太鼓の音が鳴り響き、笛の旋律が春の空気を揺らす。
そして、人の肩の上にまた人が立ち、さらにその上に子どもが舞う。
まるで天に手を伸ばすように…。
愛媛県今治市では、秋祭り以上に春の祭礼が盛んであり、毎年5月3日から5月25日にかけて各地で行われる春祭りでは、「継ぎ獅子(つぎじし・継獅子)」がその中心を飾り、人々に親しまれてきました。
今治に伝わる「継ぎ獅子」
「継ぎ獅子」は、伊勢神宮に古くから伝わる「代々神楽(だいだいかぐら)」の中でも、特に神聖とされる「二継ぎ獅子」に起源を持つ伝統芸能です。
今治では、神様に少しでも近づこうという気持ちから、獅子はさらに高く高く継がれるようになり、「三継ぎ」「四継ぎ」と段を重ね、ついには五段、かつては六段に達するほどにまで発展しました。
継ぎ獅子の実際の演技は非常にアクロバティックで迫力があります。
舞い手たちは太鼓や笛の音に合わせて力強く舞い、その途中で獅子頭と胴幕を脱ぎ、さながら組体操のように肩の上に人を次々と乗せていきます。
頂点に登る「獅子児(ししこ)」と呼ばれる子供達は、神様から授かった宝物として、当日は地に足をつけさせません。
4歳から小学校低学年ほどの子どもが、約5メートルの高さで扇や鈴を手に、揺れる足場の上で優雅に舞う姿は、観る者を圧倒し、会場全体が息を呑むような緊張感に包まれます。
もちろん継ぎ獅子は単なる見せ物ではなく、神事であり厄払いの意味が込められています。その力強い動きは地域の平和と繁栄を祈るものです。
多様な伝承が語る継ぎ獅子の起源
その誕生や発展の経緯については、地域ごとにいくつかの異なる伝承が伝えられており、それぞれに信仰と誇りの思いが込められています。
【伝承①】妙釈寺・学信和尚の発案
その一つとして伝えられているのが、鳥生村にあった明積寺(妙釈寺)の僧・学信和尚が、三嶋神社(祇園町)の祭礼に獅子舞を取り入れたことが始まりであったとする説です。
元禄年間(1688〜1703年)は、神と仏を分け隔てなく祀る「神仏習合」の時代であり、神社と寺院が一体となって地域の信仰を支えることが一般的でした。
神は仏の仮の姿、(権現)とされ、仏教寺院の僧侶が神社の運営や神事に関与することも珍しくありませんでした。
こうした体制のもと、神社の実務や祭祀を担う仏教寺院は「別当寺(べっとうじ)」と呼ばれ、その住職(別当)は神職に準じる宗教的権限と責任を背負ってました。
明積寺も三嶋神社(祇園町)の別当寺として、神社と同じ境内にあり、「明積寺別当寺 三島新宮大明神」と記された棟札を社殿に掲げていました。
学信和尚は、別当寺の住職として神社の運営に深く携わるなか、氏神の祭礼が年々簡素になっていくことを憂い、次のように語ったと伝えられています。
「私たちの氏神さまである三嶋神社のお祭り、神輿渡御が、他の神社に比べてあまりにも質素で、祭神に対して申し訳ない。そこで、獅子舞の行列を新たに加えたいと考えております。誰か、舞を修めてくれる者はいないだろうか」
そう申し出た学信和尚は、自ら獅子頭一頭とその付属品一式を寄贈しました。
この申し出を受けて氏子総代たちは協議を重ね、獅子舞の修行役として庄平氏を選任。
そして庄平氏は春から秋にかけて伊勢方面へと赴き、伊勢大神楽の流れをくむ獅子舞を学び、帰郷後に村の若者たちへその技を伝えました。
これが、三嶋神社(祇園町)における獅子舞行列の始まりとされています。
【伝承②】「継ぎ獅子」の創始者・高山重吉
現在、私たちが目にする「継ぎ獅子」は、今治市鳥生出身の高山重吉(こうやま じゅうきち)氏によって確立されたものであり、これが今日に続く継ぎ獅子の正式な始まりとされています。
高山重吉は、弘化元年(1844年)に鳥生村に生まれました。明治初期、村人たちから「より立派な舞を氏神に奉納したい」との願いを受けた重吉は、伊勢方面へ獅子舞修行の旅に出ます。
全国各地の流派が集まる伊勢において、重吉は約一か月にわたる修行の末、48通りの流儀の中から、12通りの舞と芸を習得しました。
<修得内容>
- 舞の部:練り、すりがね、ひよしどり、曲
- 芸の部:三番叟(さんばそう)、キツネ、ダイバ、おやす、ころげ獅子、立ち芸、みそしる、獅子三番叟
帰郷後、重吉は地元の三嶋神社(祇園町)において、この新たな獅子舞を初めて奉納しました。
このとき演じられた舞は、それまでのものとは一線を画すもので、舞手が肩の上に立ち上がる「継ぎ」の所作を中心とした、力強く立体的かつ華やかな構成が特徴でした。これにより、たちまち地域の注目を集めました。
その後、この舞は「鳥生獅子(とうりゅうじし)」と呼ばれるようになり、石清水八幡神社を氏神とする周辺16村にも広まっていきました。
やがて、この獅子舞を広めた重吉への敬意から、地域の人々は彼を親しみを込めて「獅子重さん(ししじゅうさん)」と呼ぶようになったと伝えられています。
さらに、弟子たちの手によってその技法は今治全域に広まり、各地の春祭りでは神輿渡御の先導役として獅子舞が演じられるようになりました。
そして、当初は一部の関係者や愛好者の間で使われていた「継ぎ獅子」という呼び名が、次第に市民のあいだにも浸透し、やがて名称として定着していきます。
このようにして「継ぎ獅子」は、今治を代表する伝統芸能として、地域の人々の手によって今日まで大切に受け継がれてきました。
伝えられる高山重吉の功績
継ぎ獅子の礎を築き、その発展に尽くした高山重吉は、三嶋神社と祇園神社を挟んですぐ近くにある「実法寺(じっぽうじ)」に、静かに眠っています。
そして昭和49年(1974年)、その偉業をたたえて、両神社の境内には「獅子舞発祥ノ地」の石碑が建立されました。
そこには、郷土の芸能に命を注いだ高山重吉の名と功績が刻まれ、後世へと静かに語り継がれています。
【伝承③】塩田から伊勢の代々神楽
一方で、波止浜地区の高部(たかべ)に伝わる伝承によれば、鳥生よりも古くから地域に存在していたとされています。
江戸時代の波止浜と塩づくりの発展
江戸時代、波止浜地区は松山藩の領地に属しており、その港は古くから「筥潟湾(はこがたわん)」と呼ばれていました。
筥潟湾は、来島を入口とする奥行きの深い天然の入江で、風を避けやすく波も穏やかであったことから、船の停泊や荷揚げに適した良港として古くから重宝されてきました。
そしてもう一つ、筥潟湾の大きな特徴として挙げられるのが、一帯に広がる遠浅の干潟です。
潮の干満の差が大きく、広大な干潟が発達していたこの地域は、海水を引き入れて太陽の熱で蒸発させる塩づくり(塩田)にとって、まさに理想的な自然環境を備えていました。
このような条件を活かし、江戸時代に入ると藩の奨励もあって塩田の開発が急速に進められ、海岸沿いには次々と塩田が築かれていきます。
その後、塩問屋が設けられ、塩を求めて各地から商人や船が集まるようになると、波止浜の港は日増しににぎわいを増し、やがて町は瀬戸内でも有数の製塩地として、目覚ましい発展を遂げていきました。
祈りに支えられた塩づくり
一方で、塩田での作業は、天候や潮の流れに大きく左右される過酷な重労働でもありました。
台風や長雨、干ばつといった自然の変化は、塩の収穫に直結するため、現場では常に緊張感と隣り合わせの作業が続いていたのです。
そのため、塩田で働く人々にとっては、神仏に祈りを捧げることが日々の支えとなっていました。
地域には神社や寺が祀られ、春の祭礼や祈年祭などの節目には、塩の恵みと作業の安全を願う神事が、真摯に執り行われていたのです。
伊勢神宮から塩田に届けられた祈り
そうした信仰の風習のなかで、毎年春になると、伊勢神宮から「御師(おし)」と呼ばれる神職者が波止浜を訪れ、各地の塩田を巡ってはお祓いや神楽を奉納し、製塩の無事と豊作を祈願するようになりました。
なかでも、人々の記憶に深く刻まれたのが、「代々神楽」と呼ばれる神楽舞でした。
それは、一人の大人が肩にもう一人の大人を立たせ、上に乗った舞手が獅子頭をかぶり、扇や剣を手に、優雅に、そして力強く舞う。
まさに神々しさに満ちた光景でした。
「私たちの氏神様にも、あのような舞を奉納したい」
やがてその思いは、地域独自の「継ぎ獅子」のかたちとなって受け継がれていきました。
これが、高部に伝わる継ぎ獅子のもう一つの起源とされています。
高部から広がった獅子舞文化
高部の獅子舞は、江戸時代にはすでに八木家(八木作治・八木紋次)によって演じられていたと伝えられています。
この時代、獅子舞は高部に限らず周辺の地域でも広く行われており、互いに技術を学び合い、磨き合う風土が自然と育まれていました。
なかでも「鳥生の子(舞手)はうまい」と評判であったことから、高部の人々が鳥生へ練習を見学に出かけたり、逆に鳥生の舞手が高部に足を運んで舞を披露するなど、地域を越えた技の交流が活発に行われていたといいます。
明治時代になると、同じく八木家の八木光治氏が、獅子舞を「大浜」や「波止浜」へ伝え、さらに「杣田(そまだ)」には継ぎ獅子とあわせて「馬使い」の技も教えたとされています。
重なり合う伝承と地域のつながり
このように、継ぎ獅子の起源についてはさまざまな説が語り継がれており、どの地域でも似たような時期に始まり、互いに影響を与え合いながら、やがて今に伝わる継ぎ獅子の姿が形づくられていったと考えられます。
戦時体制下の継ぎ獅子
昭和初期になると、継ぎ獅子は今治市内各地の春祭りにおいて主役を担う存在となり、地域を挙げて盛大に奉納されるようになっていました。
華やかな衣装、勇壮な太鼓の響き、高く掲げられた獅子頭。
それは、地域の人々にとって心のよりどころであり、季節の訪れを実感させてくれる大切な風物詩でもありました。
しかし、日中戦争、そして太平洋戦争と、国を挙げての戦時体制が強化されていくなかで、こうした地域の祭りや芸能は次第に「ぜいたく品」や「不急不要の行事」とみなされるようになっていきます。
特に、昭和13年(1938年)に「国家総動員法」が施行されると、政府の統制は生活の隅々にまで及び、地方の祭礼や伝統芸能もその影響を免れることはできませんでした。
神社の祭礼は簡略化され、太鼓や衣装の修繕に必要な布や金具も入手が難しくなり、演者である若者たちは次々に兵役で戦地へ送られていきました。
演じる人も、道具を手入れする人もいなくなり、継ぎ獅子は舞台そのものを失っていったのです。
また、空襲の恐れや物資不足の中で、人々の心にも余裕がなくなっていきました。
生き延びることが最優先となる日々のなかで、「舞うこと」「見せること」そのものが忘れられていきます。
継ぎ獅子は、地域の記憶の中にかすかに残るだけの存在となっていきました。
しかし、人々の心から継ぎ獅子の記憶が消えたわけではありませんでした。
戦後復興と継ぎ獅子の復活
「もう一度、あの獅子舞を復活させたい」
そんな強い想いを胸に、戦地から帰ってきた若者たちが立ち上がりました。
終戦翌年の昭和21年(1946年)、彼らは「獅子連」と名乗る青年団を結成し、再び太鼓の音を地域に響かせ、失われた祭りの賑わいを取り戻そうと、継ぎ獅子の復興に乗り出したのです。
今治の町は、終戦前に3度にわたる空襲を受け、市街地の76%が焼失し、551人もの尊い命が奪われました。町の中心部は焼け野原と化し、人々の暮らしは根底から覆されたのです。
そんなふるさとに、もう一度太鼓の音を響かせ、地域に元気を取り戻したい。
継ぎ獅子の復活は、単なる伝統芸能の再興以上の価値がありました。
その姿は、地域の人々の心を大きく動かし、多くの賛同者を集めました。まさに地域が一体となって進めた継ぎ獅子の再興は、「復興の象徴」として受け入れられていったのです。
そして今治吹揚公園に、近隣の「獅子連(ししれん)」が集い、立ち芸の競演が行われたことをきっかけに、継ぎ獅子は今治城内の吹揚神社で行われる春祭で、毎年欠かさず奉納されるようになりました。
伊勢と今治を繋いだ“恩返しの舞”
1977年(昭和52年)10月15日・16日、高部の獅子舞は、継ぎ獅子の源流ともいえる伊勢の地で、歴史的な奉納演舞を果たしました。
舞台となったのは、日本の総氏神・天照大神を祀る伊勢神宮。
「より立派な舞を、私たちの氏神様に奉納したい」
かつて今治の人々が胸に抱いたその願いは、長い歳月を経て地域の中で磨かれ、代々受け継がれてきました。
そしてついに、その継ぎ獅子が憧れの伊勢で奉納される日を迎えたのです。
それは、伊勢と今治を結ぶ“恩返しの舞”であり、祖先への感謝と、ふるさとに生きる誇りを込めて奉げられた、かけがえのない舞台となりました。
紅白歌合戦での継ぎ獅子
以降、継ぎ獅子はさまざまな場所で奉納され、地域の祭礼や行事を彩る存在として広く親しまれるようになっていきました。
そして平成4年(1992年)、その伝統と技が大きく花開く瞬間が訪れます。
第43回NHK紅白歌合戦において、長年の功績が認められた高部獅子舞保存会が出演。全国放送の舞台で、代表的な演目「三継ぎ獅子」を披露しました。
複数の大人たちの肩の上に子どもが立つ、勇壮で緊張感あふれる立ち芸は、テレビの向こうの視聴者にも大きな驚きと感動を与え、継ぎ獅子の名は一躍全国に広まることとなりました。
この紅白出演は、継ぎ獅子にとっても、今治市にとっても、誇りと記憶に残る歴史的な出来事となったのです。
愛媛県指定無形民俗文化財
そして、このような長年にわたる保存と継承の努力が実を結び、平成12年(2000年)4月18日に「継ぎ獅子」は愛媛県指定無形民俗文化財に登録されました。
そして、今も地域の人々の手によって守られ、親から子へ、子から孫へと受け継がれています。
少子化のなかで伝統を受けつぐ
継ぎ獅子は、かつて20歳代の若者が中心となって担う伝統芸能でした。
15歳で「獅子連(ししれん)」に加入し、25歳になるか、あるいは結婚するまで活動を続けるという年齢階梯制があり、世代ごとの役割や節目は厳格に定められていました。
舞台の頂点で演じる「獅子児(ししご)」と呼ばれる役目は、小学生の子どもたちが担い、その健気で勇敢な姿は、継ぎ獅子最大の見どころともなってきました。
しかし近年では、少子化や地域の人口減少といった社会的変化により、従来の仕組みだけでは継続が難しくなりつつあります。
こうした状況に対応するかたちで、継ぎ獅子は保存会を中心とする新たな体制へと移行し、現在では年齢を問わず、地域に住む希望者であれば誰でも参加できる柔軟な形が取られるようになりました。
たとえかつての形式に変化があったとしても、「継ぎ獅子を守り、伝えていきたい」という地域の思いは、今も変わることはありません。
これからも継ぎ獅子は、地域の人々の手によって守られ、親から子へ、そして未来へと受け継がれていくことでしょう。