望が広がる湊山に、かつて河野通春の本拠・湊山城(みなとやまじょう・港山城)は築かれていました。

通春の没後も、湊山城は豫州家の本拠として存続しましたが、その後、激しい主導権争いの末に河野宗家によって攻め落とされ、その支配権が奪われます。
その後は河野氏の城となり、三津浜港を望む要衝として戦国時代まで利用されました。
やがて天正十三年(1585年)、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)による四国征伐によって河野氏が滅亡すると、湊山城もその役割を終え、廃城となりました。
長らく山頂への登山道は失われていましたが、平成28年(2016年)3月に遊歩道が整備され、およそ半世紀ぶりに再び山頂まで登ることができるようになりました。
中世には河野氏の水軍や多くの商船が行き交ったであろう瀬戸内海の景色を、今もこの場所から見渡すことができます。

「三津の渡し」通春も利用したと伝わる船
湊山を訪れたなら、ぜひ体験してみたいのが、港山と三津浜を結ぶ小さな渡し舟「三津の渡し」です。
三津の渡しは、港山と三津浜を結ぶ約80メートルの短い航路ですが、年中無休・無料で運航されており、運航時間は午前7時から午後7時まで。
正式には松山市道高浜2号線の一部という全国でも珍しい「海の市道」であり、現在も地域の人々の暮らしを支える生活道路として親しまれています。
三津の渡しの起源は、河野通春が湊山城を本拠としていた室町時代にまでさかのぼると伝えられています。
当時は、湊山城への物資輸送や、三津浜側にあった洲崎の浜へ毎朝城兵たちの食料を調達するため、この渡しが利用されたことが始まりとされています。
その後、江戸時代になると、松山藩は三津を水軍の拠点として整備し、慶長八年(1603年)には御船場を設置、寛永十二年(1635年)には御船手を配置しました。
三津の渡しも藩の管理のもとで運航されるようになり、地域に欠かせない交通路として受け継がれていきます。
また、三津浜の人々は「三津の渡し」や「洲崎の渡し」、対岸の港山の人々は「港山の渡し」や「古深里(こぶかり)の渡し」と呼び、それぞれの地域で長く親しまれてきました。
対岸までわずか1〜2分ほどの船旅ですが、かつて河野通春や城兵たちが見つめていたであろう三津の海を、今も同じ目線で渡ることができます。

「湊三嶋大明神社」河野通春の御霊
その船上から望むことができるのが、湊山の南麓に鎮座する湊三嶋大明神社(みなとみしまだいみょうじんじゃ)です。
古くから港町・三津の鎮守として信仰を集めるとともに、三津の渡しの航路を見守る神社として親しまれてきました。
現在も船着場のすぐ近くに鎮座し、渡し舟と社殿が織りなす風景は、三津浜を代表する景観の一つとなっています。

さらにこの神社は、湊山城で生涯を閉じた河野通春の御霊が祀られている神社としても知られています。
湊三嶋大明神社の歴史は、奈良時代の神亀五年(728年)にまでさかのぼります。
聖武天皇の勅命を受けた伊予国司・小千宿禰玉興(越智玉興)と、その父・小千宿禰玉純(越智玉純)が、大三島の大山祇神を湊山へ勧請し、「本郷一宮」として創建されたとされています。
その後、文治二年(1186年)、河野四郎通信が湊山城を築いた際、神社は現在の山麓へ遷座しました。
以来、湊山城の鎮守として歴代河野氏の篤い崇敬を受け、文永・弘安の役(1274・1281年)では河野通有・通純が武運長久を祈願して水田三反を寄進し、元弘三年(1333年)には河野通能が神殿を修理するなど、河野氏とともにその歴史を歩んできました。
室町時代には、湊山城を本拠とした河野通春・通篤も篤く崇敬し、豫州家の守護神として厚く信仰しました。
そして文明十四年(1482年)、湊山城で河野通春がその生涯を閉じると、その御霊は河野氏が受け継いできた豪族・越智氏の名を冠した「越智宿禰通春公霊(おちのすくねみちはるこうのみたま)」として、湊三嶋大明神に祀られました。
戦国時代以降も神社への崇敬は受け継がれ、慶長年間(1596〜1615年)には松山城主・加藤嘉明が社殿を修理しました。
さらに江戸時代には、松山藩主・松平氏が御用船の航海安全を祈願する海路守護の神として篤く崇敬し、社殿の修理や例祭への代参を行ったとされています。
祭神である大綿津見命・速秋津神は古くから海の守護神として信仰され、港町・三津で暮らす人々や瀬戸内海を往来する船乗りたちは、この神社を「三津大明神」「湊大明神」と称え、航海の安全と港の繁栄を祈り続けてきました。
そして毎年8月には「河野通春公御霊祭り」が執り行われ、港の守護神への信仰とともに、河野通春の記憶は今も大切に受け継がれています。

「河野伊予守通春公祠堂」受け継がれる通春の祭祀
湊山から徒歩約5~7分、伊予鉄港山駅近くの住宅街(松山市新浜町)にも、河野通春の御霊が祀られています。

この地域では、河野通春公を偲び、その御霊を慰める祭祀が古くから地域の人々によって大切に受け継がれてきました。
しかし、長い年月の中で堂宇は著しく老朽化し、一時は倒壊の危機を迎えます。
そこで、通春公の没後五百年以上を迎えたことを機に、新浜町一組の有志が再建を計画し、地域住民の方々の寄進によって現在の祠堂が建立されました。

祠堂には通春公の位牌が安置され、その御霊を慰めるとともに、地域の平安と末永い祭祀の継承が願われています。
また、祠堂には通春公の略記や河野氏の系図などの資料も備えられており、訪れる人々は、応仁の乱や河野宗家と豫州家の激しい内紛を駆け抜けた河野通春の生涯に思いを馳せることができます。

応仁の乱で西軍の武将として戦い、河野宗家との長きにわたる争いを生き抜いた河野通春。
その足跡は、人々の祈りとともに港町・三津浜で今なお語り継がれています。