高野山今治別院は、愛媛県今治市に位置する歴史と信仰が息づく寺院です。宗祖弘法大師への篤い信仰と地域住民の支えによって発展を遂げてきました。
創建と歴史
高野山今治別院の前身は、往古より今治市内に御鎮座していた蔵敷八幡宮の境内にあった須弥山妙観院正福寺です。この寺院は慶長7年(1674年)、今治城築城に伴い、蔵敷八幡宮が現在の吹揚公園付近に遷座された際に、別当寺として創建されました。
須弥山妙観院正福寺は、蔵敷八幡宮の管理と神仏習合の信仰を担う寺院として地域の人々から信仰を集めていました。しかし、明治時代の神仏分離政策により、日本全国で多くの寺院や神社が変革を余儀なくされる中、この正福寺も廃寺となりました。
明治時代の神仏分離令
明治時代に入ると、日本の宗教制度に大きな変革が訪れました。明治政府は、国家体制の近代化を進める中で神道を国教とする方針を打ち出し、慶応4年(1868年)の王政復古によって「神仏分離令」を発布しました。
神仏分離令は、それまで長く続いた神道と仏教の融合である神仏習合を解消し、神道を中心とした新しい宗教体制を築くための政策でした。この政策によって、神社と寺院は明確に区別されることとなり、全国各地で寺院の廃寺や仏像・経典の破壊といった「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」運動が発生しました。
須弥山妙観院正福寺も、この流れの中で廃寺を余儀なくされました。正福寺は蔵敷八幡宮の別当寺として神社管理の役割を担っていましたが、神仏分離によりその役割を失い、寺院としての機能を停止しました。
しかし、正福寺に関わる信仰は地域住民の間で根強く残っていました。そのため、明治時代の廃仏毀釈を経ても、人々は弘法大師信仰への敬意を絶やすことなく、その復興を願う声が強まりました。
再建と発展
明治16年(1883年)、地域住民と檀信徒の熱心な支援により、高野山総本山から弘法大師の御尊像を迎え、高野山出張所として再建されました。この再建は、廃寺となった正福寺の宗教的役割を引き継ぎ、地域の精神的拠点を復興させるものとなりました。
大正2年(1913年)には、檀信徒の寄進によって現在地に立派な伽藍が建立され、さらに同11年(1922年)には高野山別院と改称され、高野山真言宗の正式な別院としてその地位を確立しました。
今治空襲と復興
昭和20年(1945年)8月6日、第二次世界大戦末期に今治市は大規模な空襲に見舞われました。この空襲は、アメリカ軍による無差別爆撃であり、市街地は壊滅的な被害を受けました。
高野山今治別院も例外ではなく、本堂をはじめとするすべての建物が焼失しました。焼け落ちた伽藍は、地域住民にとって信仰の中心を失う大きな痛手となりました。しかし、戦後の混乱の中においても、檀信徒や地域住民は寺院復興に向けた努力を惜しみませんでした。
昭和24年(1949年)、越智郡鴨部村にあった旧坂本坊本堂を譲り受け、境内に移築して仮本堂としました。この仮本堂は、焼失した伽藍を再建するまでの間、信仰をつなぐ役割を果たしました。
その後も復興活動は続けられ、鐘楼門や諸堂、庫裡が順次再建されました。檀信徒の厚い信仰心と地域社会の支援により、現在の姿が整えられました。復興の過程は、戦後の困難な時代においても地域の信仰と団結の象徴となったのです。
境内の見どころ
高野山今治別院は、四国88ヶ所霊場第55番札所・南光坊のすぐ隣に位置しています。
境内には、日切地蔵堂や弥勒菩薩、ぼけ封じ観音、慈母観音などが並び、訪れる人々の信仰を集めています。
今治幼稚園
高野山今治別院の境内に併設されている今治幼稚園は、1905年(明治38年)に創設されました。四国でも屈指の歴史を誇る幼稚園として、地域社会における教育拠点の役割を担っています。教育理念には仏教の精神を取り入れ、情操教育を基盤としながら、豊かな心を育むことを目指しています。
園長である谷本祥龍住職の指導のもと、一人ひとりの子どもが持つ個性を大切にし、協調性や思いやりの心を育てることを重視しています。
2017年4月には幼保連携型認定こども園へと移行し、満1歳から就学前までの子どもを対象に、保護者の働き方に関わらず受け入れています。小規模ながら家庭的な雰囲気を大切にし、全職員が園児一人ひとりの成長を見守りながら支援しています。
園内には菜園や広々とした園庭が整備され、自然と触れ合いながら遊びや学びを楽しめる環境が整っています。また、仏教行事を通して礼儀や感謝の心を学ぶ機会も設けられており、精神的な豊かさを養うことに力を入れています。