頓田川のほとり、今治市上徳に鎮座する「三嶋神社・上徳(みしまじんじゃ)」は、千年以上にわたって地域の人々に信仰されてきた由緒ある神社です。
聖武天皇と神仏融合の時代
「三嶋神社・上徳」の創建は奈良時代にまでさかのぼります。
当時の天皇であった聖武天皇(在位:724〜749年)は、国家の安定と繁栄を願い、仏教と神道の両面から宗教政策を積極的に推進しました。
仏教で国を護ろうとした時代
なかでも仏教を特に重視していた聖武天皇は、「鎮護国家(ちんごこっか)」の理念のもと、仏教の力で国を護ろうとし、全国に寺院を建立します。
その象徴が、奈良・東大寺に造立された奈良の大仏(盧舎那仏)です。
この大仏は、天皇の深い信仰と国家安泰への祈りを体現する存在であり、日本仏教の精神的支柱として大きな意味を持つものでした。
また、聖武天皇は国分寺・国分尼寺制度を導入し、全国の諸国に官寺を整備。
ここ伊予国(現在の愛媛県)においても、「伊予国分寺(国分寺)」・「法華寺(伊予国分尼寺)」が創建され、地方の文化・教育・経済にも深い影響を与えました。
こうして仏教は日本各地に浸透し、国家の精神的支柱としての役割を担うに至ったのです。
神道と仏教、二本柱の宗教政策
聖武天皇は仏教の推進と並行して、神道の重要性も深く認識していました。
国家の繁栄と民衆の安寧を支えるには、古来より土地に根ざしてきた神々への信仰を軽視することはできなかったのです。
このため、聖武天皇の治世下では、各地で神社の整備や新たな創建が盛んに行われました。
たとえば、春日大社(奈良県)、石上神宮、大神神社(おおみわじんじゃ)などは、当時の宗教政策と深く関わりながら発展した代表的な神社であり、いずれも地域の守護神として信仰され、国家と地域社会の安定を支える精神的支柱となってきました。
三嶋神社・上徳の創建と由緒
今治市上徳に鎮座する「三嶋神社・上徳」も、そうした聖武天皇の宗教政策の一環として誕生した神社のひとつです。
奈良時代の神亀5年(728年)8月23日、当時の伊予国司であった散位(役職には就いていないが位階を持つ官人)・小千宿祢益躬(おちぬのすくね ますみ)が、聖武天皇の勅命を奉じて、大三島の大山祇神社から三島神を勧請し、伊予八社の一つとして三嶋神社・上徳を創建しました。
その後、時代が下るにつれて、この地を治めた有力な一族との結びつきによって、三嶋神社はさらに地域社会に根ざした信仰の拠点として発展していきます。
秋山氏と三嶋神社の歴史的関わり
現在、今治市上徳の頓田川沿いに鎮座する「三嶋神社・上徳」は、もともとは別の場所に祀られていました。
この神社が現在地に遷座された背景には、地元の名家・秋山氏の存在があります。
秋山氏、伊予の名門一族の軌跡
秋山氏は、伊予の豪族・河野氏の系譜を引く由緒ある一族で、かつては「上野氏」を名乗っていました。
のちに讃岐(現在の香川県)へ移り、「秋山」の姓を称するようになったとされます。やがて再び伊予に戻った秋山氏は、武智郷(現在の今治市周辺)に定着し、地域の発展に貢献してきました。
江戸時代の寛永年間には、秋山右衛門宗清が今治城主・藤堂高吉に仕え、「三十人扶持」という破格の待遇を受けました。
これは藩主の側近級にあたる高待遇であり、秋山家(秋山宇治)の地位と信頼の高さを物語っています。
その後、宗清の子孫である秋山助太夫久信は松山藩主・松平隠岐守(久松定行)に仕え、松山藩でも重職を担うなど、秋山家は藩政においても重要な役割を果たしてきました。
近代に入ってからは、「日本陸軍騎兵の父」と称された秋山好古陸軍大将がこの家系から輩出されました。
そして、その直系の孫にあたる第十代当主・秋山哲兒(てつじ)氏が、家の伝統と地域への誇りを守り続け、令和元年(2019年)に逝去されるまで地域との絆を大切にされていました。
現在は第十一代当主がその系譜を継承し、東京都に在住されています。
三嶋神社と秋山家の結びつき
こうした長きにわたる秋山家の地域貢献と精神的支柱としての役割は、三嶋神社との深い結びつきの中にも色濃く刻まれています。
元禄時代(1688〜1704年)、この地域に館を構えていた秋山市助(あきやま・いちすけ)が、自邸を頓田川沿いに移した際、その跡地に三嶋神社を遷座したと伝えられています。
この遷座により、秋山家と三嶋神社の結びつきはより一層深まり、神社は地域信仰の中核として発展していきました。
さらに、富田地区の町谷に鎮座する「三嶋神社・町谷」の境内には、秋山家の祖霊を祀る「秋山明神社」が建てられており、代々地域とともに歩んできた秋山家の信仰の象徴として、三嶋神社との縁の深さを今に伝えています。
「大神宮さんの岩」聖なる森に息づく信仰
こうして地域とともに歩んできた「三嶋神社・上徳」ですが、その信仰の核となるもののひとつが、境内に祀られている「大神宮さんの岩」です。
「三嶋神社・上徳」が鎮座する場所はは「国府の森」とも呼ばれ、古くから聖なる場所とされてきました。
その中心にあるこの大岩は、地元の人々から「大神宮(おおみや)さん」あるいは「天室(てんむろ)さんの岩」と親しまれ、長い歴史の中で数々の伝承が語り継がれてきました。
お姫様が運んだ霊岩の伝説
伝承によれば、昔、あるお姫様が村の豊作を願い、神聖な儀式を執り行うために、この霊岩を頭に載せて遠くから運び、三嶋神社・上徳の神域に安置したといいます。
また、日照りが続いた時には、この岩の上で雨乞いの舞が行われ、人々は作物の実りと恵みの雨を祈ったと伝えられています。出し
神様が運んだ「天降石」
別の言い伝えでは、この岩は大三島の神様が金色の布に包んで運んできたとされ、神聖な力が込められていると信じられてきました。
さらには「天から降ってきた岩」とも語られ、天降石(てんこうせき)としての神秘性を帯びています。
祟りの教訓
「子供がふざけて岩に登ると祟りがある」という言い伝えも残っています。
昔、この岩に登った子供たちが、突然お腹を痛めることがよくあったと言われ、地域の人々はこれを神聖な岩を粗末に扱ったための祟りと考えていました。
この伝承は、岩のもつ神性を守り、敬意を忘れないようにとの戒めとして、今も語り継がれています。
大晦日の夜を走る金の車
三嶋神社・上徳には、大晦日の夜に「金の車が通る」という、ちょっと不思議な伝説が今も語り継がれています。
大晦日の深夜、氏子の家々の前を、カチン、カチン……と金属音を響かせながら、金色の車が静かに通り過ぎるのだといいます。
この音を耳にした人には、翌年に幸福か災難のどちらかが訪れるとされ、なかでも貧しい者がこの音を聞くと、翌年に生活が好転すると信じられてきました。
この金の車は、神社に参拝する高貴な人物の乗り物とも言われ、その神々しさが地域の人々の間で語り継がれてきたのです。
さらに、境内の岩に残る細い溝のような跡が、かつて金の車が通った“レールの跡”だとも伝えられています。