霊仙山の麓、宮ヶ崎にある「八幡神社(はちまんじんじゃ)」は、飛鳥時代に斉明天皇(594~661)によって創建された歴史ある神社です。
女性天皇「斉明天皇」が創建
斉明天皇(さいめいてんのう)は、第37代天皇として即位した日本の歴史上、実在が確認されている最初の女性天皇です。斉明天皇は国の安定と発展を願い、各地を巡りながら神社や寺院の建立に力を注ぎました。その中で、今治の朝倉郷を訪れた際、広がる朝倉郷と高市郷を一望できる景勝の地である宮ヶ崎を選び、ここに八幡神社を創建することを決めました。
宇佐八幡宮からの神様の勧請
八幡神社の創建に際して、斉明天皇は旧豊前国(現在の大分県)宇佐に鎮座する八幡神社の総本社「宇佐八幡宮」から神様を勧請しました。宇佐八幡宮は、全国に約4万社存在する八幡神社の総本社であり、日本全国の人々から厚い信仰を集める存在です。この八幡神社の主神として祀られたのが誉田別尊(ほんだわけのみこと)です。
誉田別尊の信仰
誉田別尊(ほんだわけのみこと)は、実在の第15代天皇である応神天皇を神格化した神であり、八幡神として日本全国で広く信仰されています。応神天皇は、紀元270年頃から310年頃にかけて在位し、朝鮮半島との外交や文化交流を推進し、日本国内の統治を安定させました。その功績から、誉田別尊は武勇や国家の守護神として崇敬されるようになり、特に武家社会においては深く信仰されました。
八幡神としての誉田別尊は、戦いの神、武運の守護神としての側面が強調され、鎌倉時代以降、源頼朝や足利尊氏など多くの武将たちが信仰しました。彼らは、戦いの前に八幡神社を訪れ、勝利を祈願したと言われています。
八幡神社・宮ヶ崎の発展と試練
八幡神社・宮ヶ崎は、斉明天皇による創建後、地域の信仰の中心として発展していきました。壮麗な社殿と広大な社領を有し、地元の人々から厚い崇敬を集めました。しかし、鎌倉時代に入ると、国内の政治的・経済的な混乱や戦乱によって社領の大半を失うという試練に直面しました。
その後、天正期(1570年代頃)には、霊仙山城の城主であった中川氏が八幡神社を篤く信仰し、社領や武具を奉納して再興を図りました。中川氏の支援により、八幡神社は再び繁栄を取り戻し、地域の信仰の中心としての地位を確立しました。
長宗我部元親の侵攻と八幡神社への影響
八幡神社の歴史の中で最も大きな試練が訪れたのは、戦国時代末期の天正3年(1575年)でした。この時、土佐を統一した戦国大名、長宗我部元親が四国全土の統一を目指して侵攻を開始しました。元親の軍勢は非常に強力で、ついに愛媛に入り、今治にまで進軍しました。宮ヶ崎周辺の地域も戦火に巻き込まれ、多くの村々や施設が甚大な被害を受けました。
八幡神社もこの戦乱の影響を大きく受け、多くの社殿や貴重な資料が戦火によって失われました。特に、戦乱によって地域の統治が混乱し、神社は一時的に活動を停止するほどの深刻な被害を受けました。それでも、地元の人々の神社に対する信仰や敬意は揺るぐことなく、再建と復興が進められました。
現代に至るまでの八幡神社
その後、八幡神社・宮ヶ崎は幾度となく復興を遂げ、現在に至るまで地域の信仰の中心であり続けています。特に春の大祭には、越智、乃万、周桑、新居浜、温泉郡からも多くの参拝者が集まり、幼児守護の神として白衣を着た幼児たちが神輿の御伴をするという、地域独特の信仰行事が現在まで伝承されています。
このように、八幡神社・宮ヶ崎と誉田別尊は、日本の歴史と深く結びつきながら、地域の人々の生活と信仰を支え続けてきました。八幡神社の存在は、斉明天皇から現代に至るまで、数百年にわたって地域の人々の心に根付いています。これからも八幡神社は、地域の文化や信仰を守り続ける大切な拠り所として、その歴史を刻み続けていくでしょう。