来島村上氏が遺した記憶、波方から今治へ続く海の歴史
今治は古くから瀬戸内海に面した海の町として発展し、現在では造船業や海運業によって支えられる日本最大の海事都市として知られています。
市内には今治造船や新来島どっくをはじめ、浅川造船や矢野造船などの造船会社が集まり、さらに多くの船主会社、船舶管理会社、舶用機器メーカーが立地しています。
波方町(波方町波方甲2070-1)に本社を構える恵比須汽船株式会社も、こうした海運を担う企業の一つであり、瀬戸内海を中心に船舶の運航を通じて海上輸送の一端を担っています。
しかし、この場所が海と深く結びついているのは、現代に始まったことではありません。
恵比須汽船株式会社の本社が置かれているこの地こそ、かつて村上水軍にとって重要な拠点の一つ「波方館(はがたのたち)」が置かれていたと伝えられる場所なのです。
村上水軍と海城の時代
中世の伊予における大きな特徴は、山に築かれた城だけでなく、海を取り込んだ「海城」が発達したことです。
瀬戸内海は古くから畿内と西国を結ぶ重要な航路であり、多くの船が行き交う海上交通の大動脈でした。
しかしその一方で、潮の流れが複雑に変化する海峡や瀬戸が点在し、航行の難所でもありました。
こうした海の特性は、防御の面では天然の障壁として機能し、城を守る強力な要素となります。
とくに狭い瀬戸や急潮の海域では、地形と潮流そのものが城の一部として利用されました。
このような環境の中で、瀬戸内海の各地には海城が築かれ、それを拠点として多くの武将たちが活動しました。
そのなかでも、伊予の歴史の中で特に大きな存在となったのが村上水軍(村上海賊)です。
村上水軍とは
村上水軍は、瀬戸内海を舞台に勢力を誇った「能島(のしま)」「因島(いんのしま)」「来島(くるしま)」の御三家、すなわち能島村上氏・因島村上氏・来島村上氏からなる武士団で、三島村上氏とも呼ばれています。
その勢力は伊予(現在の愛媛県)、備後(広島県東部)、安芸(広島県西部)の沿岸地域に及び、海上交通の管理、交易船の護衛、通行料の徴収などを通じて、海上に独自の秩序と統治体制を築いていました。
村上海賊の名でも知られていますが、単なる略奪を目的とした海賊とは異なり、戦国時代においては戦術に長けた組織だった水軍として、その勇名は広く瀬戸内海一帯に知られていました。
まさに「海の武士団」と呼ぶにふさわしい存在だったのです。
来島城の築城と来島村上氏の台頭
来島村上氏の祖である村上吉房は、応永26年(1419年)に来島海峡の要衝である来島へ入ると、島全体を要塞化して来島城を築いたと伝えられています。

来島は芸予諸島の中央に位置し、東西南北の航路を押さえる要衝であったため、その軍事的価値は非常に高いものでした。
来島海峡の潮流は非常に速く、流れの向きも刻々と変化するため、この海域を自在に航行するには高度な知識と経験が必要でした。
来島村上氏はこうした地の利を活かし、来島城を拠点として海上交通を掌握することで勢力を拡大していきました。
さらに戦国時代に入ると、伊予の有力大名である河野氏と深い結びつきを持ち、その配下として水軍を率いて活動しました。
海上輸送や沿岸防衛、さらには海戦において重要な戦力となり、瀬戸内海の統治を支える存在となっていきました。
来島城を支えた海上防衛網
こうした来島城を中心とする海上統治の体制を支えるため、対岸の波方一帯には複数の城や砦が配置されていました。
これらは現在、「波方城砦群(波方海賊城砦群)」と総称されています。
来島海峡の西口に位置する来島城に対し、対岸の波方浦には波方城を中心として、黒磯城・御崎城・宮崎城・大角砦・梶取鼻砦などの諸砦が築かれ、さらに見張り台や番所も配置されていました。
それぞれの拠点は単独で機能するのではなく、相互に連携しながら海峡全体を監視・防衛するための一体的な防衛網を形成していました。
このような構成は海城の特徴をよく示しており、狭い瀬戸の急潮を天然の要害としつつ、島の城と陸側の拠点を組み合わせることで、防御と海上統治を両立させるものでした。
来島城だけでなく、その周囲の島々や対岸の拠点を含め、ひとつの巨大な城郭として機能していたと考えられます。
現在では、黒磯城跡は西浦荒神社、御崎城跡は御崎神社として受け継がれ、大角砦跡は大角海浜公園として親しまれています。
また、梶取鼻砦跡は瀬戸内海国立公園・梶取鼻として知られ、それぞれの場所は形を変えながら今もなお海峡を見守り続けています。
来島村上氏の居館と戦略拠点
この波方城砦群の中において、来島村上氏が暮らした居館も重要な位置を占めていました。
それが波方館(はがたのたち)や養老館(ようろうのたち・現在の厳島神社・養老館跡)です。


波方は現在「なみかた」と読むのが一般的ですが、古くは「はがた」と呼ばれており、史料でもその読みが確認されています。
これらの居館は戦闘の最前線に立つ城ではなく、統治や生活の場であると同時に、軍事行動を支える後方拠点としての役割を担っていたと考えられます。
例えば、養老館は背後を標高約155メートルの海山に守られ、その頂上には詰城(つめじろ・つめのしろ)として、波方城砦群の一つである遠見番所(とうみやまばんしょ・遠見山城)が置かれていました。
文字通り、遠方を見張る拠点としての役割を担っていたことから、海山は遠見山(おみやま)とも呼ばれるようになりました。
詰城とは、有事の際に立てこもるための最終防衛拠点であり、平時の居館とは異なり、防御性と監視機能が重視される山城です。
現在は桜の名所としてして知られる海山城展望公園ですが、当時の来島村上氏にとって、一族の命運を支える最後の拠り所だったのです。

来島村上氏の転機と衰退
戦国時代の終わりに近づくにつれ、来島村上氏の拠点は大きく変化していきます。
来島城の対岸に位置する波方浦は、もともと奥詰の地として、来島を支える補給の拠点でした。
やがて4代通康の時代になると、270余騎にも及ぶ家臣団を抱えるまでに勢力が拡大し、来島城だけでは手狭となっていきます。
そこで拠点は、次第に波方へと移されていきました。
これにより来島城は、日常の居館から有事に備える詰城へと、その役割を変えていきます。
こうして新たな本拠となったのが波方館でした。
波方館は三丸三曲輪という戦国時代特有の構造を備えた山城的な海賊城であり、大根城として波方城砦群の中核をなす存在となっていきます。
この移転に伴い、家臣たちも波方へと移り住み、周辺には人々が集まり、地域は次第に活気を帯びていきました。
さらに館を中心に、周囲の丘陵には見張り台や枝城が築かれ、それらは互いに連携しながら波方一帯の防衛を担うようになります。
これらは総称して波方城(波方城砦群)と呼ばれ、来島城と連動しながら海峡一帯を統治・防衛する鉄壁の体制を形づくっていました。
波方城砦群の消滅
しかし天正10年(1582年)、5代通総の時代に大きな転機が訪れます。
羽柴秀吉の勧降に応じて織田方へ転じたことにより、波方浦は毛利氏・河野氏・因島村上氏・能島村上氏らによる攻撃を受け、波方城を構成していた多くの城砦は破却されたと伝えられています。
さらに天正13年(1585年)、豊臣秀吉による四国征伐の際、通総は一時的に波方館へ戻りますが、戦後は伊予風早郡へ移封されることとなります。
続く天正16年(1588年)、秀吉は瀬戸内海の秩序を確立するため「海賊停止令」を発布し、私的な海上武力の行使を禁止しました。
これにより、能島村上氏や因島村上氏は独立した水軍勢力としての活動を制限され、急速に弱体化していきます。
その一方で、来島村上氏は秀吉に従い、水軍として豊臣軍の補給や上陸作戦を支えた功績により、例外的に水軍大名としての存続を許されました。
さらに風早郡に1万4,000石の所領を与えられ、鹿島城を居城とする大名として新たな立場を得ることになります。
しかしこの移封により、来島城および波方城砦群はその役割を終え、すべて廃されることとなりました。
かつて海峡を支配した拠点群は姿を消し、現在はその名と地形の中にのみ、その痕跡をとどめています。
波方館があったとされる城山の丘陵も、現在は宅地として利用され、往時の姿を直接見ることはできませんが、土地の中に歴史の記憶が静かに残されています。
来島から久留島へ。関ヶ原が変えた一族の運命
そして、時代の激しい変化の中で、来島村上氏はついにこの地を去らなければならなくなります。
関ヶ原の戦い(1600年)、来島村上氏ははじめは西軍に属しましたが、情勢の変化を見極め、決戦直前に東軍へ内通しました。
戦後、一旦は本領安堵を受けたものの、最終的には所領を没収され、豊後国森藩に1万4,000石で移封されました。
新たな領地である森藩は、現在の大分県玖珠郡周辺に位置し、山間の地形が特徴的な内陸の土地でした。
この転封により、来島村上氏は、代々一族が築いてきた伊予国(現在の愛媛県)での歴史と、水軍として海を自由に駆け抜けた栄光の時代に終止符を打つこととなりました。
そして、来島村上氏は「久留島(くるしま)」と改姓し、内陸の陸上領主として新たな道を歩み始めました。
水軍の海から商いの海へ 、瀬戸内の近世・近代史
その後、日本は約300年にわたる江戸時代の平和な時代へと移行し、瀬戸内海のあり方も大きく変わっていきます。
かつて水軍が活躍した海は、次第に物流と交易の舞台へと姿を変え、地域の人々の暮らしを支える場となっていきました。
やがて近代に入ると、今治の沿岸部では造船業や海運業が発展し、瀬戸内海の海の文化は形を変えながら受け継がれていきます。
こうして、来島村上氏が去った後も、この地と海との結びつきが失われることはなく、中世の水軍の時代から現代へと続く歴史の流れの中で、今治は日本有数の海事都市へと発展していったのです。
そして、来島村上氏がかつて本拠を置いた波方館の跡地には、現在、海運業を担う恵比須汽船株式会社が本社を構え、海とともに生きる営みは、形を変えながら今も受け継がれています。
この地に息づく「祈り」の歴史もまた、同様に受け継がれています。
来島村上氏の祈祷所でもあった長泉寺の住職が、後の時代に創設した「半島四国八十八ヶ所」。

建物のそばにはその番外札所があり、さらに敷地内の階段を登った先には、第87番札所「聖観世音」が静かに祀られています。


中世の海の時代から現代へ。
この場所には、営みと祈りが重なり合いながら、今もなお歴史の時間が流れ続けているのです。



