河野氏の記憶と湯築城を今に伝える道後公園の古社
道後温泉で知られる愛媛県松山市の道後地区には、豊かな自然に囲まれた道後公園があります。
春には桜、初夏には新緑、秋には紅葉と、四季折々の美しい景色が楽しめるこの公園は、現在では市民や観光客の憩いの場として親しまれています。
しかし、この道後公園は、単なる都市公園ではありません。
ここはかつて、伊予国を代表する武士団・河野氏が本拠を構えた名城・湯築城が築かれていた場所です。
戦国時代まで伊予の政治・軍事の中心として重要な役割を果たした湯築城は、その歴史を終えた後も城跡が大切に保存され、現在では道後公園として多くの人々に親しまれています。
その湯築城跡の一角に、ひっそりと鎮座し、時代が移り変わった今もなお、人々の信仰を集め続ける神社があります。
それが岩崎神社です。
河野氏が道後に築いた本拠・湯築城
鎌倉幕府滅亡後の建武年間から南北朝時代初期にかけて、河野氏は一族存亡の危機に直面していました。
京都での戦いで嫡男・河野通遠を失い、所領や家督までも危うくなった河野通盛は、一時は出家を決意するほど深く失意に沈みます。
しかし、建長寺の南山士雲和尚との出会いをきっかけに運命は大きく動きました。
南山和尚の取り成しによって足利尊氏と対面した通盛は、その忠節を認められ、失われていた所領を回復し、河野氏再興への道を切り開いたのです。
帰国後、通盛が着手した最大の事業が、新たな本拠となる湯築城の築城でした。
それまで河野氏は河野郷や高縄山城を本拠としていましたが、南北朝時代の戦乱の中で、伊予一国を統治するには政治・軍事・交通の中心となる新たな拠点が必要となっていました。
そこで通盛は、道後平野を一望し、陸路と海路の双方を押さえることができる道後の地に湯築城を築いたと伝えられています。
岩崎神社の創建史
湯築城が築かれる以前、現在の道後公園付近には伊佐爾波神社が鎮座していたと伝えられています。
伊佐爾波神社の創建は詳しく分かっていませんが、平安時代前期、清和天皇の御代(858~876年)に、奈良・大安寺の僧・行教が伊予国司に請い、神功皇后・仲哀天皇の行宮跡に八社八幡宮の一社として創建したと伝えられています。
また、『延喜式』にもその名が記される由緒ある古社で、一時は「湯月八幡宮」や「道後八幡」とも称されていました。
湯築城内に祀られた守護の小祠
河野通盛は新たな本拠となる湯築城を築くにあたり、この伊佐爾波神社を現在の社地へ遷座したと伝えられています。
そして、伊佐爾波神社を道後七郡(野間・風早・和気・温泉・久米・伊予・浮穴)の総守護として篤く崇敬し、新たな城下の守護神として位置付けました。
さらに通盛は、湯築城の庭の一隅、池のほとりに小祠を建立したと伝えられています。
「庭先神社」から岩崎神社へ
この小祠は、城の庭先に鎮座していたことから「庭先神社」と呼ばれていましたが、やがてその名が訛り、「岩崎神社」と呼ばれるようになったと伝えられています。
以来、この神社は「岩崎権現」や「道後の岩崎さん」の名で地域の人々から親しまれ、篤い信仰を集めてきました。
松山城の築城と湯築城の終焉
その後、湯築城は河野氏の本拠として約二百年にわたり、伊予の政治と軍事の中心を担いました。
しかし、天正13年(1585年)、豊臣秀吉による四国平定によって河野氏が滅亡すると、湯築城は本拠としての役割を終えます。
その後、関ヶ原の戦いを経て、加藤嘉明が伊予20万石の領主となり、慶長7年(1602年)から松山城の築城を開始しました。
こうして伊予の政治・軍事の中心は湯築城から松山城へと移り、湯築城はその歴史的役割を終えることになります。
この際、湯築城や正木城の石垣や建築資材が、松山城の築城に利用されたのではないかと考えられています。
江戸時代に再興された岩崎神社
湯築城がその役目を終えた後、この小祠は人目に触れることなく、そのまま長い年月を経ていきました。
そして時代が下った元禄15年(1702年)、松山藩で竹奉行を務めていた安田又之允源義行が、湯築城跡から持ち帰った一つの岩に不思議な縁を感じ、その岩を御神体として岩崎大権現を建立し、石鳥居を設けて岩崎神社を再興したと伝えられています。
道後公園に受け継がれる湯築城の記憶
さらに時代は進み、明治21年(1888年)。湯築城跡一帯は県立道後公園として開設されました。
その後、中世城郭としての歴史的価値が高く評価され、平成10年度(1998年度)から史跡を生かした公園整備が進められ、平成14年(2002年)には現在の姿へと再整備されました。
現在、湯築城跡は国史跡に指定されるとともに、日本100名城、日本の歴史公園100選にも選ばれ、中世伊予を代表する貴重な城跡として大切に保存されています。
そして、岩崎神社も湯築城がその役目を終えてから四百年以上が過ぎた現在も、道後の地に静かに鎮座し、城の記憶と河野氏の歴史を見守りながら、地域の人々の篤い崇敬を集めています。
岩崎神社に祀られる祭神
こうして現在まで受け継がれてきた岩崎神社には、越智氏・河野氏の歴史を今に伝える御霊が祀られています。
- 白人明神小千命
- 河野家累代の御霊
- 土居備中守の御霊
- 得能備後守の御霊
白人明神小千命
白人明神小千命(うらとみょうじんおちのみこと)は、越智氏の祖とされる小千命のことで、越智命・小千命・乎致命・乎知命・小千御子など、多くの史料や伝承にさまざまな表記で記され、今日まで語り継がれてきました。
越智氏の系譜を受け継ぐとされる河野氏にとっても、小千命は自らの血脈の始まりに位置付けられる祖神として、古くから篤く崇敬されてきました。
小千命は伊予国造として伊予の統治や開拓に尽力した人物として伝えられ、その足跡は大山祇神社をはじめ、大浜八幡大神社、勝岡八幡神社など、県内各地の神社や伝承に今も残されています。
特に大山祇神社には、神武東征に先立って伊予へ渡り、大山積大神を祀ったという創祀伝承や、自ら植えたと伝わる「乎致命御手植の楠」が残されており、古くから越智氏の祖神として篤く崇敬されてきました。
また、勝岡八幡神社にも小千命を祀る古い伝承が受け継がれています。
伝承によれば、伊予へ下向した小千命は、現在の勝岡八幡神社が鎮座する地にあった白人(うらと・うらど)城を拠点として、伊予各地の統治にあたりました。
ちょうどその頃、堀江方面から「鬼」とも形容されるほど強大な勢力を持つ兇賊がこの地へ襲来し、人々の暮らしを脅かしていたといいます。
小千命は直ちに白人城から軍勢を率いて出陣し、兇賊との激しい戦いに臨みました。
激戦の末、小千命は兇賊を打ち破り、捕らえた賊を白人城へ連行しました。
こうして人々は脅威から解放され、再び平穏な暮らしを取り戻したとされています。
この武功によって小千命は朝廷から恩賞を賜り、勝ち戦にあやかって白人城の地は「勝岡」と名付けられたと伝えられています。
その後、小千命の徳を深く敬った人々は、現在の太山寺(四国八十八箇所第五十二番札所)がある小山(松山市太山寺町)に社を創建し、「白人宮(中野山若宮神社)」として祀るようになったと伝えられています。
白人宮では、小千命が兇賊を平定した八月七日を祭日と定め、この祭礼が終わるまでは他の祭りを行うことができなかったとされるほど、伊予国を代表する重要な神事として受け継がれてきました。
その後、永享年間(1429~1441年)の戦火によって白人宮は焼失しましたが、小千命への信仰は絶えることなく、現在の勝岡八幡神社の裏山にあたる高月山へ遷宮したと伝えられています。
さらに宇佐神宮から八幡神を勧請し、小千命とともに祀ることで勝岡八幡神社へと発展し、その信仰は今日まで受け継がれています。
河野家累代の御霊
岩崎神社には、河野氏歴代当主の御霊も祀られています。
建武年間、河野通盛によって築かれた湯築城は、その後およそ二百年にわたり河野氏の本拠として伊予の政治・軍事の中心を担いました。
その城内に建立された岩崎神社へ歴代当主の御霊が祀られたことは、この神社が一族の祖神を祀るだけではなく、歴代当主の功績を顕彰し、一門の繁栄と城の安泰を祈る信仰の場でもあったことを物語っています。
土居備中守・得能備後守の御霊
岩崎神社には、南北朝時代に活躍した土居備中守・得能備後守の御霊も祀られています。
二人は後醍醐天皇を奉じる南朝方の有力武将、土居通増(どい みちます)・得能通綱(とくのう みちつな・河野通綱)のことで、河野氏の血を引く一族でありながら、南朝方として北朝方に属した河野氏宗家と対立しました。
特に得能通綱は、吉野朝廷から河野惣領に補任され、南朝における河野氏の正統な惣領として位置付けられました。
そのため、北朝方に属した河野氏宗家とは同族でありながら敵対する立場となり、伊予各地で繰り広げられた南北朝の戦いの中心人物となったのです。
しかし現在では、かつて敵対した河野氏宗家歴代当主の御霊とともに、同じ岩崎神社に祀られています。
そこには、敵味方を超えて河野氏一族の歴史そのものを後世へ伝えようとする思いが込められているのかもしれません。
道後に伝わる大蛇伝説
岩崎神社には、古くから大蛇を祀る不思議な伝説が語り継がれています。
昔、竹の子掘りに山へ入った一人の老人がいました。
不思議なことに急に眠気を覚えた老人は、近くの木の根元に腰を下ろし、煙草を一服して休むことにしました。
そして、吸い終えた煙草の吸い殻を何気なく木の根元へ落とした、その時でした。
突然、木の根がぐらりと動き、遠くの方から「あちち、あちち」という声が聞こえてきたように感じたのです。
驚いてよく見ると、木の根だと思っていたものは、実は巨大な大蛇でした。
伝承によれば、老人はあまりの恐ろしさに気を失い、そのまま大蛇に食べられてしまったといいます。
この大蛇は義安寺まで届くほどの長さがあり、村中をはい回って人々を襲い、村人たちを大いに苦しめていました。
困り果てた村人たちは相談の末、この大蛇を鎮めるために神社を建立し、神として祀ることにしました。
すると、それ以後は大蛇が暴れることはなくなり、村には再び平和が訪れたと伝えられています。
現在でも、この蛇(巳)は親しみを込めて「ミイさん」あるいは「ミーさん」と呼ばれ、大切に祀られています。
小千命は古くから白蛇の神として崇敬されてきたことから、この大蛇伝説も単なる蛇の昔話ではなく、小千命の神威を象徴する伝承として語り継がれてきたのかもしれません。
現在も道後に受け継がれる信仰
こうした大蛇伝説とともに、岩崎神社では古くから蛇神信仰が受け継がれてきました。
祭神が蛇神として崇敬されていることから、現在でも卵を奉納して参拝する風習が残されており、病気平癒や無病息災を願う人々の信仰を集めています。
特に古くから、脳の病や神経痛に霊験があると伝えられ、多くの人々が快癒を願って参拝してきました。
また、毎年9月14日・15日には例祭が執り行われ、地域の人々によって大切に受け継がれています。
道後公園の一角に静かに鎮座する岩崎神社。
その小さな境内には、河野氏ゆかりの歴史や南北朝の記憶、そして古くから受け継がれてきた蛇神信仰が今も息づいています。
湯築城の歴史とともに歩み続けてきたこの神社は、これからも道後の地で、人々の祈りを静かに見守り続けていくことでしょう。



