「来迎寺(らいこうじ)」は、愛媛県今治市に位置する浄土宗の寺院で、長い歴史と文化的価値を誇る名刹です。
来迎寺の歴史
来迎寺の創建は承元元年(1207年)とされ、もともとは天台宗に属していました。宗祖法然上人が讃岐(現:徳島)に配流された後、伊予に入り、この寺に留錫したことから浄土宗に改宗されました。
江戸時代には国分城の城主であった福島正則が寺領百石を寄進し、堂宇の増改築を行い菩提寺としました。しかし、慶長年間に藤堂高虎が今治城を築城するにあたり、城下町整備のため来迎寺は寺町へ移されました。この移転は今治城下町の形成と発展に密接に関わっており、寺町に移った後も寺領と格式は保たれました。
松平定房が今治に入封する寛永12年(1635年)までは、松源院が完成するまで苦提寺とされていました。この時代にはさらに寺領の寄進が行われ、供養料として年六六石が与えられるなど、藩主からの手厚い保護を受けました。
尊超親王の位牌
嘉永5年(1852年)には尊超親王の位牌が安置され、これにより菊の御紋章の使用が許されました。尊超親王(そんちょうしんのう)は、享和2年(1802年)に有栖川宮織仁親王の八男として生まれた江戸時代後期の皇族であり、幼名を種宮、諱を福道と称しました。知恩院門跡であったことから華頂宮とも尊称されました。能書家として知られ、絵や漢詩にも秀でた才能を持ちました。
文化6年(1809年)に第11代将軍徳川家斉の猶子となり、文化7年(1810年)に知恩院へ入寺して得度しました。その後は二品に叙せられ、徳川将軍家や仁孝天皇、孝明天皇にも授戒を行うなど、宗教界で重要な役割を果たしました。
嘉永5年(1852年)に薨去し、法号は大光明院照蓮社耀誉阿芬陀梨尊超大和尚とされ、来迎寺にその位牌が安置されたことで格式が高まり、菊の紋章を使用する許可を得ることとなりました。また、菊の御紋章入りの袈裟、打敷、鰻幕、大提灯、瓦などが使用され、格式ある寺院としての象徴となりました。
再建と今治空襲
しかし、明治12年(1879年)に本尊以外の堂宇を焼失し、再建中に暴風で倒壊するという災難に見舞われました。さらに昭和20年(1945年)の今治空襲によって、内の大部分が焼け野原となり、多くの歴史的建造物も失われる中で、来迎寺も焼失してしまいました。
戦後は仮建築で存続していましたが、市の区画整理に伴い現在の山方町に移転し、昭和30年(1955年)に本堂と庫裡が完成しました。
境内と文化財
現在の境内には、小林一茶の「寛政紀行」に記された俳人 蓑田卯七(みのだ うしち)や丹下柳風氏の句碑、副碑が残され、そのほか、文人墨客の墓もあり、文学史や文化史の面でも注目される場所となっています。