桜井地区に位置する「三島神社・登畑(みしまじんじゃ)」は、非常に古い歴史を持つ神社です。伝えられるところによると、推古天皇(593-628年)の時代に富田村高市(現在の今治市高市)に勧請されたのが始まりとされています。古代から地域の信仰の中心であり、長い年月を経て現代までその存在が続いています。
天正年間(1573-1593年)には、神社が現在の桜井地区・登畑に移されました。この移転を主導したのは、当地の有力な氏族であった三宅川家と伝えられています。
三宅川家の土佐への移住
三宅川家は、南北朝時代に河野氏第26代当主であった河野通有の孫、越智朝臣通房(三宅川備後守)を始祖とする家系であり、古くから伊予国と深い繋がりを持つ氏族でした。
この一族の一人、「三宅川永昌入道越智通常(みやがわえいしょうにゅうどう おちみちつね)」は、先祖代々の領地である伊勢国宮川(現在の三重県伊勢市)を治めていました。しかし、戦国時代の動乱の中、永禄十二年(1569年)、通常は一条兼定の招きに応じ、土佐国赤岡・岸本(現在の高知県香南市)に移り住むこととなります。
土佐国への移住後、通常は新たな領地で一族の繁栄を図ろうとしましたが、移住後まもなく、三宅川家は長宗我部元親との衝突が避けられない状況に直面します。
長宗我部元親との衝突と今治市登畑への移住
長宗我部元親(1539年-1599年)は、四国全域を統一しようとした戦国大名であり、土佐国を拠点に勢力を拡大していました。元親は、若い頃にはその穏やかな性格から「姫若子(ひめわこ)」と呼ばれ、戦士としての資質を疑われることもありましたが、成人後にはその才覚を発揮し、次々と周辺の豪族を服従させていきました。
元亀2年(1571年)頃までに元親は土佐国全域をほぼ掌握するに至り、その勢いはピークに達しました。
通常は、元親の軍勢に対抗するため、土佐国赤岡・岸本に拠点を構え、必死に抵抗しましたが、元親の圧倒的な兵力と戦術の前に、次第に追い詰められていきました。そして元亀4年(1573年)頃には、三宅川家の防衛線は崩壊し、ついに長宗我部軍に敗北を喫しました。
この敗北によって、通常は土佐国での拠点を維持することが極めて困難となり、これ以上の抵抗を続けることは現実的ではなくなりました。
このため、通常はやむを得ず、土佐国を撤退し、先祖代々の縁の地であった伊予国越智郡登畑(現在の愛媛県今治市登畑)に戻ることを決断しました。
三島神社と三宅川家の再興
三宅川通常が新たに拠点を構えた霊仙山の麓、頓田川(富田川)沿いの地は、豊かな自然に恵まれ、農業や防衛に適した理想的な場所でした。霊仙山は古くから地域の信仰の対象とされ、その霊的な力は地域社会にとって大きな意味を持っていました。
三宅川通常は、この地において地域社会と深く関わりながら、信仰の中心となる三島神社の移転に関与したと考えられます。三島神社の移転は、地域の霊的支柱を再構築し、三宅川家が地域における影響力を再び確立するための重要な一歩でした。
こうして、霊仙山麓の登畑に根付いた三島神社は、地域社会の信仰の中心として、また三宅川家の歴史とともに歩む重要な存在として、今もなおその役割を果たし続けています。