今治市八丁西に鎮座する「樟本神社(くすもとじんじゃ)」は、古くから今治地方の人々に信仰されてきた由緒ある神社です。
歴史文献に記された歴史
樟本神社は、平安時代から江戸時代にかけてのさまざまな歴史文献に記録されており、今治地方の歴史と深く結びついた存在であることがわかります。
『予陽郡郷俚諺集』建の伝承
宝永7年(1710年)、奥平貞虎が編纂した地誌『予陽郡郷俚諺集』には、樟本神社の創建に関する重要な伝承が記されています。
それによれば、大宝元年(701年)9月5日、朝廷の勅命を受けた伊予国司・散位 小千宿祢玉興(おちのすくね たまおき)が、出雲国から伊予国内に二十八社の神々を勧請したとされ、その一社として現在の樟本神社が祀られたと伝えられています。
『三代実録』『類聚国史』に見る神格の昇叙
平安時代の正史『三代実録』および、菅原道真によって編纂された『類聚国史』(寛平4年〈892年〉完成)には、
樟本神社に関する神階昇叙の記録が記されています。
これによると、貞観17年(875年)4月5日に「伊予国従五位下樟本神」が、神階制度における中位の階位である従五位上に昇叙されたとあり、樟本神社が朝廷により正式に認められ、その神格と格式が公的に高められたことがうかがえます。
『延喜式神名帳』への登載
さらに、延長5年(927年)にまとめられた法令集『延喜式』の「神名帳」にも、樟本神社の名が記されています。
この「延喜式神名帳」は、当時朝廷が公認した全国の官社を記録した一覧であり、ここに名を連ねたことにより、樟本神社は国家によって公式に認められた格式ある神社(式内社)として重んじられていたことがわかります。
「神宮寺と勧学会」学問との関わり
また、長保2年(1000年)には、当社に付属する神宮寺において「勧学会」が執行されたという記録があり、仏教的学問の発展にも関わっていたことがうかがえます。
これは、神仏習合の時代において、神社が宗教的中心であると同時に学問的役割も担っていたことを示しています。
「免田の授与」中世の動向
中世に入ると、建長7年(1255年)に樟本神社へ免田(めんでん)が与えられた記録が残されています。
免田とは、租税が免除された神社領のことで、神社の経済的基盤として重要な役割を果たしていました。ただし、具体的な面積や範囲については明らかではありません。
社名の由来と読みの変遷
江戸時代になると、「樟本神社(くすもとじんじゃ)」ではなく、「樟本神社(まきもとじんじゃ)」と呼ばれていたとも伝えられています。
このことから、当神社の読みは「マキモトジンジャ」が正しいのではないかという説も存在しますが、平安時代の史料『三代実録』には、「楠木(くすのき)」の字を用いた「楠本」と記されており、音の上からも、「クスモト」という読みが本来の形に近いと考えられています。
「村社」に指定された樟本神社
明治時代になると、政府による神社制度の整備が進み、全国の神社は「社格」によって区分されるようになりました。
明治4年(1871年)、樟本神社はその制度のもとで「村社(そんしゃ)」に指定されました。
村社とは、村の鎮守や氏神といった、地域に根ざした神社に与えられた社格で、公的に認可され、神職の任命や社殿維持において一定の支援や監督を受ける対象となったものです。
この「村社」制度は、国家神道体制のもとで神社を宗教的中核として地域社会を統合しようとした明治政府の方針に基づいており、樟本神社がこの格付けを受けたことは、地域の中心的な神社としての地位が公的に認められたことを意味しています。
「神社合祀政策」柑子神社と合祀
明治41年(1908年)5月10日には、近隣にあった柑子神社(かじこじんじゃ・柑子御宮)と合祀されました。
これは、当時の神社合祀政策の流れを受けた動きであったと考えられます。
神社合祀政策とは、明治政府が全国の神社を整理・統合する目的で進めた制度で、小規模な神社をより大きな神社へ合併させ、祭祀の一元化や地域統制の効率化を図ることを目的としていました。
これにより、各地で多くの神社が統合・廃止され、信仰の場が再編されていきました。
そしてこの合併によって、祭神や神社の役割が再編され、現在の樟本神社の姿が形づくられていったと考えられます。
柑子神社の歴史
柑子神社(柑子御宮)は、鎌倉時代の記録にもその名が見られる由緒ある神社で、建長7年(1255年)に幕府へ提出された『伊予国神社仏閣等免田注記』(伊予国分寺文書)には、柑子神社に関する具体的な記述が残されています。
この史料によれば、当時の柑子神社は以下のような年貢・資源の分配を受けていたことがわかります。
- 上分科早米:15石(約2,250kg)
- 国分寺:5石(約750kg)
- 八幡宮:2石5斗(約375kg)
- 三島宮:2石5斗(約375kg)
- 柑子御宮:2石5斗(約375kg)
また、油1斗(約18リットル)も以下のように分けられており、柑子御宮には3升(約5.4リットル)が割り当てられていました。
- 国分寺:1升(約1.8リットル)
- 三島宮:3升(約5.4リットル)
- 惣社:3升(約5.4リットル)
- 柑子御宮:3升(約5.4リットル)
これらの数値からも、当時の柑子神社が他の主要社と並ぶ重要な神社であったことがうかがえます。
大山祇神社に匹敵する免田を保有
『伊予国神社仏閣等免田注記』には、柑子神社が保有していた免田(租税が免除された神社領)についても詳しく記されています。
- 仁王講田ノ内:31反(約3.1ヘクタール)
- 大般若田ノ内:6丁4反(約6.4ヘクタール)
- 柑子不断経:13丁5反半(約13.5ヘクタール)
合計で23丁半反(約23.5ヘクタール)にもおよぶ広大な神社領を持っており、これは伊予国の大社・大山祇神社に匹敵する規模でした。
崇道天皇信仰との関わり
さらに『伊予国神社仏閣等免田注記』には、柑子神社が「崇道天皇御読経田」25反を所有していたという記述もあります。
これは、桓武天皇の弟・早良親王(崇道天皇)の怨霊を鎮めるための読経田であり、柑子神社が怨霊信仰と深く関わっていた可能性を示しています。
樟本神社との合併と継承
樟本神社は、柑子神社が合祀されたことによって、柑子神社が保有していたこれらの広大な領地や資産も受け継ぐことになりました。
また、柑子神社にまつわる信仰や伝承、そして伝統文化も樟本神社に統合され、社としての歴史的価値と格式はいっそう高まりました。
牛頭天王信仰と神仏分離
樟本神社の祭神である素盞嗚尊(すさのおのみこと)は、『古事記』や『日本書紀』において天照大神の弟神とされ、八岐大蛇(やまたのおろち)退治の神話で広く知られる神です。
勇猛で荒々しい性格を持ちながらも、災厄を払い、民を救う存在として、古来より疫病退散・厄除け・五穀豊穣の守護神として全国各地で篤く信仰されてきました。
樟本神社が鎮座する八町(はっちょう)一帯も、かつては田園が広がる穏やかな農村地帯であり、豊作と無病息災を願う人々の暮らしの中に、素盞嗚尊への信仰が深く息づいていました。
「牛頭天王社」
しかし、樟本神社は江戸時代の頃には素盞嗚尊ではなく、牛頭天王を祀っており「牛頭天王社」と呼ばれていました。
鎮座地もその信仰に由来し、「八町字天皇」と呼ばれ、地元・八町の人々に親しまれていました。
牛頭天王と神仏習合
やがて明治時代に入ると、政府による神仏分離令(1868年)が発令され、神道と仏教の分離が全国的に強制されることとなりました。
これは、明治新政府が国家神道を確立するために進めた宗教政策の一環であり、神社から仏教的な名称・儀礼・信仰対象を排除することを目的としていました。
この方針により、仏教的色彩が強い「牛頭天王」という神名は全国的に廃止・改称の対象となり、多くの天王社や祇園社は、祭神を素盞嗚尊(速素盞嗚尊・須佐之男命…)とする神道形式の社に改められていきました。
牛頭天王社(樟本神社)もこの政策の影響を受け、従来祀られていた牛頭天王の名を退け、祭神を素盞嗚尊と定め直すこととなりました。
しかし、名称が変わった後も、災厄除けや五穀豊穣を祈る心は変わらず引き継がれ、地域の生活と結びついた信仰は脈々と受け継がれていきました。
現在も境内には、牛頭天王社時代の石碑が静かに残されており、神仏習合の時代に育まれた信仰の記憶を今に伝えています。
「木の神」としての樟本神社
祭神にまつわる別の説として、大正14年(1925年)に編まれた『伊豫二名集』では、樟本神社の社名にちなみ、「木神(このかみ)」を祀っているとする見解も紹介されています。
この説では、素盞嗚尊の御子神であり、木の種をまいて日本に森を広めたとされる「五十猛命(いたけるのみこと)」と関連づける考え方が示されています。
さらに、神話において、素盞嗚尊と天照大神が誓約(うけい)を交わした際に生まれた熊野櫲樟日神(くまのくすひのかみ)が、五十猛命と同一視されることがあることから、樟本神社の祭神も「木にまつわる神格」を備えている可能性があるという説もあります。
柑子神社と伝説
こうした神話的背景に加え、樟本神社にはもうひとつ、地域に根ざした信仰と深く結びついた伝承が残されています。
それが、かつて境内に合祀されていた柑子神社の創建にまつわる話です
柑子神社は、「柑子女神社」とも称されていました。
社名に“女”の字がついていることからもわかるように、この神社は柑子という一人の女性を神として祀ったが残る、きわめて珍しい由来をもつ神社です。
柑子の祟りと創建
昔、この地に裕福な家があり、そこに美しい娘が「柑子(かじこ)」が下女として雇われてきました。
柑子は料理が得意で家族から大切にされましたが、料理の秘訣を決して誰にも教えようとはせず、毎日ひとりきりで台所に立っていました。
ある日、好奇心に駆られた主人夫婦がこっそりと台所を覗くと、なんと柑子が一匹の蛇を使って料理に味付けをしている姿が目に入りました。
驚いた主人は恐れと怒りにかられ、ついには柑子を斬り殺してしまいます。
ところがその後、一家には次々と不幸が降りかかり、かつての栄華は跡形もなく失われてしまいました。
「柑子の祟りに違いない」
村人たちはそう噂し、彼女の魂を鎮めるために小さな祠を建て、神として祀りました。
この祠はのちに柑子女神社と呼ばれるようになり、広大な田畑を有する大きな社として、長く人々の信仰を集めてきました。
しかし明治41年(1908年)、神社合祀令の流れのなかで、樟本神社に合祀されることとなりました。
静かに息づく、柑子の記憶
現在、旧地には織物工場が建っていますが、柱を支えていた礎石が今も静かにその場所に残されています。
そして樟本神社の境内にも、柑子女神社をしのぶ石碑が建てられ、かつての信仰と伝承は、今もこの地に静かに息づいています。