南北朝時代の伝承が伝わる古刹
愛媛県今治市大西町山之内の静かな丘に建つ大井寺。
この古刹には、南北朝の動乱の中でこの地に身を寄せた南朝の皇子・尊真親王(たかざねしんのう)の伝承が静かに息づいています。
大井寺の創建にまつわる二つの伝承
大井寺は、かつては現在とは異なる場所に建立されていたと伝えられており、その創建については、古くから二つの説が残されています。
「行基菩薩説」
天平13年(741年)4月8日、奈良時代の高僧・行基菩薩が四国を巡錫する途中、この地に立ち寄り、人々に仏法を説かれました。
行基は大和国に生まれ、大安寺で学んだのち、各地を巡って民衆の中に入り、布教と社会事業を行った革新的な僧侶として知られています。
ため池や道路、橋梁を築きながら仏法を説き、のちに聖武天皇による東大寺大仏の造営にも尽力しました。
その行基がこの地を訪れたことをきっかけに、「明堂菩薩本寺」として大井寺が創建されたと伝えられています。
その後、宝亀10年(779年)8月には、別の寺院「明堂菩薩本寺清林寺」が開かれたとも伝えられます。
大井寺と同じく清林寺も、当初は特定の宗派に属さない「無宗」の寺院であり、衆生済度を目的とした祈りと修行の場として、多くの人々に開かれていました。
行基は、長泉寺、大熊寺、伊予国分寺(国分寺)など、他の多くの寺院の創建に携わったと伝えられており、大井寺もその一連の事績の中に位置づけられています。
「瑞秀上人・弘法大師(空海)説」
別の説では、弘仁年間(810〜824年)のころ、瑞秀上人が大井寺を開山したと伝えられています。
その後、弘法大師(空海)が四国を巡錫していた際、大井浜の沖に浮かぶ弓杖島(ゆずえじま)の裏手、岩礁「帷子磯(かたびらいそ)」に立ち寄り、不動尊を安置されたといいます。
この不動尊は「波鎮めの明王」と呼ばれ、荒れる瀬戸内の海を鎮める守護仏として、漁師や船乗りから篤い信仰を集めました。
その後、この不動尊は大井八幡宮(大井八幡大神社)の付近へと移され、地域信仰の中心として祀られ続けました。
法隆寺の地に移設
この二つの説はそれぞれ異なる伝承を伝えていますが、いずれにしても大井寺は創建当初、現在の場所ではなく、大井八幡宮(大井八幡大神社)の周辺に建立されていたと伝えられています。
また一説には、大井八幡宮(大井八幡大神社)に隣接する法隆寺の地にあったとも伝えられていることから、大井寺は法隆寺の場所に建てられていたと考えられます。
「南北朝の動乱と伊予」三親王が渡った伊予の海
そして時代は進み、南北朝時代に入ります。
鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇は、古代の律令制を理想とした中央集権政治「建武の新政」を始めました。
しかし、恩賞の配分に不満を抱いた武士たちの支持を失い、やがて有力武将・足利尊氏が後醍醐天皇と対立。
1336年には尊氏が京都に光明天皇を擁立して北朝を開き、後醍醐天皇は奈良の吉野に逃れて南朝を立てました。
こうして、京都の北朝と吉野の南朝が対立する「南北朝時代」が始まります。
南朝は皇統の正統を主張しましたが、軍事力では北朝・足利幕府に劣り、天皇や皇族は各地を転々としながら抵抗を続けることとなりました。
伊予国への波及と河野氏の分裂
南北朝の争乱は遠く四国・伊予国にも及びました。
伊予国の有力豪族である河野氏一族は、鎌倉幕府の滅亡前後からすでに対立の兆しを見せており、やがて南北朝の抗争においても二派に分かれて争うことになります。
河野通盛は幕府方として六波羅探題軍に属し、京都での戦いにおいて武功を挙げましたが、一方で土居通増や得能通綱といった支族は後醍醐天皇を奉じて南朝方に属し、元弘の乱(1331〜1333年)や湊川の戦いにおいて果敢に奮戦しました。
このように、伊予国では同じ河野氏の一族が南朝・北朝に分かれて対立し、国全体が南北朝動乱の渦中に巻き込まれていくこととなったのです。
伊予に派遣された三親王
このような情勢の中で、後醍醐天皇は足利尊氏の勢力を各地で食い止めるため、自らの皇子たちを地方へ派遣し、それぞれの地で南朝方の拠点を築かせました。
皇子の存在は単なる軍事的な意味にとどまらず、天皇の血統を象徴することで在地武士の結集を促し、南朝の正統性を広める重要な役割を果たしました。
その一環として、延元元年(1336年)11月、伊予国へも以下の三親王が派遣されました。
- 尊真親王(たかざねしんのう)
後醍醐天皇の第六皇子。出家して「蓮明親王」とも称されます。母は藤原氏の出身と伝えられますが、詳細は明らかではありません。 - 満良親王(みつよししんのう・みつながしんのう)
後醍醐天皇の第十一皇子。母は藤原忠子(中院流藤原氏の出身)と伝えられます。 - 懐良親王(かねながしんのう・かねよししんのう)
後醍醐天皇の第十六皇子。母は阿野廉子(新待賢門院、後醍醐天皇の寵妃)で、正嫡の血筋に属する皇子です。
征西将軍に付き従った精鋭武士
三親王は、後醍醐天皇から征西将軍(せいせいしょうぐん)に任命され、精鋭の家臣団を従えて伊予へと渡りました。
これらの武士たちは、単に親王の身辺を守るだけでなく、伊予における南朝方の拠点形成や軍事行動の中核を担う使命を負っていました。
その中でも筆頭とされたのが、篠塚重広(しのづか しげひろ/篠塚伊賀守広重)です。
重広は篠塚に生まれ、新田義貞の鎌倉攻めで勇名を轟かせ、新田四天王の筆頭に数えられるほどの武将でした。
超武辺者として当代随一の武勇を誇り、その豪勇は敵味方を震え上がらせたと伝えられます。
伊予においても三親王の軍を支える柱石として、南朝方の拠点形成と軍事行動を主導しました。
これに並ぶのが、大館氏明(おおだち うじあき)です。
氏明も新田義貞に従い鎌倉攻めに参戦した歴戦の将であり、伊予においては軍略の中枢を担いました。
篠塚の猛勇と大館の冷静な指揮と戦略眼が合わさり、南朝方の軍勢は大きな力を発揮しました。
さらに尊真親王には、岡部忠重(のちの重茂山城主)、神野頼綱(のちの怪島城主)、神野十郎通頼(のちの弓杖島城主)といった側近も随行し、瀬戸内の島嶼部に拠点を築き、南朝勢力の基盤を固めていきました。
伊予の大井の浜に響いた南朝の旗
延元元年(1336年)11月、長い船旅を経て三親王一行の船団は伊予へと到着し、野間郡大井浦にある弓杖島(ゆづえしま、古名:弓津恵島)や景島(かげしま、別名:怪島)に船をつけ、その後、大井の浜に上陸しました。
この上陸を迎えたのは、かつて元弘の乱で朝廷方として奮戦した伊予国司・河野通政でした。
通政は大井寺、清林寺、法隆寺を仮宮として整え、南朝方の伊予国司として三親王を丁重に迎え入れました。
「炎上する大井寺」三親王の決断と別れ
三親王が伊予の地に滞在したことは、南朝方の軍勢にとって大きな精神的支えとなり、伊予勤王(伊予の南朝方の軍勢)の士気は大いに高まりました。
しかし、北朝方にとっては重大な脅威となりました。
延元元年(1336年)12月19日の夜、増援を募るため各地に散っていた家臣が留守の間を狙い、北朝方の兵三十余名が急襲を仮宮に仕掛けました。
清林寺の成戒法印、成道、大井寺の義泰法印(よしやす ほういん)らが僧兵さながらに奮戦しましたが、力及ばず多くが討死。
残っていた将兵たちも命を落とし、三親王の陣営は壊滅的な打撃を受けることとなったのです。
幸いにも三親王の命は守られたものの、尊真親王は深手を負い、拠点であった大井寺も全焼。
これ以上この地に留まり続けることは、あまりにも危険な状況となりました。
仮宮はすでに北朝方の目標となっており、再び襲撃があれば三親王の命運は尽きかねないと家臣団は強く危惧したのです。
そこで、三親王はそれぞれの将来と南朝再興の大義を考え、やむなくこの地を離れる決断を下しました。
「満良親王」浮穴郡へ退避
まず、満良親王は浮穴郡(うけなぐん)へと移り、その地の豪族や在地武士の庇護を受けながら身を隠しました。
浮穴郡は、かつて伊予国を構成していた郡の一つで、現在の松山市南部、伊予市、東温市、上浮穴郡久万高原町、伊予郡砥部町、喜多郡内子町の一部にまたがっていました。
山岳地帯から平野部、さらに海に面する地域までを含んでおり、また松山や伊予の平野部にも通じる戦略的な土地であったため、北朝方から身を避けるには格好の場所とされていました。
「懐良親王」瀬戸内海を渡って九州へ
次に、懐良親王は瀬戸内海を拠点とする有力な海賊衆の庇護を受けることになります。
村上水軍の大将・村上義弘は、新居浜の新居大島に居館を構え、そこに懐良親王を迎え入れ、一年間にわたり厳重に警護しました。
その後は忽那水軍(くつなすいぐん)の大将・忽那義範が松山沖の忍那島に迎え、三年間にわたり匿いました。
この両水軍は瀬戸内を支配する強大な勢力であり、親王を守り抜くことは南朝方にとっても大きな意味を持っていました。
やがて興国3年(1342年)、14歳に成長した懐良親王は、豊後水道を経て九州へと送り届けられ、無事に鹿児島へ到達しました。この決断は後の南朝再興に大きな道を拓くことになります。
「尊真親王」この地に残り戦い続けた皇子
一方で、尊真親王は伊予に残り、新たに大井醍醐宮を拠点にこの地で戦い続けることを選びました。
この「大井醍醐宮」は、清林寺にあたると考えられています。
清林寺は、行基菩薩によって大井寺(明堂菩薩本寺)が創建された後、その流れを受けて、宝亀10年(779年)8月に「明堂菩薩本寺清林寺」として開創されたと伝えられます。
この頃、大井寺は現在の法隆寺の地にあり、法隆寺は詳細は明らかではないものの、もとは宮脇の寺谷の地に建立されていたと伝えられています。その後、現在の場所へと遷されたとされます。
これらの伝承を踏まえると、尊真親王が仮宮とされたのは清林寺であり、すなわち清林寺こそが「大井醍醐宮」であったと考えられます。
「尊真親王の最期」大井寺に受け継がれた南朝の記憶
大井醍醐宮を拠点とした尊真親王は、四條少将ら忠実な家臣の守護を受けながら、阿波・讃岐両国に勢力を張る北朝方を討つべく軍を整えました。
しかし、戦で受けた傷は癒えることなく、やがて病のように体を蝕み、思うように戦を指揮することも困難となりました。
それでも親王は南朝方の旗頭として奮起を続けられましたが、延元3年(1338年)3月8日、ついに力尽きて崩御されました。
「法隆寺」親王を葬送した寺院
尊真親王の亡骸は別当寺であった法隆寺(ほうりゅうじ)が神主と協力し、藤山(現:藤山健康文化公園)の脇の宮において丁重に尊真親王を埋葬したと伝えられています。
さらに、法隆寺では阿弥陀如来・普賢菩薩・文殊菩薩の三尊を造立し、親王の御霊を慰める供養を行いました。
また、この歴史を後世に伝えるため、法隆寺では毎年三月八日に法会を営み、尊真親王への供養を続けています。
「尊真親王御陵墓」静寂に眠る皇子の祈り
尊真親王の埋葬されたは、藤山(現・藤山健康文化公園)は古来より地域の人々に尊崇されてきた聖域で「御陵の山」と呼ばれていました。
御陵は現在「尊真親王御陵墓」として宮内庁の管理下にあり、静寂の中に往時の歴史を伝えています。
「大井八幡宮」尊真親王の御霊を祀る
尊真親王の御霊は大井八幡宮(大井八幡大神社)に合祀され、今なお厚い崇敬を集めています。
大井八幡社は古くから地域の鎮守として人々の信仰を受けてきましたが、尊真親王の御霊が祀られたことによって、単なる氏神の社にとどまらず、南北朝の動乱を偲ぶ歴史的な聖地としての性格を帯びるようになりました。
「明堂さん」廟堂から信仰の象徴へ
尊真親王の崩御後、重茂山城主の岡部氏や神野氏らは、大井寺の法印とともに親王の冥福を祈り、清林寺の境内に廟堂(びょうどう・おたまや)を建立しました。
堂内には、阿弥陀如来・普賢菩薩・文殊菩薩の三体、あるいは聖観世音菩薩が安置されたと伝えられます。
この廟堂はのちの時代に「明堂(みょうどう)」と呼ばれるようになり、祀られた尊像は「明堂本尊」「明堂菩薩(明堂観音菩薩)」として親しまれました。
「大井寺」再建と現在の地への移転
戦乱の世が続き、天下泰平の江戸時代を迎えるまでの間に、清林寺・明堂は戦火によって焼失しました。
代々重茂山城主を務めた岡部氏は、主君・尊真親王への深い思いを受け継ぎながら、山桃の樹(現:明堂さん境内)の下に再建しました。
その再建の歴史の中で七堂伽藍が整えられ、焼失していた大井寺が明堂に移されたと伝えられます。
しかし、その大井寺も再び戦火によって焼失。
岡部氏は、今度は城の鬼門除けとして、現在の地に大井寺を再建したとされています。
古来より鬼門は、災厄が入りやすい不吉な方角とされ、城や屋敷の守護のためにこの方角に寺社を設ける風習がありました。
大井寺はその思想に基づき、重茂山城を守護する「鬼門除けの寺」として再興されたのです。
その後も、大井寺と明堂との歴史的なつながりは受け継がれ、一体となって地域の信仰を支える存在となっていきました。
村人たちは、戦乱に倒れた尊真親王や岡部氏の冥福を祈りつつ、観音菩薩を「明堂菩薩」として敬い、平和と豊穣を願う祈りの場として今に受け継いでいます。
昭和10年(1935年)には、、宗教施設としての正式な認可を受けるために「大井寺外境内仏堂」と定められました。
これは当時の宗教行政の制度に沿って、明堂を大井寺の管理下にある仏堂として登録したものでした。
こうして大井寺と明堂の関係は公にも認められ、以来、両者は一体となって地域の信仰を支え続けています。
近代の再興と今に伝わる祈り
このように、長い歴史の中で何度も戦火を乗り越えながら大井寺は再興を重ね、地域の信仰の拠り所として歩みを続けてきました。
しかし、近代に至ってもその歩みは決して平穏ではありませんでした。
2020年(令和2年)4月22日の午前2時半頃、火災が発生し、本堂・客殿・庫裏が全焼、本尊も焼失してしまったのです。
長い歴史の中でも大きな痛手となる出来事であり、地域の人々に深い悲しみをもたらしました。
それでも山門と土塀は焼け残り、檀家や地域住民の尽力と寄進によって無事に再建され、再び地域の人々の祈りの場としての姿を取り戻しました。
そして今も、大井寺は地域の信仰の中心として、尊真親王ゆかりの祈りの地として、この地の歴史と心を静かに今へと伝えています。



