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神社SHINTO

古くから信仰を集めてきた神社の由緒と、その土地に根付いた文化を紹介。

寺院BUDDHA

人々の心のよりどころとなった寺院を巡り、その背景を学ぶ。

史跡MONUMENT

時代ごとの歴史を刻む史跡を巡り、今治の魅力を再発見。

歴史

FEATURE

01

「蒼社川の氾濫を止めろ!」今治が1200年かけて積み上げた治水プロジェクト
桜

FEATURE

03

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今治山林火災

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02

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高野山今治別晥(今治市・今治中央地区)

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「高野山今治別院(こうやさんいまばりべついん)」は、高野山真言宗の寺院として、弘法大師・空海への篤い信仰と、地域の人々の支えによって今日まで発展を遂げてきました。

周囲には、南光坊(四国八十八ヶ所霊場第55番札所)をはじめ、今治宗忠神社(黒住教今治大教会所)、そして別宮大山祇神社など、神仏の信仰が今も息づく拠点が点在しています。

こうした祈りの文化が息づく今治の地において、高野山今治別院もまた、地域の暮らしと心に深く寄り添いながら、その静かな役割を果たしてきました。

「須弥山妙観院 正福寺」

高野山今治別院は、もともと今治平野の中心、蒼社(そうじゃ)川左岸に広がる大村・蔵敷村字的場にあった寺院、須弥山妙観院正福寺を起源としています。

遍照院の末寺

創建の時期は明確ではありませんが、正福寺は真言宗に属し、平安時代の弘仁6年(815年)に弘法大師・空海によって創建された、菊間地区の遍照院(へんじょういん)を本寺とする末寺でした。

遍照院は、空海が自らの厄年(42歳)に当地を訪れ、自身の像を刻んで本尊とし、厄除けの秘法を伝えたことに始まる霊場です。

現在でも「厄除大師」として広く信仰されており、四国八十八箇所の番外札所であると同時に、新四国曼荼羅霊場第42番札所としても知られ、今なお県内外から多くの参拝者が訪れる信仰の地となっています。

正福寺も遍照院の末寺として、その教えや祈りのかたちを今治の地に伝えていたと考えられます。

今治城築城と寺の移転

正福寺が現在の地に移転・再興される契機となったのは、慶長7年(1602年)に開始された今治城の築城です。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでの功績によって、藤堂高虎は伊予国12万石を拝領し、国府が置かれていた桜井地区の国分山城(国府城・唐子山城)を本拠としました。

しかし時代は、戦乱から「天下泰平」へと移行しつつありました。高虎は、防御よりも港湾機能と経済・軍事の利便性を重視した城の必要性を認識していました。

そこで慶長7年(1602年)に今治城の築城が始まります。

その際、築城予定地(現:吹揚小学校付近)に鎮座していた蔵敷八幡宮(くらしきはちまんぐう・座王八幡・六條八幡)が、別の場所へと移されることになりました。

蔵敷八幡宮の別当寺として

こうして蔵敷八幡宮は、日吉村字一丁および蔵敷村的場の一帯に移され、正福寺は蔵敷八幡宮の別当寺(神社を管理する寺)として、蔵敷八幡宮の境内(現在の場所)に移設・再建されました。

以降、正福寺は神と仏がともに祀られる神仏習合の寺院として、地域の人々の信仰を集め、地域に深く根ざしていくことになりました。

貞享2年(1685年)の寺社明細言上書によれば、正福寺の寺領は「地長三十間、横十四間、寺地共に高二石四斗五升御免地」と記されており、およそ990平方メートルの敷地と、年貢免除が認められた石高制による経済的保護を受けていたことがうかがえます。

また正福寺は、村内に鎮座していた荒神宮や住吉大明神の別当も兼ねており、複数の神社の祭祀を統括する立場にありました。

延宝年間の住職事件

このように、地域の宗教的・社会的中枢として重要な役割を果たしていた正福寺ですが、その歴史には、時代の厳しさを物語る逸話も残されています。

延宝2年(1674年)、当時の正福寺の住職は、政治に関する批判的な言動を行ったことから、今治藩の家老・沢外記良長(さわ げき よしなが)の屋敷で役人に捕らえられました。

取り調べの末、住職は死罪に処され、簀巻(すまき)にされて海に沈められたと伝えられています。

この事件は、幕藩体制下において僧侶の言動にも厳しい統制が及んでいたこと、また宗教者と政治権力との関係が、時に鋭く対立しうるものであったことを示す歴史的事例として、今に語り継がれています。

神仏分離と正福寺の廃寺

江戸時代を通じて地域の信仰を集め続けていた正福寺でしたが、明治維新後の宗教政策の転換により、大きな変化を迎えることになります。

明治元年(1868年)、新政府は王政復古と近代国家の形成を目指す中で、神道を国教的な柱と位置づける方針を打ち出し、同年、「神仏分離令(神仏判然令)」を発布しました。

これは、それまで長らく日本で自然に行われていた神仏習合のあり方を否定し、神道と仏教を制度的に分離することを求めるものでした。

その結果、全国各地で神社と寺院の関係が断ち切られ、多くの寺院が別当としての役割を失い、廃寺や仏像破壊といった事態に至る「廃仏毀釈」の動きが広がっていきます。

正福寺もまた、蔵敷八幡宮の別当寺としての機能を強制的に終了させられ、寺としての役割を果たすことができなくなり、廃寺となりました。

蔵敷八幡宮は吹揚神社へ

一方、蔵敷八幡宮は、明治5年(1872年)11月19日に今治城下の4つの神社を統合して創設された「吹揚神社」の一社として、明治期の新たな神社制度のもとに再編されていきました。

弘法大師信仰と今治別院の再建

廃寺となった正福寺は、しばらくのあいだ宗教的機能を失い、地域から仏教の祈りの場が姿を消すことになりました。

しかし、人々の心の中には、かつてこの地に根づいていた真言宗の教えと、弘法大師への深い信仰が生き続けていました。

四国では、弘法大師を信仰する心が古くから根強く、平安時代に弘法大師・空海が修行したとされる地を辿る霊場巡りとして巡礼が始まりました。

鎌倉時代には一般庶民のあいだにも広まり、江戸時代には本格的な巡礼文化「四国八十八ヶ所霊場」として定着していきます。

こうした弘法大師信仰の根強さは、明治時代に神仏分離令が発令され、廃寺となった後も揺らぐことはなかったのです。

直属寺院「高野山今治別院」

そうした中で、正福寺の再興を願う声も次第に高まりを見せていきました。

そして明治16年(1883年)、地域住民と檀信徒の熱心な支援により、高野山総本山から弘法大師の御尊像を迎え、高野山出張所として再建されました。

大正2年(1913年)には、檀信徒の寄進によって現在地に立派な伽藍が建立され、大正11年(1922年)には高野山真言宗の別院(本山に準ずる直属寺院)、「高野山今治別院」と改称されました。

その後、高野山今治別院は、地域の精神的な拠りどころとしての役割を深め、信仰の場として着実に歩みを進めていきました。

しかし、それからわずか23年後の昭和20年(1945年)、今治は未曽有の戦火に見舞われることとなります。

「今治空襲」高野山今治別院の焼失

昭和20年(1945年)、太平洋戦争の末期、今治市は3度にわたる空襲に見舞われました。

なかでも、8月5日から6日にかけての夜間空襲では、アメリカ軍のB-29爆撃機によって260発以上の爆弾が投下され、市街地の大半が炎に包まれました。

この空襲により、全市戸数の約75%が焼失するという壊滅的な被害が生じ、市民生活はもちろん、歴史的・文化的資産にも甚大な損害が及びました。

高野山今治別院も例外ではなく、本堂を含む建物すべてを焼失し、一時的に寺院としての機能を失うこととなりました。

高野山今治別院・復興の軌跡

しかし、昭和24年(1949年)には、越智郡鴨部村にあった旧・坂本坊本堂を譲り受け、境内に仮本堂を設置。そこを拠点に、復興への歩みが静かに始められました。

その後も、檀信徒や地域住民の尽力によって再建が着実に進められ、鐘楼門や庫裡などの諸堂が次々と整備されていきました。

こうして現在の姿となった高野山今治別院は、戦災からの復興とともに、地域の祈りの場として、今もこの地にしっかりと根を下ろし続けています。

境内には、日切地蔵堂をはじめ、弥勒菩薩像、ぼけ封じ観音、慈母観音などが静かに祀られ、訪れる人々の願いや祈りをあたたかく受けとめています。

四国で最初の幼稚園「今治幼稚園」

高野山今治別院の住職が園長を務める、境内に併設された今治幼稚園は、明治38年(1905年)に創設された、四国でも有数の歴史を誇る幼稚園です。

しかし、昭和20年8月6日の今治空襲によって園舎は焼失し、しばらくのあいだ休園となりましたが、5年後の昭和26年(1951年)4月1日には復興を果たし、再び園に子どもたちの笑顔が戻りました。

さらに、昭和37年(1962年)3月10日には正式に学校法人としての認可を受け、地域の幼児教育の拠点として着実に歩みを進めていきます。

平成29年(2017年)には、保育と教育を一体的に行う体制のもと、幼保連携型認定こども園として新たな一歩を踏み出しました。

仏教の精神に根ざした情操教育を大切にしながら、自然とふれあう環境のなかで、子どもたち一人ひとりの心を育み、豊かな成長を支える保育・教育を実践しています。

信仰と学びが共に息づくこの場所は、これからも変わらず、地域の人々の心の拠りどころとして、その歩みを続けていくことでしょう。

寺院名

高野山今治別院(こうやさんいまばりべついん)

所在地

愛媛県今治市別宮町2丁目4−14

電話

0898-31-3840

宗派

高野山真言宗

山号

高野山

本尊

弘法大師

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