上野に残る、静かな大名家の記憶
東京都台東区、上野動物園の園内に、ひっそりと大名墓所が残されていることをご存じでしょうか。
そこには、戦国から江戸へと時代を渡り歩き、徳川政権の中枢を支えた武将、藤堂高虎(とうどうたかとら)と、その一族が眠っています。
高虎が眠る藤堂家の墓所
高虎が眠る藤堂家墓所には、初代津藩主・藤堂高虎から第十代・高兌(たかあきら)までの歴代藩主の供養塔が10基、そして高虎夫人をはじめとする親族の墓4基が、南北二列に向かい合うように並んでいます。
それぞれ3メートル50センチを優に超す堂々たる墓塔や供養塔で、その重厚な姿は、静寂の中にあっても大名家の威厳を今に伝えています。

高虎の墓は、一列に並ぶ9基のうち、ちょうど中央にあたる5基目(写真一番左)に据えられ、藤堂家の祖として、一族を見守るようにその中心に鎮座しています。

この墓所は、多くの人で賑わう上野動物園の園内にありながら、一般には非公開とされ、高い塀に囲まれて静かにその姿をとどめています。
案内板や園内マップにも載っていないため、その存在を知る人は多くありません。
しかし、その塀の向こうには、戦国の世を生き抜いた高虎の生涯と、江戸を支えた藤堂家の長い歴史が、時を超えて今も確かに息づいています。

築城の名手から徳川政権の重臣へ
藤堂高虎は、安土桃山時代から江戸初期にかけて活躍した武将で、築城技術の名手として知られています。
豊臣秀長の配下として頭角を現し、のちに徳川家康の信任を得て、関ヶ原の戦い以後は徳川政権の要所に関わる重臣として重用されました。
とくにその築城技術は抜きん出ており、江戸城、駿府城、二条城、大阪城など、いわゆる「天下普請」における主要な作事奉行としてその手腕を発揮。
近世城郭の標準を打ち立てた人物でもあります。
高虎が築いた今治城、宇和島城、伊賀上野城などは、今日でもその構造美と合理性から高い評価を受けており、高石垣や堀の曲線に至るまで、防御・統治・威信のすべてを計算し尽くした設計思想が見て取れます。
しかし高虎の事績は、単に築城や軍事にとどまるものではなく、家康に信任され、宗教政策や都市計画においても重要な役割を果たすことになります。
※今治城の歴史はこちらから

東照宮信仰と宗教都市・上野の形成
元和2年(1616)、徳川家康が74歳で薨去すると、その霊を「東照大権現(とうしょうだいごんげん)」として神格化し、国家の守護神として祀る動きが急速に進められました。
これは単なる一大名の顕彰ではなく、「徳川による天下統治の正統性」を宗教的に裏付け、統治の精神的支柱を築こうとする、きわめて政治的な国家宗教構想でした。
この一大事業の中枢にいたのが、天台宗の高僧・天海と、家康の忠臣・藤堂高虎です。
「東の比叡山」寛永寺の建立
天海は、神格化された家康の霊を祀る場として、江戸城の北東、すなわち鬼門にあたる上野の山を選びました。
ここに天台宗の総本山・比叡山延暦寺にならうかたちで、「東の比叡山」たる宗教拠点の建設を構想したのです。
この構想は単なる宗教施設の建設にとどまらず、江戸という都市空間そのものを霊的に守護し、徳川政権の盤石さを空間的に表現する「宗教都市」計画でもありました。
こうして建立されたのが寛永寺(かんえいじ)です。
寛永寺はその中心に位置づけられ、江戸の守護・将軍家の祖霊信仰・民衆の信仰を包括する象徴的存在となっていきます。

上野東照宮と高虎が支えた宗教都市
この都市設計において、高虎は自身の江戸下屋敷を進んで提供しました。
そして、寛永4年(1627)には寛永寺境内に家康を祀る社殿「東照社(のちの上野東照宮)」を奉納します。
日光東照宮に次ぐ格式を持つこの社殿は、東照信仰の広がりを支える都心の拠点となり、江戸における神君信仰の要となりました。

また、藤堂高虎は、この上野東照宮を支える別当寺として、自らの旧邸宅地に「寒松院(かんしょういん)」を創建して、藤堂家の菩提寺と定めました。

寒松院という寺名には、次のような逸話が残されています。
病床の家康は、高虎の手を取って語りかけました。
「あなたの助けがなければ、今日の天下太平は成し得なかった。ただ一つ心残りなのは、宗門が異なるため、来世の浄土を共にできないことだ」
これを聞いた高虎は感涙し、「上様と同じ天台宗に帰依いたします」と誓い、即座に改宗したと伝えられています。
その後、天海僧正より「寒松院殿道賢高山権大僧都」の法名を授かり、これがそのまま寺名となりました。
この逸話は、戦乱の世を共に生きた家康と高虎の絆の深さを象徴するものとして、今も語り継がれています。
一説によれば「上野」という地名そのものも、伊賀の上野城を本拠とした藤堂高虎にちなんで名づけられたともいわれており、高虎と上野が深い縁を持つことがうかがえます。

戦場を駆け抜けた武将・藤堂高虎の最期
晩年の高虎は家督を養子の藤堂高次に譲り、江戸向柳原(現在の東京都墨田区両国周辺)にあった藤堂家江戸藩邸で、静かな余生を送っていました。
しかし、長年の戦歴によって刻まれた身体の傷に加え、元和9年(1623年)頃から患い始めた眼病のため、次第に視力を失っていきました。
寛永7年(1630年)頃には、ほぼ失明に近い状態であったとも伝えられ、自らその重篤な視機能障害を嘆いていた記録も残されています。
こうした身体の不調によって体力的にも衰えていったのかもしれません。
寛永7年10月7日(1630年11月6日)、高虎は老衰により同藩邸にて生涯を閉じました。
享年75歳。
それは晩年に深く信任された徳川家康と同じ年齢であり、主従として歩んだ最後の時を、静かに重ね合わせるかのようでした。
全身に刻まれた戦の痕
伝承によれば、没後に遺体を清めた際、その身体には鉄砲傷や槍傷が無数に残り、傷のない場所を探すのが難しいほどであったといいます。
右手の薬指と小指は失われ、左手の中指は短く、足の指には爪を欠いたものもあったと伝えられています。
さらに手の指には多くの豆があり、これは戦場で馬を駆り、鞍を叩き続けたためだと、高虎自身が生前に語っていたともいわれます。
築城の名手、現実主義の政治家として知られる一方、その肉体は、まさに生涯戦場の最前線に立ち続けた武将であったことを雄弁に物語っていました。
藤堂家墓所と寒松院のその後
寒松院は、藤堂高虎の死後も藤堂家の菩提寺として重んじられ、江戸時代を通じて隆盛を誇りました。
本堂・書院・位牌堂を備える堂々たる伽藍を構え、寺領は四百石、末寺は十八か寺にのぼり、上野山内における有力寺院として位置づけられていました。
将軍家の法要や年中行事にも関わる宗教的中枢として機能し、藤堂家においては歴代藩主が定期的に参拝し、特に高虎の命日には必ず法要が営まれるなど、家の精神的拠点としての役割を果たしていました。
しかし、時代の変化は寒松院と藤堂家墓所にも大きな試練をもたらします。
明治元年(1868)、戊辰戦争の際、旧幕府軍が上野に本陣を置いたことで、上野一帯は新政府軍との激戦地となり、寛永寺をはじめとする寺院群が大きな被害を受けました。
寒松院もこの戦火により伽藍を焼失し、壊滅的な被害を受けます。
その後、明治6年(1873)、上野の一帯は「公園地」として指定され、日本初の近代公園「上野公園」が誕生。
寺院再建の道は閉ざされ、寒松院は明治21年(1888)、ようやく現在の寛永寺裏手に移転する形で再建されました。
ところが、昭和20年(1945)の東京大空襲により、再建された寒松院も再び灰燼に帰します。
戦後、寒松院は現在の上野公園東側、東京国立博物館敷地脇へ移転して再建されましたが、境内は往時と比べて大幅に縮小されました。
その結果、藤堂家の墓所は旧寒松院境内地に取り残される形となり、現在では上野動物園の園内にひっそりと残されるようになりました。

戦火を越えて守られた藤堂家墓所
寒松院が幾度もの焼失と再建を繰り返した一方で、藤堂家の墓所は奇跡的に戦火をまぬがれました。
戊辰戦争では、旧幕府軍が上野東照宮の境内に本陣を構え、上野一帯は激戦の地となりました。
寛永寺の伽藍の多くが焼失する中で、上野東照宮と藤堂家墓所は直接の戦火を免れ、奇跡的にその姿をとどめました。
さらに、関東大震災でも大きな被害を受けることなく、昭和20年(1945)の東京大空襲においても、周囲が焼夷弾で甚大な被害を受ける中、墓所近くに落ちた焼夷弾は不発に終わるという幸運に恵まれました。
そして、現在も上野動物園の園内に位置しながらも寒松院の管轄にあり、台東区指定史跡として厳重に保存管理されています。
上野動物園を訪れた際、ふと足を止めて思い出してみてください。
歴史と現在が静かに交差する、上野の別の表情に出会えるかもしれません。



