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古くから信仰を集めてきた神社の由緒と、その土地に根付いた文化を紹介。

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人々の心のよりどころとなった寺院を巡り、その背景を学ぶ。

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時代ごとの歴史を刻む史跡を巡り、今治の魅力を再発見。

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綱敷天満神社・古天神(今治市・桜井地区)

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今治市で綱敷天満といえば、多くの人が思い浮かべるのは、桜井・志島ヶ原に鎮座する「綱敷天満神社・新天神」です。

美しい松原と白砂に囲まれたこの神社は、地元の人々から「綱敷天満宮」と呼ばれ、学問の神として知られる菅原道真公を祀る社として、長く親しまれてきました。

特に受験シーズンには、合格祈願に訪れる参拝者でにぎわいを見せるなど、今もなお厚い信仰を集めています。

さて、そんな志島ヶ原の綱敷天満神社から、徒歩わずか5分ほどの場所…今治市古国分の一角にも、もう一つの「綱敷天満神社」が存在しているのをご存じでしょうか?

地元では「古天神」「古天神社」「古国分神社」などとも呼ばれるこの社も、やはり菅原道真公と深い縁をもつ神社です。

一つの地域に、二社の綱敷天満神社。

しかもどちらも、菅原道真公とゆかりの深い社。

いったい、なぜこのような不思議な状況が生まれたのでしょうか?

実はこの背景には、かつて日本全国で行われていた神仏習合の時代に起きた、ある重大な出来事が関わっています。

それではまず、この謎を解く鍵となる「綱敷天満神社の歴史」をひもといてみましょう。

「学問の神」菅原道真の栄光と悲劇

菅原道真公は、平安時代の貴族の中でも際立った才能を持ち、学者、漢詩人、そして政治家として多方面でその能力を発揮していました。幼少期から天才的な資質を示し、5歳で既に漢詩を作ったと伝えられています。

道真公は右大臣として醍醐天皇に仕え、国家の重要政策に携わりました。道真公が行った政策は、学問と知識に基づいた理性的なもので、当時の政治に大きな影響を与えました。

特に、学問と政治を結びつけた政策が多くの支持を集めました。

しかし、道真公の卓越した才能は、やがて嫉妬の的となります。道真公の力を脅威と感じた藤原時平(ふじわら の ときひら)は、自らの権力を維持し、藤原氏の勢力を拡大するために、道真公を排除しようとしました。

昌泰4年(901年)、藤原時平は「道真が醍醐天皇を廃し、道真の娘が嫁いだ斎世親王(ときよししんのう、醍醐天皇の弟)を擁立しようとしている」と虚偽の告発を行いました。

この告発には何の証拠もありませんでしたが、道真公は弁解する機会も与えられず、道真は「太宰権帥(だざいごんのそち)」という名目で、九州にある筑紫国(現在の福岡県の東部を除く地域)の太宰府へ左遷されました。

「太宰権帥」は、太宰府という古代の役所における副長官の役職で、太宰府は、当時の九州全体を統治・管理するための重要な政治的拠点がありました。

しかし、道真にとってこの左遷は、事実上の流刑と同じ意味を持っており、都から遠く隔離された厳しい運命を強いられたのです。

綱敷天満神社に伝わる救助劇

左遷を命じられた道真公は、家族を都に残して、十挺櫓(じゅっちょうろ)の屋形船に乗り、大宰府へ向かいました。当時の航海は非常に危険で、道真公の乗った船も例外ではありませんでした。

航海中、予州の迫門(愛媛県西条市の壬生川沖)で嵐に遭遇し、船が沈みそうになります。

この海域(桜井沖)は潮の流れが速く、難所として知られていました。

その時、広川修善(綱敷天満神社の宮司の先祖)と地元の漁民たちが道真公一行を見つけ、急いで救助に向かいました。

一旦、道真公を志島の東端に運びましたが、急を要したため敷物がなく、漁船の綱を丸めて敷きました。

この出来事が後に「綱敷天神」という社名の由来になります

また、道真公が濡れた烏帽子や冠、装束を近くの岩に干したことから、その岩は「衣干岩」と呼ばれるようになりました。

無事に一命を取り留めた菅原道真公に対して、地元の人々は小魚を献上し、道真公の無事を祝いました。

地元の人々から温かいもてなしを受け、その感謝の気持ちを示すため、菅原道真は自分の手で、舵柄(かじづか)」、つまり船を操縦するときに握るハンドル部分を素材として使い、自分の像を作り上げました。

そして「もし私が帰京したら、この像を都へ持ってくるように。

しかし、筑紫国で没した場合はこの像を祀るように」と告げ、再び船に乗って太宰府へと出港しました。

太宰府での過酷な生活

その後、なんとか太宰府に到着した道真公でしたが、そこで待ち受けていたのは非常に過酷な生活でした。

ここまでの移動費はすべて自費で賄わなければなかず、到着後も俸給や従者は与えられず、政務に就くことも禁じられていました。

衣食住もままならず、与えられた住居は雨漏りする粗末なバラック小屋でした。

それでも自分自身を律し、孤独に耐え続けましたが、過酷な現実を前に道真公は心身ともに衰弱していきました。

「いつかまた、都に戻りたい」という強い気持ちを抱き続け、ひたすら過酷な生活に耐え抜いた道真公でしたが、ついにその願いは叶うことはありませんでした。

そして左遷から2年経った延喜3年(903年)2月25日、道真公は病に倒れ、太宰府(筑紫国)で亡くなりました。

この左遷は政治的な追放でありながらも、実質的には死刑に等しいものでした。

都から遠く離され、厳しい環境の中での生活が心身ともに道真公を追い詰め、最期を迎えさせる結果となったのです。

「綱敷天満神社」の誕生

この悲報を聞いた郡司の越智息利と地元の人々は深い悲しみに包まれ、道真公の功績を偲ぶため、天慶5年(942年)に小さな社(やしろ)を建て、道真公の御尊像を「素波神(そばがみ)」として祀り始めました。

そしてこの小社は、道真公が志島(現在の今治市桜井地域)の東端に避難した際、地元の住民が漁船の綱を敷物としてもてなしたことに由来し、「綱敷天満神社」と名付けられました。

実はこのとき建立された綱敷天満神社は、現在の志島ヶ原ではなく、古国分の「古天神」の地に建てられていました。

つまり、綱敷天満神社の本社(本家)は古天神だったということになります。

今治藩主との深い結びつき

その後、「綱敷天満神社(古天神)」は代々の国司から深い崇敬を受け続け、今治藩主にとっても重要な信仰の対象となりました。

毎年の大祭には、藩主自らが参拝するのが恒例となり、神社は藩や地域にとって重要な宗教的な中心地となっていました。

江戸時代に入ってもこの伝統は受け継がれ、「綱敷天満神社(古天神)」での祭礼は途切れることなく続けられ、地域の人々にとっても重要な宗教行事としての役割を果たし続けてきました。

例えば、延宝3年(1675年)6月4日、今治藩の2代藩主である美作守定時が古国分村を訪れ、引退後の住まい(御隠居所)を視察し、その後に神社(古天神)へ参詣したという記録があります。

この訪問は、藩主が地域の重要な場所や神社を確認し、信仰の場を尊重する行動として記されています。

また、貞享元年(1684年)8月24日には、3代藩主である駿河守定陳が古国分の天満天神に参拝したという記録も残っています。

この参拝からも、地域の神社に対する敬意を示す行動として、今治藩主たちが宗教施設に積極的に関与していたことがわかります。

神輿は出させない!?神社と寺の摩擦

宝永7年(1710年)、綱敷天満神社・古天神では神輿の宮出しが始まり、地域の重要な祭礼行事として人々に親しまれるようになりました。

この祭礼を取り仕切っていたのが、別当寺である国分寺(こくぶんじ・伊予国分寺)です。

当時は神道と仏教が深く融合した「神仏習合」の時代であり、神社には仏教寺院が別当寺として付き、祭礼や社務の運営に深く関与していました。

国分寺も別当寺として長年この体制を担ってきましたが、やがて信仰の違いが思わぬ形で表面化し、大きな摩擦を生むことになります。

祭礼でのトラブル

正徳3年(1713年)の祭礼当日、神主は特に深い意味もなく、神前に2尾の鰡(ぼら)を供えました。

しかしその瞬間、別当寺として神社を監督していた国分寺の僧侶たちの表情が一変します。

仏教では古来より「不殺生戒(ふせっしょうかい)」と呼ばれる教えがあり、あらゆる命を奪うことを厳しく戒めています。

特に出家した僧侶にとっては、生き物を殺す行為だけでなく、その亡骸を供物として用いることも重大な禁忌とされていました。

そのため、神前に魚を供える行為は、たとえ悪意のないものであっても、彼らにとっては信仰心を踏みにじる行為に等しく映ったのです。

僧侶たちはこれに激怒し、享保4年(1719年)までの7年間、天神での宮出し(神輿を出す儀式)を禁止してしまいました。

お神輿のない祭礼は、まるで魂を抜かれたように活気を失い、かつての喧騒は消え、社殿はひっそりと静まり返る日々が続きました。

桜井・旦の氏子が下した決断

この事態に、桜井村(現・桜井)や旦(現・旦村)の氏子たちは深く頭を悩ませました。

お神輿が出せないままでは、代々受け継がれてきた村の誇りである祭りが、このまま途絶えてしまうかもしれません。

「何とかして祭りを続けたい」

―その思いは日を追うごとに強まり、ついに彼らは一つの大きな決断に至ります。

それは、国分寺が鎮座する古国分村(現・古国分)の氏子たちと袂を分かち、「綱敷天満神社・古天神」から独立して新たな神社を設立するというものでした。

藩境を越える信仰とその難しさ

享保5年6月28日(1720年)、ついに桜井・旦の氏子たちが立てた新社創建の計画は、藩主・松平定国(まつだいら さだくに)によって正式に許可されました。

この決定は、7年間にわたって続いた祭礼の停滞に終止符を打ち、村々に再びお神輿の賑わいと誇りを取り戻す道を開くものでした。

同時に、それは古くから一つであった天神信仰が、藩境を隔てて二つに分かれ、それぞれの土地で独自の歩みを始める歴史的な瞬間でもあったのです。

この決断の背景には、「綱敷天満神社(古天神)」が異なる藩の人々によって共に信仰されていたことが、大きく関係していた可能性があります。

実はこの当時、古国分は今治藩に、そして桜井や旦は松山藩に属していました。

こうした藩をまたいだ信仰の管理は非常に難しく、祭礼や神事の運営において藩ごとの利害や管理の問題が発生することもあり、藩境を調整が必要だったと考えられます。

二つの綱敷天満神社

藩主から正式な許可を得た桜井・旦の氏子たちは、長らく抑えてきた喜びを胸に、新たな神社の建立へと一気に動き出しました。

選ばれたのは、志島ヶ原に古くから鎮座していた荒神社の地。ここに太宰府天満宮から御分霊を丁重に勧請し、「荒神天神」として祀り始めます。
これが、今日の志島ヶ原近くに鎮座する「綱敷天満神社・新天神」の起源です。

一方で、かつてより「綱敷天満神社」として親しまれていた古国分の社は、いつしか「古天神(ふるてんじん)」と呼ばれるようになりました。

そして、それと対をなすかたちで、志島ヶ原の新たな社は「新天神(しんてんじん)」として地域に定着していきました。

二つの天神さまの歩みと現在

こうして、一つであった天神信仰は二つの社に分かれ、それぞれが地域の人々に支えられながら独自の歴史を歩んできまし

その後の「綱敷天満神社・古天神」ですが、寂れることはなく「郷社(ごうしゃ)」に、「綱敷天満神社・新天神」は「県社(けんしゃ)」としてそれぞれ発展し、地元で親しまれる存在となっていきました。

「郷社」とは、地域社会に根付いた中級の神社で、住民の暮らしを守る氏神として篤く信仰される神社です。

一方、「県社」は県全体で重要視され、広範囲にわたる人々から崇敬を集める中心的な神社を指します。

江戸時代から現代に至るまで、桜井の地には“ふたつの天神さま”が並び立ち、祭礼の賑わいや日々の祈りを通して、今も変わらず地域の暮らしに溶け込んでいます。

現在も、二つの綱敷天満神社は多くの受験生が合格祈願に訪れる場所として知られています。

特に春になると、道真公が愛した梅の花々が両社の境内で一斉に咲き誇り、その香りとともに訪れる人々をやさしく迎えてくれます。

学業成就を願う人々の祈りとともに、長い歴史を静かに見守ってきた二つの天神さま。

ぜひ一度、「古天神」と「新天神」を歩いて巡り、この土地に息づく歴史と信仰の物語を、肌で感じてみてはいかがでしょうか。

神社名

綱式天満神社(つなしきてんまんじんじゃ)・古天神(ふるてんじん)

所在地

愛媛県今治市桜井1丁目10−21

主な祭礼

例大祭(5月5日)

主祭神

菅原道真神(すがわらみちざねのかみ)

境内社

荒神社・風呂神社・厳島神社・素波神社・住吉神社

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