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古くから信仰を集めてきた神社の由緒と、その土地に根付いた文化を紹介。

寺院TEMPLE

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史跡MONUMENT

時代ごとの歴史を刻む史跡を巡り、今治の魅力を再発見。

世田山合戦

FEATURE

11

《世田山合戦⑪》細川頼之、再び伊予へ……。世田山の因縁から十五年「河野通直(通堯)最後の戦い」
こぼれ話

FEATURE

08

「山丹正宗」今治唯一の酒蔵・八木酒造部が醸す今治の心
世田山合戦

FEATURE

01

《世田山合戦①》源平合戦から南北朝動乱へ…。伊予の覇権を巡る戦乱の序章
今治城の歴史
【今治城の歴史⑥】今治市民とともに歩んだ海の城「今治城再建史」
今治城の歴史
【今治城の歴史③】木山六之丞——夏の今治に響く築城の唄「木山音頭」
伝統×文化
日本最小の在来馬「のまうま」——今治市が守り続ける”ふる里の宝”
今治タオル物語
【今治タオル物語②】今治綿業の父・矢野七三郎──伊予ネルを生み出した男
細埜神社(今治市・桜井地区)
SHINTO SHRINE 神社の歴史を知る

細埜神社(今治市・桜井地区)

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開拓の祖・長野孫兵衛を祀る社

休暇村瀬戸内東予や湯之浦温泉のほど近く。

「孫兵衛作(まごべえさく)」の地に鎮座する「細埜神社(ほそのじんじゃ)」は、大元大神(おおもとおおかみ)を祀る神社として、古くから地域の人々の信仰を集めてきました。

大元大神とは、ある場所では「万物の根源」として、またある場所では「集落の守護神」として。

その信仰の形は多岐にわたりますが、共通しているのは、私たちが今ここに存在するための「根源(おおもと)」への感謝と畏敬の念です。

実は、この神様はこの地の庄屋の一人が深く崇敬していたことから祀られたもので、神社の創建は、もともとその庄屋を土地の守神(守護神)として祀ったことに始まります。

長野孫兵衛とその足跡

その人物こそ、地名として今に伝わる長野孫兵衛(ながの まごべえ)、本名・長野孫兵衛通永(ながのまごべえみちなが)です。

生年は定かではありませんが、江戸時代初期に庄屋として地域の開拓や治水に尽力し、その功績は今も桜井地区の発展に大きな足跡を残すものとして語り継がれています。

長野孫兵衛の父・瀬尾山城の城主「長野通秀」

長野孫兵衛は、別名村(現:今治市別名)の長野一族・長野通秀の三男として育ちました。

父の長野通秀は、長野越中守通秀と称し、戦国時代末期において伊予の有力な武将の一人として知られていました。

河野氏に仕えた有力家臣団「河野十八将」の一人である幸門城主・正岡経政の旗本として仕え、越智郡葛谷村(現・今治市玉川町)にある瀬尾山城の城主として、この地の防衛を担っていました。

しかし、時代は戦国の乱世。

日本全国で勢力争いが激化する中、各地の武将たちは生き残りをかけて熾烈な戦いを繰り広げていました。

「天正の陣」四国平定をめざす豊臣秀吉

天正13年(1585年)、天下統一を目指していた羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、四国を完全に平定するため、「四国攻め(四国征伐)」と呼ばれる大規模な戦を開始しました。

当時、四国の諸国(伊予・讃岐・阿波・土佐)は土佐の武将・長宗我部元親の勢力下にありました。

秀吉はその勢力を討伐するため、毛利家の名将・小早川隆景を総大将として伊予方面への進軍を命じます。

秀吉は天下の大軍を三方面から四国へと進軍させ、讃岐方面には羽柴秀長、阿波方面には宇喜多秀家、そして伊予国(現在の愛媛県)方面には中国地方での実力者であり毛利家の重臣でもあった小早川隆景(こばやかわ たかかげ)を投入しました。

小早川隆景はおよそ3万の兵を率いて伊予に上陸すると、瞬く間に城を次々と攻略していきます。

その矛先が向けられたのが、新居郡金子山にあった金子城でした。

城主・金子元宅は毛利家と縁が深く、戦わずしての降伏も可能だったと伝えられています。

しかし元宅はそれを拒みました。

その背景には、戦局に応じて寝返ることを潔しとしない信念、長宗我部氏に人質を預けていた事情、そして何よりも「武将としての誇り」があったのです。

元宅はわずか2,000の兵で籠城戦を展開し、落城後は弟・元春とともに高尾城に移動。

最後は野々市原(現在の西条市氷見)で小早川軍15,000を相手に決死の抗戦を繰り広げ、13人になるまで戦い抜いて壮絶な最期を遂げました。

この戦いは、羽柴秀吉による四国攻め(四国征伐)である「天正の陣」の一環として行われた「野々市原の戦い」と呼ばれ、屈指の激戦として語り継がれています。

小早川隆景は元宅の武勇と忠義に深く心を打たれ、敵将でありながらその遺体を丁重に弔い、戦没者を慰霊するために「千人塚」を築いたと伝えられています。

現在も野々市原には古戦場を偲ぶ石碑が静かに立っています。

長野通秀の敗北と没落

この「天正の陣」において、伊予の武将・長野通秀も金子元宅とともに野々市原に布陣し、豊臣方の大軍に立ち向かいました。

しかし、通秀の軍もまた、圧倒的兵力の前に抗しきれず敗北。

通秀自身は命こそ取り留めましたが、一族は所領を没収され、武士としての立場を失いました。

失意の中で通秀は故郷の別名村へ戻り、大山祇神社の祭祀を司る名家・大祝家の屋敷に身を寄せ、畑を耕しながら、静かな隠遁生活を送ることになったと伝えられています。

長野家に訪れた新たな道、開拓者としての歩み

しかし、時が経ち、通秀の家族に新たな転機が訪れました。

四国攻めが終わった後、伊予国はその戦功によって小早川隆景に与えられていましたが、隆景は天正15年(1587年)、九州の要所である筑前・筑後へと転封されます。

その後に伊予へ入部することになったのが、九州征伐などで武功を挙げた福島正則でした。

正則は当初、松山市にあった中世城郭・湯築城を本拠としましたが、この城は戦国末期の城郭としては古い構造を残しており、近世的な軍政や城下町運営の拠点としては不十分でした。

そこで正則は新たな政治・軍事の中心地として、今治の国分山に築かれていた国分城(国府城・国分山城・府中城・唐子山城)へ目を向けます。

天正16年(1588年)、正則は国分城に本拠を移し、本格的に伊予国における領国経営を開始しました。

こうした中で、長兄・通勝が福島正則に仕えることとなり、その縁によって孫兵衛も正則のもとに仕えることとなったのです。

当時、新たに領地を治めることになった武将たちは、その土地に住んでいた有力者の力を借りながら、地域をまとめていく必要がありました。

そうした中で、武家として地元に根ざした一族の出身である孫兵衛に、開拓の任が託されたのです。

しかし、すぐに開拓に着手したわけではなかったとみられています。

今治藩の時代に始まった開拓

それから時代は下り、関ヶ原の戦い後に福島正則が広島へ転封されたのち、この地の統治は藤堂家へと移りました。

藤堂高虎は当初、国分山城を拠点としていましたが、やがて現在の今治の地へと移り、新たに城と城下町の整備を進め、近世的な統治の基盤を築いていきました。

そして、寛永12年(1635年)に松平定房が入部して今治藩が成立します。

それから3年後の寛永15年(1638年)春、ついに孫兵衛は18人の家来とともに、長沢村の揚天皇社(現:須賀神社・長沢)の西方(西条方面)にあたる、同村の一部であった匡王山(猪追山)山麓の開拓に本格的に着手しました。

長井甚之丞との出会いがもたらした転機

とはいえ、未開の地における開拓には、綿密な計画や高度な技術、さらには地質に関する知識などが求められ、多くの課題が立ちはだかっていました。

こうした中で孫兵衛は、自らの知識や人材だけでは不十分であることを悟り、協力者を求めて動き始めました。

目を向けたのは、すでに開拓の実績があった周桑郡黒谷村(現在の東予市の一部)の長井家でした。

長井家は、平安時代に権勢を誇った名門貴族・藤原氏の流れを汲む斎藤氏にその起源を持つと伝えられています。

中世を通じて各地を転じたのち伊予国へ移り住み、越智郡朝倉を中心に勢力を築き、黒谷にも拠点を構えて、この地域の有力な土豪として定着していました。

孫兵衛は長井家の長井甚之丞と親交を深め、直接指導を受けながら、共に事業を進めていったのです。

その努力は実を結び、慶安元年(1648年)には、孫兵衛作村の石高は61石余に達するまでに成長。

新田としての体裁を整え、確かな農村としての基盤を築くことに成功しました。

「匡王池」農業のための溜池作り

しかし、この開拓の中で大きな課題にも直面していました。

孫兵衛が開拓を進めていた地域(現・孫兵衛作村)は、標高30メートル前後の微高地に位置し、周辺に大きな河川がなかったため、農業に必要な水の確保に苦しんでいました。

そのため、灌漑用の溜池づくりが避けては通れない課題となっていたのです。

こうした状況の中で、開拓と並行して灌漑用溜池の築造が進められていきました。

しかし、溜池の完成を待たぬまま、承応3年(1654年)9月27日、孫兵衛は病に倒れ、志半ばでこの世を去りました。

それでも、その遺志は後継者たちにより着実に引き継がれ、開拓の手は止むことなく続けられました。

そして、8年後の寛文2年(1662年)、ついに灌漑用の溜池「匡王池」が完成しました。

この池の完成は、孫兵衛が生前に描いていた村の基盤づくりにおける大きな節目となり、開拓事業は大きな進展を見せました。

長沢村からの独立

これを機に、開拓地は長沢村から分かれ、新たな村として独立を果たしました。

この村は、かつて開拓を指揮した「孫兵衛」の名をとって、「孫兵衛作村(まごべえさくむら)」と名付けられました。

慶安元年(1648年)の『伊予国知行高郷村数帳』には、耕地は十八町五反三畝、石高は六十一石一斗一升と記されています。

その後、独立を目前にした寛文元年(1661年)頃の孫兵衛作村は、田畑あわせて二十町余、戸数二十戸・人口百二人(102人)という、まさに開拓初期の小さな村でした。

田畑あわせて二十町余は、現在の面積に換算するとおよそ二十ヘクタール(約200,000㎡)、東京ドーム約4〜5個分ほどの広さにあたります。

この広大な土地を、わずか百人余りの人々が力を合わせて切り拓いていったことを思えば、その営みの重みは計り知れません。

その中には子どもや高齢者も含まれていたと考えられ、実際に開墾作業に従事できた働き手は、全体の半数から三分の二ほどであった可能性もあります。

「細埜神社」神様となった開拓者

孫兵衛作村が誕生した寛文2年(1662年)9月、偉大な開拓者である孫兵衛の功績を讃え、向山の山頂に小さな祠 御霊を祀る神社「産土権現宮(うぶすなごんげんぐう)」が建立されました。

この社は、孫兵衛を村の守護神として祀るものであり、村人たちは親しみを込めて「権現さん」と呼び、地域信仰の中心として大切にしてきました。

黒船来航や大地震など、世情が大きく揺れ動いていた幕末の安政元年(1855年)。

混乱する時代の中で「自分たちの足元を見つめ直し、郷土の守護をより確かなものにしよう」という願いがあったのかもしれません。、

この年に、現在の社名「細埜神社(ほそのじんじゃ)」へと改称されました。

改称される前なのか、改称時なのか正確な時期は詳らかではありませんが、細埜神社には「大元大神(おおもとおおかみ)」が祭神として祀られました。

村人にとっての大元大神。

それは孫兵衛が心の拠り所とした神であると同時に、孫兵衛がこの地に打ち込んだ「祈り」そのものでもありました。

また、村人にとっての大元大神は、村の「大もと」である開拓の祖・孫兵衛(権現さん)と同一視され、一体として祀られたと考えられます。

近代化と受け継がれる村のかたち

その後、大正期に入ると、国鉄による鉄道建設が本格的に進められました。

現在の予讃線にあたる路線は、もともと多度津から今治を経て松山へ至る鉄道として計画されていたもので、大正期を通じて瀬戸内海沿いに少しずつ延伸されていきました。

大正10年(1921年)頃には、この鉄道や国道が孫兵衛作村の山麓を通過することとなり、それまで観音堂(庵)がある山麓に密集していた集落は、一部を残して耕地内へと移転し、分かれて暮らすようになりました。

こうした近代交通の整備によって村の姿は大きく変わりましたが、開拓の祖・孫兵衛を祀る細埜神社を中心とした結びつきは変わることなく保たれてきました。

そして、そのかたちは現在の孫兵衛作へと受け継がれています。

孫兵衛作村の庄屋・長井家

「長野孫兵衛」の名を冠した村であれば、庄屋もまた長野家が務めていたはず。

そう思うのが自然かもしれません。

しかし、実際にはそうではありませんでした。

実は、長野孫兵衛には跡取りがいなかったため、黒谷村の長井甚之丞の次男・又四郎実能が婿養子として迎えられていました。

孫兵衛の死後、実能は姓は長井のまま、孫兵衛の名を継承して「長井孫兵衛」と名乗り、開拓事業を引き継いで、ついに匡王池を完成させました。

こうして庄屋は長野ではなく、長井家が代々これを務めていくことになったのです。

「長野孫兵衛之墓」姓に残る開拓の記憶

孫兵衛作村には、開拓の歴史が深く根付いており、その痕跡は住民たちの姓にも色濃く残されています。

この地域では「長野」「長井」「野間」「越智」といった姓が多く見られます。

これらはいずれも、長野孫兵衛が開拓を行う際に、別名村からともに移り住み、開拓に関わった人々の子孫で、この地域で代々受け継がれてきたものです。

そして、そのつながりを今に伝えるかのように、長野姓を持つ孫兵衛とその一族の墓は、養子となった長井孫兵衛(又四郎実能)とその一族が眠る観音堂(庵)のそばの長井家の墓所の中に、今も静かに残されています。

この墓所は今も長井家によって大切に守られており、長野から長井へ、そして現代へと受け継がれたを歴史の連なりを今に伝えています。

現在も続く孫兵衛作と長沢の絆

孫兵衛作村は長沢村から分村して成立したものの、開発されたばかりの新田であり、しかも決して耕作条件に恵まれた土地ではありませんでした。

開拓が進められていた江戸時代初期、慶安元年(1648年)の『伊予国知行高郷村数帳』には、当時の様子が次のように記されています。

「長沢村之内孫兵衛作 日損所、芝山有、林少有」
(村高:六十一石一斗一升)

これを現代の言葉に読み解けば、当時の厳しい情景が浮かび上がってきます。

「長沢村の中にある孫兵衛作という地域は、雨が降らなければすぐに田畑が干上がってしまう日照りに弱い土地であり、草地(芝山)はあれど、薪や材木を得られるような林はわずかしかない」

村高わずか六十一石余りという数字は、周辺の村々と比べても非常に小規模なものです。

当時の孫兵衛作は、まさに命をつなぐための水も、寒さをしのぐための燃料も不足した、非常に過酷な「未開の原野」だったのです。

このような厳しい場所を切り拓くためには、膨大な資金や人手が不可欠でした。

そして、その支援を一手に担ったのが親村である長沢村でした。

これは、この地が長沢村の一部であったことや、孫兵衛の本拠である別名村から距離があったこと、さらには領主主導の開発であった可能性などが背景にあると考えられています。

特に困難を極めたのが水利の確保でしたが、ここでも長沢村の大きな支援があり、医王池が造営されました。

この安定した用水が確保されたことで、孫兵衛作村は長沢村から独立を果たすことになったのです。

一方で、医王池の造営は、長沢村にとっても重要な水源の確保につながりました。

池の管理は、現在も孫兵衛作が中心となって担っていますが、水利権をもつ長沢側も、草刈りや堤の改修工事の際には孫兵衛作と力を合わせ、費用を分担するなど、江戸時代から変わらぬ協力関係が続いています。

医王池は、長沢と孫兵衛作をつなぐ「絆」であり、先人たちが共に汗を流して未来を切り拓いた、開拓の歴史そのものでもあるのです。

祭礼に受け継がれる長沢と孫兵衛作の関係

さらに、両地域の結びつきは、水という実務面だけに留まりません。

その象徴的な例が、毎年5月に行われる例大祭です。

前述の通り孫兵衛作は、独立する前は長沢村の一部の地域であったため、その氏神である須賀神社・長沢への信仰を、当時から長沢の人々と共にしてきました。

細埜神社が創建されたあとも、須賀神社・長沢の例大祭には孫兵衛作の人々が参加する習わしが今日まで大切に受け継がれています。

かつての例大祭では、長沢と孫兵衛作の衆が共に須賀神社・長沢の神輿を担ぎ、両地域の神事が手を取り合うようにして執り行われてきました。

一つの神輿を同じ重みを感じながら担ぎ上げるその姿は、厳しい自然の中で助け合ってきた地域の連帯感そのものでした。

現在は人口減少の影響で神輿が出ることはなくなりましたが、その精神は今もなお、地域の静かな絆として大切に受け継がれています。

「蛇越池と蛇池」医王池の伝わる二つの伝説

医王池は、医王山に由来する名と考えられています。

しかし、地元ではその名で呼ばれることはほとんどなく、「蛇越池(じゃごしいけ)」、あるいは「蛇池(じゃいけ)」という名前で広く知られています。

一方で、その呼び名の由来については、あまり意識されることはありませんが、そこには古くから伝わる二つの伝説が残されています。

「龍女伝説」蛇越池の由来

一つ目の伝説は「龍女伝説」です。

昔、蛇越池には大蛇が住んでいました。

この大蛇は時折、美しい女性に姿を変えて村に降り立ち、村人たちはその姿を「龍女様」と呼んで崇めていました。

村人たちは、この池がどんな干ばつの年でも水を絶やさないことから、龍女様が住む池に対して深い敬意を抱いていました。

しかしある年、大変な日照りが続き、田畑の作物が枯れてしまうほどの被害が出ました。

そんな時でも村人たちは「龍女様の住まわれる池だから…」と池の水を使わずに少しだけ残していました。

それでも雨は降らず、村の状況は悪化していきました。

ある日、村人たちは、わずかに残った池の水を見つめながら「この水を、田畑に使わせてもらえないか龍女様にお願いするしかない」と話し合っていました。

その話を池の中から聞いていた龍女は、村人たちの前に現れ、「私はこの池を出て海に行くことにしますので、大丈夫です」と告げ、池の北東の隅から山を越えて海岸へと向かっていきました。

この出来事が「蛇越池」という名前の由来となったといわれています。

「水呑龍伝説」蛇池の由来

もう一つの伝説が「水呑龍伝説」です。

この伝説は、近くの世田山にある「世田薬師(せたやくし)」にまつわるものです。

世田薬師は、愛媛県西条市に位置する高野山真言宗の寺院で。正式には「世田山 医王院 栴檀寺」といい、奈良時代の高僧・行基が、霊木である栴檀(せんだん)の木に薬師如来を刻んで開いたという、1300年近い歴史を持つ名刹です。

その昔、標高280メートルの山上にある世田薬師の本堂(現:奥之院)には、左甚五郎(ひだり じんごろう)が彫り上げたと伝わる、一間(約1.8メートル)ほどの立派な龍の彫刻が、「向拝(ごはい)」に祀られていました。

左甚五郎は、江戸時代初期に活躍したと伝えられる伝説的な彫刻師です。

日光東照宮の「眠り猫」や、上野寛永寺の龍など、日本各地にその名が刻まれた傑作が残されています。

甚五郎の彫刻は、あまりの精巧さに魂が宿るといわれ、日本各地に『夜な夜な動き出した』という逸話が残されています。

ここ世田山の龍もまた、その凄まじい生命力ゆえに、ある不思議な事件を起こすことになります。

やがて人々のあいだで、奇妙な出来事がささやかれるようになります。

夜になると、その龍が本堂を抜け出すというのです。

いつの頃か、村人のあいだで、奇妙な噂がささやかれるようになりました。

「夜になると、世田薬師の龍がお堂を抜け出し、医王池の水を飲んでいる」

冬の間はまだしも、夏になり田畑に水が必要な時期を迎えると、この事態は深刻なものとなりました。

龍に池の水を飲み干されては、大切な稲が枯れ、百姓の暮らしは立ち行かなくなってしまうからです。

困り果てた人々は、ついに龍の動きを封じるための決断を下します。

ある夜、動き出した龍を捕らえ、その身体を八つに切り分け、鉄の「鎹(かすがい)」で打ち止めてしまいました。以来、龍が水を飲んで人々を困らせることはなくなったといいます。

龍を捕らえ、その身体を八つに切り分け、鉄の「鎹(かすがい)」で打ち止めてしまったのです。

以来、龍が水を飲んで人々を困らせることはなくなったといいます。

その後、昭和2年(1927年)、大師堂や三宝荒神堂が山麓へ移され、「本坊」が開かれると、山上にあった本堂は「奥之院」となりました。

龍はそのまま、奥之院となった山上の本堂に留められていました。人々の暮らしが山麓へ移ったあとも、龍は変わらず険しい山上の地で、静かに時を刻み続けていたのです。

龍はそのまま、奥之院となった山上の本堂に留められていました。

しかし、2008年(平成20年)8月、笠松山・世田山一帯を焼いた大規模な山林火災が発生します。

火は数日にわたり燃え広がり、山中の堂宇や信仰物にも危険が及びました。

このとき当時の住職が、猛火の迫る中で龍を山上から降ろし、決死の覚悟で救い出しました。

そして令和3年(2021年)、山麓に新たな本堂(金堂)が建立され、ご本尊である薬師三尊と十二神将が遷座されると、この龍もまた新本堂へと移され、ご本尊を護るように安置されることとなりました。

かつては人々の暮らしを守るためにその身を「八つ切り」にされ、長らく山上の奥之院に封じられていた龍。

しかし、猛火の危機を乗り越え、現在は清らかな本堂(金堂)の中で、訪れる人々を静かに見守っています。

周辺の湿地帯とその自然の宝庫

医王池の周辺には、約50アールにわたる豊かな湿地帯が広がっており、この地域には多くの珍しい植物が自生しています。

この湿地帯の中でも特に目立つのが、白く美しいサギソウで、この植物は池のシンボルとして知られています。

サギソウは湿地の代表的な植物であり、その優雅な姿は地元の自然愛好家たちにも広く愛されています。

また、湿地にはミズトンボやネジバナなどのラン科植物も数多く生育しており、これらの植物は非常に貴重な存在として地域の自然保護の対象となっています。

さらに、モウセンゴケといった食虫植物もこの湿地で見られ、湿地の多様な生態系を象徴しています。

これらの植物は、湿地の独特な環境を支える重要な要素です。

この豊かな自然環境は、昭和25年に愛媛県の天然記念物に指定され、地域の宝として大切に守られています。

この指定は、湿地の生態系を保護し、その価値を次世代に伝えるための重要なステップとなりました。

「サギソウフェスティバル」自然とともに生きる地域

また、この自然環境は、地域の教育や文化活動にも深く根付いています。

例えば、地元の小学校では毎年「サギソウフェスティバル」が開催され、子どもたちが湿地の植物を観察し、自然の大切さを学ぶ場となっています。

このフェスティバルは、地域の自然環境保護の重要性を子どもたちに伝えるとともに、地域全体で自然との共生を考える機会となっています。

「桜井石風呂」姫を救った長野孫兵衛の伝承

長野孫兵衛にまつわる伝承として、石風呂薬師堂がある桜井石風呂に関する物語も残されています。

ある時、重い病を患った高貴な姫君が、家族と涙ながらに別れを告げ、「うつぼ舟(うつろ舟とも呼ばれる小さな漂流舟)」に乗せられて都を離れました。

やがて舟は桜井の浜に漂着し、姫は孫兵衛に救い出されます。

長野孫兵衛は姫を桜井海岸の洞窟へ導き、シダを焚いて蒸気を立ち込めさせ、そこを療養の場としたと伝えられています。

洞窟の熱気と海水の効能によって姫は次第に病を癒し、やがて元気を取り戻しました。

快癒した姫はその恩を忘れず、後の生涯を救い出してくれた一族に仕え続けたとも語り伝えられています。

この出来事は、桜井の石風呂の起源の一つとして語り継がれるとともに、人々を救い導いた孫兵衛の人となりを今に伝えるものとなっています。

「長井孫平頌功碑」受け継がれた孫兵衛の志

そして、長野孫兵衛の子孫の歩みもこの地に残されています。

開拓ののちも、その一族は代々「孫兵衛」の名を継承し、この地域一帯の発展を支え続けてきました。

その歴史の断片を今に伝える場所が、国道196号沿い、道の駅「今治湯ノ浦温泉」から少し離れた場所にあります。

そこには、石碑と寄り添うように祀られた四体のお地蔵様が静かに佇んでいます。

地蔵様は、かつて四国八十八ヶ所を巡っていたお遍路さんが、この場所で志半ばに亡くなった際、その霊を慰めるために建立されたという言い伝えがあります。

そしてそのお地蔵様の隣に建つのが、長野孫兵衛の一族の一人であり、地域の発展に尽力した長井孫平の功績を称える頌功碑です。

頌功碑は以下のように刻まれています。

長井氏名孫平 伊豫國越智郡孫兵衛作村里正嫡子也資性剛毅才氣超衆尤到力産業先是長野孫兵衛氏創始孫兵衛作村氏夙慕其德思繼逑其遺業常以開墾郷土指導里民自任此地為幕府所管氏以名主就職櫻井町代官所明治維新、尚以里正為差配方尋補越智郡第一小區以用係戸長 後又執務櫻井外三村組合役塲、鞅掌公事、前後三十餘年也其間益盡力開拓孫兵衛作村明治十四年官設部分林制勤植林業於是與越智平太郎氏共艱苦經營大起植林議明年更受縣命益奮勵遂成其功醫王山林樹欝蒼者實氏力也大正二年二月得病殁于家距生天保四年十一月享年八十有二 頃日村民相謀欲建碑表其功以永傳于世因記其梗概如此言

【現代語訳】

これを現代語訳にすると次のようになります。

長井氏、名は孫平。

伊予国越智郡孫兵衛作村の里正(村長)の嫡男である。

その性質は意志が強く、才能と気力は人並み外れて優れていた。

特に、地域の産業を興すことに心血を注いだ人物である。

かつて、長野孫兵衛氏がこの孫兵衛作村を切り拓いたが、孫平氏は早くからその徳を慕い、その遺志を継いで事業を完成させたいと願っていた。

常に「郷土を切り拓き、村人を導くこと」を自らの務めとしていたのである。

この地が幕府の直轄領であった頃、氏は「名主(なぬし)」として桜井町の代官所に仕えた。

明治維新後も、引き続き「里正」として村の差配を任された。

その後、越智郡第一小区の用係として戸長(こちょう)を補佐し、さらに桜井村ほか三ヶ村の組合役場にて公務に精励すること、その期間は前後合わせて三十余年に及んだ。

その間、孫平氏は孫兵衛作村の開拓にいっそう尽力した。

明治14年に「部分林(国と民間が収益を分け合う植林制度)」が設けられると、植林事業に力を尽くした。

ここで越智平太郎氏とともに、幾多の困難を乗り越えて経営にあたり、植林の計画を大いに盛り上げたのである。

翌年にはさらに県の命令を受け、いっそう奮い立って励んだ結果、ついにその大業を成し遂げた。

今、医王山の木々が青々と生い茂っているのは、実に孫平氏の努力の賜物である。

大正2年2月、病を得て自宅にて没した。

天保4年11月の生まれで、享年は82歳であった。

先日、村の人々が相談し、「碑を建ててその功績を顕彰し、永く後世に伝えよう」と考えた。

よって、その歩みの概略をここに記すものである。

「孫兵衛」から「孫平」へ。名前に込められた時代の転換点

ここで一つ謎が浮かび上がります。

代々「孫兵衛」を襲名してきた家系において、なぜ表記の違う「孫平」と名乗ったのでしょうか。

そこには、江戸から明治という「時代の変化」と「武家社会の終焉」が深く関係していると考えられます。

江戸時代の「〜兵衛」や「〜左衛門」といった名前は、もともと律令時代の官職名(役職の名前)に由来するものでした。

しかし、明治5年(1872年)、新政府は「実名(本名)と通称(呼び名)を一つにする」という命令を出します。

これを受け、全国で武家社会を連想させる「官名」風の名前を避け、新しい時代にふさわしい名前に改名する人が続出しました。

こうした流れの中で、一族の象徴でもある「孫」の字を活かしながら、時代に合った名前として「孫平」が用いられるようになったのかもしれません。

また、石碑によれば明治維新後、30年以上にわたって戸長や組合役場の役人として公職に就いていたとされています。

明治以降、戸籍制度が整備されると、公文書には正確で判別しやすい個人の名前が求められるようになりました。

先代や初代と同じ「孫兵衛」のままで公務を行うことは、事務上の混乱を招く恐れがあったはずです。

一方で、墓石には「長井孫兵衛」と刻まれており、公的な記録と家の中で受け継がれてきた名前とが使い分けられていたことがうかがえます。

すなわち、戸籍や行政の場では個人を識別するための実名「孫平」が用いられ、地域社会や家の中では、代々受け継がれてきた通称「孫兵衛」が重んじられていたと考えられます。

細埜神社が見守る地域の絆

江戸、明治、大正、そして令和。

時代と共に村の姿や人々の名前が変わっても、医王池を渡る風や、医王山の青々とした木々、そして細埜神社の境内に流れる静謐な空気は、先人たちが未来へ託した「志」を今も雄弁に語りかけています。

孫兵衛作に限らず、私たちが目にする現在の美しい風景は、多くの先人たちが、この不毛の地に挑み、一鍬(ひとくわ)ずつ積み上げてきた開拓の記憶そのものです。

車や自転車で通り過ぎるのではなく、ぜひ時間を忘れて、子供の頃のように自分たちの地域をゆっくりと歩いてみてください。

私たちは自分たちが決して一人ではなく、果てしない時間の連なりの先に立っていることを、かならず感じられるはずです。

神社名

細埜神社(ほそのじんじゃ)

所在地

愛媛県今治市孫兵衛作字向山甲227

電話

0898-56-3063

主祭神

大元大神・長野孫兵衛

境内社

荒神社・山神社・塞神社

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