「東禅寺(とうぜんじ)」は、ハリソン東芝ライティングの裏側、鴨部神社と道路を挟んで反対側にあります。この場所は今治市民が「ケヤキ並木みち」と呼んで親しまれている道が途切れた先にあります。
「ケヤキ並木みち」は、JR今治駅から総社川(蒼社川)へと続く約700メートルの並木道で、秋を告げる場所として今治市民に親しまれています。ケヤキのアーチが続くこの道は、秋には美しい紅葉で彩られ、訪れる人々を季節の移ろいの中に誘います。
並木道を進んでケヤキが途切れると、桜並木が現れます。春には桜が満開になり、また違った美しい景色を楽しむことができるこのあたりに、歴史ある「東禅寺」が静かに佇んでいます。
「鉄人」伝説から始まる創建物語
東禅寺の創建は「鉄人伝説」から語り継がれています。
七世紀の推古天皇(在位592〜628年)の時代、伊予の豪族である越智益躬(おちのますみ)は、朝廷の命により「鉄人」と称される武将と戦うことになりました。
「鉄人」は、新羅や百済など三韓(朝鮮半島)から、8000人の軍勢を率いて九州の筑紫の国(現在の九州)に侵攻し、圧倒的な武力だけではなく、「風雨の術」と名付けられた神秘の妖術までも使うと噂され、多くの戦死者を出し、人々は恐怖に震えていました。
出陣前、益躬は一族の守護神である「三嶋大明神」に七日七夜(一週間)祈願したところ、「鉾(ほこ)を鏃(やじり)にして隠もち、鉄人の隙を見て討て」という神託を受けました。
この神託が、後に鉄人との戦いにおける重要な導きとなります。
いよいよ鉄人と対峙することになった益躬ですが、鉄人の強さは予想以上でした。武力での勝利は難しいと判断した益躬は、思い切って鉄人に降伏し、家来となることでその隙をうかがうことにしました。
しかし、用心深い鉄人にはほとんど隙が見当たらず、見つけた隙といえば「馬に乗っている際に足の裏にわずかな穴が開いている」ぐらいでした。
それでもじっとチャンスを待ち続けた益躬に、ついに決定的な瞬間が訪れます。
その日、鉄人は目の前に広がる美しく壮大な景色に心を奪われ、警戒心を忘れて無防備に立ち尽くしていました。すると、突然の雷鳴が響き渡り、空を裂く稲妻が辺りを照らし、その中には三島大明神の姿がありました。
この瞬間を最大の好機と捉えた益躬は、三嶋神社の神託に従い懐に隠していた鏃を投げつけました。鏃はまっすぐに空を切り裂き、見事に唯一の弱点であった足の裏の穴に命中、それは致命傷となって鉄人は崩れ落ちました。
こうして、益躬はついに鉄人を討ち取ることに成功したのです。
この功績から越智益躬は伊予の国の長官に任じられ、益躬は戦いで犠牲になった部下たちを慰霊するために「東禅寺」を建立したとされています。一説ではこの時に日吉郷と鴨部郷から田地が百町(約99ヘクタール)寄進されたといいます。
伊予国に迫る平家の影響力
時代は進み、平安時代中期から後期に入る頃、荘園制度が広がり、全国各地で多くの土地が貴族や寺社の私有地として認められるようになりました。当時の土地は、本来「公地公民制」に基づき、朝廷が支配し、朝廷に属する公有地とされていました。しかし、権力者が地方の領地に対する所有権を拡大し、「荘園」として私有化を進めることが一般化していきます。
この荘園制度では、土地を実際に所有する者が年貢などを納めるかわりに、中央の貴族や寺社、あるいは地方の豪族などの保護を受けるという形を取っていました。こうした荘園の拡大は、地方にいる豪族にとっては支配地を守るための有効な手段でしたが、同時に、中央政権に近い有力者たちが各地に影響力を持つきっかけにもなりました。
平家は、京都の有力な貴族として、この荘園制度を利用して伊予を含む西日本一帯での勢力を拡大していきました。彼らは伊予国においても積極的に荘園を築き、その勢力範囲を広げていきました。
さらに平安時代末期になると、平家は大陸との交易拡大を目指し、西日本一帯の沿岸地域に勢力を強め、九州や瀬戸内海沿岸諸国に一門を国司として送り込んでいました。
特に瀬戸内海を支配するために、水軍の制圧に力を入れていました。
伊予の統治者「河野氏」と平家の摩擦
この時代、伊予国は越智氏の流れを汲む河野氏が支配するようになっていました。河野氏は、瀬戸内海沿岸に勢力を拡大し、特に河野氏の水軍は「瀬戸内海で最強」と称され、その影響力は伊予国内にとどまらず、周辺の海域全体に及んでいました。
瀬戸内海は航行が難しく、潮流や風向きが複雑なため、高度な航行技術が必要とされます。河野氏はこうした地理や潮流を熟知し、それを活かした戦術で他を圧倒していました。また、船団は規模も非常に大きく、多くの武装兵を乗せることで、海戦における機動力と攻撃力で圧倒的優位に立っていたのです。
さらに、河野氏は瀬戸内海を航行する商船や漁船から年貢や手数料を徴収し、その潤沢な資金をもって水軍の装備や兵力を高め続けていました。
この独自の税収システムは、河野氏にとっての重要な経済基盤であり、瀬戸内海全域にわたる支配力を保つために必要不可欠でした。
瀬戸内海での交易や流通の要所を押さえたことで、他の豪族や貴族が瀬戸内海で活動する際には、河野氏の許可が必要になることも多く、その権威は非常に高まっていました。
しかし、平家が伊予国内に次々と荘園を広げていくと、河野氏ら在地豪族の領地が次第に圧迫されていきました。朝廷の公有地以外の土地は、基本的に貴族や神社仏閣にのみ「荘園」として認められていたため、河野氏のような地方豪族が独自に私有地として支配することが難しくなり、平家の支配下に組み込まれざるを得なくなっていったのです。
このような状況の中で河野氏は、平家に従属するか、あるいは抵抗するかの選択を迫られました。
そして1180年(源平合戦)、源頼朝が打倒平家を掲げて挙兵すると、河野氏はいち早く源氏への味方を表明し、平家に対抗するために兵を挙げました。
これは、河野氏にとって単に源氏に加勢するだけでなく、自らの独立性と伊予国内での支配権を守るための決断でもありました。
「源平合戦」源氏側に立ち平家と立ち向かう河野氏
河野氏の水軍は、源氏の西日本における作戦を支える重要な戦力となりました。当時、平家は瀬戸内海を中心とした水軍を強化しており、海上からの統制を図っていましたが、河野氏の強力な水軍が源氏方に加わったことで、瀬戸内海の支配状況が大きく変わります。河野氏は源氏方の拠点を防衛する一方で、平家の勢力を削ぐための攻撃的な作戦にも協力していきました。
例えば1185年の屋島の戦いでは、源義経が奇襲をかける際、河野氏の水軍が決定的な役割を果たしました。河野氏は、自軍の船を用いて平家の注意を伊予に引きつけ、義経が少数の兵で屋島を攻めるための隙を作り出しました。河野氏の水軍の支援によって、義経は不意打ちを成功させ、平家軍に大きな打撃を与えることができました。この屋島での勝利は、源氏にとって大きな意味を持つものであり、河野氏の水軍がいなければ成し得なかったとされています。
その後、義経は最後の戦場となった「壇ノ浦(現在の山口県下関市)」にと向かいました。壇ノ浦は潮の流れが急で、航行が非常に難しい海域ですが、河野氏の水軍はこの海域の地形や潮流に熟達しており、源氏軍の進軍に大きく貢献しました。
壇ノ浦の戦いでは、河野氏を含む源氏の水軍が潮流を巧みに利用して平家軍を包囲し、義経が指揮する本隊が平家の本陣に攻め込みます。結果、平家軍は総崩れとなり、ついに平家一門は壇ノ浦で滅亡することとなりました。
義兄弟となった河野通信と源義経
この勝利により源平合戦は終結し、源氏が日本全土において実権を握ることとなりました。河野氏の水軍はこの合戦で大きな貢献を果たし、その功績により源氏から高い評価を受けることになりました。
実は、源平合戦の序盤で河野氏は一度敗北し、当主の河野通清が戦死するという大きな損失を被っています。この敗北によって河野氏の立場は一時的に危うくなりましたが、通清の子である河野通信(こうのみちのぶ・河野四郎通官)が当主として後を継ぎ、平家に対して反撃を成功させました。
河野通信はこれらの戦いにおける功績を認められ、源頼朝からは伊予国の支配権と、頼朝の妻「北条政子」の実の妹を妻に迎えるなど、源氏と河野氏は共に戦った戦友だけではなく、親戚関係としても固く結びつくことになりました。
兄に追われた源義経
平家が壇ノ浦の戦いで滅亡した後、1185年(文治元年)に源頼朝は鎌倉にて政権を樹立し、ここに日本初の武家政権「鎌倉幕府」が誕生します。この新しい政権のもとで、河野通信は源氏の功臣として、伊予国の支配を認められ、鎌倉幕府の要職に就くようになります。通信は源頼朝と義兄弟の関係を持つ強力な立場であり、伊予国内での支配を強固にし、その影響力をますます強めていきました。
しかし、この安定は長くは続きませんでした。なんと頼朝とその弟・義経の間に深刻な対立が生じたのです。
兄弟とはいえ、頼朝と義経は母が違い、年齢も離れていました。父・源義朝が平治の乱で敗死した際、義経はまだ幼児であり、鞍馬寺に預けられて成長しました。一方、頼朝は伊豆に流され、異なる環境でそれぞれの人生を歩んでいました。そのため、二人の間にはそもそもの距離がありました。
頼朝が義経に不信感を抱くきっかけとなったのは、義経が頼朝の許可を得ずに朝廷から「左衛門少尉」の位を授けられたことでした。当時、武士が官位を得る際には主君の承認が必要であり、頼朝にとっては、義経が自分の許可なく官位を受けた行為が重大な不敬と映ったのです。頼朝にとって義経は鎌倉幕府の一員であり、自身の指揮下にあるべき部下であったため、この行為は幕府内の主従関係や秩序を乱すものとされました。
さらに、義経が京都で公家や朝廷の力と結びつき、頼朝の承認を得ずに独自の行動を取ったことは、頼朝の立場を揺るがすものでした。当時、義経は都で権威を高めようと奔走していましたが、頼朝から見ると朝廷側につき、鎌倉幕府での自身の権力基盤を脅かす行動に映ったのです。
ついに頼朝は義経の鎌倉入りを禁じ、義経を追討する命令まで出しました。
こうして、共に源平合戦を戦った兄に追われることとなった義経は、各地を転々としながら逃亡生活をすることになりました。最終的には奥州平泉の藤原氏を頼った義経でしたが、幕府の圧力をうけて庇いきれなくなり、平泉の地で義経は自害しました。
義経が失脚した頃、義経の同調者や支持者が厳しく取り締まられました。この中で、戦友であり、深い絆を持つ河野通信にも疑惑の目が向けられました。特に、源氏政権が安定した鎌倉時代中期以降、通信のような古参の御家人たちは、次第に新興勢力である北条氏による厳しい統制を受けるようになります。
鎌倉幕府と敵対する「河野通信」
源頼朝の死後、源氏の家督は頼家、続いて実朝へと引き継がれましたが、鎌倉幕府を支える中心勢力である御家人間には、勢力争いと対立が次第に激化しました。 そして頼家は頼朝の義兄弟「北条時政(ほうじょう ときまさ)」によって失脚させられ、実朝も暗殺されてしまいました。
こうして、わずか三代で源氏の直系が断絶したことにより、鎌倉幕府の実権は北条氏が握ることとなりました。
しかし、これによって幕府内では権力闘争や御家人たちの不満が高まり、内部の結束に乱れが生じます。特に、頼朝以来の古参の御家人たちは、北条氏が執権として実権を掌握し、幕府運営を独占していく姿勢に不満を抱き始めました。
一方で、朝廷側も北条氏が幕府の頂点に立ったことを快く思っておらず、次第に両者の間には緊張が高まっていきました。やがて、後鳥羽上皇は朝廷の威信回復と武家政権に対抗する意志を固め、承久3年(1221年)に幕府を相手に挙兵をしました。
「承久の乱」の始まりです。
この戦で通信は、幕府側(北条氏)ではなく朝廷(後鳥羽上皇)側に付き参戦しました。これは義経との関係で幕府から不信を持たれたことに対する不満、さらに北条氏が強引に御家人を抑圧し始めたことへの反発が理由だったと考えられます。
また、通信の子である河野通政、通俊、孫の通秀も既に京都で上皇の側近として仕える西面武士となっていたため、通信は家族とともに上皇方に付く選択をしたのです。
一方で、通信のもう一人の子、通久は幕府側に残りました。
これは、戦乱の世において河野氏一族が滅亡のリスクを避けるために選んだ生存戦略でした。河野氏のような地方豪族にとって、権力者たちの勢力争いが絶えない乱世では、一族の一部を異なる陣営に分散させることで、一族全体の滅亡を回避することが重要な手段でした。しかし、こうした戦略は、家族が戦場で敵として向き合い、時には命を奪い合うという、非常に厳しい運命をもたらしました。
承久の乱の結末
こうして始まった承久の乱は、多くの武士が後鳥羽上皇方に参じたものの、幕府もすぐさま対応し、執権・北条義時の指示で北条泰時を指揮官とする鎌倉軍を京へと派遣しました。幕府軍は組織的な戦力を持ち、戦闘の訓練を積んだ兵士を中心に構成されていたため、上皇方の武士たちを圧倒していきました。京に向けて進軍する中、各地で合戦が繰り広げられましたが、幕府軍は次々と勝利を収め、最終的に京都を制圧します。
上皇方は、数の上では劣らないものの、急きょ召集された寄せ集めの軍勢で、統率が取れていませんでした。また、主に戦闘経験に乏しい貴族や地方の武士たちが多かったため、次第に士気が低下し、幕府軍の前に崩壊していきました。
こうして承久の乱は幕府側の圧勝に終わり、上皇方の武士たちの多くが処罰を受け、後鳥羽上皇は隠岐に、順徳上皇は佐渡に流されました。
この中で、河野通信も流罪に処されることになりました。そして何の因果か、その流刑地はかつての戦友であった源義経が最期を迎えた奥州・平泉でした。義経との絆を心に抱き続けた通信にとって、義経が眠るこの地での流罪は運命の皮肉ともいえるものでした。
そして承応2年(1653年)、義経が生涯を閉じたこの平泉で、通信は68歳の生涯を静かに閉じたと伝えられています。
河野通信誕生の地としての東禅寺
このような乱世を生き抜き、波乱に満ちた生涯を送った河野通信が誕生し、成人を迎えた場所が東禅寺です。
保元元年(1156年)、東禅寺で誕生した通信は、幼少期には「若松丸」と呼ばれて、成長するにつれて「東禅寺殿」とも称されるようになりました。
通信は伊予国府で伊予権介(いよのごんのすけ)という在庁官人に任命され、伊予国の統治を担う重要な役職を務めました。この役職により、通信は「河野介」と称されるようになり、伊予国内において強い影響力を持つようになりました。
河野通信は流刑に処され、平泉でその生涯を閉じましたが、通信にとって特別な信仰の場であった東禅寺は、彼の流刑後も、そしてそれ以前から河野氏一族にとって大切な祈りと信仰の場であり続けました。
東禅寺の伝承によれば、平安時代後期の延久5年(1073年)11月に義経の祖先「源頼義(みなもと の よりよし)」と河野氏の始祖とされる「河野親経」親経が協力し、七堂伽藍が再興されたとされています。
弘安3年(1280年)には、通信の孫にあたる「一遍上人(いっぺんしょうにん)が」、時宗を開いた後に平泉で亡くなった通信の墓参りを行い、その位牌を東禅寺に納めました。
通信の戒名は「東禅寺殿前豫州大守觀光西念大居士」とされ、東禅寺は通信の菩提所として、河野氏の守護として祀られるようになりました
河野氏による東禅寺の再建
元弘3年(1333年)11月、南北朝の動乱の中で、当時の当主「河野備後守通綱」が七堂伽藍を再建しました。河野氏はこの時代、伊予国において支配力を強め、地元の豪族として仏教信仰を支える一方で、河野氏一族の祈りの場として東禅寺の復興に力を注ぎました。
しかし、再建から数十年後、南北朝時代の混乱が続く文中3年(応安7年・1374年)、東禅寺は再び兵火によって焼失してしまいます。加えて、この時には幕府の圧力も強まり、東禅寺の寺領が没収されるという苦境に立たされました。寺領の没収は、寺院の運営を支える基盤を失うことを意味しており、経済的に大きな打撃を受けました。
この時期、河野氏は南朝方に属していました。南北朝の対立が激化する中で、河野氏は南朝の支持者として戦いを続けていましたが、その影響で度重なる戦火に巻き込まれることとなり、東禅寺の再建が非常に困難な状況に置かれていました。
河野氏は、南朝を支持し続けることで幕府側の敵視を受け、寺院や領地に対する支援が制約され、東禅寺の維持がさらに厳しい状況に追い込まれてしまったのです。
それでも、文明3年(1471年)には、河野氏一族の河野通昭が東禅寺の再建を果たし、再び寺領を奉納しました。その後、永正15年(1518年)には、河野氏の一族である河野通宣によって本堂である薬師堂が再建されました。
戦火からの再建と保存
天正13年(1585年)8月、豊臣秀吉の四国征伐が行われ、伊予国は戦火に包まれました。この際、秀吉から伊予を任された小早川隆景の第一陣が今治に上陸し、東禅寺に本陣を構えました。しかし、この戦いの中で、東禅寺の諸堂や多くの貴重な什器が焼失し、大きな被害を受けました。
一方、永正15年(1518年)に河野通宣によって再建された薬師堂はこの戦火を免れ、奇跡的に残存しました。薬師堂はその後も地域の信仰を集め、慶長16年(1611年)と寛永9年(1632年)には、当時の今治城主藤堂高吉によって修復が施されています。この薬師堂は、河野氏の祈りを象徴する建物として重要視され、度重なる修復を受けてその姿を保ち続けました。
寛永12年(1635年)には、伊勢国長島藩から移封された今治の初代藩主である松平定房が今治城に入り、東禅寺も引き続き補修を受けました。松平定房は徳川家康の異母弟・松平定勝を父に持つ久松松平家の出身で、東禅寺は松平家歴代藩主の崇敬を受ける寺院として大切にされました。松平家の支援によって、寺院の維持が確立され、修復や補修が続けられました。
明治時代に入り、東禅寺の保存活動も進められました。明治26年(1893年)には内務省より建物保存資金として五拾円が交付され、寺院の保全に役立てられました。さらに明治35年(1902年)にも修理が行われ、寺院の歴史的価値が保たれました。
東禅寺の薬師堂はその歴史と文化的価値から明治37年(1904年)に旧国宝に指定され、国の宝として位置づけられました。
昭和9年(1934年)から翌年にかけては、国庫の補助を得て大規模な改修が行われ、東禅寺の修復と保存がさらに進められました。この大改修により、東禅寺は新たな時代に向けてその姿を整え、地域の信仰と歴史を守る重要な文化財として存続していきました。
薬師堂と如意輪観世音菩薩像の歴史
このように再建され続けた東禅寺の中でも、特に薬師堂は地域の重要な信仰の対象として、また河野氏の祈りを象徴する建物として大切にされてきました。
永正15年(1518年)、河野氏の河野通宣(こうのみちのぶ)によって再建された薬師堂は、室町時代の特色を残した非常に映しい建築物で、明治37年(1904年)には国宝に指定されました。
薬師堂の内部には、本尊の「如意輪観世音菩薩像」が安置されていました。この菩薩像は、天平元年(729年)に越智玉澄公の命により、行基律師が巡錫の際に霊木の根幹から等身大の尊像を自作したものと伝えられています。長い歴史を持つこの尊像は、東禅寺の信仰の中心であり、地域の人々の祈りと願いを受け止める象徴的な存在でした。
また、この尊像には越智氏にまつわる伝承も残されています。伝説によれば、越智氏の祖先である越智益躬が「白村江の戦い(663年)」において唐に捕らえられ、捕虜となりましたが、観音菩薩の霊験加護により、幾多の海難を無事に乗り越え、帰還することができたとされています。
この出来事が契機となり、越智益躬は如意輪観世音菩薩を永く崇敬することを決意し、この尊像を東禅寺に安置したと伝えられています。
観世音菩薩像や薬師堂は、河野氏一族の信仰の象徴であるとともに、地域の人々にとっても重要な信仰の対象でした。越智氏から河野氏へと受け継がれてきたこの観世音菩薩像は、除災招福の仏として広く崇敬を集め、薬師堂とともに東禅寺の中心的な存在として人々の心の支えとなってきました。
しかし、昭和20年(1945年)のある出来事によって甚大な被害を受けてしまうことになります。
それが今治空襲です。
「今治空襲」東禅寺の焼失
昭和20年(1945年)は、太平洋戦争の終結が目前に迫った状況で、日本本土への空襲が激化した年でした。アメリカ軍を中心とする連合国軍は、戦争終結に向けて日本の主要都市や産業拠点への無差別爆撃を行い、日本の経済やインフラに壊滅的なダメージを与えることを目的としていました。このような状況の中、日本国内では各地で被害が拡大し、戦争の終焉に向かってさらに厳しい局面が続いていました。
1945年初頭までに、日本軍は東南アジアの各拠点を失い、戦線は次第に日本本土へと後退していきました。1944年末にはフィリピンが連合国軍に奪還され、サイパン島やグアム島などの重要拠点も相次いで陥落。これにより、アメリカ軍はB29爆撃機を使用した日本本土への長距離空襲が可能となり、日本の主要都市は空襲の脅威にさらされることとなります。
1945年に入ると、アメリカ軍は日本本土への無差別爆撃作戦を本格化させました。3月10日には東京大空襲が行われ、焼夷弾によって10万人以上が犠牲となる未曽有の被害を出しました。以降、大阪、名古屋、神戸をはじめとする各都市が次々と攻撃を受け、多くの民間人が犠牲となりました。これに加えて、日本の産業と戦争遂行能力を奪うために、地方都市も爆撃の標的とされるようになり、工業施設、輸送網、軍事拠点などが執拗に狙われました。
そして、昭和20年(1945年)4月26日午前8時47分、アメリカ軍の大型爆撃機B29が今治市上空に現れたのです。
B29爆撃機からは大量の焼夷弾が市街地に向けて投下され、今治市は瞬く間に燃え上がりました。
当時、市街地の多くが木造建築であったため、焼夷弾が引き起こした火災は猛烈な勢いで広がり、一瞬のうちに市街全体を包み込みました。爆撃開始から1時間あまりの間で、今治市中心部の多くが火災により焼失し、住宅や商業施設、公共施設などが壊滅的な被害を受けました。駅周辺を中心に42戸の家屋が全壊し、68名が犠牲となりました。
空襲は通勤・通学の時間帯であり、多くの人々が日常生活の中で被害に巻き込まれました。
5月8日、2度目の空襲では、前回の被害で残っていた市街地の一部や、避難した住民たちが仮住まいをしていた場所が攻撃さらされました。市民の生活基盤はすでに大きく破壊されており、今回の空襲により混乱はさらに深刻なものとなりました。消火や救援活動も十分に行えない中で、多くの市民が追い詰められ、避難先も限られる状況に陥りました。
そして昭和20年(1945年)8月5日の深夜、広島に原爆が投下される前日の夜、再びアメリカ軍のB29爆撃機が今治市上空に飛来しました。
約2時間にわたる空襲で、大量の焼夷弾が投下され、市街地の広範囲が炎に包まれました。この攻撃により、今治市の75%にあたる家屋が焼失し、住居を失った多くの人々が避難生活を余儀なくされました。また、市内の学校もほとんどが焼け落ち、教育施設も壊滅的な被害を受けました。
この夜の空襲によって、今治市では454名が命を落とし、多くの人々が家族や生活の基盤を失いました。
この3度の空襲により、今治市の市街地は焼き尽くされ、住民の生活基盤は徹底的に破壊されました。最終的に、今治市全体での死者数は575名にも上り、愛媛県内で最も大きな被害を受けた都市となりました。
このように、今治市全体が壊滅的な被害を受ける中、東禅寺も焼夷弾の猛火に巻き込まれ、旧国宝に指定されていた薬師堂も他の堂宇とともに焼失してしまいました。
このとき、薬師堂内には数々の貴重な仏具が安置されていましたが、火災によりすべてが焼け落ちてしまいました。中でも、河野氏一族が長年かけて寄進した厨子、台座、十二神将などは、地域にとって深い祈りと信仰の象徴であり、文化的な価値も非常に高いものでした。これらの仏具は、戦火によって一瞬のうちに消失し、地域にとって大きな損失となりました。
この中で、本尊の薬師如来像だけは空襲前に住職(堅城和尚)が他の地域へ疎開させていたため、奇跡的に焼失を免れることができました。
戦火を越えて…再建と復興
戦後、今治市が復興の道を歩み始める中で、東禅寺も大きく変わることとなりました。空襲によって美しい松並木の参道を失ったことに加え、昭和28年(1953年)には今治市の都市計画法のもと、境内の間に市道が通されることが決まりました。この市道の開通により、東禅寺はかつての統一された景観を失い、本堂と本坊が道路を挟んで分かれることとなりました。
薬師堂の再建にあたっては、昭和初期に行われた解体修理の際に文部技官が残した詳細な記録や、愛媛県庁に保管されていた薬師堂の図面が復元において重要な資料となりました。これらの貴重な記録を基に、焼失から約10年後の昭和31年(1956年)、薬師堂は忠実に再建され、再び地域の信仰の象徴としての役割を果たすことができるようになりました。
現在の東禅寺の姿
そして現在、東禅寺は境内を貫く市道によって本堂と本坊が分かれる形となり、かつての一体感ある風景は失われてしまいましたが、依然として本堂と本坊が道路を挟んで向かい合うことで、東禅寺の歴史と信仰が今も絶え間なく受け継がれています。
本尊である薬師如来像は今治市の指定有形文化財に指定され、戦火を逃れた「お薬師さん」として、地域の人々の心の支えであり続けています。旧暦の7日には縁日が開かれ、多くの参拝者が訪れます。
現代へ続く東禅寺と河野通信
東禅寺と河野通信の関わりは、ただの歴史的な記録にとどまらず、地域の信仰と忠義を象徴する物語として現代も受け継がれています。
境内には、従五位と刻まれた「河野通信公塔」が建立され、そのすぐ後ろには「東禅寺と河野通信」と刻まれた石碑が立てられています。この塔と石碑は、河野通信と東禅寺の深い絆を象徴し、地域の人々に忠義の精神と歴史の意義を伝え続けています。
大正5年(1916年)11月28日、大正天皇は承久の乱における河野通信の忠義を称え、従五位の勲位を追贈しました。この勲位追贈は、通信の忠勤が時代を超えて評価された証であり、「河野通信公塔」はその忠勤と忠誠を後世に伝えるために建立されたものです。
時を超えて語り継がれる河野通信の物語は、東禅寺とともに築いた深い縁と、地域に根ざした祈りと敬意の象徴として今日もなお生き続けているのです。