「大井八幡大神社(おおいはちまんだいじんじゃ)」は、愛媛県今治市大西町に位置する神社で、藤山健康文化公園に隣接し、旧村社として宮脇、新町、大井浜の氏神として古くから崇敬されています。豊かな自然に囲まれた境内は、訪れる人々に安らぎと神聖な雰囲気を与え、参拝や散策を楽しむ場として親しまれています。
神社のシンボルとなっているのは、幅約4メートルの巨大な一枚石を用いた石段です。この石段は力強い存在感を放ち、訪れる人々に印象深い光景を提供するとともに、神域への厳かな入り口としての役割を果たしています。
怒麻国
この地域は、古代から人々が集まり集落を形成した歴史を持ち、大和時代には怒麻国(ぬまのくに)の中心地として栄えました。奈良時代以降は野間郡の要所となり、江戸時代には松山藩に属する信仰と文化の中心地でした。
明治23年には町村制施行により旧宮脇、大井浜、新町、紺原、九王の五ヶ村が合併して大井村が誕生し、昭和30年には小西村と合併して大西町が成立しました。現在では藤山健康文化公園とともに、自然と文化が調和する地域のシンボルとして親しまれています。
創建と起源
大井八幡大神社の創建は大宝2年(702年)にさかのぼります。この年、文武天皇(もんむてんのう、在位697年〜707年)の勅命を受けた伊子の国司・越智玉純が、大井郷に神殿を建立しました。このとき、風早野間の国造であった阿阿佐利命(あさりのみこと)と怒麻(現:野間)国造の「若弥尾命(わかみおのみこと)」の二柱を祀り、大井宮と名付けられました。
八幡宮の勧請
貞観元年(859年)、清和天皇(せいわてんのう、在位858年〜876年)の時代には、奈良大安寺の僧行教が宇佐八幡宮(豊前国)を山城国男山(京都府)へ勧請する際に当地を訪れました。
弓津恵(弓杖)島に船を泊めた際、八幡神の御神託を受けた伊予国司の越智深(息躬)が、大井浜に仮神殿を建立し、八幡宮を奉祀しました。
神社の発展と合祀
寛平2年(890年)、宇多天皇(うだてんのう、在位887年〜897年)の時代には、国司越智息方が大井宮に八幡宮を合祀し、これにより大井八幡宮と改名されました。同時に、神領が寄附され、大井寺と法隆寺が別当寺として管理を行うようになりました。
南北朝時代の出来事
延元3年(1338年)、南北朝時代において後醍醐天皇の皇子である尊真親王がこの地で薨去されました。その御霊は当社に合祀され、より一層神聖な地として崇敬を集めました。
近世から近代にかけて
創建以来、越智氏や河野氏といった伊子の豪族、さらには代々の国主によって手厚く保護されてきました。社殿の改修や社領の寄進も頻繁に行われました。
しかし、天正13年(1585年)には、河野氏が滅亡し、府中城主福島正則によって社領を没収されるという出来事もありました。その後、今治城主藤堂高虎が社殿の荒廃を嘆き、旧例に基づいて社領を復興しました。
松山領となってからは、藩主松平定行によって野間郡三大社の一つに定められました。大祭では代官が参拝し、雨乞いや五穀豊穣を祈る祭事も代官の申出によって度々執り行われるなど、地域社会と深く結びついた存在となりました。
日清・日露戦争
大井八幡大神社の境内には、日清戦争(1894年〜1895年)および日露戦争(1904年〜1905年)の際に配布された砲弾が展示されています。これらの砲弾は、戦争の勝利や国防意識の高揚を記念して各地の神社や学校などに配布されたものの一つです。台座には「明治三十七年 孟夏吉日」と刻まれており、国民が一致団結して国難を乗り越えた歴史を象徴する記念品として保存されています。
戦後の金属回収令や占領政策の影響で多くが失われましたが、大井八幡大神社に残る砲弾は、当時の記憶を今に伝える貴重な文化財です。この砲弾は、戦争の歴史と国民の団結力を象徴し、現在も大切に保存されています。
祭りと行事
毎年5月には大祭が盛大に執り行われ、伝統的な継ぎ獅子や奴、神輿が披露されます。5月第3土曜日の午前9時30分ごろに宮出しが始まり、境内の石段の上では「継ぎ獅子」の華麗な演技が行われます。その後、奴や獅子、神輿が長い石段を勇壮に下っていく光景は迫力満点で、多くの観客を魅了します。