瀬戸内の絶景と村上水軍の記憶が重なる場所
海山城展望公園。
今治市波方町にあるこの公園は、来島海峡を一望できる標高約155メートルの海山の山頂に広がる展望地で、春にはソメイヨシノが咲き誇る桜の名所としても知られています。
山頂へと続く園路や広場の周囲には桜が植えられ、満開の時期には瀬戸内海の多島美と花々が織りなす美しい景観を楽しむことができます。
波方運動公園からは、徒歩で15〜20分ほどです。
ゆるやかな山道を登っていくと、やがて視界が開け、芝生の広がる展望公園へとたどり着きます。
また、裏手の今治波方港線からは車で山頂近くまで上がることもでき、駐車場からは石畳の遊歩道を歩いて気軽に訪れることができます。
園内には城を模した二階建ての展望台が設けられており、そこからは来島海峡大橋やしまなみの島々、高縄山方面まで見渡すことができる絶景が広がっています。
しかし、この穏やかな景色が広がる場所は、かつて来島海峡を見張る重要な拠点が築かれていた場所でもあります。

海山のはじまり、狼煙がつないだ乱世の歴史
海山には8世紀頃にはすでに番所(狼火台)が置かれていたと考えられており、宮崎の火山で上げられた狼煙は、金山・海山・近見山を経て、今治市域内にあったとされる伊予国府へと伝達されていたと伝えられています。
当時の伊予国は、大宝律令によって整えられた中央集権国家の一部として、国府を中心に政治や交通の管理が行われていました。瀬戸内海は重要な航路であったため、船の動きや異変をいち早く国府へ伝える仕組みが必要とされていたのです。
そのため、見晴らしのよい山々には番所や狼煙台が置かれ、海山もまた、その一つとして重要な役割を担っていました。
やがて時代が下り中世初頭になると、この地域には新たな在地勢力が台頭します。
律令体制が次第に崩れ、中央の支配が弱まる中で、各地では在地の有力者が独自に勢力を築くようになっていきました。
この勢力は玉生城を拠点とし、現在の養老地区・別台(べだい)にも館を構えていました。
その居館は現在の白岩明神社の場所にあったと考えられており、「波方古館(はがたのふるやかた)」と呼ばれています。
波方は現在「なみかた」と読むのが一般的ですが、古くは「はがた」と呼ばれており、史料でもその読みが確認されています。
そして、海山で培われた遠方を見張り、異変を伝える役割は、こうした在地勢力のもとでも受け継がれ、やがて次の時代へと引き継がれていきました。
「海を制する者たち」 村上水軍の時代へ
室町時代に入ると、この地域の勢力図は大きく変化し、新たな勢力に取り込まれることになります。
当時の瀬戸内海は、畿内と西国を結ぶ重要な航路であり、多くの船が行き交う海上交通の大動脈でした。
その海域を勢力下に置くことは、軍事・経済の両面で大きな意味を持っていました。
その一方で、潮の流れが複雑に変化する海峡や瀬戸が点在し、航行の難所でもありました。
こうした海の特性は、防御の面では天然の障壁として機能し、城を守る強力な要素となります。
とくに狭い瀬戸や急潮の海域では、地形と潮流そのものが城の一部として利用されました。
このような環境の中で、瀬戸内海の各地には海城が築かれ、それを拠点として多くの武将たちが活動していきます。
その中でも、伊予の歴史において特に大きな存在となったのが、村上水軍(村上海賊)です。

村上水軍とは
村上水軍は、瀬戸内海を舞台に勢力を誇った「能島(のしま)」「因島(いんのしま)」「来島(くるしま)」の御三家、すなわち能島村上氏・因島村上氏・来島村上氏からなる武士団で、三島村上氏とも呼ばれています。
その勢力は伊予(現在の愛媛県)、備後(広島県東部)、安芸(広島県西部)の沿岸地域に及び、海上交通の管理、交易船の護衛、通行料の徴収などを通じて、海上に独自の秩序と統治体制を築いていました。
村上海賊の名でも知られていますが、単なる略奪を目的とした海賊とは異なり、戦国時代においては戦術に長けた組織だった水軍として、その勇名は広く瀬戸内海一帯に知られていました。
まさに「海の武士団」と呼ぶにふさわしい存在だったのです。
来島城の築城と来島村上氏の台頭
来島村上氏の祖である村上吉房は、応永26年(1419年)に来島海峡の要衝である来島へ入ると、島全体を要塞化して来島城を築いたと伝えられています。

来島は芸予諸島の中央に位置し、東西南北の航路を押さえる要衝であったため、その軍事的価値は非常に高いものでした。
来島海峡の潮流は非常に速く、流れの向きも刻々と変化するため、この海域を自在に航行するには高度な知識と経験が必要でした。
来島村上氏はこうした地の利を活かし、来島城を拠点として海上交通を掌握することで勢力を拡大していきました。
さらに戦国時代に入ると、伊予の有力大名である河野氏と深い結びつきを持ち、その配下として水軍を率いて活動しました。
海上輸送や沿岸防衛、さらには海戦において重要な戦力となり、瀬戸内海の統治を支える存在となっていきました。

来島城を支えた海上防衛網
こうした来島城を中心とする海上統治の体制を支えるため、対岸の波方一帯には複数の城や砦が配置されていました。
これらは現在、「波方城砦群(波方海賊城砦群)」と総称されています。
来島海峡の西口に位置する来島城に対し、対岸の波方浦には波方城を中心として、黒磯城・御崎城・宮崎城・大角砦・梶取鼻砦などの諸砦が築かれ、さらに見張り台や番所も配置されていました。
それぞれの拠点は単独で機能するのではなく、相互に連携しながら海峡全体を監視・防衛するための一体的な防衛網を形成していました。
このような構成は海城の特徴をよく示しており、狭い瀬戸の急潮を天然の要害としつつ、島の城と陸側の拠点を組み合わせることで、防御と海上統治を両立させるものでした。
来島城だけでなく、その周囲の島々や対岸の拠点を含め、ひとつの巨大な城郭として機能していたと考えられます。
現在では、黒磯城跡は西浦荒神社、御崎城跡は御崎神社として受け継がれ、大角砦跡は大角海浜公園として親しまれています。
また、梶取鼻砦跡は瀬戸内海国立公園・梶取鼻として知られ、それぞれの場所は形を変えながら今もなお海峡を見守り続けています。

来島村上氏の居館と戦略拠点
この波方城砦群の中で、来島村上氏が暮らした居館も重要な位置を占めていました。
それが波方館(はがたのたち)や養老館(現:厳島神社・養老館跡)です。


波方は現在「なみかた」と読むのが一般的ですが、古くは「はがた」と呼ばれており、史料でもその読みが確認されています。
これらの居館は戦闘の最前線に立つ城ではなく、統治や生活の場であると同時に、軍事行動を支える後方拠点としての役割を担っていたと考えられます。
とくに養老館(ようろうのたち)は、古来より重要な見張りの拠点とされてきた海山の麓に位置し、その頂上には詰城(つめじろ・つめのしろ)として、波方城砦群の一つである遠見番所(とおみやまばんしょ)が置かれていました。
文字通り、遠方を見張る拠点としての役割を担っていたことから、海山は遠見山(おみやま)とも呼ばれ、この遠見山番所は遠見山城(遠見山砦・海山砦・海山城)とも呼ばれています。
詰城とは、有事の際に立てこもるための最終防衛拠点であり、平時の居館とは異なり、防御性と監視機能が重視される山城です。
現在は桜の名所として知られる海山城展望公園ですが、当時の来島村上氏にとって、一族の命運を支える最後の拠り所だったのです。

波方城砦群の消滅
しかし天正10年(1582年)、5代通総の時代に大きな転機が訪れます。
羽柴秀吉の勧降に応じて織田方へ転じたことにより、波方浦は毛利氏・河野氏・因島村上氏・能島村上氏らによる攻撃を受け、波方城を構成していた多くの城砦は破却されたと伝えられています。
さらに天正13年(1585年)、豊臣秀吉による四国征伐の際、通総は一時的に波方館へ戻りますが、戦後は伊予風早郡へ移封されることとなります。
続く天正16年(1588年)、秀吉は瀬戸内海の秩序を確立するため「海賊停止令」を発布し、私的な海上武力の行使を禁止しました。
これにより、能島村上氏や因島村上氏は独立した水軍勢力としての活動を制限され、急速に弱体化していきます。
その一方で、来島村上氏は秀吉に従い、水軍として豊臣軍の補給や上陸作戦を支えた功績により、例外的に水軍大名としての存続を許されました。
さらに風早郡に1万4,000石の所領を与えられ、鹿島城を居城とする大名として新たな立場を得ることになります。
しかしこの移封により、来島城および波方城砦群はその役割を終え、すべて廃されることとなりました。
この中で、遠見番所も例外ではなく、その役割を終えて廃城となったと考えられます。
来島から久留島へ。関ヶ原が変えた一族の運命
そして、時代の激しい変化の中で、来島村上氏はついにこの地を去らなければいけなくなります。
関ヶ原の戦い(1600年)、来島村上氏は初めは西軍に属しましたが、情勢の変化を見極め、決戦直前に東軍へ内通しました。
戦後、一旦は本領安堵を受けたものの、最終的には所領を没収され、豊後国森藩に1万4,000石で移封されました。
新たな領地である森藩は、現在の大分県玖珠郡周辺に位置し、山間の地形が特徴的な内陸の土地でした。
この転封により、来島村上氏は、代々一族が築いてきた伊予国(現在の愛媛県)での歴史と、水軍として海を自由に駆け抜けた栄光の時代に終止符を打つこととなりました。
そして、来島村上氏は「久留島(くるしま)」と改姓し、内陸の陸上領主として新たな道を歩み始めました。

御門(photolibrary)
歴史と絶景が重なる場所
そしてさらに時間は流れ、この地は戦いの拠点から、人々が訪れる穏やかな場所へと姿を変えていきました。
やがて近代に入り、瀬戸内海を望む優れた景観が見直され、地域の観光資源として活用されるようになります。
そして平成4年度(1992年)、公園としての整備が始まり、山頂には来島村上水軍の砦をイメージした城風の展望台が設けられました。
そこには、来島村上氏が誇りとした紋「折敷に揺れ三文字(隅切折敷縮三文字)」の意匠も取り入れられました。
かつての歴史的背景を踏まえながら、見張りの拠点としての性格が、展望の場として形を変えてよみがえったのです。

さらに平成15年度(2003年)からは第二期整備が進められ、来島側には砦を思わせるデッキ通路ややぐら型の展望施設が整備されました。
加えて、「かがり火の丘」と呼ばれる芝生広場や、全長約25メートルの大型すべり台なども設けられ、展望だけでなく滞在や遊びの場としての機能も充実していきました。
また、公園全体にはおよそ1,000本の桜が計画的に植えられ、春には瀬戸内海の多島美と桜が織りなす華やかな景観が広がります。
山頂へと続く園路や広場を囲むように咲く桜は、訪れる人々に四季の移ろいを感じさせるとともに、この場所を地域に開かれた憩いの場へと変えていきました。

かつての城砦や施設の多くは失われ、当時の面影を直接見ることはできません。
しかし、山頂から見渡す景色は今も変わらず、瀬戸内海を行き交う船や来島海峡の流れを一望することができます。
海山は、古代には狼煙による情報伝達の中継地として、そして中世には居館を守る詰城として、時代の変化に応じて役割を変えながらも、一貫して「見る・伝える・守る」拠点であり続けてきました。
その長い歴史は、姿を変えた現在の公園の中にも、確かに息づいています。



