真光寺に眠る戦国の来島を駆けた槍の達人
今治市大西町新町にある真光寺・新町。
浄土宗鎮西派に属するこの古刹は、江戸初期に新町の大庄屋・井手清右衛門によって整えられて以来、地域の信仰と暮らしを支える中心的な寺院として歩みを続けています。
真光寺・新町のすぐ近くには、かつて野間郡を統括した「旧大庄屋井手家屋敷跡」が残されています。
初代井出清右衛門が天正年間にこの地へ居を構え、のちに新町村の庄屋・大庄屋として地域の政治・経済を支えました。
屋敷は明治・大正・昭和を通して村役場・町役場としても利用され、現在は建物こそ老朽化していますが、敷地にそびえる大樟が往時の繁栄を伝えています。
真光寺・新町の境内には、その歴史を今に伝えるように、赤土の塀で囲まれた井手家の墓所が設けられています。
藩政期に新町村の政治・経済を担い、真光寺・新町の創建にも深く関わった井手家ゆかりの墓石が静かに並び、往時の格式をしのばせます。
そして井手家墓所のさらに奥へと足を進めると、ひっそりと苔むした五輪塔が姿を現します。
これが、来島村上家に仕えた武勇の士「田坂槍之助の墓(たさかやりのすけのはか)」です。
※詳細な記事は『村上水軍が誇る伝説の槍・田坂槍之助 ── 戦国の瀬戸内に鳴り響いた無双の最期』をご参照ください。
十反帆の大船と、来島瀬戸の緊張
ある日、来島瀬戸の海を巨大な帆が切り裂き、一隻の堂々たる中型船が姿を現しました。
その船は、畳六十枚を超える十反もの大帆(おおほ)を張り、瀬戸の強い潮風を一身に受けて勢いよく進んでいました。
船上には、芸州(現・広島県)の豪族・佐伯氏の家臣二十数名が乗り込み、海域を守る来島村上氏の番衆(ばんしゅう)たちは、いつもの通り「帆別銭(通行料)」の支払いを求めました。
帆別銭とは、海の安全を守る来島水軍が古来より定めてきた掟であり、船が安全に瀬戸を通るための海上保護料にあたります。
しかし、この十反帆の船は帆別銭の支払いを拒み、強引に来島瀬戸を突破しようとしました。
掟を踏みにじるこの行為は、来島村上氏の権威そのものを否定する暴挙でした。
槍之助、怒りとともに海へ
この知らせを受け、ただちに動いたのが来島村上家の武士・田坂槍之助(たさか やりのすけ)でした。
槍之助は小舟に乗り込み、激しい潮流をものともせず大帆船を追いかけ、ついに船腹へ追いつきます。
「帆別銭を出して行け。天下の法をないがしろにする振る舞い、断じて許すわけにはいかぬ!」
しかし、佐伯家臣たちは鼻で笑い、こう叫び返しました。
「この広い海を通るのに関所とは片腹痛いわ。帆別銭がほしければ、どこまでもついてくるがよい」
この侮辱に槍之助は烈火のごとく怒り、
「問答無用! これ以上の無礼は許すわけにはいかぬ!」
そう叫ぶやいなや、槍之助はひとり槍を手に敵船へと飛び移りました。
海の武士による圧巻の槍さばき
海上戦に不慣れな佐伯家臣たちは足元がおぼつかず、揺れる甲板で槍之助の気迫と動きにまったく対応できませんでした。
槍之助は海の武士らしく、船が傾こうと、波が甲板を洗おうと、槍を自由自在に操りました。
そして一撃目で一人、続けてもう一人を突き伏せました。
潮の流れは容赦なく船を押し流し、戦いの場はやがて桜井沖へと移っていきました。
その間に倒れた兵は八人、深手を負った者が六人。
二十名を超える兵のうち、半数以上が槍之助ただ一人によって戦闘不能となったのです。
恥をさらした佐伯家臣の懇願
恐怖に染まった佐伯家臣たちは顔色を失い、ついに両手を合わせ懇願しました。
「陸で勝負をしてほしい」
多勢でありながら、たった一人を相手に敗北寸前となり、命乞いに等しい懇願を口にする姿は、もはや武士としての威厳も誇りも感じられないものでした。
槍之助は義理人情に厚く、この願いを聞き入れ、江口の砂浜で改めて決着をつけることを承知しました。
江口の浜での最期の戦い
しかし、陸上でも槍之助の猛攻は止まりませんでした。
七、八人に囲まれながらも、弾かれた砂の中で槍を翻し、五、六人を瞬く間に突き伏せました。
しかし、圧倒的な人数差と連戦の疲労には抗えず、槍之助は深手を負い、ついに力尽きて首を取られ、江口の浜でその生涯を閉じました。
生還した佐伯家臣はわずか五人。
無傷はただ一人だけだったと伝えられています。
武士の恥と主君の怒り
佐伯家臣たちは槍之助の首を塩漬けにし、帰国後すぐに主君に戦果を報告しました。
しかし佐伯氏は激怒しました。
「法にそむき、たった一人の武士を相手にこれほどの無様な失態を晒すとは……。武士として見苦しき振る舞いである!」
その場で家臣五名は即座に追放されました。
追放とは、主従関係を断たれ、武士としての身分・立場を失うことを意味します。
とくに大名家の正式な処分として「追放」を言い渡されることは、武士として二度と家に帰れないだけでなく、他家に仕官することも極めて難しくなる、武士としての人生の終わりを意味していました。
神として祀られた忠義と武勇
一部始終を目撃していた桜井の人々は、法を守り、主君の名誉を背負って命を捧げた田坂槍之助の姿に深い感銘を受けました。
圧倒的な不利の中でも退くことなく槍を握り続け、最後の瞬間まで戦い抜いたその生き様は、まさに武士の鑑と呼ぶにふさわしいものでした。
桜井の人々は、激しい戦いの舞台となった江口の浜辺に槍之助の亡骸を丁重に葬り、その忠義と勇気に深い敬意を捧げました。
真光寺に残されたもう一つの墓
槍之助の遺骨は桜井だけでなく、新町の真光寺・新町にも分骨され、もう一つの墓が築かれました。
真光寺・新町は井手家が創建した新町の中心寺院であり、地域にとって特別な意味をもつ場所です。
そこに槍之助の墓所が設けられたことは、彼の武勇が大西から桜井に至る広い地域で語り継がれ、深く尊敬されていたことを物語っています。
桜井村での不思議な異変と、祠の創建
しかしその後、桜井の村では不思議な出来事が続くようになります。
槍之助の墓前を馬に乗ったまま通りかかると、突然馬が苦しみ出して暴れ、乗り手が落馬してしまうという異変が相次いだのです。
村人たちは、これを無念のうちに散った槍之助の霊が迷い、まだ安らげずにいる徴ではないかと考えるようになりました。
そこで槍之助の魂を慰め、再び地域を守護する存在となっていただけるよう、沖浦(旧桜井町沖浦)にそびえる江口山(明神山)の頂上に小さな祠を建てることになりました。
江口山は瀬戸内海を一望できる静かな高台で、来島海峡を見渡すその眺めは、槍之助が生前見守ってきた海と同じ景色でした。
村人たちは「こここそ槍之助の霊が安らぐ場所である」と考え、祠を建立し、丁重に祀りました。
こうして建てられた祠は「江口八幡宮(えのくちはちまんぐう)」と呼ばれ、村人たちは槍之助の御霊に祈りを捧げつつ、大切に守り伝えていきました。
八幡神は古来より武士の守護神として深く崇敬されてきた神であり、その御神徳は「武運長久」「勝負必勝」「国家鎮護」に及びます。
来島水軍の掟を守り、帆別銭を拒んだ相手の武士らとただ一人で戦い、荒れる瀬戸内の海で主君の名誉のために殉じた槍之助の姿は、八幡神が象徴する「忠義」「勇気」「武の道」と重なり合うものでした。
そのため、槍之助が八幡神として祀られるようになったことは、地域の人々にとって、きわめて自然なことであったと考えられます。
綱敷天満宮に受け継がれた槍之助の魂
江口山の頂の小社には、長く田坂槍之助の御霊が祀られてきました。
しかし、志島ヶ原に綱敷天満宮(綱敷天満神社・新天神)が創建される際、その境内の一角に新たな小社が設けられ、桜井東端・江口で代々祀られてきた江口八幡宮がここへ丁重に合祀されました。
その時、田坂槍之助の御霊もあわせて迎えられ、守り神の一柱として祀られることになったのです。
そして現在も、綱敷天満宮(綱敷天満神社・新天神)の境内社として、戦国の海を駆け抜けた槍之助の魂が静かに息づき、訪れる人々を見守り続けています。
真光寺に息づく、田坂一族の記憶
真光寺・新町には、田坂槍之助の墓だけではなく、田坂一族ゆかりの墓石が整然と並んでいます。
境内奥の一角には、時代を経た石塔が複数建ち、その中央に二基の五輪塔が寄り添うように並んでいます。
向かって左が武勇で名を伝える田坂貞縁(槍之助)の墓、右には同じ一族で、槍之助とともに来島周辺で活動していたと考えられる田坂景久の墓が静かに佇んでいます。
景久については残された史料が少なく、来島村上家の家臣であったと断定はできません。
しかし、槍之助と同じ墓域に葬られていることや、来島海域で田坂姓が見られる点から、村上家と何らかの関わりを持っていた人物であったと考えられています。
周囲には江戸期の墓石や供養塔が並び、近くには後世に建てられた田坂家の墓碑も寄り添うように置かれています。
古い時代の墓塔と新しい墓石が同じ空間に共存するこの場所には、田坂一族が歩んできた長い歴史が静かに積み重なっています。
武勇の伝説が桜井地区で受け継がれてきたように、田坂槍之助の物語は真光寺・新町の静けさの中で地域の歴史と寄り添い、今も静かに人々の心に息づいています。



