今治市にある広紹寺町(こうじょうじちょう)は、男山八幡大神社(おとこやまはちまんだいじんじゃ)のそばにある寺院「広紹寺(こうじょうじ)」にちなんで名づけられました。
この地には、鎌倉末期から南北朝、戦国、江戸の時代を通して、武士たちの記録と記憶が折り重なるように刻まれています。
広紹寺や町の成り立ちをひもとくには、まず武士が国を動かす存在となった時代へ立ち返る必要があります。
鎌倉幕府の成立と崩壊
1185年、「壇ノ浦の戦い」で平家が滅亡すると、源氏の棟梁・源頼朝は、東国の武士たちを中心に圧倒的な支持を集め、朝廷からも政権運営の正当性を認められるようになりました。
そして1192年、頼朝は征夷大将軍に任命されたことで、鎌倉を本拠とする日本初の武士政権「鎌倉幕府」が開かれました。
しかし、時代が進むにつれて将軍の権威は次第に低下。
実権が源氏から北条氏へと変わると、その強引な政権運営に対する不満は高まり、幕府内部ではたびたび権力闘争が発生、統治体制は不安定になっていきました。
また、外部からも反乱が相次ぎました。
さらに、元寇(文永の役・1274年、弘安の役・1281年)への対応が、武士たちに不満を広げる大きな原因となりました。
幕府は、モンゴル帝国(元)からの襲来に備えて、博多湾沿いに防塁を築いたり、多くの武士を動員したりと、全国的な防衛体制をとりました。
しかし、この戦いはあくまで「防衛戦」であり、敵の領地や財宝を得ることができなかったため、出陣した武士たちに十分な恩賞(ほうび)を与えることがでなかったのです。
その結果、経済的に困窮する御家人が増え、生活を立て直せない者の中には土地を手放す者も出てきました。
こうした状況が、幕府に対する不満と不信を生み出し、やがて幕府の支配体制そのものを揺るがす要因となっていきます。
「元弘の乱」後醍醐天皇の戦いと尊氏の登場
1331年、こうした武士たちの不満が高まる中、後醍醐天皇はついに幕府打倒を掲げて挙兵しました。
これが、元弘の乱(げんこうのらん)と呼ばれる戦いです。
当初、この反乱に対し鎌倉幕府は強硬に対応し、天皇を捕らえて隠岐に流すなど一時的には鎮圧に成功したかに見えました。
しかし、足利尊氏によって情勢は大きく動くことになります。
尊氏はもともと、鎌倉幕府の有力な御家人であり、名門足利氏の当主として幕府方の中でも特に信頼を受けていた人物でした。
幕府は尊氏を討幕勢力を抑えるため西国へ派遣します。
ところが、尊氏は出陣先の京都・丹波方面で突如として後醍醐天皇側に寝返り、1331年に幕府の拠点である六波羅探題を攻め落としたのです。
尊氏がなぜ寝返ったのかについては諸説ありますが、一つには、幕府の政治腐敗や御家人に対する冷遇への不満、そして自らの権力を独自に築こうとする意図があったと考えられます。
また、後醍醐天皇による新しい政権構想に魅力を感じたという側面も指摘されます。
いずれにせよ、尊氏の一連の行動によって討幕の流れは決定的となり、東国では新田義貞が鎌倉へ攻め込み、北条氏が自害。
ここに、約150年にわたる鎌倉幕府が終焉を迎えました。
建武の新政と武士の反発
鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇は古代の律令制度を理想とした中央集権的な政治改革(建武の新政)を開始しました。
天皇自らが政治の中心に立ち、貴族(公家)による統治体制を復活させようとしたこの新政は、理想主義的ではあったものの、当時の武士たちの実情とは大きくかけ離れていました。
とくに問題となったのは、幕府打倒に尽力した武士たちに対する恩賞の配分です。
功績に応じた土地や地位が与えられず、戦で命を懸けた多くの武士たちの間に不満が広がりました。
なかでも、討幕の主力であった足利尊氏は、自らの意見が顧みられず、重用されなかったことで強く不満を抱くようになります。
「室町幕府」足利尊氏の政権
1336年、武士の利益を無視しがちな建武政権に見切りをつけた足利尊氏は、後醍醐天皇と決別し、天皇家のもう一方の系統である持明院統から光明天皇を擁立して、京都に新たな朝廷を樹立しました。
そして、1338年には尊氏は新たな政権の武家の棟梁として、光明天皇から征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命され、足利尊氏を中心とする武家政権「室町幕府」が開かれました。
「南北朝時代」日本を二分する動乱
一方、後醍醐天皇は京都を離れ、奈良県の吉野に逃れて南朝を開き、自らの正統性を主張しました。
こうして、京都の北朝(光明天皇)と吉野の南朝(後醍醐天皇)という二つの朝廷が並び立ち、国家の正統をめぐって激しく対立。
やがてこの分裂は日本各地に飛び火し、武士たちは南朝と北朝に分かれて争うようになります。
こうして、日本全国が戦乱に巻き込まれた動乱期「南北朝時代」が始まりました。
尊氏の征夷大将軍としての責務
このような時代の中、征夷大将軍となった足利尊氏の最大の使命は、南北に分かれた日本を再び統一し、武士による中央集権的な統治体制を確立することにありました。
尊氏は、北朝を「正統な朝廷」と位置づけ、後醍醐天皇率いる南朝との長く激しい戦いを通じて、自身の室町政権を全国に広げるべく奔走します。
そのためにまず着手したのが、地方の統制強化でした。
尊氏は、各地の有力な武士や領主(地頭・国人)たちを統制し、室町幕府の勢力に取り込むことで、全国的な統治体制の構築を進めていきました。
こうした体制づくりの中で、当然ながら従わない勢力や南朝方の残存勢力も存在し、各地で何度も反乱や抵抗に直面しました。
尊氏はそのたびに軍を動かしてこれを鎮圧し、武力と政治的懐柔を使い分けながら、支配の網を徐々に全国に広げていったのです。
この流れの中で、中国・四国地方も尊氏の勢力下に置かれることとなりました。
越智の系譜を引き継ぐ武将「鳥生貞実」
中国・四国地方、とくに現在の愛媛県今治市を含む瀬戸内海沿岸地域は、南北朝の戦乱期において戦略的にも経済的にも重要な地域でした。
瀬戸内海の航路は西国と畿内を結ぶ交通の大動脈であり、この地域を押さえることは、軍事・物流・政治すべての面において優位に立つことを意味していました。
この重要な地域を統治するにあたり、足利尊氏は、地元に根ざした信頼できる武士たちを登用することで安定化を図りながら、室町幕府の勢力を西国へと広げていきました。
その内の一人が、今治市鳥生に拠点を持っていた武将・鳥生又三郎貞実(越智又三郎貞実)です。
南北朝動乱下の今治と越智氏の動き
鳥生又三郎貞実(以下:鳥生貞実)は、南北朝時代の伊予国(現在の愛媛県)で活躍した武将であり、越智氏の一族にあたる人物です。
越智氏は、古代の律令制の時代から伊予国で大きな影響力を持っていた由緒ある地方豪族で、記録上は奈良時代にはすでに国造(くにのみやつこ)や郡司として中央政権との結びつきを持っていたことが知られています。
中世に入ってからも在地勢力として根強い支配基盤を築いており、伊予国を代表する一族としてその名をとどろかせていました。
鳥生貞実は、越智氏一族の中でもとくに有力な武将として、足利尊氏に忠義を尽くし、その信頼を得ていました。
尊氏とともに戦った家臣・細川氏
同じ頃、この地に同じく足利尊氏に忠義を尽くしていた一族がいました。
それが細川氏です。
細川氏は、建武3年(1336年)、足利尊氏が後醍醐天皇の建武政権に背き、京都を制圧して北朝を擁立し、室町幕府の基礎を築く過程において、重要な役割を果たしました。
なかでも、細川和氏は尊氏の側近として従軍し、各地で南朝方と戦功を重ね、忠節を尽くしたことで阿波国(現:徳島県)の守護に任じられます。
この阿波を足がかりとして、細川氏は四国に勢力を拡大し、やがて畿内・四国を中心に一門で八か国の守護職を占めるに至る、有力守護大名へと成長していきました。
この流れの中で、広紹寺が創建されることになります。
広紹寺の創建と越智益躬の記憶
暦応二年(1339年)、伊予国への進出を進めていた細川氏は、地元の有力者である鳥生貞実と協力し、ある由緒ある地に寺院を建立しました。
そこは、かつて古代伊予を治めた名族・越智氏の英雄、越智益躬(おちのますみ・小千益躬)の旧宅跡と伝えられる場所でした。
この寺こそが、のちに地名の由来にもなった「広紹寺(廣紹寺)」です。
越智益躬とは
越智益躬は、古代伊予を代表する豪族・越智氏の中でもとくに著名な人物であり、その武勇と知略は後世に至るまで語り継がれてきました。
伝承によれば、推古天皇の御代、朝鮮半島から襲来した「鉄人」と呼ばれる異民族の猛将を討ち果たしたとされ、その活躍は伊予の地において伝説的な英雄譚として残されています。
その功績と徳を讃え、益躬の御霊は後に「鴨部神社(かんべじんじゃ)」に祀られ、「鴨部大神」として地域の人々から篤く信仰されるようになりました。
さらに、越智益躬は河野氏の祖としても仰がれ、河野氏による伊予統治の正統的象徴としても重要な存在とされてきました。
広紹寺の建立地となった場所は、まさに伊予における正統性を象徴する神聖な地でした。
「細川氏&鳥生」武家の結びつきと正統性
そして、越智氏の血を引く鳥生貞実の協力も、細川氏にとっては極めて重要な意味を持っていました。
この地に生きる人々に対し、越智氏の記憶と精神的遺産を受け継ぎながら、細川氏による伊予支配に歴史的な連続性と説得力をもたらし、新たな統治者としての正当性を地域社会に根づかせるための象徴的な架け橋となっていたのです。
また、鳥生貞実の側から見ても、当時台頭しつつあった足利尊氏の家臣・細川氏と結びつくことは、新たな幕府体制下伊予における自らの地盤を固め、家の存続と発言力を保つための重要な選択であったと考えられます。
さらに、広紹寺は鳥生家の菩提寺ともなり、東へ約500メートルの場所には、鳥生貞実自身が拠点としていた「鳥生屋敷」が構えられています。
このことからも、細川氏と鳥生氏の強い結びつきを感じることができます。
開山始祖「夢窓疎石 」
広紹寺の創建にあたっては、当代随一の禅僧として名高い夢窓国師(夢窓疎石)を、開山始祖として請じました。
夢窓国師は、鎌倉末期から南北朝期にかけて活躍した臨済宗の高僧で、日本全国に禅の教えを広め、政治・文化の両面において大きな影響を与えました。
夢窓国師が広紹寺を実際に訪れた記録は残されていませんが、その教えはこの地にも及んでおり、広紹寺はその精神を受け継ぐ臨済宗夢窓派の寺院として創建されました。
細川頼之の再建と父・頼春
その後、広紹寺は一時的に衰退しましたが、室町幕府の重臣であり、管領も務めた細川頼之(ほそかわ よりゆき)が再建し、あわせて寺の財政的な安定を図るため、50町(約50ヘクタール)におよぶ広大な領地を寄進しました。
これによって安定した収入を得ることができるようになった広紹寺、供養や修行の場であり続けることができるようにりました。
延文元年(1356年)に没した父・細川頼春(よりはる)の菩提を、この広紹寺で弔ったとも伝えられています。頼春は、南北朝の動乱の中で足利尊氏に仕えて各地を転戦し、数々の合戦で軍功を挙げた有力な武将でした。
尊氏からの信任も厚く、阿波・讃岐・伊予の守護職を歴任し、西国における細川氏の基盤を築いた中興の祖ともいえる存在です。
頼之は、そうした偉大な父の死を深く悼み、その想いを広紹寺の再建と整備に託したのでしょう。
最盛期の広紹寺
最盛期の広紹寺の境内には、桑原寺・宝蔵寺・東禅寺という三つの末寺があり、広範な寺域を構える一大寺院群が形成されていました。
これらの末寺を従えることによって、広紹寺は単なる一寺にとどまらず、伊予国における禅宗文化と精神信仰の中心的拠点となっていました。
しかし、そんな広紹寺に戦国の波が近づいてきました。
長宗我部元親の侵攻と焼失
戦国時代の天正年間(1573~1592年)の中頃、四国の統一を目指して進軍してきた長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)が、伊予を勢力下に置くため、当地を支配していた河野氏に対して本格的な侵攻を開始。
河野氏はこれに対して徹底抗戦の構えを見せましたが、元親の軍勢は勢いそのままに伊予各地へと進軍し、城郭や寺院に次々と戦火をもたらしました。
かつては伊予一円に強大な影響力を誇った河野氏でしたが、戦国期の長期的な混乱のなかで、家臣団の分裂や在地勢力との不和が重なり、次第に弱体化していました。
そのため、元親軍に対して十分な防衛体制を整えることができなかったのです。
広紹寺もまたその戦火に巻き込まれ、伽藍や堂宇、記録、宝物を含むすべてを焼失し、寺院としての活動が完全に途絶えるほどの深刻な被害を受けてしまいました。
臨済宗東福寺派への改宗
しかしその後、「仏城寺(ぶつじょうじ)」の拙堂和尚(せつどうおしょう)の手によって復興が果たされ、広紹寺は仏城寺と同じく、宗派を現在の臨済宗東福寺派へと改宗しました。
そして、再建された仏殿には阿弥陀仏が安置され、広紹寺は再び信仰の場として地域に息を吹き返したのでした。
広紹寺の解体と移転
やがて戦国の世が終わり、近世の城下町形成が進む中で、広紹寺も大きな転機を迎えることとなります。
藤堂高虎による築城と伽藍の解体
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いにおける功績により、藤堂高虎は伊予国12万石を拝領しました。
当初、高虎は国府が置かれていた桜井地区の山城、「国分山城(国府城・唐子山城)」を居城としました。
この城は、かつて村上水軍御三家のひとつ・能島村上氏の第五代当主、村上武吉(むらかみ たけよし)が築いたとされ、瀬戸内海から伊予の内陸部へと進出するための戦略的な要衝として、戦国期を通じて重要な拠点とされてきました。
しかし、時代はすでに天下泰平へと向かう転換期を迎えていました。
山城よりも、海運に恵まれ、経済的・軍事的に優位な「港町」の構築が求められていたのです。
そして慶長七年(1602年)、藤堂高虎は海辺の地において「今治城」の築城に着手します。
この築城に際しては、多くの建築資材が必要とされました。
その中で、「広紹寺(こうじょうじ)」の伽藍が解体され、その良質な木材や石材を城の建設資材として転用されました。
初代今治藩主と寺の移転
元和元年(1615年)には、徳川家康の従兄弟「松平定房(まつだいら さだふさ)」が、伊勢国桑名より今治へ移封され、今治藩十万石の初代藩主として入封。
これにより、今治は徳川譜代に連なる久松松平家の支配下に置かれることとなり、藩政の安定とともに、城下の再編と整備が本格的に進められるようになります。
その一環として、水利の改善を目的に広紹寺の敷地が河道として転用されることになり、現在の場所へ移転することになりました。
「広紹寺町」残された寺院の記憶
しかし、「広紹寺町」という名は、地域の人々の暮らしの中で長く親しまれ続け、その記憶を留めるかたちで、「広紹寺町」という地名として受け継がれ、今なおその名が息づいています。
現代に息づく広紹寺の姿
広紹寺の本堂は昭和28年(1953年)に修理され、続いて昭和49年(1974年)には六地蔵堂と鎮守堂が再建されました。
これにより、長らく傷んでいた寺の伽藍は整えられ、広紹寺は再び地域の人々の信仰と祈りの場として重要な役割を担うようになりました。
現在、境内には、広紹寺の精神的な礎となった禅僧・夢窓国師、復興に尽力した細川頼之、そしてその父である細川頼春の位牌が今に伝えられています。
男山八幡神社との関係
当時の日本では神仏習合の思想が広く受け入れられており、神社と寺院が一体となって信仰の場を形成していました。
その象徴的な例が、広紹寺のすぐ隣に鎮座している男山八幡神社です。
この神社は、広紹寺の鎮守社(ちんじゅしゃ)として、広紹寺の守護神として信仰されてきました。
鎮守社とは
鎮守社とは、本来、寺院を災厄や外敵から守る神を祀るために設けられた神社で、奈良時代以降、仏教寺院の境内や隣接地に建てられることが一般的でした。
特に平安時代以降は、八幡神(はちまんしん)が多くの寺院の鎮守として祀られ、武神でありながら仏教の守護神ともみなされるようになります。
このような神と仏が共に祀られる信仰のかたちは、神仏習合と呼ばれ、日本の宗教文化の特色のひとつです。
男山八幡神社と広紹寺の関係は、まさにその伝統を色濃く残すものであり、神仏習合の時代の伝統を今に伝えています。