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大井八幡大神社(今治市・大西地区)

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「大井八幡大神社(おおいはちまんだいじんじゃ)」は、愛媛県今治市大西町に鎮座する神社で、藤山健康文化公園に隣接しています。

宮脇・新町・大井浜の氏神にあたり、旧村社として地域の人々から厚く崇敬され、今日に至るまで精神的支柱として大切に守られてきました。

この地は古代から人々が生活の基盤を築いた地域であり、大和時代には「怒麻国(ぬまのくに)」と呼ばれていました。

怒麻の地は、肥沃な田畑に恵まれ、瀬戸内海に面する天然の良港を有していたことから、農耕と漁撈、さらには瀬戸内海航路を通じた交易においても重要な役割を担っていました。

やがて律令制が整備された奈良時代以降には、「野間郡」として行政区画に組み込まれ、政治・祭祀・経済の中心地として発展していきます。

大井八幡大神社の歴史は、まさにこの地域の歴史そのものと重なり合っています。

「大井宮」創建と起源

大井八幡大神社の創建は、飛鳥時代末期の大宝2年(702年)にさかのぼります。

この時代は、7世紀半ばの大化の改新(645年)を経て律令国家が形づくられ、地方統治の仕組みがそれまでの国造(くにのみやつこ)制から、朝廷が派遣する国司制度へと大きく転換していった過渡期でした。

国家による中央集権化が進展するなか、地方における祭祀や神社の建立もまた、朝廷の権威を背景に推し進められていきました。

この律令制成立期に、文武天皇(在位697〜707年)の勅命を受け、伊予国司を務めていた越智氏の一族・越智玉純(おちのたますみ)が大井郷に社殿を建立しました。

この社殿は「大井宮(おおいのみや)」と称され、地域社会における信仰の中心として厚く崇敬されました。

大井宮に祀られた二柱の神

大井宮において祀られたのは、伊予の古代豪族に深く関わる二柱の祖神でした。

それが、「阿佐利命(あさりのみこと)」と、「若弥尾命(わかみおのみこと)」です。

両者はいずれも大和政権から「国造」に任じられ、伊予の地における統治と開拓の祖とされました。

「阿佐利命」

「阿佐利命(あさりのみこと)」は、伊予国における初代「風早国造(かざはやのくにのみやつこ)」に任じられ、風早(現・愛媛県松山市北条地域)を統治したと伝えられる人物です。

『和名類従抄』(承平年間〔931年~938年〕編纂)の国郡部にはじめて「風早(風速)」の地名が記されており、この地は「国造」としての権限を持った阿佐利命によって開拓・整備されたと考えられています。

また、物部阿佐利命(もののべのあさりのみこと)とも称され、その祖とされる伊香色雄命(いかがしこおのみこと)の四世孫にあたり、物部氏の正統な血統を受け継いでいます。

物部氏は大和朝廷の軍事的基盤を支えた有力氏族で、武器製造や軍事指揮を担うとともに、分族を各地に派遣して国造に任じ、地方の統治体制を整備しました。

阿佐利命もその一環として伊予に下向し、風早国造としてこの地の統治にあたったと考えられます。

風早は瀬戸内海に面した要衝で、古代には陸上交通と海上交通が交わる結節点として栄えました。

肥沃な平野と良港を備えるこの地域は、大和朝廷にとって伊予支配を確立するうえで不可欠な拠点であり、阿佐利命の統治は政権の基盤強化に大きく貢献したとみられます。

後に物部氏や風早氏をはじめとする地域の豪族は、阿佐利命を祖神として厚く尊崇し、國津比古命神社(松山市高浜町)などで祀り続けました。

こうして阿佐利命は、単なる地域の首長の祖霊にとどまらず、風早一帯の共同体を守護する神格として定着し、後世にわたり厚く崇敬される存在となったのです。

また、同じ物部氏の一族と考えられている中で、伊予の地において特に大きな影響を及ぼしたのが「乎致命(おちのみこと・子到命・小致命)」です。

乎致命は伊予国の小市国造(おちのくにのみやつこ)に任じられ、さらに大三島に鎮座する大山祇神社の創建に関わったと伝えられています。

乎致命の子孫はやがて越智氏へと発展し、伊予国を代表する有力豪族として長きにわたり繁栄しました。

このように、阿佐利命と乎致命は物部氏の同系に属し、伊予の地における物部氏系統の統治を象徴する祖とされるとともに、後世には越智氏の祖流として血脈的な繋がりを持ち続けました。

その存在は、伊予国の歴史を語るうえで欠かすことのできない基盤を築いたものといえるでしょう。

「若弥尾命」

「若弥尾命(わかみおのみこと)」は、古代伊予における初代怒麻国造(ぬまのくにのみやつこ)であり、飽速玉命(あきはやたまのみこと)の三世孫にあたると伝えられています。

『国造本紀(旧事本紀)』には「飽速玉命三世孫若弥尾命定賜国造」と記され、伊予国・怒麻(現・愛媛県今治市野間地域)における統治の基盤を築いた人物としてその名が残されています。

神功皇后の三韓征伐と武勲若弥尾命が怒麻国造に任命される契機となったのは、神功皇后の三韓征伐に従軍したことにあります。

三韓征伐は『日本書紀』において仲哀天皇9年(西暦200年頃、あるいは4世紀前後とも推定)に行われたと記されており、神功皇后は新羅・百済・高句麗に遠征し、大和朝廷の威勢を広く知らしめました。

この戦役において、若弥尾命は軍事的功績を挙げ、皇后の遠征を支える重要な役割を果たしました。

その功労が認められ、大和朝廷から伊予の要衝である怒麻の地を任され、初代国造として任命されたのです。

怒麻の地とその意義怒麻(野間)は瀬戸内海に面し、古代においては海上交通と陸上交通の結節点として栄えた地域でした。

肥沃な土地と良港を備えたこの地は、西国との交流や外征において戦略的に極めて重要であり、大和政権が伊予を掌握するためには欠かすことのできない拠点でした。

若弥尾命は怒麻国造としてこの地に根を下ろし、地域の開拓と整備に尽力したと伝えられています。その治績は後世においても語り継がれ、地域の祖神として信仰の対象となりました。

伝承によれば、若弥尾命の妻は野間姫命(のまひめのみこと)とされています。

この婚姻は、怒麻の地における豪族同士の結びつきを象徴するものであり、若弥尾命の統治の基盤を一層強固にしたと考えられます。

このように、大井宮における若弥尾命の祭祀は、怒麻地域の守護神信仰を超え、伊予国における古代豪族の勢力構造や海と陸を結ぶ社会的秩序を映し出すものであったといえます。

伊予国にゆかりの深い2柱の神様

阿佐利命と若弥尾命は、ともに物部氏や飽速玉命の後裔と伝えられる系譜を持ち、伊予の古代史に大きな足跡を残しました。

阿佐利命は風早(現在の松山市北条地域)の初代国造として、若弥尾命は怒麻(野間郡、現在の今治市野間地域)の初代国造として、それぞれ隣接する地域を治めました。

両者はともに地域の祖神として祀られ、その祭祀は単なる家系の祖霊を超え、地域社会の結束と安定の象徴となりました。

風早と怒麻という二つの拠点における阿佐利命と若弥尾命の存在は、伊予国における古代豪族の形成と発展を語るうえで欠かすことのできない柱であり、両者はまさに伊予国に深い縁を持つ二柱の神であったといえるでしょう。

「八幡宮」の建立

時代は進み、八幡信仰が全国へと広がりを見せていた平安時代の貞観元年(859年)。

都であった平安京は、表向きこそ華やかな貴族文化に彩られていましたが、裏で深い闇を抱えていました。

地方の荘園では豪族が私兵を養い、都の内外では盗賊や乱暴者が夜ごとに現れ、財貨を奪い、人々の命までも容赦なく奪っていったのです。

治安は衰え、都の夜は恐怖に包まれていました。

この混乱の中で即位したのが、わずか9歳(満8歳)の若き帝、清和天皇(せいわてんのう)でした。

天皇とその周囲の人々は、乱れゆく世と都の安寧を願い、神の御加護を求め、それにふさわしい人物を探し求めました。

そこで白羽の矢が立ったのが、大和国(現在の奈良県)の大安寺に身を置く高僧、行教律師(ぎょうきょうりっし)上人でした。

行教上人が授かった御神託

行教上人は、前年の天安2年(858年)、真言密教の開祖として名高い弘法大師(空海)の推薦を受け、清和天皇の即位を祈願するという大役を任され、九州の宇佐八幡宮(現・宇佐神宮)へ派遣されていました。

その翌年、無事に清和天皇の即位が果たされたため、行教上人はさらに天皇の護持と国家鎮護を祈り、宇佐八幡宮において90日間の参籠修行 ·(さんろうしゅぎょう・断食修行)に入りました。

行教上人は、宇佐八幡宮の御神前に籠り、昼夜を問わずただひたすら祈りを捧げ続けたのです。

食事や休息を最小限にとどめ、雑念を払って身を清め、心を尽くして神の御心をお受けしようとしたその修行は、厳しく孤独なものでした。

するとある夜、その献身的な姿勢に感応した八幡神(八幡大菩薩)が夢の中に現れ、次のように神託を授けました。

「吾れ深く汝が修善に感応す。敢えて忍忘する可からず。須らく近都に移座し、国家を鎮護せん」

 (私はあなたの誠実な修行に深く感じ入りました。その功績を決して忘れません。どうか私を都の近くにお迎えし、国を守らせてください)

大井浜に八幡宮を創建

観元年(859年)、この神託を受けた行教上人は、「山城国(現在の京都府)」の男山に新たな社を創建しようと決意し、その創建のために瀬戸内海を何度も往復していました。

そんなある日、九王地域の西約600メートル沖合に浮かぶ弓杖島(ゆづえしま、古名:弓津恵島)に船を停泊させます。するとその夜、不思議にも八幡神の御神託が下されました。

この神託を受け、伊予国司であった越智深躬(おち たんきゅう・河野深躬)が、大井浜に仮神殿を建立し、八幡宮を奉祀しました。

「大井八幡宮」

翌寛平2年(890年)、伊予国司であった越智息方(興方)(おちやすかた/おきかた・河野息方)が、大井宮に八幡宮を合祀しました。

これにより社号は「大井八幡宮(現:大井八幡大神社)」と改められ、伊予国における八幡信仰の中心的な拠点の一つとなりました。

このとき、朝廷からは神領が寄進され、寺院勢力との結びつきが強化されます。大井寺および法隆寺が別当寺としてその祭祀・経営に関わり、以後、大井八幡宮(大井八幡大神社)は神仏習合の色彩を濃くしながら発展していきました。

「南北朝時代」尊真親王の合祀

それから約450年後、時代は南北朝時代へと入ります。

鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇は、古代の律令制を理想とした中央集権政治「建武の新政」を始めました。

しかし、恩賞の配分に不満を抱いた武士たちの支持を失い、やがて有力武将・足利尊氏が後醍醐天皇と対立。

1336年には尊氏が京都に光明天皇を擁立して北朝を開き、後醍醐天皇は奈良の吉野に逃れて南朝を立てました。

こうして、京都の北朝と吉野の南朝が対立する「南北朝時代」が始まります。

南朝は皇統の正統を主張しましたが、軍事力では北朝・足利幕府に劣り、天皇や皇族は各地を転々としながら抵抗を続けることとなりました。

伊予国への波及と河野氏の分裂

南北朝の争乱は遠く四国・伊予国にも及びました。

伊予国の有力豪族である河野氏一族は、鎌倉幕府の滅亡前後からすでに対立の兆しを見せており、やがて南北朝の抗争においても二派に分かれて争うことになります。

河野通盛は幕府方として六波羅探題軍に属し、京都での戦いにおいて武功を挙げましたが、一方で土居通増や得能通綱といった支族は後醍醐天皇を奉じて南朝方に属し、元弘の乱(1331〜1333年)や湊川の戦いにおいて果敢に奮戦しました。

このように、伊予国では同じ河野氏の一族が南朝・北朝に分かれて対立し、国全体が南北朝動乱の渦中に巻き込まれていくこととなったのです。

伊予に派遣された三親王

このような情勢の中で、後醍醐天皇は足利尊氏の勢力を各地で食い止めるため、自らの皇子たちを地方へ派遣し、それぞれの地で南朝方の拠点を築かせました。

皇子の存在は単なる軍事的な意味にとどまらず、天皇の血統を象徴することで在地武士の結集を促し、南朝の正統性を広める重要な役割を果たしました。

その一環として、延元元年(1336年)11月、伊予国へも以下の三親王が派遣されました。

  • 尊真親王(たかざねしんのう)
    後醍醐天皇の第六皇子。出家して「蓮明親王」とも称されます。母は藤原氏の出身と伝えられますが、詳細は明らかではありません。
  • 満良親王(みつよししんのう・みつながしんのう)
    後醍醐天皇の第十一皇子。母は藤原忠子(中院流藤原氏の出身)と伝えられます。
  • 懐良親王(かねながしんのう・かねよししんのう)
    後醍醐天皇の第十六皇子。母は阿野廉子(新待賢門院、後醍醐天皇の寵妃)で、正嫡の血筋に属する皇子です。
征西将軍と精鋭武士

三親王は、後醍醐天皇から征西将軍(せいせいしょうぐん)に任命され、精鋭の家臣団を従えて伊予へと渡りました。

これらの武士たちは、単に親王の身辺を守るだけでなく、伊予における南朝方の拠点形成や軍事行動の中核を担う使命を負っていました。

その中でも筆頭とされたのが、篠塚重広(しのづか しげひろ/篠塚伊賀守広重)です。

重広は篠塚に生まれ、新田義貞の鎌倉攻めで勇名を轟かせ、新田四天王の筆頭に数えられるほどの武将でした。

超武辺者として当代随一の武勇を誇り、その豪勇は敵味方を震え上がらせたと伝えられます。

伊予においても三親王の軍を支える柱石として、南朝方の拠点形成と軍事行動を主導しました。

これに並ぶのが、大館氏明(おおだち うじあき)です。

氏明も新田義貞に従い鎌倉攻めに参戦した歴戦の将であり、伊予においては軍略の中枢を担いました。

篠塚の猛勇と大館の冷静な指揮と戦略眼が合わさり、南朝方の軍勢は大きな力を発揮しました。

さらに尊真親王には、岡部忠重(のちの重茂山城主)、神野頼綱(のちの怪島城主)、神野十郎通頼(のちの弓杖島城主)といった側近も随行し、瀬戸内の島嶼部に拠点を築き、南朝勢力の基盤を固めていきました。

伊予へと到着

延元元年(1336年)11月、長い船旅を経て三親王一行の船団は伊予へと到着し、野間郡大井浦にある弓杖島(ゆづえしま、古名:弓津恵島)や景島(かげしま、別名:怪島)に船をつけ、その後、大井の浜に上陸しました。

この上陸を迎えたのは、かつて元弘の乱で朝廷方として奮戦した伊予国司・河野通政でした。

通政は大井寺、清林寺、法隆寺を仮宮として整え、南朝方の伊予国司として三親王を丁重に迎え入れました

「大井寺」

大井寺は、現在は今治市大西地区山之内に所在する古刹ですが、かつては大井八幡大神社の近くにあったと伝えられています。

その創建については二つの説が残されています。

  • 行基菩薩説
    天平13年(741年)4月8日、奈良時代の高僧・行基菩薩が四国巡錫の折にこの地に立ち寄り、人々に仏法を広めたことを契機として、「明堂菩薩本寺」として大井寺が創建されたとされています。創建当初は特定の宗派に属さない「無宗」の寺院であり、庶民救済や祈祷を目的とした道場的な性格を持っていました。

    行基は大和国に生まれ、大安寺で学んだのち、村々を巡って民衆の中に入り布教と社会事業を行った革新的な僧侶です。ため池や道路、橋梁を築きながら仏法を説き、のちに聖武天皇の大仏造営にも協力しました。

    今治地域とも縁が深く、長泉寺、大熊寺、伊予国分寺(国分寺)などの創建に携わったと伝えられており、大井寺もその一連の事績の中に位置づけられています。
  • 瑞秀上人・弘法大師(空海)説
    弘仁年間(810〜824年)に瑞秀上人が大井寺を開山し、弘法大師(空海)が四国巡錫の折に大井浜の帷子磯に不動尊を祀りました。

    この不動尊は「波鎮めの明王」と呼ばれ、荒れる瀬戸内の海を鎮める守護仏として、漁師や船乗りから篤い信仰を集めました。

    その後、この不動尊は大井八幡宮(大井八幡大神社)の付近へと移され、地域信仰の中心として祀られ続けました。
「清林寺」

清林寺は、行基菩薩によって大井寺(明堂菩薩本寺)が創建された後、その流れを受けて宝亀10年(779年)8月に「明堂菩薩本寺清林寺」として開創されたと伝えられます。

大井寺と同じく清林寺も、当初は特定の宗派に属さない「無宗」の寺院であり、衆生済度を目的とした道場的な性格を強く備えていました。

宗派の枠にとらわれず、地域社会に広く開かれた祈りと救済の場であったと考えられます。

「法隆寺」

法隆寺は、大井八幡大神社に隣接する寺院で、弘仁6年(815年)、弘法大師(空海)が四国巡錫の折に創建したと伝えられています。

空海は当地で地蔵菩薩を自ら刻み、本尊として安置したとされ、そのため庶民救済の祈願寺として篤い信仰を集めました。

さらに、貞観元年(859年)には大徳行教上人によって伽藍の整備が進められ、地域における宗教的拠点としての姿を整えました。

北朝方の急襲と三親王の危機

三親王が伊予の地に滞在したことは、南朝方の軍勢にとって大きな精神的支えとなり、伊予勤王(伊予の南朝方の軍勢)の士気は大いに高まりました。

しかし、北朝方にとっては重大な脅威となりました。

延元元年(1336年)12月19日の夜、増援を募るため各地に散っていた家臣が留守の間を狙い、北朝方の兵三十余名が急襲を仮宮に仕掛けました。

清林寺の成戒法印、成道、大井寺の義泰法印(よしやす ほういん)らが僧兵さながらに奮戦しましたが、力及ばず多くが討死。

残っていた将兵たちも命を落とし、三親王の陣営は壊滅的な打撃を受けることとなったのです。

幸いにも三親王の命は守られたものの、尊真親王は深手を負い、これ以上この地に留まり続けることは、あまりにも危険な状況となりました。

仮宮はすでに北朝方の目標となっており、再び襲撃があれば三親王の命運は尽きかねないと家臣団は強く危惧したのです。

そこで、三親王はそれぞれの将来と南朝再興の大義を考え、やむなくこの地を離れる決断を下しました。

満良親王の退避先「浮穴郡」

まず、満良親王は浮穴郡(うけなぐん)へと移り、その地の豪族や在地武士の庇護を受けながら身を隠しました。

浮穴郡は、かつて伊予国を構成していた郡の一つで、現在の松山市南部、伊予市、東温市、上浮穴郡久万高原町、伊予郡砥部町、喜多郡内子町の一部にまたがっていました。

山岳地帯から平野部、さらに海に面する地域までを含んでおり、また松山や伊予の平野部にも通じる戦略的な土地であったため、北朝方から身を避けるには格好の場所とされていました。

懐良親王、瀬戸内を経て九州へ

次に、懐良親王は瀬戸内海を拠点とする有力な海賊衆の庇護を受けることになります。

村上水軍の大将・村上義弘は、新居浜の新居大島に居館を構え、そこに懐良親王を迎え入れ、一年間にわたり厳重に警護しました。

その後は忽那水軍(くつなすいぐん)の大将・忽那義範が松山沖の忍那島に迎え、三年間にわたり匿いました。

この両水軍は瀬戸内を支配する強大な勢力であり、親王を守り抜くことは南朝方にとっても大きな意味を持っていました。

やがて興国3年(1342年)、14歳に成長した懐良親王は、豊後水道を経て九州へと送り届けられ、無事に鹿児島へ到達しました。この決断は後の南朝再興に大きな道を拓くことになります。

尊真親王の最期

一方で、尊真親王は伊予に残り、大井寺を拠点とすることを選びました。

四条少将らの忠実な守護を受けながら、阿波・讃岐両国に勢力を張る北朝方を討ち払おうと軍を整えました。

しかし、負った傷は癒えることなく次第に病のように体を蝕み、思うように戦を指揮することも困難となりました。

それでも親王は南朝方の旗頭として最後まで奮起し続けましたが、延元3年(1338年)3月8日、ついに力尽きて崩御されました。

大西地区に伝わる尊真親王の遺跡

この地で生涯を閉じた尊真親王の足跡は大西地区に深く刻まれ、御陵や社寺を通じて、そして地域の信仰の中に今なお生き続けています。

  • 「尊真親王御陵墓」
    尊真親王の亡骸は、近隣の藤山(現・藤山健康文化公園)に葬られました。
    この地は「御陵の山」と呼ばれ、古来より地域の人々に尊崇され続けてきた聖域です。
    御陵は現在「尊真親王御陵墓」として宮内庁によって厳重に管理されており、静寂の中に往時の歴史を伝える場となっています。
  • 「大井八幡社」
    尊真親王の御霊は大井八幡宮(大井八幡大神社)に合祀され、今なお崇敬を集めています。
    大井八幡社は古くから地域の鎮守として人々の信仰を受けてきましたが、尊真親王の御霊が祀られたことによって、単なる氏神の社にとどまらず、南北朝の動乱を偲ぶ歴史的な聖地としての性格を帯びるようになりました。
  • 「法隆寺」
    大井八幡宮(大井八幡大神社)に隣接する法隆寺(ほうりゅうじ)は、別当寺として神主と協力し、藤山(現:藤山健康文化公園)の脇の宮において丁重に尊真親王を埋葬したと伝えられています。
    さらに、法隆寺では阿弥陀如来・普賢菩薩・文殊菩薩の三尊を造立し、親王の御霊を慰める供養を行いました。
    また、この歴史を後世に伝えるため、法隆寺では毎年三月八日に法会を営み、尊真親王への供養を続けています。
  • 「大井寺」
    大井寺はこの戦いで焼失しましたが、天正年間(1573~1592)に河野一族の重茂山城主・岡部忠重が、尊真親王の御霊を慰めるため明堂の地に聖観音菩薩像を安置し、七堂伽藍を備えた壮麗な寺院として再建しました。
    その後、再び兵火によって焼失したものの、岡部忠重は城の鬼門除けとするため、現在の地に改めて大井寺を建立したと伝えられています。
  • 「明堂さん」
    かつて大井寺の旧跡は「明堂」と呼ばれ、後にその地には小堂が建てられました。地域の人々からは「明堂さん」と親しまれ、この小堂には聖観世音菩薩が安置されました。
    尊真親王の菩提を弔うために祀られたこの尊像は「明堂本尊」あるいは「明堂菩薩」とも呼ばれ、今なお人々の信仰を集め続けています。

伊予国の変化

大井八幡大神社はその後も、地元の有力豪族である越智氏や河野氏の庇護を受け、社殿の改修や社領の寄進が行われ、地域の信仰と祭祀の中心として厚く崇敬されてきました。

大井八幡大神社はその後も、地元の有力豪族である越智氏や河野氏の庇護を受け、社殿の改修や社領の寄進が行われ、地域の信仰と祭祀の中心として厚く崇敬されてきました。

しかし戦国時代に入ると、全国各地で群雄割拠が激化し、伊予においても情勢は大きく揺らぎました。

西国では毛利氏が中国地方に強大な勢力を築き、土佐では長宗我部元親が四国統一を目前にして勢いを増していました。

このような状況の中で、伊予の河野氏は徐々に力を失い、かつての統治基盤を維持することが難しくなっていきました。

周辺勢力の圧迫に加え、家中の不和や内紛も重なり、国人衆との結びつきも次第に弱まっていくなかで、地域の社寺も安定した庇護を受けにくくなっていきました。

「河野氏から福島正則へ」社寺に及んだ影響

天正13年(1585年)、天下統一を目指す羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、四国平定のため大軍勢を伊予国へと向けました。

この時、伊予方面軍を率いたのが小早川隆景(こばやかわ たかかげ)でした。

小早川軍は数万の兵を率いて一気に河野氏の本拠・湯築城(現:道後公園)を包囲しました。

籠城した河野氏は必死に抵抗しましたが、最終的に小早川隆景の降伏勧告を受け入れ、およそ1カ月後に開城しました。

これにより、河野氏は滅亡し、長きにわたり伊予を統治してきた歴史に終止符が打たれました。

河野氏の後を受けて、豊臣政権下で伊予の統治を任されたのが、豊臣家の重臣・福島正則(ふくしま まさのり)でした。

当初、伊予国の湯築城には小早川隆景が在城していましたが、天正15年(1587年)に九州の要地・筑前へと転封となり、福島正則が湯築城に入城しました。

しかし、湯築城は中世的な構造の城で、戦国後期の軍政や城下町の形成には不向きでした。

そのため正則は新たな拠点を求め、天正16年(1588年)、国分山(唐子山)の「国分山城(国府城・唐子山城)」へと本拠を移し、本格的な領国経営を開始しました。

福島正則は交通網の整備、農地の検地、村落の再編といった領国経営を推し進める一方で、宗教勢力の統制にも力を入れました。

寺社に与えられていた社領は整理・縮小され、多くの社寺が庇護を失っていきました。

大井八幡大神社もその例外ではなく、福島正則によって社領を没収されたと伝えられています。

これにより、社殿の維持や祭祀の規模は大きく制限されることとなりました。

しかし、神社そのものが失われたわけではなく、村々の人々の信仰によって支えられ、祭祀は絶えることなく受け継がれていきました。

藤堂高虎と大井八幡神社の復興

慶長3年(1598年)、豊臣秀吉が世を去ると、それまでの安定は一気に揺らぎました。

やがて徳川家康と石田三成の対立が表に出て、国中は東西に二分されていきます。

伊予を治めていた福島正則も動向を注目される一人でしたが、次第に家康に近い立場をとるようになりました。

慶長5年(1600年)、ついに天下を二分する「関ヶ原の戦い」が始まります。

正則は東軍の先鋒を務め、果敢に戦って大きな戦功を挙げました。この合戦の勝利によって家康は天下の主導権を握り、後の江戸幕府成立へとつながっていきます。

正則は戦いの功績で伊予から離れ、広島城を拠点とする大大名へと出世しました。

その後を受けて伊予に入ったのが藤堂高虎で、桜井の国分山城(国府城・唐子山城)を拠点に、新たな時代の領国経営を進めていくことになります。

しかし国分山城は内陸に位置しており、瀬戸内海の海運を抑えるには不向きでした。

そこで高虎は海に面した要害の地・今治に着目し、やがて今治城の築城を開始しました。

築城と並行して城下町を整備し、また地域の信仰を支える寺院や神社も庇護しました。

その中で、高虎は大井八幡神社の社殿が荒廃していることを嘆き、過去の寄進記録から、失われていた社領を復興しました。

しかし高虎の今治統治は長くは続きませんでした。

慶長13年(1608年)、幕府の命により高虎は伊勢・伊賀へ32万石で転封となったのです。

この人事は、徳川家康が重用する高虎を江戸と京都の中間に置き、西国大名に対する備えとした戦略的配置といわれています。

高虎の転封後は、家臣で養子の藤堂高吉(とうどう たかよし)が今治城代として政務を引き継ぎました。

高吉もまた城下の維持や領国経営を続けましたが、寛永12年(1635年)、藤堂家は伊賀国名張へ領地替えとなり、藤堂家による今治支配はわずか35年間で幕を閉じます。

藤堂家退去の後、今治には久松松平家が入り、以後幕末まで藩主家として続きました。

一方で、大井八幡神社の鎮座する野間郡大西町は松山藩の領域に編入されることとなります。

松山藩の大井八幡神社

慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦後、伊予国には加藤嘉明(かとう よしあきら)が20万石で入り、松山藩を立藩しました。

嘉明は松山城の築城を開始し、藩の基盤を築きましたが、寛永4年(1627年)に陸奥国会津へ転封となります。

代わって蒲生忠知(がもう ただとも)が24万石で入封しましたが、寛永11年(1634年)に嗣子なく早世したため蒲生家は断絶しました。

翌寛永12年(1635年)、伊勢桑名藩から松平定行(まつだいら さだゆき)が15万石で入封し、ここに久松松平家による松山藩政が確立します。

定行以降、松平家は代々藩主として明治維新まで続きました。

大井八幡神社が鎮座する大西町は松山藩領に属し、新町には代官所や年貢蔵が置かれ、野間郡の中心地として栄えました。

松平定行は藩内の神社整理や社格の整備を進め、大井八幡神社を「野間郡三大社」の一つに定めました。

藩政期において、大祭には代官が参拝し、雨乞いや五穀豊穣を祈願する祭礼も代官の申し出により執り行われていました。

これにより、大井八幡神社は単なる地域の信仰の場にとどまらず、藩政と結びついた公的な祈願の場としての役割を担い、地域社会に深く根を下ろしていったのです。

近代以降の大西史

19世紀に入ると、それまで安定していた江戸幕府の体制は急速に揺らぎ始めました。

アヘン戦争(1840~1842年)で清が西洋列強に敗北したことは日本にも大きな衝撃を与え、東アジア全体が欧米列強の影響下に置かれていく兆しが明らかとなりました。

日本沿岸にも外国船が頻繁に姿を現し、幕府は海防の強化を迫られます。とりわけ1853年のペリー来航は決定的な事件となり、翌年の開国を余儀なくされました。

開国によって従来の鎖国体制は崩れ、国内では幕府の外交姿勢に反発する声が高まりました。

尊王攘夷を唱える志士や各地の有力藩が運動を展開し、薩摩藩・長州藩を中心に倒幕への機運が強まっていきます。

一方で幕府も財政改革や軍制改革などを試みましたが、時代の急激な変化に十分対応できず、権威を回復することはできませんでした。

1867年、15代将軍徳川慶喜はついに政権を朝廷へ返上する「大政奉還」を行います。

しかし、これによって直ちに新体制が円滑に整ったわけではなく、旧幕府勢力と新政府勢力の対立は激化しました。

そして翌1868年、鳥羽・伏見の戦いを契機に戊辰戦争が勃発し、各地を舞台に内戦が展開されます。

最終的に新政府軍が勝利を収め、江戸幕府は完全に崩壊しました。

こうして約260年続いた徳川政権は歴史の幕を閉じ、日本は明治新政府のもとで中央集権的な近代国家へと転換していきました。

封建的な藩体制は廃止され、近代的な行政制度や軍事制度、教育制度が次々と整備されることで、列強に並ぶ近代国家を目指す道を歩み始めたのです。

廃藩置県と村々の再編

明治新政府は、欧米列強に対抗できる近代国家を築くことを最大の課題としました。

そのためには、旧来の封建的な藩体制を廃し、中央集権的な行政制度へと転換する必要がありました。

その第一歩となったのが、明治4年(1871年)に断行された廃藩置県(はいはんちけん)です。

その大きな一歩が、明治4年(1871年)に断行された廃藩置県です。

これにより全国に存在した藩は廃止され、代わって「県」が設置されました。

以降、地方行政は天皇を中心とした中央政府の直接統治に置かれ、封建制度は完全に終焉を迎えました。

この体制の転換は、村々の統治形態にも大きな影響を与え、従来の藩政下の枠組みを超えた新しい行政単位として整理が進められました。

大西地域も例外ではなく、古くからの集落や村落が近代的な行政単位として整理されることとなりました。

明治初期、この地域には 宮脇・大井浜・新町・紺原・九王・別府・星浦・脇・山之内 の9か村が存在していました。

これらはそれぞれが独自の氏神や祭礼、生活共同体を持ちつつ、周囲の自然環境を生かした農業や漁業を基盤に暮らしていたと考えられます。

やがて明治22年(1889年)12月15日に町村制が施行されると、全国的に行政区画の統合が進められました。

この制度は、より効率的で近代的な自治体運営を実現するために導入されたもので、大西地域では 宮脇・大井浜・新町・紺原・九王の5か村が合併して「大井村」が、別府・星浦・脇・山之内の4か村が合併して「小西村」 が成立しました。

こうして、地域社会は新たな近代的行政区画のもとにまとめられ、後の大西町誕生へとつながっていく基盤が築かれたのです。

郡制と野間郡の廃止

さらに近代国家体制を整えるため、明治30年(1897年)4月1日には郡制が施行されました。

このとき 越智郡と野間郡の区域をもって改めて「越智郡」が発足 し、古代から続いてきた野間郡は廃止されました。

野間郡は律令制以来の歴史を持ち、地域の政治・経済・文化を支える伝統的な行政区分でした。

しかし、国家の一体化を進める明治政府の方針のもと、その役割を終えることとなったのです。

この統合によって今治周辺地域との行政的一体化が進み、さらに鉄道敷設や港湾整備といった近代的なインフラ整備も推進されました。

瀬戸内の交通の要衝として大西地域の地位は一層高まっていったのです。

大西町の誕生と発展

1955年(昭和30年)3月、戦後の地方自治体再編の大きな流れの中で、大井村と小西村が合併し、新たに「大西町」が誕生しました。

これにより、従来は別々に運営されていた行政や産業、教育の仕組みが一つに統合され、町としての一体性が確立されました。

農業や漁業を基盤としながらも、戦後復興と経済成長の波に乗って商業・工業も発展し、大西町は地域社会の中心的な役割を担うようになります。

その後も地域は発展を続けましたが、21世紀に入り、全国で進められた「平成の大合併」の一環として、2005年(平成17年)1月に大西町は今治市と越智郡11か町村と合併し、新しい「今治市」の一部となりました。

自然・歴史・祭礼を伝える神社

このように、大西町は独立した自治体としての歴史に幕を下ろしましたが、その自然環境、地域文化、歴史的・宗教的な拠点は、今もなお息づいています。

そのなかでも大井八幡神社は、大西地域の中心的な信仰の場であり続け、地域社会の精神的支柱として人々を結びつけています。

境内は四季折々の木々に囲まれ、訪れる人々に清らかな空気と安らぎを与える空間となっており、自然と信仰が調和する聖域として親しまれています。

神社の象徴ともいえるのが、幅約4メートルにおよぶ巨大な一枚石を用いた石段です。

この石段は圧倒的な存在感を放ちながら参拝者を神域へと導き、厳粛な雰囲気を漂わせています。

また、境内には日清戦争や日露戦争の記憶を伝える砲弾が保存されています。

これらは明治期に国民の団結と戦勝を記念して配布されたもので、台座には「明治三十七年 孟夏吉日」と刻まれています。

戦後の金属回収令や占領政策によって多くの砲弾が失われたなかで、この地に残されたものは地域にとって貴重な戦争遺産であり、近代史を伝える文化財としての価値を持っています。

さらに、毎年5月に行われる大祭は、大井八幡神社を象徴する行事です。

継ぎ獅子ややっこ、そして神輿が石段を勇壮に下る光景は圧巻で、地域の人々はもちろん、多くの参拝者を魅了します。

この祭礼は世代を超えて受け継がれ、地域住民の誇りと結束を象徴するものとなっています。

このように、大井八幡神社は 自然の恵み、歴史の記憶、そして祭礼文化を現代に伝える場であり、今も地域の人々にとってかけがえのない信仰と絆の象徴であり続けています。

神社名

大井八幡大神社(おおいはちまんだいじんじゃ)

所在地

今治市大西町宮脇甲1420,甲1421

電話

0898-53-2251

主な祭礼

年賀厄除祭(1月第3日曜日)・例祭(5月第3日曜日の前日、土曜日)・夏越祭(7月31日)

主祭神

品陀和氣命・帯仲津日子命・息長帯比売命・底筒男命・中筒男命・表筒男命・玉依比売命・ 他二柱

境内社

御矛神社・荒神社・天神社・稲荷神社

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