乃万地区の北西部、「覚庵(かくあん)」と呼ばれる田園地帯には、歴史的・文化的に貴重な史跡が数多く点在しています。
その一角、やや小高い丘の上に鎮座するのが、旧野間村の村社である「日吉神社(ひよしじんじゃ)」 です。
この神社は、かつて「十禅宮」や「天降神社」とも称されており、長きにわたって地域の人々から篤く崇敬され、地域の守護神としての役割を果たしてきました。
日吉神社の創建と由来
日吉神社の創建は、平安時代初期の弘仁元年(810年)。
嵯峨天皇(さがてんのう)の勅命を受けた伊予国の国司・越智実勝(おち さねかつ・越智宿弥実勝)が、国の鎮護と五穀豊穣を祈願するため、近江国坂本(現在の滋賀県大津市)に鎮座する日吉山王宮(現・日吉大社)より、神霊「日吉大神(ひよしおおかみ・ひえのおおかみ)」を勧請し、社殿を建立しました。
この勧請は、当時の中央と地方との精神的なつながりを示すものであり、日吉神社は以来、野間地域における「守護神」として千年以上にわたり人々から篤く信仰されてきました。
日吉大神とは
日吉大神は、滋賀県大津市・比叡山の麓に鎮座する日吉大社(旧:日吉山王宮)に祀られる神々の総称です。
日吉大社は、崇神天皇7年(紀元前91年)に創祀されたと伝えられ、全国に約3,800社ある日吉・日枝・山王神社の総本宮とされています。
「山王七社」などを含む約40の摂社・末社があり、それらに祀られる神々が一体として「日吉大神」と称され、厄除け、国土安泰、五穀豊穣の神として古来より広く信仰されてきました。
日吉大神を構成する神々のうち、中心となるのは以下の二柱の神です。
- 大己貴神(おおなむちのかみ):別名・大国主命(おおくにのしのみこと)。国造り、農業、医療、縁結びの神として知られ、特に慈悲深い守護神として広く崇敬されています。日吉大社では西本宮に祀られています。
- 大山咋神(おおやまくいのかみ):山と水の神。地主神として、比叡山の自然を司る神であり、東本宮に祀られています。
神仏習合と守護神としての信仰
その長い歴史の中で、日吉大社は比叡山延暦寺の守護神としても重要な役割を果たしてきました。
延暦寺の開祖・伝教大師最澄が比叡山に天台宗の根本道場を開いた際、この山の地主神である大山咋神(おおやまくいのかみ)を深く敬い、山の守護神として祀ったことが始まりです。
やがて、この神は「山王権現(さんのうごんげん)」と称され、神仏習合の象徴的な存在となりました。
寺院と神社が一体となって国や地域を守るという独自の宗教観が形成され、全国へと広まっていきます。
「日吉(ひよし)」の呼称は、かつて「日枝(ひえ)」とも書かれ、古くは「ひえ」と読まれていました。比叡山(ひえいざん)の名も、この古い読み方に由来するとされます。
平安時代にはすでに「ひえ」と「ひよし」の両方の読みが併存しており、近世以降は「ひよし」が一般化しました。
こうした呼称の変遷にも、日吉大社と比叡山、延暦寺との深いつながりがうかがえます。
このような背景のもと、日吉大神は国家鎮護・厄除けの神として全国に勧請され、伊予の地にもその信仰が伝わりました。
乃万地区の日吉神社もまた、延暦寺と日吉大社の精神的な系譜を受け継ぎ、千年以上にわたり地域の守護神として篤く祀られ続けています。
現在の日吉神社と祭神
そうした長い信仰の歴史の中で、社殿も時代の変化に応じて幾度となく修復・再建が重ねられています。
現在の拝殿は、江戸時代後期の天保11年(1840年)に建立されたもので、当時の神社建築様式や地元の大工技術を今に伝える貴重な遺構です。
さらに、本殿および中殿は昭和4年(1929年)に再建されたもので、戦前期の神社建築として歴史的・文化的にも高い価値を有し、往時の信仰の姿や地域の風景を今にとどめています。
主な祭神
日吉神社に祀られる神々は、自然崇拝と国家鎮護の思想を基盤に、地域の暮らしや精神文化と深く結びついた存在です。
- 天津彦火瓊瓊杵命(あまつひこほのににぎのみこと)
天照大神の御孫神であり、「天孫降臨」の神話に登場する神。稲作や農耕の豊穣、国家の繁栄を司る神格をもちます。 - 天太玉命(あめのふとだまのみこと)
神事・祝詞・言霊の神として、古代祭祀において重要な役割を果たした神。祭祀氏族である忌部氏の祖神とされます。 - 天児屋根命(あめのこやねのみこと)
中臣氏(のちの藤原氏)の祖神で、政治や言霊、祭祀の神格を持ち、春日大社の主祭神の一柱でもあります。 - 大山祇命(おおやまづみのみこと)
山の神として信仰され、農業・水・山林資源を司ります。特に愛媛県では大山祇神社(大三島)を中心に広く崇敬されており、日吉神社境内の熊野神社にも祀られています。
これらの神々は、それぞれが地域の自然や暮らしを守護する存在として祀られ、今日に至るまで地域住民の厚い信仰を集めています。
合祀宮・岡部神社
日吉神社の境内には、この地の歴史と密接に結びついた「岡部神社」が鎮座しています。
こ神社には、戦国時代に野間の地を治めた二人の武将の御霊が、夫人とともにそれぞれ「岡部霊神」「高田霊神」として一つの社殿に合祀され、合祀宮として祀られています。
「岡部霊神」重茂山城主・岡部十郎国道公夫妻
岡部霊神として祀られているのは、重茂山城(今治市野間の西側)を治めていた武将、岡部十郎(岡部十郎国道)公と衣夫人です。
岡部氏は、武蔵国岡部村に起源を持つ坂東武者の名族で、源氏の家人として平治の乱などに参戦し、後に伊予へ移住。
四代目・通綱の時代に河野道有に従って元寇の戦で功を立て、重茂山城主に任じられたことで、伊予における岡部氏の歴史が始まりました。
国道公は、河野家の名将として知られ、特に日吉神社への崇敬が篤く、天正3年(1575年)には「門九神像」を奉納。これは現在、国の重要文化財に指定されています。
岡部神社は、岡部氏のほか、高頃氏、片上氏、大河内氏、長橋氏など地域の名家・旧家の祖神として信仰されてきました。
「高田霊神」重門山城主・高田左衛門進公夫妻
高田霊神として祀られているのは、重茂山の東に位置する重門山城を守った武将、高田左衛門進公(高田左衛門尉通成公)と操夫人です。
通成公もまた、河野家の重臣であり、岡部国道公と共に伊予の防衛を担った人物です。
両武将と城にまつわる伝承
岡部十郎公と高田左衛門進公は、戦国時代に共に河野家の家臣として、西側の重茂山城と東側の重門山城を守っていました。
しかし、天正13年(1585年)、豊臣秀吉による四国征伐が行われ、小早川隆景の軍勢が伊予に侵攻。両城は攻められて落城し、両武将は降伏を余儀なくされたと伝えられています。
ただし、この落城や両将の関係については、地域に複数の伝承が残されています。
- 二城別々説
重茂山城(西側)には岡部十郎が、重門山城(東側)には高田左衛門進がそれぞれ居住し、両城を協力して防衛していたという説。現在の今治市山之内地区「上の城」が重門山城跡とされることがあります。 - 一城交代説
重茂山城は一つの城で、岡部氏と高田氏が交代で守備を担当していたという説。時代の流れの中で両家が番代で城を管理していたとする見解です。 - 年代交代説
岡部十郎は重茂山城の前代または初期の城主で、落城当時はすでに現役を退いており、天正13年の戦では高田左衛門進が城主であったとする説。 - 非戦開城説
河野通直と小早川隆景が親戚関係にあったため、戦闘は行われず、交渉により開城・降伏したとする説。これにより両武将の命も守られたと伝えられます
両将の最期についての詳細は伝わっていませんが、地元には彼らを弔う墓所とされる伝承が残されています。
「野間覚庵 五輪塔」岡部十郎夫妻の墓
野間部落北西の通称「覚庵(かくあん)」と呼ばれる田園地帯には、岡部十郎夫妻の墓と伝えられる二基の巨大な五輪塔があります。
花崗岩製で、いずれも刻字はないものの、鎌倉時代の様式を色濃く残し、石造美術としても非常に貴重です。
平成元年(1989年)には解体修理も施され、現在は国の重要文化財に指定されています。
- 大五輪塔:総高240cm(基壇含む265cm)
- 小五輪塔:総高220cm(基壇含む245cm)
「厳島神社・野間」高田左衛門進公の墓
高田左衛門進公の墓とされる五輪供養塔は、日吉神社から北へ約四丁(約400m)の場所にある厳島神社の裏山に位置しています。
周辺には山本氏、山元氏、二宮氏、越智氏など、通成公の末裔と伝えられる家々が今なお暮らしています。
これらの墓所は、両武将の実在とその地域における影響力を伝える、貴重な歴史遺産です。
合祀と岡部神社の再建
その後、岡部十郎公と高田左衛門進公の霊は、旧野間村の日吉神社に合祀され、地域の守護神として祀られるようになりました。
昭和10年(1935年)には両社が正式に合祀され、岡部神社として改称されています。
昭和26年(1951年)には高田霊社とともに三七五年祭が執り行われ、長年にわたり信仰が絶えることなく継続されています。
さらに、日吉神社境内にあった岡部神社の老朽化に際し、今治の老舗「魚貞蒲鉾店」の岡部氏からの寄付の申し出を受け、野間部落が中心となって再建委員会を立ち上げ、平成30年(2018年)に社殿が再建されました。
こうして、現在も岡部神社は静かにこの地に鎮まり、野間の歴史と誇り、そして祖神を敬う人々の心を、今に伝え続けています。
「折敷揺れ三文字」河野氏との繋がり
日吉神社には、河野家とその家臣たちとの繋がりを示す「折敷揺れ三文字」の家紋が見られます。
この家紋は、河野家が氏神として篤く崇敬していた大山祇神社の神紋でもあり、四角い折敷の中に揺れるように描かれた「三」の文字が特徴的です。
この「折敷揺れ三文字」は、河野氏の一族やその家臣にとって特別な意味を持つ家紋であり、日吉神社においてもその紋が見られるこから、河野氏や家臣団にとって重要な信仰の場であったことが伝わってきます。
また、日吉神社に合祀されている岡部十郎公および高田左衛門進公が、河野氏の重臣として長年仕えていたことから、この家紋の使用が両家に許されていた可能性も考えられます。
その家紋には、激動の戦国期にあっても変わらぬ忠誠と、主従関係の深さ、そして信仰の厚さが象徴されており、現在に至るまで地域の人々の心に語り継がれています。