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古くから信仰を集めてきた神社の由緒と、その土地に根付いた文化を紹介。

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来迎寺(今治市・今治中央地区)

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浄土宗総本山・知恩院の末寺である「来迎寺(らいこうじ)」は、愛媛県今治市に位置する浄土宗の寺院で、長い歴史と文化的価値を誇る名刹です。

かつては今治城下に整備された「寺町」の一角に構えられ、城下町の精神的支柱として、また藩主である久松松平家、さらには皇室(天皇家)とのゆかりも持つ格式ある寺院として、歴代領主や市民から厚く信仰されてきました。

「法然上人の教え」来迎寺の創建史

来迎寺の起源は、登誉孤雲(とうよ こうん)上人によって、今治市桜井地区の国分山(唐子山)に天台宗の寺院として創建されたことに始まります。

その後、浄土宗の開祖・法然上人の教えにふれて、浄土宗へと改宗されました。

では、その法然上人とはいったいどのような人物だったのでしょうか。

平安末期の動乱

平安時代末期、長らく続いた貴族政治はその機能を失い、中央の統治力は著しく低下していました。

荘園(貴族や寺社の私有地)が全国に広がり、そこからの年貢がきちんと納められない事態が続いたことで、各地の治安は悪化しました。

さらに、地方の役人たちの腐敗も重なり、農民が土地を捨てて逃げたり、武装した集団が横行したりと、深刻な混乱が広がっていきました。

こうした混乱の中、自らの土地や生活を守るために、在地の有力農民や地方の豪族たちが武装し、地域の治安維持を担うようになりました。

こうして、日本の歴史に大きな影響を与えることになる、武士が誕生しました。

法然上人の出自と幼年時代

長承2年(1133年)、法然上人はこのような動乱の時代に、現在の岡山県久米南町にあたる美作国久米南条稲岡庄で誕生しました。

幼名は勢至丸(せいしまる)といい、父は在地の豪族で押領使(治安官)を務めていた漆間時国(うるまのときくに)、母は藤原氏の出とされる名門の家柄でした。

幼少期の勢至丸は、父から正義と慈悲の心を学びながら、穏やかに成長していきました。しかし、平安末期の混乱はその平穏を許しませんでした。

「仇を恨むな」父が残した最後の言葉

平安時代末期、長らく続いた貴族政治は機能を失い、中央政権の統制力も著しく低下していました。

その結果、全国各地に広がった荘園(貴族や寺社の私有地)では、年貢の徴収や支配権をめぐって、地元の豪族と中央から派遣された荘官(荘園管理官)との間で深刻な対立が相次いで発生するようになっていたのです。

漆間時国(うるまのときくに)もまた、美作国の在地豪族として、自らの土地と領民を守るべく奔走していました。

しかし、朝廷の意向を背景に荘園支配を強化しようとする荘官・明石定明(あかし さだあき)と鋭く対立し、やがて両者の関係は抜き差しならぬ緊張状態へと突き進んでいきます。

そして、ある晩のこと。

闇夜に紛れて差し向けられた明石定明の手勢が、漆間家の館を急襲。突如として起きた夜討ちに、時国は応戦するも、数に勝る敵を前に深手を負い、ついには落命してしまいます。

この惨劇は、まだ9歳だった息子・勢至丸の人生を根底から覆す出来事でした。

父は最期の力を振り絞って、臨終の床から幼き我が子に語りかけました。

「仇を恨むな。仇を討てば、またその子が汝を恨む。恨みは尽きぬ。ゆえに出家して、我が冥福を祈り、人々を救う道を歩め。」

それは、父が命をかけて残した最も深い願いでした。

この言葉は、怒りに燃える幼い勢至丸の心に、冷たく、しかし温かく染み渡ります。

復讐ではなく、赦しと祈りの道へ。

勢至丸は悲しみを胸に、仏の教えを求めて出家する決意を固めたのです。

比叡山での修行と「法然」の誕生

勢至丸は母方の縁者を頼り、9歳で仏門に入ります。

その後、天台宗の総本山である比叡山延暦寺に登り、仏教の奥義を学び始めました。

比叡山は、日本仏教のあらゆる宗派の源流ともいえる学問と修行の場。

厳しい戒律と広大な経典群、複雑な儀礼が体系的に教えられる場でした。

勢至丸の才はすぐに頭角を現し、当代屈指の高僧である皇円(こうえん)から目をかけられるようになります。

皇円は『扶桑略記』の編者でもあり、次代の法主として育てようと尽力しました。

しかし、勢至丸は、名利や地位には興味を示さず、仏道の本質を求めて静かな修行に没頭し、やがて比叡山の西塔・黒谷に身を移し、世俗と距離を置いて暮らし始めました。

そこで出会ったのが、慈眼房 叡空 (えいくう) という、慈悲深く智慧に満ちた高僧に出会いました。

この叡空のもとで、勢至丸は形式や戒律にとらわれない「人が救われる道」の本質を深く探究するようになります

そして、叡空は勢至丸に「法然房源空(ほうねんぼうげんくう)」という名を与えました。

その「法然」という名には、「法に然(しか)るべし」、すなわち「仏の教えに従い、あるがままに生きる者」という意味が込められています。

こうして勢至丸は、「法に従い、あるがままに生きる者」、法然として新たな仏道の一歩を踏み出したのです。

念仏との出会い 「阿弥陀仏」の名を称える

比叡山での20年を超える修行と教学の末、法然は深い葛藤に直面します。

「厳しい修行や学問だけが仏への道であるならば、庶民や老病者、無学の人々はどうなるのか」

「すべての人が救われる道は、いったいどこにあるのか」

然はその答えを求めて、経典の海を彷徨います。

そしてある時、唐の善導大師が記した『観無量寿経疏』の一文、衝撃を受けました。

「一心にもっぱら阿弥陀仏の名を称えよ。昼夜を問わず、行住坐臥、常にとなえ続けよ。それこそが阿弥陀の本願にかなった正しい修行である。」

この言葉を読んだ瞬間、法然は歓喜のあまり涙を流したと伝えられます。

「凡夫こそが救われるべき存在であり、念仏こそが万人に開かれた仏道である」

この確信こそが、やがて日本仏教のあり方を大きく変える新たな信仰の潮流「浄土宗」の誕生へとつながっていくのです。

教えの広まりと“専修念仏”

比叡山での厳しい修行と黒谷での黒谷での深い思索と苦悩の末、法然上人はついに「専修念仏(せんじゅねんぶつ)」という教えに到達します。

それは、「ただひたすらに阿弥陀仏の名を称えれば、誰もが必ず救われる」という、極めてシンプルでありながら、深い慈悲に満ちた教えでした。

この専修念仏は、これまでのように長年の修行や難解な経典の理解を必要とせず、老若男女、身分や学識にかかわらず実践できるものでした。

それは既存の仏教観を根底から揺るがす革新的なものでもありました。

法然はこの教えを広めるため、京都・東山の吉水(よしみず)に小さな庵を構え、そこを念仏の道場として人々に説法を始めました。

やがてその教えは、庶民の間に急速に広まり、さらには貴族や武士、僧侶、女性、そして被差別の人々にまで受け入れられていきます。

「建永の法難」

「救いは、すべての人に平等でなければならない」

この法然の信念は、日本仏教のあり方そのものを大きく変えていきましたが、急速な拡大は、やがて既成仏教勢力の警戒と反発を招くことになります。

法然の門弟の中には、専修念仏の教えを熱狂的に信奉するあまり、旧来の仏教儀式や諸宗の教義を軽んじる言動をとる者も出てきました。

なかには「他宗誹謗(ひぼう)」と受け取られるような言動を公然と行う者もおり、とりわけ比叡山延暦寺、興福寺などの伝統的寺院勢力は、これを仏教秩序を乱す異端と見なします。

比叡山側は朝廷に対して専修念仏の禁止を強く訴え、宗教的緊張は次第に高まっていきました。

そうした中、決定的な事件が起こります。

建永2年(1207年)、法然の弟子・住蓮(じゅうれん)と安楽(あんらく)が、後鳥羽上皇の留守中に、御所に仕える女官たちを出家させてしまったのです。

これを知った後鳥羽上皇は激怒しました。

女官とは、天皇や上皇の身辺に仕える特別な身分の女性たちであり、その存在は単なる個人ではなく、朝廷そのものの威信を象徴していました。

その彼女たちを、正式な許可もなく出家させた行為は、すなわち「国家と朝廷の権威を否定する」ものと見なされたのです。

この出来事を契機に、後鳥羽上皇は、専修念仏の教えが朝廷の支配や宗教秩序を乱す恐れがあると判断し、厳しい弾圧に踏み切りました。

宗祖・法然は四国南端の土佐国幡多(現:高知県西部)へ、その弟子・親鸞(しんらん)は越後(現在の新潟県)へ流罪となります。そのほかの門弟たちも各地に流されました。

そして、この一連の事態の直接の引き金となった住蓮・安楽の二人には、「女官を政治的意図で引き離した」とみなされ、仏教者としては異例とも言える斬首刑が下されます。

この一連の出来事が、後に「建永の法難(建永2年・1207年)」と呼ばれる、日本仏教史における重大な宗教弾圧事件です。

法然はこの時、すでに75歳。

現代でいえば後期高齢者にあたる年齢でありながら、その精神は衰えるどころか、ますます澄みわたっていました。

流罪という過酷な状況のなかにあっても、ただ静かに念仏の教えを深め、広める機会と受け止めていたのです。

土佐ではなく讃岐へ…九条家の配慮

土佐へ流罪となった法然でしたが、四国へと渡ると、まず讃岐国小松(現在の香川県東かがわ市)に入り、土佐へは進まずそのまま讃岐国内に滞在しました。

これは、法然を師として深く敬っていた関白・九条兼実の尽力により、九条家の所領がある讃岐国への配所変更が取り計られたためとされています。

また、75歳を越える高齢の法然にとって、より穏やかで支援の届きやすい土地で流罪生活を送らせたいという、配慮でもあったといいます。

讃岐での普及活動

讃岐に入った法然は、この地で専修念仏の教えを熱心に説き、多くの人々に浄土の教えを広めました。

その足跡は、現在の香川県各地に伝承として残され、また寺院や旧跡といった形で今なお地域の中に息づいています。

  • 小松荘・西忍の館:法然が最初に迎え入れられたのは、那珂郡小松荘(現・まんのう町高篠)の地頭・高階入道西忍(さいにん)の館でした。この場所こそが、法然が讃岐配流中に最も長く滞在したと伝えられており、現在では「西忍館跡」として静かに往時を偲ばせています。
  • 生福寺:まんのう町にある生福寺(しょうふくじ)は、法然が一時期滞在したと伝えられる寺院です。その後、法然の遺徳を偲び「法然寺」と改称されたともいわれています。周辺には「法然井戸」「念仏石」など、法然にまつわる旧跡が今なお残されており、地域の人々によって大切に守られています。
  • 善通寺:讃岐滞在中、法然は空海(弘法大師)ゆかりの善通寺にも参詣したと伝わります。また、各地で専修念仏の教えを説き、香川県内の寺社や村々には、いまも法然の説法や滞在に関する伝承が語り継がれています。宇多津や丸亀市塩屋町なども、法然が足を運んだとされる地です。
京都への帰還と伊予での布教活動

実は、法然の讃岐滞在は約10か月と、比較的短い期間でした。

これは、承元元年(1207年)12月に朝廷から赦免され、配流を解かれたことによるものです。

しかし赦免後、すぐに京都へ戻ることはなく、法然は一時、摂津国の勝尾寺(現在の大阪府箕面市)に身を寄せました。

その後、建暦元年(1211年)には、再び京都・吉水の草庵に戻り、晩年を過ごすこととなります。

こうした帰京の途上、法然は四国を離れる際に伊予国(現在の愛媛県)を訪れ、当時国府が置かれていた今治の地に立ち寄ったとされます。

来迎寺が浄土宗の寺院へ

そしてその際、法然は国分山(唐子山)にあった来迎寺に立ち寄り、しばらくのあいだ滞在したと伝えられています。

当時の来迎寺は天台宗に属していましたが、法然の念仏の教えにふれたことをきっかけに浄土宗へと改宗し、阿弥陀仏を本尊とする念仏道場として新たな歩みを始めました。

法然上人の最期と『一枚起請文』

建暦2年(1212年)正月25日、法然上人は京都・東山吉水の草庵にて、80歳の生涯を静かに閉じられました。

その二日前、正月23日には、門弟たちに対して自らの教えの真髄を伝えるべく、『一枚起請文(いちまいきしょうもん)』をしたためています。

これは、数多くの教えや議論が生まれた晩年において、「念仏こそが往生の正道である」という信念を、たった一枚の書面に凝縮して伝えた、まさに最期の遺訓です。

この文の冒頭ではこう述べられています。

「選択本願念仏以外の行を雑行としてこれを捨て、ただ一向に念仏すべし」

そして結びには、自身の教えに疑いを抱くならば「私、法然房源空が謗法の者として地獄に堕ちることを疑うべからず」とまで記し、命をかけて念仏の一行を示しました。

この一枚起請文は現在、知恩院(京都市東山区)に伝わっており、法然の廟所として多くの人々の信仰を集めています。

そして、法然の教えは、伊予国・今治の地にも確かな足跡を残しており、知恩院の末寺・来迎寺をはじめとする地域の寺院において、今もなお念仏の信仰が脈々と受け継がれています。

国分山城と来迎寺の中世史

その後、来迎寺が所在していた国分山には、戦国時代に能島村上氏の第5代当主・村上武吉(1533年〜1604年)の手によって、国分山城(別名:国府城・唐子山城)が築かれました。

この地は、もともと南北朝時代に南朝方の拠点として機能していた場所であり、古くから政治・軍事の要衝として重要視されてきました。

村上武吉は瀬戸内海を席巻した村上水軍の御三家の一つ、能島村上氏の第5代当主として、伊予の内陸部へ勢力を伸ばすための戦略的拠点としてこの地に目をつけたのです。

伊予守護大名・河野氏の統治が揺らぐ

この時代、国分山周辺は、伊予国の守護大名「河野氏(こうのうじ)」の勢力下にありました。

河野氏は、古代伊予の豪族・越智氏の末裔であり、平安時代末期から室町・戦国時代にかけて伊予を統治してきた名門武家です。

特に戦国期には、湯築城(現在の松山市)を本拠とし、村上水軍(能島村上氏・因島村上氏・来島村上氏)と緊密な同盟関係を築いて、海陸両面からの強力な統治体制を確立していました。

しかし、天正10年(1582年)、来島村上氏が羽柴(豊臣)秀吉の勧誘を受けて織田方に寝返り、かつての主君であった河野氏を攻撃。

これにより河野氏の軍事基盤は大きく動揺し、伊予国における統治体制は著しく揺らぐこととなりました。

長宗我部元親と四国征め

この混乱の中で、四国統一に動きだしたのが「長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)です。

元親は土佐の一国を出発点として、精強な軍事力と巧みな政略をもって勢力を拡大、天正10年(1582年)には阿波国(現在の徳島県)を、天正12年(1584年)には讃岐国と伊予国の大半を掌握しました。

そして、天正13年(1585年)には四国全域をほぼ平定し、名実ともに「四国の覇者」となったのです。

しかし、この長宗我部氏の台頭に対して、織田信長の後継として台頭した羽柴(豊臣)秀吉は強い警戒感を抱きました。

同年、秀吉は大軍を四国に派遣し、長宗我部元親に対する徹底的な征討を開始しました。

これが、「四国攻め(四国征伐)」です。

長宗我部氏は、徹底抗戦の構えを見せますが、圧倒的な兵力差の前に次第に追い詰められ、同年7月25日、ついに降伏。

元親には土佐一国の領有が許される一方、阿波・讃岐・伊予の三国は没収され、豊臣方の武将たちに分配されました。

河野氏の滅亡と新たな時代

この中で伊予を任されたのが、秀吉の腹心である小早川隆景です。

小早川軍は数万の兵を率いて伊予に入り、まず河野氏の本拠地である湯築城(現・松山市道後公園)を包囲しました。

当主・河野通直は籠城して必死に抵抗しましたが、圧倒的な兵力差の前に次第に劣勢となり、最終的には小早川隆景の降伏勧告を受け入れ、およそ1カ月後に開城しました。

これにより、南北朝時代から続いていた伊予国の守護大名・河野氏は滅亡し、その長い歴史に終止符が打たれました。

そしてこの戦いの余波は、今治の国分山にも及びました。

国分山城に籠っていた村上水軍の当主・村上武吉もまた、小早川軍に包囲されます。

武吉も同じく一時籠城しますが、無益な抗戦を避けるため、やがて開城。

豊臣政権への服従を示し、命脈を保つ道を選びました。

福島正則の寄進と来迎寺の興隆

四国征めが終わった後、伊予国はその功績により小早川隆景に与えられました。

しかし、天正15年(1587年)、隆景は九州の要地である筑前・筑後へと転封され、代わって福島正則が伊予へ入部することとなります。

正則は当初、松山市の湯築城を本拠としましたが、この城は中世的な構造を色濃く残しており、戦国末期の軍政や城下町の形成には不向きであると考えました。

そこで正則は、翌天正16年(1588年)、今治の国分山に位置する国分山城を本拠とすることにしました。

こうして国分山城に移った正則は、本格的に領国経営を開始し、交通路の整備や農地の検地、村落の再編成を進めるとともに、宗教勢力の整理にも取り組みました。

この中で、城の近くにあった来迎寺を菩提寺として寺領百石を寄進し、堂宇の増改築を行いました。

以降、来迎寺は高い格式を有する寺院としての地位を確立し、地域の信仰を支える中核的存在となっていきました。

しかし、わずか数年後の文禄四年(1595年)、福島正則は豊臣政権の人事により尾張・清洲城へと転封され、伊予の地を去ることになります。

これにより、正則の庇護を受けていた来迎寺も、新たな局面を迎えることとなりました。

「寺町の誕生」藤堂高虎と来迎寺

福島正則の転封後、国分山城には池田景勝が入り、さらに慶長3年(1598年)には小川祐忠が城主として着任しました。

そして、慶長6年(1601年)、関ヶ原の戦いにおける功績により、藤堂高虎が伊予今治に20万石を与えられ、国分山城に入城します。

ここから、今治の歴史は大きな転換点を迎えることとなり、来迎寺もまた、その流れの中で重要な役割を担うことになります。

今治城の築城

国分山城に入った藤堂高虎でしたが、すぐに大きな欠点に気づきました。

国分山城は内陸に位置しており、海運の便に乏しく、物資の集散や軍事行動の面で不利な立地だったのです。

また、周囲の地形は城下町の大規模整備にも適しておらず、近世的な都市経営には限界がありました。

こうした状況を重く見た高虎は、より利便性に富む拠点の必要性を感じ、海岸部への新たな築城を決意します。

そして慶長七年(1602年)、瀬戸内海に面した沿岸部において今治城の築城に着手しました。

寺町の形成と来迎寺の移転

築城と並行して、城下町の整備も進められていきました。

町割りや道路網の整備、商業地や武家地の配置が計画的に進められ、今治は近世的な都市として新たな姿を整えていきます。  

その過程で、今治の中でも特に影響力のあった14の寺院が集められ、計画的に寺院群が配置され、寺町という地域が出来上がりました。

このとき、来迎寺も国分山から新たに整備された寺町へと移転を命じられました。

来迎寺は、福島正則による寺領百石の寄進を受けた経緯もあり、その歴史的背景と由緒において他の寺院と一線を画す存在であった

移転後の来迎寺は、それまでに築き上げてきた格式と寺領を保ちつつ、今治城下における主要な寺院の一つとして宗教的・文化的な役割を果たしていきました。

藤堂高吉の寄進

1608年(慶長13年)頃、藤堂高虎によって今治城が完成し、城下町の整備も着々と進められていきました。

その翌年、1609年(慶長14年)、高虎は築城や統治の功績を認められ、伊勢・津藩へと加増転封され、今治を離れます。

その後は、養子の藤堂高吉が今治城代として政務を継承し、領内の統治にあたりました。

その中で高吉は、来迎寺に藤堂家の位牌を納め、その供養料として年貢米六六石を寄進しました。

この寄進は、来迎寺に対する藤堂家の厚い信頼と敬意を示すものであり、寺領と格式を再確認する意味でも重要な意味を持つものでした。

松平家の菩提寺としての役割

寛永12年(1635年)、藤堂高吉が伊賀上野へ転封され、これにより藤堂家と今治との関係は終焉を迎えました。

同年、伊勢長島藩から加増された松平定房(久松定房)が三万石を領して今治に入部し、初代今治藩主となります。これにより、久松松平家による今治の統治が始まりました。

定房は、城下町の整備とともに寺社の保護にも尽力し、なかでも来迎寺は藩主家の信仰と供養の中心的な寺院として引き続き重んじられました。

藤堂家時代からの格式を保った来迎寺は、この時期には松平家の菩提寺的な役割も担うようになったのです。

松源院の誕生

しかし、より格式高い寺院の建立が計画され、明暦2年(1656年)に松源院が創建されると、藩主家の公式な菩提寺としての機能は来迎寺から松源院へと移されました。

松源院は浄土宗の寺で、寺名は定房の母の法名にちなむと伝えられます。

定房自身の葬儀もこの寺で営まれ、国許(今治)における菩提寺として定められました。歴代藩主の位牌が祀られ、境内には庶子や側室たちの墓所も整えられています。

場所は、今治城下北側に整備された寺町の一角(現在の風早町4丁目)に位置し、塔頭である永寿院・常照院とともに、今治藩ゆかりの象徴的な寺院となりました。

しかし、明治2年(1869年)、久松家が宗旨を浄土宗から神道へと改めたため、松源院は廃寺となりました。その後、跡地は綿ネル製造工場や材木工場に転用され、現在ではその姿をとどめていません。

ただし、本尊の阿弥陀如来坐像は、松源院の住職の隠居寺であった「正法寺(しょうほうじ)」に移され、現在も同寺に安置されています。

寺町で最大の規模を誇った松源院は、今や幻の寺となりましたが、その存在は今治藩政と信仰の歴史を語る重要な遺産であるといえるでしょう。

来迎寺と尊超親王の位牌

松源院の創建により、藩主家の公式な菩提寺としての役割はそちらに移されたものの、来迎寺が持つ歴史的・宗教的な意義は失われることはありませんでした。

嘉永5年(1852年)、有栖川宮家出身で知恩院門跡を務めた尊超入道親王の位牌が来迎寺に安置されたことで、同寺の格式は飛躍的に高まりました。

そしてなんと、来迎寺には天皇家の象徴である「菊の御紋章」の使用が特別に許可されたのです。

「菊の御紋章(菊花紋章・十六葉八重表菊)」は、皇室の公式紋章として厳格に管理されており、江戸時代においては、天皇家またはその血筋を引く高貴な人物ゆかりの寺社に限って、特別に使用が認められるものでした。

そのため、民間の寺院がこれを許されるのは極めて異例かつ名誉なことであり、その寺格の高さと王室との深い縁を示すものです。

以後、来迎寺では寺院全体が尊親王の冥福を祈る荘厳な空間として整えられていきました。

袈裟や打敷(仏具を飾る織物)、鰻幕(儀礼用の幕)、大提灯、そして本堂の屋根瓦に至るまで、「十六葉八重表菊」の御紋章が随所にあしらわれました。

境内は、尊親王の冥福を祈る荘厳な空間として整えられ、来迎寺は宗門のみならず、朝廷や幕府からも深い信頼を寄せられる格式高い寺院となったのです。

来迎寺の再建と試練

しかし、そうした輝かしい歴史も、時代の激動の中で大きな試練に直面することとなります。

明治12年(1879年)、本尊を除く伽藍の大半が火災によって焼失しました。

再建を試みるも、工事の最中に暴風が直撃し、建ちかけた堂宇が倒壊するという不運に見舞われます。

それでも住職や檀家の方々の尽力により、残材を用いた再建がようやく進められました。

ところが、ようやく平穏を取り戻しかけた寺に、さらなる災厄が襲いかかります。

それが、昭和20年(1945年)7月26日の「今治空襲」でした。

今治空襲から復興

昭和20年(1945年)、太平洋戦争の末期、今治市は3度にわたる空襲に見舞われました。

なかでも、8月5日から6日にかけての夜間空襲では、アメリカ軍のB-29爆撃機によって260発以上の爆弾が投下され、今治市街地の大半が炎に包まれました。

この空襲により、全市戸数の約75%が焼失するという壊滅的な被害が生じ、市民生活はもちろん、歴史的・文化的資産にも甚大な損害が及びました。

この戦禍によって、明治以来ようやく再建されていた来迎寺の堂宇も、再びすべてを焼失することとなったのです。

奇跡の本尊と現在の場所へ移設

しかし、この戦火にあっても本尊の阿弥陀如来坐像だけは奇跡的に無事でした。

そしてその後、戦後に始まった市の区画整理事業の中で、来迎寺は現在の山方町へと移転されることとなりました。

昭和30年(1955年)、新たな地で本堂と庫裡が再建され、菊の御紋章を掲げる格式ある寺として、現在も静かにその法灯を守り続けています。

昭和30年(1955年)、新たな地で本堂と庫裡が再建され、菊の御紋章を掲げる格式ある寺として、現在も静かにその法灯を守り続けています。 

文化人ゆかりの地として

境内には、文学的・文化的な価値を持つ遺構も大切に受け継がれています。

たとえば、小林一茶の紀行文『寛政紀行』にも登場する俳人・蓑田卯七(みのだ うしち)の句碑や、俳諧を広めた丹下柳風の句碑と副碑などが見られます。

このほかにも、地域で活躍した俳人や詩人たちの墓が境内のあちこちにひっそりと残されており、往時の文化交流の面影を今に伝えています。

寺院名

来迎寺(らいこうじ)

所在地

愛媛県今治市山方町1丁目 甲134

電話

0898-22-1868

宗派

浄土宗

山号

清浄山

本尊

阿弥陀如来

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