今治を結ぶ江東区白河の名刹
東京都江東区白河一丁目。
高層ビルと日々の暮らしが交差する都心の一角に、今治と深い縁を結ぶ静かな寺院があります。
それが、浄土宗の名刹「霊巌寺(れいがんじ)」です。
この霊巌寺と今治をつなぐのが、かつて今治を治めた今治藩主の存在です。
実はこの寺には、久松松平家の歴代今治藩主たちの墓所が築かれています。

今治藩主の墓はなぜ東京にあるのか
江戸時代、今治藩は初代から幕末の廃藩置県までの間、久松松平家によって治められてきました。
そのため、久藩主である久松松平家の墓所は、今治市桜井地区の唐子山(古国分山)の中腹「今治藩主の墓」にあります。
そこに建つ三基の宝篋印塔には「梅鉢紋(梅鉢紋を源流とする星梅鉢。通称 星梅鉢紋)」が刻まれ、今も静かにその由緒を伝えています。

梅の花は、平安時代の学者政治家である 菅原道真 が生前深く愛したことで知られおり、後世では梅は知恵、学問、清廉さを象徴する花として尊ばれるようになりました。
道真公の家を象徴する紋も梅をモチーフにした「梅鉢紋」です。
五弁の梅花を円形に配したこの紋は、のちに道真公を祀る天満宮の神紋となり、天神信仰とともに全国へと広がっていきました。
道真公終焉の地に建つ太宰府天満宮と、怨霊鎮魂のために創建された京都の北野天満宮は、その信仰の中心的存在となり、ここから各地へ天満宮や天神社が勧請され、梅鉢紋もまた広く定着していきました。

太宰府天満宮 撮影: るCha(写真AC)
今治でも綱敷天満神社や碇掛天満宮をはじめ、市内各地の天満神社や天神社で梅鉢紋を見ることができ、天神信仰がこの地にも確かに根づいていることを感じさせます。


家紋「星梅鉢(ほしうめばち)」に込められた誇りと系譜
霊巌寺の宝篋印塔にも「梅鉢紋(星梅鉢紋)」が刻まれています。
実は、久松松平家はその出自を菅原道真の後裔に持つとされる家系です。
道真の子孫・菅原資行(すがわら の すけゆき)の系統にあたると伝えられ、室町時代には三河国に勢力を有し、戦国期に「久松」を称しました。
後に徳川家康の生母・於大の方が再嫁したことで家康の異父弟・久松定勝が生まれ、以後、久松松平家は譜代大名として重きをなし、今治藩・桑名藩などを治める名門家として存続していきます。
その久松松平家が、学問と誠実の象徴である「梅鉢紋(星梅鉢紋)」を家紋とした背景には、由緒ある血統への誇りと、祖先を敬う心があったと考えられます。

では、なぜ今治藩主の菩提寺が今治ではなく東京にあるのでしょうか?
その理由を知る手がかりは、江戸時代の大名制度「参勤交代(さんきんこうたい)」にあります。
参勤交代という仕組み
参勤交代とは、江戸幕府が全国の大名に課した制度で、各藩の藩主が一年おきに江戸と領地を往復し、江戸に屋敷を構えて暮らすことを義務づけたものです。
この制度には、単なる儀礼ではなく、幕府による統制と監視の意図がありました。
大名に頻繁な移動と江戸での生活を強いることで財政を圧迫させ、反乱の余力を奪おうという狙いがあったのです。
また、大名の正室や世継ぎは江戸に常住させられ、人質としての役割も果たしていました。
こうして、江戸で暮らすことは藩主にとって避けられない日常となっていきます。
江戸で生まれ、江戸で亡くなる
この制度のもと、多くの藩主たちは江戸で生まれ、江戸で育ち、そして江戸で最期を迎えることも多くなっていました。
当時の埋葬は土葬が一般的であり、遺体を遠方の領地へ運ぶのは極めて困難でした。
特に夏場に亡くなった場合、長距離の移送には腐敗の危険が伴い、現実的とはいえません。
そのため、多くの大名家は江戸に菩提寺を持ち、死後はそこで葬られるのが常となっていったのです。
今治藩主・久松松平家もその例外ではなく、江戸・深川の霊巌寺を菩提寺と定め、藩主たちはこの地に眠ることとなりました。
こうして、愛媛県今治市と東京・江東区の霊巌寺という二つの地に、それぞれ今治藩主の墓所が置かれることとなったのです。
- 初代・松平定房(今治藩主の墓・桜井地区)
- 二代・松平定時(霊巌寺)
- 三代・松平定陳(今治藩主の墓・桜井地区)
- 四代・松平定基(今治藩主の墓・桜井地区)
- 五代・松平定郷(霊巌寺)
- 六代・松平定休(霊巌寺)
- 七代・松平定剛(霊巌寺)
- 八代・松平定芝(霊巌寺)
- 九代・松平勝道(霊巌寺)
- 十代・松平定法(霊巌寺)
霊巌寺の創建と雄誉霊巌上人
では、今治藩主・久松松平家の菩提寺となった江戸深川の霊巌寺とは、どのような寺院なのでしょうか。
霊巌寺の創建は、江戸時代初期の寛永元年(1624年)にさかのぼります。
この歴史ある寺院の開山を務めたのが、浄土宗知恩院第32世・雄誉霊巌(おうよ れいがん)上人です。
当時、隅田川の河口部(現在の東京都中央区新川一帯で、日本橋川・亀島川・隅田川に囲まれた低湿地)を、上人は信者たちとともに埋め立て、そこに一寺を建立しました。
寺の名は、開山上人の法号「霊巌」にちなんで「霊巌寺」と号され、以来その名が今日まで受け継がれています。
浄土宗中興の祖・雄誉霊巌上人の生涯
霊巌寺を開いた雄誉霊巌(おうよ れいがん)上人は、江戸時代初期の宗教界において極めて重要な存在でした。
天文23年(1554年)、駿河国沼津に生まれ、今川氏一族・沼津氏勝の三男として出自を持ちます。
10歳で出家し、浄土宗浄運寺にて得度。「肇叡(ちょうえい)」と名乗りました。
その後、下総国生実(現在の千葉市)にある大巌寺で修行を重ね、「霊巌」と改名。若くして大巌寺第3世となり、布教と門下の育成に励みました。
豊臣政権下の混乱を避け、関西や九州など各地に教線を広げた上人は、やがて徳川家康の招きにより再び関東へ戻ります。
関東では江戸を中心に布教を進め、特に江戸湾沿岸や房総地域の漁民・交易民の信仰を得て、多くの寺院を建立しました。
これは単なる宗教活動にとどまらず、海上交通や物流を担う人々の心の拠り所としての寺院づくりであり、地域社会に深く根ざした活動だったといえます。
江戸の都市計画と霊巌寺の創建
江戸での布教の拠点として、寛永元年(1624年)に建立したのが「霊巌寺」です。
霊巌寺が創建されたこの地は、江戸城の正面に位置しており、幕府の都市改造計画と連動した新興埋立地のひとつでした。
霊巌寺が建立されたことで、「霊巌島(れいがんじま・霊岸島)」と呼ばれるようになり、やがて江戸と房総を結ぶ水運の要地としても栄えていきました。
房総館山からの押送船(おしょくりぶね)が毎朝霊巌島に魚を届け、江戸前の食文化を支えるとともに、江戸からは文人・文化人もこの地を訪れました。
知恩院中興と将軍家との関係
寛永6年(1629年)、雄誉霊巌上人は京都・浄土宗総本山の知恩院第32世に任ぜられます。
当時、火災などで荒廃していた知恩院の再建に尽力し、山門、御影堂、そして日本一の大梵鐘を建立。宗門の象徴たる伽藍を復興させ、のちに「浄土宗中興の祖」と称されるに至ります。
この大事業の背後には、3代将軍・徳川家光の深い庇護と信任がありました。
雄誉上人は将軍家にたびたび説法を行い、幕府の宗教政策においても大きな役割を果たしています。
晩年と遺徳
寛永18年(1641年)、雄誉上人は江戸・霊巌寺にて88歳の生涯を閉じました。
その遺骨は分骨され、大巌院や霊巌寺などゆかりの寺院に埋葬されています。
生涯にわたり建立・再興した寺は数十に及び、弟子は三千人を超え、現在も各地の寺院には、雄誉上人直筆の名号や一枚起請文が数多く伝わっており、上人そのものが信仰の対象として厚く崇敬されています。
関東十八檀林に数えられた由緒ある学問所
霊巌寺は、開創からまもなくして檀林(だんりん)が設けられ、やがて浄土宗の「関東十八檀林」のひとつに数えられるようになります。
檀林とは、浄土宗における僧侶育成のための学問所であり、江戸時代に制度化された宗門の高等教育機関です。
中でも「関東十八檀林」は、幕府の公認を受けた教学の中枢であり、僧階取得や教義研鑽の場として極めて重要な役割を担っていました。
この制度は、慶長2年(1597年)に知恩院の尊照上人によって「関東檀林規約」が定められたことに始まり、元和元年(1615年)には幕府による「浄土宗法度」の発布によって、宗門の統制と教学体系が本格的に整備されていきます。
霊巌寺の檀林には、全国から意欲ある修行僧たちが集い、講義や読経、教義の討論に励んでいました。
こうして霊巌寺は、信仰の場としてだけでなく、学問の府としても高く評価され、その名は広く世に知られるようになったのです。
明暦の大火と霊巌寺の焼失
その後も霊巌寺は、檀林としての格式を背景に幕府からの篤い庇護を受け、江戸における信仰と教学の中核として栄え続けていました。
浄土宗の教義研究や僧侶育成の拠点として、諸国から学僧が集い、また市井の民衆にとっては心の拠り所として、日々多くの参詣者を迎えていたと伝えられています。
しかし、そうした霊巌寺の隆盛も、突如襲いかかる未曾有の災禍によって一変します。
寛永元年(1624年)の開創からわずか30年余り後、江戸の街に破滅的な炎が吹き荒れたのです。
それが、明暦3年(1657年)に発生した「明暦の大火」でした。
江戸を焼き尽くした三日間
この大火は、1月18日から20日にかけて、本郷丸山の本妙寺を皮切りに、小石川・麹町と三度にわたって火の手が上がり、当時の江戸の町の6割以上を灰燼に帰した未曾有の大災害です。
火災の発生当日、江戸は80日以上も雨が降らない乾燥状態にあり、加えて強い北西の風が吹き荒れる気象条件が重なっていました。
初日の火は、神田から京橋、八丁堀へと延焼し、隅田川を越えて佃島・石川島方面にまで広がります。
翌19日には一旦火が鎮まったものの、午前中には小石川で再び出火。
飯田橋から江戸城にまで達し、本丸・二の丸・三の丸・天守すらも焼失させます。
そして同日夕刻には麹町5丁目でも火災が発生。これが西之丸周辺や芝浜一帯を飲み込み、江戸の中心部はほぼ壊滅状態となりました。
この火災により、町屋400町、武家屋敷数百、寺社仏閣350余、そして江戸城の象徴である五重の天守閣までもが焼け落ちたと記録されています。
被災者は数十万人にのぼり、死者の数は10万超とも推定されています。
まさに江戸時代最大級の火災であり、「ローマの大火」「ロンドン大火」と並んで“世界三大大火”に数えられるほどの規模でした。
焼失した霊巌寺と被害の様子
霊巌寺もこの明暦の大火の被害を免れることはできませんでした。
当時、霊巌寺が所在していたのは、隅田川東岸の霊巌島(現・中央区新川付近)。
この地域もまた、八丁堀・佃島・石川島とともに延焼ルートにあたり、猛烈な炎に包まれました。
木造建築の密集する寺町では、わずかな火の粉が瞬く間に伽藍を焼き尽くし、霊巌寺も本堂・講堂・庫裡・鐘楼を含むすべての堂宇が焼失。
檀林としての機能も一時的に完全に停止することとなります。
とくに犠牲が大きかったのは、寺に避難していた人々でした。
霊巌寺は江戸市中にあって堅牢な寺院建築として知られ、近隣住民や参詣者、子どもや老人を含む数千人が避難していたとされます。
しかし、強風にあおられた炎は想像を超える勢いで迫り、多くの人々が本堂や回廊で焼死。
中には隅田川へ飛び込んで命を落とす者も続出しました。
現代に至るまで、霊巌島一帯には火災の慰霊碑や橋の名にその記憶をとどめるものが点在しています。
「振袖火事の伝説」江戸を包んだ悲恋の炎
出火元は幕府による都市再整備の一環として故意に放火されたのではないか、または隣接する大名屋敷からの失火を寺がかばったのではないか、といった陰謀説も噂されました。
その中で、庶民のあいだで広く語り継がれたのが、ひとりの娘の悲恋に端を発するとされる「振袖火事」の伝説です。
物語の発端は、浅草諏訪町の呉服商・大増屋の一人娘「お菊」に始まります。
春の日、お菊は上野の花見で見かけた寺小姓の美少年に一目惚れし、その恋に心を焦がす日々を送るようになります。食も喉を通らず、夜も眠れぬまま、お菊は次第に衰弱していきました。
せめて想い出だけでも手元にと、お菊は小姓の着ていたのと同じ模様の振袖を仕立てさせました。
しかし、その願いも届かず、お菊は明暦元年1月16日、わずか16歳でこの世を去ります。両親は愛娘の形見として、その振袖を棺に納め、本郷丸山の本妙寺で葬儀を行いました。
ところが、この振袖には不吉な因縁が宿っていたとされます。葬儀後、寺の住職は振袖を供養のうえ古着屋に売却。
やがて別の娘がこの振袖を手に入れますが、不思議なことに、同じく16歳でお菊と同じ命日の1月16日に病死してしまいます。
その後もこの振袖を手にした娘たちは次々と早世し、いつしか「呪われた振袖」として恐れられるようになります。
ついに住職は、この因縁を断つべく、振袖を供養のうえ本妙寺の境内で焼却することに決めました。
明暦3年(1657年)1月18日、その読経とともに振袖が火にくべられた瞬間、突如として突風が巻き起こり、
炎は境内の堂宇へ燃え移ります。あっという間に寺は火柱に包まれ、やがて炎は江戸市中に広がっていきました。
こうして始まった大火は、本郷から神田、日本橋、佃島、そして霊巌島へと延焼し、江戸城すら飲み込む未曾有の災厄へと発展。
火元である本妙寺の位置から「丸山火事」、またこの逸話から「振袖火事」とも呼ばれるようになったのです。
「振袖火事」として歌舞伎や草双紙に取り上げられ、『振袖火事由来記』といった書物にも記されました。
現代でも、火事の記録とともに語られるこの伝説は、災厄を悲恋の情念で包み込む、江戸人の感性と想像力の豊かさを伝えています。
焼け跡からの再興と現在地への移転
明暦の大火によって江戸の街は壊滅的な打撃を受けましたが、幕府の対応は迅速でした。
焼失した町域の測量・再区画がただちに行われ、江戸城天守の再建はあえて見送りとされ、その予算と資源は町人の救済や都市機能の再建に振り分けられました。
これにより、火除け地(防火帯)の設置、主要道路の拡張、建築物の構造見直し、茅葺・藁葺の屋根の禁止など、都市全体にわたる抜本的な再整備が進められていきました。
この流れのなかで、霊巌寺もまた、大きな転機を迎えることになります。
霊巌島から現在の場所へ
本堂をはじめとする諸堂をすべて焼失した霊巌寺は、もともと所在していた霊巌島(現在の中央区新川周辺)での再建が見送られました。
当時の江戸中心部では、人口密度の上昇と防火対策が大きな課題となっており、寺社も例外ではなく、再建先の見直しが求められました。
寺院は広大な敷地を必要とする一方で、火災時には延焼のリスクが高く、幕府としては人口密集地からの分散を図る必要があったのです。
こうして、万治元年(1658年)に再建の地として、隅田川を越えた深川白河(現在の江東区白河)が新たに指定されました。
当時の深川白河は、隅田川東岸に広がるまだ開発の進んでいない低地で、水気の多い土地柄から、江戸の中心からは一歩離れた場所として見なされていました。
しかし、こうした未開発の土地こそが、都市の拡張と新たな都市機能の受け皿として期待されたのです。
深川寺町としての開発と整備
新天地での再建は、幕府の積極的な都市整備政策のもとで進められました。
干拓や埋め立て、水路の整備、寺地の造成といった大規模な工事が短期間で進行し、寺院の建設が可能な基盤が整えられていきます。
この政策は単なる被災寺院の再建にとどまらず、江戸東部を宗教・教育・文化の新たな拠点として整備しようという幕府の意図が込められていました。
霊巌寺の移転再建には、第3世の珂山上人が尽力し、信濃飯山藩主・松平忠倶の資金的協力もあって、速やかに復興が実現しました。
そして霊巌寺の移転を契機として周辺地域の整備が進み、一帯は「霊巌町」と呼ばれるようになります。
さらに霊巌寺のみならず、浄土宗・日蓮宗・曹洞宗・真言宗など主要宗派の寺院が次々と深川地域へ移転したことで、地域の景観と機能は大きく変貌していきました。
こうして形成された寺町が、「深川寺町」と呼ばれる地域です。
北は清洲橋通り、南は葛西橋通り、東は三ツ目通り、西は清澄通りに囲まれた約1km四方の区域に、大小あわせて50を超える寺院が軒を連ねました。
総寺域は約6万坪にも及び、江戸屈指の宗教・学問・文化の集積地となったのです。
深川寺町の特色は、多宗派が共存しながら、それぞれの信仰や教育活動を展開していた点にあります。
各寺院は、檀家制度を基盤に地域社会とのつながりを深め、檀林としての役割を担うことで、多くの学僧を育成する場ともなりました。
霊巌寺もその中心的存在として、再び教学機能を復活させ、江戸期を通じて修行僧の学問修行の場であり続けました。
霊巌寺旧地の記憶と現在
一方で、霊巌島はかつての風景が失われました。
霊巌寺が移転し、島の名も明治期以降の町名改正によって公式な地名からは消滅し、その面影をとどめるものは少なくなっていきます。
しかし、その記憶は完全に消え去ったわけではありません。
現在の中央区新川一丁目・二丁目周辺(旧・霊巌島町)には、今なお霊巌島の名残とされる場所や記録が静かに息づいています。
たとえば新川一丁目の「越前堀児童公園」には、1977年に建立された『霊巌島の碑』があり、この地が江戸時代に港湾・倉庫地帯として賑わいを見せたことを今に伝えています。
また、亀島川に架かる「霊岸橋」は、寛永元年(1624年)の霊巌寺創建に由来して名づけられた橋で、昭和60年(1985年)に改架された現在の橋にもその名が受け継がれています。
これらの碑や橋の名称は、江戸の水運・流通・信仰の歴史を物語る貴重な手がかりとなっており、霊巌寺が担っていたかつての役割と、町が育んできた文化の記憶を静かに語り続けています。
大名家の菩提寺としての霊巌寺と今治藩
霊巌寺に与えられた新たな寺地は、江戸時代の中でも屈指の規模を誇るものでした。
広大な境内には、檀林としての学寮や多数の塔頭寺院が整備され、学問・修行の場として栄える一方で、多くの大名家が菩提寺としてこの寺を選びました。
その中には、徳川家康の異父弟・久松定勝を祖とする伊勢国桑名藩主・松平(久松)家や、近江国膳所藩(現在の滋賀県大津市)の本多家など、名門諸家の名前が並びます。
こうした名家に並び、今治藩主である久松松平家もまた、霊巌寺を菩提寺と定め、藩主やその家族の眠る地としました。
かつての今治藩松平家の墓所には、初代から代々の藩主に加え、正室や早逝した子どもたちの墓が整然と並び立ち、数十基に及ぶ墓石が壮麗な景観を形づくっていたと伝えられています。
松平定信の墓所
霊巌寺には多くの大名家の墓が並んでいますが、その中でも特に名高く、国の史跡にも指定されているのが、江戸幕府の老中として「寛政の改革」を主導したことで知られる松平定信(まつだいら さだのぶ)の墓所です。

定信は、将軍徳川吉宗の孫にして、御三卿のひとつ・田安家の出身。
若くして白河藩(現在の福島県白河市)主に迎えられ、藩政改革に尽力しました。
その実績が幕府にも評価され、田沼意次の失脚後、老中首座として幕政に参画。
1787年から1793年までの6年間にわたり、質素倹約・農政改革・教育奨励・風紀の粛正などを柱とした政治改革「寛政の改革」を実行しました。
定信は単なる政治家にとどまらず、学芸にも深い理解を示した文化人でもありました。
収集・編集を行った古文書・古器物の集成『集古十種』や、随筆的な自叙伝『宇下人言』などを通じて、自らの思想と美意識を後世に伝えています。
また、儒教・朱子学を官学として位置づけた「寛政異学の禁」は、江戸の学問体系に長く影響を与えました。
現在、霊巌寺にある定信の墓所は塀に囲まれており、内部に立ち入ることはできませんが、外からはその立派な五輪塔の姿を望むことができます

また、松平定信は、今治藩主・久松松平家と同じく、松平(久松)家の流れをくむ人物であり、その家系は同じく菅原道真公にまでさかのぼります。
墓所には、共通の家紋である『星梅鉢(ほしうめばち)』が刻まれており、両家の由緒と血脈のつながりを今に伝えています。

関東大震災の被害と復興
明治・大正を経て、東京が近代都市としての姿を整えつつあった頃も、霊巌寺は江戸の歴史と文化を今に伝える寺院として、静かに佇み続けていました。
しかしその静寂と歴史は、大正12年(1923年)9月1日午前11時58分、突如として発生した未曾有の大災害により、根底から揺るがされることになります。
それが、関東大震災です。
惨禍の全容と深川地域の被害
大正12年(1923年)9月1日午前11時58分、相模湾北西部を震源とする大地震が首都圏を襲いました。
マグニチュード7.9(現在の解析では8.1とも)とされるこの地震は、東京・神奈川・千葉を中心とした広域に壊滅的な被害をもたらしました。
特に、木造建築が密集していた東京の下町地域では、地震そのものよりも、その直後に発生した大規模火災によって被害が拡大。
地震による瓦礫や倒壊家屋が火の手を遮ることができず、吹きつける強風が炎をあおり、瞬く間に火災が市街地全体へと広がりました。
深川地域では、地盤が軟弱であったことに加え、水路や堀が多く地形が入り組んでいたため、救援や消火活動が困難を極めました。
市街地の広範囲が火災に飲み込まれ、人々の避難もままならず、被災者は橋や運河、広場に逃れましたが、逃げ場を失った多くの人々が命を落としました。
この時、深川寺町と呼ばれた一帯も例外ではなく、50以上の寺院が集中していた霊巌寺周辺では、ほぼすべての伽藍が倒壊または全焼。
霊巌寺の本堂・講堂・山門・鐘楼などの主要な建造物が一夜にして失われ、重厚な石造墓塔も次々と崩れました。
また、寺に隣接していた多数の墓所も深刻な損壊を受け、今治藩主久松松平家の墓域もその多くが倒壊・破損し、無残な姿をさらすことになりました。
かつて整然と並び荘厳な風格を備えていた墓域は、一面瓦礫の山と化し、旧藩主や家族たちの名を刻んだ多くの墓石が失われ、所在が不明となったものもありました。
この震災では、東京市全体で10万人を超える死者・行方不明者が出たとされ、霊巌寺周辺もまた、その惨禍の中心にあったのです。
関東大震災が変えた霊巌寺…今治藩主墓所の再編
震災後、東京市による区画整理と都市再建の一環として、霊巌寺の境内整備も行われ、墓域は縮小されることとなりました。
この過程で、被害の大きかった個別墓石は整理され、現存していた中で最も状態の良い、2代藩主・松平定時(さだとき)の五輪塔を中心として、藩主や家族の遺骨を一カ所に合祀する措置がとられました。
現在、この五輪塔のもとには、2代藩主松平定時をはじめ、5代定郷、6代定休、7代定剛、8代定芝、9代勝道、10代定法といった歴代藩主の遺骨が納められています。

境内には、関東大震災の被災後、散在していた石仏類を集めて安置した地蔵群があり、犠牲者を悼む「慰霊地蔵尊群」も置かれています。

その中には、今治とも縁の深い「押切に揺れ三文字(隅切折敷縮三文字)」の家紋が刻まれた線香立ても見ることができます。

また、そのすぐそばには第7代藩主・松平定剛の墓石の一部も確認できます。

これらは震災がもたらした歴史的損失と、そこからの復興の歩みを伝える貴重な記録でもあります。
町名存続を守った渋沢栄一の進言
関東大震災は、東京の下町を中心に未曽有の被害をもたらし、都市機能の再建は喫緊の課題となりました。
これを受けて東京市は、防災と都市計画の観点から、大規模な区画整理事業を展開。
狭く入り組んだ街路の拡幅、不燃化建築の促進、さらには町名や地番の再編など、多方面にわたる復興政策が推し進められました。
その一環として、深川にある「霊巌町」も、「大工町」への改称案が浮上します。
しかしこれに対し、近代日本の財界を代表する実業家・渋沢栄一が強く反対しました。
渋沢は意見書を通じて、「霊巌町には『寛政の改革』を主導し、日本の近代化に大きな影響を与えた松平定信の墓所がある。由緒ある町名を、歴史の記憶とともに残すべきだ」と訴えたのです。
この訴えは東京市に受け入れられ、霊巌町の名称は改称されずに存続。
その後、1932年(昭和7年)には、定信が藩主を務めた旧・白河藩にちなみ、周辺地域は「白河町」と命名されました。
これは、都市復興の只中にあっても、歴史と人物への敬意を失わないという、当時の東京市民の姿勢を示すものといえるでしょう。
さらに、1929年(昭和4年)には定信の功績を顕彰するため、「楽翁公遺徳顕彰会」が設立され、現在も地域団体によって、毎年6月に命日に合わせた墓前祭(顕彰祭)が霊巌寺で行われています。
戦禍に巻き込まれた深川寺町
関東大震災からの復興を経た昭和初期の霊巌寺周辺は、都市近代化の波のなかでも、なお江戸の記憶と威厳を宿す空間として、寺町としての面影を色濃く残していました。
再建された伽藍と静寂な墓域は、移りゆく時代の中にあっても、人々の心に静かな安らぎと敬意をもたらしていたのです。
しかし、そうした平穏も長くは続きませんでした。
昭和に入り、日本は次第に戦時体制へと突き進んでいき、霊巌寺は戦争の渦中へと巻き込まれていくのです。
そして、昭和20年(1945年)3月10日未明。
ついにその日がやってきます。
この日、アメリカ軍のB-29爆撃機およそ300機が東京の空を埋め尽くし、主に下町一帯を標的に、焼夷弾による無差別爆撃を実施しました。
標的となったのは、木造家屋が密集する地域で、深夜の低空からのじゅうたん爆撃により、炎は瞬く間に広がり、東京の街を火の海へと変えていきました。
10万人以上が犠牲となり、27万戸を超える家屋が焼失したこの空襲は、東京大空襲として歴史に刻まれる未曾有の惨劇となりました。
深川白河の一帯もその直撃を受けました。
木造家屋がひしめいていたこの地域では、火の手の回りも早く、逃げ場を失った多くの住民が命を落とします。
寺町として知られていた一帯は、その面影を失い、瓦礫と焼け野原と化しました。
霊巌寺も例外ではありませんでした。
関東大震災を経て再建された本堂や伽藍は、すべてが炎に呑まれ、焼失。
江戸以来の歴史を支えてきた諸堂宇、建築物、文化財はこの日を境に姿を消します。
また、寺域にあった大名家の墓所、供養塔、五輪塔といった石造物も、高熱と爆風にさらされて破損や崩壊を免れず、その多くが風化の速度を早めることとなりました。
焼け跡で始まる生活
空襲のあと、東京は“焦土と化した都市”として、新たな時代を迎えることになります。
霊巌寺の周囲でも、家を失った住民たちが焼け跡の中にバラックを建て、仮設の暮らしを始めました。
寺の境内や墓地の周辺には、避難民が集まり、炊き出しや物資の分配が行われる光景もあったといわれます。
当時の復興は、行政主導の整備よりも、地元住民や寺院、町内会による自発的な活動に支えられていた面が大きく、霊巌寺もまた、地域の心の拠り所として静かにその役割を果たし続けたのです。
そして、戦後30年以上を経た昭和56年(1981年)に霊巌寺の本堂が再建され、今日に至る姿となっています。
江戸六地蔵の由来と霊巌寺の第五番地蔵
霊巌寺の境内には、他にも多くの歴史的遺構が残されていますが、なかでもひときわ存在感を放っているのが、「江戸六地蔵」の五番地蔵です。

江戸六地蔵の由来は、宝永年間にさかのぼります。
『江戸六地蔵建立之略縁起』によれば、江戸深川の僧・地蔵坊正元が不治の病にかかり、両親とともに地蔵菩薩に病気平癒を祈願したところ、無事に回復。
これを機に、正元は人々の平安と往生を願い、京都の六地蔵に倣って江戸の町にも六体の地蔵菩薩を建立することを発願しました。
この計画により、宝永3年(1706)に勧進が始まり、江戸市中6ヶ所に一体ずつ地蔵菩薩が造立されることになります。
- 第一番 品川寺(旧東海道)
- 第二番 東禅寺(奥州街道)
- 第三番 太宗寺(甲州街道)
- 第四番 真性寺(旧中山道)
- 第五番 霊巌寺(水戸街道)
- 第六番 永代寺(千葉街道)
享保2年(1717)に完成した、霊巌寺の第五番地蔵は、像高2.73メートルにも及ぶ大型の鋳造仏で、当時の鋳物師として名を馳せた太田駿河守正義によって鋳造されました。
台座や像本体には、勧進者の名前や造立年代が陰刻されており、当時の信仰や江戸庶民の支援の広がりが偲ばれます。
この第五番地蔵は、他の江戸六地蔵と比べて特徴的な造形をしています。
たとえば、左手に持つ宝珠を支える指のうち、四本が密着した独特の形状となっており、また手の爪がやや長めに表現されているのも印象的です。
かつては金箔や鍼金も施されていたとされ、現在もその痕跡がところどころに残っています。

残念ながら、同じく深川にあった永代寺の第六番地蔵は、明治期の廃仏毀釈によって破却され、江戸六地蔵は五体のみとなってしまいました。
しかし、いずれも地域の信仰対象として大切に守り継がれています。
「れいがん寺幼稚園」寺町文化に育まれた心の教育の場
霊巌寺の境内に隣接して設けられているれいがん寺幼稚園は、戦後12年を経て、日本が復興期から高度経済成長へと歩みを進め始めた昭和32年(1957)5月、当時の霊巌寺住職であった伊藤智源によって開設されました。

霊巌寺には明治初期より、「子育て呑龍上人(どんりゅうしょうにん)」が安置され、子どもの健やかな成長を願う地域の人々の信仰を集めてきました。
子育て呑龍上人の教え
「子育て呑龍上人」とは、江戸時代初期に活躍した僧・呑龍上人のことで、群馬県太田市の大光院初代住職として知られています。
大光院は慶長18年(1613)、徳川家康が自身の祖先を祀るために創建した寺院で、呑龍上人は江戸から迎えられ開山住職となりました。
大坂の陣前後の混乱期、戦乱や飢饉によって多くの子どもたちが行き場を失う中、呑龍上人はそうした幼子たちを自らの弟子として引き取り、大光院で養育したと伝えられています。
その慈悲深い行いは全国に広まり、人々は敬意を込めて彼を「子育て呑龍さま」と呼ぶようになりました。
呑龍上人の言葉として、次の一節が今に伝えられています。
「己に執せず 他を活かして 共に生き 共に栄える道を求める」
自分だけの幸福を求めるのではなく、周囲の人々とともに生き、ともに繁栄する道を大切にせよという教えです。
れいがん寺幼稚園の保育理念も、まさにこの精神を土台としています。
寺院に寄り添う保育環境
園舎は霊巌寺の広い境内の一角にあり、都心でありながら緑に囲まれた静かな環境が大きな特徴です。
日々の生活の中では、仏さまへのごあいさつや季節の行事を通じて、自然や人とのつながりを体感しながら、豊かな感性と社会性を育んでいきます。
創立50周年を迎えた平成19年(2007年)4月には、耐震構造を備えた新園舎が完成し、安全性と機能性を兼ね備えた保育環境が整えられました。
さらに平成28年(2016年)4月1日からは、学校法人松かぜ学園が設置する幼稚園として組織を改め、教育体制の充実が図られています。
運動会や発表会、仏教行事など年間を通じた行事も充実しており、家庭や地域と連携しながら子どもたちの成長を見守る姿勢は、開園以来変わることがありません。
江戸以来の寺町文化が息づく深川の地で、霊巌寺幼稚園は単なる就学前教育の場にとどまらず、次世代へ「心の土台」を手渡していく存在として、今も静かに歩みを重ねています。



