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古くから信仰を集めてきた神社の由緒と、その土地に根付いた文化を紹介。

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人々の心のよりどころとなった寺院を巡り、その背景を学ぶ。

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河上安固墓所(今治市・立花・鳥生地区)

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今治のために尽くした偉人 河上安固が眠る鳥生の地

今治市鳥生の一角、かつて大祝家の中枢として栄えた大祝屋敷跡(鳥生屋敷跡)には、今も静かに地域の歴史を物語る史跡が残されています。

その中でも、往時の面影を最も強く伝えているのが「河上安固(かわかみ やすかた)」の墓所です。

安固は蒼社川だけでなく、呑吐桶や鳥生高下浜の唐桶といった他の地域の土木工事にも携わり、その優れた技術を発揮しました。

その功績を称えるため、鳥生公民館の北側に「古土居家先祖累代墓」と記された、安固の墓が設けられました。

大祝氏の支流として生まれた河上家

河上安固の出自となる河上家は、大山祇神社の最高神職「大祝(おおほうり・おおはふり)」を務めてきた大祝氏の一族に属する家系です。

大祝氏は古代から越智郡一帯を中心に大きな影響力を持ち、神職としてだけでなく、地域の有力氏族として長い歴史を築いてきました。

河上家はその支流のひとつとして江戸期に形成され、のちに今治藩の行政・治水事業に深く関わっていくこととなります。

大祝家の宗家は、かつて越智郡高橋郷(日高地区)別名村の塔本(塔ノ本・とうのもと)に屋敷を構えていたとされます。

しかし、天正5年(1577年)、宗家の長男・大祝安人が鳥生の大祝氏へ婿入りしたことで跡継ぎを失い、塔の本の大祝家は大祝屋敷(鳥生屋敷)へ統合されました。

これにより大祝家の中心は塔の本から鳥生へと移り、鳥生は以後、大祝氏の拠点として重要な位置を占めるようになります。

やがて江戸時代に入ると、大祝家は藩政下で大きな転換を迎えます。

延宝3年(1675年)、今治藩主・松平(久松)定房と松山藩主・松平(久松)定行の意向により、当主・38代大祝安期が大三島・宮浦へ移住しました。

この後、大祝家は大三島に居を定め、「三島」の姓へと改められていきます。

一方、安期の弟である安質(やすただ)は今治城下に留まり、2代今治藩主・松平定時に召し抱えられました。

その際に与えられたのが「河上」という姓であり、これが後に治水の名手・河上安固を生む河上家の始まりとなりました。

蒼社川の治水と河上安固の功績

河上安固が治水を手掛けた蒼社川は、近世以前よりたびたび氾濫を引き起こす「暴れ川」として知られ、田畑を流し家屋を浸水させるなど、人々の暮らしを絶えず脅かしてきました。

この難題に対し、安固は藩主から治水の全権を託され、大規模な改修に乗り出します。

安固は鳥生にあった自宅から、毎日のように現在の大須伎神社が鎮座する権現山へ登り、山上から蒼社川の流れを見下ろして観察を続けました。

流れの速さや水のうねり、蛇行する川筋の特徴を見極めるため、昼夜を問わず川と向き合ったと伝えられています。

このとき安固が腰を下ろして川を見つめていたとされる石が、今も大須伎神社の参道に残る「河上安固の腰掛け石」です。

綿密な観察の末、安固は川の蛇行こそが氾濫を誘発する最大の要因であると結論づけ、川筋そのものを付け替えて直線化するという、大胆かつ前例のない治水工事を実行しました。

あわせて堤防の強化や宗門掘りによる定期的な土砂の除去など、多角的な対策も進め、蒼社川の氾濫は大幅に減少していきました。

この治水事業は十三年に及ぶ大工事で、流域の暮らしを安定させただけでなく、その後の今治の産業発展を支える大きな基盤ともなりました。

※詳細は「蒼社川の氾濫を止めろ!1200年の時を超えて挑み続ける今治の治水プロジェクト」

城下町整備に残る功績・呑吐樋(どんどび)

安固は蒼社川の治水にとどまらず、今治城下の水利整備にも大きな功績を残しています。

その象徴ともいえるのが、現在の「ドンドビ交差点」の名称の由来となった呑吐樋(どんどび)の建設です。

呑吐樋は、今治城の外堀と泉川(現・金星川)が合流する地点に設けられた樋門で、潮の満ち引きに合わせて水を調整する仕組みが備えられていました。

満潮時には樋門を閉じて海水の流入を「呑み」、干潮時には樋門を開いて川の水を「吐く」ように排出することで、水位を一定に保つことができたといわれています。

この独特の動きを表現した呼び名が、人々の口を通して「どんどび」となり、現在の交差点名として残っています。

呑吐樋の設置によって、城下への過剰な海水の侵入が防がれ、沿岸部の浸水被害が大きく改善されました。

今治城の防御や町の生活を支えるうえでも欠かせない水利施設であり、当時としては極めて先進的な技術を用いた工事だったと考えられます。

この樋門は、河上安固が持っていた高い技術力と、地域の安全のために尽力した実務能力を示す遺構として評価されており、今治の土木史において重要な位置を占める存在となっています。

※詳細は「【今治城の歴史④】藤堂高虎が築いた城下町——港町・今治のはじまり」

大祝屋敷(鳥生屋敷)跡に息づく歴史の記憶

河上安固は、単なる一藩士にとどまらず、蒼社川の治水や呑吐樋の整備など、地域の安全と発展のために実務の最前線で尽力した人物です。

今治の暮らしを支え、流域の未来を守った「技術者」としての姿勢は、今も語り継がれるべきものです。

その河上安固墓所が静かに佇む大祝屋敷跡(鳥生屋敷跡)は、単なる旧跡ではありません。

この地には、古代以来の大山祇神社の最高神職を担った大祝氏の記憶、そこから分かれて今治藩に仕えた河上氏の足跡、さらに茶道の祖・千利休の一族が今治へ落ち延びた痕跡として残る「千家墓地跡」など、いくつもの歴史が折り重なっています。

大祝屋敷跡(鳥生屋敷跡)に残る河上安固墓所は、こうした先人たちの営みを今日へとつないでくれる貴重な史跡です。

静かな佇まいの中には、今治という地域が積み重ねてきた時間の厚みが息づき、訪れる人々に深い歴史の余韻と、先人への敬意を呼び起こしてくれます。

史跡名

河上安固墓所(かわかみやすたかぼしょ)

所在地

愛媛県今治市祇園町2丁目3−47

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