「奈良原神社(ならはらじんじゃ)」は、愛媛県今治市玉川町にある、標高1,042メートルの楢原山(ならばらさん)の山頂に鎮座する神社です。
西日本最高峰・霊峰石鎚山が山岳信仰の霊峰として崇められてきたように、楢原山もまた、山そのものをご神体とする自然信仰の対象とされてきました。
その信仰の歴史は古く、奈良原神社は長い歴史と数多くの伝承に彩られた霊地として、今なお人々の信仰を集めています。
奈良原神社の起源
奈良原神社の歴史は、持統天皇4年(690年)4月。
伊予国の大領(国司)であった小千宿禰玉興(おちのすくね たまおき・越智玉興)が、修験道の開祖として名高い役小角(えんのおづぬ・役行者)を、大和国・葛城山(現在の奈良県御所市)からこの地に招きました。
そして、現在の楢原山(ならばらやま・奈良原山)の山頂に神を祀る場を設け、信仰と修行の場(霊山)として整えました。
これが、後の時代に奈良原神社と呼ばれる神社の開山と伝えられています。
この開山にあたり、楢原山の山頂には以下の四柱の神々が祀られました。
- 伊佐奈伎命(いざなぎのみこと):日本神話における天地創造の神で、禊によって多くの神を生み出した父神
- 宇気母知命(うけもちのみこと):五穀豊穣を司る穀物神
- 大山積命(おおやまづみのみこと):山の神であり、大三島の大山祇神社の主祭神としても知られる
- 予母都事解男命(よもつことさかのおのみこと):黄泉(よみ)の穢れを祓う神、死と再生に関わる浄化神
これらの神々は、山・穀物・浄化・国土といった自然信仰の根幹をなす重要な神格であり、奈良原の地が修験の霊場として、また伊予国における霊験あらたかな神域として位置づけられていたた証でもあります。
別当寺「蓮華寺」
やがてその信仰は朝廷にも認められ、701年(大宝元年)、文武天皇の勅願によって、奈良原神社の別当寺「神護別当 蓮華寺 清浄院」が建立されました。
蓮華寺は、同じく奈良原神社の別当寺として、同年に建立された光林寺(今治市・玉川地区)の末寺に位置づけられ、両寺はそれぞれの神社を精神的に支える役割を担ってきました。
しかし現在、蓮華寺は廃寺となっており、建物や遺構は残されていません。
一方の光林寺は現存しており、玉川地域における歴史的・宗教的な拠点として今も大切に守られています。
かつて蓮華寺が存在していた鳥居前の駐車場近くには、往時をしのぶ石碑が建てられ、蓮華寺の歴史を静かに今に伝えています。
歴代天皇が崇めた聖地
この信仰は後の時代にも受け継がれ、淳和天皇(在位:823年~833年)、朱雀天皇(在位:930年~946年)、後朱雀天皇(在位:1036年~1045年)の御代においても、奈良原神社は勅願所として尊ばれ、朝廷からの篤い崇敬を受け続けました。
このように、奈良原神社は単なる地方の神社を超え、国家的な重要性を持つ存在として位置づけられていたのです。
雨乞いの儀式と修験道
奈良原神社は、こうして国家的な崇敬を集める神社へと成長すると同時に、中世以降は修験道の霊場としても重要な役割を果たしていくことになります。
修験道とは、神仏習合の信仰形態であり、山岳信仰を基盤とし、山中での修行を通じて霊的な力を得ることを目指す日本独自の宗教です。
奈良原神社が鎮座する楢原山は、その険しい地形と豊かな自然環境から、修験者にとって理想的な修行の場とされ、神仏が降臨する霊峰として「伊予の御嶽(みたけ)」とも称されました。
「奈良原権現」古権現山での雨乞い祈願
奈良原神社と修験道の関わりが歴史の表舞台に登場するのは、文永3年(1266年)のことです。
この年、楢原山の南方約1.1kmに位置する古権現山(ふるごんげんやま)において、修験者たちによる雨乞いの祈願が行われました。
当時、干ばつによって地域の農作物が大きな被害を受けていたとされ、修験者たちは霊山・楢原山の霊力にすがり、天に恵みの雨を願って山に登り、厳しい修行を重ねました。
この祈りはやがて天に通じ、霊験によって大地を潤す雨がもたらされたと伝えられ、人々の間には深い感動と信仰の念が広がりました。
この出来事を契機に、古権現山には社殿が建立され、仏教における「権現」思想にもとづいて「奈良原権現(ならはらごんげん)」と称されるようになります。
こうして、古権現山と楢原山(奈良原山)は、修験道における信仰の拠点として広く注目されるようになり、伊予国内外から多くの修験者がこの地を目指すようになりました。
奈良原権現は、後の時代に「奈良原神社」と呼ばれるようになりますが、その経緯については後半で詳しく触れます。
雨乞いの儀式の方法
「奈良原権現(奈良原神社)」での雨乞いの儀式は、修験道の伝統的な参籠(さんろう)修行のかたちをとっていました。
祭司となる仏僧や神職は、奈良原神社のある楢原山(奈良原山)の山頂に数日間こもり、断食・水垢離(みずごり)・読経などの修行を重ねながら、ひたすらに降雨を祈念しました。
修験道の拠点
この雨乞いの儀式は、単なる降雨の祈願にとどまらず、自然との共生や感謝、そして畏敬の念を表す行為でもあり、地域社会にとってもきわめて重要な宗教的行事として受け継がれていきました。
その後、文保元年(1317年)には社殿が造営され、信仰の基盤がさらに強化されていきます。この時期の楢原山は、鎌倉時代を通じて修験道の一大行場として繁栄し、伊予国における霊山として広く認識されていました。
文保年間(1317年~1319年)には、奈良原権現(奈良原神社)とその別当寺である蓮華寺には38人の修験者が常住し、日々厳しい修行が行われていたと伝えられています。
また、慶安3年(1370年)には社殿が改修され、翌年の健徳2年(1371年)には本殿の傍らに石造宝塔も建立されました。
この時代には25人の修験者が常住していたとする記録も残されており、奈良原山が修験の拠点として機能していた様子がうかがえます。
さらに、最盛期には末寺を合わせて48人もの僧が常住していたとされ、宗教的・精神的な活動の中枢として大いに栄えました。
水への祈りと二つの境内社
楢原山は、今治市の蒼社川(そうじゃがわ)の源流を擁する重要な水源地としても、古くから地域社会において特別な位置づけをされてきました。
少雨地帯である今治市において、蒼社川の水は農業や生活を支える命の恵みそのものであり、その源である楢原山は、地域の人々にとってまさに「命の山」として崇敬されてきたのです。
奈良原神社の境内には、そうした水の恵みを守り、地域に分け与える神々を祀る二つの境内社が、今も静かに鎮座しています。
それが「壬生川上神社(みぶかわかみじんじゃ)」と「水分神社(みくまりじんじゃ)」です。
「壬生川上神社」
壬生川上神社は、別名「勝手明神」とも呼ばれ、修験道の信仰が篤かった神社です。この神社には、後醍醐天皇の皇子である満良親王(みつよししんのう)の足跡が残されています。
満良親王は征西将軍として南朝再興を目指し、当地でも活躍したことで知られています。そのため、壬生川上神社は勝負事や戦の神様としても崇敬を集めてきました。
「勝手明神」の「勝手」は、古語で「入り口」や「始まり」を意味し、物事の始まりを守護する神として信仰されました。
「水分神社」
さらに参道を登ると、水分神社が鎮座しています。
この神社は、地域の水源を守る神として「水配(みくまり)」の信仰を受けてきました。
また、「みくまり」の音が「みこもり(子守)」に通じることから、子授けや安産の神「子守明神」としても広く信仰されるようになりました。
この水分神社には、、長慶天皇(ちょうけいてんのう)の皇子である尊聖皇子(そんせいのみこ)や、皇姫である観子姫命(みこひめのみこと)が御祭神として祀られています。
二人は南北朝動乱の中を生きた歴史的皇族でありながら、今日では家庭円満や子どもの健やかな成長を願う神々として、多くの人々の信仰を集めています。
そして、もう一つ特筆すべき点は、、勝手明神(壬生川上神社)と、子守明神(水分神社)が、夫婦神としても信仰されていることです。
勝手明神は男神、子守明神は女神とされ、その結びつきは、ただの神話的構造にとどまらず、地域の守護・家庭の調和・人生の始まり・戦や競争における勝利など、多様な願いを受けとめてきた人々の心のよりどころとなってきました。
二つの神が同じ山に祀られること。
それは、この地に根ざした自然信仰と修験の霊性、そして人々の暮らしと祈りが、長い歳月をかけて一つに結ばれてきた証なのかもしれません。
長慶天皇の伝承が生んだ“農耕神
奈良原神社の歴史を進めていく中で、御祭神の父・長慶天皇(1343年~1394年)の名が浮かび上がってきます。
当時の南北朝時代は、朝廷が南朝と北朝に分かれて対立していた混乱の時代でした。
南朝の天皇であった長慶天皇は、各地で北朝勢力との戦を繰り広げるなか、文中2年(1373年)9月、高野山での戦いに敗れ、身を隠すために伊予の玉川町へと落ち延びたと伝えられています。
その際、天皇は牛の背に乗って楢原山へと登り、奈良原神社の森深くに身を潜めたとされます。
この出来事は現在も地域に伝わる重要な伝承のひとつであり、人々の間で長く語り継がれてきました。
この伝承を契機として、奈良原神社は神格化がさらに進み、やがて長慶天皇の御霊が合祀されるようになります。
これにより同社は、地域社会における精神的支柱としての地位を一層高め、広範な信仰を集める存在へと発展しました。
「牛馬の守護神」
この伝承以降、奈良原神社は「牛馬の守護神」としての性格を強く帯びるようになり、農業が基盤産業であった地域の人々の間で、より深く崇敬されるようになります。
当時の農民にとって、牛馬は田畑を耕すうえで欠かせない貴重な労働力であり、その健康と安全を祈ることは、まさに生活と直結する切実な願いでした。
こうした祈りの対象としての奈良原神社は、やがて「奈良原さん」と親しみを込めて呼ばれるようになり、水源の神・農耕の守護神として愛媛県内にその名を広めていきました。
このように、長慶天皇の入山伝承は、奈良原神社の神格を高めるだけでなく、農耕神・牛馬の守護神としての性格を確立する契機となり、地域の暮らしを支える重要な信仰拠点としての役割を担うこととなったのです。
「戦国時代」正岡氏の支援
そして、この信仰は時代を経ても脈々と受け継がれ、後の時代においても奈良原神社の重要な特色となっていきます。
戦国時代に入ると、奈良原神社は武家勢力の保護を受け、その信仰がさらに強固なものとなりました。
特に、竜岡・幸門城の城主であった正岡経政(正岡右近大輔経政)は社殿を再建し、神社の維持・発展に尽力しました。
この正岡氏による支援によって、奈良原神社は地域の重要な信仰拠点としての役割を保ち続け、周辺住民の間でもその信仰はいっそう深まっていきました。
「江戸時代」今治藩主の支援
江戸時代に入ると、奈良原神社への崇敬はさらに広がり、藩主や城主たちからも篤い保護を受けるようになります。
元禄元年(1688年)には、3代今治藩主・松平定陳(松平駿河守定陳公)によって本社および児守明神(子守明神)の社殿が再建され、以後も代々の城主たちにより修理・改築が重ねられてきました。
このような諸侯の崇敬と寄進によって、奈良原神社は地域の守護神としての地位を確固たるものとし、近隣のみならず広く信仰を集める存在となっていきます。
特に江戸時代中期以降には、奈良原神社は「牛馬の守護神」としての信仰がさらに強まりました。
農家にとって牛馬は不可欠な労働力であり、その健康と安全を祈願するため、近隣市町村や島嶼部の集落において「万民耕作家畜繁栄講」といった講組織が自然発生的に作られていきました。
これらの講による継続的な祈願と奉納は、奈良原神社の神威をさらに高め、やがて地域全体の農業や暮らしを支える精神的支柱となっていきました。
この信仰の広がりは昭和30年代頃まで続き、奈良原神社は多くの人々の心の拠り所として、地域の歴史と生活に深く根づいていたのです。
「雨乞い」+「牛馬の守護神」
一方で、奈良原神社は引き続き雨乞いの神社としても広く知られていました。
江戸時代の元禄期には、蓮華寺と同じく奈良原神社の別当寺・光林寺の住職・光範(こうはん)が、雨乞い祈祷において高い霊験を示しました。
その霊験は藩主からも認められ、今治藩や松山藩の藩主より「牛馬安全の守護神」を配布することが許可されました。
この功績をきっかけに、牛馬の安全と繁栄を祈願する講が次々に設立され、奈良原神社の信仰を拡大させる大きな原動力となりました。
奈良原権現→奈良原神社
明治時代に入ると、新政府は近代国家の形成と天皇中心の国家体制の確立を目指し、神道を国家の根幹とする政策を進めました。
その一環として、「神仏分離令(しんぶつぶんりれい)」が発布されました(明治元年・1868年)。
この命令により、それまでの日本で一般的だった神仏習合(神道と仏教が融合して祀られる形態)は否定され、神道と仏教を明確に分離するように求められました。
奈良原権現は、名前の中にある「権現(ごんげん)」という語が象徴するように、仏教由来の信仰(本地垂迹思想)と強く結びついていた神社でした。
「権現」とは、仏が人々を救うために神の姿でこの世に現れるという考え方(本地垂迹)の象徴です。
このような神仏習合の象徴である「権現」の名は、明治政府の宗教政策にそぐわないとされ、全国の多くの「権現社」は「神社」と名称を改めさせられました。
奈良原権現も例外ではなく、明治初期には「奈良原神社」へと改称され、以後は純粋な神道の神社として、現在に至るまでその祭祀と信仰が継承されています。
なぜ楢原山へ?奈良原神社の謎
ここで、少し気になった方もいらっしゃるかもしれません。
「奈良原神社」は楢原山の山頂にありますが、先ほどの雨乞い祈願が行われたのは南方約1.1kmに位置する古権現山でした。
つまり、「奈良原権現」すなわち奈良原神社は、もともと楢原山ではなく古権現山にあったのです。
修験者たちは、紅葉の名所として知られる「西山興隆寺(西条市・丹原地区)」から東三方ヶ森を経て、中三方ヶ森、古権現山、そして楢原山へと至る「修験の道」を通じて修行を行っていたとされ、古権現山はその要所でもありました。
では、なぜ、そしていつ、現在の山頂へとその社が移されたのでしょうか?
この点については明確な記録は残されていません。
しかし、その謎を解くヒントとなる一つの伝承が、いまも地元に語り継がれています。
それは「ある山伏(修験者)が“奈良原の社”をその背に負い、険しい山道を越え、古権現山から楢原山の山頂まで運んだ」というものです。
山伏とは、山中での厳しい修行を通して霊力を得たとされる修験者のことで、中世以降、神仏習合の実践者として各地を巡り、神社や寺院の建立や遷座に関わってきました。
この「社を背負う」という行為は、単なる比喩ではありません。
実際に、小祠(ほこら)や神体を担いで山を越える“遷座(せんざ)”の儀礼は、各地の修験道において実践されてきました。
山伏が背負う「笈(おい)」や被り物は、神を宿す容器でもあり、それを携えて山を越えてゆくその姿こそ、まさにかつて実在した「神を背負う人々」の姿だったのです
奈良原神社をめぐるこの謎は、文書に残らなかった時代の記憶をそっと掘り起こし、私たちを歴史のロマンへと誘ってくれます。
末社の分類と講
明治政府による神道の国家的統制の中で、明治4年(1871年)には「近代社格制度(社格制度)」が発足し、全国の神社は「官幣社」「国幣社」「府県社」「郷社」「村社」などの格式に分類されました。
これは、明治政府が神道を国家宗教として組織化し、地方の信仰を中央集権的に管理する目的で行ったものであり、各神社の歴史や民間信仰の実態とは必ずしも一致しない再編が進められました。
この再編にともない、それまで独立していた地方の神社の多くが、より大きな神社の「本社」に統合され、「末社」へと格付けされる事例も数多く見られました。
奈良原神社もこの影響を受けてか、明治4年10月的に「末社」へと分類されてしまいました。
講(こう)の組織と信仰の広がり
しかし、これは信仰の衰退を意味するものではありません。
あくまで国家主導による宗教行政上の整理・制度上の格付けに過ぎず、奈良原神社が持つ霊威や地域に根ざした信仰の力強さとは無関係のものであり、「講(こう)」の活動は大いに発展していました。
地域信仰を支えた「講(こう)」の活動
「講」とは、同じ神仏を信仰する人々がつくる信心の集まりであり、参拝や祈願を共同で行う民間の信仰共同体です。
奈良原神社では、明治19年(1886年)に光林寺が「繁栄講社」を設立したのを皮切りに、講の活動が本格化しました。
その後も講は継続的に発展し、大正時代には「萬民耕作家畜繁栄講」、昭和に入ると「奈良原大権現繁栄講」と名称を改め、信仰の維持・継承を担い続けました。
明治42年(1909年)には、周辺の門脇神社・大己貴社・天王社・山神社・今宮社が奈良原神社に合祀され、神社としての機能と霊格がさらに強化されました。
昭和2年(1927年)には本殿が改築され、さらに昭和5年(1930年)頃には、地域の信者たちによって「奈良原講」と呼ばれる講組織が結成されます。
この講の組織化により、奈良原神社への信仰はより強固なものとなり、昭和30年代には講の数が約400に達し、信仰は最盛期を迎えました。
奈良原講は通常10人単位で構成され、各講が自発的に神社の維持や信仰の継承に努め、地域に根差した信仰組織として機能していました。
例祭と広がる信仰
奈良原神社では、旧暦8月の丑の日と午の日に例祭が行われており、これは奈良原講にとっても最も重要な祭礼の一つでした。
この例祭では、講員や代参者に対して繁栄・家内安全・牛馬安全を祈願する儀式が厳かに執り行われ、祈願の証として木札やお神酒が授与されました。
祭りの日には、今治市・新居浜市・西条市などの周辺地域はもとより、愛媛県内外からも多くの参拝者が訪れ、境内は大変な賑わいを見せました。
このような祭礼を通して、奈良原神社は地域社会における精神的な支柱としての役割を果たし続けました。
奈良原神社の近代史
その後も、奈良原神社は水・そして牛馬の守護神として、特に農業において重要な存在とされ、愛媛県全域で広く信仰されていきました。
牛馬信仰の衰退
しかし、昭和30年代後半になると、社会の変化に伴いその信仰は次第に衰退していきます。
日本の農業は急速に機械化が進み、トラクターやコンバインといった農業機械が普及したことで、牛馬が担っていた役割は次第に縮小していきました。
これにより、牛馬を飼育する農家の数も激減し、それに比例して奈良原神社の信仰も次第に薄れていきました。
「講」の解散と信仰の縮小
奈良原神社の信仰を支えていた「講」もまた、この機械化の波を受けて急速に衰退します。
かつては地域ごとに組織され、牛馬の安全や家内繁栄を祈願する活動を行っていた講は、牛馬の消滅とともにその役割を終え、昭和30年代にはその多くが解散に追い込まれました。
奈良原神社の信仰を支えていた「講」も、この時期に活動が衰退しました。
戦後の奈良原神社の変化
20世紀に入り、日本は二度にわたる世界大戦の渦中に置かれることとなりました。
第一次世界大戦(1914~1918年)においては、国内での直接的な戦闘はなかったものの、戦争による軍需景気の影響で物資の需要が全国的に高まり、今治にも好景気がもたらされました。
しかし、第二次世界大戦が始まると、状況は一変します。戦況の悪化により本土空襲が激化し、今治市も例外ではなく、昭和20年(1945年)には3度にわたる空襲によって市街地の大半が焼け野原と化しました。
一方、山間部に鎮座する奈良原神社は、市街地から離れていたため戦火を免れ、社殿や神域は奇跡的に無事でした。
そして、終戦から半年後の昭和21年(1946年)、GHQ(連合国軍総司令部)は「神道指令(神道に対する政府の保障、支援、監督の廃止に関する覚書)」を発布します。
これにより、国家神道体制は解体され、明治以降に制度化されていた「近代社格制度」は全面的に廃止されました。
その結果、全国の神社における「本社・末社」といった制度上の上下関係も消滅し、それぞれが平等な宗教法人として、地域の信仰に根ざした自主的な運営を行う体制へと移行していきました。
奈良原神社もこの制度改正を受けて、それまで形式上「末社」とされていた位置づけから脱し、地域に根ざした独立の信仰拠点として、あらためてその歩みを再開することになりました。
別宮大山祇神社への分霊
昭和20年代から30年代にかけて、戦後の復興は次第に近代化の波へとつながり、高度経済成長期に突入します。
愛媛県内でも、造船業や繊維業といった地場産業が発展し、都市部への人口集中が進む一方で、山間部の農村地域では過疎化や高齢化が進行しました。
奈良原神社のある楢原山もまた、この社会の大きな転換期の中にありました。
かつては水や牛馬の守護神として、農業中心の暮らしの中で厚く信仰されてきた奈良原神社ですが、機械化と都市化の進行により、信仰を支える「講」の活動は次第に縮小。
さらに、奈良原神社を代々守ってきた木地部落の氏子たちも、時代の変化とともに、より安定した暮らしを求めて今治市街地へと一人、また一人と移り住んでいきました。
もともと、楢原山は風雪の影響を受けやすい厳しい自然環境にあり、社殿はたびたび修繕を要する状況に置かれていました。
その維持には、多くの労力と費用が必要であり、限られた人手では対応しきれないという現実もありました。
そしてついに、木地部落の全員が移住したことにり、奈良原神社を支える基盤が完全に失われ、神社存続の危機が訪れました。
境内社・奈良原神社
昭和47年(1972年)3月、こうした時代の変化と氏子の全移住という現実を受けて、奈良原神社は楢原山から今治市内の別宮大山祇神社の境内へと分霊されることとなりました。
分霊後の奈良原神社は、別宮大山祇神社の大鳥居をくぐってすぐ右手に位置する境内社として新たに祀られ、かつての山中の聖域から、より多くの人々が参拝しやすい場所へとその舞台を移しました。
別宮大山祇神社は、今治市における大山積神信仰の中心的な神社であり、古来より地域の守護神として篤く崇敬されてきました。
その境内に奈良原神社が遷座されたことで、楢原山の神聖性と歴史を受け継ぎながらも、時代に即した形で信仰を継続する新たな拠点となったのです。
現在の奈良原神社
分霊によって今治市街地に新たな信仰の場を得た奈良原神社ですが、楢原山の旧社地における信仰も、完全に途絶えたわけではありません。
楢原山は独立峰として風雪にさらされやすい厳しい自然環境にあり、社殿は長年の間に損傷を受けていました。
そうした中、平成13年(2001年)10月には本殿の改築が行われ、同時に奈良原神社創建1300年を記念する祭典が地域の有志によって執り行われました。
長い歴史を継承してきた神社の節目を、地域の人々が心を込めて祝ったこの祭典は、信仰の火が絶えていないことを象徴する出来事でした。
また、奈良原神社は雨乞いの神としての信仰も近代まで受け継がれており、平成29年(2017年)には愛媛国体のボート競技に関連して、水源となる玉川ダムの水量を増やすための雨乞い神事が行われました。
この祈願は見事に成就し、「あっという間に増えるほどの雨が降った」と話題になりました。
これにより、奈良原神社の霊験あらたかな御神徳が再び注目を集めることとなりました。
こうして奈良原神社は、今治の地においてかつての自然信仰と生活信仰の記憶を今に伝える貴重な存在であり続けています。
玉川町に美術館に眠る遺産
このような長い歴史の中で、奈良原の地からは、国宝に指定されるほどの貴重な遺物が出土しています。
「奈良原山経塚」
昭和9年(1934年)8月26日、奈良原神社の境内で、雨乞いの儀式に先立つ清掃作業を行っていた氏子たちの手によって、偶然にも地中からひとつの経塚が発見されました。
これが「奈良原山経塚」と呼ばれる貴重な信仰遺跡であり、長年にわたり地域の精神的中心であり続けてきた奈良原山の神聖性を証明する発見となりました。
貴重な出土品の数々
経塚の中からは、銅製宝塔や経筒、銅鏡、檜扇、刀子(たんす)、鈴、そして大量の古銭など、多数の仏教関連の遺物が出土しました。
中でも最も注目されたのが、全高約70センチメートルにも及ぶ精緻な造りの「銅製宝塔」です。
この宝塔は、塔身・屋根・相輪(そうりん)から成り、塔身には法華経の種子曼荼羅や真言が細やかに線刻されており、その工芸的価値の高さは京都・鞍馬寺の宝塔と並ぶと評価されています。
さらに、銅経筒の内部には写経が納められていたとされますが、残念ながら発見時には腐食が進んでおり、内容の判読は困難でした。
とはいえ、これらの遺物はいずれも平安時代末期に仏教教典を後世に伝えるために丁寧に埋納されたものであり、当時の宗教儀礼や工芸水準を知る上でも極めて貴重な文化財です。
特に、大量に出土した古銭の中には、最古のものが621年、新しいものでは1433年に鋳造された中国銭も含まれており、長きにわたって奈良原神社が人々の篤い信仰を集めてきたことを裏付けています。
「玉川近代美術館」に収蔵
この奈良原山経塚の出土品は、1938年(昭和13年)に重要文化財に指定され、さらに1956年(昭和31年)には正式に国宝として認定されました。
これらの遺物は「伊予国奈良原山経塚出土品」として知られ、現在は今治市玉川町の玉川近代美術館に収蔵されています。
春と秋に開催される特別展の際には一般公開も行われており、地元の人々をはじめ、歴史や考古学に関心をもつ来館者に深い感動と関心を与え続けています。
出土品の謎と山伏の伝承
そして、これらの遺物には、いまだ解き明かされていない謎がいくつも存在します。
そもそも、いつ、誰が、何のために、このような貴重な遺物を、楢原山の中腹に埋納したのでしょうか。
文献上の記録は極めて乏しく、確たる史料も現存していません。
文献上の記録は乏しく、確たる史料も現存していないのが実情です。
しかし、ここで今一度、奈良原に伝わる不思議な伝承を思い出してみましょう。
「ある山伏(修験者)が“奈良原の社”をその背に負い、険しい山道を越え、古権現山から楢原山の山頂まで運んだ」
この神秘的な逸話と、昭和9年に楢原山で発見された経塚の存在を結びつけるかのように、一部の研究者の間では、次のような興味深い説が唱えられています。
「山伏が背負って運んだ“奈良原の社”とは、実は社殿ではなく、あの銅製宝塔だったのではないか」
つまり、建築物としての社ではなく、神の依り代(よりしろ)としての宝塔そのものが、神霊を導く象徴的な存在であり、霊地・楢原山への“遷座”を意味していたのではないかというのです。
この仮説が真実であれば、楢原山の経塚は、神仏習合と修験道の思想が凝縮された、信仰の象徴ともいえる存在となります。
そして今もなお、この宝塔をめぐる数々の謎は、多くの人々の心をとらえ、奈良原の神秘をいっそう深める鍵として、静かに語り継がれています。
「ステンレスの鳥居」新たな時代への祈願
令和元年(2019年)、平成天皇(現・上皇)の退位と、令和天皇の御即位を記念するとともに、日本がこれからも戦争のない平和な国であり続け、さらに力強く発展していくことを祈念して、奈良原神社の鳥居(神明鳥居)が新たに建立されました。
それまで神域の入口に立っていたのは、江戸時代に建立された石造の鳥居でした。長い歳月を経て風雪に耐えてきたものの、経年劣化が進み、ついにその姿を保つことが難しくなっていました。
楢原山の山頂は、強風・積雪・大雨などの厳しい自然環境に年中さらされる場所であり、神社の建造物や装飾品には大きな負荷がかかります。
一般的に鳥居には木材や石材が用いられ、紙垂(しで)には和紙が使われますが、それらの素材はこの地の自然にはあまりにも脆弱でした。
そこで選ばれたのが、「ステンレス製」という現代の技術が生んだ素材です。
耐久性に優れ、錆びにくく、風雨や雪にも屈しないこの金属製の鳥居は、厳しい自然と共存しながらも神域の景観を損なうことなく、神聖さと美しさを保ち続けています。
阿弥陀如来像と光林寺との繋がり
楢原山の山頂に祀られていた貴重な阿弥陀如来像は、現在、別当寺であった光林寺に移され、大切に安置されています。
この阿弥陀如来像は、南北朝時代の応安6年(1373年)に楢原山の山頂に奉納されたもので、奈良原神社が神仏習合の聖地「奈良原権現」として崇められていた時代の象徴的な存在です。
霊山・楢原山のご神体と共鳴するかのように、阿弥陀如来は地域の農業・生活・自然の恵みへの感謝と祈願を込めて崇敬され、長きにわたり人々の信仰の中心となってきました。
人々は山頂を訪れては静かに手を合わせ、日々の暮らしと自然の巡りへの感謝を祈念しました。
この姿は、奈良原神社と楢原山がいかに深く地域の精神文化に根ざしていたかを物語っています。
しかし、時代の変化とともに神仏分離の影響を受け、阿弥陀如来像は山頂から下されることになります。
像の移動には、鈍川木地の人々の尽力があったと伝えられており、厳しい山道を経て、今治市内へと移されたとされています。
その後、像は長い年月を経て次第に劣化が進みましたが、近年になって京都の仏師による大規模な解体修復が行われ、その荘厳な姿が再びよみがえりました。
現在、修復を終えた阿弥陀如来像は光林寺に迎えられ、新たな祈りの場を得て、静かに人々を見守り続けています。
自然と記憶が息づく楢原山
また、楢原山は信仰の対象としてだけでなく、その豊かな自然と歴史が調和する特別な場所としても訪れる人々を魅了してやみません。
子持杉に宿る記憶
山頂付近には「子持杉」と呼ばれる巨大な杉の木がそびえ立ち、その威容は楢原山の象徴ともいえる存在です。
初代の子持杉は幹の直径が10メートルを超え、樹齢1000年とも言われる圧倒的な大木でしたが、時の流れの中で枯れてしまいました。
現在の2代目子持杉も直径約6.65メートル、樹齢約400年とされ、その堂々たる姿は、楢原山の自然の力強さを感じさせるものです。
花の記憶と長慶天皇の伝説
かつて楢原山は、桜の名所としても広く知られていました。
昭和20年代頃までは、山中を覆うようにヤマザクラが咲き誇り、その光景は全国的にも高く評価されていたと伝えられています。
この桜は、南北朝時代に長慶天皇がこの地に身を寄せたという伝承にちなんで植えられたとされ、楢原山の桜は単なる自然の美しさにとどまらず、歴史と文化が息づく象徴的な存在でもありました。
昭和11年(1936年)には、歌人・吉井勇がこの地を訪れ、「大君の櫻咲きけりかしこみて 千疋峠の花をおろがむ」と詠んだ歌を残し、山頂には今もその歌碑が静かに佇んでいます。
残念ながら、昭和30年代には山の桜はすべて枯れてしまい、往時の壮麗な景観は失われてしまいました。現在では、峠付近にわずかに残るソメイヨシノやヤマザクラが、かつての情景をほのかに今に伝えてくれています。