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古くから信仰を集めてきた神社の由緒と、その土地に根付いた文化を紹介。

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人々の心のよりどころとなった寺院を巡り、その背景を学ぶ。

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春日神社(今治市・桜井地区)

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「春日神社(かすがじんじゃ)」は、奈良時代から続く国分寺と深く結びついており、歴史的にも宗教的にも重要な役割を果たしてきました。

創建と国分寺との関係

春日神社の創建は、後冷泉天皇の治世である永承五年(1050年)にさかのぼります。

この年の8月、国分寺の第十二代住職であり、寺院運営や地域信仰の中核を担う高位の僧職「権大僧都(ごんだいそうず)」であった雲海(うんかい)が、奈良の春日大社の祭神「春日大明神」を国分寺の鎮守として勧請し、寺内に社殿を建立しました。

これが、春日神社の起源とされています。

春日大明神とは

春日大明神(かすがだいみょうじん)とは、奈良の春日大社に祀られる四柱(よはしら)の神々の総称です。

  1. 「武甕槌命(たけみかづちのみこと)」雷と剣を司る勇猛な武神であり、出雲の国譲り神話で大国主命と対峙したことで知られています。戦勝の神として武士階級にも崇敬されました。
  2. 「経津主命(ふつぬしのみこと)」鋭利な剣の神格を宿し、武甕槌命と共に国譲りに赴いた征服神です。千葉県の香取神宮に祀られることで知られ、国家鎮護の神として信仰されています。
  3. 「天児屋根命(あめのこやねのみこと)」天照大神を岩戸から導き出すため祝詞を奏上した神であり、神事・祭祀の守護神です。藤原氏の祖神でもあり、春日信仰の中核的存在です。
  4. 「比売神(ひめがみ)」女性神の総称として祀られ、春日大社では他の三柱と並んで祀られる存在です。具体的な神名は諸説ありますが、母性や豊穣の神として信仰されています。

これらの神々は、国家の安泰や武運長久を祈願する重要な神々として、古代より篤く信仰されてきました。

藤原氏の信仰

春日大明神は、奈良時代から平安時代にかけて日本の政治を主導した藤原氏にとって、氏神として篤く信仰され、精神的支柱ともいえる存在でした。

このため、奈良の春日大社は、藤原氏の氏寺である興福寺と並び、いずれも藤原氏の宗教的拠点として機能し、その政治的権勢を支える重要な基盤となっていました。

伊予国・国分寺における春日信仰の広がり

藤原氏の一門が伊予を含む地方に赴任した際、その影響力は政治のみならず、地域の信仰にも強く反映されました。

伊予国(現在の愛媛県)において、春日大明神を国分寺の鎮守として祀ったことは、藤原氏の信仰と政治的権威を地域社会に浸透させる象徴的な出来事であったといえるでしょう。

境内社「福島神社」の由来と春日神社への合祀

春日神社には、福島正則の神霊を祀っている「福島神社」が合祀されています。

その歴史は、関ヶ原の戦い後の伊予国における統治体制の再編に始まり、短い期間ながらもこの地に深く関わった福島正則、そして今治城を築城した藤堂高虎の足跡が刻まれています。

関ヶ原の戦いと領地の再編

慶長5年(1600年)、日本の歴史を大きく変えた関ヶ原の戦いが行われました。この戦いで、徳川家康率いる東軍が勝利を収め、全国の大名たちの領地が再編成されることになりました。

伊予国(現:愛媛県)もその例外ではなく、東軍に属していた藤堂高虎(とうどう たかとら)と加藤嘉明(かとう よしあきら)の二人によって分割統治されることが決まりました。

藤堂高虎は、戦いの前から伊予板島(現在の宇和島)に八万石の領地を持っていましたが、関ヶ原の戦いでの功績が評価され、領地が二十万石に引き上げられました。

一方、加藤嘉明は伊予松前(現在の松山市)に十万石を領していましたが、同じく功績により二十万石に引き上げられました。

この領地の引き上げは、戦前に西軍に属していた安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)、来島康親(くるしま やすちか)、小川祐忠(おがわ すけただ)らの領地が東軍側に分割され、再配置されたことによるものでした。

この結果、新たな統治体制のもとで再編成された伊予国は、府中平野(現在の今治市周辺)を含む広範な地域に藤堂氏と加藤氏の所領が混在する形となりました。

村上水軍よって築かれた山城「国分山城」

藤堂高虎が伊予国の統治を任された際、その居城となったのが国分山城(国府城・唐子山城)です。

この城は、もともと村上水軍御三家の一つ能島村上氏の第5代当主・村上武吉(むらかみ たけよし)によって築かれたとされ、瀬戸内海から伊予内陸部へと展開するための戦略的な山城として、戦国期を通じて重要視されてきました。

国分山城と福島正則の時代

天正十六年(1588年)、武将・福島正則(ふくしま まさのり)が国分山城に入城し、伊予11万石の大名としてこの地を治めることとなりました。

正則の入部により、国分山城は伊予統治の中枢拠点として大規模に改修され、あわせて城下町も整備されていきました。

この時期、城は単なる軍事拠点にとどまらず、政治・経済・文化の中心地としての役割を担い、地域は目覚ましい発展を遂げます。

しかし、そのわずか数年後の文禄四年(1595年)、福島正則は尾張・清洲城へ転封となり、伊予の地を去ることになります。

「福島神社」の創建

創建の時期は明らかではないものの、福島正則の功績を後世に伝えるため、国分山の山頂には「福島神社」が建立されたと伝えられています。

戦国の世には、地域にゆかりのある武将を神格化し、神社に祀る例が各地に見られました。福島神社もまた、そのような信仰形態の一つとして建立されたものと考えられます。

藤堂高虎の入城と廃城

その後、池田景勝(いけだ かげかつ)が跡を継いで城主となり、さらに慶長三年(1598年)には小川祐忠(おがわ すけただ)が入城しました。

そして、慶長十一年(1606年)には、関ヶ原の戦功により伊予を与えられた藤堂高虎が、国分山城に入城しました。

藤堂高虎は、国分山城を軍事的に優れた防御性を誇る堅固な城であると高く評価していました。

実際、この城は標高105.3メートルの唐子山に築かれ、周囲を見渡す高台の立地は敵の侵入を防ぐ要害として申し分のない構造を備えていました。

一方で、山城であるがゆえの地形の険しさや、交通の不便さ、水利の不安定さなどから、藤堂高虎はこの地で城下町を発展させることに限界を感じていました。

高虎はこれらの問題を重く受け止め、より利便性に富む沿岸部に拠点を作ることを決断しました。

慶長七年(1602年)に今治城の築城に着手し、同九年(1604年)九月には本丸が完成。

藤堂高虎は本拠を新城へと移し、今治を政治・軍事・海運の要所と位置づけて整備を進めていきました。

こうして国分山城はその役割を終えることになり、廃城となりました。

国分山城の今

廃城となった国分山城は、当時の面影こそ今は失われたものの、山中には、かつてを偲ばせる城郭遺構が、今もなおひっそりと残されています。

そして、城の守護神として祀られた福島神社を合祀する春日神社には、その記憶が地域の歴史とともに、静かに受け継がれています。

「松山藩」としての春日神社

現在、今治市国分に鎮座する春日神社は、地域の神社として親しまれていますが、かつては松山藩の所管にありました。

前述の通り、慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いで東軍が勝利を収めたことにより、全国の大名領が再配置され、伊予国においては東軍方の武将である藤堂高虎と加藤嘉明が新たに領地を得ることとなりました。

藤堂高虎は今治に、加藤嘉明は松山にそれぞれ拠点を築き、新たな統治体制が始まりました。

この過程で、加藤嘉明が今治から松山へと転封され、松山藩を立てる際に、旧領の一部がそのまま松山藩の飛地として残されることになりました。

その飛地のひとつが、春日神社や国分寺が鎮座する古国分村(現在の今治市国分付近)です。

松山藩が古国分村を飛地として統治していた背景には、関ヶ原後の領地再編によって、伊予国内で複雑な領地分割が行われたことがあります。

その結果、松山藩の統治領域は伊予国内の各所に飛び地として点在する形となったのです。

その後、1635年(寛永12年)に松平定房が今治藩を創設し、藩主として今治地域を治めるようになりましたが、古国分村は引き続き松山藩の飛地として残されました。

しかし、1765年(明和2年)の領地替えによって、古国分村は今治藩領に編入され、松山藩による統治は終了しました。

これによって国分寺や春日神社も今治藩の一部になりました。

再建を経て守られてきた信仰の拠点

春日神社は、古くから地域の信仰の中心として人々に親しまれてきた神社です。その歩みは、幾度となく繰り返された再建や造営によって支えられてきました。

慶長16年(1611年)、当時の今治領主であった加藤嘉明によって社殿が造営されたことを皮切りに、春日神社はその後も度重なる修繕と再建を経て現在に至ります。

記録に残るだけでも、正保年間(1644〜1648年)、元禄10年(1697年)、宝永2年(1705年)、元文4年(1739年)、宝暦8年(1758年)、寛政3年(1791年)と、計6度にわたって社殿の再建や改修が施されてきました。

社殿の再建と改修を重ねたその歴史は、春日神社がいかに長きにわたって地域の人々に敬われ、支えられてきた存在であるかを物語っています。

独立した神社としての歩み

明治時代に入ると、日本の宗教政策に大きな転換が訪れ、春日神社は独立した神社としての道を歩むこととなりました。

「神仏分離令」神仏習合からの分離

そのきっかけとなったのが、明治元年(1868年)に明治政府によって発布された「神仏分離令」です。

この政策は、神道と仏教を制度的に明確に分離し、それぞれを独立した宗教として位置づけることを目的としたものでした。

この背景には、明治政府が国家神道を確立し、天皇を中心とする新たな国民統合の象徴として神道を重視する方針があったとされています。

この政策により、全国各地で長年にわたって続いていた神仏習合の信仰形態は、大きな変革を余儀なくされました。

春日神社もまた、この神仏分離令の影響を大きく受けた神社の一つです。

それまでは、仏教的な要素が神社に合祀され、地域における信仰の中で神道と仏教が密接に結びついていました。

しかし、政策の施行に伴い、両者の要素を明確に分離することが求められ、春日神社に祀られていた仏教的な神体や祭祀はすべて撤去されることとなりました。

これにより、春日神社に合祀されていた「地蔵菩薩像」が国分寺へと移されました。

末社から村社へ

いつ頃からかは定かではありませんが、春日神社は「綱敷天満神社(新天神)」の末社として祀られていたと伝えられています。

しかし、明治政府が神道の制度化を進める中で、明治4年(1871年)5月14日に近代社格制度(神社の序列制度)が導入され、春日神社は旧・国分村の「村社」として公的に認められるようになりました。

この近代社格制度とは、明治政府が全国の神社を国家的に整備・統制するために導入した制度で、神社を「官社」「諸社」「村社」などに階層化したものです。

このうち「村社」は、主に地域の住民から崇敬されていた神社が対象とされています。

春日神社が「村社」に列せられたことは、地域に根ざした信仰の中心としての重要性が国家的にも認められた瞬間でした。

そしてこれはまた、長らく末社という立場にあった春日神社が、地域における独立した神社としての地位を確立する大きな転機となった出来事でもありました。

分寺境内地の一部が春日神社の境内に

明治9年(1876年)には、社地調査が実施され、その結果、国分寺の境内地167坪が正式に春日神社の境内地として定められました。

この決定により、春日神社は独立した神社としての法的・物理的な基盤をさらに強固なものとし、地域における重要な信仰の場としての地位を確立するに至ったのです。

再興と地域の祭礼

さらに、昭和44年(1969年)には、氏子たちの寄進と奉仕によって社殿が改築され、再び地域の信仰の中心として活力を取り戻しました。

また、長らく途絶えていた「大人神輿」もこの時期に復興され、以後、地域の祭礼や年中行事において重要な役割を担うようになりました。

こうして春日神社は、地域に根ざした独立の神社として、現在も人々の信仰を集め続けています。

 

神社名

春日神社(かすがじんじゃ)

所在地

愛媛県今治市国分四丁目1番62号

電話

0898-31-1742

主な祭礼

例祭( 5月5日)

主祭神

天児屋根命(あめのこやねのみこと) ・比売大神(ひめのおほかみ)

境内社

八幡神杜(誉田別命) ・楠本神杜(須佐之男命) ・山之神杜(大山津見命) ・国分神杜(誉田別命、須佐之男大神)

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