「円蔵寺(圓蔵寺・えんぞうじ)」は、京都府宇治市にある黄檗宗大本山「萬福寺(万福寺・まんぷくじ)」を本山とする、愛媛県内では数少ない黄檗宗(おおばくしゅう)の寺院です。
境内には、日本の一般的な寺院とは異なり、中国建築の影響を受けた「唐様(からよう)」の山門や華鐘楼(かしょうろう)が建立されています。これらの建築は、鎌倉時代以降に日本へ伝わった中国様式の特徴を色濃く受け継ぎ、黄檗宗の寺院ならではの独特な雰囲気を醸し出しています。
「黄檗宗」
黄檗宗(おうばくしゅう)は、日本に新たな禅の文化をもたらた、中国の福建省から渡来した隠元隆琦(いんげん りゅうき)禅師によって開創された禅宗の一派です。
隠元禅師は、江戸時代の1654年(承応3年)に日本へ渡り、後水尾法皇や徳川幕府の庇護を受けながら、1661年(寛文元年)に「萬福寺(万福寺・まんぷくじ)」を京都・宇治に創建、日本の黄檗宗の中心寺院としました。
萬福寺の建築や仏教儀式は、当時の中国・明朝の様式を色濃く受け継いでおり、従来の日本の禅宗とは異なる独自の特徴を持つ宗派として発展し続け、1679年にはその伽藍(寺院建築)がほぼ完成し、黄檗宗の寺院が全国に広がっていきました。
この中で円蔵寺が創建されることになりますが、その歴史はさらに古く、平安時代の前期に光定法師(こうじょうほうし)によって創建されたと伝えられています。
円蔵寺の歴史と変遷
伊予国風早郡の出身の光定法師は、延暦17年(798年)に20歳のとき出家し、山林で修行を重ねました。その後、大同3年(808年)に比叡山へ登り、最澄に師事して天台宗の教義を学びました。
やがて天台宗の開祖「最澄(最長)」から大乗戒壇設立の構想を託され、朝廷との交渉役を務め、嵯峨天皇より宸筆の戒牒を賜り、天台宗の確立に重要な役割を果たしました。
また、石槌山(石鉄山)の開山にも関わるなど、四国地方の仏教布教にも貢献しました。その一環として、嘉祥3年(850年)に円蔵寺の前身となる「野間郡波方郷八紫金光山円満如来蔵院(以下:円満如来蔵院)」が創建されました。
ただし、この頃の円満如来蔵院(現:円蔵寺)は現在の場所ではなく、波方村(現在の波方町)にある天王集会所、または半島四国第80番札所「お大師堂」の場所に建立されていたと伝えられています。
また、宗派も黄檗宗ではなく、天台宗の寺院であったと考えられます。
菩提寺として
やがて、円満如来蔵院は村上水軍の御三家の一つ「来島村上氏」に祟仰されるようになります。
鎌倉時代から南北朝時代にかけて、有力な武士や豪族などの在地勢力は、平地に館(居館)を構え、その近くに武家の守護神である八幡宮を祀り、さらに近隣の山腹や山麓に禅宗の菩提寺や真言宗の祈祷寺を建立することが一般的でした。
この時代、玉生城の城主を務めていた領主もこの形式に従い、住居として「波方古館」(現・白石明神社)を構え、氏神として玉生八幡宮を祀り、祈祷寺として真言宗の長福寺(現・長泉寺)を置きました。そして、その末寺として作られた円満如来蔵院が菩提寺の役割を果たしていたと考えられています。
やがて室町時代に入ると、来島村上氏は瀬戸内海での海上権益を掌握し、その影響力を強めていきました。この時代、瀬戸内海は海上交通の要所であり、多くの水軍勢力がしのぎを削る地域でした。
その中で、来島村上氏は瀬戸内海の制海権を確立し、水軍勢力としての地位を不動のものとしました。
こうした中で、在地勢力は来島村上氏の勢力下に組み込まれていきました。それに伴い、円満如来蔵院は来島村上氏の菩提寺となりました。
島村上氏の水軍としての終焉
時代は進み、関ヶ原の戦い(1600年)で西軍についた来島村上氏は敗北し、伊予国(現在の愛媛県)の領地を没収され、豊後国森藩に1万4000石で転封されました。
新たな領地である森藩は、現在の大分県玖珠郡周辺に位置し、山間の地形が特徴的な内陸の土地でした。この内陸地への転封により、瀬戸内海を制した水軍としての来島村上氏の歴史は終焉を迎えました。その後、来島村上氏は「久留島(くるしま)」と改姓し、陸上の領主として新たな道を歩むこととなりました。
そして、日本は約300年にわたる平和な江戸時代へと移行していきました。
江戸時代の塩田開発と波止浜の発展
江戸時代、波止浜は松山藩の領地で港周辺には広大な入り江「筥潟(はこがた)」が広がっていました。この地域は遠浅の干潟が特徴的であり、その地形が塩作りに理想的な条件を備えていました。
この地で初めて塩田の可能性を見出したのが、後に波止浜塩田の開祖とされる長谷部九兵衛(はせべきゅうべえ)でした。九兵衛は広島県竹原で塩田技術を学び、松山藩の支援を受けながら塩田の開発を進めました。
塩田開発と円蔵寺の移築
江戸時代に入ると、塩田開発が急速に進められ、塩田の築造とともに塩問屋が設立されると、各地から塩を買い付ける船が集まり、交易が活発化しました。
これによって人口は増加し、街は大きく発展、やがて波止浜は瀬戸内海有数の塩の産地として確固たる地位を築き上げていきました。
一方で、この発展とともに町民や塩田で働く人々の心の支えとなる場が必要とされるようになりました。
そこで、元禄4年(1691年)、松山藩四代藩主・松平定直公が、塩田に働く人々のために円満如来蔵院の移築を命じました。
この建立の際には、代官・林信秀が指揮をとり、菊間町の浜村・種村の街道並木の松の木100本を寄進し、野間郡から人夫500人を動員したと伝えられています。
こうして建てられた新たな寺院は「円蔵寺(円歳禅寺)」と寺名を指定され、宗派を黄檗宗に改められました。
円蔵寺の開山と鐘楼・山門の建立
円蔵寺の開山は、第6代萬福寺住持(住職)である「千呆(せんがい)」大林和尚によって行われました。
しかし、千呆和尚は自らを開山とはせず、自身の師の一人である「柏厳性爺(はくごん しょうや)」を正式な開山としました。
鐘楼の建立と「竜宮の門」
円蔵寺が開山されたから3年後の元禄7年(1694年)、当時の松山藩主・松平定直は、寺院の発展を願い、大鐘を鋳造し、新たに鐘楼を建立しました。この鐘には「元禄七年」の銘と願文が刻まれ、時代を超えて今日まで残されています。
さらに、この時期に、円蔵寺を象徴する重要な建築物の一つである唐風の山門が造られました。
この山門には、黄檗宗の開祖である隠元(いんげん)の法嗣(後継者)である「即非(そくひ)」が揮毫(きごう)した「護国山(ごこくざん)」の書印額が掲げられています。
「護国山」とは、国家の安泰や繁栄を祈る意味を持ち、寺院が地域と国を守る役割を担っていたことを象徴しています。黄檗宗の寺院では、こうした山号を掲げることが多く、円蔵寺もその例に倣って「護国山」の名が冠されています。
さらに、目の前が海であったため、この山門は「竜宮の門」と称されるようになりました。
円蔵寺の復興と改修の歴史
円蔵寺は長い歴史の中で幾度となく災害や変遷を経てきましたが、地域の人々の努力によって復興を遂げてきました。
昭和57年10月(1982年)、大火により庫裡(くり)が全焼し、本堂の一部も焼失するという大きな被害を受けました。しかし、檀家さんたちや地域住民の手によって復旧が進められ、円蔵寺は再びその姿を取り戻しました。歴史ある寺院を守るため、多くの人々が一丸となり、伝統と信仰を支え続けたことがうかがえます。
その後、平成17年6月(2005年)には、老朽化していた鐘楼門の改修が行われました。この鐘楼門は、元禄7年(1694年)に松山藩主・松平定直によって建立されたもので、円蔵寺の象徴的な建築のひとつでした。しかし、長い年月の経過により修復が必要となり、改修工事が実施されました。
また、戦時中に供出されて失われていた梵鐘(ぼんしょう)も、この機会に再び作り直されました。かつて円蔵寺には、元禄7年(1694年)の銘が刻まれた歴史的な梵鐘が存在していましたが、第二次世界大戦中の金属供出令によって失われてしまいました。鐘楼門の改修とともに、新たに鋳造された梵鐘が設置され、再び円蔵寺に鐘の音が響くようになりました。
円蔵寺の本堂と格式を示す篇額
本堂には、開山を務めた千呆和尚(せんがいおしょう)の「福寿海(ふくじゅかい)」の篇額(へんがく)が掲げられています。「福寿海」は、仏教において福(幸福)と寿(長寿)の広がりを象徴する言葉であり、円蔵寺が信仰の拠り所として、多くの人々の安寧を願う寺であることを示しています。
最上段には黄檗宗の開祖・隠元禅師の「紫光金(しこうきん)」の篇額が飾られています。
「紫光金」は、仏教の深遠な智慧とその輝きを表し、隠元禅師の教えを讃える意味が込められています。
芭蕉天満宮と文化の名残
境内には、俳人「松尾芭蕉(まつおばしょう)」の石碑が立ち、さらに地元の俳人である「守田陽山(もりた ようざん)」と「守田北洋(もりた ほくよう)などの句碑が設置されています。
また、元禄年間(1688年〜1704年)に九州薩摩出身の「當山初代・大休燁(だいきゅうよう)」和尚が、河内国(現在の大阪府藤井寺市)にある道明寺天満宮(道明寺)より神像を受け、勧請(かんじょう)した芭蕉天満宮(ばしょうてんまんぐう)も鎮座しています。
道明寺天満宮は、天暦元年(947年)に創建された神社であり、平安時代の学者・詩人・政治家である菅原道真公(すがわら の みちざね)を祀っています。道真公は、その卓越した学識と文化的功績から、学問の神様・文化の神様として広く信仰されており、現在も受験生や学者、文化人から厚く崇敬されています。
また、道明寺天満宮は、俳聖松尾芭蕉が訪れた地としても知られています。芭蕉は、元禄元年(1688年)4月13日にこの神社を訪れ、学問の神である道真公への信仰と、俳句の精神が交わる場としてその足跡を残しました。
この縁が、円蔵寺の芭蕉天満宮へと受け継がれ、俳句文化が響き合う場所として今も大切にされています。
円蔵寺に残る太平洋戦争の記憶
円蔵寺の境内には、今治空襲で殉難した松山城北高等女学校(現:松山北高校)と松山高等女学校の生徒たちの慰霊碑が建立されています。
今治空襲は、太平洋戦争の末期に米軍によって行われた無差別爆撃のひとつであり、特に昭和20年(1945年)4月26日、5月8日、そして8月5日から6日にかけての大規模な空襲によって、市内は壊滅的な被害を受けました。
今治市は戦略的に重要な都市とみなされていました。その理由の一つが、瀬戸内海沿岸に位置する港町としての役割と、軍需関連施設や造船業が存在していたことです。米軍はこれらの施設を攻撃目標とし、大規模な爆撃を実施しました。
しかし、その実態は軍事施設への攻撃ではなく、無差別な破壊行為でした。学校、病院、住宅地といった非戦闘地域も容赦なく標的とされ、多くの罪なき市民が命を落とました。
また、米軍戦闘機は爆撃だけではなく、低空飛行での機銃掃射(きじゅうそうしゃ)も行い、逃げる人々に向けて無慈悲な銃撃を浴びせたのです。
この中で、両校の女子生徒24名が犠牲となりました。
昭和20年(1945年)8月5日、松山城北高等女学校(現:松山北高校)と松山高等女学校の女子生徒たちは、学徒動員として今治市の倉敷紡績(現在の今治市営球場)で働いていました。
しかし、その日の夜に突如として大きなサイレンが鳴り響きました。空襲警報です。
爆撃の中、生徒たちは避難のため波止浜街道の馴合坂(なれあいざか)へ向かいました。しかし、それを見つけた米軍戦闘機が彼女たちに向けて機銃掃射を浴びせ、多くの死傷者を出しました。
また、死亡者や重傷者は木原興業に収容されたものの、戦時下において満足な治療を受けることはできず、最終的に松山高等女学校の生徒2名、松山城北高等女学校の生徒22名が命を落とした。
そのご遺体は、学徒動員で倉敷紡績で働いていた小松中学・今治工業中学の男子生徒たちの手によって運ばれました。彼らは高部地区から荷車を借り、遺体を円蔵寺から約1キロ離れた波方の動仙鼻(とうせんばな)まで運び、そこで茶毘(火葬)に付しました。
火葬後、その遺骨の大部分は松山に持ち帰られ、大浦山の墓地に埋葬されました。しかし、霊が安らかに眠ることを願い、遺族が持ち帰った遺骨の一部が円蔵寺にも埋葬され、心を込めて供養法要が行われました。
それから6年後の昭和26年(1951年)11月、愛媛県立松山城北高等女学校の同窓生有志によって、松山の護国神社の境内に「殉職女子学徒追悼之碑」が建立されました。以来、松山市内に住む旧友ら有志が清掃や献花などの奉仕を続けてきました。
後日、このことを知った柳沢金一馬(伊予郡双海町出身)は深く感銘を受け、永遠の霊を弔うために円蔵寺境内にも死亡者全員の名前を刻んだ墓碑「殉職女子学徒の碑」を建立しました。
永遠の祈りが刻まれた合同位牌
位牌堂には、戦争で犠牲となった女学生の刻んだ合同位牌(ごうどういはい)が安置されています。 これは、生き残った同級生たちが、自らの手で作り上げたものであり、亡き友への深い哀悼と、戦争の記憶を後世に伝えるための誓いが込められています。
毎年8月22日の施餓鬼法要の日には、この合同位牌が本堂に供えられ、数名の僧侶によって手厚い供養が行われています。 この日、当時の同級生たちは、一度も欠かすことなくこの地に集い、静かに手を合わせ続けてきました。
戦後50年の節目には、数十名の同級生たちが円蔵寺に集まって供養の儀式を執り行いました。その精神は今も受け継がれ、円蔵寺は祈りと記憶を繋ぐ大切な場として存在し続けています。