「萩森神社(はぎもりじんじゃ)」は、愛媛県今治市立花地区に鎮座する、南北朝時代から続く歴史深い神社です。この神社は、細川頼春(ほそかわ よりはる)とその息子、細川頼之(ほそかわ よりゆき)にゆかりがあり、地元の人々に「萩の森さん」として親しまれてきました。
細川頼春と南北朝時代の背景
南北朝時代(1336年~1392年)は、日本が南朝と北朝に分裂し、全国的な内乱が続いた時代でした。南朝は後醍醐天皇を中心に一時的に京都を奪還するものの、足利尊氏が再び京都を取り戻し、北朝を擁立して室町幕府を開くなど、戦乱が絶えない時期でした。この内乱の中、多くの武将が各地で勢力を競い合い、激しい戦闘が繰り広げられました。
この乱世で勇猛な武将としてその名を広めたのが、細川頼春です。頼春は北朝側の足利尊氏(あしかが たかうじ)に仕え、四国地方の讃岐国(現在の香川県)の豪族たちとの同盟を結び、その勢力を拡大し、足利氏の四国支配の基盤を築いた立役者の一人として知られています。
戦場では、その弓の技術を駆使して敵を討ち取り、戦局を有利に進めることで、足利軍の勝利に貢献しました。その勇猛さと戦術的な洞察力は、尊氏の側近としての地位を確固たるものにしました。
観応の擾乱
観応元年(1350年)、足利尊氏と足利直義(あしかがvただよし)の兄弟間で、政権運営を巡る対立が表面化しました。尊氏は武力を背景に政権を掌握しようとする一方、直義は法や秩序を重んじる立場を取っていました。この対立が深刻化すると、政権内部での分裂が進み、両者の対立が次第に武力衝突に発展しました。
これが後に、観応の擾乱(かんのうのじょうらん)とよばれる内紛です。
観応2年(1351年)の末、尊氏と直義は一時的に和解しましたが、この和解は長く続かず、直義が再び尊氏に反旗を翻し、南朝と結託して京都を攻撃しました。これにより、南朝勢力が京都周辺で再び勢力を拡大し、足利尊氏は一気に劣勢に立たされました。
そして観応3年(1352年)、足利尊氏は京都の南に位置する八幡(現在の京都府八幡市周辺)で南朝軍と一大決戦に臨みました。この戦いは後に「八幡の戦い」と呼ばれることになります。多くの有力武将が足利方として参戦し、その中には、尊氏の側近として知られる細川頼春の姿もありました。
八幡の戦いは激烈を極めました。南朝軍は、京都奪還を目指して大軍を集結させ、足利軍に対して猛攻を仕掛けました。頼春は、尊氏の側近として最前線で戦い、奮戦しましたが、戦況は足利方にとって非常に厳しいものでした。
頼春は、八幡の地形を利用した白兵戦においても勇敢に戦い続けましたが、最終的に南朝軍の猛攻に耐え切れず、京都四条大宮で戦死しました。この戦死は、足利軍にとって大きな損失であり、尊氏にとっても深い痛手となりました。頼春は、足利氏のために戦い抜き、その生涯を戦場で終えることとなったのです。
細川頼之による父頼春の弔い
細川頼之の影響とその後の四国支配
しかし、埋葬された場所が徳島であるにもかかわらず、愛媛県今治市に細川頼春を祀る神社が存在するのはなぜでしょうか?
これは、細川家が四国全域において強大な影響力を持ち、その力が今治にも及んでいたことが考えられます。
実際に、暦応2年(1339年)、今治の武将である鳥生貞実(とりう さだざね)は、細川氏に支援を求め、その結果、今治市立花地区に廣紹寺(広紹寺)を創建しています。これは細川家の影響力が今治にも強く及んでいたことを示す一例で、戦死した頼春の功績を偲ぶために、四国各地で頼春を祀る動きが起こっていたことは容易に想像できます。
さらに、父頼春の死後、跡を継おだ息子の細川頼之がその跡を継ぎ、四国全域における細川家の影響力をさらに強めました。頼之は、四国の豪族たちとの連携を深め、やがて四国全土を細川氏の支配下に置くことに成功し、その統治体制のもとで四国地方は安定、細川氏の権威は一層高まりました。
このなかで、今治市の「萩森神社」はその一環として、細川頼春を偲ぶ場所として現在の地に作られたと考えられます。
その後、道路の拡張工事が行われた際、この歴史を後の時代に伝えるために、萩森神社の境内が整備されました。この整備によって、細川頼春の功績や遺徳が地域社会により深く根付くこととなり、神社は今もなお、頼春を偲び尊敬する人々にとって重要な場所となっています。